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ガーデンデザインとは私は、造園家の何たるかを知らない。私は、作庭家の何たるかも知らない。ましてや環境デザイナーの何たるかも知らないが、ガーデンデザインは知っている。ガーデンデザインとは何か?今まで多くの人に尋ねた。だが、明快に明確な回答を得たことはない。回答が明快で明確でなければ回答とは云えない。その多くは、感性やバランスといった抽象表現で感想にすぎず、数理説明に至っていない。また、「色彩や音楽性」といった表象を表現してもスケールを持たなくては、単なる概念の羅列でしかない。米国では、デザインの授業で先ずデザインとは何かを学ぶという。デザインをする過程においてどの様な論理で導かれ、「Why?何故とBecause!なぜなら」が繰り返されるという。デザインというと生まれ持った才能でクリエイティブなイメージに思えるが、それは誤解でデザインプロセスとは問題解決を前提としているため、理論的な過程で構成されている。デザインには必ず事由があり、人が庭と関わる行動学の解明をデザインと云うのなら人は庭をどの様に観てどの様に感じ、どの様に使い、どの様に接しているのか。その人を知る事は、材料を知る事と何ら変わらない。その、人を知らずして誰がためにニワを造るのか。ガーデン(garden英)の語源はヘブライ語の囲む(gan)と、ヘブライ語エデン(eden)幸せ、歓喜、楽園の意で構成され、人は限られた場で感情訴求する場をいう。デザイン(Design)、とはDesign(デザイン)のde [di:] は、「…の, …から」の意があり、「sign」サインは事象において事由を明示することをいう。ガーデンデザインとは Garden Designガーデンデザイン(Garden Design)は、ガーデンとデザインの熟語で居住範囲に意思表示を表記明示し、あらゆる有形無形を含む森羅万象や人物、動植物の生態及び感情行為を周知し、原因と結果を生じ感性の裏付を認知認識し、スケールをもって表象表記する行為をいう。ガーデンデザイナー(Garden Designer)とは、事象を認知認識し表象表記する行為をする者をいう。これは、曖昧な現況への挑戦です。かつて故江山氏が「造園を藝術と理解したカントの線からは、科学としての造園は生まれない。この本は柄にもなくカントに対抗し、科学としての造園学の体系化を試みた異端の書である。」と記し残した挑戦状を私が代わって突きつける。話成せ果たせぬは、捨て置き御免。汝見渡せ、我が世は不思議な森の木と話し。この世、未だ人を知る者は在らず、如何に伝え務めるか。心得の条、我が命我が物と思わず、生業の儀、あくまで陰にて 己の器量伏し、ご下命いかにても果すべし 。
2013年12月30日
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久しぶりに『SCAPETECTURE』LANDSCAPE ARCHITECTURE OF TOMORROW1977年 昭和52年3月25日江山正美氏の本を開いた。閉じた後、裏表紙にはこのように綴られている。造園の歴史は古く、近代造園学が生まれてからもすでに百年を超える。長い間造園はあまりにも芸術として取り扱われすぎてきた。造園のもつ他面の合理性ないし科学性にはあまり眼が向けられなかった。名神高速道路がつくられていたとき(1962)、公団の苗圃を訪ねた造園の学生O君は、中央分離帯の植栽などなどについて「私たちの造園はあなた方の絵空事とはちがう」といわれた。これまでの造園を、これほど痛烈に批判した言葉はない。造園を藝術と理解したカントの線からは、科学としての造園は生まれない。この本は柄にもなくカントに対抗し、科学としての造園学の体系化を試みた異端の書である。家のそばに一本の樹を植えるとき、どこに植えたら美しいかという造園学が成り立つ反面、どこに植えたら環境気候を緩和するかという造園学が成り立つ。後者の造園学が本書である。これは異端書というより、もっと早くから育ってよい造園学ではなかったか。『ランドスケープ・アーキテクチュア―人間のための自然環境の造成』の著者J・O・サイモンド(1961)は、造園学はこれから挑戦する新しい分野であると主張した。本書はまたその意味で挑戦の書でもある。(著者)彼はこの書を書き終えまもなく闘病の末亡くなる。寄寓にも上に書かれている逆のことが私にもおきていた。植栽の描かれた図面を見ていた電機さんに云われた事、「お宅らの図面は、単なる絵だよ」だって配植数値が明確じゃないからと、、、いまから30年程前この様に云われた。デザインは直訳すると設計である。設計とは「はかりもうける」と書いて設計である。後、すぐに寸法を入れて頭を下げた。先日、関西のあるグループが主催する集会に参加した。この業種は特殊であると或るご年配のご意見。わたしもそのように思う。TVのセットのように石を据えツクバイやトウロウを置き、傍らに枝振りのよい松や雑木を添えることで日本庭園に見える。不思議に様になる。そして客が喜んでくれればそれでよい。と、、、それでいいと私も思う。しかし、客は、どこまで理解しているだろうか。理解していなくとも「いいと思えば」それでいい。よく解らない。よく解らないようにしている。そう感じた。何がいいのかお互いが理解したらいいのに、私だけがその様に思っているのだろうか。自身、「人がいて家があり庭がある」と説き、一木一草一石に恵まれた材料の持つよき処を醸し出す仕事としてこの業界に携わり、この場の石の勢いと樹のスケール。それは景としての型があるからと心得ております。しかし、それらの多くを若き日に「なぜ好いのか?なぜそうなのか?」を訊ねても誰の答えのない質問に自問自答する日々を送っておりました。そうしたなかで一冊の出会いが東京農大当時の教科書であった江山正美氏の『明日の造園学』です。当時、造園にデザイン?という時代にデザインの根拠を示した書であり熟読する中でこの書の「知行合一」知識と技術が一体になる実感を得られることができました。「なぜ好いのか?なぜそうなのか?」自問自答する多くの要素、樹形や石の摂理に蹲の設えや灯篭を添えることで坪庭や庭園もどきが出来上がり、それらしく見えてしまう。のと同じく、さりげない石を据え樹形の柔らかな樹を植えることで雑木の庭という容(かたち)になってしまうことはその素材の力であり、自身の力が微力なる物であることに気が付いてしまうことでありました。熟読の後、実践を得るために様々な現象や事象を試しこれを一冊のテキストに纏め上げました。江山正美氏はある種の哲学を感じ、それ以上のものも含めヒューマンスケールがなぜ大事なのかこの中では淡々と描かれております。この書に描かれているある種の哲学とはなにか、「人とはどのようなものなのか」ということ、このヒューマンスケールを通して「人とはどのようなものなのか」が解説されております。スケールの捉え方、ヒューマンスケールの捉え方、データー化された数値、角度による意識、右と左の意識、竹垣の動縁におけるプログレッシブル、江戸期からの比率五七・五八の比やフラクタルまで「人とはどのようなものなのか」それらを追求していく「自分はいったい何をつくっているのか」内容は、自身の疑問もあり教義の解り難さを解き画像や引用を多く取り入れた内容に纏めました。が、結果纏め上げた後、これに捉われる事なくのびのびと庭造りに励むことが大切であると悟っています。矛盾しているように思われるがこのテキストの内容が大事ではなく造る側、依頼する側が共有できる言語や記号として理解される庭造りがしたいと思っております。今年で五十代の半ばが過ぎ周りを見ても一頃に比べると若年層が減少し、一人でも多くの後継者が増えてくれることを願います。なによりもわたし自身がこの業界の未来に憂いを懐いている一人でもあります。2013年6月12日 野崎幸夫
2013年06月15日
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昨年、春事務所を同じ敷地内の隣に移転しました。というか元の位置に戻ったという方が正しいのですが、、、台風で折れたメタセは、まるで心を映しているようで忍びなかった姿も今は、サラサラと「ソヨゴ」になっています。新事務所で再起動リブート(reboot) します。
2013年02月13日
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N鋸 対 チルトン窓鋸テスト条件生樹メタセコイヤ2011年台風風倒被害、切断時 幹径目通750ミリ 直径240ミリ せん断道具 改造折込み柄付き鋸鋸とは、かなり長文なのでhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8B%B8で調べてください。鋸の「あさり・あさり」とは材料の切断が進んでいくと、材料の切断部分と鋸とが接触し、抵抗が増してしまう。それを解消するために鋸の刃には「あさり」と呼ばれる技術が使われている。「あさり」とは、鋸の刃が交互に外側に曲がっていることを指す。それにより、鋸の厚み以上の太さで切断することができ、材料と鋸との接触による抵抗が少なくなる。また、木屑も外に排出しやすくなり、作業効率が上がるのである。材料によってあさりの大きさも変わり、またあさりの無い刃も存在し今回、テストする二例はいずれも「あさり」のないタイプである。 窓鋸とは窓鋸とは、伐木作業に使用されるノコギリで、窓と呼ばれる刃渡り部分のくぼみに切りくずをかき集め、目詰まりを防ぐ工夫がされている構造をいう。生木と木材の相違木材とは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%90にあります。調べてください。切断前の画像 伐採したばかりの生木は水分を多く含んで乾燥していないため重い。生木の比重は0.96~0.98木材は乾燥して水分を蒸発させ気乾状態となり比重は0.39(杉材)となる。したがって水分量の多い生木には比重約60%の水分量があるということになり、せん断時に抵抗感が働く。対象となる鋸は、双方ともアセリが無いため抵抗感が働く。鋸目の数はチルトン鋸が窓から窓まで10目、長勝鋸は5目である。 2、切断時間 チルトン窓鋸 5分 N鋸 6分 ゴムボーイ 8分長勝鋸講習会では、「何故植木屋の鋸の目は粗いのか」についての質問があったが単純に粗くしないと抵抗が働いてしまうからである。3、疲労度チルトン窓鋸: 目が粗いだけに抵抗も無くスムーズな曳き具合。N鋸:少々目が細かいということもあり、途中抵抗感を感じ途中で鋸の面は動きが鈍くなる。4、切断面の状況チルトン窓鋸:抵抗感もなく、やや粗い面になっている。N鋸:黒い部分は抵抗が働いている部分。 左は、N鋸、黒くなっている部分は裁断時の抵抗部分。右はチルトン窓鋸挽き手にとって挽き切る時間が短いので優っている。しかし、切り口になる綺麗な切断面は刃の粗いチルトン窓鋸より優っている。ちなみに通常刃(ややアセリ有り)は切断に8分かかりまったく伐れない。
2012年05月25日
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2ヶ月に1回のペースで行く京都は、来月にも予定が入っている。今回は、いつも気になっている京都の刃物店です。創業年と植木鋏について調べてみました。京都の老舗創業番付、京都で戦前というとそれは「応仁の乱の前のことである」ってどこかに書いてあった。重春刃物店 鎌倉時代(1190~1329)なんと822年前です。おそらく戦に付き物なので現代まで続いたのでしょう。常久刃物は、創業が寛永8年1631年創業から368年包丁や花鋏を扱っている。ここは、営業時間が短く不覚にも訪問出来ず。しかも1階にあった店舗が3階に移転していました。金高刃物は、寛永末期に日本剃刀の鍛冶屋を開業し、屋号は「藤原金高」と言いました。江戸末期より、六角堂前に店を移し今に至ります。「刀鍛冶として始まって200年来、それぞれの時代のニーズに合わせて刃物を作ってきた。残念ですがここは休日で見ることが出来ませんでした。寛永末期(1643年)続いて安重、創業元禄13年(1700)京都の二条城の周辺には当時、刀鍛冶が多く軒を並べていたようです。安重はその中の一件で、後年花鋏や包丁等も作るようになったという。意外にも京都人ではなかった菊一文字、大阪堺の鉄砲鍛冶で1813~1837 文化13 ~天保 8 年に始まり1886~1943 明治19 ~昭和17年堺宿屋町より京都市下京区四条御旅町に転移、つまり菊一文字は元来堺の鉄砲鍛冶出身で京都の中では新参者であることがわかった。つまり1826年から1876年を案分しても150年前には、本格的な花鋏や植木鋏の製造や販売が始まったと想像できる。老舗であった安重刃物店では包丁等は元刀鍛冶が槌を振り、植木鋏は大阪堺から入手するようになったのかもしれない。また、重春のように直接槌を振り植木鋏製作していたことも考えられる。いずれにしても京都内でその後、農具製造していた野鍛冶が追随して発生し口清・正隆などの京鋏が出来上がったのではないだろうか。京鋏の特徴は最初からガタつきがあることその為、座金は堺産と異なり丸鋼でつくられた。口清・正隆が開発された年代はいまだ不明、その後の「重春」「大覚寺」「安広」へと継続された。
2012年04月16日
