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家督相続・越後統一 天文14年(1545年)10月、守護上杉家の老臣で黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こした。 秀忠は守護代・晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害、その後黒滝城に立て籠もった。 景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として軍の指揮を執り、秀忠を降伏させた(黒滝城の戦い)。 だが、翌年の天文15年(1546年)2月、秀忠が再び兵を挙げるに及び再び攻め寄せて攻撃を加え、二度は許さず黒田氏を滅ぼした。 するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。 天文17年(1548年)になると、晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになる。その中心的役割を担ったのは揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と、北信濃の豪族で景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼であった。 さらに栃尾城にあって景虎を補佐する本庄実乃、景虎の母・虎御前の実家である栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、与板城主・直江実綱、三条城主・山吉行盛らが協調し、景虎派を形成した。これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景についた。 同年12月30日、守護・上杉定実の調停のもと、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となる。 天文19年(1550年)2月、定実が後継者を遺さずに死去したため、景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、越後国主としての地位を認められた。 同年12月、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。不満の原因は景虎が越後国主となったことで、晴景を推していた政景の立場が苦しくなったこと、そして長年に亘り上田長尾家と対立関係にあった古志長尾家が、景虎を支持してきたために発言力が増してきたことであった。 天文20年(1551年)1月、景虎は政景方の発智長芳(ほっち ながよし)の居城・板木城を攻撃し、これに勝利。 さらに同年8月、坂戸城を包囲することで、これを鎮圧した(坂戸城の戦い)。降伏した政景は景虎の姉・仙桃院の夫であったこと等から助命され、以降は景虎の重臣として重きをなす。 政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳で越後統一を成し遂げたのである。 一方で上田長尾家と古志長尾家の敵対関係は根深く残り、後の御館の乱において、上田長尾家は政景の実子である上杉景勝に、古志長尾家は上杉景虎に加担した。その結果、敗れた古志長尾家は滅亡するに至った。 第一次〜第三次川中島の戦い 天文21年(1552年)1月、関東管領・上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡してきた。景虎は憲政を迎え、御館に住まわせる。これにより氏康と敵対関係となった。8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功する。北条軍を率いる北条幻庵長綱は上野国から撤退、武蔵松山城へ逃れた。なおこの年の4月23日、従五位下弾正少弼に叙任される。 同年、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が景虎に救いを求めてくる。 さらに翌・天文22年(1553年)4月、信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、景虎に援軍を要請した。義清は景虎に援軍を与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣、同月に武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を村上領から駆逐し、葛尾城も奪還する。 しかし一端兵を引いた晴信軍だったが、7月に再度晴信自ら大軍の指揮を執って村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国へ逃亡。ここに及んで景虎は晴信討伐を決意し、ついに8月、自ら軍の指揮を執り信濃国に出陣。 30日、布施の戦いで晴信軍の先鋒を圧倒、これを撃破する。9月1日には八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻し荒砥城・青柳城・虚空蔵山城等、武田方の諸城を攻め落とした。 これに対し晴信は本陣を塩田城に置き決戦を避けたため、上洛の予定があった景虎は深追いをせず、9月に越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。 天文22年(1553年)9月、初めての上洛を果たし、後奈良天皇および将軍・足利義輝に拝謁している。京で参内して後奈良天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。 この上洛時に堺を遊覧し、高野山を詣で、京へ戻って臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九(てつしゅうそうく)のもとに参禅して受戒し「宗心」の戒名を授けられた。 天文23年(1554年)、家臣の北条高広が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣して高広の居城・北条城を包囲し、これを鎮圧した(北条城の戦い)。高広は帰参を許される。 この間、晴信は善光寺別当栗田鶴寿を味方につけ旭山城を支配下に置いた。これに対抗するため景虎は同年4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙した(第二次川中島の戦い)。 また、裾花川を挟んで旭山城と相対する葛山城を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制させた。 景虎は、犀川の渡河を試みるなど攻勢をかけたものの、小競り合いに終始して決着はつかず。対陣5ヶ月に及び最終的に晴信が景虎に、駿河国の今川義元の仲介のもとで和睦を願い出る。武田方の旭山城を破却し武田が奪った川中島の所領をもとの領主に返すという、景虎側に有利な条件であったため、景虎は和睦を受け入れ軍を引き上げた。 ところが弘治2年(1556年)3月、景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果てたため、突然出家・隠居することを宣言し、同年6月には天室光育に遺書を託し(「歴代古案」)、春日山城をあとに高野山に向かう。しかしその間、晴信に内通した家臣・大熊朝秀が反旗を翻す。天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破る(駒帰の戦い)。
2024年11月21日
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明智軍は必要に応じて駆り出される「遊撃軍団」だったと思われる。一方、荻野直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていた。足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者跡部勝資や長坂光堅、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っている。 〇「安国寺 恵瓊」(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる安国寺恵瓊の名は、住持した寺[ の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。 毛利氏に仕える外交僧として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説だが、異説もある。 出自が安芸武田氏の一族であることは確定しているが、生年・父親には諸説があり、前者は天文6年(1537年)とも天文8年(1539年)ともいわれる。また後者については武田信重(光広)を父とする説と、信重の父である伴繁清を父とする説とが存在する。 東福寺時代 天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家した。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となる。恵心は毛利隆元と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなった。僧としては天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついた。慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力している。このほか方丈寺、霊仙寺といった寺院を再興し、大内義隆が建立した凌雲寺仏殿を安国寺に移築するなどした。 毛利家臣時代 一方、毛利氏が恵心に帰依していた関係から、早くに毛利家に仕える外交僧となる。大友宗麟との多伏口の合戦において博多の町衆に堀70日分の工事を命じるなどの活動が散見される。永禄11年(1568年)の大友家との合戦では恵瓊も従軍し、諸豪族を毛利側の味方とするために渉外を行い貢献した[2]。 元亀2年(1571年)6月には毛利元就の書状を携えて上京し、室町幕府将軍・足利義昭に対して大友家・浦上家・三好家との和議の斡旋を依頼したが、義昭が三好との調停に難色を示し不調に終わった。しかし、翌元亀3年(1572年)には三好を除いた大友・浦上との講和については義昭が了承し、再度上京して10月には大友・浦上両家との和議の斡旋に成功した(『萩藩閥閲録』)。 天正元年(1573年)、織田信長によって京都を追放された義昭はいったん枇杷庄(現京都府城陽市)に退いたが、本願寺顕如らの仲介もあり、三好義継の拠る若江城へ移り、11月5日には和泉国の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この会談には毛利氏使者として恵瓊も参加した。しかし、義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂、このとき、恵瓊は義昭が西国に来ないよう要望している。 天正4年(1576年)に足利義昭が備後国鞆に移ってきたあとも、宇喜多直家と断交し織田信長と結ぶべきと主張していたが受け入れられなかった(『巻子本厳島文書』)。 天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた(備中高松城の戦い)最中に本能寺の変が起き、織田信長が横死した。このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊はその和睦を取りまとめた。 天正11年(1583年)8月22日、毛利輝元の家臣に送った手紙で老母の罹病を理由に恵瓊が境目についての会合に不参加を表明している。公務を投げ出しても母を看取り、その危機を救うのが一般的な当代の母子の実像であった。 また、本能寺の変の事実判明後の7月、講和交渉が再開した際には和睦が成らず毛利家が滅ぼされた時には小早川秀包・吉川広家を秀吉の家臣に取り立ててほしいとも願い出ている。結局、両名を人質として出すことと引き換えに、毛利氏の領国は認められた。恵瓊は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、彼の信任を得た。 秀吉近臣時代 天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛された。このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊は四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられ、天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の位置付となった。恵瓊本人の禄ではないが、安国寺にも天正19年(1591年)1万1,000石の寺領が与えられている。 また、恵瓊は秀吉の側近も兼ねることとなり、天正13年12月7日には九州征伐に先立ち黒田孝高・宮木宗賦とともに大友氏・毛利氏の和睦締結、九州諸将への指示伝達のため九州に派遣されるなどしたほか、秀吉の命令で行なわれた検地、厳島神社の千畳閣など作事の奉行を務めている。武将としても小田原征伐に兵を率いて参陣し、天正18年(1590年)3月には脇坂安治、長宗我部元親と共に清水康英が守る下田城を攻め、1ヶ月の籠城戦の後これを陥落させている。このとき内陸の横川に対して制札を出し、水軍将兵の同地での乱暴狼藉を禁じている。 特に石山本願寺からは信長の動向、その対抗策、返信の要請など緊密に連絡が行き来されていたと思われている。また、直正と弟の幸家は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と救援を要望していた。 6「織田信長からの朱印状」この朱印状は4月13日、信長から矢野弥三郎に宛てた朱印状で、内容は「赤井忠家、赤井直正の罪を「赦免」(ゆるし)し、去年以来より織田方に「一味」した者の身上は異論なく扱い、「当知行」も安堵してするので、明智光秀と相談して益々忠節を尽くすよう」とある。矢野弥三郎はどのような人物か不明であるが丹波国人の1人ではないかと思われている。朱印状には4月13日とのみ書かれており年号については不明であるが、「明智光秀と相談して」という部分から推察して第一次黒井城の戦いから第二次黒井城の戦いの間、天正3年(1575年) - 天正7年(1579年)と思われている。このように信長も第二次黒井城の戦いを前に事前工作をしていた。 〇「朱印状」(しゅいんじょう)とは、日本において(花押の代わりに)朱印が押された公的文書(印判状)のことである。 主に戦国時代から江戸時代にかけて戦国大名・藩主や将軍により発給された。 特に、江戸時代において将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給したものは、領地朱印状とも呼ばれる。 概要 印判状は朱印状・黒印状ともに幼少で花押を記すことが困難であった今川氏親が発給文書に用いたのが最初と言われている。 最古の朱印状は永正9年(1512年)に氏親が西光寺の棟別銭を免除するために発給した文書である。以後、印判状は織田氏・武田氏・上杉氏・北条氏・里見氏など東国の有力戦国大名の間で用いられた。 印判状は民政・軍事両面で多くの公文書発給に迫られた大名領国制の元で花押署記の手間を省く手段として用いられた。朱印・黒印の2種の種別は各大名家によって異なっていたが、使用に区分を設けたかどうかは判明していない。織田信長も公文書に黒印・朱印を用いたが、外交文書などの重要な文書には「天下布武」の4字が入った朱印状を用いたが、黒印状による例もあった。続く豊臣秀吉は朱印のみを用いた。徳川家康は更に楕円形の朱印と四角形の朱印の使い分けを行った。海外貿易を許可する際には後者を押した朱印状を授けたことから、この朱印状を受けて貿易を行った船を朱印船と呼び、後に「朱印船貿易」の呼称が発生する。 家康以来、10万石もしくは四位以上の大名・摂関家及び清華家・大臣家・従一位の公家に対する知行安堵は花押を署記した判物、10万石以下の武士の知行安堵や寺社領の寄進・安堵は朱印状、将軍の私的な書状や軽微な事項では黒印状によって発給された。ただし、初期の頃は例外的な発給も多くあった。後に旗本には朱印状の交付はされなくなり、小規模寺社に対する寄進などには黒印状が用いられるなどの変遷もあり、一定の格式が定まるのは徳川家綱の時代とされている。なお、藩主においても朱印状と黒印状の使い分けが行われていた(朱印状を発給できるのは将軍のみという説は俗説である)。
2024年11月20日
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〇「波多野 秀香」(はたの ひでたか、生年不詳 - 天正7年(1579年))は、安土桃山時代の武将。波多野晴通の三男。二階堂家の家督を継ぎ、二階堂秀香とも名乗っていた。 丹波酒井氏の一族である油井城城主、酒井佐渡守重貞の次男として生まれる。酒井重貞は波多野七組の一人で波多野氏の重臣であった。その後波多野晴通の三男として迎えられ、秀治の義弟となる。 波多野秀治とともに天皇に謁見し、そのときに従五位下を任ぜられた。 第一次黒井城の戦いでは波多野秀香軍は東側に陣取り、明智軍の撃退に貢献した。 八上城合戦では兄・秀治とともに八上城に籠城して、織田氏の家臣・明智光秀軍と戦う。1年半に及ぶ攻防ののちに兄である秀治、秀尚が磔に処される。その後居城である大路城に火を放ち、残兵を率いて自ら総大将となって八上城で二か月間、明智軍の攻撃に耐えた。天正七年八月に城内で討ち死にし、波多野氏は滅亡した。 八上城落城後、秀香の三男である定晴は乳母に連れられて落ち延びた。その末裔はグンゼの創業者の波多野鶴吉である。 〇「波多野 秀尚」(はたの ひでひさ、生年不詳 - 天正7年6月2日(1579年6月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。波多野晴通の次男。名は「ひでなお」とも読む。 兄・秀治とともに八上城に籠城し、織田氏の家臣・明智光秀軍と戦うが1年半に及ぶ攻防の末、降伏。秀治とともに安土に送られ、慈恩寺で磔刑に処せられた。辞世は「おほけなき 空の恵みも 尽きしかど いかで忘れん 仇し人をば」。 · 黒井城の西側:霧山城主波多野秀尚軍· 黒井城の北側:八上城主波多野秀治軍と黒井城の四方に陣取り、黒井城を攻め立てるべく準備が整ったところに、三尾城城主赤井幸家(直正の弟)が明智軍に攻撃をして、これに即応して波多野秀香軍と波多野秀尚軍が西、東より挟撃した。明智軍は体制を整えるべく一旦柏原方面に退却しようとしたが、そこには高見城で赤井忠家が待ち伏せており、明智軍は黒井川に追いやられ逃走した。戦後の状況敗れた光秀は京都に逃げ込み、その後坂本城に帰城した。先の戦いから1か月後、再び戦の準備を整え2月18日に坂本城を出陣し丹波に入国したが、この時はほとんど戦わず短期間で引き揚げてしまった。一方、この戦いで織田軍を破ったことで直正は「丹波の赤鬼」という名を広めた。 5「第二次黒井城の戦いまでの経緯」最初の戦いから約1年半後に再び光秀が黒井城の攻撃を開始するが、この間光秀は畿内を転戦し石山本願寺攻め(天王寺の戦い)、紀州征伐、加賀攻め、信貴山城の戦いなど休む暇もなく戦場を往来、丹波に集中出来る状況ではなかった。 〇「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい)は、天正5年(1577年)10月5日から10月10日にかけて、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城信貴山城で行われた攻城戦。別名「松永久秀討伐戦」とも言われている。 松永久秀は三好長慶の没後は甥の三好義継を擁立し、三好三人衆と三好氏の実権を巡って争ったが、織田信長が上洛するとこれに臣従し、畿内における三人衆との抗争を優位に進め、自身は大和の支配を引き続き任されていた。ところが、室町幕府15代将軍足利義昭が信長と対立し、諸侯に信長討伐を働きかけると義継と共に信長包囲網に加わり、摂津や河内で勢力を振るった。結局この動きは信長に抑えられ義昭は追放、義継は自刃に追い込まれ、久秀は許されたものの、大和の支配権を塙直政に奪われてしまう。 その直政は天正4年(1576年)5月3日、石山合戦で指揮をとるも敗退し討ち取られてしまった。久秀にとって次の守護が誰に決まるのか気になっていたが、信長は久秀の宿敵筒井順慶を守護にすえた。以前の信貴山城の戦いや東大寺大仏殿の戦いでは三好三人衆と対決した相手である。信長の上洛後は両者は同格であったが、守護となったことで立場が変化した。信長としてみれば、久秀は和睦したとはいえ一度裏切っており順慶の守護は当然のことであったが、久秀にとっては当然不服ある措置であり、直後の謀反の大きな原因と考えられている。また、順慶はかつての久秀の支配の重要な拠点であった多聞山城を破却するなど、松永氏の勢力の削減する行動に出たことも、久秀の政治的な危機感を強め、謀反へ向かわせる一因となったと思われる。 翌天正5年(1577年)8月17日、石山本願寺攻めで詰めていた天王寺砦を焼き払い、息子の松永久通を引き連れ信貴山城に立て篭もった。この時「騎馬三百余其勢八千余人」(『和州諸将軍伝』)とかなりの軍勢だったと思われている。「城名人」、「近世式城郭建築の祖」と呼ばれている久秀は、翌日より信貴山城の補強工事を開始している。 久秀は2つの目算があったと思われている。石山本願寺に立て篭もる顕如、上洛を目指す上杉謙信である。 顕如軍は先の合戦で塙直政を討ち取り、第一次木津川口の戦いで毛利氏から武器、食糧も補給し軍事力は強大、上杉軍は2万の軍を率いて上洛を目指し、顕如の命により加賀一向一揆衆はゲリラ戦法で柴田勝家軍を妨害し、上杉軍を側面から援助している。久秀が単独で信長を倒すことは難しいが、三者はなんらかの密約、繋がりがあった可能性があるのではないかとされている。 信長はこの時安土城におり謀反に驚いたのか、老功である久秀を惜しんだのか、堺の代官松井友閑を使者にたて信貴山城へ向かわせた。この時の様子は「何ようの仔細か、存分申上げ候へ、委細聞届けせれ、御裁許あるべきの由(ことの詳細についてどのようであるか、思うところをご説明されよ、一切をお耳に入れればお許しが出るでしょう)」(『織田軍記』)と記載されている。 2度まで裏切った久秀に対して異例の処置であったが、久秀は信長の説得を拒絶した。 これに憤慨した信長は同年9月後半ごろより筒井順慶、明智光秀、細川藤孝を出陣させ、法隆寺へ布陣、信貴山城の先軍とした。同年10月1日が織田軍は信貴山城の支城となっていた片岡城を約5千兵で攻城、これに対して松永軍は海老名勝正(友清)、森秀光(正友)らが率いる約1千兵で防御した。この時の戦いの状況を「片岡城今日セメキリ、エヒナ河人始テ七十ハカリ無残討死了」(『多聞院日記』)と記載されており、筒井隊にもかなりに戦死者が出たようだが、松永軍の武将である海老名、森を含む150余が討死、片岡城も落城してしまう。 この時信長に、同年9月23日手取川の戦いで勝利した上杉謙信であったが七尾城から進軍が止まった、との報告が同年10月3日に柴田勝家から直接安土城に入った。謙信がなぜ進軍を止めたのか諸説あるが、豪雪を恐れたのではないか、北条氏政が関東へ出軍し本国防衛のため等が言われている。信長は謙信はこれ以上進軍することはないと判断し、総大将に嫡男の織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀など加賀に出陣していた部隊を信貴山城攻城の援軍として送り込んだ。この時の織田信長軍の総数は4万兵と言われている。一方、前回は武田信玄の死亡によって謀反は成功せず、今回も上杉謙信が動かなかったことにより、久秀は片岡城が落城した事と伴って窮地におちいる事になる。 翌10月4日、どちらが放った火なのかはよく解らないが、「信貴山ヒサ門堂燃え云々」(『多聞日記』)と記載されており、現在の朝護孫子寺の毘沙門堂が焼け落ちた。戦いの状況 戦いは翌10月5日から開始された。4万の軍が一斉に攻城を開始したが、信貴山城は簡単には落城しなかった。この日の戦いを、久秀の武将飯田基次が率いる200余人が斬り出て、織田軍数百人が手負い、または討たれたとあるので松永軍の抵抗も必死であったと考えられる(『和州諸将軍伝』)。戦いは持久戦の様相を呈してきた。信長はこの日、久秀の質子(久通の息子で久秀の孫、当時12歳と13歳)を洛中引き回しの上、六条河原で斬首した。 10月5日の戦いでは勝利した松永軍ではあったが、織田軍との兵力差は圧倒的であったため、もう一つの密約の相手である顕如に至急援軍を要請することにし、その使者に森好久という人物を選んだ。森好久は10月7日信貴山城を出立、翌10月8日石山本願寺から加賀鉄砲衆200名を引き連れて帰城し三の丸付近に配置した。森好久の報告によると、両三日中に毛利軍から更なる援軍が到着し、そのようになれば石山本願寺からも更なる援軍を差し向ける事が出来ると顕如が申していたといい、久秀は喜んだという。 しかしこの鉄砲衆200名が信貴山城落城のきっかけとなる。森好久は筒井順慶の元譜代で、順慶の居城筒井城が落城すると牢人となっていたが、その後久秀に仕官し、その才覚から落城直前には信頼を得ていたと思われている。しかし、好久は信貴山城を出立すると、そのまま順慶の部将松倉重信の陣所に駆け込み、信貴山城の内情を知らせた。順慶は好久に金子三十両を与え、虎の子の鉄砲衆200名を預け伏兵とするように命じたとされている(『和州諸将軍伝』)。 その後、「夕六ツ過ヨリ信貴城猛火天二耀テ見了」(『多聞院日記』)とあるので、翌10月9日の午後6時前後よりすでに戦闘は開始されていたと思われる。しかし、再び総がかりの攻城は翌10月10日明朝からで、織田信忠の許可を得て筒井順慶は前線に立ち攻撃した。これに対し松永軍は弓と鉄砲で抵抗、門からも討ってでたりし筒井隊は一度は押し返された。 そんな中、天守に近い三の丸付近から火の手が上がった。森好久が率いる鉄砲衆200名が反乱を起こしたので、これにより軍としての統率力は無くなったようである。 松永久秀・久通父子は自害した。久秀は68歳、久通は35歳であった。また安土城の天守のモデルとも言われている信貴山城の四層の天守櫓は、この時に炎上したと思われる。 戦後の影響 翌10月11日は火の手がくすぶる中、雨が降ってきたようで、東大寺大仏殿の戦いも10月10日、翌日も雨が降っていた、と記載されている(『多聞院日記』)。 手取川の戦いでは敗れた織田軍であったが、信貴山城の戦いの勝利で士気を高めたと思われている。この後羽柴秀吉は中国征討へ、明智光秀、細川藤孝は第二次丹波国征討に乗り出すことになる。
2024年11月20日
