《違いをもたらす40日 第26日目》

礼拝とは、
日曜日に教会という建物に行って
小一時間ほどイスに座って
プログラムをこなすことではありません。
礼拝とは、
心を尽くして
神様の喜びのために
あなた自身の
人生を捧げること
です。
聖書のローマ12:1はこのように言っています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい
。
これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)
多くのクリスチャンは
礼拝について
大きな 勘違い
をしています。
それは、
「 礼拝とは、
教会が
わたしのためにしてくれるものだ
」
という勘違いです。
このような礼拝に対する捉え方は
芋づる式
に
さらに 無数の勘違い
を生み出します。
例えば、
「 わたしが礼拝しなくても、教会がしておいてくれるだろう
」
「 わたしが祈らなくても、教会が祈ってくれるはず
」
「 わたしが献金しなくても、教会が満たしてくれるさ
」
「 わたしが奉仕しなくても、教会は奉仕しなきゃ
」
「 わたしが参加しなくても、教会が運営してくれるでしょう
」
「 わたしが伝道しなくても、教会は伝道すべきだ
」
「 わたしが行かなくても、みんながしてくれるから
」
などなど・・・
教会、とは誰でしょうか。
聖書では教会を エクレシアー
と言います。
その意味は、「 呼び集められた者たちの群れ
」です。
つまり、教会とは建物やプログラムを指すのではなく
主イエス・キリストの恵みに招かれて集められた
一人一人を指す
のです。
そうです。
教会、とは
「あなた」のこと
です。
主の恵みによって
救いにあずかり、
あなたの神の家族の一員とされました。
また、キリストの体の一部分とされたのです。
言い換えるならば、
あなたがそこにいて初めて、
教会は教会とされる
のです。
その教会をこの地に建てるために
主イエスは、 「わたしは...わたしの教会を建てる。」(マタイ16:18)
と宣言し、
十字架で命を捧げてくださいました。
つまり、
あなたの礼拝は、
あなた以外の誰も
代理で捧げることはできません。
あなた自身が
全能なる神の
御前に進み出るのです。
旧約聖書の時代、
神殿の聖所では、
祭司たちがイスラエルの民の 代表として
礼拝を捧げ
ていました。
また、
聖所には大きな垂れ幕があり、
その向こう側の「至聖所」には
年に一度だけ、大祭司が入ることが許され
いけにえの動物の血を祭壇に振りかけて
イスラエルの民の罪をあがなう儀式をし
代表で礼拝を捧げて
いました。
しかし、
わたしたちの大祭司イエス・キリストが
十字架で息を引取る直前に、
地震が起こり、神殿は崩れ
その 至聖所の垂れ幕が真っ二つに裂けた
のです。
そのことをヘブル9:11-12はこのように説明しています。
「けれども、キリストは、既に実現している 恵みの大祭司としておいでになった
のですから、
人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、
更に大きく、 更に完全な幕屋を通り
、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、
御自身の血によって、ただ一度聖所に入って
永遠の贖いを成し遂げられた
のです。(ヘブル9:11-12)
イエス・キリストは
ただ一度だけ、
罪のあがなういけにえとして
尊い血潮を流してくださり、
永遠のゆるしと救いを与え
罪人と神との隔ての壁を取り壊し
取り成し手
となってくださいました。
このようにして、
誰か偉い人が
代表でいけにえを捧げる儀式をしなくとも、
イエス・キリストを通して
あなた自身が
自分の足で
神様の前に進み出て、
あなた自身の礼拝を
捧げることができる特権が
驚くべき恵みとして与えられている
のです。
御子イエスの命が
あなたのために犠牲になりました。
父なる神様は、ある一つの事を願って、
そのふところにいた独り子を遣わしてくださいました。
その願いとはこれです。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
今がその時である。なぜなら、 父はこのように礼拝する者を求めておられる
からだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、
霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:23-24)
このようにして、
父なる神様は
あなたが真実の礼拝者となることを
いつも願い、
忍耐をもって待ち望んでおられるのです。
今、あなたに与えれられている
その最高の特権を
大胆に用いるべきです。
「わたしたちは 主キリストに結ばれ
ており、
キリストに対する信仰により、確信をもって、
大胆に神に近づくことができます
。」(エペソ3・12)
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