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2月10日、再び京都入り。皇居にはない、御所透かしが御苑透かしであることが解ったので再び御所閑院宮へ今回の京都入りは、京都御苑内閑院宮の展示された鋏を確認するのが目的。前年、ネットで競り落とした鋏が何処のものかまた、閑院宮に展示された鋏が何処のものなのかが調査目的。それでは、閑院宮の展示と「御所すかし」です。全体からは、チョキ鎌や鋸で枝を抜いています。zakのブログ zakのブログ zakのブログ zakのブログ関東で言う枝透かしもしくは野透かしになるでしょうか。続いては、小透かしです。zakのブログ zakのブログ zakのブログこちら御所の手入れでは、芽3本のうち真ん中を抜き、魚の尾のようになるのを嫌うと聞いたことがあります。なので、チョキ(親指と人指し指)のかたちにするのが基本と聞いています。閑院宮展示品です。zakのブログ1741年から1997年256年の松です。 256年間この松は、様々な出来事を見てきています。zakのブログ zakのブログ zakのブログ zakのブログ手入れの手法が説明されています。チョキ鎌については、少々強引な絵になっていますがかなり勢い良く突き戻しをしています。zakのブログ zakのブログツル手とキリバシです。刻印がいまひとつ読めません。キリバシの説明は、根きり鋏として使われていると説明書きされています。 さて、この閑院宮の鋏は、いったい何処で打たれた鋏でしょうか?それではまず、植木鋏研究会のBさんの情報から修学院、知恩院、安広の画像があるので現況下での比較基準としてみた。つづいて京都菊一文字から現在販売されている京型といわれる鋏3丁の画像を参照した。 その前に、この業界の流通がどの様になっているかを整理してみよう。わたしたちが植木鋏を購入するときは、どこで購入するであろう。通常、金物屋もしくは刃物店で購入する。昨今では、インターネットやホームセンターで購入する機会が増えている。それでは、金物屋もしくは刃物店で扱う道具は、如何にして流通されているかご説明しよう。 流通経路は、製造者・刃物問屋・刃物専門店・消費者へと一般的な流通がなされる。小売店である名の通った金物店は、気に入った製造者がいると製品補償同時に独自のブランドを創り上げるために心血を注いだ。製造者とのパイプのないところは仲買人卸が一括してその役を担う。こうして全国の名の通った金物店に○○型の鋏に独自のブランド銘(刻印)が打たれて流通していった。しかし、いつしか小売店の販売システムが崩れホームセンター等で販売されるようになると誰にでも合う安価な植木鋏も流通されていく。 従来の販売システムを固持した専門店は、製造販売ないし刃物専門店として現在でも存在している立派なシステムだ。製造者が数少なくてもそれぞれ自信をもった専門店によって細かな注文に応じてオーダーされ刃物専門店の刻印が刻まれ消費者の手にわたる。これから調査していく植木鋏のなかには、京型という京鋏も存在し地域性にこだわり実際に京都で打たれた物ではない鋏であるかもしれないことも考慮して調査していきたい。わかり易くいうと多少の違いは致し方ないと判断する。1、例えば座金の形状「菊座」といわれる部分2、刃部分の形状は、代が代わることで若干の相違が出てくる 植木鋏研究会のBさんの情報から修学院、知恩院、安広の画像と菊一文字京型といわれる鋏3丁の画像を見ていただきたい。それでは、鋏の名称を認識しながら特徴的な部分を示そう。次回へつづく
2012年03月03日
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さて、夕方になったので京都を発ち大阪へ大阪難波で素敵な大阪らしい帽子見つけました。何処で売っているのでしょうか。浅香山駅に9時に待ち合わせの後、佐助さんのところに打ち刃物の実演を見学に行きます。今回は2度目です。しかも11月だったので4ヶ月前でしたが何度見ても気持ちが張ります。こちら9時~12時までたっぷり堪能していました。3寸2分と6寸刃は、裏隙側に刻印が打たれています。皆さん真剣な面持ちです。っていうか正面からの画像がありません。刃付け作業の様子です。佐助さん。ほんとうは、堺刃物祭りなのに火を入れて待っててくれました。見えるでしょうか・・・各ツル手の木型です。これで様々なツル手が出来上がります。今回は、二振りの刈込みが注文されました。わたしも佐助基金を積み立てて今代の刈込みをお願いしょうかと思っています。 午後は、あれ?2度目・・・だったかな。河内長野の「正定」さんにお邪魔しました。前回購入したツル手鋏80歳で現役バリバリです。今回、購入した刈込バサミ、泉州特有の竹指し刈込みです。前回ほしかったのですが今回悩んだ末、5寸刃に決定しました。厚み・重さ・扱い易さ共に最高の刈込みを手にいれました。早速、籐を巻いてみました。 その日の午後、夕方から野外バーベキューの始まりです。なんと午後3時から夜11時半にかけてダラダラと酒飲み特有の管を巻きながら・・・、 「くだをまくとは、主に酒に酔った時、とりとめのないことや不平不満など、訳のわからないことをぐずぐず言うこと。」を言うらしい。まさにそのとおりで実のある話はおそらく数分だったと思う。いや、数秒だったかも・・・それすらも記憶に無い夜が過ぎていきます。叩きまくってますが、次の日は覚えていないようです。しかも皆、興奮してイスがあるのに座ろうとしません。いったい何を食べ、何を飲んでしまったのでしょうか・・・この夜、住谷さんと白枝さんが加わり・・・なんだかよく判らなくなっている状態です。肉眼では見えませんが、飲みすぎて陽気を吐いています。次の日の朝です。皆、普通にしていますがおそらく酔っ払いです。朝には、住谷さん、白枝さんが旅立ち、近くのファミレスで朝カレーや和膳で食事ご一路ボクのリクエストで旧藤田邸跡(藤田伝三郎邸)へ http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008801.html水の都・大阪を代表する毛馬桜之宮公園では、淀川リバーサイド地区の公園整備を進め、旧藤田邸跡を整備し、石組みや築山による景観を残した文化財的価値の高い緑豊かな日本庭園この後は、天王寺で昼飯、ここで武蔵さんが帰路に。お疲れ様でした。続いて 慶沢園住友別邸http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008995.html天王寺公園内の慶沢園。もと住友家茶臼山本邸内の庭園で、木津聿斉の設計にて、京都の名庭園師小川治兵衛の手により明治41年に着工し、大正7年に完成。 見た感想ですが、率直に申し上げると既に施主としての意向や趣旨といったものが消え残された「遺跡」のように感じてしまったのは私だけでなく私たちが感じてしまたことは共通した感覚のようです。この後は、通天閣界隈で「二度付け無し」の揚げ物でダラダラと呑みダラぁ~と、ここで最終新幹線に間に合わなくなるのでここで私も帰路に発ちます。お疲れ様でした。楽しかった2日間です。今度は、是非こちら鎌倉企画を立てましょう。
2012年02月29日
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今回は、11日・12日が植木鋏研究会の新年会。しかも今まで面識のない方々も多数。どうもでした。皆さんさて、今回もやっぱり乗り込みは京都、前泊が心斎橋。京都は、前々回から地下鉄とバスめぐりで挑戦。出来たばっかりの八条口ジャス、コフードコートで昼をとり「乗る&歩く京都」を購入まずは、近いので東寺「観智院」冬の公開企画で茶室と庭の見学。ああ でも、やっぱり京都のバスめぐりは難しい。京都御苑から銀閣寺方面に行こうと思ったら教徒日銀前、あれ間違えた。今一度丸太町通にもどって銀閣寺方面、100系統で銀閣寺前「橋本閑雪記念館」へその後、時間が5時近かったので京都駅へ一路東山通。あれ坪田さんお休みだぁ。京都から大阪へ・・・いやーさすが大阪。しかも連休ハナ金10日。元気な夜でした。翌日は、打ち刃物「佐助」さんにほど近い浅香山駅9時に待ち合わせでした。気持ち勢い余って8時半に着いちゃいました。9時に待ち合わせなのに誰もいません。あれ、やられちゃたかな・・・・とおもったら佐助さん方向から6人、揃って迎えてくれました。はじめまして、松原さん、むらじさん、武蔵さん。 そして、なじみのさとちゃん、欣也さん、ぞのさん、ノブオさん。すいません。つづきは、この次・・・・
2012年02月13日
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2011年4月、いつもは行かない場所であった京都御苑、修学旅行からおよそ38年ぶりの御苑。38年前の記憶はただ広く、時代のターニングポイントであった程度の見識しかない。その年の11月再び京都へ、今回は打ち鎌の調査も兼ねて成瀬金物「カネブン」の打ち鎌と現当主大隈刃物のキリバシを求めて訪れた。その際、御所にある松の手入れに興味を抱いた。2010年秋、修学院離宮・野村碧雲荘を見学、碧雲荘は約7千坪に及ぶ庭園だ。そして京都御苑、苑内の広さつまりスケールは、910000平方メートル、27万坪およぶ苑内にあるアカマツやクロマツの樹形に順ずる管理状況が気になっていた。およそ100年を超える樹形への手入れがどのようにして行われているのか興味深いものがある。「国民公園」京都御苑の個性と松の「御所透かし」(平成13年度 日本造園学会研究発表論文集(19)) 別タイトル The Characteristics of the Kyoto-Gyoen "National Garden" and "Gosho-sukashi" Pine-Pruning there(PAPERS OF THE 19th SCIENTIFIC RESEARCH MEETING) 作成者(著者) 井原 縁 別作成者(著者) IHARA Yukari 公開者 社団法人日本造園学会 別公開者 The Japanese Institute of Landscape Architecture 正式発行日(W3CDTF形式) 2001-03-30 内容記述 所属名 : 京都大学大学院農学研究科学会研究発表論文概要によれば現在の「国民公園」京都御苑では、御苑造成時から共存している「皇室苑地」と「公園的利用の場」という2側面に基づく二律背反的な要素が多数共存しており、この内包する要素の多様性こそが個性といえる。本研究では、まずその個性が形成された京都御苑の歴史的経緯を辿り、その後、「御所透かし」という特殊な技法が、その個性を守っていくうえで非常に重要な要素のひとつであることを考察する。「御所透かし」は、皇室苑地」という側面に付与される要素であると共に「公園的利用の場」という側面にも寄与する要素であり、時代を経て継承されてきた重要な文化財的要素であると共に松の手入れという景観構成要素でもあるからである。とあ。内容は、序説に「国民公園」定義域が説かれ京都御苑「国民公園」の区画資質、京都御苑となる歴史背景と明治2年の東京遷都、その後の第二次大戦前と戦後までの間に明治11年「大内保存」の号令のもと整備され続いて「即位大礼」をもって大正2年から3年の大改修によって苑内植栽の充実を図った。その後、明治10年~16年にかけ「大内保存」事業が布かれ明治17年には葵祭りが復活した。当時は、景観よりも火災延焼による防火植林に重点が置かれたようだ。苑内65haには、クロマツ約2600本、アカマツ1000本がある。これらの松は、この地独特の自然の形のままで手入れされる「御所透かし」という手法が取り入れられている。この論文を読むだけでは具体的な技法が浮かび上がらない。また、京都という地域性特徴がつよいので「御所透かし」他に「寺透かし」や「町屋透かし」ことばがあると紹介されている。京都という地域での管理単位表現として捉えたい。「御所透かし」比較的厚く仕上げて広い空間にメリハリをつけ、樹木の存在感をだす自然風仕上げが要求される。「寺透かし」詳細表現はない。「町屋透かし」樹形の刈込みをはっきりと見せ、目の近さに耐えうるきめの細かさが要求される。これらは、昭和10年からこの御所に出入りしている小島造園によると「小枝の先が止まっていない、のびのびした枝ぶりの自然樹形に近い形に仕上げる技法であると小島佐一の弁であると記している。具体的な道具が描かれていないのでどのような手入れなのか想像しがたい。同じく国民公園の東京皇居前広場には、約2000本のクロマツが東京湾に浮かぶ小島に見立てた島々に植えられている。皇居の深い森と対照的に、開放的でしかも荘厳な雰囲気の 国民公園・皇居外苑の景観となっている。明治21年の「皇居御造営」完成後のクロマツなどの植栽整備事業が行われ、その後の整備を経て今日のような美しいクロマツ群ができ上がった。しかし、ここでは京都御所にみられるような「御所透かし」のような名称や管理方法はない。東京遷都後、公家屋敷を形成していた京都御所周辺は大量の空き家の町となり荒廃した。この状況を嘆いた天皇は、明治10年(1877年)御所の保存を命じ、京都府が火災延焼を防ぐため御所周辺の空き家となった公家屋敷を撤去して整備したのが京都御苑の始まり。昭和24年(1949年)には国民公園として広く開放された。現在は京都御所、仙洞御所、京都大宮御所の築地内は宮内庁、2005年4月に開館した京都迎賓館は内閣府が、それ以外は環境省が管理している。御苑内の閑院宮の展示品に管理道具「木鋏、両手、」が展示されているという。何故そこに展示されているかも含めてふたたび御所に訪れ確認したいと思う。いずれにしても1869年(明治2年)に東京遷都され143年が過ぎ、1935年(昭和10年)小島佐一が御所の管理を行ってから77年が経っている。
2012年01月17日