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〇「越前一向一揆」(えちぜんいっこういっき)は、天正年間に越前国に起きた一向一揆のこと。 天正2年(1574年)に越前国で発生した富田長繁対石山本願寺と結託して一向一揆となった土一揆との戦いと、天正3年(1575年)8月から9月にかけて行なわれた織田信長対一向一揆の戦いとに区別して解説する。 発端 天正元年(1573年)8月、織田信長の越前侵攻により朝倉義景は攻め滅ぼされ、朝倉氏の旧臣の多くが信長に降伏して臣従することにより、旧領を安堵された。 信長は朝倉攻めで道案内役を務めた桂田長俊(前波吉継)を越前「守護代」に任命し、事実上、越前の行政・軍事を担当させた。しかし朝倉氏の中で特に重臣でもなかった長俊が守護代に任命されたことを他の朝倉氏旧臣は快く思わなかった。特に富田長繁などは長俊と朝倉家臣時代からの犬猿の仲であったため、長俊を敵視するようになった。 さらに桂田はこれら元同格の者たちに対して無礼で尊大な態度を取ったため、天正2年(1574年)1月、ついに富田長繁は長俊を滅ぼそうと考え越前中の村々の有力者と談合し、反桂田の土一揆を発生させた。 戦況 1月19日、長繁は自ら一揆衆の大将として出陣し、一乗谷城の攻略に取り掛かった。城主・桂田長俊はこの時失明していて指揮が執れず、さらに一揆の兵力が3万以上と大軍だったことや、長繁の腹心である毛屋猪介の活躍もあり、さしたる抵抗もできないまま討死した。息子の新七郎ら一族は城外に逃亡したが、翌20日には捕捉されて皆殺しにされた。 一揆衆は1月21日には信長が府中の旧朝倉土佐守館に置いていた三人の奉行、木下祐久・津田元嘉・三沢秀次(溝尾茂朝)を攻めたが、安居景健(朝倉景健)が間に入って調停をしたため和睦。三人は越前を出て岐阜に向かった。 1月24日、長繁はさらに策謀を巡らし、桂田成敗の宴を開くと称して有力者である魚住景固を自らの居城である龍門寺城に招き、次男の魚住彦四郎もろとも謀殺した。翌日には鳥羽野城を攻めて景固の嫡男彦三郎も討ち取って魚住一族を滅亡させた。しかし、敵対関係になかった魚住一族を無闇に滅亡に追い込んだことで、一揆衆の長繁に対する不信感が生じたという。加えて同時期、長繁が信長に対して自らの越前守護任命と引き換えに実弟を人質を差し出して恭順する、と誼を通じたという風聞が立ったこともそれに拍車をかける結果となった(『越州軍記』)。 そして、一揆衆は長繁と手を切り、加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を招き、自勢力の首領とした。杉浦玄任は坊官でありながら越中において、総大将として一揆軍を率い、上杉謙信と戦った武将であった。尻垂坂の戦いでは謙信に敗れたが、五福山や日宮城で上杉方に勝利を収めていた他、朝倉義景とも戦っており、実績も十分であった。一揆衆の中に相当数の浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒がおり、彼らの意見が通ったのである。こうして富田長繁を大将とする土一揆は、そのまま七里頼周を大将とする一向一揆に変貌した。 2月13日、一揆勢は先制攻撃をかけ、長繁の家臣である増井甚内助が守る片山館、毛屋猪介が守る旧朝倉土佐守館などを攻略、二人を滅ぼした。2月16日には長繁も反撃に出、帆山河原の一揆勢3万をわずか700の兵で敗走させている。 翌2月17日には長繁は府中の町衆や一向一揆の指導的立場にある浄土真宗本願寺派(一向宗)と対立する真宗高田派(専修寺派)・真宗三門徒派等と手を結び、北ノ庄城の奪取を狙い北上。対して、七里頼周と杉浦玄任も長繁を討つべく北ノ庄方面より集められた一揆勢5万人を差し向け、両者は浅水の辺りで激突した。このとき、長繁勢は一揆衆より兵力では圧倒的に劣勢であったが奮戦して一揆勢の先鋒を崩壊させ、潰走する一揆勢を散々に打ち破った(『越州軍記』)。次いで17日夕刻、長繁は浅水の合戦に参戦せず傍観していた安居景健、朝倉景胤らを敵対者と見なし、彼らの拠る長泉寺山の砦に攻撃を仕掛けた。しかし、一揆衆との合戦の影響で疲弊した長繁勢はさしたる戦果を挙げられなかった。長繁は翌18日に再度総攻撃を下知したものの、無謀な合戦を強いる長繁に対して配下の不満と不信が高まり、18日早朝からの合戦の最中、長繁は配下の小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で撃たれて討死、長繁勢は瓦解した。その首は19日、一揆軍の司令官の一人である杉浦玄任の陣に届き、竜沢寺で首実検が行われた。またこの日、一揆勢は白山信仰の拠点であった豊原寺を降伏させて味方につけている。 4月に入ると、一揆衆の攻撃は勢いを増し溝江城(別名金津城、溝江館)を落城させ、溝江景逸と溝江長逸ら溝江氏一族は舎弟の妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前寺英勝および小泉藤左衛門、藤崎内蔵助、市川佐助らとともに自害して果てた(長逸の一子、溝江長澄だけは溝江城から脱出した)。 4月14日、一揆勢は土橋信鏡(朝倉景鏡)の居城である亥山城を攻撃、信鏡は城を捨てて平泉寺に立て籠もったが、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅。信鏡は逃亡を図ったものの、最期はわずかな家臣とともに敵中に突撃、討死した(『朝倉始末記』)。 5月には織田城の織田景綱(朝倉景綱)を攻撃する。景綱も奮戦したが寡兵であったことから夜陰に乗じて家臣を見捨て、妻子だけを連れて敦賀に逃走した。こうして、朝倉旧臣団は一向一揆に通じた安居景健、朝倉景胤など一部の将を除いてことごとく滅ぼされ、越前も加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となった。 結果・影響 この結果、信長は越前を失陥することになった、しかし、当時織田氏は武田氏、長島一向一揆、大坂の石山本願寺など他の敵対勢力との抗争に忙殺されており、すぐに失地回復のための討伐軍を派兵することは不可能であった。 ところが、七里頼周や新しい越前の領主として石山本願寺から派遣された下間頼照ら坊官の政治は、越前の豪族や寺社勢力、領民の期待に沿うような善政ではなかった。下間らは自らの私利私欲を満たすため、織田氏との臨戦体制下であるという大義名分のもと、桂田長俊以上の重税や賦役を彼らに課した。このため、下間らの統治に不満を抱く層による一揆内一揆が発生、一揆勢は内部から崩壊し始めた。 1575年 発端 前述のとおり、顕如が越前「守護」として派遣した下間頼照や大野郡司の杉浦玄任、足羽郡司の下間頼俊、府中郡司の七里頼周ら大坊主らは、討伐した朝倉氏旧臣の領地を独占し、さらに織田軍との臨戦態勢下にあると称して、重税や過酷な賦役を越前在地の国人衆や民衆に課すなど悪政を敷いた。 このため、越前における天台宗や真言宗らが反発し、真宗高田派(専修寺派)をはじめ国人衆や民衆、遂には越前の一向門徒までもが反発。天正3年(1575年)頃から、一揆衆は内部から崩壊しつつあった。 一方、信長はこの年から領国全域で道路や橋を整備するなど、各地での戦いに備えていた。そして5月には武田勝頼との合戦に大勝(長篠の戦い)、余裕の生じた信長は越前の一向一揆の分裂を好機ととらえ、越前への侵攻を決める。 信長は8月12日に岐阜を出発し、翌13日に羽柴秀吉の守る小谷城に宿泊。ここで小谷城から兵糧を出し、全軍に配った。14日、織田軍は敦賀城に入った。 一揆勢の配置は以下だったという。 板取城 下間頼俊と加賀・越前の一揆勢 木目峠 石田西光寺と一揆勢 鉢伏城 専修寺の住持、阿波賀三郎・与三兄弟、越前衆 今城・火燧城 下間頼照 大良越・杉津城 大塩の円強寺衆と加賀衆 海岸に新しく作られた城 若林長門守・甚七郎父子と越前衆 府中・竜門寺 三宅権丞 このほか、西国の一揆勢も加わっていたという。 8月15日、風雨の強い日であったが、織田軍は大良(福井県南条郡南越前町)を越え、越前に乱入した。 信長率いる織田軍は3万余。武将は佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、佐々成政、前田利家、簗田広正、細川藤孝、塙直政、蜂屋頼隆、荒木村重、稲葉良通(一鉄)・稲葉貞通、氏家直昌、安藤守就、磯野員昌、阿閉貞征・阿閉貞大、不破光治・不破直光、武藤舜秀、神戸信孝、津田信澄、織田信包、北畠信雄(伊勢衆)、金森長近、原長頼が動員された。また軍勢の最前列には、越前衆のうち坊官の悪政に反発し織田勢に寝返った国人や浪人、宗徒が配置された。 これと会わせて、海上からは水軍数百艘が進んだ。若狭の粟屋越中守、逸見駿河守、粟屋弥四郎、内藤筑前、熊谷伝左衛門、山県下野守、白井、松宮、寺井、香川、畑田、そして丹後の一色義道・矢野・大島対馬守・桜井豊前守が動員された。これら水軍は浦や港に上陸し、あちこちに放火した。 対する一向一揆側は、円強寺勢と若林長門守親子が攻撃してきたが、羽柴秀吉・明智光秀が簡単に打ち破った。羽柴隊・明智隊は200~300人ほどを討ち取ると、彼らの居城である大良越・杉津城および海岸の新城に乗り込み、焼き払った。討ち取った首はその日のうちに敦賀の信長に届けられた。 この日の夜、織田勢は府中竜門寺に夜襲をかけ、近辺に放火した。背後を攻撃された木目峠・鉢伏城・今城・火燧城の一揆勢は驚き、府中に退却していったが、府中では羽柴秀吉・明智光秀が待ち受けており、2000余りが討ち取られた。この時、鉢伏城に拠った杉浦玄任は討死、城将の阿波賀三郎・与三兄弟は降伏して許しを求めたが、信長は許さず塙直政に命じて殺害した。 8月15日、織田軍は杉津城に攻撃を開始する。この城は大塩円強寺と堀江景忠が守っていたが、織田の大軍が来襲してきたことを知ると、景忠は森田三左衛門や堺図書助らとともに内応して織田勢に寝返った。これを受けて、板取城の下間頼俊、火裡城の下間頼照、そして今庄の七里頼周は逃亡。一向一揆指導部は完全に崩壊し、一揆衆は組織的な抵抗が不可能な状況に陥った。 16日、信長は馬廻をはじめとした兵1万を率いて敦賀を出発し、府中竜門寺に布陣すると、今城に福田三河守を入れて通行路を確保させた。 下間頼俊、下間頼照、専修寺の住持らは越前の山中に逃亡・潜伏したが、一揆衆の不利を悟って織田方に寝返った安居景健に殺害された。景健は下間らの首級を持参して信長に赦免を請うたが許されず、自害を命じられた。この時、景健の家臣の金子新丞父子・山内源右衛門ら3人が切腹して殉死した(信長公記)。 18日、柴田勝家・丹羽長秀・津田信澄の3人が鳥羽城を攻撃し、敵勢500~600を討ち取って陥落させた。金森長近、原長頼は美濃口から根尾~徳山経由で大野郡へ入り、杉浦玄任の軍を壊滅させ、数箇所の小さな城を落として一揆衆多数を斬り捨て、諸口へ放火した。杉浦玄任はここで戦死したとも、落ち延びたともされる。 一揆は完全に崩壊し、一揆衆は混乱の中取るものも取りあえず右往左往しながら山中へ逃げていった。しかし信長は殲滅の手をゆるめず、「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命じた。 一連の合戦において、一揆衆は1万2250人以上が討ち取られた。さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万から4万余に上るとされる。 9月2日には一向一揆の味方をしたことを問われた豊原寺が全山の焼き討ちを受けた。 こうして、越前から一向衆は完全に駆逐された。また、1932年(昭和7年)に小丸城跡(武生市、現在の越前市の一部)から発見された瓦に、5月24日(1576年(天正4年)のと比定される)に前田利家が一揆衆千人ばかりを磔、釜茹でにしたことを後世に記録して置く、という内容の書き置きがある。
2024年11月20日
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「水野 忠之」(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中。三河岡崎藩第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。生涯寛文9年(1669年)6月7日午前6時頃に岡崎藩主水野忠春の四男として、水野家江戸屋敷で誕生した。延宝2年(1674年)7月9日に親族の旗本水野忠近(2300石)の養子となって家督を継いだ。元禄10年(1697年)2月には御使番に列し、布衣(六位相当になったことを意味する)の着用を許された。元禄11年(1698年)4月19日には日光目付、さらに9月25日には日光普請奉行となった。元禄12年(1699年)1月11日、実兄の岡崎藩主水野忠盈の養子となり、忠盈の没後の9月27日に家督相続し、10月18日には従五位下・大監物に叙任された。元禄14年(1701年)3月14日に播磨赤穂藩主浅野長矩が高家吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。また翌年12月15日、赤穂浪士が吉良義央の首を挙げて幕府に出頭した後には、そのうち間光興・奥田行高・矢頭教兼・村松高直・間瀬正辰・茅野常成・横川宗利・三村包常・神崎則休9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。大石良雄を預かった肥後熊本藩主細川綱利に倣って、忠之も浪士たちを賞賛し、よくもてなした。しかし、綱利が細川邸に入った後の浪士たちの元へすぐさま自ら赴いて大石内蔵助たちと会見したのに対して、忠之は幕府を憚ってか、21日になってようやく浪士たちと会見している。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と久松松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って九士を切腹させた。宝永2年(1705年)1月1日に奏者番に就任する。さらに正徳元年(1711年)12月23日には若年寄に就任した。正徳4年(1714年)9月6日に京都所司代に就任する。このときに従四位下侍従和泉守に昇進した。享保2年(1717年)9月27日、老中となり将軍徳川吉宗の享保の改革を支えた。享保7年(1722年)、財政を専任する勝手掛老中に任ぜられた。享保8年(1723年)、見立新田十分一の法を設け、新田開発を促した。享保10年(1725年)には1万石を加増された。享保13年(1728年)、年貢を四公六民から五公五民に引き上げた。これらの施策により幕府の財政は好転したものの、米価の急落や負担増による不満から批判された。享保15年(1730年)6月12日に老中職を辞し、7月6日に次男の忠輝に家督を譲って隠居した。隠居後は落髪して省だけと号した。享保16年(1731年)3月18日に死去した。享年63。生前の遺命に基づいて牛込宝泉寺にて荼毘し、遺骨は24日に下総国山川万松寺へ送られて葬られた。
2024年11月15日
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「歴史の回想・長篠の戦い」1、「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・22、「長篠の戦の起因」・・・・・・・・・・・・・・33、「織田信長」・・・・・・・・・・・・・・・・・54、「徳川家康」・・・・・・・・・・・・・・・・・385、「武田勝頼」・・・・・・・・・・・・・・・・・546、「鳥居強右衛門」・・・・・・・・・・・・・・・757、「長篠の合戦」・・・・・・・・・・・・・・・・838、「武田家臣団」・・・・・・・・・・・・・・・・859、「家康の家臣」・・・・・・・・・・・・・・・・10610.「信長の家臣」・・・・・・・・・・・・・・・11211、「武田軍家臣団」・・・・・・・・・・・・・・11712、「甲相同盟」・・・・・・・・・・・・・・・・12013、「甲佐同盟」・・・・・・・・・・・・・・・・12814、『甲陽軍鑑』・・・・・・・・・・・・・・・・13615、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・156 1、「はじめに」織田信長が全国制覇の過程において徳川家康と連合して、1575年(天正3)に甲斐の戦国大名武田勝頼を三河国南設楽郡長篠(現愛知県新城市)で破った戦い。長篠の合戦という。勝頼は父信玄の喪を秘して西上作戦を続け、遠江の高天神城を陥落させ、さらに長篠城を大軍で包囲し家康に圧力を加えた。家康はこの危機を信長との同盟関係で克服しようと、勝頼は各個撃破によって戦略的優位に立とうとし、長篠城をめぐる攻防は外交戦略の舞台となった。長篠城主奥平信昌は、岡崎城の家康に窮状を伝えるため、鳥居強右衛門をひそかに城外に脱出させた。これによって家康は岐阜城の信長からの来援を受けることに成功し、3万人の大軍を率いて三河を進軍した。鳥居は帰城する途中武田方に捕らえられたが、殺される直前に来援の事実を城中に大声で伝えたために、城を持ち応えることができた。信長勢は長篠城の西方の設楽原に布陣し、柵を設けて騎馬の進入を防ぎ、その後方に鉄砲隊を3組に分けて迎え撃った。騎馬戦を得意とする武田軍勢は柵に阻まれて突入することができず、多数の死傷者を出して敗退し、甲府へ帰陣した。この戦いは、騎馬を中心とした戦法に対して、鉄砲足軽を主体とする集団戦の優位を実証したものとして、大きな意義を持っている。信長はこの翌年に安土城を築城し、天下統一に地歩を固めたが、勝頼は敗戦によって多くの家臣を失い、家康はじめとするほかの大名から攻撃を受ける勢力衰退のきっかけとなった。
2024年11月05日
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高田屋嘉兵衛の拿捕オホーツクに戻ったリコルドは、ゴローニン救出の交渉材料とするため、良左衛門や1810年(文化7年)にカムチャツカ半島に漂着した歓喜丸の漂流民を伴ない、ディアナ号と補給船・ゾーチック号の2隻で1812年夏に国後島へ向かった。8月3日に泊に到着、国後陣屋でゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、松前奉行調役並・太田彦助は漂流民を受け取るものの、ゴローニンらの解放については既に処刑したと偽り拒絶した。リコルドはゴローニンの処刑を信じず、更なる情報を入手するため、8月14日早朝、国後島沖で高田屋嘉兵衛の手船・観世丸を拿捕。乗船していた嘉兵衛と水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治・アイヌ出身のシトカの計6名をペトロパブロフスクへ連行した。ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだ。嘉兵衛らの行動は自由であり、新年には現地の人々に日本酒を振る舞い親交を深めた[42]。また、当時のペトロパブロフスクは貿易港として各国の商船が出入りしており、嘉兵衛も諸外国の商人と交流している。12月8日(和暦)、嘉兵衛は寝ているリコルドを揺り起こし、事件解決の方策を話し合いたいと声をかけた。嘉兵衛はゴローニンが捕縛されたのは、フヴォストフが暴虐の限りを尽くしたからで、日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと説得した。翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが病死。嘉兵衛はキリスト教の葬式を行うというロシア側の申出を断り、自ら仏教、アイヌそれぞれの様式で3人の葬式を行った。その後、みずからの健康を不安に感じた嘉兵衛は情緒が不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドはこのときカムチャツカの長官に任命されていたが、嘉兵衛の提言に従い、みずからの官職をもってカムチャツカ長官名義の謝罪文を書き上げ、自ら日露交渉に赴くこととした。 11「事件解決」日露友好の碑(函館市)。1999年にゴローニンとリコルドの子孫が来日し高田屋嘉兵衛の子孫と再会したのを記念して建立された。幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがフボォストフの襲撃は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴローニンを釈放することとした。これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、ゴローニンに翻訳させ、ロシア船の来航に備えた。この幕府の事件解決方針は、まさに嘉兵衛の予想と合致するものだった。1813年(文化10年)5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かった。5月26日に泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送った。次いで嘉兵衛が陣屋に赴き、それまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。嘉兵衛はディアナ号に戻り、上述の「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに手渡した。ディアナ号国後島到着の知らせを受けた松前奉行は、吟味役・高橋重賢、柑本兵五郎を国後島に送った。高橋 重賢(たかはし しげかた)は、江戸時代後期の旗本。通称・三平。幼名・吉之丞。号・竹里。蝦夷地の前期幕領時代に10年余り箱館(松前)奉行支配吟味役として働き、ゴローニン事件では日本側代表としてピョートル・リコルド(ロシア語版)の交渉相手となった。その後、佐渡奉行、松前奉行、長崎奉行などを歴任。長崎奉行時代にはシーボルトに協力し、鳴滝塾の開設を許可した。1758年(宝暦8年)、普請役・勘定などを務めた高橋方政(のりまさ)の長男として生まれる。1797年(寛政9年)12月28日、部屋住から勘定に取り立てられる。1799年(寛政11年)、東蝦夷地が仮上知されると蝦夷地御用を命じられ、羽州酒田仕入物御用取扱を担当する。この頃、高田屋嘉兵衛と知り合う。同年12月、家督相続。1802年(享和2年)、箱館奉行(1807年(文化4年)に松前奉行へ改称)が設置され、10月18日、奉行に次ぐ役職である吟味役となる。1807年に西蝦夷地が上知され松前藩が転封となり、9月27日、松前藩からの領地引渡しに立ち会う。1813年(文化10年)、ゴローニン事件の処理に携わり解決に導く。長期に亘り吟味役を務めたが、当時の記録には、高橋が短期で交代する奉行を飾り物にし、恣意をほしいままにしていたかのように記述しているものもあった。1814年(文化11年)12月27日、西丸御納戸頭となる。1818年(文政元年)2月8日、佐渡奉行となり、50俵3人扶持から家禄200俵へ加増。1820年(文政3年)3月8日、松前奉行となり、300俵へ加増。同月15日、越前守となる。在任中の1821年(文政4年)12月7日、松前藩が蝦夷地に復領する。1822年(文政5年)6月14日、長崎奉行となる。1826年(文政9年)5月1日、江戸参府したオランダ商館長・ステュルレルが将軍・徳川家斉への謁見直後に、江戸在勤であった重賢に対し日蘭貿易に関する嘆願書を直接提出する事件が起こる。重賢は責任を問われ、同月24日、長崎奉行を罷免され西丸新番頭となる。1833年(天保4年)4月、日光奉行となる。同年8月26日、在職中に死去。享年76。ゴローニン事件事件当時、松前奉行支配吟味役であった重賢は、1813年5月に高田屋嘉兵衛がリコルドとともにカムチャツカから国後島に帰還すると、同役の柑本兵五郎とともに捕虜のシモーノフとアレキセイを連れて国後島に向かい、7月11日に到着。高田屋嘉兵衛に事情を聞いた後、リコルドにゴローニン解放の条件として釈明書を提出することを要求した。その後、リコルドが釈明書を入手して箱館に来航した際に日本側代表として対応し、9月26日にゴローニンを引渡し事件解決に導いた。この褒美として同年12月12日に金2枚を賜っている。ゴローニンは離日する際、日本側に国境画定に関し翌年択捉島で交渉したい旨の文書を渡していた。これを受けて幕府は、択捉島までを日本領、シモシリ島(新知島)までをロシア領として、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て、1814年春、重賢を択捉島に送った。しかし、重賢が6月8日に到着した時には、ロシア船は去った後であった。このため国境画定は幕末まで持ち越されることとなった。シーボルトへの協力1823年にシーボルトが来日すると、長崎奉行であった重賢は日本人の学者がシーボルトに学ぶため出島に入ることを許し、さらに鳴滝塾の創設を認めた。しかし、シーボルト事件が発生すると、シーボルトの江戸参府時に江戸在勤の長崎奉行であった重賢は不念により、1830年(文政13年)3月26日、差控を申し渡された。
2024年10月30日
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12「景虎の攻勢と周囲の加勢」工作によって諸将の旗幟が鮮明になってきた5月13日、景虎が三の丸から退去して同日のうちに御館に移り、籠城して北条氏政に救援を要請する一方で、配下に命じて春日山城下に放火を行うなど撹乱戦術を展開した。17日には約6000の兵で春日山城を攻め立てたが、撃退された。景虎方は体勢を立て直し、22日にも再び春日山城を攻めたが、結果は変わらなかった。この頃になると、他方面でも景勝方・景虎方の交戦が展開されていった。中でも上野では北条高広・景広父子が中心となり、三国峠を守る宮野城目指して進軍を開始した。この方面では景勝方はよく持ちこたえたものの景勝には援軍を送る余裕はなく、景虎方は後詰めを得られなかった景勝方の宮野・小川等の城をことごとく奪い、小田原の北条勢を越後へ引き入れる態勢を作り上げたのである。ところが、氏政・氏照ら北条軍主力は、折しも鬼怒川河畔において佐竹・宇都宮連合軍と交戦中であり、遠方の越後に向けて早急に救援軍を派遣できる状況では無かったので、当面の策として同盟国の武田勝頼に景虎への助勢を要請した。これを受けて勝頼は、5月下旬に武田信豊を先鋒とする2万の大軍を信濃経由で越後に送り込み、5月29日頃に信越国境付近に到着した。武田 信豊(たけだ のぶとよ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の親族衆で庶流の吉田氏を継いだ武田信繁の次男。信豊は武田信玄の甥で、武田勝頼の従弟に当たる。父・信繁が第4次川中島の戦いで戦死し、望月家に養子に入っていた兄・義勝(望月信頼)も父の死の直後に早世したため、信豊が跡を継ぐ。『甲陽軍鑑』に拠れば幼名は「長老」、諱は当初は「信元」で後に「信豊」に改名したとされるが確認されない。正室は西上野の国衆・小幡憲重の娘。出生から家督相続[編集]天文18年(1549年)、武田氏の当主・武田信玄の実弟である信繁の次男として生まれる。母は不詳であるが法名が「養周院日藤尼」で、天正10年(1582年)3月16日に信豊とともに信濃小諸城で自害している。信豊の生年は『当代記』に記される「享年34」より逆算。系図類に拠れば信繁には3人の男子があるが、長兄の信頼は『高野山引導院過去帳』に拠れば天文16年(1547年)出生で、信濃国佐久郡の国衆・望月氏を継承し「望月三郎」を称した。このため、信豊は早くから信繁の嫡男として扱われており、生母が信繁の正室であったとも考えられている。『武田源氏一統系図』によれば信頼は永禄7年(1564年)に病死しており、望月氏は弟の信永(実名を「義勝」とする史料もあるが未詳)が継承し、信永は天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死している。信永の戦死後は信豊の娘婿が望月氏を継承する。永禄元年(1558年)には信豊にあたる「長老」に対して「武田信繁家訓」を授けている。これは九十九か条の家訓で、『群書類従』巻403に収録されている。『群書類従』では「信玄家法下」と呼称されているが、これは甲府の長禅寺二世・龍山子(春国光新)による序文の位置の誤りから生じた呼称とされ、現在では古写本の堀田本に基づき「武田信繁家訓」と称されている。永禄4年(1561年)9月、第4次川中島の戦いにおいて父の信繁が戦死し、信豊は後を継いで親族衆に列する。『甲陽軍鑑』に拠れば信豊は200騎を指揮したという。『甲陽軍鑑』によれば信豊は武田家臣団において親族衆の穴山信君とともに勝頼を補佐する立場にあったという。信玄期の活動永禄10年(1567年)8月、武田家では信玄の嫡男である義信が廃嫡される義信事件が起こる。これに際して家臣団の動揺を統制するため行われた生島足島神社への起請文があり(下之郷起請文)、「六郎次郎」の仮名が見られ、これが信豊の初見文書となっている。この時点で信豊は信濃諏訪衆を同心としている。なお、親族衆では信豊と叔父にあたる信廉のみが起請文を提出している。永禄12年(1569年)12月10日付徳秀斎宛武田信玄書状(『恵林寺文書』)に拠れば、同年の武田氏の駿河侵攻に際して、武田家の世子となった諏訪勝頼(武田勝頼)とともに相模国の後北条氏の蒲原城を攻略しており、この時は「左馬助」を称している。『新居家所蔵文書』に拠れば、元亀3年(1572年)の西上作戦では信濃高遠城在番を務めている。一説に、麾下の軍装は黒揃えであったと伝わる。天正元年(1573年)の三河国長篠・作手侵攻にも参加している。同年4月12日には信玄が死去。勝頼の家督相続から長篠合戦期の活動武田家における信豊の立場として、信豊が東信濃支配の拠点となっていた東信濃の小諸城(長野県小諸市)主であるとする説が支配的であったが、1987年には黒田基樹により信豊の小諸領支配を示す文書は見られないことが指摘されている。『信長公記』『甲乱記』『軍鑑』ではいずれも小諸城主は下曽根氏としており、武田氏滅亡に際して信豊が小諸城に逃れたことを記している。勝頼期には、天正3年(1575年)、三河黒瀬(現在の愛知県新城市作手黒瀬)にて、作手の国人である奥平定能・貞昌父子の動向を監視している。同年5月21日には長篠の戦いでは小幡信貞・武田信廉らと中央隊に配置されており、相備は不明であるが甲斐国の武川衆の青柳氏・跡部氏らが寄子・同心衆として付属している。『信長公記』によれば信豊は「四番」に織田・徳川勢に対して攻撃を仕掛け、武田勢の撤退に伴い小山田信茂らと勝頼を固めるように布陣し、未刻(午後2時)頃に勝頼らとともに戦場を離脱している。『甲陽軍鑑』によれば、長篠敗戦時には信濃北部の海津城に在番していた譜代家老の春日虎綱(高坂昌信)は信濃駒場において勝頼を迎え、同年6月半ばには勝頼に五箇条の意見書を提出したとする逸話を記している。5箇条の意見書は後北条氏との同盟強化や長篠合戦で戦死した内藤昌秀、山県昌景、馬場信春らの子息を奥近習衆に取り立てることなどを献策し、同時に敗戦の責任を取らせるために信豊と親族衆の穴山信君を切腹させることを提言したという。信君は長篠合戦において右翼に配置されているが諸記録には穴山隊の奮戦が記されておらず、『甲陽軍鑑末書』では信君が積極的な攻勢に出なかったと記しており、『甲陽軍鑑』における信君の責任はこのことを指すと考えられている[27]。ただし、虎綱の献策に関しては検討を要する点も指摘される[28]。甲越同盟と武田信豊[編集]天正4年(1576年)6月には安芸国の毛利輝元のもとへ庇護されていた将軍・足利義昭が信長打倒のため武田・北条・上杉三者の和睦として甲相越三和を求めると、信豊は武田側の取次を務めている。天正6年(1578年)3月13日、越後で上杉謙信の死後に上杉景虎・上杉景勝の間で家督を巡る御館の乱が起こる。勝頼は甲相同盟に基づき景虎支援を目的に出兵し、信豊は先陣を務めた。勝頼は景勝側から和睦を提示されるとこれに応じ、信豊は景虎・景勝間の和睦を調停した。この際に印文「信豊」の朱印を用いている。信豊は先陣の総大将として信越国境の海津城(長野県長野市松城町)の城代・春日虎綱とともに景勝との和睦交渉に携わる。同年8月20日には勝頼の仲介による景虎・景勝間の和睦が成立するが、その間に徳川家康が駿河へ侵攻すると、勝頼は8月28日に撤兵する。勝頼の撤兵中に景虎・景勝間の乱は再発し、翌天正7年3月24日に景虎が滅亡し、これにより甲相同盟が破綻し北条氏・徳川氏の間で同盟が結ばれた。信豊は同年9月には勝頼に従い駿河へ出陣しており、三枚橋城(静岡県沼津市)の築城に携わっていたと考えられている。北条との全面戦争に突入したことで勝頼は景勝との同盟を強化し、同年9月には武田・上杉間に婚姻同盟が結ばれ、甲越同盟が締結される。信豊はこの際にも取次役を務めている。甲越同盟により上杉領であった東上野が武田方に割譲されると、信豊は上野国衆の服属に携わっている。信豊は上野小幡氏の娘を室に迎えているが、『甲乱記』『武田源氏一統系図』では信豊室を小幡信真(上総介)の娘としている。しかし信真は信豊との年齢差が近く、『小幡次郎系図帳』に拠れば信豊室を信真の妹としていると記されることから、信真の父である憲重(尾張守)の娘が信豊室であると考えられている。また、天正7年に勝頼は対北条氏のため常陸国の佐竹氏とも同盟を結び(甲佐同盟)、信豊は佐竹氏との同盟にも携わっている。天正8年(1580年)3月11日付印月斎宛書状(『蓮華定院文書』)に拠れば、同年には「相模守」を称している。『軍鑑』によれば、天正9年(1581年)に勝頼は穴山信君と約束していた信君の嫡男勝千代と次女の婚約を破棄し、信豊の子と婚約させたという。同年10月には武田方の遠江国高天神城(静岡県掛川市)に対して徳川家康が包囲網を敷き、駿河において北条氏政に釘付けとなっていた勝頼は高天神城を救援することが難しい状況であった。このころ勝頼は武田家に織田氏の人質として滞在していた織田信房(源三郎)を織田信長のもとへ返還し、信長との和睦を試みていた(甲江和与)。勝頼が高天神城救援を行わなかった事情のひとつとして信長との和睦交渉への影響を懸念していた点が指摘されるが、『甲陽軍鑑』によれば勝頼は高天神城を救援する意志はあったものの、勝頼は家康の同盟者である信長との和睦を試みていたため、信長を刺激することを恐れた信豊や跡部勝資らの反対意見により救援の派遣を留まっていたという。武田家の滅亡と信豊天正10年(1582年)1月28日、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が信長へ内通して武田氏に反旗を翻したため、武田勝頼は信豊を将とする討伐軍を木曾谷へ派遣する。信豊は織田信忠の援軍を得た木曾勢によって鳥居峠にて敗北し、諏訪上原城で勝頼勢と合流し、新府城(山梨県韮崎市)へ帰還する。『信長公記』『甲乱記』に拠れば、この敗北を契機とした甲州征伐において、3月2日に信豊は家臣20騎程と共に郡内領へ逃れる勝頼と別れ、信濃小諸城へ逃れて再起を図った。『当代記』に拠れば信豊は関東へ逃れる意図もあったという。しかし城代の下曾根浄喜に叛かれ、二の丸に火を掛けられ嫡男の次郎や生母・養周院、家臣とともに自害した。享年34。信豊自害の日付は『信長公記』では3月16日とし、『恵林寺雑本安見記』では3月12日としている。織田・徳川勢の侵攻により勝頼とその嫡男の信勝も自害し、信豊の首は勝頼・信勝、仁科盛信の首級とともに信濃国飯田の信長のもとへ届けられ、長谷川宗仁によって京都に輸送され、獄門にかけられた後に南化玄興により京都市右京区花園の妙心寺に葬られた。長野県阿智村にある頭権現(大平神社)の御神体は頭蓋骨で、信豊のものという説もある。人物『甲乱記』では信豊は従兄の勝頼と同世代で親しく、勝頼期の政権を補佐する立場にいた人物としている。また、『軍鑑』『武田三代軍記』では「武田の副将」との立場を記している。父・信繁と通称が同じ典厩のため、父は古典厩(こてんきゅう)、信豊は単に典厩または後典厩(ごてんきゅう)と呼ばれている。信豊の関係文書は黒田基樹による1987年時点の集成で信豊発給文書が19点(永禄10年8月7日から天正8年8月19日、年未詳3点)、信豊受給文書が10点(永禄10年8月7日から天正4年8月3日)、および関係文書12点が知られている。 景虎はさらに、奥羽の蘆名盛氏・伊達輝宗らにも援軍を要請した。これに応えて蘆名勢は蒲原安田城を攻略、さらに兵を新発田へと進めたが、景勝方の五十公野治長の頑強な抵抗に遭って食い止められた。とはいえ、この時点においては戦局は依然として景虎方有利であった。