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第五の不思議、音二郎一行は、どの経路で団十郎を訪ね、葬儀時、何処を道普請したのだろうか?「鄙びたといっても、茅ヶ崎には団十郎の別荘もある。梨園の長者である団十郎を、音二郎が表敬訪問すると、「松籟の音や波の音が、いまにも頭の上へ落ちて来そうに思われるので、夜などは物すさまじゅう感じますわえ」と療養中の団十郎は言った。茅ヶ崎はまだそんなところだった。」山口玲子著小説「女優貞奴」第5章 女優開眼茅ヶ崎の魅力に早くに気付き、別荘「孤松庵」を設けたのが「劇聖」と呼ばれた歌舞伎俳優九代目市川団十郎(1838 - 1903)。今から100年以上前、東海道線茅ヶ崎駅が開設される前別荘地として、芸能ゆかりの地として開かれていく茅ヶ崎のまちの物語はこの団十郎別荘から始まる。この屋敷で六代目尾上菊五郎など次代を担う若い歌舞伎俳優も育った。したがって茅ヶ崎は近代歌舞伎伝承の道場であったともいえる。団十郎は1903年明治36年9月13日茅ヶ崎の別荘(孤松庵)で亡くなっている。茅ヶ崎での葬儀で弔問客のため駅から団十郎邸までの道普請や道案内に奮闘したのが高砂(たかすな)緑地の住人川上音二郎であった。では、それは、何処の道だったのだろう。これはよく知られたエピソードであるが、この時川上一門と福井茂兵衛は、弔問客に備え茅ヶ崎停車場から団十郎別荘かまでの道の整備にあたり、全国へ指令を出して新派劇を一日休演させた(注28)この間音二郎は大磯蹌浪閣に伊藤博文を訪ね、20日の青山斎場での本葬のための弔辞を依頼している。一国を代表する俳優を葬るのに国家が顕彰するのは当然との西洋での見聞を訴えたのだろう。前代まで最下層の身分に置かれた俳優のために一国を代表する元老の弔辞は、異例のことであった。斎場でこれを代読したのが音二郎である。15日、遺体は茅ヶ崎駅から東京の本邸に向け搬送されるのだがその前にわざわざ村内を一周して別れを告げている。団十郎の遺志であったのだろう。茅ヶ崎駅から貨車を貸切り、棺は鉄路東京築地の本邸に送られたのだがこの時駅頭で棺を見送る一人の少年がいた。6歳の土方与志である。このことについては前号島本千也氏の論文でも触れられている。端なくも茅ヶ崎駅頭で三世代の代表的な演劇人が会したことを記念する風景である。 注28 注1-6「そこで停車場から師匠の別荘までは一里余もあり、五つも路があって、川上さんの前を通るのが一番近路なので、小川があった処へ橋を架け、所々へ杭を立てて堀越(団十郎の本名)道という貼紙をしてランプを吊り下げたのですが、実にこの機転で東京から来た人達は助かったのです。ヒストリア茅ヶ崎2011第3号より小川稔氏文地図左明治29年から42年、地図右大正6年から13年茅ヶ崎町の中心は、1921年大正10年にはすでに駅北側に形成されている。新町地区と西へ旧東海道筋まで宿場町らしい商店街が形成されている一方、駅南側にはまだ家屋は少ない。南湖へ向かう人は、駅を降り、一旦北口へ出て、商店街から左折して、踏切(現在の地下道)を渡っていたと考えられる。駅南側に改札が出来るのは茅ヶ崎駅開設からずいぶん経ってからである。昭和2年9月21日、新田信茅ヶ崎町長の覚書に1923年大正12年南湖院長高田畊安から南出入り口を開設する必要なる土地を率先無料にて鉄道省へ寄付せられたるに対して感謝の意を表している。ヒストリア茅ヶ崎2011第3号より1903年明治36年、博文館の雑誌『太陽』12月号に載った江見水蔭「霙」の冒頭に次のように描かれている。江見水蔭は、1903年明治36年1月25日、川上音二郎一座の翻案劇『オセロ』の本読みに茅ヶ崎館を訪れている。この時の経験が小説「霙」になったもの。 「砂の白きに埋れて青麦未だ芽を見せず。桑に葉は無し甘藷は蔓のみの畑。これを幸ひの間道にして、行来の人の足跡の多いのに釣込れた我、正しき路を捨て。つひ此方を取って行く茅ヶ崎停車場の裏手。路ならぬ路を踏んで砂山を越し松原に入り、未だ初雪を見ぬ此頃に梅の咲く宿を訪れた。」 「行来の人の足跡の多いのに釣込れた我、正しき路を捨て。つひ此方を取って行く茅ヶ崎停車場の裏手。」と、正式な出入り口ではないが、停車場の裏手からの路がすでに出来ていたようである。駅南側の海岸地区が次第に開発され、人の往来が多くなれば自然と道(踏跡)が開かれたものと考えられる。 1923年大正10年測図の地形図では駅南側に、4~5軒の建物が確認されるのみである。駅の改札口があったかどうかは不明であるが、駅を降りた乗客が南口を利用しているのは理解できる。おそらく、各別荘や南湖院への案内・送迎の人力車(タクシー)の拠点が出来ていたと考えられる。文 地理・地域研究者 島本 千也(しまもとかずや)
2011年12月23日
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「さきの雷坊らしき少年と川上家の内弟子の谷斎一が犬と戯れ、ロバと山羊も一緒に写っている。他に豚や家鴨も飼っていて、まるで動物園のようだったという。周囲は茫漠たる松林で、背景にかすかに万松園の屋根が見える。内弟子たちは、早朝からブーブー、ガーガーとやかましく鳴き立てる動物の声に悩まされた。が、人工的な都会育ちの貞には、このように鄙びた一軒家に動物たちと暮らすのが、年来の夢であり、五年ぶりに得た安らぎであった。」山口玲子著小説「女優貞奴」第5章 女優開眼より村井玄斎関係書簡 貞より音二郎の病状についてとある。これは、当時人気作家平塚に住まう村井玄斎の庭園観と同じ傾向がみられる。1904年から亡くなるまで神奈川県平塚市の平塚駅の南側に居住。『食道楽』の印税で屋敷の広大な敷地に和洋の野菜畑、カキ、ビワ、イチジクなどの果樹園、温室、鶏、ヤギ、ウサギなどの飼育施設、厩舎を築造し、新鮮な食材を自給した。 当時は珍しかったイチゴやアスパラガスの栽培まで行った。また各界の著名人を招待し、著名な料理人や食品会社の試作品などが届けられるという美食の殿堂のように取りざたされる優雅な暮らしを営んだ。ただし、彼は一連の『食道楽』ものを終了した後に断筆、報知新聞をも辞職してしまう。その後、脚気治療のために玄米食の研究に没頭し、また断食、自然食を実践した。また、自ら竪穴住居に住み、生きた虫など、加工しない自然のままのものだけを食べて暮らし、奇人、変人扱いされた。Wkipediaより『近代の別荘と別邸』の出筆者安島博幸氏は、別荘分類を近郊賓客接待型、高原避暑型、温泉保養型、海浜保養型、農場経営拠点型、近郊保養型と分類した。貞が描いたこの萬松園は、まさに海浜保養型と農場経営拠点型、近郊保養型を複合的に併せた施設だったといえる。明治36年7月8日「都新聞」に川上音二郎は、先に茅ヶ崎へ千数百坪の地所を買い入れたるが右は邸宅及び牧畜家禽中(きんちゅう)に宛てたれば今回更に俳優学校敷地として鉄道線路沿いの小松原4500坪を買い入れ山岸茄葉氏(雲石に)輝毫(きごう)を請い俳優学校の標?(ひょうびょう)を立てたりと尚今8日茅ヶ崎に住所を定めたる披露をするに付き本郷座に出勤すべき新派大一座が赴き〈楠公桜井駅〉〈ヴェニスの商人〉〈台湾鬼退治〉等の等の演劇を催す由にて一昨日来小屋掛けをなし全村大騒ぎの記事がある。1903年明治36年7月8日「都新聞」この記事の鉄道線路沿いの小松原4500坪俳優学校が計画されたものが面積は定かではないが高砂下が推測される。計画地の候補として現在の厳島神社南向かいの線路沿いが候補地の一つだった可能性が高い。十間坂茅ヶ崎座ではなく、後の大黒館の前身、「くもかん」という芝居小屋があったと聞き伝えられている。(十間坂、坂巻佐助氏談・聞き取り野崎)山岸 荷葉(やまぎし かよう、1876年 - 1945年3月10日)は、日本の小説家、書家、劇評家。 ... 雲石と号し、巌谷一六門下の天才書家として知られる。加賀屋を継いだ兄山岸定吉の妻つるの従兄弟に当たる尾崎紅葉の門下に入り、硯友社同人となる。スパイシーより
2011年12月20日
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打ち鎌打ち鎌、もしくは薙ぎ鎌(ナギガマ)と呼ばれている。これに近いものでチョキ鎌がある。共に京都で使われる道具だ。チョキ鎌は、押し引きで切断する。コツは、ビリヤードの球を打つように勢いが必要。切り口は綺麗とは言いがたいが幹乗りの手入れであれば長柄鋸で挽くより押し打つほうが効率がよいかもしれない。薙ぎ鎌(ナギガマ)とは、コトバンクによると農具から発展した武器のようだ。1 物を薙ぎ切るための鎌。ないがま。2 鎌に長柄をつけたもので、人馬の足などを薙ぎ払うための武器。ないがま。式年薙鎌打ち神事長野県指定無形民俗文化財式年薙鎌打ち神事 薙鎌を打ち込み風雨鎮護国土の平安を祈願する神事のものを示す。http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/suwasya/sakai.htm打ち鎌は、植藤(佐野藤右衛門)が修学院離宮の大刈込みに使う道具の一つ。カネブンさんから伺った話しによると島根県出雲の築地松の手入れにも使われているという道具だ。刈込み速度に比べ約3倍の速さで整枝できるといわれている。12年ほど前、1999年島根県環境生活部景観自然課に直接伺った時は、ほとんどは長柄の鎌を使っているが、職人さんの中には日本刀(軍刀の残欠)を使っているという説明を得た。いまから12年前の話なので管理する築地松や職人がどのくらい残っているのやら。おそらく築地松に使う物は刃がもう少し厚いもので仕上げ用なのかもしれない。「陰手刈り」と書いてノウテコリという。 築地松についてはこちらへ(財)日本緑化センターhttp://www.jpgreen.or.jp/agrinet/200802/index.html修学院離宮大刈込の画像についてはこちらへ「朝日ににほう山桜さんブログより」 http://mongoose2429.jugem.jp/?eid=30
2011年12月17日
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2011年12月2日、先代二代目「植岩」が亡くなり12月7日に葬儀が行われ85年の生涯を閉じました。先代は、大正15年寅年生まれ昭和初期の大恐慌時に幼少を過ごし、15歳より先々代「植岩」の元で修行を積み家業を守りながら当時各市町村に存在していた茅ヶ崎海岸にて「防空監視所」に勤務。この時、少年時代を過した加山雄三少年と海岸でキャチボールをしたことやアメリカ軍機からの機銃掃射を受けた恐怖感を私たちに話していたことを思い出します。当時、銃後の茅ヶ崎は些少の仕事はあってもまともな仕事はなく、防空壕堀の仕事をしながら海岸で町の安全を見守っていたようです。当時の戦況は大変悪く海岸沖に墜落した飛行機の報告が無視され正義感の強い先代が憤慨したことも語っていました。そうした戦況下、一年繰り上げの召集令状によって伊予の三島に配属、その夏広島原爆投下にて投下後片付け作業時終戦を迎え、長男孝平の戦死後家督を襲名し現在に至りました。1964年は、オリンピックの年。その年、私は周辺小学校生徒がオリンピック聖火ランナーを応援するために国道で旗を振っていた。終戦から10年、もはや戦後ではなくなった高度成長期に先代がいました。経済状況を振り返ると1ドル360円日本が潤っていた時代。1950年代半ば先代が運転免許を取得。この頃の植木屋の多くは、自転車とリヤカーで道具を運搬するのが日常でありこれに終止符を打ったのが三輪トラックでした。当時は別荘の留守居番も兼ねた者も多く、先々代からの顧客もさることながら「植岩」の顧客は、地元の大店が主たる顧客。この度の葬儀にあたって老舗の印半纏を棺の中に収めさせていただいた当時の印半纏は、その大店から出入りの印として頂いただくのが普通であり、歩く広告塔の意味を成していた。先代にもその逸話が残っており、これまた自慢の一つでもあった。30年代の茅ヶ崎には、大きなバスロータリーがあり、中央にソテツが植えられていた。このソテツの冬囲いを先代が請け、駅前ロータリーの改修工事が行われるまで毎年続けられた行事でした。ある日のこと読売新聞に冬の風物詩としてソテツの冬囲いが絵になるということで湘南版に掲載されたことがあった。そのとき、着ていた印半纏が今は無き「長崎屋」の印半纏も一緒に掲載された。それを見た当時の社長がいたく喜んだという逸話がのこっている。この印半纏には、ある意味広告を背負っているということは、同時に資性も背負っているということでもあり、いい加減な仕事は出来ないと言っている様なもの。現在では、この様に得意先から印半纏を賜ることの風習は無くなってしまいましたが、仕事への姿勢や本人の持つ資質が印半纏によって形成されて云った事は間違いないことなのです。私は初代となる岩治がすでに床に臥し亡くなっているので先代金平への師事となります。先代が戦後から高度成長期に作庭が多く行われるとともに樹木の管理も多くなります。私たち兄弟の修行時代には、オイルショックの頃で不景気の波に入るため作庭する場が極端に少なくなっていました。そのため、庭つくりや竹垣の作り直しがあると私たち兄弟は、むさぼるように知識や技術を吸収するようになります。恵まれた環境であったら現在の基礎は、築けなかったかもしれません。明年のご挨拶を遠慮いたしますことお許しください。
2011年12月11日
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調査終盤になって次のような記事があきらかになった。江見水蔭独特の文章によって表記された回想録である。「川上と団十郎。対象させるのは不服の人も有りませうが、当人としては確かに向うを張っていたので、茅ヶ崎の堀越(団十郎)の別荘を、孤松庵と呼ぶに対し て、自分の同所の別荘を(本邸は其の頃無いのですが、)萬松園と名付けて、いや、伊藤公に名付けて頂き、其の額面を同公に揮毫して貰って喜んで居りまし た。」「この揮毫を表具師に頼んでくれと、私の品川陣屋横丁の宅に持ってきたのは、夜更けてでありまして、門を開ける時にグチャリと攫んだのは、守宮……。」(江見水蔭「私の見た川上音二郎」『藝術殿』一九三二年(昭和七)一一月号)この文章を分析すると1、団十郎別荘と対象するということは、団十郎に対し格差を自覚している。2、当人としては確かに向うを張っていた。ということは、対峙する目標を示している。3、孤松庵に対して萬松園の呼称を明らかにした。4、「自分の同所の別荘を(本邸は其の頃無いのですが、)萬松園と名付けて」とある自分の同所の別荘とは、あきらかに茅ヶ崎の地を示している。5、(本邸は其の頃無いのですが、)をどの様にとらえるのかA、「本邸は其の頃無い」とは、音二郎・貞の住まいは、その頃はない。住所不定B、「本邸は其の頃無い」とは、本邸ではない別の建物が購入前に存在していた。C、「本邸は其の頃無い」とは、土地は存在したが、建物は、無かった。では、ここでいう「本邸」の表記は、何を意味しているのだろうか。6、萬松園と名付けて、いや、伊藤公に名付けて頂き、伊藤公とは、伊藤博文のことこれについては、「いや、伊藤公に名付けて頂き、」とあるので「いや、」という否定から「伊藤公に名付けて頂き、」肯定に転化している。それは、団十郎に対して不均衡な格差均衡を図る目的で伊藤博文が名付け揮毫してもらったというのがどうも真意であるようだ。
2011年12月01日
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さて、近代別荘とはいったいどの様なものであろうか。2004年4月19日平凡社刊日本の別荘・別邸の中で『近代の別荘と別邸』安島博幸氏によると明治前の平安時代の宇治平等院、室町時代の金閣寺、江戸時代の桂離宮、諸大名の中屋敷・下屋敷などがあり、湯治や狩猟等の趣向がための場所とされている。近代的別荘の成立を安島博幸氏は、この様に説いている。明治維新以降の別荘を大きく三つの段階で分けている。第一期、 時代は、1887年明治20年代位に建造されたもので新興財閥系、園遊会目的等の賓客接待型別荘。深川の岩崎別邸、三田の三井倶楽部、京都の山縣別邸がある。第二期、 1887年明治20年頃から1914年大正3年の第一次世界大戦位まで明治期に欧米から日本にやってきた外交官、宣教師、貿易商、お雇い外国人等が西洋別荘スタイルもって初期リゾート型別荘が定着する。第三期、 1914年大正3年の第一次世界大戦から1941年昭和16年頃までの間、「武蔵野」や「自然と人生」の郊外生活への憧れが中流階級によって避暑等の大衆化が定着した。その他の分類として、近郊賓客接待型、高原避暑型、温泉保養型、海浜保養型、農場経営拠点型、近郊保養型がある。このように大別された中でこの茅ヶ崎は、第二期の別荘開発から第三期の大衆化を経て高度成長期における近郊住宅地としての茅ヶ崎が形成されていったといえる。第二期の1900年前後の明治30年代は、小説「自然と人生」・1898年明治31年1901年明治34年「武蔵野」が出版され郊外生活の流布も相まって影響され日清。日露といった軍事褒章の影響から当時の高官、軍人が各地の別荘を購入し始めるのが第二期の茅ヶ崎の特徴ともいえる。そこで、大胆な仮説をたててみた。(楠・野崎)弧松庵は、猟師の目印にされていた「からかさ松」という一本松が敷地内にあることにちなんだものといわれたその団十郎別荘に対して川上別荘は「萬松園」と名付けられた。この一本松に対して萬松とは、あまりにも対峙している。 (注茅ヶ崎市史4第二節別荘と海水浴)当時の高砂上、下の地理状況は、江戸末期海岸防衛のための砲弾演習の妨げのため、天明5年1785年辻堂、小和田、菱沼村の野永場17町8反7畝の松総数18650本を伐採している。このように当時、幕府と農漁民との対立があった。(注茅ヶ崎市史1通史、幕府と農漁民との対立)当時伊藤里之助は、別荘誘致開発の一端として防砂を目的とした防砂林を明治32年1899年6月26日神奈川県に伊藤町長が植林の申請を届けている。つまり、明治29年当時のこの地は不毛な荒地であったことがわかる。後の1902年明治35年には、一面「小松原」となったこの茅ヶ崎が小説「霙」の舞台となる。この様に松の無い高砂下に何ゆえ「萬松園」と名付けたのだろうか。また、駅が出来る前、この地に宿泊のできる宿「萬松園」が存在したのか推理してみた。一つは、別荘誘致のため伊藤里之助は、ここに宿泊可能な家屋を造り別荘体験ができるようにしていたのではないだろうか。その理由に、1897年明治30年8月7日茅ヶ崎の駅舎が出来る一年前に宮内庁関係の花房義質(はなふさよしもと)が滞留地は、萬松園以外の中村楼や茅ヶ崎館といった宿泊地もあったろうと推測されるが萬松園への滞留人数確認の書簡を別荘誘致に励む伊藤里之助宛てに届けられている。第二に「萬松園」の名付け親は伊藤博文ではないかという説。この説があったとすれば伊藤違いの伊藤里之助ではなかったのか。これについては、1898年明治31年に駅が出来ることも不毛のこの地に多数の松が植林されることについては、当時の伊藤里之助しか知りえないことであること。「萬松園」の名付け親は、伊藤違いの伊藤里之助ではなかったか。後に茅ヶ崎館発行の絵葉書における茅ヶ崎八景の「高砂の名月」の舞台、高砂下が選ばれた理由があるはず。明治31年に駅舎が出来たことでこの高砂下の地はかつて南湖や茶屋町が中心地であった場から程遠い駅舎が出来ることでやがて茅ヶ崎の中心地となり代わっていくのである。
2011年11月27日
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次の画像は、萬松園門前の集合写真。音二郎が居るので所有した明治35年からに雷吉君の戸籍について伊藤里之助に書簡を送った明治43年までの間、約8年間のなかでの集合写真。この集合写真はいったい何処で撮られたものだろう。この画像の左側にシイノキが植えられている。もし、原安三郎の土地購入後作庭時にこのシイノキが移植されていなけれ・・・次の画像は、現在の元正門の画像である。大胆にも合成してみる。もし、この建物が既存にあったとすれば音二郎一行が帰国し、建造中の建造物はどの様な建造物だったのか? 8月21日に帰国、翌月9月28日から10月22日の登記。この間2ヶ月。しかも10月3日には江見水蔭との打ち合わせを果たしている。それは、建造中であったがためにオセロの稽古や読み合わせを人寄せのできる茅ヶ崎館、稽古の出来る中村楼になったのだろうか?萬松園は、和洋折衷と聞いている。気になる画像は、夏服でくつろぐ和室前、縁の下飾りを見ると造りは和のようだ。もう一つは、紋付袴正装でショールを持っている鉄製の門扉前。この背後に和洋折衷の建物があったのだろうか。季節は冬だ。
2011年11月24日
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「茅ヶ崎むかし語り」ここで、小学生であった原氏の姪である柴田周子・稲村秀子さんは、「茅ヶ崎むかし語り」P4の2行目に記されている。「川上別荘があったのは、今の芝生の花壇の辺だけじゃなかったかな。今の門の右側ね。駅前に小原さんという石炭屋さんがあったでしょう。ここ(高砂緑地)の土地をどの部分か知らないが持ってたっておっしゃってた。3軒か4軒かをまとめて買ったんですね。2階が屋根の上が陸亀みたいになっていたから、見晴らしみたいのがあったような…。すぐ地震(関東大震災1923年T12)で潰れましたからね。それで、オシダさんって方が畑をつくったりなさるでしょ。そんな道具が立てかけてあったりして田舎のようでしたね。家は田舎のようではなかったです。」と小学生時代にみた川上別荘の建物の印象を語っています。さらに、萬松園となる敷地は川上貞(定)名義後翌年、幡豆寅之助によって1903年明治36年から1918年大正7年に至るまで買い足されている。市史編纂、第2表川上定分土地取得状況によると現在高砂緑地を管理する茅ヶ崎市公園課の台帳では、面積約0.6ha(約2000坪)で1216坪が川上定分として明記されている。1902年明治35年8月、欧州公演旅行を終え帰国した川上夫妻は、この茅ヶ崎を日本での演劇活動の拠点として考え俳優養成学校を事業しました。川上定(貞)分9筆1216坪、姻戚関係の幡豆寅之助分を含めると最終的には14筆1757坪を高砂下の土地家屋を取得する。ここまでが生涯学習科の調査。この度、調査で解明されたのは、幡豆寅之助氏と川上貞が姻戚関係であったことが解明されたため1906年明治39年2月5日幡豆寅之助取得10293番地の222.4坪を足すと1979.4坪約2000坪の取得が判明した。その他、明治30年の8月、花房義質の書簡によってこの茅ヶ崎に萬松園があったということが明らかになった。幡豆寅之助の住所は、北海道小樽区土場町7番地とあり、貞の実兄幡豆勝次郎の縁者と思われる。実兄幡豆勝次郎は、「山口玲子著『女優貞奴』に文中出展されている。「実兄幡豆勝次郎は、貞がもの心つく頃には、既に屯田兵になって北海道に移住している」と記されている。貞の血縁筋小山家の過去帳から没年順に、源兵衛、花子、トヨ、タガ(タカ)、留吉(留三)、久次郎、夏子、彦造、倉吉、幡豆勝次郎、貞の11人の名前が見出され貞と勝次郎の二人を除く以外は、小山姓になっている。幡豆寅之助と川上家との関係については、白川宣力著『新聞にみる人物像』の海賊島・川上音二郎の探検(2)の文中『オセロ』の翻案劇のために台湾視察を描写する記述がある。『オセロ』の翻案劇は、1903年明治36年東京公演にて日清戦争後日本の植民地として領有した台湾に設定し、─ヴェニスのムーア人オセロを、「原住民」鎮圧のために台湾に送り込まれた薩摩出身の帝国軍人に変更し演じられている。出展、白川宣力著『新聞にみる人物像』より幡豆寅之助の人物名は、白川宣力著『新聞にみる人物像』にも筆出している。出展、新聞にみる人物像によると「川上、其れから自分の親戚に常(あたる)幡豆寅之助と云う人、此の人は嘗て(かつ)横浜の水上署に奉職をして居って海上のことに詳しいと云うので同行をして連れ立ち前期の日取りで東京を出発11月19日に神戸から泰南丸で泰湾澎湖島へ志した」とあり、幡豆寅之助と川上音二郎と共に当時の台湾事情を視察している記録があった。1911年明治44年11月11日に音二郎は亡くなる。その7ヶ月前1911年明治44年9月、博多の櫛田神社に土地・建物を寄進した際の書類(登記簿抄本)は、川上音二郎の名で神奈川県高座郡茅ヶ崎町茅ヶ崎12684番地、現在の南湖4丁目16-34番地に相当することがわかった。彼の本籍住所が何故ここだったのか未だもって謎。高砂下土地名義が大正七年、原氏に譲渡するまで貞と姻戚関係の幡豆氏の名義であり、そこに音二郎の名義はなかった。当時の旧登記簿によると登記主は伊藤里之助になっている。ここは、小山敬三別荘に程近い場所。驚いたことに中村楼当主星野岩松土地所有が近隣であった。何故かというと中村楼当主星野岩松の所有地が川上定、幡豆寅之助が購入した萬松園の隣接地にあったからだ。何故隣接地にあったかは、未だに不明。萬松園について我々は、大胆な仮説をたてた。それは、萬松園の由来について、1897年明治30年8月7日茅ヶ崎の駅舎が出来る一年前に宮内庁関係の花房義質(よしもと)萬松園への滞留人数確認の書簡記録が茅ヶ崎美術館館長小川稔氏によって発見された。このことによって万松園は、川上貞が茅ヶ崎に来る5年前には存在し、1899年明治32年3月13日に中村楼が旅館案内を広告。同年8月官設鉄道案内の旅館案内は既に萬松園が紹介されていた。
2011年11月21日
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左 明治29年から42年の地図 右 大正6年から12年の地図明治29年から42年の地図にはあった道が、大正時代には道が無くなっている。また、萬松園からの道や数本の道が出来きているのが確認できる。また、南口駅は、大正12年大震災後に登場するので明治29から42年の地図では確認できない。しかも、○印の場所は3万坪におよぶ中村楼が在った場所が明確になった。上の地図では、わからないので昭和29年までの地図を同時に載せてみる。茅ヶ崎市役所の大絵図と登記所の旧土地台帳記録萬松園の現在、高砂緑地であるこの公園は、実業家であった原安三郎の別荘松籟荘1919年大正8年6月5日の跡地であり、先の所有者川上音二郎・貞奴が所有したとされる萬松園は、1902年明治35年10月22日~11月28日川上定(貞)の名義と幡豆寅之助の名義で購入されている。この旧土地台帳を見ると当時この川上邸で道が行き止りとなっている。つまり、現在のように鉄砲道へ続く道は、この当時存在していない。最終的に川上貞(定)幡豆寅之助が購入した土地は、次の通り。この図面でわかるのは、宅地部分が2箇所しかないということ、その他は山林、畑の地目となっていることが今回はっきりした。図参照(有)プリムローズ・湘南企画工芸 野崎幸夫製作(旧登記簿・大絵図・法務局現登記図を重ねた図、青の斜線部分が最終購入地)
2011年11月18日
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星野岩松1845年弘化2年.07.05~1910年明治44年12月1877年明治10年星野岩松は「土木受負の志を起して建築工事に従事し専ら外務省の工事を受負ふ」また、音二郎もいたパリ万博に「在横浜の仏国郵船会社々員の依託を以て日本建築中殊に精巧美麗を以て称せらるゝ寺院の山門を模造し」「『パノラマジオラマ』会社に装置して観覧者の大喝采を博したる」1900年明治33年04~11京浜実業家名鑑(1907) 水沢富士夫氏調査2011年かれは、この茅ヶ崎に数々の土地を所有していた。川上音二郎・貞の所有地の隣、南湖小山敬三別荘の近隣など幾つかの登記が確認されている。別荘誘致等の不動産事業のさきがけとも言える行動が気になる。その後、支点中村楼は大阪の鴻池家とその経営する鴻池銀行(後の三和銀行の前身)の整理、再建に当った際、原田二郎に慰労金五十六万円と茅ヶ崎の敷地三万坪を静養の地として贈呈され、関東大震災を茅ヶ崎出で経験し建物は全壊した。1919年大正8年に鴻池の建て直しに成功してその職を去ったが、翌1920年大正9年、積年の計画であった原田積善会を設立。原田二郎、1849年嘉永2年10月10日、松阪市殿町で同心(清一郎)の長男として生れた。21才のとき松阪出身の勤王志士 世古延世 (せこのぶつぐ)に随行して京都に上り、更に23才のとき維新後間のない東京に遊学して英語と医術を学んだ。その後大蔵省に勤め、31才で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮するが、事情があって職を辞し松阪に戻った。その後37才で東京に居を移して療養生活(胸部疾患)を送ったのち、1902年明治35年54才の時、明治の元勲の一人である 井上 馨 の依頼を受け、家運の傾きかけた大阪の鴻池家とその経営する鴻池銀行(後の三和銀行の前身)の整理、再建に当った。画集大正時代我町ふるさと 茅ヶ崎の思い出 井沢正一 画 写真 原田二郎1919年大正8年に鴻池の建て直しに成功してその職を去ったが、翌1920年大正9年、積年の計画であった原田積善会を設立。その後10年間財団の代表者として運営に当ったが、1930年昭和5年5月5日、82才で死去した。ここに中村楼→鴻池銀行→原田別荘があった事がわかった。これについては、恐らく別荘史では新発見といえる。
2011年11月13日
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6日が最終日の堺文化財特別公開が10月28日から11月6日の期間に刀鍛冶による古式鍛錬見学があり、午後、佐助さんへ「刃付け」など様々なお話、鋏を見せていただきました。佐助さんの所は、画像がありません。ご興味をお持ちの方は、是非実際に行ってみることをお勧めします。前泊5日は、京都でした・・・10時には、京都のカネブンさんに「バチと薙鎌」を購入。この時期なので、カネブンさんの次にお約束の高桐院、次に通天橋から東寺まで移動。そして大隈さんで「キリバシ」購入、注文を覚悟で行ったのですが、どなたか注文していた「キリバシ」5丁。大変申し訳ない。この中から一丁選ばして戴いた。五丁の中総て握ってみて「これだ!!」というものに逢えるので是非皆さん行ってください。左側「京」と打たれた先代のキリバシ 右側「安広」と打たれた現当主義信氏の「キリバシ」共に8寸です。先代のキリバシよりやや太目の足になっています。鋼部分、裏隙についてはしっかり付いてる。若干、現当主のほうが丸みをおびたつくり。左先代の鋏は、ちょっとシャープです。価格は、15750円