2024年10月28日
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13「藤村排斥事件」12月28日・藤村排斥事件(ふじむらはいせきじけん)は、1956年の11月から12月にかけて、プロ野球セ・リーグの阪神タイガース(当時の名称は大阪タイガース)監督(選手兼任)であった藤村富美男に対し、一部の選手が解任を要求して球団側と対立した事件である。1956年11月上旬に12名の選手とマネージャー兼スカウトの青木一三が「藤村監督退陣要求書」を野田誠三オーナーに提出。これをスポーツ新聞が報じる形で明るみに出る。12月4日に球団側は藤村監督の留任と、退陣要求に関与した選手のうち金田正泰・真田重蔵の両名とは来季の契約を結ばないことを発表。その後、球団代表の戸沢一隆が関係者と交渉を続けた結果、12月25日に球団は金田との再契約を発表。12月30日に戸沢代表・藤村監督・金田がそれぞれ声明書を発表して解決した。阪神の球団史である『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(1991年)や、松木謙治郎の『タイガースの生いたち』(恒文社、1973年)には発端の部分を除きほぼ上記に近い内容が記されている。当時は最初の要求書からスポーツ新聞を中心とした報道が過熱したが、それは戸沢球団代表が「現実よりも新聞の記事面がはるかに先行している」と評したような内容であった。このため、発端から解決に至る過程の詳細については、関係者の後年の証言に頼らざるを得ないが、これも証言者や時期によって必ずしも一致しない。以下の文章においては、それらの違いもふまえた上で記述する。経過発覚まで2リーグ制に移行した1950年、阪神の監督には戦時中にチームを離れていた松木謙治郎が復帰して就任した(当初は選手兼任)。松木はプロ野球再編問題の際に主力選手の移籍で弱体化したチームの再建にあたった。松木に対する選手の信望は高かったが、1954年オフに松木は監督を辞任した。その際松木は後任に助監督だった藤村富美男を推薦し、世間からは藤村か御園生崇男のいずれかに落ち着くとみられていた。しかし、球団代表の田中義一はセ・リーグ会長の鈴木龍二を通じて藤本定義の招聘を目指すも失敗。オーナーの野田誠三自らが人選に動き、岸一郎を後任監督に据えた。だが、岸は阪神はおろかプロ野球界での経験がまったくなかった。加えて、岸はベテランも若手も分け隔てなく起用する方針を打ち出し、藤村や真田重蔵らベテランは激しく反発した。1955年シーズン途中の5月下旬に岸は病気療養を名目に休養。藤村が選手兼任で代理監督に就任し、チームは成績を3位で終える。藤村は1956年に選手兼任のまま正式に監督に就任。このシーズンは7月から8月にかけて勝ち進み、8月11日には読売ジャイアンツ(巨人)に5ゲーム差を付ける首位に立った。藤村の後年の回想では、この時期フロントから「選手権の相手チームを研究させようか」と打診を受けるくらいであったが、チーム内では不協和音が生じており、藤村は「ちょっと待ってください。実はチームの中がこういう風な状態になっている」と述べるほどであったという。ほどなくして負けが込むようになり、巨人に首位を明け渡した。同じ頃、マネージャー兼スカウトであった青木一三は野田オーナーに対して辞意を訴える。田中義一球団代表と、阪神電気鉄道本社から出向した下林良行常務の間に意見の違いが多く、思うように働けないという理由であった。青木によると、阪神甲子園球場でのナイターの際に、野田にこのことを訴えたが、その場で野田の説得を受けて辞表を取り下げた。しかし、青木はこの際、待遇面で選手に不満が生じており、「このまま放っておいたら、暮れに事件が起きますよ」と述べたという。青木の言う「待遇面の問題」とは、青木が安い俸給で獲得した小山正明・吉田義男・三宅秀史らの若手選手が、主力となっても一向に待遇がよくならないことを指していた。契約更改の席では藤村の俸給を基準に他の選手の金額を決定していた上、藤村自身が球団の提示した金額に異を唱えなかったという事情もあった。青木は、阪神電鉄本社の一部の意向を押しつけている下林常務に原因があると考えていたが、選手が球団常務の辞任を求めるのは筋が通らないため、藤村に矛先を向けることにしたという[14]。結局このシーズンは巨人から4.5ゲーム差の2位という結果に終わる。シーズン終了後の11月2日、大映スターズでコーチから監督への就任が決まった松木が来阪したのを機に、選手有志が松木の監督就任を祝うという名目で会合を開いた。このとき集まった13人を中核として「藤村監督退陣要求書」が作成されることとなる。これについて青木一三は著書で「絶対チームがクビにできない13人(原文ママ)を集めた」と記している。青木によれば、このとき「排斥派」に加わったのは、金田正泰につながっていたメンバー(徳網茂・田宮謙次郎・白坂長栄ら)、青木が獲得したメンバー(吉田義男・小山正明・三宅秀史ら)、真田重蔵を中心としたメンバー(石垣一夫ら)のグループに分かれていたが、そのいずれもが元は松木に信を寄せる「松木派」であったという。南萬満はこの動きに松木がどの程度関係したかについて「いろいろな説がある」とし、松木が「クビになったらオレが採ってやる」と金田正泰に言ったという藤村の証言や、「真田がクビになったら大映の永田オーナー夫人に頼んでやる」と言ったという大井廣介の記述などをふまえながらも、「酒の上での大言壮語だったようでもある」としている。この当時、野球協約がすでに制定されており、2リーグ分裂当時のような選手の「引き抜き」は事実上不可能になっていた。大井廣介は、真田の再契約拒絶の決定後に松木が「スポーツニッポンで真田を採ってくれんだろうか」と言い出したと証言している。ただ、青木一三はパ・リーグ総裁でもあった永田に、「阪神の選手たちをパ・リーグで引き受けてくれるなら私が責任を持ってバラまきます」と「煽動した」と自著に記している。「裏で糸を引いていた」と認める青木の証言に基づけば、この「排斥事件」は選手の待遇改善闘争が本質であったということになる。これについて、13人の中心メンバーであったとされる金田正泰は1980年代のインタビューで、賃金闘争であることも青木が首謀者であることも否定し、「松木と青木の大映移籍が関係している」「あえていえば“長”に対する問題であった」「裏面ではいろいろ話があったが、選手はある意味では純粋で、会社をやっつけてどうするというような一つの問題は持ってなかったと思う」と述べている。『阪神タイガース 昭和のあゆみ』では、「せんじつめれば『明るいチームで優勝を遂げたい』という選手たちの素朴な発想によるものである」としている(同書P259)。一方、当時若手選手として「排斥派」の一人だった吉田義男は事件について、「あれは何だったのかと、今もって理解できない」「何を球団と藤村さんに要求するのか、(引用者注:若手の)私たちはいまひとつ理解できなかった」と回想している。 吉田は『真虎伝』でも同様の証言をしているほか、小山正明も「いまはすまんことをしたと思っている。(中略)わけもわからずに、排斥グループの中に入って動いとった。何も監督に文句はなかったのに…」と述べている。なお、背景に藤村のプレーや練習での態度があったといわれる点について、1990年代に関係者からの聞き取りと資料の再調査をおこなった南萬満の『真虎伝』では、「いいときしか代打に出ないという批判はあった」という真田重蔵や大崎三男の証言と、田宮謙次郎が排斥事件中に発表した声明文で「選手同士でやったヒットエンドランの成功を、あたかも藤村が出したサインだったような話をゲーム後にした」という件が紹介されている。また、排斥事件とは直接関係しない形で藤村がスタンドプレーだと反感を持つ選手がいたという本堂保弥の証言の紹介と、「打撃練習で一人長々と打つ」と評判が悪かったという記述もある。南はそれらも踏まえた上で、全体としてはそれよりは選手とのコミュニケーションの不足に大きな理由を見ている。「巨人の水原茂監督もリードされた試合中にいらだちを見せることがあったが選手がそれをなだめることが多かった」という話と比較し、阪神の場合は「監督も選手も若く、わがままだった、経験不足だったし、チームリーダーになって、監督と選手のパイプ役をやりうる選手がいなかったということに尽きるのではないだろうか」と結論づけている。青木一三は、この選手たちの集まりをデイリースポーツと報知新聞にリークし、その翌日に両紙に掲載されたという。デイリースポーツ(関西本社版)は11月11日付の1面で「揺ぐ阪神の屋台骨(原文ママ) 藤村監督の退陣要求 主軸選手、松木氏の復帰望む」という見出しで報じた。同社の社史には、11月9日夜に甲東園の旅館で開かれた選手の会合を取材して掲載を決めたという当時の担当記者の証言が掲載されている。球団側の対応発覚当初藤村がどのような反応を示したかについては複数の見解がある。『デイリースポーツ50年史』には、最初に報道した当日に練習後のロッカールーム(甲子園球場と思われる)のミーティングで藤村が「吹けば飛ぶよなケチな連中がなにをごちゃごちゃぬかしとんじゃ。文句があったらブンヤ(引用者注:新聞記者)に告げ口なんぞせず、束になってかかってこい」と啖呵を切ったという証言がある。青木は著書で、新聞に「こんなに騒ぐ選手は、来季、2軍にでも落としてやる」という藤村のコメントが出たことで、事態の収拾を求めてきた野田オーナーに「あの藤村監督の談話は何だ!」と突っぱねたと記している。しかし、藤村自身は1960年代の座談会で「世間に対しては私の立場について、一つもしゃべっていない」と述べている。1956年11月16日の読 売新聞でも「世間が一部選手をあおっていると思う。私としてはしばらく沈黙を守るのが一番よいだろう」というコメントが紹介されている。野田オーナーは病床にあった田中義一に代えて、11月15日に本社東京事務所長であった戸沢一隆を球団代表に任命。戸沢は16日に全選手を甲子園球場に集め、南海とのオープン戦遠征中に事態を悪化させないよう自重を求めた。同じ日、戸沢は青木に事態収拾の協力を求めたが、青木が拒否したため、「事件の黒幕」として青木を解雇した。11月22日から戸沢はオープン戦の遠征に同行して選手から話を聞き、解決の道筋を作ろうとするが軟化には至らなかった。11月28日に野田オーナー・阪神電鉄本社の前田常務・球団の戸沢と下林の4人が会議を開き、藤村の留任と、金田・真田とは来季の契約を結ばないことを決定し、12月4日に球団事務所で発表した。一方、青木はその前日付で大映に入社した。金田・真田と契約を更改しないという通告は両者を呼び出して直接なされた。金田は後年のインタビューでは、義父の死去などで退き際を考えていたため、「クビを申し渡されてほっとした。『ありがとうございました。お世話になりました』と言って帰った」と述べているが、真田重蔵は通告を受けて金田が泣き出したため「泣いたらいかん、男らしく引き上げよう」と言って退出したと述べている。金田はそのあと会見を開き、タイガースを強くするために考えてやったことだといった内容の発言をした。これを受けて「排斥派」の選手は態度を硬化させ、「徹底的にやろう」と結束を固めた。発表の前から戸沢は会見した選手に契約更改を打診していたが、選手はこれに応じていなかった。発表後は球団側が契約更改のために呼び出しても出頭を拒んだ。一方、沈黙を守っていた藤村は、「こうなった以上は、来年は2軍を鍛えてペナントレースに臨む」と発言し、これが報道されて選手をさらに刺激する事態にもなった。解決へ金田・真田の事実上の解雇が報じられたことで、この内紛は広く世間の注目を集めることとなり、社会的地位のある阪神ファンが仲介に乗り出すことがマスコミで伝えられたりした。リーグ会長の鈴木龍二の要請を受け、巨人の水原茂監督と川上哲治・千葉茂の両選手も仲介役として来阪した。川上・千葉は藤村や金田に面会した。藤村は川上からもう一度金田をチームに戻すよう勧められ、阪神電鉄本社の前田常務に申し入れをしたところ「藤村がたってそういうのなら帰そう」といわれたという。その結果、12月20日に大阪・中之島の新大阪ホテル(現在のリーガロイヤルホテルの前身。現存せず)で藤村は金田と面会することとなる[36]。金田は川上・千葉と会った際には「選手をやめるからもういい」と答えたが、事態が収まらないため「よし、オレが泥沼に入ってやる」という気持ちになったと後年のインタビューで述べている。当時の新聞報道では、この席で藤村は「金田と協力してチーム運営に当たりたい」と申し入れたというが、後年の藤村の証言では金田は藤村については何も話さずにチームメイトの渡辺博之の話に終始し、藤村は「とにかく帰ってこい」と言ったという。翌21日、戸沢は金田を呼んで「一切を白紙に戻す」と伝えたが、金田は「他の選手のこともある」と確答を避けた。12月24日に再度戸沢は金田と会談をおこなって復帰を確約し、翌25日に来季の契約を結ぶことが正式に発表された。このとき、戸沢は真田については「戦力にならないので退団とした。事件とは関係ない」と説明した[37]。真田はそのまま退団することとなる。金田の復帰で他の「排斥派」の選手は対応を迫られた。仲介に入っていた阪神ファンの神風正一のアドバイスもあり、「条件を付けて会社と折り合う」方針に変更、「退陣要求書」を撤回することとなった。戸沢代表の説得で選手も徐々に軟化していたという事情もあった。12月30日に電鉄本社で田宮謙次郎と徳網茂が戸沢と面会して合意。戸沢代表・藤村・金田がそれぞれ声明書を発表し、藤村監督の続投と金田を含む他の選手との契約更改という形で決着を見た。戸沢代表を真ん中にして藤村、金田の3人の並んだ写真が大晦日の関西のスポーツ紙の一面を飾った。ここまでの経緯につき、青木一三はやや異なる証言を残している[40]。それによると、青木は解雇されて大映に入社した後も、裏で阪神電鉄本社と交渉をしていたという。青木は、自分たちの主張ばかり通したのでは電鉄の労働組合も困るだろうと、自分と金田・真田が辞めるのはやむを得ないが(他の)選手の方はちゃんとしてくれと要求した。その後、金田は復帰させ、真田・青木は退任する代わりに条件を詰めて手を打つところまで来ていた。ところが、東京の阪神後援会長が介入して金田と交渉し、青木曰く「一人芝居」をしたため、これはいけないと12月30日を期して他の選手にチームに戻れという形で解決したのだという。青木はこれに関して「妥協する点を金田は見誤った」と述べている。また、著書の中では要求として「藤村監督の来シーズン中の解任」を出したこと、13人の選手の契約更改に際して田宮の金額を見て納得したので、後は任せるとして身を引いたことを記している。その後松木は著書で「すべて円満解決したのである」と記し、戸沢球団代表は「グラウンドで、元の姿に戻ったチームの姿に接し、ホッとした。感無量だったね」とのちに語っている。青木が「真の理由」とした待遇問題に関しては、「半年経ち、一年経ったら、戸沢さんやってくれてます」と後年述べており、要望は受け入れられた形となった。迎えた1957年のシーズン、藤村が監督専任となった阪神は巨人と1.0ゲーム差の2位と優勝はならなかったものの、最後まで激しい首位争いを演じた。しかし、シーズン終了後の11月25日、戸沢は藤村との契約期間中にもかかわらず、来季の田中義雄への監督交代と、藤村への代打要員としての現役復帰を半ば一方的に通告し、翌日発表した。これについて南萬満は「1年前のペナルティーではないか」と記している。この点も前年に青木が出したという要求が通った形となった。一方、この事件は中長期的なチーム作りに影響を与えた。その点について吉田義男は「阪神がごたついている間、ライバル巨人は黄金期に向けて着々と地歩を固めた。(中略)わが阪神はあの騒動が響いて後れをとった」と述べ、マスコミ対策についても「これがもとで、阪神はもめごとの多い球団という烙印を押され「虎ブル」などとからかわれるようになった。残念でならない」と記している。
2024年10月25日
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3「シネラマ映画人気」1月・画面アスペクト比(がめんアスペクトひ)とは映画・テレビジョンなどにおける画面のアスペクト比である。誤解の可能性がないときは単にアスペクト比、アスペクトレシオともいい、(あるいはSAR)を略してDAR(SAR)ともいう。アスペクト比は、テレビやデジタル動画では横縦の整数比(例:4:3)で表されることが多く、映画界では伝統的に、縦を1とした縦横比(例:1:1.33)で表されることが多いが、ここでは順序は横縦比(例:4:3、1.33:1)で統一する。スタンダードサイズ横縦比が1.375:1または1.33:1の画面サイズのこと。かつての映画の標準サイズだった。エジソンが採用した横縦比は1.33:1(4:3)で、以来サイレント映画時代は1.33:1だった。トーキー映画の出現で一時期サウンドトラックによって画面が削られたため1.19:1なども使われたが1932年に映画芸術科学アカデミーによって1.375:1(4.135:3)に定められ、これが標準となった。そのためアメリカではアカデミー比)と呼ばれる。 映画では1.33:1を採用している(後述)。(アナログ)テレビ放送の標準画面は1.33:1(4:3)である。ビスタサイズビスタビジョンサイズとも。横縦比が1.66:1程度の横長の画面サイズのこと。 パラマウント映画社が開発したビスタビジョン方式で得られるもので、撮影時に35ミリネガフィルムを横に駆動させる「ビスタビジョンカメラ」を用いてスタンダードサイズの2倍以上の画面面積を使って撮影し、上映用プリントを作成する際には縦駆動のポジフィルムに縮小焼きつけする。その際、スタンダードサイズの画面にレターボックス状態で焼付け横長の画面を得る。スタンダードの2倍の面積の画像を縮小することで鮮明な画質を得られる。が、1961年以降はフィルムの性能が向上したために撮影時にフレームを確認しながらポスト処理でマスキングする方式に移行した。かつての横駆動ビスタビジョンは、後年ジョン・ダイクストラが「ダイクストラフレックス」として特撮用カメラとして再利用しその基本性能の良さが再評価された。ヨーロッパビスタ(1.66:1)とアメリカンビスタ(1.85:1)との2種類がある。日本映画においては大映(現:角川映画)が初めて採用し、アメリカンビスタサイズが用いられることが多い。ハイビジョン放送の画面は1.78:1(16:9)でこの2つの中間である。スコープサイズシネマスコープサイズとも。横縦比がおおよそ2:1以上の横長の画面サイズのこと。20世紀フォックス社の登録商標である「シネマスコープ」の略称である「シネスコ」と呼ばれることが多く、ビスタビジョンより横長の画面の総称としても用いられることが多い(アメリカではワイドスクリーンと呼ばれる)。劇映画では、ハリウッドによる1953年のアメリカ映画、『聖衣』がシネマスコープの最初の作品。日本では、1956年12月に新東宝が初めて採用し、「シネパノラミック方式“大シネスコ”」として『明治天皇と日露大戦争』(公開: 4月29日)の制作を開始、「日本最初の大シネスコ遂に出現!」のコピーが新聞各紙に踊った。しかしその公開前に東映が『鳳城の花嫁』を「東映スコープ」として急遽完成させ日本初のシネマスコープ映画として公開(1957年4月2日)した。続いて日活が「日活スコープ」、東宝が「東宝スコープ」、松竹が「松竹グランドスコープ」として採用。新東宝も「新東宝スコープ」として制作を続けた。当初、大型映画として画質の良いビスタビジョンを採用した大映も制作費削減の為「大映スコープ」として採用した。シネマスコープ横縦比は2.35:1(12:5)。アナモルフィックレンズを使用して左右を圧縮し1.37:1の横縦比でフィルムに記録し、上映時には左右を復元して横長の画像を得る。開発当初の横縦比は2.66:1だったが、第1作『聖衣』は2.55:1であった。もともとは光学サウンドトラックを用いず、パーフォレーションの外側に記録された磁気サウンドトラックで4トラックサラウンドでの上映されることが前提だった。光学サウンドトラックは省略されていたために2.66:1の縦横比となった後、光学サウンドトラックが追加され、縦横比が2.35:1に変更された。6 5㎜フィルムを使用したトッドAO方式も同時期の1953年に登場した。それはシネマスコープとの画質の差は歴然であった。そのため、フォックスは55.625㎜フィルムを使用し、それを35㎜に縮小焼付けする「シネマスコープ55」という方式を開発し、『王様と私』など一部の映画で使用したが、画質面でトッドAOに勝てず、カメラも高額であったため、短期間で終焉を迎えた。テクニラマ横縦比は2.35:1。テクニカラー社の登録商標。ビスタビジョンと同じく35ミリフィルムを水平方向に送って撮影するテクニラマカメラにアナモルフィックレンズを装着して撮影し、縦駆動の35ミリポジフィルムに焼付け、上映時に左右を復元して横長の画像を得る。ビスタビジョンと同じく収録面積が通常の2倍以上あるため画質は非常に鮮明である。テクニラマカメラはビスタビジョンカメラで代用可能。パナビジョンPanavision。横縦比は2.35:1から2.4:1。米国パナビジョン社の登録商標。パナビジョン社製のアナモルフィックレンズを使って撮影されたものを「パナビジョン」と称する。現在[いつ?]最も主流のワイドスクリーンの撮影方式である。スーパースコープ詳細は「スーパースコープ (映画)」を参照RKO製品。スーパー35の原型。35ミリのフィルムでスタンダード撮影し、上下をトリミングしてワイドスクリーンの画を得る方式。収録面積が少ないため画質は悪い。テクニスコープスタンダードサイズのフレームを上下に二分割して横長のネガを撮影し上映プリント作成時に左右を圧縮して焼きつけ、シネマスコープと同様に上映し横長画像を得る。撮影用ネガを節約出来、記録映画を中心に用いられた。収録面積が少ないため画質は悪い。スーパー35フィルムの左右幅も一杯に使用し、ビデオ化の際の監督の意図と画質を両立させたフォーマットである。右の画像のように本来フィルムにはサウンドトラックが付けられている。焼き付け作業を効率化するために通常の撮影時には使用しないサウンドトラックの部分も空けて撮影されるが、スーパー35では撮影時にそのサウンドトラック部分まで使い、大きな映像で撮影する。その後、上下をトリミングしてアナモルフィックレンズを使い左右を圧縮して上映用プリントを作成する。35ミリに焼き付ける前の段階まではアナモルフィックレンズ特有の歪曲収差が出ないので、それ以前のマスターポジやネガフィルムまで還ってコンピューター処理でスコープを得てビデオ化された製品では歪曲収差が出ない。この方式では画面左右をテレビサイズに収めたいときにはマスターフィルムから上下を広げることで対応でき、監督の画面の意図をある程度崩さずにテレビサイズへの 変換が可能であった。しかし、上下が映ることは撮影時に考慮されていないため、不要物が映り込んでいる場合がある。アスペクト比はサイレント時代のスタンダードサイズと同等になるが、実際にはジェームズ・キャメロン監督作品で顕著に行われている通り、ソフト化の際テレビサイズとビスタ、スコープなどワイドスクリーン画面の両方を同時に得るなどの目的で画面上下/左右が切られる事が多い。DVDやBlu-ray、ワイドサイズテレビが普及したことによってテレビサイズにトリミングする必要がなくなったため、この撮影方式は廃れてしまったが、アナモルフィック撮影と比べて歪曲収差が少ないこと、被写界深度がスタンダードと同じことなど利点もあった。記録面積の違いからアナモルフィックレンズを使ったワイドスクリーンよりは画質は落ちてしまう。パナビジョン製アナモルフィックレンズをスーパー35㎜用カメラに装着して撮影する例がある一方、HDカメラによる撮影の増加に対抗してスーパー35画面の縦幅を3/4に縮小した"3パーフォレーション"という、やはりフィルム面積を最大限に用いテレビのワイド化にも適合した新方式も登場している。その他の大画面映画70㎜フィルム詳細は「70㎜フィルム」を参照撮影時に、65㎜ネガフィルムを使う規格と、ビスタビジョンカメラにアナモルフィックレンズを使う規格がある。65㎜ネガフィルムを使う規格には、サウンドトラックを付加して70㎜にしたトッドAOやスーパーパナビジョン70、さらに撮影時1.25:1のアナモルフィックレンズで圧縮するウルトラパナビジョン70があり、スーパーパナビジョンのアスペクト比は2.06:1、ウルトラパナビジョンは2.75:1である。ビスタビジョンカメラを使って撮影する規格はスーパーテクニラマ70と呼ばれ、ビスタビジョンカメラに1.5:1のアナモルフィックレンズを装着して撮影する。70㎜プリント時のアスペクト比は、2.06:1となる。フィルム解像度の向上で、1970年代後半以降の70㎜映画は35㎜シネマスコープネガで撮影し、70㎜ポジフィルムに焼き付ける物が多い。また1080/24p規格のハイビジョンによるデジタル撮影も増えてきた。70㎜フィルム映画の種類は次の通り。スーパーテクニラマ70詳細は「en:Super Technirama 70」を参照テクニカラー社が開発した。横駆動テクニラマのカメラにアナモルフィックレンズをつけて撮影し、後に70ミリのフィルムに焼き付ける方式。日本では大映が映画『釈迦』(1961年)で最初に採用したが、焼付けに手間が掛かることなどから現在では使われていない。なお日本ではテクニラマカメラが使えず、大映がパラマウント社から購入したビスタビジョンカメラで代用した。トッドAO・スーパーパナビジョン7065ミリネガに撮影し、上映プリントは6本のサウンドトラックを持つ70ミリポジに焼き付ける。スーパーテクニラマ方式に比べて手間が掛からないのが特長。ウルトラパナビジョン70トッドAO方式によく似ていて、65ミリネガで撮影して70ミリプリントを得るのは同じだが、アナモルフィックレンズで左右を圧縮して撮影するところが違う。アメリカMGM が『愛情の花咲く樹』と『ベン・ハー』を撮影するためにパナビジョン社と共同で「MGMカメラ65」として開発した。ディメンション15065㎜フィルムを使い、70㎜に焼き付けする方法は従来と同じだが、人間の視野角の限界である150度までスクリーンを歪曲させて、観客を包み込むような巨大スクリーンで上映する方式。特殊な超広角レンズを使い撮影、上映時にはやはり特殊な レンズを使い、歪曲したスクリーンでも歪みを抑えている。『パットン大戦車軍団』『ウエスタン』などで使用された。シネラマそもそもは後述のように3本のスタンダード35㎜フィルムを同期させ、これを湾曲したスクリーンに上映して巨大画像を得ていたが、取り扱いが煩雑になるうえ設備も複雑なものが求められるという欠点があった。このため上記「スーパーパナビジョン70」のシステムを応用して、アナモルフィックレンズを付けたスーパーパナビジョン70方式のカメラで撮影して左右圧縮し、上映時に左右を伸長させて巨大横長画面を得るという方式に替わった。IMAX横縦比は1.44:1だが70㎜フィルムを横走りで使うことにより70ミリ映画よりも大きい画面サイズに記録し、専用の劇場「 シアター」で上映を行う。巨大スクリーンのため臨場感があり、近年では3Dバージョンの製作が盛んに行われている。シネラマ以上の巨大な画面は一定の評価を得ておりその画像は非常に鮮明で、とても小さなディテールまで認識することができるため。特に「映像」を主とするエデュケーションコンテンツを得意とする。その圧倒的な映像のクオリティでアメリカ及び各国では一つのジャンルを築いているが日本国内では「高画質」に訴求力を持たせるパブリシティ展開が弱く、一般には大きな画面の映画だけという誤った認識で捉えられており認知度の低さと相まって劇場も減少傾向にある。シネラマ厳密には、アスペクト比の規格ではなくスクリーンサイズの規格である。規格は縦9㎡以上、横25m以上の湾曲したスクリーンである。横縦比は約2.88:1。初期のシネラマは、図のように同時駆動させた3台の映写機で映写する方式だった。同時駆動させた3台のカメラで撮影された映像を3台の映写機で投影する方式。1955年より1964年まで帝国劇場に於いて『これがシネラマだ(英語版)』を初めとして数々の作品で話題をさらったが非常に高いコストがかかるほか、3本のフィルムの境目が見えやすいことにより衰退。中央のカメラを除く左右のカメラは交差しているため、人物が向かい合っている構図を横から撮影すると2人ともカメラを向いた状態になるという構図上の欠点も問題であった。中期シネラマはスーパーシネラマと呼ばれ、65㎜フィルムで撮影した映像を3本のスタンダードフィルムに焼き付け直す方式が取られた。撮影時の問題は解消されたものの、フィルムのつなぎ目の問題は解消されず、プリントにも手間がかかり、衰退した。『西部開拓史』などで使用。後期シネラマは、70㎜フィルムを使用して同じ規格のスクリーンに投影した。70㎜版の『これがシネラマだ』も存在する。後期シネラマの第1作は、スタンリー・クレイマー監督の『おかしなおかしなおかしな世界』、代表作として、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』がある。日本においては、東京帝国劇場、テアトル東京、中日シネラマ、シネラマ名古屋、OS劇場といった、シネラマスクリーンの上映館があったが、すべて廃館となった。
2024年10月23日