2011年11月09日
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さらに遡る1897年明治30年8月7日茅ヶ崎の駅舎が出来る一年前に宮内庁関係の花房義質(よしもと)萬松園への滞留人数確認の書簡記録が茅ヶ崎美術館館長小川稔氏によって発見された。このことによって万松園は、川上貞が茅ヶ崎に来る5年前に存在し、1899年明治32年3月13日に中村楼が旅館案内を広告し、同年8月官設鉄道案内の旅館案内には既に萬松園が紹介されていた。花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1917年(大正6年)7月9日)は、明治、大正期の外交官。岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。爵位は子爵。歴任した主な官公職は宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長など。この件については、先に旧土地台帳調査の際、川上貞購入地の隣に中村楼主、星野岩松氏名義の土地が存在したことを発見した。中村楼主星野岩松は、東京江東中村楼(現在の両国)の支店として茅ヶ崎館と同じ年の1899年明治32年に現在の恵泉幼稚園付近に敷地三万坪を有し「海水浴御料理旅館」として開業。洋食も出しており九代目市川団十郎が茅ヶ崎の別荘「孤松庵」に滞在中ハヤシライスを注文したとのエピソ-ドも残っている。川上一座の「オセロ」では舞台稽古を行った場所。明治四十年本店が東京美術倶楽部に売却されるにともない閉店。その後関東大震災により建物は全壊した。文2011/07/03楠氏星野岩松1845年弘化2年.07.05~1910年明治44年12月1877年明治10年星野岩松は「土木受負の志を起して建築工事に従事し専ら外務省の工事を受負ふ」また、音二郎もいたパリ万博に「在横浜の仏国郵船会社々員の依託を以て日本建築中殊に精巧美麗を以て称せらるゝ寺院の山門を模造し」「『パノラマジオラマ』会社に装置して観覧者の大喝采を博したる」1900年明治33年04~11京浜実業家名鑑(1907) 水沢富士夫氏調査2011年
2011年10月31日
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新築間もないころ庭で撮った写真が、のこされている。音二郎・貞夫妻とも、紋付羽織の正装だが、大きな犬がその前にねそべっている。山口玲子著小説「女優貞奴」第5章 女優開眼1902年明治35年8月19日、貞奴は一行とともに、往復の日数を入れて一年四ヶ月の旅を終え、神戸に着いた。翌21日付の朝日、毎日両新聞は、一行の帰国を簡単に報じた。帰国後、貞は、9月28日から10月22日・11月28日にこの地の登記をしている。8月21日に帰国、翌月9月28日から10月22日の登記。この間2ヶ月。しかも10月3日には江見水蔭との打ち合わせを果たしている。その夜、ドイツより帰朝の巌谷小波を茅ヶ崎駅で迎える。「川上は、砂白く松青き地を卜して「萬松園」と名じた。太平洋記事明治35年10月27日に発行。11月12日川上音二郎と俳優学校、東京朝日新聞朝刊4頁4段「茅ヶ崎村1500坪購入記事」、環翠楼にて伊藤博文に書を乞う。」とある。さらに、1899年明治32年発行、「官設鉄道案内。この旅館案内では、萬松園停車場ヨリ六丁(約600メートル)宿料凡そ六十銭」と記された出版物が発見された。ここで注目すべきは、1899年明治32年に「萬松園」という宿が存在していた。6丁というと約600メートル、現在の高砂緑地周辺がその圏内になる。画像、当時の官設鉄道案内に於ける茅ヶ崎の旅館案内2011年水沢富士夫調査同記 茅ヶ崎市史4近代史P516 官設鉄道案内とは、旅客の増員に伴い時刻表や施設案内を目的とした明治30年代の旅行案内書。東海道,北陸道の利用案内、タイトルの読み カンセツ テツドウ アンナイ 作成者(著者) 春日利兵衛著 作成者(著者)(NDL典拠形式) 春日,利兵衛 作成者(著者)の読み(NDL典拠形式) カスガ,リヘエ 公開者 国立国会図書館。目次紹介は、次のとおり。(目次) 旅店名所古蹟其他(目次) 新橋神間(目次) 大船横須賀間(目次) 大府武豊間 (目次) 米原富山間 (目次) 馬場大津間(目次) 鉄道略則其他(目次) 乗客ノ注意スヘキ事項 (目次) 荷物托送手続及賃金(目次) 官設鉄道概況(目次) 旅客賃金表(目次) 附新橋横浜ヨリ藤沢鎌倉平塚大磯国府津行割引賃金(目次) 汽車時刻表茅ヶ崎館の創業者柏木○○は、平塚以西の人物らしい。長谷川長次郎の名前は1898年明治31年8月3日に初出する。石上憲定「自渉録」に初出P353南湖中村屋旅館同頁出筆している。当時の海水旅館の宿命である冬の営業がままならず海岸端における「海の家」と等しくシーズンオフには、経営者もしくは、オーナー地権者が代わって行ったとも考えられる。その傾向や矛盾は年表にて参照すると明らかになる。当時の巡査日記―石上憲定「自渉録」にも小さな事件として茅ヶ崎館や中村楼の宿名が出筆されている。1899年明治32年3月13日中村楼盗難事件(石上憲定「自渉録」)P428があった。ところが、同年、「東京朝日新聞」朝刊七面では、海水浴御料理旅館「同業広告茅ケ崎館・中村楼開業」と広告が出稿されている。また、同年8月官設鉄道案内、旅館案内 松旭閣(停車場より凡半丁)松本楼(停車場より七丁)海水館(停車場より八丁半)松本屋(停車場より七丁)萬松園(停車場より六丁)とそれぞれの旅館が紹介されている。この中で現在判っている旅館は松本屋(停車場より七丁)。たびたび石上憲定「自渉録」に登場する。その他、海水館(停車場より八丁半)は、茅ヶ崎館の事ではないかと史実確認はないものの茅ヶ崎館当主森氏のお話をうかがった。
2011年10月29日
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水蔭は似た境遇の音二郎に同情し、応援する記事を載せた。音二郎はさらに逃げるように妻の貞奴と洋行したが、大成功して帰朝した。水蔭も1900年明治33年博文館の雑誌『太平洋』の主筆として帰京し、巌谷小波の渡独中は『少年世界』の主筆も兼ねて少年冒険物も多く書いた。片瀬海岸から茅ヶ崎の烏帽子岩に舟で行く『姥島探検記』もこのころのものである。作者の代表作 小説家としての水蔭の代表作『女房殺し』は1895年明治28年の作。学生が逗子の茶屋の娘を救い出して結婚する。彼女は軍人になった夫の外遊中に貧窮のために過ちを犯し、帰国した夫が彼女を殺してしまうという筋立てのものであった。『霙』の筋立てと共通する部分もある。『霙』の背景 東京で音二郎と再会した水蔭はシェイクスピア『オセロ』の脚本を千円という破格の高値の約束で翻案した。『霙』は神奈川県茅ヶ崎にあった音二郎邸近くの旅館の茅ヶ崎館で脚本の本読みを行った時のエピソードが背景になっている。音二郎や貞奴をモデルとした人物(浜水城・美香子)が登場するほか、女優から永井荷風の妻となり、離縁して日本舞踊の藤蔭流を創始した藤蔭静枝(1880~1966)などが登場する。『霙』は藤蔭静枝のそれまでの男性遍歴と女優としてデビューする契機を中心に描き、静枝(田鶴子)の水蔭(我)への恋の駆け引きのような思わせぶりな言動、それを受け止める「我」との心理劇が写実的な美文で綴られている。〈洋装せる元禄文学〉と評された硯友社の文体から、写実主義の影響を受けての心理描写を重視する文体への移行が認められる。(「霙」文解説 水沢不二夫)「女たちの荷風」によると藤陰静江は生誕地新潟、本名内田八重(戸籍ヤイ)。戸籍誕生年は、1880年明治13年生まれ。二十歳過ぎに東京へ出てきて新橋の芸妓となったが、この頃から華麗な男性遍歴が始まっているようだ。力士荒岩、富豪の息子と同棲破綻後新潟へ帰京。 その後、女優を志し再び上京。川上音二郎一座の一員となった。音二郎一座帰国後、「翻訳劇オセロ」の番付面にデスモナの侍女役、芸名内田静枝として一ヶ月ほど茅ヶ崎の川上一座のもとで稽古をしている。その間、江見水蔭と藤陰静枝の恋愛関係を永井荷風に悟られていた。 これらを前面否定し真相を明らかにするために「霙」「水錆」の二つの恋愛小説が誕生した。問題はこれだけではなく、川上音二郎とも恋愛関係になっていたそうで音二郎妻貞奴に知られたため、静枝は、オセロの興行後川上一座を去ることになる。心なしか茅ヶ崎で撮られた紋付袴姿の二人の間柄が微妙な立ち位置関係に見えるのは私だけだろうか。(「女たちの荷風」松本哉著(まつもとはじめ))
2011年10月27日
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今年、3月31日に茅ヶ崎市史資料集第6集が発行された山宮藤吉日記である。彼は、地元茅ヶ崎萩園の出身、文久二年(1862)に生まれ昭和8年(1933)71歳でなくなっている。村長、県議会員、衆議院議員として政治活動を行った。当時の県政を担う小泉純一郎元首相の祖父小泉又次郎、河野洋平元衆議院議員の祖父河野治平らと並ぶ政治家であったと伝えられている。しかし、藤吉の嗣子の早世もあり、歴史のなかに埋もれた存在となった。この度の市史編纂を機に彼の残した多くの文章が明らかになり、それらを分析することにより、明治中期から昭和初期にかけて神奈川県政、この国の政治勢力の変革が見えてくる一冊となっている。さて、今回の資料の中で私たちが特に目を引いたのは、明治29年から明治36年当時の日記だ。つまり、川上音・貞に関する件が幾つ出ているかの探索にある。資料は、万人に公開されなければ只の紙くず。公開されてはじめて資料となる。この日記の他に石上憲定の日記があるが一冊6000円と高価な一冊だ。この度の音貞探索では、新たな発見が幾つかみられた。山宮藤吉日記、明治31年2月24日。「萬松園に狩野信矩ノ□画工来ル」とある。この件を日記に記すということは、藤吉やその身辺にとって価値のあることの出来事だったと想像できる。気になるのは、狩野信矩ノ□画工。「ノ□」の部分が読めない。想像するに狩野信矩の関係者ととらえるのが自然そうだ。明治30年8月7日花房義素から伊藤里之助へ「萬松園」に滞留手配と人数確認をしている。翌年、明治31年2月24日に「狩野信矩萬松園□画工来る」と山宮藤吉日記に記されている。これらの事実をふまえても音二郎・貞が明治35年この茅ヶ崎に来る前には、既に「萬松園」が存在していたということが明らかになった。また、新たに新事実が明らかになった。これでますます「萬松園」がいつから存在し、どのように音二郎・貞の所有になったのか依然謎のままである。ハッキリしているのは、「萬松園」は、明治30年から在った。しかも「萬松園」の名称も明治30年から在った。では、音二郎が命名した「萬松園」は、敷地内のどこにあったのだろうか。当時、この二棟が同地にあったのだろうか。
2011年10月22日
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水蔭が借りた家は江の島の鳥居わきの片瀬川に臨む高台にあった。コッキング(サムエル・コッキング)が妾の名義で所有している貸し別荘で、広い敷地の中に、八畳、六畳、四畳半、二畳、それに台所と湯殿という間取り、一年間55円の契約であった。家から眺められる風景は絶景で、小さな砂漠とでもいった砥上ヶ原ごしに、鵠沼、辻堂、茅ヶ崎の海岸が見渡せ、さらに大磯の高麗寺山の上あたりに富士山を遠望することができた。「江見水蔭文陣を片瀬に移す」文士が都を離れて田舎すまいをするというのは、当時でもまだ珍しかったので、「読売新聞」の雑報欄に記事が載った。片瀬の家は、「沙地浪宅」と名付けられた。砂地の上の浪宅にかけて、江戸時代の龍亭鯉丈の滑稽本「花暦発祥人」の主人公である「左次郎」の家を気取ったものであると記されている。「個性きらめく 藤沢近代の文士たち」 藤沢市教育委員会 1990年10月 小山 文雄(こやま ふみお)この度の調査では、まずサムエルコッキングの妻、宮田りき名義の土地は、江の島登頂部だけでなく片瀬の土地も購入しており、旧土地台帳から片瀬の土地を割り出し2619番地から河口方向の2638番地付近がサムエルコッキングの土地であることがわかった。さらに、1887年明治20年東海道線に藤沢駅がその年の7月11日に開業され、列車にて頻繁に江の島に来るようになった二人。その妻りきが藤沢駅で不慮の事故にあう。その後妻りきは、妹ふさをコッキングのそば女として差出した。本妻りきは、専ら横浜の居留地に妹ふさは、江の島の別邸にあったという。これらのことが真意であれば片瀬の貸し別荘には、妹ふさが居た可能性が高い。その貸し別荘を一年間55円の契約で「沙地浪」として借り入れた水蔭は、川上音二郎と「オセロ」の打ち合わせをした頃には、すでに「沙地浪宅」を引き払っていた。
2011年10月19日
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「万松園」の名付け人 また、当時オセロの翻訳を依頼していた江見水蔭が描く茅ヶ崎の姿、茅ヶ崎館の姿を描写した小説「霙」頁1、第一日目のくだり5行目水沢富士夫氏現代語訳翻訳には、「まだ、初雪を見ぬこのごろ梅の咲く宿を訪れた。」とモデルとなる川上邸の様子を表現している箇所も気になる。江見水蔭とは 江見水蔭(1869~1934)は硯友社系の作家として出発し、退廃的な自己の恋愛に取材した小説を書いて迫真性を評価された。1896年明治29年、生活の転換をはかり、片瀬海岸(現、神奈川県藤沢市の南部)に来たが、生活は破綻し、神戸新聞記者として西下した。一方、川上音二郎も東京で失敗して西下し、水蔭のいる神戸にも来た。 1896年明治29年「中央新聞」を退社、「読売新聞」に入社、1898年明治31 年、小波の紹介で「神戸新聞」三面主任として赴任したが、1900年明治33年、帰京、博文館の週刊雑誌「太平洋」の主筆となり、1900年明治33年秋にはドイツに赴いた巌谷小波に代わって「少年世界」の主筆を重ね1902年明治35年退社。 1904年明治37年「二六新報」に入社したが、1年で退社、その後は、通俗的作品を書きつづけた。晩年 は揮毫と講演の旅を続け、1934年昭和9年、旅先の松山市で逝去。 江見は、片瀬に住む前に二度江の島周辺に来ている。一度目が1890年明治23年8月22日尾崎紅葉、巌谷小波、川上眉山、江見水蔭、片瀬に海水浴に行き、柏屋で三泊し、25日に帰京している。二度目は、深刻で生活の行き詰まりから自殺も考えて江の島に至り、金亀楼に籠城、高山樗牛と面談している。 水蔭の過ごした片瀬の家「沙地浪」は、「個性きらめく 藤沢近代の文士たち」 藤沢市教育委員会 1990年10月 小山 文雄(こやま ふみお)氏によると第二章尾崎紅葉と硯友社の面々のなかで片瀬住まい-江見水蔭の項で記されている。
2011年10月14日
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昨日、図書館の掲示物を打ち合わせのため水沢さん、楠さんにお会いいたしました。彼らは、この一年におよぶ調査をご一緒した二人です。なんと、二つの仮設のうち一つが裏づけされてしまった。昨日頂いた資料『藝術殿』「私の見た川上音二郎」1932年(昭和7年)江見水蔭によると52ページ文中川上と団十郎。対象させるのは不服の人も有りませうが、当人としては確かに向うを張っていたので、茅ヶ崎の堀越(団十郎)の別荘を、孤松庵と呼ぶに対して、自分の同所の別荘を(本邸は其の頃無いのですが、萬松園と名付けて、いや、伊藤公に名付けて頂き、其の額面を同公に揮毫して貰って喜んで居りました。) この揮毫を表具師に頼んでくれと、私の品川陣屋横丁の宅に持ってきたのは、夜更けてでありまして、門を開ける時にグチャリと攫んだのは、守宮。・・・とつづられいる。団十郎別荘が明治29年に着工した孤松庵は、明治30年6月に竣工した。其の年の8月には、花房義質が万松園に滞留の手続を願上、その人数通知差出人花房義質(志村)受取人伊藤里之助明治30年この頃茅ヶ崎村長伊藤里之助が名士達に別荘誘致している。明治30年6月に団十郎「孤松庵」竣工明治30年8月に花房義質が「万松園」に滞留の手続明治31年6月に茅ヶ崎駅舎竣工明治32年6月26日官有地茅ヶ崎11483番地高砂下恵泉幼稚園周辺松植林伊藤里之助申請明治32年8月に鉄道官設案内に「萬松園」(停車場より六丁)が紹介される。明治35年8月19日欧州公演帰国明治35年10月に江見が茅ヶ崎川上邸で打ち合わせ。やはり既に「萬松園」は、彼の地にあった。しかも団十郎孤松庵とのバランスを図るために伊藤博文に揮毫を請うとある。あなたは、どの様に読みますか?
2011年10月10日
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? 第二の不思議「万松園」の名付け人は誰かやがて松林の中に和洋折衷の住居が建ち、伊藤博文によって「万松園」と名付けられた。とある「万松園」の名付け人は、伊藤博文なのか?山口玲子著小説「女優貞奴」第5章 女優開眼文中156頁~157頁、に伊藤博文によって「万松園」と名付けられた。とある果たして真意は如何か。1902年明治35年10月27日発行の太平洋第3巻43号では、「川上は茅ヶ崎の海岸、砂白く松青き地を卜(ボク)して居を定めた。「萬松園」と名じたのである」とあり、命名したのは音二郎自身である。さらに行中には「川上が用事が有って上京しての帰途。汽車の一等室内で伊藤公爵の大磯に帰るのと偶然にも会った。」その後、伊藤お気に入りの箱根環翆楼で音二郎は、伊藤博文に五つの書を乞う。「「隴畝秋高弧鶴擧」、「松林月上畝龍横」、「萬松園」と揮毫し、揮毫は春畝山人とした。又「萬松園」と大書したのには滄浪閣主人と記された。最後に「芸林隠逸」=「川上逸史屬」=博文の揮毫を乞うた。」とあり、川上が伊藤に「書を乞う」描写は描かれているものの名付けたとは記されていないようだ。
2011年10月09日
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小説 『霙』(みぞれ)朗読会明治36年当時の風景が朗読でよみがえる日時 2011年10月23日(日) 14:00~16 :00会場 茅ヶ崎市立図書館 第一会議室朗読 山口佳子 定員 50名 料金 無料小展示 音貞のいた茅ヶ崎風景10月22日(土)~30日(日) 茅ヶ崎市立図書館2階通路 24日(月)休館明治35年欧州巡業から帰国した川上音二郎・貞奴夫婦は現在の茅ヶ崎市美術館のある高砂緑地に居を構え、ここ茅ヶ崎で小説家江見水蔭翻案による「オセロ」の稽古を行いました。同じ江見水蔭による『霙』はこの時の事を当時の茅ヶ崎の風景を描きながら、音二郎・貞奴と水蔭並びに永井荷風の二番目の妻藤蔭静枝との人間模様を小説にしたものです。主催:川上音二郎没後100年・川上貞奴生誕140年記念事業実行委員会
2011年10月07日
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日清戦争時に「恤兵事業」として「団餅」を「千樽」献納し、当時は新聞記事となった。「滋強丸」を発売。「目薬」の「一点水」を発売。http://blog.goo.ne.jp/987sigure/e/b0d7c800178d77bc6470afed3baa4304には「いかなる目病でも一夜に治る。無効時返金」とある。京浜に5~6の支店。広告費用は毎年6~7千円、川上の舞台への出場希望も広告効果があるか?全5巻の本書(「傑伝」)に採録される「実業人」であった。 全5巻の本書(「傑伝」)に採録される「実業人」であった。茅ヶ崎市立図書館 明治大正昭和横浜人名録 1910年明治43・1925年大正14年・1936年昭和11年日本図書センター 1989年平成1年「吉永禮二」「吉永恒」(大正編)、「吉永仁蔵」は「吉永良延」の縁者 関東学院大学図書館人的事業大系 化學工業篇(下)項目名:磐城セメント株式會社1942昭和17年2月30日発行 著作兼発行者:松下傅吉2003平成15)年10月 日本図書センター「吉永仁蔵」は「吉永良延」の縁者、当社「相談役」が博文館の大橋新太郎である(p171,p174)。当社「二代社長」「岩崎清七」(p168)は「福沢桃介」と「日清紡績を創立」(p171)している。吉永良延と川上夫妻が強力な縁者であることが以上のことで理解出来る。現時点では、茅ヶ崎美術館館長小川稔氏調査「文藝倶楽部第9巻9号」明治36年7月の出展発見には次のように記されている。「川上が茅ヶ崎に別荘を卜したるは、堀越の向こうを張るという強ち野心の有しにもあらず。かの洋行帰りの当時より計画の俳優学校設立については同校維持の手段として川上は牧畜を貞奴は養蚕を励みその得る処にて学生を仕立てんという心からなるべく地面の広き処をと心掛けの最中、川上とは意気相投じて結ぶ友垣の名物男、滋強丸の主人吉永良延の別荘が茅ヶ崎に在る処より、然らば僕も茅ヶ崎に極めべしと、三千坪からの松林を買求めて伊藤候から「萬松園」との命名を受け新築之家屋は、和洋折衷、豚も飼えば鶏も養い、蚕も少なからず手にかけるという飽くまで変った世の渡り方」「文藝倶楽部第9巻9号」1903年明治36年7月より、
2011年10月05日
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国立公文書館アジア歴史資料センター吉永良延外2名より 横浜恤兵団(じゅうへいだん)より在外軍隊へ切餅献納の件1895年明治28年1月「吉永良延」は1895年明治28年に横浜市野毛町245番地にいた。横浜恤兵団は1895年明治28年解散(横浜開港資料館『横浜関係人物図書目録』1994年p58『横浜恤兵会報告書』の解説)東海大学中央図書館「滋強丸」の主人が川上一座に出勤(『都新聞』)1903年明治36年2月3日『都新聞』は『東京新聞』の前身のひとつ「新世界新聞社」の「社主」で「滋強丸」の「主人」の「吉永良延」が川上一座の明治座の興行に出る予定、江見水蔭翻案の「オセロ」の台本が発表された『文芸倶楽部』1903年明治36年2月の末尾の「予定」にも「吉永良延」の名がある。東海大学11号館図書館広田三郎『実業人傑伝』実業人傑伝編輯所1895年明治28年~1898年明治31年 所収:『明治実業家伝記集成(第一巻)』立体社、1984年昭和59年。「タイガー商会」の経営(この文献は1897年明治30年11月の発行、父親は幕府の武士「吉永良正」。1866年慶応2年8月、横浜野毛の父の官邸の生まれ「野毛」は現在の横浜市中区野毛町「絵画」は「独修」して「東洋絵画共進会」で三等1877年明治10年、父が没する。父は横浜野毛町で商売「兄弟姉妹」なし。後に、神奈川県庁に就職し、庶務課、会計課、勧業課に勤める。神奈川県庁勤務中に「文学雑誌」を編集し、「地方施政」を論じ、「上官の忌諱に触れ」、1889年明治22年辞表を「沖守固」(おき・もりかた)に出す。沖守固(1841-1912)は官僚。辞表の提出先としては形式上のものにすぎず、誇張表現の可能性あり。「一年有余」の後、「千種園」という雑誌を発行し、「教育、経済、農業の奨励」をし、「横浜の風土・人情・時事問題」を論じ、「禁止、抑留」されること数回。「千種園」は横浜開港資料館に架蔵あり。同ホームペイジは「発行禁止」としている。「官報」を元データとした斎藤昌三『現代筆禍文献大年表』は禁止理由を出版条例違反としているが、発行禁止かは不明。発売頒布禁止処分だけか?「横浜仏教会」の幹事となる。「好んで演説壇上に気炎を吐く」「弁舌流麗、議論明晰、能(よ)く聴衆の喝采を博せり」「青年を愛すること子の如く常に養ふ所のもの二三にして止まらず」、「時に資金を供して遊学」させる。
2011年10月01日
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山口玲子氏「女優貞奴」より「「慈強丸」の主人(あるじ)・吉永良延という芝居好き知人の世話で、相模湾に面した茅ヶ崎に、約三千坪の松林を手に入れた。」この小説にある「慈強丸」の主人(あるじ)・吉永良延という芝居好きの人物とは一体何者なのか?文学研究者である水沢不二夫氏出執から国会図書館(近代デジタルライブラリー)1887年明治20年3月に吉永良延編 函嶺塔沢誌が横浜から出版されている。また、「吉永良延」が1887年明治20年に横浜市野毛町二丁目五六番地にいたことがわかった。絵も描き、雅号が「雲嶺」である。所収『神奈川県郷土資料集成(11)』1984年昭和59年。茅ヶ崎市立図書館本館2階にある。開架 Kカナガワ 禁帯出。吉永は「横浜の文化人」「明治十九年夏、当地に止宿した再塔之沢誌編纂を依頼された」(『神奈川県郷土資料集成(11)』の「解題」)国会図書館(近代デジタルライブラリー)吉永良延編 千草叢誌1887年明治20年10月に出版地は横浜、出版者は文友学会。横浜の開港資料館にも複製品あり。国会図書館(近代デジタルライブラリー)吉永良延編 速記之秘術 : 壱ケ月間卒業1888年明治21年11月出版地は横浜。出版者が文友学会、奥付 吉永は「神奈川県士族」住所が「横浜市花咲町三丁目三十五番地」出版者の文友学会の所在地が吉永の住所と同一『千種叢誌』の編者の吉永良延と同一人物であることがわかった。
2011年09月23日
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「萬松園」川上音二郎・貞邸五つの疑問川上音二郎(1864-1911)は、さまざまな職業の遍歴の後、当時の自由民権運動とも連動し、街頭や芝居小屋で政治演説を始め、当時の世相を風刺する「オッペケペー節」は一世を風靡した。その後、芝居の近代化を求め欧米へ。一方、妻貞奴(1871-1946)は、音二郎とともに西洋演劇を参考に芝居の近代化に取り組み、当時、歌舞伎の女形役者が演じていた役を初めて女性として演じたのが貞奴。明治36年、明治座で「オセロ」の上演。貞奴が日本の女優第一号となった。川上夫妻は、茅ヶ崎市美術館が建つ高砂緑地に約100年前に住んでいたと云われている。その自邸「萬松園(ばんしょうえん)」は、日本における本格的な 演劇活動の準備をはじめたところ、貞奴が日本の女優第一号となる覚悟を決め、「オセロ」のヒロイン役を演じるために稽古したところとしても知られている。川上音二郎没後100年・川上貞奴生誕140年記念事業実行委員会案内引用文その「音二郎の家屋敷が何処にあったか?」現在もいまだ未確定である。2011年1月18日、川上音二郎没後100年・川上貞奴生誕140年記念事業実行委員会が設立された。以後(音・貞実行委員会)は、当時を偲ぶ音二郎井戸が佇む緑地の一体何処に当時の建造物があったのか探索チームを結成し、あらゆる資料に基づき捜索を始めた。捜索の開始、資料収集へ 第一の疑問「吉永良延」とはどんな人物なのか小説「女優貞奴」脚注 156頁~157頁、第5章 女優開眼より慈強丸の主人(あるじ)・吉永良延という芝居好き知人の世話で、相模湾に面した茅ヶ崎に、約三千坪の松林を手に入れた。慈強丸の主人(あるじ)・吉永良延とは? 第二の疑問「萬松園」の名付け親やがて松林の中に和洋折衷の住居が建ち、伊藤博文によって「萬松園」と名付けられた。はたして萬松園の名付け親とは?? 第三の疑問、新築の家が帰国後2ヶ月半で建築が可能なのか?高砂下(現美術館)の旧土地台帳登記名は、貞(定)記帳最終名は貞の縁者、幡豆寅之助とは一体誰なのか?また、登記名が音二郎でない理由とは?伊藤町長に宛てた戸籍についての書簡、本籍が南湖にあった理由とは? 第四の疑問、当時のヨーロッパに見られる庭園観に影響か?同時期、平塚に居た村井玄斎の庭園観にも同じ傾向がみられる「萬松園」の姿とは? 第五の疑問、団十郎葬儀の道普請音二郎一行は、どの経路で団十郎を訪ね葬儀に何処を道普請したのだろう?五つの不思議そして、二つの仮説をたてた。第一の仮説、時の村長伊藤里之助は、別荘誘致開発の一端としてやがて不毛の高砂から白砂青松となる別荘体験のできる宿をつくった?第二の仮説、「萬松園」の名付け親は伊藤?