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赤穂事件の逸話・俗説浅野が起こした松の廊下の事件によって赤穂藩が改易となり、それを聞いた領民が大喜びして餅をついたという話がある。この話の初出は文化3年(1806年)に刊行された伴蒿蹊の『閑田次筆』とみられている。 そして『閑田次筆』に書かれている領民が喜んだという記述については以下の通りである。「或人曰く、赤穂の政務、大野氏上席にして、よろづはからひしほどに、民その聚斂にたへず、しかる間、事おこりて城を除せらるるに及びしかば、民大いに喜び、餅などつきて賑はひし大石氏出て来て事をはかり、近時、不時に借りとられし金銀など、皆それぞれに返弁せられしかば、大いに驚きて、この城中にかやうのはからひする人もありしやと、面(おもて)をあらためしとかや云々…」「ある人が言っています。赤穂の政治を大野九郎兵衛が上席で全てを仕切ったので、赤穂の庶民は税のとりたてに耐えなかったといいます。そうこうしている間に刃傷事件がおきて、城を没収されることになったので、赤穂の庶民は大いに喜んで餅などをついて大賑いをしました。そこへ大石内蔵助が出てきて政務を行うようになり、困った時に赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので赤穂の人は、大変驚いて赤穂藩にこのような立派なことをする人もいたのか、と考えを改めたということです」ただし、この『閑田次筆』は、浅野が刀傷事件を起こした元禄14年(1701年)から、およそ100年後の文化3年(1806年)に刊行されたものであること。そして、本文中に「ある人曰く」とあるように、領民が大喜びしたという話の出所が誰が言ったのか、まったく不明であるなど、史料的に信憑性に欠ける要素が複数見られるため、『閑田次筆』に見られるこれらの話は、俗説の域を出ないものとされている。また、浅野が切腹した後の当時の赤穂城とその城下町の様子を伝えるものとしては、赤穂城の受け取りの正使を務めた脇坂安照の家臣で、赤穂城で受け取りと在番の実質的指揮をとった龍野藩家老の脇坂民部の日記『赤穂城在番日記』が現存している。この『赤穂城在番日記』には、当時の赤穂城の受け取りから脇坂民部らの在番が終わるまでの仔細が書かれている。日記には城の受け取りが終わり、脇坂民部らが在番となってから、赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っていることなどは書かれているが、赤穂の領民が改易となって喜んでいる様子などは書かれておらず、そうした様子が当時の赤穂で見られなかったことがわかっている。他の大名との関係伊達家浅野長政と伊達政宗との因縁から、浅野・伊達家は江戸時代を通じて不仲であった。赤穂浅野氏と吉田伊達家も同役でありながら、意思疎通を密にした記録は見られない。しかしながら、赤穂浅野家と伊達家に関しては、浅野長矩の治世の項で挙げられているように、赤穂藩で行われていた塩水濃縮法による入浜塩田法を赤穂浅野家から仙台の伊達家に対して技術提供・技術導入の支援などが行われていたため、赤穂浅野と伊達家に限っていえば、不仲であった確証はない。細川家熊本藩細川家4代目の細川綱利は、若くして赤穂藩の藩主となった浅野内匠頭の後見をしていたとされる。そうした関係性を示す史料としては、細川綱利の事績を記録した『御家譜続編』があり、そこには「十三箇条の諌言書」が納められている.「十三箇条の諌言書」は浅野内匠頭15歳、細川綱利39歳の時に、浅野に対して細川が大名としての心構え・在りかたなどを説き、戒めたもので、内容としては治世や家臣の処遇・日常生活の有り方・身の処し方などを細かく説いており、若くして家督を継いだ浅野の後見役を当時の細川が担っていたことを示すものである。また、この他に、『御家譜続編』には、「平権兵衛宛ての書状」が納められており、書状には、細川綱利が浅野内匠頭に召し抱えてる小姓の処遇について諌言している様子などが見える。そして「平権兵衛宛ての書状」と同日に出された「細川綱利に宛てた浅野内匠頭の書状」には、「理由も聞かずに小姓を手放し、(細川殿に)預けろとは合点がいかないので、理由を聞かせて欲しい。その上で、適切に処遇は決める」といった内容の浅野側からの返答が書かれており、浅野が成長してからも両者の関係性は依然と変わらず継続し、維持されながらも、両者とも忌憚のない文面で書状のやり取りを行っていた様子が見える。なお、上記の「細川綱利に宛てた浅野内匠頭の書状」は、旧熊本藩主細川家伝来の美術品・歴史資料を収蔵し、展示している永青文庫にて保存・展示されている。こうした関係にあったことから浅野内匠頭の死後、赤穂浪士達が討ち入りを行うと、細川綱利は大石内蔵助以下17名の赤穂浪士を請取り、主君に忠を尽くした赤穂浪士を厚遇した。 浅野長晟は大坂の役での功績により、改易となった福島正則に代わって42万6千石で安芸国に入封。浅野宗家の安芸国における領国支配は明治維新まで続いた。幕末、薩長同盟が成立すると浅野家の広島藩もこれに加わって薩長芸三藩同盟を締結したが、薩長は広島藩の建白書の内容について背反であるとみなしたため、その中枢からは除外された。1869年(明治2年)、最後の藩主長勲は広島知藩事に任命されるが廃藩置県によって廃藩となり、浅野家も広島を去った。その後浅野宗家は華族(侯爵)に列した。 9、「三次浅野家」(備後三次藩) ※ 1720年(享保5年)絶家浅野長晟の庶長子・浅野長治を祖とする。1632年(寛永9年)、三次郡・恵蘇郡内5万石を分知され、三次郡に居館を建てて支配した。3代長経は1719年(享保4年)に死去し、無嗣のため所領は宗家に返還されたが、長経の弟・長寔に改めて5万石を分知された。しかし、翌年長寔も死去したため、絶家となった。なお、赤穂3代藩主浅野内匠頭の正室阿久里は初代長治の娘である[5]。青山浅野家(広島新田藩)宗家5代浅野綱長の三男・長賢が、1730年(享保15年)に兄で宗家6代吉長から3万石を分知され分家した。定府(江戸常駐)の大名として列せられ、藩主家は江戸屋敷の所在地から青山浅野家(青山内証分家)と呼ばれた。1862年(文久2年)6代長興(のちの宗家13代長勲)が宗家を継いだため、翌年1863年(文久ⅲ年)に長厚が家督を継ぎ、翌年安芸国に帰郷して吉田郡の吉田郡山城跡の山麓に「御本館」(吉田陣屋)を建てて居住した。1869年(明治2年)に新田藩は宗家と併合した。赤穂浅野家(播磨国赤穂藩) ※ 1986年(昭和61年)絶家を得たが、1611年(16年)9月7日に死去し、三男の長重(当時、真岡藩主)がその隠居料を継いだ。公収によって真岡と真壁を合わせて領したが、1622年(元和8年)に常陸国笠間に移封。長直の代に播磨国赤穂、加西、加東、作用の4郡、5,3500石で移封された。しかし3代長矩(内匠頭)の代のとき、江戸城内での長矩の吉良義央への殿中刃傷事件で改易となり、『忠臣蔵』で知られる赤穂事件が起きるきっかけとなった。その後、広島浅野宗家にお預けとなっていた浅野長矩の弟の浅野長広が宝永6年(1709年)8月20日に将軍綱吉の死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710年)9月16日に改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を与えられ、旗本に復した。またこれとは別に、浅野宗家からも300石を支給され続けた。これにより、赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たした。以降、旗本として存続し、明治維新を迎えた。維新後の明治元年(1868年)9月23日からは徳川幕府の推挙により、明治天皇より改めて禄高300俵を賜り、浅野長栄の代から正式に朝臣となった。赤穂浅野家は、浅野長栄の孫である浅野長楽の代まで存続したが、浅野長楽が妻帯せぬまま、1986年(昭和61年)に病死したため、赤穂浅野家は断絶した[7]。 10、「安芸新田藩と浅野氏」「浅野 長賢」(あさの ながかた、元禄6年(1693年) - 延享元年9月25日(1744年10月30日))は、安芸国広島新田藩の初代藩主。広島藩主浅野綱長の三男。子に浅野長喬(長男)、三好房高(三好義継の妹の子生勝に始まる広島藩三好家7代)、養寿院(小笠原忠総正室)、瑞仙院(毛利広寛正室)。幼名は万吉、通称は民部、大膳。官位は従五位下・兵部少輔、宮内少輔。宝永7年(1710年)9月18日、将軍徳川家宣に拝謁し、松平姓を名乗ることを許される。同年12月18日、従五位下・兵部少輔に任官する。後に宮内少輔に改める。享保15年(1730年)5月11日、兄で広島藩主の吉長から3万石を分与されて、支藩である広島新田藩を立藩した。延享元年(1744年)9月25日、52歳で死去し、跡を長男の長喬が継いだ。法号は大通院。墓所は東京都品川区北品川の東海寺。「浅野 長喬」(あさの ながたか、享保17年(1732年) - 明和6年12月12日(1770年1月8日))は、安芸国広島新田藩の第2代藩主。初代藩主・浅野長賢の長男。子に浅野長容(長男)、娘(池田澄時婚約者、のち細川立礼婚約者、のち戸沢正親正室)。幼名は鍋三郎、通称は玄蕃、舎人。官位は従五位下、兵部少輔。延享元年(1744年)11月19日、父の死去により家督を継ぐ。寛延2年(1749年)2月15日、将軍徳川家重に拝謁する。同年12月18日、従五位下・兵部少輔に任官する。存命中に男子が生まれなかったため、明和6年(1769年)12月10日に本家の広島藩から前藩主宗恒の三男(藩主重晟の弟)長員を養嗣子として迎え、その2日後に38歳で死去した。法号は泰潤院。墓所は江戸貝塚の青松寺。 「浅野 長容」(あさの ながかね、明和7年2月18日(1770年3月15日) - 文政7年1月6日(1824年2月5日))は、安芸国広島新田藩の第4代藩主。第2代藩主・浅野長喬の長男。正室は浅野重晟の娘。子に娘(浅野長訓正室)。幼名は粂之助、通称は左京、兵部。官位は従五位下、近江守。父の長喬は長容が生まれる前年の明和6年(1769年)に死去したため、宗家広島藩浅野家からの養嗣子長員が家督を継いでいた。天明8年(1788年)7月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。寛政12年(1800年)9月10日、長員が隠居したため家督を継ぐ。文政元年(1818年)、一門から長訓を養嗣子として迎える。文政7年(1824年)1月6日に55歳で死去し、家督は同年6月17日に長訓が継いだ。 「浅野 長訓」(あさの ながみち、文化9年7月29日(1812年9月4日) - 明治5年7月26日(1872年8月29日))は、安芸国広島新田藩第5代藩主、のち広島藩第11代藩主。浅野家宗家12代。浅野長懋(ながとし、第7代藩主・浅野重晟の四男)の五男。正室は浅野長容の娘・峻。養子に甥(弟・懋昭(としてる)の子)の浅野長勲、浅野雪年(ゆきとし、1861年 – 1936年)がいる。幼名は千之助、為五郎。長訓は新田藩主時代および明治維新以降に名乗った諱であり、広島藩主時代は浅野 茂長(もちなが)を名乗った。官位は従四位下、安芸守、侍従。号は節山。文政4年(1824年)6月17日、広島新田藩主・浅野長容の婿養子として家督を継ぐ。従五位下・美作守に任官し、後に近江守に改める。安政5年(1858年)11月4日、広島藩主・浅野慶熾の死去にともない、その跡を継ぐ(広島新田藩主は甥で養子の浅野長興(のちの長勲)が継いだ)。通称を安芸守に改める。翌年2月7日、従四位下・侍従に任官し、将軍徳川家茂の偏諱を与えられて茂長と改名する。万延元年(1860年)12月16日、左少将に任官した。第9代藩主・浅野斉粛(なりたか)の時代から広島藩は財政難に見舞われていた。このため、長訓は野村帯刀・辻将曹の両名を家老(執政)として登用し、藩政改革を断行する。そして、政治刷新や有能な人材登用、洋式軍制の導入などで藩政を立て直している。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐が起こったとき、停戦を主張し、7月には岡山・徳島両藩主との連署により幕府・朝廷に征長の非と解兵を請願した。明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて諱を長訓に戻し、翌明治2年(1869年)正月24日には、広島新田藩主の浅野長勲に今度は宗家の家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)8月、長訓の東京移住に際し、それを阻止し引き留めようとする農民一揆「武一騒動」が起こっている。明治5年(1872年)7月26日、61歳で没した。墓所は広島県広島市の神田山墓地。 「浅野 長厚」(あさの ながあつ、天保14年2月26日(1843年3月26日) - 明治6年(1873年)8月28日)は、安芸国広島新田藩の第7代(最後)の藩主。浅野家分家・浅野懋績の四男。正室は浅野懋昭(懋績実弟)の娘(浅野長勲の姉妹)。弟に浅野長之(長勲養子、浅野本家を継ぐ)、妹に益子(松浦厚夫人)がいる。幼名は万五郎、為五郎。官位は従五位下、近江守。長厚は、その懋績の子として広島で生まれ、早くに伯父の長訓の養子となった。安政5年(1858年)9月、新田藩主であった長訓が本家の広島藩を継いて第11代藩主となり、懋昭の子(長厚の従兄)の長興(のちの長勲)が新田藩主を継ぐも、長興も広島藩主として本家に転出したため、文久2年(1862年)12月24日、長厚が広島新田藩主となった。文久3年12月16日、安芸国高田郡の吉田に陣屋を構える許可を得る。幕末期の動乱では、本家と行動を共にしている。明治2年(1869年)12月26日、版籍奉還により本家と所領を合併し、新田藩は廃藩となった。また、華族となることも辞退した。明治6年(1873年)8月28日、31歳で死去した。浅野懋績父の浅野懋績(あさの としつぐ、文化13年(1816年)9月15日 - 明治8年(1875年)3月9日)は、広島藩第7代藩主浅野重晟の四男・浅野長懋(ながとし)の子で、第11代藩主長訓の実弟にあたる。幕末から明治時代にかけて画家として活動し、学雲林の名でも知られた。 「浅野 忠義」(あさの ただよし)は、江戸時代前期から中期の安芸国広島藩の家老。三原浅野家第4代。寛文7年(1667年)3月17日、三原浅野家第3代忠真の四男として広島に生まれる。天和3年(1683年)11月、父の隠居により元服して家督を相続する。元禄6年(1693年)、前藩主浅野光晟の葬儀で藩主名代を務める。元禄11年(1698年)5月、領地が隣接する福山藩主水野勝岑が急死し、改易が決まると不慮の事態に備え、領内の情勢の探索した。9月、勅額火事で上野寛永寺が延焼し、幕府より浅野家が修復を命じられ、工事の総司を務める。元禄12年(1699年)、修復工事が完了し、将軍より褒美として銀50枚、時服5領、羽織1領を拝領する。公弁法親王からも褒美として赤革の乗輿を拝領した。元禄13年(1700年)、宮沖新開を干拓する。正徳3年(1713年)、朝鮮通信使の接待役を安芸蒲刈で務めた。享保15年(1730年)1月10日、広島で死去、享年64。菩提寺の妙正寺に葬られた。 11、「旗本と浅野氏」「浅野 長広」(あさの ながひろ、旧字体:淺野 長廣)は、江戸時代前期から中期の旗本。幼名は戌千代(いぬちよ)。通称は大学。一般に浅野 大学(あさの だいがく)として知られる。赤穂事件で改易・切腹となった赤穂藩主・浅野長矩の弟で、のち養子となる。寛文10年(1670年)10月29日、赤穂藩主・浅野長友の次男として江戸で生まれる。母は内藤忠政(鳥羽藩主)の娘・波知。大垣藩主・戸田氏定、岡部藩主・安部信峯は母方の従弟にあたる(母同士が姉妹)。15歳のときに兄・浅野長矩とともに山鹿素行の門下に入り、兵学などを学んだ。元禄7年(1694年)8月21日、兄・長矩から播磨国赤穂郡の新田3000石を分与されて旗本の寄合(3000石以上の旗本で無役の者)に列し、幕府から木挽町に屋敷を賜った。同時に長矩の養子となり、同年9月1日、初めて将軍徳川綱吉に拝謁した。元禄13年(1700年)11月14日には菰野藩主・土方雄豊の養女(雄豊の早世した嫡子土方豊高の娘)を正室に迎えた。この縁組の背景には長矩が天和3年(1683年)に勅使饗応役を命じられた際に雄豊が院使饗応役を務めていたことが関係していると思われる。元禄14年(1701年)3月14日、兄・長矩が江戸城において高家肝煎吉良義央に刃傷に及んで切腹となると、長広や広島浅野本家、従弟の戸田氏定や安部信峯なども連座した。また3000石の所領も召し上げられた。その後、長矩の遺臣大石良雄らは浅野家再興運動を行っていたが、翌年7月18日に広島浅野宗家にお預けとされる。大石らによる吉良邸討ち入りがあったのはそれから5月後のことであった(赤穂事件)。なお長広自身は、お預かり中に宗家からⅠ千俵が支給された。宝永6年(1709年)8月20日、将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710年)9月16日には新将軍徳川家宣に拝謁して、改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を与えられ、旗本に復した。またこれとは別に、浅野宗家からも300石を支給され続けた。ここに赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たした。享保9年(1724年)7月19日、家督を嫡男の長純に譲って隠居した。享保19年(1734年)6月20日に65歳で死去した。兄や赤穂浪士と同じ高輪泉岳寺に葬られた。また四谷の妙行寺には室の墓があり、法名は蓮光院殿妙澄日清大姉。 「浅野 長純」 (あさの ながずみ、宝永4年(1707年) - 宝暦4年7月13日(1754年8月30日))は、江戸時代中期の旗本。浅野長広の子。通称は政次郎、大学、長兵衛。赤穂藩主・浅野長矩の弟・浅野長広の長男として生まれる。母は伊勢国菰野藩主土方雄豊の養女(雄豊の早世した嫡子土方豊高の娘)。父は長矩の刃傷事件に連座して広島藩浅野本家にお預かりになっていたが、宝永7年(1710年)9月16日幕府に500石の旗本として出仕することが許された。享保8年(1723年)2月9日、はじめて将軍徳川吉宗に御目見する。享保9年(1724年)7月19日に父の隠居で家督500石を相続する。延享2年(1745年)9月13日に小姓組番士に列したが、後に小普請役に落とされた。宝暦4年(1754年)7月13日に死去した。享年48。赤穂浅野家の菩提寺である江戸高輪泉岳寺に葬られた。法名は伊園。妻は村上正方の娘。後妻は牧野忠列の娘。家督は子の長延が継いだ。 「浅野 長延」 (あさの ながのぶ、元文元年(1736年) - 寛政4年1月5日(1792年1月28日))は、江戸時代中期の旗本。浅野長広の孫。通称は政之丞、大学、長兵衛。旗本浅野長純の長男として誕生した。母は村上源左衛門正方の娘。宝暦4年(1754年)に父の死去により500石の家督を相続して幕府に出仕。11月25日にはじめて将軍徳川家重に御目見し、宝暦5年(1755年)3月29日、小姓組番士となった。宝暦10年(1760年)1月26日より進物役となったが、明和3年(1766年)11月28日に辞職した。明和4年(1767年)5月7日には番士も辞した。明和5年(1768年)8月3日に隠居し、弟の長貞に家督を譲った。寛政4年(1792年)1月5日に死去、享年57。赤穂浅野家の菩提寺である高輪泉岳寺に葬られた。法名は恕休。 「浅野 長定」(浅野 ながさだ、延享4年(1747年) - 文化5年7月13日(1808年9月3日))は、江戸時代後期の旗本。浅野長広の孫。通称は源三郎、大学。旗本浅野長純の次男として誕生した。母は不詳。子のない兄長延の養子に入った。明和5年(1768年)8月3日に長延の隠居により500石の家督を相続する。12月5日にはじめて将軍徳川家治に御目見し、安永4年(1775年)2月24日、小姓組番士となった。天明6年(1786年)10月11日には安房国平郡の領地を上総国長柄郡に移された。文化5年(1808年)5月26日に死去した。高輪の泉岳寺に葬られた。法名は良俊院殿仁嶺道儀居士。妻は諏訪七左衛門頼容の娘。その間の子の長邦が家督を継いだ。「浅野 長邦」(あさの ながくに、安永5年(1776年) - 嘉永5年3月1日(1852年4月19日))は、江戸時代後期の旗本。通称は久次郎。旗本浅野長貞の長男として誕生した。母は諏訪七左衛門頼容の娘。寛政6年(1794年)11月14日、切米300俵で書院番士として出仕する。父の死にともない、文化5年(1808年)8月4日に500石の家督を相続した。このときに300俵は幕府に返上した。天保2年(1831年)3月28日に隠居して嫡男の長年に家督を譲った。嘉永5年(1852年)閏3月1日死去。高輪の泉岳寺に葬られた。法名は淨邦院殿閑窓蓮夢大居士。妻は小林仙太郎正方の娘。「 「浅野 長年」 (あさの ながとし、? - 文久3年7月28日(1863年9月10日))は、江戸時代後期の旗本。通称は一学。浅野長広の子孫にあたる。旗本浅野長邦の長男として誕生した。天保2年(1831年)3月28日、父の隠居にともない500石の家督を相続する。天保5年(1834年)12月26日、書院番士となる。天保14年(1843年)6月25日、安房国平郡の所領を長狭郡に改められた。文久3年(1863年)7月28日に死去した。高輪の泉岳寺に葬られた。法名は潤光院殿月照賞輪大居士。家督は長男の長栄が継いだ。 「浅野 長栄」 (あさの ながひで、天保10年(1839年) - 明治22年(1889年)10月31日)は、江戸時代末期の旗本、明治時代初期の朝臣。浅野長広の子孫。旗本浅野長年の長男として誕生した。父の死去にともない、文久3年(1863年)9月15日に500石の家督を継いだ。元治元年(1864年)11月7日に書院番士となる。江戸城が新政府軍に無血開城した後の明治 元年(1868年)9月23日から正式に朝臣に転じ、明治天皇より改めて禄高300俵を賜った。朝廷では行政官、後に弁官の支配とされた。明治22年(1889年)10月31日に死去、享年51。高輪の泉岳寺に葬られた。法名は徳昌院殿隆山長榮居士。娘の静子が家督を継いだ。なお、孫で静子の次の当主の長楽(ながら)は妻帯せず、1986年(昭和61年)に病死し、嫡流は絶えている。了
2024年10月22日
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甲斐統治と本能寺の変 秀隆の甲斐統治は2ヵ月程度という短い期間ではあったが、甲府盆地や富士北麓、都留郡において文書が残存し、黒印状を用いた広域支配を試みていたことが知られる。 内容としては、武田氏滅亡の混乱の中で戦火を恐れて逃亡した農民に対して環住すれば作職を安堵すると呼びかけるもの、 西念寺へ寺領安堵と富士参詣者に対する勧進免許を与えたものや御師たちに対して権利を安堵するものがある。諏訪郡においては統治を示す史料は残存していないが、代官として弓削重蔵を配置したと伝わる。 また武田遺臣で九一色衆の渡辺因獄佑に対して仕官を呼び掛けたとされるが、因獄佑は応じなかったという。この様に大半の武田遺臣は織田氏を恐れて積極的に主従関係を結ぼうとせず、甲斐国外へ脱出するか、逼塞して時勢をうかがっていたものと考えられている。 天正10年(1582年)6月2日、京都で信長が明智光秀に襲撃されて自害する本能寺の変が起こると、旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が起こる。同じ織田家中の同僚である森長可、毛利長秀らが領地を放棄し美濃へ帰還する中、滝川一益と秀隆は領国に留まった。 当時三河、遠江、駿河の3か国を領有した徳川家康は甲斐の併合を企図し、武田遺臣らを用いた工作を開始する。 6月5日、米倉忠継、折井次昌に対して甲斐の武士を徳川方へ帰属させる工作を行い、家康の甲斐侵攻を待つように指示した。 翌6日には岡部正綱を甲斐・下山(穴山領)に派遣して菅沼城の普請を命じ、穴山信君横死後の穴山領、穴山家臣衆を従属下に置いている。穴山領は秀隆の所領ではないが、この行動は秀隆に家康に対する疑念を抱かせるには十分であったとされる。 10日頃には、秀隆の知己であったという本多忠政(信俊)を支援を名目として甲府へ派遣した。一説では、秀隆を説得して家康に従属させるのが目的であったともいう。 12日、家康は岡部正綱と曽根昌世を通じて甲斐の武士に秀隆の所領を対象とした知行安堵状を発給した。これは徳川氏が甲斐計略を企画していることを明示するものであった。 14日、一揆勢と交渉していた本多忠政は事態収拾のためとして秀隆に上方へ帰るように勧めた。しかし一方では岡部、曽根が甲斐国内で知行安堵状を発給していることを察知した秀隆は、家康の甲斐横領の意図は確実と判断しており、忠政を斬殺して家康との断交の意思を明確にした。 18日、忠政の家臣の呼びかけによって結集した武田遺臣に襲撃され、岩窪において三井弥一郎に討ち取られた。また自害したともいう。享年56。 秀隆の死により空域化した甲斐国は、相模の北条氏直との争奪戦、いわゆる「天正壬午の乱」を制した徳川家康が領した。 山梨県甲府市岩窪町には秀隆の首塚とされる河尻塚(甲府市指定史跡)、あるいは屋敷跡が伝えられている。 息子の秀長は秀隆の遺領の大部分を相続できなかったが、羽柴秀吉に仕え転戦して知行を得た。のち関ヶ原の戦いで西軍につき敗戦、戦死または自害した。秀長の弟である鎮行はのちに江戸幕府に召し出され、子孫は200俵の幕府旗本として存続した。 娘は初め浅野左近に嫁いだが後家になっており、前田利家の正室・芳春院の姪にあたるという縁から、息子と共に前田家へ引き取られ養われることになった。後、利家の差配によって末森城主・土肥親真に再嫁し、土肥家次を儲けた。親真が賤ヶ岳の戦いで戦死すると利家より知行100石を与えられ末守殿と称された。浅野左近と末守殿の息子は利家の命で前田家重臣の青山吉次の養子に入り、青山長正と名乗った。吉次の死後はその家督を継ぎ、魚津城代を務めた。 信長の信任厚い重臣であり信忠の輔弼の臣でもあった。長篠合戦の折、信長が秀隆に兜を下賜し、危急の時は秀隆を名代として派遣するのでその指示に従うように信忠に厳命したという逸話が残る。 天正2年(1574年)7月、長島一向一揆攻めの最中の信長から「身体は伊勢長島にあっても、心は其方のことだけ心配している」と君臣愛あふれる書状を受け取っている。同年8月にも「陣地を堅固に固めた様子を見せたい」「長島を討ち果たしたら巡見しに行く」といった内容の書状を送られており、非常に仲睦まじい関係であったことが窺える。 天正8年(1580年)3月、馬廻衆や高山重友など大名格の武将と共に信長から安土城下に屋敷を与えられている。信長は安土城下に家臣が屋敷を作ることを好み、重臣たちもその意向を知って屋敷を作ることを望んでいたとされる。 武田信玄に信濃を追われていた小笠原貞慶に、信濃の武士たちの反武田化を呼び掛ける内容の書状が残されており、武田家臣へ調略を行っていたことが明らかとなっている。秀隆の働きかけが武田家臣の離反に重要な役割を果たしたとされ、実際に滝沢要害を守る下条九兵衛が寝返ったことにより、河尻軍は難所の岩村口を難なく突破している。 甲州征伐の際、秀隆は何度も信長より指令を受けているが、その中で作戦の指示の外に信忠やその配下の若い部将たちの軽率な行動を統制するよう繰り返し命ぜられている。このことから秀隆が信忠の後見役であり、信忠軍団の実質上の核であったと言える。 甲斐国で略奪・放火の限りを尽くすなどの圧政を行ったとされるが(『甲斐遺文録』『甲斐国歴代譜』)、これらは近世の地誌類などに記録されているだけで同時代史料では全く確認できないものである。秀隆の圧政なるものは、信長・信忠父子が武田氏縁の寺社に極めて厳しい措置を取ったことや過酷な武田遺臣狩りを行ったことが秀隆一人の責任と誤解されたことが原因ではないかとされる。 江戸時代に入っても甲府城下町には秀隆の近習らが居住したことに由来する川尻町という地名が残っていた。しかし宝永2年(1705年)、甲斐源氏の末裔を称し武田信玄を崇拝する柳沢吉保が行った甲府の町名変更により緑町と改称されている。 美和神社が所蔵する甲冑・「朱札紅糸素懸威胴丸 佩楯付」(山梨県指定有形文化財)は、社伝では武田信玄の元服鎧とされているが、甲冑研究家の三浦一郎は、同鎧はその形式からして信玄の元服した時期よりも新しい天正年間の作で、前田利家所用の金小札白糸素懸威胴丸具足(重要文化財・前田育徳会所蔵)など織豊政権下で活動した武将の甲冑との間に共通した製法や意匠が見られると評し、同鎧の実際の所有者を武田氏滅亡後に甲斐を治めた河尻秀隆かそれに従属した人物と推定している。なお、同鎧の左肩部分にある削ぎ落された箇所については、秀隆絶命時の刀疵の可能性も想定される。 河尻氏の墓地は、岐阜県加茂郡坂祝町長蔵寺にある。 〇「森 長可」(もり ながよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・源義家の六男・義隆を祖とする森氏(仮冒の説あり)。父は森可成。兄に森可隆、弟に森成利ら。受領名は武蔵守。 家督相続 永禄元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し勝蔵 長可を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。 元亀4年(1573年)3月、第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ信長よりその働きを称された。同年の槇島城の戦いでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。翌天正2年(1574年)には第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた。以後は信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。 また、天正5年(1577年)頃から内政にも参加するようになり、地元の兼山城(現・岐阜県可児市兼山)周辺の発展の為に間近を流れる木曾川を活かしての商業を重視し河港(兼山湊)の整備、兼山の城下町の区画整理、六斎市の開催などを行っている。また内陸部で入手の難しい海魚・塩の販売需要を見込んで専売制を敷き、地元商人に専売特権を与える見返りとして税収を得た。この専売制は効果があったようで森家が美濃を去った後も、商人たちが尾張藩の美濃代官に長可の書状を持って制度の存続を求めると、尾張藩では専売ではなかった魚と塩の専売を特例として認めさせ、明治時代に到るまでこの制度は存続した。 甲州征伐 天正10年(1582年)の甲州征伐においては団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢。忠正と長可は2月6日に木曽口より信濃国の武田領へと侵攻し、14日には松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直も潰走。15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる。仁科盛信の守備する高遠城攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。月蔵山を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へ鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。 そのまま忠正と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たっている。これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられた。また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。 信濃入領 天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取りかかった長可であったが、信濃国の政情はいまだ不安定であり、さらに上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにしてわずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。 残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが、領内の統治が容易では無いことを痛感した長可は、国衆の妻子を海津城に住まわせることを義務付け、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住まわせた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし、統治の確立に努めた。 越後侵攻 信濃国の仕置きを済ませた長可は、上杉景勝が柴田勝家に攻められている越中魚津城の救援に向かったという知らせを受けて、同年の5月23日に5,000の兵を率いて越後国への出兵を開始。越後国境付近の関川口の守りを突破し芋川親正・安田某らの守る田切城(妙高市大字田切字東裏にあった城)を落として、上杉領深くまで侵攻した。6月までに春日山城からほど近い二本木(上越市)を守る上条景春を破り[5]、同地に陣を張った。当時、春日山城の兵は殆ど魚津城の救援に向かっていた。手薄な春日山城に長可が肉薄すると、上杉景勝も春日山城防衛のために魚津城の救援を諦めざるを得なかった。景勝は5月27日天神山城の陣を引き払い春日山城へと兵を返す事となった。これによって景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し、上杉軍は越中国における重要な拠点を失う。 しかし6月2日に本能寺の変で信長が討たれると、敵地深くに進攻していた長可は一転して窮地に立たされた。6月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退。軍議を開いて信長の仇を討つことを決定した。しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちは出浦盛清を除いてほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動していた。これに対し長可はまず海津城の人質を逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人質を連れて南進した。長可の家臣・大塚次右衛門が一揆と交渉したが、一揆衆は森勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利する。森軍は松本に到着すると人質を残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した。唯一、撤退に協力した出浦盛清に長可は深く感謝し脇差を与えている。 撤退途中に長可は「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」という密告を城下で商売をしていた金山の商人から受けた。長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着日を書いた書状を義昌に送るとわざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門を破城槌で破壊して木曽福島城に押し入るという策略を実行した。一気に乱入した家臣らは義昌の息子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束し、暗殺の企みを封じた。翌日になり森軍は木曽福島城を後にしたが長可は岩松丸を拉致したまま解放せずそのまま帰路を無事に往く為の人質として利用している。東美濃入りした後も苗木遠山氏の遠山友忠などが暗殺を企てていたが、木曾家から手を出さぬようにと懇願された事で結局は手出しはされず森軍は無事に旧領の金山へと辿りついた。なお、安全圏に達したと判断した長可は金山に程近い大井宿でようやく岩松丸を解放している。 東美濃統一 天正10年(1582年)6月24日に無事に旧領への帰還を果たし、翌日には岐阜城に赴き織田信雄、信孝、三法師に挨拶し弔辞を述べたという。各務元正ら成利に与力として付けていた部下らと合流し旧領に復した長可であったが、元与力の肥田忠政・久々利頼興らが離反してその勢力は衰退しており、更に小里光明・妻木頼忠・遠山友忠・斎藤利堯らも長可の排斥を企むなど周囲は敵に囲まれた状態であった。そこで長可は敵に一致団結される前に各個撃破する事を決め、7月2日未明に肥田忠政の米田城を攻めた。忠政は病を患っていた為、同夜に加治田城の斎藤利堯を頼って落ち延びた。長可は7月3日の牛ヶ鼻砦での合戦を経て堂洞城跡に入り加治田城を攻めたが、これを落とすことは出来ず烏峰城に帰還した(加治田・兼山合戦)。しかし同年中に肥田忠政の病は重くなり加治田城で死去し、跡継は家臣の会議でも決まらなかった為、肥田家臣は離散し森家に属す者も多かった。長可は元家臣である大森城の奥村元広と上恵土城の長谷川五郎右衛門が信州から帰還しても森家に挨拶も使者も寄越さず、更に肥田忠政に内通したとして大森城を重臣の林為忠に攻めさせ、更に上恵土城を攻めた為、奥村元広は城を捨てて落ち延び、長谷川五郎右衛門は自害した[6]。 長可は同月中に今城・下麻生城・野原城・御嵩城を攻略し、根本城の若尾元昌、土岐高山城の平井光村、妻木城の妻木頼忠は戦わず森家に帰順したため[6]、森家は東濃において大きく勢力を伸ばした。更に長可は、間を置かずに幸田孫右衛門を大将として遠山友忠の本拠である苗木城へと軍勢を派遣するが、道中で孫右衛門は遠山軍の奇襲を受けて戦死した為、苗木城攻略は頓挫した。この失敗を受けて長可はひとまず戦を止め久々利頼興と和睦し、遠山友忠とは睨み合いを続けた。また外交面では変後すぐさま羽柴秀吉に接近し、東美濃の諸氏から秀吉への取次の役目を申し付けられ、「当国に不届き者が居れば成敗するように」という旨の書状が羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の連名で出され反抗諸氏の領に攻め込む大義名分を得ている。 翌天正11年(1583年)の正月には宴を開いて久々利頼興を金山城に呼び寄せて加木屋正則により仇討させ、同日夜間に久々利城を攻めたて落城させた。また賤ヶ岳の戦いに際して柴田勝家と連携して織田信孝家臣の遠藤慶隆・遠藤胤基が兵を動かし須原城・洞戸城を攻略したという報が入ると佐藤秀方と連絡を取って遠藤領に侵攻。立花山城に篭った遠藤軍を攻め立て、遠藤清左衛門・池戸与十郎・井上作右衛門を討つも要害の立花山城は容易には陥落せず、やむなく遠藤軍の補給路を断っての兵糧攻めへと切り替えた。蓄えの充分で無い立花山城の兵糧はすぐに尽き、進退極まった遠藤軍は討死覚悟で総攻撃に出ようとするが佐藤秀方から信孝自刃の知らせを聞かされると戦意を喪失し石神兵庫・遠藤利右衛門の両重臣を人質に差し出し降伏。長可は木尾村で慶隆・胤基両名と会談し和睦を成立させ、降伏を飲んだ礼として鞍付馬を両名に贈呈した(立花山の戦い)。 その後、兵を再編し同年5月に自ら出馬し二度目の苗木城侵攻を開始。5月20日に陥落させ、遠山友忠は城を脱出して徳川家康を頼って落ち延び、城に残った遠山兵は城を枕に悉く討死した。更に、明知城の明知遠山氏(遠山利景、遠山一行等)と、信孝方の小里城主・小里光明を美濃国から追放し、東美濃一の堅城である岩村城も城主・団忠正が本能寺の変で信忠と共に討ち死にしていたため接収し、信孝の重臣であった斎藤利堯も加治田城を手放したため加治田衆を含めてこれを接収し、長可は旧領復帰から11ヶ月ほどで美濃における抵抗勢力を完全に駆逐し、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した。統一後は領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考え、加治田城を始めとするいくつかの城を廃城処分としている。 また、この頃より書状の上で武蔵守を自称するようになっている。
2024年10月18日
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武田討伐と関東鎮定 天正10年(1582年)、信長が甲州征伐を企図し、嫡男の織田信忠に軍を与えて信濃国へ攻め込ませた。 この際に一益は2月12日に出陣し、家老・河尻秀隆と共に軍監となり、森長可らと合わせて攻略戦の主力となっている。一益はこの甲州征伐において武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げている。また、甲斐国で北条氏政の使者が信長に拝謁した際、やはり一益が申次を行っている。 戦後処理として、武田遺領は織田家臣に分割され、3月23日に一益は上野一国と隣接する信濃小県郡・佐久郡を与えられ「関東御取次役」を命じられる。なお、『北条五代記』『関八州古戦録』など後代の軍記物によれば一益の地位は「関東管領」であったとされるが、関東管領は室町幕府体制において設置された役職であり、信長が足利義昭を追放していることと矛盾する(室町幕府や関東公方の役職を認める事になる)。 さらに、同時代史料において一益が「関東管領」であったことを示すものがみられないため、これを疑問視する説もある。 しかし一益は領地よりも茶器の「珠光小茄子」を所望したが叶わなかったと言い、三国一太郎五郎への手紙の中で「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候」と悔しさを述べるという、名物の重みを感じさせる逸話が残っている。 信長は名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜し(『信長公記』)(『関八州古戦録』)、引き続き一益を関東統治の取次役にした。3月29日には、河尻秀隆が甲斐一国(穴山氏支配の河内領除く)と諏訪郡、森長可が信濃川中島4郡、毛利長秀が伊奈郡を与えられ、木曾義昌が木曽谷と安曇郡、筑摩郡を安堵されている。 以後、一益は上野箕輪城、次に厩橋城に入り、ここで関東の鎮定にあたることになる。また沼田城には滝川益重が入り、西毛の松井田城には津田秀政、佐久郡の小諸城には道家正栄が入った。一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵することを申し渡した為、近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕した(家臣・与力の項参照)。 この時、天徳寺宝衍と倉賀野秀景は側近とされ、関東の北条氏政父子、佐竹義重、里見義頼だけでなく、陸奥国の伊達輝宗、蘆名盛隆とも連絡をとっており、北条氏政に下野祇園城を元城主・小山秀綱に返還させるなど、強大な権限を持っていた様子がうかがえる。 また北条氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた太田資正、梶原政景父子は、信長の直参となることを望み、申し入れて許され、一益のもとに伺候している。但し、千葉邦胤、武田豊信は出仕を拒否し、足利義氏とその家臣・簗田晴助には一益からの連絡自体が行われていない。一益も室町幕府の役職である関東公方への対応に苦慮したものと考えられる。 同年5月上旬、一益は諸領主を厩橋城に集め能興行を開催。嫡男、次男を伴い自ら玉蔓を舞っている。更に23日、一益の命により沼田城主の滝川益重が兵を率いて三国峠を越えようとしたが、上杉景勝方の清水城主・長尾伊賀守と樺沢城主・栗林政頼に破れたと伝わる(『北国太平記』)。 〇「丹羽 長秀」(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀ともいう。羽柴越前守とも称した。 天文4年(1535年)9月20日、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は天文19年(1550年)から織田信長に仕えた。 天文22年(1553年)、梅津表の合戦にて19歳で初陣。弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは信長方に付き、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにも今川義元の攻撃部隊には入っていないものの従軍はしている。 『信長公記』などから斎藤龍興との美濃国における戦いで台頭したと考えられ、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江の六角氏征伐で箕作城を攻めるなど武功を挙げた(観音寺城の戦い)。 姉川の戦いの直後から信長は8ヶ月におよぶ近江佐和山城の包囲を続けていたが、元亀2年(1571年)2月24日に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって長秀が佐和山城主となった。 若狭の支配 越前国や若狭国で勢力を振るっていた朝倉義景討伐に加わり、信長の命令で義景の母(高徳院)や妻(小少将)、子の朝倉愛王丸を処刑した。 天正元年(1573年)9月、長秀は若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。 若狭国内での当初の大まかな知行宛行は遠敷郡が長秀、三方郡が粟屋氏、大飯郡が逸見氏であり各領主は所領内に独立した支配権を持っていた。 この頃の長秀の家臣として溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、与力としては信長直臣となった若狭衆(武田元明・粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏及び旧臣)が他国への出兵時に長秀の指揮下として軍事編制に加えられた。更に軍事の他に若狭の治安維持や流通統制などの一国単位の取りまとめについても長秀が担っていた。 なお、大飯郡は逸見昌経の死によって、溝口秀勝が長秀家臣から信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受けた。本能寺の変に際して若狭では武田元明が明智方について没落したのに対し、粟屋・熊谷・山県・寺西の与力各氏は長秀の支配下に入り、家臣となった。 織田家の双璧 その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。さらに長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城普請の総奉行を務めるなど多大な功を挙げている。 天正7年(1579年)には但馬の羽柴秀長とともに、丹波に攻め込み氷上城の波多野宗長に勝利している。 天正9年(1581年)には、越中木舟城主の石黒成綱を信長の命令で近江で誅殺した。越中願海寺城主・寺崎盛永父子も、信長の命令で、長秀が城主をつとめる近江佐和山城で幽閉の後、切腹となった。 同年の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという厚遇を与えられている。また天正伊賀の乱にも従軍しており、比自山城の戦いなどで戦っている。 家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後この位置に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた。 本能寺の変後 天正10年(1582年)6月、三好康長・蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられる。また、上洛中の徳川家康が大坂方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていた。 しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害した。その後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討った。 変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。 このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かった。 また、本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復した。 清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。結果として、諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大名となった。 天正13年(1585年)4月16日、積寸白(寄生虫病)のために死去した。享年51。跡目は嫡男の長重が継いだ。 『秀吉譜』によれば、長秀は平静「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず自刃した。 火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきた。拳ぐらいの大きさで、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあった。秀吉が見て言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう」と、竹田法印に賜ったという。 後年、これを読んだ平戸藩主・松浦静山は、この物を見たいと思っていると、寛政6年(1793年)初春、当代の竹田法印の門人で松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができた。すると、内箱の銘は『秀吉譜』と相違があり、それによれば久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に指し、虫を得て死去した。しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩いた。秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお死ななかった。 竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだ。秀吉が功を賞してその虫を賜り、代々伝える家宝となったとあった。外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていた(内箱・外箱の銘は、天明7年(1787年)に竹田公豊が書いたものであった)。 しかし、静山が借りたときには、本物は別の箱に収められて密封されていたため持って来なかったというので、年月を経て朽ちて壊れてしまい、人に見せることができなくなってしまったのだろうと静山は推測し、模型の模写を遺している。これらによると、石亀に似て鳥のような嘴をもった怪物というのは、寸白の虫(ただし真田虫ではなく蛔虫)と見るのが妥当である。証拠の品を家蔵する竹田譜の記事に信憑性が認められるからである。割腹して二日後に死亡したことから判断して、いわゆる切腹ではなかった。
2024年10月12日
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9「シーボルト事件で連座で高野長英獄死」軟禁状態のシーボルトは研究と植物の乾燥や動物の剥製つくりをしてすごしたが、今までの収集品が無事オランダやバタヴィアに搬出できるかどうか心配であり、コレクションの中には個人的に蒐集していた標本や絵画も所有しており、これが彼一人の自由には出来なくなっていた。シーボルトは訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと彼らに罪を負わせることを拒絶した。自ら日本の民になり、残りの人生を日本に留まることで人質となることさえ申し出た。高橋は1829年3月獄死し、自分の身も危ぶまれたが、シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救ったといわれている。しかし、日本の地図を持ち出すことは禁制だと彼自身知っていたはずであり、日本近海の海底の深度測定など、スパイの疑惑が晴れたわけではない。シーボルトは高野長英から、医師以外の肩書は何か、と問われて、「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」とラテン語で答えたと渡辺崋山が書いているが、これは「コレスポンデントヴェルデ」であり、内情探索官と訳すべきものである。*高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者。通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け死去した。1898年(明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』『わすれがたみ』『三兵答古知機』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。誕生陸奥国仙台藩の一門である水沢領主水沢伊達家家臣・後藤実慶の三男として生まれる。養父の玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家には蘭書が多く、長英も幼いころから新しい学問に強い関心を持つようになった。文政3年(1820年)、江戸に赴き杉田伯元や吉田長淑に師事する。この江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。シーボルト事件文政3年(1820年)、父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となっている。文政11年(1828年)、シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れている。まもなく豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという(異説もある)。この間、義父玄斎が亡くなっており、長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、逡巡したもののついに拒絶。家督を捨て、同時に武士の身分を失っている。天保8年(1837年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。翌天保9年(1838年)にこれを知った際、長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。長英はそうした意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)。天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『わすれがたみ』がある。弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。脱獄の際、三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の役人から受けたが、長英はこれを無視し、再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、大間木村(現:さいたま市緑区)の高野隆仙のもとに匿われた[2]。その際の高野家離座敷は文化財として公開されている。その後、一時江戸に入って鈴木春山に匿われ、兵学書の翻訳を行うも春山が急死。その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したものとされる。しかし、この生活も長くは続かず、しばらくして江戸に戻り、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。医者になれば人と対面する機会が多くなるため、その中の誰かに見破られることも十分に考えられた。そのため硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという。勝海舟 「高野長英は有識の士だ。その自殺する一ヶ月ばかり前に横谷宗與の照会で、夜中におれの家へ尋ねて来て、大いに時事を談論して、さて帰り際になって、おれに言うには、拙者は只今潜匿の身だから、別に進呈すべき物もないけれど、これはほんの志ばかりだといって、自分が謄寫した徂徠の『軍法不審』を出してくれた」尚歯会入会天保元年(1830年)江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業する。まもなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。わが国で初めて、ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る西洋哲学史を要約した。天保3年(1832年)、紀州藩儒官遠藤勝助の主宰する、天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入り、崋山や藤田東湖らとともに中心的役割を担った。長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果である。鳴滝塾出身者の宴会で、オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりが設けられた。多くの者は酒が入るうちついつい日本語をしゃべって罰金を取られていたが、長英のみオランダ語を使い続けていた。それを妬んだ仲間の伊東玄朴が、長英を階段から突き落としたが、長英は「GEVAARLIJK!」(オランダ語で「危ない!」)と叫んだ、という逸話がある。長英自身才能を鼻にかけて増長する傾向があり、仲間内の評判も悪かったが、当時の蘭学者として最大の実力者であると周囲は認めざるを得なかった。
2024年10月08日
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1826年には将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても学者らと交友し、将軍御典医桂川甫賢、蘭学者宇田川榕庵、元薩摩藩主島津重豪、中津藩主奥平昌高、蝦夷探検家最上徳内、天文方高橋景保らと交友した。この年、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送る。徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられた。来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを1827年にもうける。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksaと命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測している。1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。帰国1830年、オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る。滞在中のアントワープで東洋学者のヨハン・ヨーゼフ・ホフマンと会い、以後協力者となる。翌1831年にはオランダ政府から叙勲の知らせが届き、ウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる。同年、蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。1832年にライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設。ルートヴィヒ1世からもバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草している。1853年のアメリカの東インド艦隊を率いたマシュー・ペリー来日とその目的は事前に察知しており、準備の段階で遠征艦隊への参加を申し出たものの、シーボルト事件で追放されていたことを理由に拒否された。また、早急な対処(軍事)を行わないように要請する書簡を送っている。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族(爵位は持っていない、戦前の日本であれば華族ではなく士族相当の層)出身の女性、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女をもうけた。再来日とその後1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す。江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される。また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就職させる。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。1863年、オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される。日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高価を理由に拒否される。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される。1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力する一方、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められ、これを渋った。その渋りようは相当なもので、僅か3箱だけを数年後にようやく返したほどだった。バイエルン国王のルートヴィヒ2世にコレクションの売却を提案するも叶わず。ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催、1866年にはミュンヘンでも開く[11]。再度日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した。70歳没。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地 にある。年表1796年2月17日 - 神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルクに生まれる1805年 - ハイディングフェルトに移住1810年 - ヴュルツブルクの高校に入学1815年 - ヴュルツブルク大学の哲学科に入学。家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことに1816年 - バイエルン王国の貴族階級に登録1820年 - 大学卒業。国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業1822年 - ゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命1822年 - オランダのハーグに赴く1822年7月 - オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる1822年9月 - ロッテルダムから出航1823年3月 - バタヴィア近郊のヴェルテフレーデン(ジャカルタ市内)の第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任1823年6月末 - バタヴィアを出航1823年8月 - 来日1824年 - 鳴滝塾を開設1825年 - 出島に植物園を作る1826年4月 - 第162回目のオランダ商館長(カピタン)江戸参府に随行1827年 - 楠本滝との間に娘・楠本イネをにもうける1828年 - シーボルト事件1830年 - オランダに帰国1831年 - オランダのウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる1831年 - 蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託される1832年 - ライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設1832年 - バイエルン王国・ルートヴィヒ1世からバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る