2011年09月17日
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先週の9日(金)は、ボランテアで25年ぶりに四ツ目垣製作。皆、手伝うからと朝から柱立て・・・といっても皆さんは素人なので結局一人ボランテア。覚悟のうえでしたが・・・・ここのところ現場も出て気分がいい。なにせ25年ぶりなので「手が遅い」終わったのが丁度5時。現場が出来て図面が引ける。私たちの年齢ぐらいまでかと思う。これでも技能オリンピックで県知事賞やら技能賞もいただいている。ちょっと自慢(過去形です)しかし常にやっている人には、当然かないません。除幕式です。後ろの四つ目垣が今回のボランテアの成果。それから10月23日(日)に茅ヶ崎図書館にて朗読「霙みぞれ」が行われます。この作者は、江見水蔭といって音二郎・貞奴が演ずるオセロの翻案者。この小説は、美術館主小川氏が探し出してきました。霙は明治35年欧州巡業から帰国した川上音二郎・貞奴夫婦は現在の茅ヶ崎高砂緑地に居を構え、この茅ヶ崎で江見水蔭翻案による「オセロ」の稽古を行います。江見水蔭による『霙』は、この時の事を当時の茅ヶ崎の風景を描きながら、音二郎・貞奴と水蔭並びに永井荷風の二番目の妻、藤蔭静枝との人間模様を小説にしたものです。文学地図この文学地図は、おそらく日本で始めての文学地図だと思います。よくあるのは・・・ 有名作家の文学碑や生誕地地図、これは単なる案内とは違い、明治の茅ヶ崎風景描写を文字として描いている会心の地図です。南湖院での国木田独歩の入院年号が昭和になっています。正しくは、明治40年です。タウンニュース茅ヶ崎版の紹介です。小室編集長ありがとうございます。http://www.townnews.co.jp/0603/2011/09/09/117103.html
2011年09月15日
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さて、月も改まったので・・・・この回から茅ヶ崎にちなんだ近代史にふれていこうと思います。9月10日からは、茅ヶ崎美術館にて「川上音二郎・貞奴展」が開催される。実行委員会組織からマニアックな音・貞を発掘してみた。一部では「下衆の勘繰り」ともいわれてしまうかもしれない。そこは、論文ではなくブログなのでご批判もご容赦ください。まずは、川上音二郎・貞奴とは川上音二郎(1864-1911)は、さまざまな職業の遍歴の後、当時の自由民権運動とも連動し、街頭や芝居小屋で政治演説を始め、当時の世相を風刺する「オッペケペー節」は一世を風靡した。その後、芝居の近代化を求め欧米へ。一方、妻貞奴(1871-1946)は、音二郎とともに西洋演劇を参考に芝居の近代化に取り組み、当時、歌舞伎の女形役者が演じていた役を初めて女性として演じたのが貞奴。明治36年、明治座で「オセロ」の上演。貞奴が日本の女優第一号となった。川上夫妻は、茅ヶ崎市美術館が建つ高砂緑地に約100年前に住んでいたと云われている。その自邸「萬松園(ばんしょうえん)」は、日本における本格的な 演劇活動の準備をはじめたところ、貞奴が日本の女優第一号となる覚悟を決め、「オセロ」のヒロイン役を演じるために稽古したところとしても知られている。川上音二郎没後100年・川上貞奴生誕140年記念事業実行委員会案内引用文こちらをコピーしてクイックすると川上音二郎・貞奴が凡そどんな行動をしていたかつかめます。http://www.chi-bunkei.net/otosada/index.html以上は、茅ヶ崎美術館小川館長の解説が中心となっています。なのでこれからこのブログに書く内容は、茅ヶ崎での出来事を主に書いていこうと思っています。
2011年09月01日
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私は至急性のない本は、新刊を購入していないので古本を購入することにしている。なので雑誌『庭』は、タイムリーな情報が入ってこない。NO198号は、庭師道具「剪定鋏」であった。剪定鋏のA型(鋳物)B型(鍛造)の違いは、以前からわかっていますね。もう少し、剪定鋏についての歴史が知りたかったですね。手鋏については200年、剪定鋏については凡そ150年の歴史でしょうか。情報が少ないせいか調査不足を感じてしまいました。その昔、根切りとして販売されていたものが最近になって葉刈り用の剪定型としてツルが付いて販売されている。ここ、4・5年のことかと思う。根切り用の鋏を使っていたらもっと昔から使われていたと思われ、岡恒という鋳物の鋏が出来て以来、これはかなり革新的な形状だといえます。残念だったのが国治の鋏、やはりお華鋏でした。立派なお華鋏です。箱書きも国治作園芸鋏と書いてあり植木鋏とは書いていません。販売店が勝手に植木鋏と書き、それが好いと思いそれを購入してしまっただけの事、クドクドいいません。実用的な鋏でないことがよく判りました。
2011年08月11日
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剪定鋏剪定鋏の歴史をひも解く前に、剪定鋏がどうやって日本に入って来たかを考証してみよう。まず、本格的な農産物生産の取り組み方針のうえ、リンゴとブドウ生産が官設農場としてこの日本にもたらされた。その際、海外から専門家を招致し、技術習得のため留学が交わされ、海外の剪定鋏がモデルとして国内生産に引き継がれてきた。剪定鋏の特徴は、2種類ある。一つは、ドイツSOLIGEN(ゾリンゲン)型、これは、リンゴ栽培導入時、ドイツ人技師の招致から鋏も影響された可能性もある。リンゴが日本に渡来したのは、平安時代中期(900年頃)とされ、野生種であったという。食用リンゴが普及したのは、アメリカから75品種を輸入、苗木を全国に配布した明治4年(1871年)以降。その後市場に出ているのは30品種。初栽培は青森と思われがちだが、北海道函館市に隣接する小さな町七重村(現:七飯町)が初栽培の地。明治元年にドイツ人の農業指導者R.ガルトネルが “七重村農場”を開設、翌年(明治2年)には母国から取り寄せた苗木を植え付けた。これこそが日本における最初の栽培といわれています。リンゴに関してhttp://www.ringomuseum.com/工藤農園ならびに「薬師堂国定」三国剪定鋏製作所のネットでは、このように紹介されている。はじめて剪定鋏が売り出されたのは明治35年(1902年)で、三遠農学社がフランスの園用鋏をもとに作ったものとされている。「薬師堂国定」三国剪定鋏製作所http://www2.ocn.ne.jp/~mikuni/工藤農園http://kudofarm.el2.jp/feature/apple/tools/001/よりだとすればワインづくりの際、ブドウ栽培の技術習得よりフランス留学によって影響された鋏の可能性が高い。しかし、フランスに老舗の鋏メーカーが見当たらない。フランス周辺だとドイツ、イギリスからフランスに渡ったのであろうか。それともバルト海沿岸工業国スェーデン鋼を産出している関係上スェーデンからフランスに渡来したものなのだろうか。これらに比べるとスイスFELCO(フェルコ)の剪定鋏は1945年製造なので、比較的新しいので除外するとイギリスかドイツになる。スエーデンBAHCO(バーコ)社は、130年以上の歴史がある会社で1888年に創立されている。工具でおなじみのモンキーレンチを発明し特許を取得した会社であるがフランスとの地理的な距離をみるとすぐにフランスに渡ったとは思えない。やはり、フランスに隣接するドイツからの流入経路と考えることが自然であろう。となると同じドイツからゾーリンゲン型とヘンケルス型が日本にもたらされた。イギリス、スイス、スェーデンの剪定鋏の多くは、ヘンケルス型の形状は共通点を見る。ちなみに岡恒の剪定鋏は、ヘンケル型。ヘンケル型 剪定鋏(プルーマン)ゾーリンゲンとは、日本でいうと「大阪堺の刃物」というように地名を示し、ヘンケルスは、堺の「佐助」というように突出したメーカーといった関係になる。つまり、ゾーリンゲンは、普及版という捉え方になるのだろうか。「薬師堂国定」(三国剪定鋏製作所、南津軽郡大鰐町)http://www2.ocn.ne.jp/~mikuni/history.htmlこの薬師堂初代三國定吉の剪定鋏をみるとゾーリンゲン型であったといえる。もう一つ忘れてはならないのがバラ栽培であろう。バラ栽培に付き物なのがバラの剪定である。このバラの剪定に使われた剪定鋏が一体どの様な鋏であったのか。当時、鋏の書として数少ない書物である昭和62年発行の「鋏読本」にも記されていない。
2011年07月23日
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花屋鋏とキリバシ花屋鋏とキリバシは、ほぼ形状が同じであるが目的が異なる。キリバシの足先は、花屋鋏より少々肉薄になっている。画像左は、先代の大隈製キリバシ、右側ズンギリの花屋鋏。それでは、キリバシにツル手が無いことの利点は何か?大隅氏の三つ折パンフレットにはキリバシの名称が根切りとなっている。これは掘り取り作業時、狭いところの根切り、余分な土を落とし整形する道具となる。また、移植時に根を巻くときの縄掛けにこのキリバシが都合よかったのだと思われる。通常の鋏では、ツル手巾があり縄通しがしにくい。その他、竹垣の雨直し(竹垣の縦入り)、クリ針通し時の挿し込み、そして枝抜きと鋏一つでこれだけの働きがあり、万能鋏といえる。左 先代大隈製のキリバシ全景と「京」の刻印 右 天地之心花屋鋏画像大隈製キリバシ、花屋鋏は、ズンギリの別名も持つ。足先は、ワラビの形ではなく「ずんぎり」になっているのが特徴であり、用途は花茎の切断が目的なので打ち当る部分は焼きが甘い。酷使すると足部分が変形し、刃先が開くようになる。花屋鋏の中にも8寸245ミリの花屋鋏の足の太さは9ミリ、先ず変形することはない。7寸210ミリの花屋鋏は、足部分に焼きが入っているので実践向きだ。左からズンギリの花屋鋏。225、245、215、200ミリ 225ミリ 245ミリ 215ミリ 200ミリ
2011年07月18日
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手入れの対象物によって鋏の形状が異なるとすれば顕著に異なるキリバシは、どの様な道具として訴求されたのだろうか。キリバシの原型ははり華道鋏。だが、刃の部分を良く見ていただこう。華鋏の刃先を揃えるよう意識しているため軸中心から10度ほど斜めになる。それは、華鋏なので使用頻度が低いために正当化されている。かたやキリバシは、どうであろう。通常手入れでの開閉頻度は、華鋏の比ではない。先端のアワセリ「合う競り(アワセリもしくはアセリ)」が大きく、刃は軸に対して垂直に出来ている。また全長が華鋏に比べ1.25倍あり、せん断能力が高まる要素といえる。キリバシの特長で忘れてならないのは、打ち当り部分まで焼が入っていること。キリバシが華道鋏から進化したものとすれば次は握り手を支えるツル足が付いたことも進化の現われかと思う。なを、華道鋏池坊の足部分をワラビ手植木屋鋏の足をツル手という。当時、南蛮といわれた鋏の原型は、中国の鋏がモデルであれば華鋏と中国の鋏、もしくは、種子島鋏の影響か、いずれにしてもツル手や指輪が付いた進化説も考えられる。
2011年07月12日
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先週、節電のため薄暗くした事務所でちょっと避けたつもりがサンダル履きでこけました。「パキ」っと乾いた音。最初は、捻挫かなと思ってそのまま打ち合わせ出発。ここのお宅の打ち合わせは、昼食なしで6時間いつものように終わって帰り道。ドンドン痛くなってしばらく横に・・・・・・・どうしょう。明日久しぶりに手入れするお宅があるのにその日に連絡、来週に延期してもらった。ちょっと心配になって病院にいったら完璧に折れてます。(-。-;)初めての骨折。とりあえず治るまで1か月半、8月は関西への旅も計画したていたのに(´_`。)残念。
2011年07月10日
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植木鋏建築資料社から当時発行された1982年-9「庭」別冊27号に紹介された京鋏大覚寺の鋏がツル手であるのに「ワラビ手」と紹介され、大隅氏がいるにもかかわらず鋏鍛冶が大覚寺だけのような紹介をされている。京都は庭園文化の代名詞ではあるが程近い大阪には既に刃物の堺の存在があり、兵庫には播州三木がある。現在既知である京鋏「大覚寺」「安広」以前に1960年代まで現存していたという「口清」、しかも京鋏を開発した鋏鍛冶が居た事を私たちは忘れてはならない。1970年代後半から80年代当時の事なので情報の不備は否めない。しかしあれから30年が経った現在では、当事者も現存しない状況もあり正確な記録を出来るだけ速やかに記録することが急務といえる。植木鋏の定義とは何だろうか。樹木の枝葉や植物のスケール、地域の手入れの方法によってその形状が異なることは当然のこと。鋏の形状は、大きく分けて6タイプに分けられる。上左から京鋏、津島鋏、左下部分堺市松鋏、堺佐助、大久保鋏、キリバシ。
2011年06月25日