2024年10月08日
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3「社会党平和四原則」・1月21日平和四原則の言及・全面講和運動】これに対して知識人,革新陣営を中心に全面講和運動が高まり,50年1月に平和問題談話会は〈講和問題についての声明〉を発表し,〈日本の運命は,日本が平和の精神に徹しつつ,而も毅然として自主独立の道を進む時にのみ開かれる〉として,全面講和以外にないと主張した。また,51年1月の日本社会党第7回大会では,〈講和問題に対する態度に関する件〉で,全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対の平和三原則に,再軍備反対を加えて平和四原則を決定した。この平和四原則は同年3月の総評第2回大会でも決定されるなど,労働組合,農民組合などにも急速に波及していった。【総評】この大会で採択された総評の綱領の前文には,総評の運動の基本理念が〈あらゆる自由にして民主的な労働組合の結集された力によって,労働者の労働条件を維持,改善し,その政治的,社会的地位の向上をはかり,日本の民主主義革命を推進するとともに,社会主義社会の建設を期す〉と述べられていた。さて,総評は51年の第2回大会で,全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対の〈平和四原則〉を決定する。また,この大会では前年の結成大会で採択された行動綱領の中に示されていた,国際自由労連にすみやかに加盟するという方針が変更され,それ以後,国際労働組織への加盟は単産の決定にまかせることになった。【日本社会党】左右の対立は50年1月の第5回大会で人事と青年部問題をめぐり紛糾し党分裂となったが,まもなく妥協が成立し,4月の大会で統一を回復した。党は統一を回復したが,朝鮮戦争が勃発し講和が近接した51年1月の第7回大会では講和と平和問題をめぐってふたたび左右は対立し,空席だった委員長に鈴木が選ばれ,全面講和,中立,基地反対,再軍備反対の平和四原則を確定した。鈴木は〈青年よ再び銃をとるな〉とのアピールを発した。【労働運動】[第2期(1951‐60)] (1)占領軍のバックアップのもとに成立した総評は,51年3月の第2回大会を機に民同勢力の左右への分解をはらみながら〈ニワトリからアヒルへ〉と変貌を遂げていった。当時,対日講和会議を前にして,全面講和か単独講和かをめぐって国論が二つに分かれていたが,総評はこの大会で右派の主張を抑えて平和四原則(全面講和,中立堅持,軍事基地反対,再軍備反対)を採択することによって,朝鮮における〈国連軍の警察行動〉支持という結成当初の姿勢から転換し,高野実を新しい事務局長に選出した。この転換は,朝鮮戦争とそれにともなう日本の軍事基地化・再軍備の進展のなかで,日本が戦争に巻き込まれるのではないかという不安が大衆的に広まっていったことを背景とするものであった。「平和四原則」について言及している用語解説の一部を掲載しています。出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報4「ダレス米講和特使来日」・1月25日・ジョン・フォスター・ダレス(1888年2月25日 – 1959年5月24日)は、アメリカ合衆国の政治家。サンフランシスコ平和条約が締結された1951年9月8日、その同日に調印された日米安全保障条約の「生みの親」とされる。1953年から1959年までドワイト・D・アイゼンハワー大統領の下で第52代国務長官を務めた。ジャパン・ロビー。反共主義の積極的なスタンスを主張した、冷戦時代の政治家であった。インドシナでベトミンと戦うフランスの支援を主張し、1954年のジュネーブ会議では握手を求める周恩来を拒絶した。講和発効以降、国際社会に復帰したばかりの日本(特に保守陣営)にとっては強い反共主義者である「ダレスの親父さん」の意向は無視できないものがあった。青年期長老派教会の牧師アレン・メイシー・ダレスの息子としてワシントンD.C.で生まれる。父方の祖父ジョン・ウェルシュ・ダレス(英語版)はインドで牧師をしていた。ダレスは弟アレン・ウェルシュ・ダレスと共にニューヨーク州ウォータータウンの公立学校に入学した。ダレスはプリンストン大学に進学してフィー・ベータ・カッパ会(英語版)の会員となり、1908年に大学を卒業した。卒業後はジョージ・ワシントン大学大学院に進んだ。ダレスは司法試験に合格して弁護士となり、ニューヨークのサリヴァン・アンド・クロムウエル(英語版)に加わり国際法を専門とした。同事務所はロックフェラー財団系企業に奉仕した。第一次世界大戦第一次世界大戦が勃発するとアメリカ陸軍へ志願したが、弱視のため入隊は拒絶された。入隊できなかったダレスは戦争産業委員会(英語版)のメンバーとして軍需物資の調達に従事し、後にサリヴァン・アンド・クロムウエルに戻った。1915年に叔父ロバート・ランシングに同行してサリヴァン・アンド・クロムウエルの業務視察のためニカラグア、コスタリカ、パナマを訪問した。しかし、ランシングの目的はドイツ帝国に対抗するためのラテンアメリカ首脳と会談することであり、ダレスは反ドイツのコスタリカ大統領フェデリコ・ティノコ(英語版)を支持し、親ドイツのニカラグア大統領エミリアーノ・バルガス(英語版)にドイツとの外交関係を解消するように圧力を掛けることを進言した。また、パナマに対しては「対独宣戦布告を行えば、パナマ運河の年間運河手数料の税金を免除する」と提案している。パリ講和会議にはアメリカ代表団の法律顧問として参加し、ヴェルサイユ条約のうち231条(英語版)(戦争責任条項)作成にノーマン・デイヴィスと共に携わり、ウッドロー・ウィルソンの指示で戦争補償委員に任命された。また、エレノア・ルーズベルトと共に外交政策協会(英語版)のメンバーとなり、国際連盟のアメリカ人職員を支援した。ダレスはドイツへの戦後賠償を強硬に求めたが、後にドーズ案の作成に関わった。これによりドイツにアメリカの資本が投下され、イギリス・フランスは賠償金を得てアメリカからの負債を完済した。
2024年10月04日
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永禄7年(1564年)、美濃国の斎藤龍興との戦いの中で、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに誘降工作を行い成功させた。 秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)。このことは、秀吉が信長の有力部将の一人として認められていたことを示している。 永禄9年(1566年)に、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話がある。また、この頃、蜂須賀正勝・前野長康らを配下に組み入れている。 永禄10年(1567年)の斎藤氏滅亡後、秀吉の要請により信長から竹中重治を、牧村利貞、丸毛兼利と共に与力として下に付けられている(『豊鑑』)。 永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されている。同年、信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。 永禄12年(1569年)5月に毛利元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲国奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して元就は信長に山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼し、これに応じた信長は同年8月1日、秀吉を大将とした軍2万を派兵した。秀吉はわずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。 元亀元年(1570年)、越前国の朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に盟友であった北近江の浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲した。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげた(金ヶ崎の退き口) 。 そして姉川の戦いの後には、奪取した横山城の城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事した(志賀の陣)。その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の赦免から京極丸を攻め落とすなど浅井・朝倉との戦いに対抗を挙げた。 元亀3年(1572年)8月頃、丹羽長秀、柴田勝家のような人物になりたいという希望から木下氏を羽柴氏に改めている(羽柴秀吉 )。 織田政権下での台頭 天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした。さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などを積極的に登用した。天正2年(1574年)、筑前守に任官したと推測されている。 天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍する。天正4年(1576年)、神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。 天正5年(1577年)、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で兵を撤収して帰還してしまった。その後、勝家らは謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒して叱責し、秀吉は進退に窮したが、織田家当主・織田信忠の指揮下で佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀と共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げた(信貴山城の戦い)。 播磨・但馬の攻略 - 中国攻め 詳細は「中国攻め」を参照 天正5年(1577年)10月23日、信長に西国の雄毛利輝元ら毛利氏の勢力下にある山陽道・山陰道である中国路攻略を命ぜられ、秀吉は播磨国に出陣した。播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを従える。11月中に播磨は平定できると報告して、信長より、その働きを賞賛される朱印状を送られた。 秀吉は更に播磨国から但馬国に攻め入った。岩洲城を攻略し、太田垣輝延の篭もる竹田城を降参させた。以前から交流のあった小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受けて、ここを播磨においての中国攻めの拠点とする。播磨において一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。 天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前・美作の大名・宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許される。 天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。 同年、播磨から再び北上して但馬に侵攻し、かつての守護山名氏の勢力を従える。最後まで抵抗していた山名祐豊(嫡男の山名氏政は落城前に羽柴家に帰参)が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏とした。自らは播磨経営に専念するために弟である羽柴秀長を有子山城主として置き、但馬国の統治を任せた。 山名氏政を自らの勢力に取り込むことにより但馬の国人の反乱も起きず、羽柴秀長による但馬経営は円滑におこなわれた。秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。 天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国(但馬守護・山名氏政の一門)を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国地方西半を支配する毛利輝元との戦いは続いた。 同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。 天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。 このように中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間はかかっても敵を確実に下して味方の勢力を温存する秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾無く発揮されている。 信長の死から清洲会議まで 詳細は「本能寺の変」および「山崎の戦い」を参照
2024年09月27日
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2「蟹江城合戦の起因」(かにえじょうかっせん)は、天正12年(1584年)6月に起こった尾張国南西部における羽柴秀吉(豊臣秀吉)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。主に蟹江城における篭城戦であった。蟹江合戦とも。 *豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体:豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされている(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、従来にはない斬新な奇策や政策で次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清洲会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。 大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として知られる。 秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことは出来ていない。生母である大政所は秀吉の晩年まで生存しているが、父親については同時代史料に素性を示すものがない。また大政所の実名は「仲(なか)」であると伝えられているが、明確なものではない[3]。 秀吉は自身の御伽衆である大村由己に伝記『天正記』を書かせているが、大村由己による秀吉の素性の説明は、本毎に異なっている。 大村は本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分として描いたが、『天正記』の中の関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述しており、天皇の落胤であることがほのめかされている。当時の公家に萩中納言という人物は見当たらず、関白就任を側面援護するために秀吉がそのように書けと云ったとみられている。また松永貞徳が著した『載恩記』にも、秀吉公が「わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりか玉体に近づき奉りし事あり」と落胤を匂わせる発言をしたと記録されている。しかし、これらは事実とは考えられていない。一般には下層階級の出身であったと考えられている。 江戸初期に成立した『太閤素性記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたとされる。通俗説で父とされる木下弥右衛門や竹阿弥は、足軽または農民、同朋衆、さらにはその下の階層とも言われてはっきりしない。 竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としている。江戸中期の武士天野信景の随筆『塩尻』には「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と続く名前を載せて、国吉を近江国浅井郡の還俗僧とし、尾張愛知郡中村に移住したとしている。また『尾州志略』では蜂須賀蓮華寺の僧であるとし、『平豊小説』では私生児であったとしている[9]。『朝日物語』『豊臣系図』では一般に継父とされる、信長の同朋衆であった竹阿弥が実父であったとしている。 生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。誕生日は1月1日、幼名は「日吉丸」となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣・伊藤秀盛が天正18年(1590年)に飛騨国の石徹白神社に奉納した願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力であり、幼名についても疑問視されている。 広く流布している説として、父・木下弥右衛門の死後、母・なかは竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったとされる。『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。 木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・ねねの母方の姓とする説もある。秀吉の出自については、『改正三河後風土記』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子(『前野家文書』「武功夜話」)、大工・鍛冶などの技術者集団や行商人であったとする非農業民説、水野氏説 、また漂泊民の山窩出身説、などがあるが、真相は不明である。 詳細は「木下弥右衛門」および「竹阿弥」を参照 松下家臣時代 はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した。 なお、その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国、伊勢国内に3,000石を与えられ、天正16年(1588年)には1万6,000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。 織田家に仕官 天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕える。 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現していった。また、有名な逸話として信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長は秀吉に大いに嘉(よみ)した。 永禄4年(1561年)8月、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚する。ねねの実母・朝日はこの結婚に反対したが、ねねは反対を押し切って嫁いだ。結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。桑田忠親は浅野長勝も秀吉も足軽組頭であり、同じ長屋で暮らしていたので、秀吉は浅野家の入り婿の形でねねと婚姻したのではないかとしている。
2024年09月27日
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12「頼朝の死後頼家に重用される」正治元年(1199年)正月に頼朝が死去すると、景時は引き続き宿老として二代将軍・源頼家に重用された。4月に若い頼家の失政を理由に政務が停止され十三人の合議制が置かれると景時もこれに列した。源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書以外にそういった記録は存在せず、真偽は定かではない。合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。鎌倉殿の嫡男寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる。幼名は万寿。母は頼朝の流人時代に妻となった北条政子。頼朝36歳、鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、頼朝が自ら監督を行った。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女(河越重頼室)が呼ばれ、梶原景時の妻の他、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りで、12歳の頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は武将の嫡子なら当たり前の事であると使者を追い返した。これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈がなされている。なお、この巻狩りで曾我兄弟の仇討ちが起こり、叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪となったのち誅殺されている。建久6年(1195年)2月、頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。建久8年(1197年)、16歳で従五位上右近衛権少将に叙任される。生まれながらの「鎌倉殿」である頼家は、古今に例を見ないほど武芸の達人として成長した。 第2代将軍建久10年(1199年)1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。1 ~ 2月頃には武士達が大勢京都に上り、急な政権交代に乗じた都の不穏な動きを警戒する態勢が取られており、この間に三左衛門事件が発生している。頼家が家督を相続して3ヶ月後の4月、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を裁断することは停止された。反発した頼家は小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成以下若い近習5人を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出した。また正治元年(1199年)7月には小笠原、比企、中野、和田朝盛らに対して、安達景盛の留守を狙い、その愛妾を召し連れて来るように命じた。この辺りの『吾妻鏡』には、頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、従来の習慣を無視した独裁的判断を行った挿話が並べられている。合議制の設立から半年後の10月、頼朝の代から側近として重用されていた侍所長官の梶原景時に反発する御家人たちにより、御家人66名による景時糾弾の連判状が頼家に提出された。頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救う事が出来ず、景時は鎌倉追放を申し渡された。正治2年(1200年)1月20日、失意の景時は一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した(『吾妻鏡』)。九条兼実の『玉葉』正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ一族とともに追放されたという。慈円は『愚管抄』で、景時を死なせた事は頼家の失策であると評した(梶原景時の変)。建仁元年(1201年)正月から5月にかけて、景時与党であった城氏一族が建仁の乱を起こして鎮圧される。頼家は、捕らえられて鎌倉に送られてきた城氏一族の女武者・板額御前を引見している。建仁2年(1202年)7月22日、従二位に叙され、征夷大将軍に宣下される。将軍追放景時滅亡から3年後、建仁3年(1203年)5月、頼家は千幡の乳母・阿波局の夫で叔父である阿野全成を謀反人の咎で逮捕、殺害した。さらに阿波局を逮捕しようとしたが、政子が引き渡しを拒否する。全成事件前の3月頃から体調不良が現れていた頼家は、7月半ば過ぎに急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。まだ頼家が存命しているにも関わらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が後を継いだ」との報告が9月7日早朝に都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請された事が、藤原定家の日記『明月記』の他、複数の京都側の記録で確認されている。
2024年09月26日
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13「頼家より建仁寺建立の外護」建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書以外にそういった記録は存在せず、真偽は定かではない。合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。鎌倉殿の嫡男寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる。幼名は万寿。母は頼朝の流人時代に妻となった北条政子。頼朝36歳、鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、頼朝が自ら監督を行った。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女(河越重頼室)が呼ばれ、梶原景時の妻の他、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りで、12歳の頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は武将の嫡子なら当たり前の事であると使者を追い返した。これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈がなされている。なお、この巻狩りで曾我兄弟の仇討ちが起こり、叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪となったのち誅殺されている。建久6年(1195年)2月、頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。建久8年(1197年)、16歳で従五位上右近衛権少将に叙任される。生まれながらの「鎌倉殿」である頼家は、古今に例を見ないほど武芸の達人として成長した。第2代将軍建久10年(1199年)1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。1 ~ 2月頃には武士達が大勢京都に上り、急な政権交代に乗じた都の不穏な動きを警戒する態勢が取られており、この間に三左衛門事件が発生している。頼家が家督を相続して3ヶ月後の4月、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を裁断することは停止された。反発した頼家は小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成以下若い近習5人を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出した。また正治元年(1199年)7月には小笠原、比企、中野、和田朝盛らに対して、安達景盛の留守を狙い、その愛妾を召し連れて来るように命じた。この辺りの『吾妻鏡』には、頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、従来の習慣を無視した独裁的判断を行った挿話が並べられている。合議制の設立から半年後の10月、頼朝の代から側近として重用されていた侍所長官の梶原景時に反発する御家人たちにより、御家人66名による景時糾弾の連判状が頼家に提出された。頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救う事が出来ず、景時は鎌倉追放を申し渡された。正治2年(1200年)1月20日、失意の景時は一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した(『吾妻鏡』)。九条兼実の『玉葉』正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ一族とともに追放されたという。慈円は『愚管抄』で、景時を死なせた事は頼家の失策であると評した(梶原景時の変)。建仁元年(1201年)正月から5月にかけて、景時与党であった城氏一族が建仁の乱を起こして鎮圧される。頼家は、捕らえられて鎌倉に送られてきた城氏一族の女武者・板額御前を引見している。建仁2年(1202年)7月22日、従二位に叙され、征夷大将軍に宣下される。
2024年09月20日
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2、「北条氏の出自は桓武平氏の流れを汲むのか?」「北条氏」(ほうじょうし)伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれる。 起源は桓武平氏高望流の平直方を始祖とし、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族である。 ただし、現在伝わる北条氏系図の中には時政以前の系譜において違いを見せるものもいくつか存在する。 関東で成立した『源平闘諍録』では、伊勢平氏の祖・平維衡の子孫とされている。 こうした史料状況から、北条氏が自家の系譜が正確に伝わる家ではなかった事を示しているとして、桓武平氏の流れであることを疑問視ならびに否定視する研究者も出てきた。 家紋研究家の高澤等は、同じ三つ鱗紋を用い、北条氏のように大蛇伝説を持つ豊後緒方氏の祖である大和大神氏の一族ではないかと論考している。 ただし時政の祖父が時家、父が時方(または時兼)という点は諸系図でほぼ一致しており、時家の『尊卑分脈』傍注には「伊豆介」とある。 上横手雅敬は、土着したのはそう古い年代ではなく、幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと推測している。 また三嶋大社とも縁があり、伊豆国造とつながりがある日下部氏一族ではないかという推察もある。『吾妻鏡』文治5年(1189)6月6日条によれば、田方郡内には南条・北条・上条・中条と呼ばれる地域が並んでいたという。 平安時代中期以降、律令制の郡は名田または名(みょう)といった徴税単位に細分化され、方位や区分を示す「条」と呼ぶ例が多く見られた。 他の東国有力武士団である三浦氏・千葉氏・小山氏・秩父氏などは、何代か前から多くの有力な一族を各地に分派させて同族集団を形成しているが、北条氏には時政以前の分流が甥といわれている北条時定の系統の他は見られない(時政の兄弟の存在すら不明である)こと、『吾妻鏡』が40歳を越えた時政に「介」や都の官位などに就かず、ただ「北条四郎」「当国の豪傑」とのみ記していること、保有武力に関しても石橋山の戦いの頼朝軍の構成を見る限り突出した戦力を有していたとは言いがたいことなどから、北条氏の勢力は決して大きくなく、伊豆においても中流クラスの存在であったとするのが一般的な見解である。 一方で、北条氏の本拠は国府のある三島や狩野川流域に近接して軍事・交通の要衝といえる位置にあることから、国衙行政や交易などに長けており、所領は小さくても富強であったとする見解もある。「鎌倉幕府の執権」 北条時政は、娘北条政子が源頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵に協力し、鎌倉幕府の創立に尽力し、頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得る。 特に独裁権をふるった頼朝の死後は源氏以外で初の国守に任官したり、政策機関としての13人合議に親子で名を連ねるなど、並び大名から1歩抜きん出た勢力となっている。 頼朝の子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。 そして2代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺。さらに、第3代将軍・実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。2代執権義時から数代にわたって他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立した。 実朝が暗殺されると、義時は京都から九条頼経を第4代将軍に迎え(摂家将軍)、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇の討幕運動である承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功した。3代執権北条泰時は御成敗式目を制定し、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。 北条氏は、得宗と呼ばれる嫡流を中心に名越、赤橋、常葉、塩田、金沢、大仏などの諸家に分かれ、一門で執権、連署、六波羅探題などの要職を独占し、評定衆や諸国の守護の多くも北条一族から送り出した。 なお、これらの分流はすべて時政以降のものであり、一族が膨れ上がる中でも、それ以前の北条家の流れはまったく歴史に登場していない。 得宗家の家臣は御内人と呼ばれ、しばしば得宗の代官として得宗家の所領や守護所などに派遣されている。また、得宗家の家政を取り仕切る最高責任者は内管領と呼ばれ、長崎円喜のように権力を振るうものも現れた。 摂家将軍・頼経、頼嗣は成長すると独自の政権運営を指向し、執権に反抗的な態度を取る。 第5代執権・北条時頼は第5代将軍・頼嗣を追放し、宗尊親王を第6代将軍に迎える事で、この危機を乗り切り朝廷との関係を固めた(皇族将軍)。 第8代執権・北条時宗は元からの国書を黙殺して、御家人を統率して元寇と戦う。これを機に鎌倉幕府は非御家人への軍事指揮権も獲得したほか、西国での支配権が強化され、北条一門が鎮西探題、長門探題として派遣された。 また、北条一門の諸国守護職の独占も進む。時宗の息子・第9代執権・北条貞時は平禅門の乱で内管領の平頼綱を滅ぼして得宗専制を確立する。 これらにより、御家人層の没落が進行し、没落した御家人の中には御内人になる者もあらわれる。 貞時の子・第14代執権・北条高時は後醍醐天皇の挙兵計画である正中の変を未然に防ぐが、後醍醐が2度目の計画である元弘の乱に続いて、元弘3年・正慶2年(1333)に再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応して京都の六波羅探題を滅ぼし、上野国の新田義貞も挙兵し、高氏の嫡子千寿王(足利義詮)が合流すると関東の御家人が雪崩を打って倒幕軍に寝返り、鎌倉を陥落させる。 この結果、北条一族のほとんどが討死または自害し、東勝寺合戦において北条氏は滅亡する。北条執権は約130年間、鎌倉に於いて日本の統治をした。「鎌倉幕府滅亡後・子孫」 鎌倉幕府滅亡後に建武の新政が開始された後も、北条氏の残党は津軽や日向国、伊予国など各地で散発的に反乱を起こした。 建武2年(1335)に京都に潜伏していた高時の弟・北条泰家(時興)が公家の西園寺公宗と政権転覆を計画するが未然に発覚する。 公宗は後醍醐暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃亡して各地の北条残党に挙兵を呼びかける。北条氏の守護国のひとつであった信濃国で高時の子・時行らが挙兵し、中先代の乱を起こす。 時行軍は足利方の信濃守護・小笠原貞宗を破り、鎌倉を占領する。鎌倉にいた足利尊氏の弟・足利直義は、幽閉されていた護良親王が時行に担がれる事を警戒し、家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させる。尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま乱の討伐に向かい、時行を駆逐してそのまま鎌倉へ留まり建武政権から離反する。 その後、時行は南朝から朝敵免除を受け、観応の擾乱の際に武蔵国で再度挙兵するが、尊氏に敗れて捕らえられ斬られた。 時行の子孫は横井氏を称し、南朝方について戦ったと言われているが、詳細ははっきりせず、定説及び確証はない。この横井氏の子孫は尾張国海西郡(現・愛西市)赤目城主となり、江戸時代は尾張藩家老を務めた。 また一族からは俳人として著名な横井也有、幕末の肥後熊本藩士で越前福井藩松平家に派遣され活躍した横井小楠などが出ている。 また、戦国大名である後北条氏の家臣である横井氏もこの一族とされ、伊勢(北条)氏綱の正室である養珠院殿は同氏の出身とする説も出されている。 また賤ヶ岳の七本槍の平野長泰も横井氏の末裔と名乗り、その子孫は交代寄合を経て明治時代に男爵を賜った。 また、最後の執権赤橋守時の妹登子は足利尊氏の正室として鎌倉幕府滅亡後も生き残り、尊氏との間に産まれた足利義詮および足利基氏以降の足利将軍家・鎌倉公方~古河公方家へと赤橋流北条氏の血は受け継がれている。支流の名越氏から、俳優の高倉健が名越篤時の子孫を自称している。
2024年09月18日
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頼朝の舅 平治の乱で敗死した源義朝の嫡男・頼朝が伊豆国へ配流された事によりその監視役となる。妻・牧の方の実家は平頼盛の家人として駿河国大岡牧を知行していた。やがて頼朝と娘の政子が恋仲となった。当初この交際に反対していた時政であったが、結局二人の婚姻を認めることとなり[注釈 4]、その結果頼朝の後援者となる。 治承4年(1180年)4月27日、平氏打倒を促す以仁王の令旨が伊豆の頼朝に届くが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。しかし源頼政の敗死に伴い、伊豆の知行国主が平時忠に交代すると、伊豆国衙の実権は伊東氏が掌握して工藤氏や北条氏を圧迫した。さらに流刑者として伊豆に滞在していた時忠の元側近山木兼隆が伊豆国目代となり、また頼政の孫・有綱は伊豆にいたが、この追捕のために大庭景親が本領に下向するなど、平氏方の追及の手が東国にも伸びてきた。自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に協力を呼びかけた。時政は頼朝と挙兵の計画を練り、山木兼隆を攻撃目標に定めた。挙兵を前に、頼朝は工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らに自分だけが特に頼りにされていると思わせ奮起させたが、「真実の密事」については時政のみが知っていたという(『吾妻鏡』治承4年8月6日条)。挙兵 8月17日、頼朝軍は伊豆国目代山木兼隆を襲撃して討ち取った。この襲撃は時政の館が拠点となり、山木館襲撃には時政自身も加わっていた。この襲撃の後頼朝は伊豆国国衙を掌握した。その後、頼朝は三浦氏との合流を図り、8月20日、伊豆を出て土肥実平の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出した。北条時政父子もほかの伊豆国武士らと共に頼朝に従軍した。しかしその前に平氏方の大庭景親ら3000余騎が立ち塞がった。23日、景親は夜戦を仕掛け、頼朝軍は大敗して四散した(石橋山の戦い)。この時、時政の嫡男・宗時が大庭方の伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしている。頼朝、実平らは箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。時政はそこまでの途中経過は文献によって異なるが、頼朝とは一旦離れ、甲斐国に赴き同地で挙兵した武田信義ら甲斐源氏と合流することになった。10月13日、甲斐源氏は時政と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、房総・武蔵を制圧して勢力を盛り返した頼朝軍も黄瀬川に到達した。頼朝と甲斐源氏の大軍を見た平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。その後、佐竹氏征伐を経て鎌倉に戻った頼朝は、12月12日、新造の大倉亭に移徙の儀を行い、時政も他の御家人と共に列している。 亀の前事件 治承4年(1180年)末以降、時政の動向は鎌倉政権下において他の有力御家人の比重が高まったこともあり目立たなくなる。寿永元年(1182年)、頼朝は愛妾・亀の前を伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、頼家出産後にこの事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の父・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。12日、怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。元暦元年(1184年)も時政は、3月に土佐に書状を出したことが知られる程度でほとんど表に出てこなくなる。この年は甲斐源氏主流の武田信義が失脚しているが、武田信義の後の駿河守護は時政と見られる。駿河には牧氏の所領・大岡牧に加え、娘婿・阿野全成の名字の地である阿野荘もあり、縁戚の所領を足掛かりに空白地帯となった駿河への進出を図っていたと考えられる。 京都守護 文治元年(1185年)3月の平氏滅亡で5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結したが、10月になると源義経・行家の頼朝に対する謀叛が露顕する(『玉葉』10月13日条)。10月18日、後白河院は義経の要請により頼朝追討宣旨を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。11月24日、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。 時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに一族の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。後任の京都守護には一条能保が就任した。時政の在任期間は4ヶ月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。 鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる。
2024年09月14日
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本戦境根原合戦について、太田道灌が上杉定正の側近高瀬民部少輔に宛てた長文の書状「太田道灌状」には、合戦の理由について(千葉孝胤を退治することを、古河公方(足利成氏)様に申し出、自胤と力を合わせ、かの国(下総)へ出向いた)」「関東御無為儀者(関東の御無為のため)」などと書かれている。(十二月十日、下総境根原に於いて合戦をして勝利を得たり)」としか書いておらず、勝利した事実のみを述べている。しかし、「鎌倉大草紙」では、道灌の進軍に対し孝胤が境根原に出張ったため、道灌が馳せ向かい、10日丸一日戦い暮らし、孝胤が打ち負けて撤退した、とある。そして孝胤の重臣一族木内氏、原氏などに死者を出した(具体的に誰なのかはわかっていない)。また、この地域の死者の名を記す本土寺の「本土寺過去帳」では「堺根原合戦」に於いて匝瑳勘解由(そうさかげゆ)、野嶋入道、今泉入道、津布良左京亮妙幸などが戦死したと書かれる[1]。匝瑳氏は高田の豪族、野嶋は我孫子の豪族であり、戦争の大きさを伝える。その後敗れた孝胤は臼井城に籠った。道灌は甥の太田資忠を千葉自胤につけ、長躯臼井城を攻撃した。翌文明11年(1479年)1月、臼井城が陥落する。しかし孝胤らの決死の逆襲を受け資忠が戦死、自胤も撤退した。そして、孝胤も混乱にまぎれて逃走し、戦役が終了した。この後自胤は再び下総への侵攻を考えたが、下総で孝胤を支持する勢力が多く、侵攻をあきらめた。これにより、下総での一連の戦も集結し、孝胤の子孫が千葉宗家を継承することになる。文明14年(1482年)、幕府と古河公方の間で和議なって享徳の乱が終結。よって千葉の内乱も小規模化する。翌文明11年(1479年)、成氏は幕府とも和議を申し出、文明14年11月27日(1483年1月6日)に至り、ようやく幕府と成氏との和睦が成立した(都鄙合体)。これによって成氏が引き続き関東を統治する一方で、伊豆の支配権については政知に譲ることになった。成氏による反幕府的行動は停止されたが、配下の諸将を多く持つ古河の成氏と、幕府公認の公方として権限を持ちながら関東に入れない堀越の政知の2人の公方が並存する状態は依然として続くこととなった。 11「応仁の乱への影響」将軍足利義政が関東管領側に立ってしばしば介入したにもかかわらず、享徳の乱は28年に及び、この間に応仁の乱が始まりかつ終了している。享徳の乱が応仁の乱に波及した、少なくとも享徳の乱を治められなかった将軍及び管領細川勝元に対する不満が応仁の乱の遠因の一つとなったとされる。細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。家督・管領相続永享2年(1430年)、細川持之の嫡男として生まれる。幼名は聡明丸。嘉吉2年(1442年)8月、父が死去したため、13歳で家督を継承した。この時に7代将軍足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて摂津・丹波・讃岐・土佐の守護となった。文安2年(1445年)、畠山持国(徳本)に代わって16歳で管領に就任すると、以後3度に渡って通算23年間も管領職を歴任し、幕政に影響力を及ぼし続けた。勝元が管領に就任していたのは、文安2年から宝徳元年(1449年)、享徳元年(1452年)から寛正5年(1464年)、応仁2年(1468年)7月から死去する文明5年(1473年)5月までである。勢力争い応仁の乱で敵対関係に至ったため、細川勝元と山名持豊(宗全)は不仲であったとされているが、はじめはそうではなかった。当時、細川京兆家は一族全てで9ヶ国の守護であったのに対し、山名氏は赤松氏を嘉吉の乱で滅ぼした功績から旧赤松領を併せて8ヶ国の守護になっていた。このため、勝元は持豊と争うことは得策ではないと考え、文安4年(1447年)に持豊の養女を正室に迎えることで協調することにしていたのである。また、政敵畠山持国に対抗する意味からも持豊と手を組む必要があった。持国が6代将軍足利義教に家督を追われた元当主の復帰を図ると勝元はそれに対抗して義教に取り立てられた大名・国人を支持、持国は信濃守護に小笠原持長を任命、元加賀守護富樫教家・成春父子を支持、大和では元興福寺別当経覚と越智家栄・古市胤仙・小泉重弘・豊田頼英を支援した。勝元はこれに対して小笠原宗康・光康兄弟や富樫泰高を支持、大和で経覚派と敵対している成身院光宣・筒井順永を支援、信濃・加賀・大和で持国と勝元の代理戦争が頻発した。文安2年(1445年)に近江で反乱を起こした六角時綱を時綱の弟久頼と京極持清に鎮圧させた。宝徳2年(1450年)に主君である和泉守護細川常有(細川元有の父)と対立して持国と古市胤仙を頼った守護代宇高有光が殺害される事件が起こったが、その件にも勝元の関与の可能性が指摘されている。宝徳3年(1451年)、兵庫津に入港していた琉球商船のもとへ勝元が人を送り、商物を選って取得しながら代金の支払いをせず、琉球商人は幕府に訴え、足利義政は三人の奉行を送って究明させたが、勝元は押し取った物を返さないという事件を起こした(『康富記』)。享徳2年(1453年)に伊予守護職を河野教通から河野通春に改替するが、実は勝元が教通を支持する義政に内緒で御教書・奉書などを作成したもので、5月にその事実が発覚して義政に責められた勝元が引責辞任を表明しているが義政の説得で最終的に留任した(『康富記』)。2年後の享徳4年(1455年)に自分が伊予守護となった。その後伊予守護職は通春に戻されたが、通春を傀儡として伊予支配を目指した勝元の策は通春に拒絶されるところとなり、分家の阿波守護細川成之と通春が戦ったため、勝元と通春も対立していった[6]。享徳3年(1454年)、畠山氏で家督をめぐる内紛が起こった時には、持国を失脚させるため、舅にあたる持豊と共に持国の甥弥三郎を支援して持国の推す実子義就を追放に追い込んだ。しかし8代将軍足利義政が嘉吉の乱で没落した赤松氏の再興を支援しようとすると、赤松氏の旧領を守護国に持つ持豊は赤松氏の再興に強硬に反対した。このため、持豊は義政から追討を受けそうになるが、この時は勝元が弁護したため、持豊は追討を免れた(この前後に持豊は出家し、宗全と名乗った)。宗全が赤松則尚討伐のため但馬へ下向した直後に義就が上洛、弥三郎を追放し、翌年の持国の死で義政から当主に認められたため、両者に対抗して畠山氏の引き抜きを図った義政の謀略とされる。義政の側近となった義就だったが、無断で大和へ軍事介入したことから義政の信頼を失い、一方の勝元も弥三郎と反義就派の大和国人への支援を続け、長禄3年(1459年)に弥三郎と成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信の赦免を取り付けた。弥三郎は同年に没したが、弟の政長を支援して翌4年(1460年)に義就から政長に家督が交替、義就が嶽山城の戦いを経て吉野へ没落した後の寛正5年(1464年)に管領職を政長に交替した。しかし山名氏の勢力が勝元の想像以上に急速に拡大したため、勝元は宗全の勢力拡大を危険視するようになり、斯波氏の家督争い(武衛騒動)でも姻戚関係から斯波義廉を支持する宗全に対し、勝元は義廉と対立する斯波義敏を支持した。また、宗全がかねてから反対していた赤松氏の再興問題に関しても勝元は積極的に支援し、ついには赤松政則(赤松満祐の弟義雅の孫)を加賀半国の守護と成し、赤松家を再興させたのである。
2024年09月11日
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「榎本武揚の群像」1、「榎本武揚の概略」・・・・・・・・・・・・・・・・・22、「榎本武揚の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・33、「幕府軍敗北」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・134、「戦後の変革」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・225, 「オランダ留学」・・・・・・・・・・・・・・・・316、 「戊辰戦争ご変革」・・・・・・・・・・・・・・・657, 「旧幕府軍艦隊の脱」・・・・・・・・・・・・・・828, 「箱館戦争」・・・・・・・・・・・・・・・・・・1149, 「投獄」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13510,「開拓使」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15211,「駐露特命全権公使」・・・・・・・・・・・・・・・16012,「各大臣を歴任」・・・・・・・・・・・・・・・・・17213,「芦尾鉱山毒事件」・・・・・・・・・・・・・・・・17814,「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・190 1,「榎本武揚の概略」えのもとたけあき(1836―1908)旧幕臣、明治政府の政治家、外交官。通称釜次郎、梁川と号した。天保7年8月25日、幕臣榎本武規(1790―1860)の次男として江戸に生まれる。1856年(安政3)長崎海軍伝習所に入り、ペルス・ライケンG・C・C・(1810―1889)、カッテンディーケに機関学などを、ポンペに化学を学び、1858年築地軍艦操練所教授となる。1862年(文久2)からオランダに留学。フレデリックスについて万国海律を学ぶ。語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を得て、1867年(慶応3)、幕府の注文した軍艦開陽丸に乗って帰国、同艦の船将となる。1868年(慶応4)海軍副総裁となる。江戸開城、上野戦争で幕府が崩壊したのちも、幕府軍艦の明治政府への引き渡しを拒否、旧幕軍を率いて品川沖から脱走。箱館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)に拠って政府に反抗、新政権を宣言したが、翌1869年5月官軍に降伏、投獄された。黒田清隆、福沢諭吉らの尽力により1872年出獄。まもなく北海道開拓の調査に従事。1874年特命全権公使としてロシアに駐在、翌1875年樺太千島交換条約を締結した。1882年駐清(しん)特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力。1885年帰国。以後、同年逓信、1887年農商務、1889年文部、1891年外務、1894年農商務の各大臣、1892年枢密顧問官を歴任。1887年子爵。1878年ロシアからの帰途シベリアを横断、各地の地質などを視察。1879年地学協会の創立を唱えて副会長となる。語学に優れ、科学知識も当代一流であった。北海道の地質・物産の調査報告が多く、外地の視察報告もあって、科学・技術官僚としても注目される。五稜郭において、玉砕を決意するに際し、『万国海律全書』が兵火のために烏有に帰すことなきよう、これを官軍に贈ったことは世に知られている。明治41年10月26日没。
2024年09月05日
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8「隠居」妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えた。この妻については詳しいことは分かっておらず、名前も定かではない。天明6年(1786年)に次男・秀蔵、天明8年(1788年)に三男・順次、寛政元年(1789年)に三女・コト(琴)が生まれ、妻は寛政2年(1790年)に 26歳で死去した。一方、最初の妻・ミチとの間に生まれた次女・シノも、天明8年に19歳で死去した。寛政2年、忠敬は仙台藩医である桑原隆朝の娘・ノブを新たな妻として迎え入れた。このころ、長女のイネはすでに結婚して江戸に移っており、長男・景敬は成年を迎えていた。忠敬は、景敬に家督を譲り、自分は隠居して新たな人生を歩みたいと思うようになっていった。そして寛政2年、地頭所に隠居を願い出た。しかし地頭の津田氏はこの願いを受け入れなかった。これは、当時の津田氏は代替わりしたばかりのころだったため、まだ村方後見として忠敬の力を必要としていたからである。地頭所には断られたが、忠敬の隠居への思いはなお強かった。このとき忠敬が興味を持っていたのは、暦学であった。忠敬は江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごし、店の仕事は実質的に景敬に任せるようにした。寛政3年(1791年)には、次のような家訓をしたためて景敬に渡した。第一 仮にも偽をせす孝弟忠信にして正直たるへし第二 身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るへし第三 篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず寛政4年(1792年)、忠敬は、これまで地頭所に金銭を用立てすることによって財政的に貢献したという理由で、地頭所から三人扶持を与えられた。ただしこれは、忠敬にまだ隠居してほしくないという地頭所の思惑も含まれていたと考えられている。翌寛政5年(1793年)には、久保木清淵らとともに、3か月にわたって関西方面への旅に出かけた。*久保木 清淵(くぼき せいえん、宝暦12年(1762年) - 文政12年8月28日(1829年9月25日))は、江戸時代後期の朱子学者。下総国香取郡津宮(つのみや)村(現在の千葉県香取市津宮)の人。号は竹窓(ちくそう)・縑浦老農、字は蟠龍・仲黙、通称は新四郎・太郎右衛門。父は清英、子は清常(梅山)。姓は「窪木」とも書かれる。経歴]久保木家は代々津宮村の名主を務め、寛政5年(1793年)には領主である旗本・小笠原政恒より苗字帯刀を許されている。清英は初め父から学問を受けていたが、11歳の時に地元の寺の住職であった松永北溟から学問を受けた。北溟は青年時代に林家の門下に入った事もあり朱子学に精通していた。19歳の時に師が没すると、父から江戸への遊学を勧められたが、父への孝が出来なくて何の学問かと答えて断り、後に江戸などに旅行することはあっても郷里に本居を置いて学問や教育に努めた。文政8年(1825年)に清淵と面会した渡辺崋山は彼を中江藤樹に擬えて「小藤樹」と評している。成人すると、父の名主の仕事を手伝い、その後を継いだ。その頃、津宮村は近隣の佐原村などと組合を結成していたが、当時佐原村の名主であったのは17歳年長の伊能忠敬であった。忠敬は清淵の才能を高く評価し、寛政5年(1793年)には清淵とともに上方に旅行しており、忠敬・清淵両方の旅行記録が残されている。その後、清淵は津宮に息耕塾を開いて息子とともに弟子の教育に力を注ぎ、伊能忠敬も自分の孫を清淵に託している。一方で師の北溟が生前に果たせなかった後漢の鄭玄による『孝経』註釈の復元に努め、享和2年(1802年)に『補訂鄭註孝経』を完成させた。2年後に同書を刊行するが、既に江戸に出て高橋至時の下で天文・地理を学んでいた忠敬も序文を寄せている。後に文化6年(1809年)に忠敬が日本地図作成のための測量に出た折に備後国で当時著名な学者であった菅茶山に『補訂鄭註孝経』を贈呈して、清淵の名を世に広めるきっかけとなった(忠敬から寄贈された茶山蔵書の『補訂鄭註孝経』は現在広島県立歴史博物館所蔵)。他の著作に『古文孝経独見』(文政6年(1823年))などがある。文化5年(1808年)、水戸藩の小宮山昌秀(楓軒)の要請で宮本茶村とともに水戸領延方(茨城県潮来市)の郷学で講師となり、三人扶持の待遇を与えられた。文化15年(1818年)、生涯にわたって親交が篤かった伊能忠敬が病死すると、『大日本沿海輿地全図』の序文の草案作成や付属の沿海実測録の浄書などを引き受け、『大日本沿海輿地全図』の早期完成に尽力した。文政12年(1829年)に68歳で没する。墓碑は小宮山昌秀によって記されたが、清淵の弟子で後に清淵の伝記を編纂した清宮秀堅(伊能忠敬の親戚でもある)は、忠敬の日本地図完成を手伝った事はあくまでも友人としての作業であり、清淵が本分とした故郷における儒学者・教育者としての業ではないのに、小宮山がそれを業績に取り上げたことを強く批判している。 忠敬はこの旅についての旅行記を残している。そしてそこには、各地で測った方位角や、天体観測で求めた緯度などが記されており、測量への関心がうかがえる。また、久保木も『西遊日記』と呼ばれる旅行記を残している。寛政6年(1794年)、忠敬はふたたび隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れた。忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、江戸で暦学の勉強をするための準備にとりかかった。そのさなかの寛政7年(1795年)、妻・ノブは難産が原因で亡くなった。なお、寛政6年に佐原の橋本町(現・本橋元町)の惣代より村役人および村方後見である伊能三郎右衛門宛てに町内への便所の設置を求める願書が出されており、ここに登場する三郎右衛門は忠敬から家督を譲られた景敬であるとされている。ちなみに、現在の本橋元町にある公衆便所がこのとき設置された便所の後身に当たるという。忠敬と佐原忠敬が隠居する前年の寛政5年(1793年)、伊能家の商売の利益は以下のようになっていた。酒造 370両3分田徳・店貸 142両1分倉敷 30両運送 39両3分利潤高 450両1分米利 231両1分合計 1264両2分安永3年(1774年)の目録と比較すると、忠敬は伊能家を再興し、かなりの財産を築いたことが分かる。このときの伊能家の資産については正確な数字は明らかでないが、寛政12年に村人が「3万両ぐらいだろう」と答えた記録が残っている。この資産は30億 – 35億円程に相当する