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盆栽鋏1978年昭和53年7月1日建築資料社発行の『目でみる植木バサミのすべて』は、今から33年前に発行されたこの書籍、監修が加藤園芸刃物、川澄昌国、木屋のアドバイスであり、どちらかというと関西の鋏が紹介されていないので全国的にみてもかなりバランスがわるい。しかも鋏足部分がワラビ手と記されている。ワラビ手、ツル手の判断が曖昧で誤りがある。『目でみる植木バサミのすべて』は、木鋏と盆栽鋏の違いを次ぎの様に説明している。「大久保鋏型のような標準タイプと盆栽ハサミの違いはどこにあるかといいますと、上の写真のように刃とワラビ手の部分のつくりなのです。」このなかでワラビ手(ツル手)が木バサミと盆栽ハサミに比べて肩が下がっていることと説明されている。この理論だとすでにワラビ手(ツル手)が津島型のような形であった場合、津島型の鋏が盆栽ハサミになってしまう。いったい何を根拠にこの違いを提示されたのか、この当時の情報収集や監修に少々偏りがあることがわかる。盆栽道具には、夫々の場面で道具の使い方がある。理論的に盆栽ハサミは、木鋏に比べて大きな鋏でなくともよい。肩から下がっていることで刃先に近い指が邪魔にならない形になるのは必然的に理解できる。
2011年06月17日
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鋏のかたち植物に対する鋏の種類には華鋏、盆栽鋏、植木鋏がある。基本的に華鋏とはどの様な形状なのだろうか。代表的な華鋏は、池坊鋏がある。池坊鋏、未生流の特徴的な部分は、作用点となる部分の末端がくるりと巻いたワラビ手。松月堂鋏の様に指が入る指輪タイプ。古流のようにツル手タイプがある。1、 池坊鋏、未生流の特徴は、ワラビ手2、 松月堂鋏は、指輪3、 古流鋏は、ツル手4、 その他、花屋鋏ズンギリ 画像は、京都老舗の池坊鋏。この華鋏の特徴が盆栽鋏、植木鋏と大きく違う処は足先だけではなく、刃の部分が異なる。刃の先端が合わさる部分をアワセリ(合わ競り)というが華鋏の場合、この老舗では、ぴたりと合っていないと評価されない。らしい(老舗談)。先代の京都大隈安広氏は、華道に精通した方だと聞いている。そこで植木鋏のように華鋏の先端部分アワセリが浅いのは何故なのか伺ってみた。それは、使われる頻度が違うということ。大隈氏で購入された裏隙華道鋏は、先ず修理や砥ぎには戻ってこないという。それだけ植木鋏と比べ使用頻度が低いことがわかる。
2011年05月31日
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続いてこちら菊勇この鋏は、25年前購入したもので東京菊勇という刻印があった。菊勇は彫刻刀で名が通っている。形状は、東京のメーカーにしては当時めずらしい津島型。なので、大隅氏の鋏の原理を探るためもあり、いたずらに「つる手」を大隈氏の持ち手のように打ち変えてみた。このように自ら「ねじり」を入れたのは、おそらく私だけだと思う。叩いて解ったことだが、ここを叩くと「あわ競り」(あわせり・あせり)が深くなることが解る。これは、肩内側を打つ事によって刃先が内側に向いてくる性質を利用したもの。大隅氏の「あせり」が大きい理由はここにあるのだ。この鋏に先日大隅氏に裏隙と砥ぎの修理をお願いした。これから赤錆を付けて黒錆に転化する作業の進行中です。
2011年05月24日
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京鋏のルーツが「くせい=口清」の鋏である事が解った。では、それまでの鋏はいったいどの様な鋏を使っていたか、消耗品である鋏なので現在の状況では知る由も無い。はたして京都近隣の兵庫、堺、三条からもたらされたものなのか、もしくは、この京都で打たれたものなのか。過日、京都の老舗金物店より購入した華鋏には裏隙が無い。もし、この裏隙技術が「くせい=口清」でもたらされたものならば今後いずれの鋏にも取り入れられる技術となるだろう。2011年4月、京都大隅氏に裏隙の加工修理をお願いしていた鋏が戻ってきた。あの亀のような鋏、市松鋏は、購入先が砥ぎ師のリサイクル品で購入した時はハマグリ刃であった。ハマグリ刃は刃こぼれやアクが付きにくいのが利点である。鉈のように枝打ちする際、むしろ逃げ切れしても切り放ちを重視した場合切る対象物によっては有効だ。しかし、紙や細いものを切るには最適な刃になっていても5ミリ程度の枝を切ろうとしても逃げて切れない。かなりの抵抗感がありハマグリ刃は枝摘みには適してはいない。刈り込み鋏みの様に、力点から支点までが長く作用点が小さい場合であれば葉刈りには都合がよい。今回は、この市松鋏に裏隙をつくってフラットに砥ぎ直しをして頂いた。そのため堺市松の刻印が消えてしまう。
2011年05月16日
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岡恒の四光岡恒のABCDの四光を揃えた岡恒のABCDの四光を揃えた。かといって何かが出てくるわけではないが・・・・ただ、握りが鋳物で出来ているので握り心地がいい。これは、佐助の握り心地に良く似ている。それだけ佐助の仕上げが凄いというこが理解していただけると思う。しかし、良い面もあれば悪い面もある。「岡恒」の悪いところは、ネジ調整は出来るが、癖が付いているため遊び分の調整しか出来ない事と刃が短い事、それに硬いので先端が折れると悲惨だ。しかし「岡恒」の鋏は良く切れるし、握り心地も良い。見極めるのも自分。実際に現場に使えるかどうか、道具だもの名工とかブランドに騙されないように、これからも気をつけて「買わない努力」しなくっちゃ次回は、修理と加工・・・・
2011年05月11日
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「くせい=口清」の鋏についての調査口清鋏京都いのはな夢創園さんの画像1985年昭和58年出版前島康彦著「木鋏」に「口清」の紹介がなされています。「京都下立売七本松に屋号を「口清」という鍛冶がいた。もと刀鍛冶で修行した人だが彼は、勘兵衛という庭師を識り、とも共に枝切り鋏の造りかたを研究した末、ついに成功して勘兵衛型という鋏を打ち、「口清」という銘を入れた。この鋏、枝わはさんでいる間に二枚の刃が自然に合い、刃と刃との擦れ合いで自然にとがれてゆくという名品である。」とあります。これが京鋏のルーツであることが解ってきました。「刃と刃との擦れ合いで自然にとがれてゆくという」これは、どういうことかというと「裏隙」の技術が発達したのだと推測される。つまりこの裏隙は、砥石との関係が深く影響していると考えられます。京鋏の製作過程の特徴から初期の頃は砥石が使われそれが、機械化に移行していったのではないかと思われます。この件についてネットに「くせい=口清」の鋏が紹介されていました。京都の庭師である夢創園さんの猪鼻さんです。夢創園のブログによると・・・・以下猪鼻さんのコメントです。「夢創園のブログに載せていた口清は、親方が20歳のころ打ってもらった鋏ですので45年ほど前かと思います。値段はその頃の職人の一人手間だったらしいです、かなりの名人だったらしく打ってもらうのに何度も何度も店に通ったと言っておりました。鋏にSTと彫られているものはその当時希少だったスエーデン鋼が使われていたらしく、口清の大将の自慢だったらしいです。これは三条東山にある道具屋坪田の親父さんに聞いたのですが、口清を真似て大覚などの鋏ができたらしいです、その他、口清にも上と彫られたものは後期に造られたもの」先般、大隈さんに伺った話しですが・・・「うちは、それ程古くから打ってはいないんです。」とおっしゃっておりました。ということは、坪田の親父さんに聞いたように「口清」があまりにも需要過多になったため「大覚」や「安広」が試行錯誤のうえリクエストで造る様になった。と捉えるのが自然のようだ。45年ほど前ということは、1966年東京オリンピックの2年後。この頃の日本は、戦後(1945年)の混乱から昭和40年代の高度成長期に突入している。これからさかのぼると1966年以前のもので「上」と刻印されたものは後期の造り。一代で築き上げた技術であれば戦前創業で30年から40年の就業年数。40年の就業であれば1926年の大正15年。就業30年であれば1936年で昭和11年が創始となる。以上は、単純な推測と想像上のものです。もし、ご存知の方や情報があれば是非お知らせください。今回は、解っていることはここまで。この先は、改めて砥石、金剛砂、機械化(電化)に関ることが予測されるので再び調査を進めたいと思います。
2011年05月03日
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先週は、大阪、京都。雨の大阪もよかったですね。恥ずかしながらはじめての大阪城です。実は、鋏友達に会う為、急遽出立を決めました。かなり迷惑でした。でも、またいい鋏を手に入れました。「正定」です。お友達です。河内長野市です。そして、河内刈りもうちょっと寄りましたこの地域独特の手入れです。葉が刈られています。お泊りは、難波です。雨でも繁華街は、人が出てにぎやかでしたね。翌日は、京都。京都御所の一般公開日でした。桜の咲く一番いい季節の御所でした。それでも今年は、半分ほどの参拝だと聞きました。御池です。その後は、知恩院、円山、八坂の花見。安心しました。素直に花見を楽しんでいます。和やかな雰囲気です。なんだか元気をもらった感じです。このところ、自粛で祭りが中止されています。この茅ヶ崎でも大岡越前祭が中止されました。こんなことでいいんでしょうか?もっと違う方法で開催してもよかったのではないでしょうか?刃物神社です。実は、打ち刃物で老舗に行ってきました。ちょっとガッカリな鋏もあります。皆さんちゃんとリサーチしてから行きましょう。
2011年04月17日
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左から平 行 刈り込み鋏 180ミリ 6寸刃堺太助 刈り込み鋏 165ミリ 5寸刃堺佐助 刈り込み鋏 180ミリ 6寸刃平 孝行プロフィール:S,27生まれ 17歳で父、孝助師に弟子入り。刃物の鍛造技術を習得する。34歳で、刃物品評会に出品、最高賞を獲得する。42歳 で、盆栽の最高展の国風展(盆栽展)で植木鋏、盆栽鋏の最高の評価を得る。現在、手作りの技術を受け継いでいる数少ない鋏職人のひとりとされている。関東では、あまり馴染のない型。京都ではダルマ、堺佐助ではひょうたん型。その他、山型といわれる三角形の形をした刈り込み鋏だ。山型を除くダルマ、ひょうたん型が関東で見かけないのは、三条あたりでコピーするにもコスト面で対応出来ない形なのかもしれない。この関東で馴染み深いのは、やはり地蔵型。この地蔵型でも股巾に「西型」といわれる肩巾の狭い刈り込みがある。柄を握ったとき、両握の指があたらない最小巾になっている。一方、東型の地蔵型は、肩幅の大きい刈り込みが多く見られる。股巾が大きいということは、かなり胸筋を使い開閉時間が掛かるが刃先が長ければ大刈り込みには向いている道具といえる。京都の刈り込みには、ダルマ型、カエル又がある。ダルマは葉刈り、カエル又はサンゴ樹のような葉の大きい刈り込み、ツマミ込みの連続作業を目的にした刈り込み鋏。
2011年04月04日
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一昨年、24年ぶりに兄の手伝いで半月程手入れを手伝った。60になったら「植木屋」に戻ろうかと、いつも思っていた。だから、いつでも「植木屋」に戻れると思っていた・・・・。が、今回は、松の葉むしりとは違い、枝落しがメインの仕事。10メートルものの松が9本、同じく10メートルものの楠が9本ぅ~ん なめてましたね。かなり筋肉痛に悩まされる。新しい鋏だけど「切り透かし」なので相変わらず、バシバシ鋏を使っていたら・・・この通り、使い方は、少々荒っぽい。3月11日地震のあの日は、楠の野透かしが終わり軽トラに下ろした枝の積み込み作業中だった。なにせ50パーセントは、下ろしているので1.5トン分の積み込みでした。250キロ6台分。ぐら・・ぐらぐら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ながーい。一瞬「めまいかと」思った。庭の中なので基本的には、怖くなかった。その日のニュースは、津波によって総てが奪われて行く津波映像が流れていた。神戸の時は、圧倒的に「圧死」今回は、津波の被害。TUNAMIは、怖い!! 今わたしにできること使っていない電化製品のコンセントは抜いておこう災害時の連絡方法を決めておこう必要がないのに買うのはやめよう被災地の人の気持ちを考えようデマに惑わされるのはやめよう無駄なメール、電話はやめようみんなでやれば大きな力に 積み込み配車後、津波が怖いのでお隣とこのお宅のご家族は、夕刻まで非難して誰も居なかった。とほほ・・・さて、先週から「計画停電」の過ごし方は、「砥」だ。3時間もある。久々の「砥ぎ」に入り、「墨を磨るが如く」ん~ 落ち着く。至高のひと時だ。何よりも変えがたい時間。折れた剣先を整え・・・・・荒砥で好みの刃角をつくる・・・・・中砥で落ち着かせる。・・・・・1000番の仕上げで磨りならして3000番で磨く・・・・
2011年03月23日
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