2024年09月03日
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皮肉にもこれを維持できたのは大学寮からの給料を必要としない大学別曹保有氏族出身の学生の増大による大学寮支出の減少であった。914年(延喜14年)、三善清行は「意見十二箇条」の第4条で大学寮の荒廃ぶりを記しているが、前後の史料を見る限り学生数の減少などの大学寮そのものの荒廃を裏付ける事実は確認されておらず、勧学田の喪失と大学別曹の興隆によって教育の公平さが失われていく現状に対する警告であったと考えられている。一方において任官制度にも変化が生じ、「(諸)道挙」と呼ばれる在学中の学生が教官の推薦によって無試験で判官・主典級官職に任官される制度(紀伝道では9世紀中期、紀伝道・明法道・算道では9世紀末期以後)が導入され、更にこれが10世紀には諸国の掾への任官を対象とした「(諸)道年挙」も開始された。更に10世紀後期には大学別曹(勧学院・奨学院・学館院)に対しても自己の所属する学生を諸国の掾への無試験任官の推挙を行う「(諸)院年挙」を認めるようになった。これによって大学寮に残って博士などの教官職を目指す者以外にとっては卒業は任官の必須の要件ではなくなり、大学寮の試験そのものが形骸化・簡略化されるきっかけとなった。10世紀後期に入ると、試験問題の出典が予め受験者に通告されたり、権力者による情実の横行などがしばしば行われ、遂に院政期には権力者による合格者の枠配分や大学寮への成功(財政支援)によって任官や合格が決まるなどの例も見られるようになる。更に平安時代末期には、官司請負制の導入や官吏(官僚)が門閥で占められるようになった(貴族による蔭位の制の濫用)ためにその機能を果たさなくなり、その風潮は大学にも及んで博士の地位を世襲させるために特定の家系の家学として知識の独占を図るようになり、授業も大学寮ではなく自らの私邸を用いて限られた子弟や門人に対してのみ行われるようになった。また教授や学生の学資や施設の維持に用いられていた勧学田や出挙の仕組みの崩壊によって財政的にも衰退を余儀なくされる。1154年(久寿元年)には大学寮庁舎が倒壊する事故が起きるが再建されずに替わりに明経道院が庁舎を兼ねるようになった(『兵範記』)。やがて、1177年(治承元年)の安元の大火の後、閉鎖された。教育内容入学資格としては、五位以上の貴族及び東西史部(代々記録を司った)の子供および孫に限られていたが、八位以上の官人の子供にも希望があれば入学が許されていた。また、少数であるが姓を有しない白丁身分(庶民)の子弟であっても入学が許された例も存在している(天平年間に設置された文章生・明法生の採用規定に「白丁雑任の子」と規定されていた)。卒業試験試問を受験し、その試験結果が8割に達すれば式部省が実施する進士・明法・明経・算・秀才のいずれかの試験を受け、上位成績になれば八位~初位の官位が授けられた。また、学生の一部には得業生として大学に残り博士を目指す者もいた。組織としては現在の大学に類似し、大学頭(「だいがくのかみ」、現在の大学の学長に相当)がトップで、博士(現在の大学教授に相当)が教鞭をとっていた。また、大学院生に相当する学生(得業生)もいた。学科は経(儒教)・算及び付属教科の書・音(中国語の発音)の四教科だったが、後に紀伝(中国史)・文章(文学)・明経(儒教)・明法(法律)・算道の学科構成となり、更に紀伝と文章が統合された(紀伝が文章に吸収統合されたと言うのは後世の誤りで、実際は博士号は「文章(博士)」、学科は「紀伝(道)」と称した)。また、学科の呼称に「○○道」という方式を用いたのは、貞観式制定前後であると考えられている。なお、音博士の音道と書博士の書道は、明経道の学習を補助するための学科であり、平安時代中期には明経道に実質的に統合されたと考えられている。他に教育機関としては技官養成機関である陰陽寮・典薬寮・雅楽寮などが存在した。*林 鳳谷 (はやし ほうこく、享保6年(1721年) - 安永2年12月11日(1774年1月22日))は、江戸時代中期の朱子学派儒学者。林榴岡の子。林家5代。林鳳池(ほうち)の兄。諱は信武、のち信言。略歴将軍徳川吉宗に仕える。延享4年(1747年)、朝鮮通信使応接御用を務め、従五位下・図書頭(ずしょのかみ)となる。宝暦8年(1758年)家督を継いで林家5代となり、大学頭となった。子の林龍潭は早世したため、孫の林鳳潭が林家を継いだ。 宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いた。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、のちに三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした。佐原時代 4「当時の佐原と伊能家」忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村であった。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交じった。このような佐原の土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている。当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かった[13]。その村民の中でも特に経済力が大きく、村全体に大きな発言権を持っていたのが永沢家と、忠敬が婿入りした伊能家であった。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根水運などにも関わっていたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。他方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった。祭礼騒動忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。同じ年、妻・ミチと前の夫との間に生まれた男子は亡くなった。3年後の明和3年(1766年)には長男の景敬が生まれた。忠敬は伊能家の主人という立場から、村民からの推薦で名主後見という立場に就いた。しかしそうはいっても忠敬はまだ若かったため、初めのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった。この時期の忠敬は病気になって長い間寝込んでいたこともあった。新主人として親戚づきあいなど気苦労も絶えなかったと推測されている。明和6年(1769年)、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとっても力量が試される事件となった。佐原の中心部は小野川を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ行われる。伊能家と永沢家のある本宿の祭礼は牛頭天王(ごずてんのう)の祭礼(祇園祭)で、当時は毎年6月に行われていた。祭りのときは各町が所有する趣向を凝らした山車が引き回される。牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない。牛頭天王は、京都の感神院祇園社(現八坂神社)の祭神である。『祇園牛頭天王御縁起』によれば、本地仏は東方浄瑠璃世界(東方の浄土)の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須彌山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人息子として垂迹し、姿をあらわした。
2024年09月03日
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これにより、豊前はその殆どが秀吉方に屈し、豊後での戦線がのこされた。12月1日、秀吉は諸国に対し、翌年3月を期してみずから島津征討にあたることを伝え、畿内および北陸道・東山道・東海道・山陰道・山陽道などの約37か国に対し、計20万の兵を大坂に集めるよう命令を発した。また、小西隆佐・建部寿徳・吉田清右衛門尉・宮木長次の4名に軍勢30万人の1年分の兵糧米と軍馬2万疋の飼料の調達を命じ、秀吉家臣石田三成・大谷吉継・長束正家の3名を兵糧奉行に任じて、その出納や輸送にあたらせた。また、小西隆佐には、諸国の船舶を徴発して兵糧10万石分の赤間関への輸送も命じた。豊後鶴賀城(大分市上戸次)は、宗麟の重臣利光宗魚の居城であり、宗麟の2つの居城、すなわち府内の上原館(大分市上野丘西)と丹生島城(大分県臼杵市臼杵)を繋ぐ要衝であった。11月、家久は宗魚の嫡子利光統久の守る鶴賀城を攻めたが、当時、宗魚は肥前に向けて出陣しており手勢は700ほどにすぎなかったため、統久は講和して父と連絡をとった。報せを受けた宗魚は兵を引き返し、11月25日、鶴賀城に戻って家久本陣に夜襲をかけた。12月6日、島津家久は鶴賀城攻撃を開始し、その日のうちに三の曲輪、二の曲輪を攻め、本曲輪一つをのこすのみとなった。利光の軍はよく守り、府内を守る宗麟嫡男大友義統に対し、後詰の兵として援軍を差し向けるよう要請した。しかし、家久は鶴賀城を府内攻めの拠点にすべく昼夜を分かたず攻めつづけ、途中宗魚は流れ矢にあたって戦死した。このとき、府内城には、土佐の長宗我部元親・信親父子、讃岐の十河存保、そして軍監の立場で讃岐高松城主・仙石秀久らの四国勢およそ六千が詰めていた。四国勢は、持久戦により島津軍を食い止めておくよう指示されていたが、利光宗魚の死によって、府内が家久・義弘双方から挟撃される危険が出てきたため、家久軍を戸次川で食い止める必要にせまられ、12月11日急遽出陣することとなった。翌12月12日、戸次川の戦いがはじまった。家久は鶴賀城の囲みを解いて撤退し、坂原山に本陣をおいたが、その軍勢は1万8000にふくれあがっていた。ここで軍監仙石秀久は、長宗我部元親の制止も聞かず、また十河存保も秀久に同調したため、戸次川の強行渡河作戦が採用された。島津勢は身を伏せて川を渡り切るのをみはからって急襲、虚を衝かれた秀久が敗走、兵の少なくなったところを家久軍主力が寄せた。この戦いで豊臣方は四国勢6000のうち2000を失い、元親の嫡子である長宗我部信親、十河存保などの有力武将を失う大敗を喫した。12月13日、勢いづいた島津軍は大友義統が放棄した府内城を陥落させて、隠居した大友宗麟の守る丹生島城(臼杵城)を包囲した。*「臼杵城」(うすきじょう)は、大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「丹生島城」が築かれ、大友氏の拠点となった。江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。丹生島は北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟の陸地でつながるのみという天然の要害をなしていた。ちなみに丹生島の「丹生」とは「金属鉱石の産出する島」という意味である。義鎮は、この島一つを城郭化して干潟を干拓して城下を形成した。城には3重の天守と31基の櫓が上げられた。総二階造り(上下階の平面が同規模)の重箱櫓と呼ばれる形状をした二重櫓が特徴的であった。 廃藩後は天守以下建物は一部を残し取り壊され、周囲の海も埋め立てられた。現在、城郭主要部は都市公園として整備され、石垣、空堀が残る。また、二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、それぞれ現存する。「戦国時代」15世紀後半、大友氏の16代当主である大友政親が一時的に臼杵に本拠を置いたことが知られている。政親は後に大内義興によって処刑され、本拠地も府内に戻されているが、その菩提寺である海蔵寺は現在の臼杵市内にあった(現在は遺構のみ)。通説では永禄4年(1561)、毛利氏との戦いに敗れた大友義鎮は、翌永禄5年(1562)に臼杵湾に浮かぶ丹生島に新城を築き、大分府内大友館から移ったとされている。だが、1557年10月29日に宣教師のガスパル・ヴィレラからイエズス会に送られた書簡(『耶蘇会士日本通信』)には家臣の反乱(小原鑑元らによる「姓氏対立事件」)を避けるために丹生島に移った事が記されており、その後永禄年間初頭までの大友氏関係文書を分析しても義鎮が要人との会談や家臣の呼出を臼杵において行っており、そのまま「在庄(庄=丹生島がある臼杵庄)」していた可能性が高いことが裏付けられる。従って、具体的な時期を断定する史料は存在しないものの、義鎮自身は弘治3年(1557)前後には臼杵へ拠点を移していたと考えられている。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録によると、城下には多くのキリスト教の施設が建立され城内には礼拝堂もあったとしている。その後、田原親貫の反乱鎮圧のために天正7年(1579)から2年ほど府内に政庁を戻しているものの一時的な措置であり、大友氏の改易まで臼杵に本拠地が置かれていたと考えられている。天正14年(1586)の島津軍の侵攻(丹生島城の戦い)に対して「国崩し」と呼ばれたポルトガルから入手の大砲、「フランキ砲」を動員するなどして島津軍を退けたが、城も城下も大きく損失した。その翌年、大友義鎮は死去した。 丹生島城は、宗麟がポルトガルより輸入し「国崩し」と名付けた仏郎機砲(石火矢)の射撃もあり、なんとか持ちこたえた。その後北上する島津軍は杵築城(大分県杵築市)を攻めたが木付鎮直の激しい抵抗を受け失敗、豊後南部では大友家臣佐伯惟定がいったん島津方に奪われた諸城を奪回して後方を遮断した。また、志賀親次が島津義弘軍を数度にわたって破る戦いを展開した。肥後の阿蘇から豊後に攻め込んでいた島津義弘の軍勢は12月14日、豊後山野城(竹田市久住)に移動して、そこで冬を越した。家久は豊後の府内城で、当主島津義久は日向国塩見城(宮崎県日向市塩見)で、それぞれ越年した。
2024年08月30日
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開国後から日清戦争まで 開国後の李氏朝鮮では、衛正斥邪(欧米諸国を夷狄視して排斥し、鎖国を維持する)を是とする高宗の実父興宣大院君、明治維新に倣って朝鮮の近代化を進めようとする朝鮮青年貴族(金玉均、洪英植、朴泳孝ら)たちの開化派、清国への臣属を主張する高宗の妃閔妃を擁する閔氏一族(閔泳翊ら)の事大党による政争が続いていた。 1882年、興宣大院君は閔氏一族を排するためクーデターを起こすが、閔妃は清国の袁世凱と結んで反乱を鎮圧する。大院君は中国の天津に幽閉され、大院君派の官吏・儒学者は凌遅刑に処されて壊滅した(壬午軍乱)。1884年には開化派によるクーデターが起こったが、清国の軍事介入により鎮圧されて開化派も失脚した(甲申政変)。これらの政変により、清国は朝鮮への影響力を強め、閔氏一族の後見となって政権を掌握させた。清国と日本と天津条約を結び、朝鮮に出兵をする際は双国とも事前通告することを約定して、朝鮮半島から撤兵した。 1885年、高宗が秘密裏にロシア帝国に支援を要請していることが露見する(露朝密約事件)と、清国は影響力を維持するため大院君を朝鮮に帰国させる。帰国した大院君は高宗を廃して嫡孫の永宣君を王位に擁立して自らは摂政に収まることを画策し、全琫準を通じて東学党との関係を深めていった。1894年6月、東学党が蜂起して全羅道を占領して閔妃政権の退陣を求める(甲午農民戦争)と、閔氏政権は自力での反乱鎮圧を諦めて清国に救援を依頼する。李鴻章は2,000名規模の陸軍を派兵したが、日本も天津条約の取り決めに従って邦人保護のために8,000名規模の混成旅団を派兵した。 反乱の鎮圧後、朝鮮は両国に対して撤兵を要求するが双方から拒否された。日本は朝鮮に独立国かの再確認を行い、朝鮮側から「自主国である」との回答が受けたことから、自主国である朝鮮に清国軍が駐留することは清国が朝鮮を属国として扱おうとする不当な動きとして批判し、日清間の緊張は高まった。また、日本は朝鮮政府に内政改革案を提示したが、閔妃一族は改革案よりも撤兵を求め、朝鮮王朝による自主的な改革を実施すると返答しため、閔氏一族との対立も深まった。 1894年7月23日、日本軍は朝鮮王宮景福宮を占領し、大院君を推し立てて新政府を樹立した。杉村濬京城公使館書記官は、新政権の首相たる領議政の役職に金弘集を推し、大院君もこれに従った。また大鳥圭介公使は朝鮮新政府に対して、清国との縁を切ること、また朝鮮にいる清国軍の駆逐を日本に求めること、の2点を要求した。朝鮮新政府はこれに当初応じなかったが、「最後に大鳥公使の強硬な要求に屈して承諾」した。 1894年7月25日、朝鮮の豊島沖で日清間の武力衝突(豊島沖海戦)を契機に日清戦争が勃発し、勝利した日本は清国と下関条約を締結し、朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮半島における清国の影響を排することに成功した。 親露政策と大韓帝国の成立 日清戦争直後の朝鮮半島は、清国と結んでいた閔氏一族が失脚し、復権した開化派は金弘集を総理大臣として甲午改革が推進した。しかし、1895年(明治28年)にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国による下関条約に関する干渉に日本が屈すると、高宗の妃閔妃はロシア帝国に接近して復権を果たすが、失脚した大院君が開化派の禹範善を介して日本と結んでクーデター(乙未事変)を起こされて殺害された。残された事大党(李範晋ら)は、妻を殺害された高宗を味方につけ、1895年にクーデターに失敗(春生門事件)するも、1896年にロシア軍の支援を受けて高宗をロシア公使館に移して復権を果たす。高宗により金弘集らの開化派の閣僚は処刑され、親露派内閣による執政が行われた(露館播遷)[9]。朝鮮半島を巡って悪化した日露関係を改善するため、小村寿太郎駐朝鮮国公使とウェーバー駐朝鮮国ロシア公使との間に協定が結ばれ、高宗は1897年(明治30年)2月にロシア公使館から慶雲宮に帰還した。 1897年(明治 30年)10月12日、高宗は自ら皇帝に即位して国号を「大韓」と改めた。高宗はロシアの力を借りて専制君主国家の成立に取り組み、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルの要請を受け、度支部(財務省)の顧問を英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフへと交代させ (度支顧問事件)、1898年2月には露韓銀行を設立させた。また、1898年1月には釜山の絶影島にロシアが太平洋艦隊の石炭庫基地を租借を要求する事件が起きた (絶影島貯炭庫設置問題)。開化派の運動組織独立協会は、中心人物の徐載弼が中枢院顧問から解任・国外追放され、1898年2月に、ロシア、日本などからの自立を求めた上疏が黙殺されるなど冷遇を受けた。また、大院君も高宗に諫言を行ったが、「倭奴(日本)の何か事場を醸すの処あっての事なるや」「露国は朕に親切にして、且つ後楯を為せり。」と一蹴された。独立協会を引き継いだ尹致昊は市民の街頭集会(万民共同会)を通じて議会設立を求める運動を推進したが、高宗も褓負商 (行商人) を動員して皇国協会を設立して対抗した。1899年1月、高宗が独立協会に解散命令を下すと会長の尹致昊は米国公使館に逃げ込み、開化派は壊滅した。1898年4月に日露間で西・ローゼン協定が結ばれ、両国は韓国の国内政治への干渉を差し控えることが定められた。高宗は皇帝の専制政治を目論んで光武改革と称する政治運動を進めようとするも、しかし、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸による高宗・皇太子暗殺未遂事件(毒茶事件)が起こるなど臣下の離反が相次ぎ、王室の財源を確保するための経済政策も国民の支持を得ることができないまま、早々に破綻してしまった。 光武改革 1899年(明治 32)8 月、高宗は「大韓国国制」を発布し、皇帝は統帥権、法律の制定権、恩赦権、外交権など強大な権力を有することが定められ、皇帝専制による近代化政策(光武改革)が進められたが、韓国独自の貨幣発行は失敗して財政は悪化した(後述の「財政問題及び偽白銅貨の流通」を参照)。韓国政府により京城~木浦間に鉄道を敷設する計画も発表されたが、資金不足により実現に取り掛かることはできなかった。また、光武量田事業と呼ばれる土地調査を実施し、封建制度の基礎となる土地私有制を国家所有制に切り替え、近代的地税賦課による税収の増加を目論んだが、土地所有者たちへの説明が不明瞭なまま強引に推し進められたことや経費の不足から徹底することができないまま、日露戦争の勃発により事業は終了した。 イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。 朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。 —イザベラ・バード、『朝鮮紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、1998年、 財政問題及び偽白銅貨の流通 詳細は「兪吉濬陰謀事件」を参照 当時の白銅貨には、典圜局製造の「官鋳」、正式な特別許可による外製の「特鋳」、韓国皇室の内々の勅許 (啓字公蹟) による外製の「黙鋳」、密造による「私鋳」があると見られていた。韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた。また、大韓帝国においては偽造勅許証 (偽造啓字公蹟) が多く出回っており、それによる偽啓默鋳も行われていた。しかし、内密の勅許を暴露することは重罪であったため、民間人が白銅貨鑄造の勅命許可証の真偽を判断することは難しかった。しかし、日本公使館は内密な手段によってこの真偽を確かめることができた。
2024年08月28日
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だが、一方で足利義晴が本来は敵方である晴元に対抗するために権力機構を整備したこと、六角定頼の幕府内での発言力が高まったこと、両細川の乱以前からの細川京兆家譜代の家臣(内衆)の多くが細川高国配下として運命を共にしたことによる京兆家の政治的ノウハウの喪失などによって幕政における細川京兆家の発言力が大きく低下したとする指摘もある。 晴元政権時代 天文8年(1539年)、上洛した三好長慶が同族の三好政長と河内十七箇所を巡って争い、晴元は政長に肩入れして長慶と対立したが、義晴と六角定頼の仲介で長慶と和睦した。 この時は小競り合いに終わったが、天文10年(1541年)には増長した木沢長政が造反し、政長の排除を訴えられた時も拒絶、京都郊外の岩倉へ逃れ、翌天文11年(1542年)に摂津芥川山城へ移り反撃、長慶・政長と河内国の遊佐長教による活躍で長政を討ち取っている(太平寺の戦い)。 しかし反乱はなおも続き、天文12年(1543年)、亡き細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵。 この反乱は同年の内に治まったが、天文14年(1545年)には山城国で高国派の上野元治・元全・国慶3代と丹波国の内藤国貞らが挙兵、三好長慶・政長ら諸軍勢を率いて反乱を鎮圧した。 天文15年(1546年)8月に氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助で再挙兵、長慶の動きを封じて摂津国の殆どを奪い取った。氏綱と畠山政国・遊佐長教らが手を結んだだけでなく、9月に上野国慶も再挙兵して京都へ入ったため晴元は丹波国へ逃亡する。 この年の12月に将軍・義晴も滞在先の近江国坂本で嫡男・義輝を元服させた上で将軍職を譲るが、この際に六角定頼が管領代に任じられ、本来は管領が行うべき加冠役(烏帽子親)を務めた(『光源院殿御元服記』)。 これは、従来は管領である晴元が出陣中であったため定頼が代行したと解されていたが、近年では文字通り管領が空席であった(=晴元は管領ではなかった)と解する説が出されている。 この説によれば、当時の管領の職務は儀礼的分野に留まり、もし晴元が坂本に駆けつけられる状態であればこの元服の儀に先立って管領に任命された筈であるが、実際にはそれが不可能であったために近江の守護である定頼が管領代に任じられ、晴元は最後まで管領に任じられなかったとされる。 いずれにしても、慣例に反して細川氏よりも家格が下がる六角氏の当主を将軍の烏帽子親にする行為は晴元の面子を踏みにじるものであった。 また、義藤の元服の翌日に行われた将軍宣下の儀式に遊佐長教(氏綱派の畠山政国の重臣)が参列していることに注目し、氏綱も長教を通じて管領に就任して義藤の烏帽子親になろうと工作を図っており、もし氏綱が坂本に駆けつけられる状態であればこの元服の儀に先立って管領に任命された筈であるが、実際にはそれが不可能であったことと晴元の舅である定頼がこれに反対する意図で管領代として烏帽子親を務めたとする見方もある。 やがて義晴父子も氏綱を支持に転じて、晴元と敵対する。 これに対して晴元は11月に三好長慶の居城である摂津越水城から北の神呪寺へ移り、越水城で待機していた長慶と協議して翌天文16年(1547年)に反撃、摂津の細川氏綱方を打ち破り摂津を平定、7月21日に長慶が細川氏綱・遊佐長教らに舎利寺の戦いで勝利、義晴とも閏7月に定頼の協力で和睦して氏綱の反乱をようやく鎮圧した。 だが天文17年(1548年)5月6日、かつて細川氏綱に寝返った摂津国人・池田信正を切腹させたことにより三好長慶と他の摂津国人衆の離反を招き、8月に三好一族の和を乱す三好政長討伐の認可要請を長慶から出されても拒否すると、10月には氏綱側へ転属した長慶に挙兵され、摂津榎並城を攻囲される。 その榎並城で籠っていた政長の子・三好政勝を見捨てては畿内の国衆から見限られる恐れがある為、晴元は戦力で劣るまま摂津国江口において長慶らと戦う事となった。 しかし、正面からの主力決戦を回避し、あくまでも六角軍の到来を待ってから決戦に臨もうとした為、機先を制せられた晴元の主力は戦わないまま敗北する(江口の戦い)。この戦いで三好政長・高畠長直ら多くの配下を失った晴元は追撃を恐れて、将軍・義輝らと共に近江国坂本まで逃れた.。 没落、晩年 晴元や足利義輝ら現職の将軍、管領が不在となった京都には三好長慶と細川氏綱が上洛、長慶が幕府と京都の実権を握った。 近江へ逃亡した晴元は天文19年(1550年)に足利義晴が死去してからは義輝を擁立し、香西元成や三好政勝など晴元党の残党を率いて東山の中尾城と丹波国を拠点に京都奪回を試みたが成功せず中尾城を破棄(中尾城の戦い)。 天文20年(1551年)に丹波衆を率いた元成・政勝が長慶軍に敗れ(相国寺の戦い)、天文21年(1552年)1月に長慶と義輝が和睦して義輝が上洛、氏綱が細川氏当主となり嫡男の聡明丸(後の昭元)が長慶の人質になっても晴元は和睦を認めず出家し、若狭守護の武田信豊を頼り若狭国へ下向する。信豊は家臣の細川氏の領国である丹波へ派兵する。 それからは丹波国から度々南下して三好軍を脅かし、天文22年(1553年)3月に義輝と三好長慶が決別、7月に義輝から赦免されると再度義輝と共に長慶と交戦した。 しかし、8月に義輝方の霊山城が三好軍に落とされると義輝と共に近江国朽木へ逃亡した。 丹波国では香西元成・三好政勝らが波多野晴通と手を結び長慶派の内藤国貞を討ち取ったが、国貞の養子で長慶の部将・松永長頼に反撃されて丹波の殆どを平定され、弘治3年(1557年)に晴通が長頼と和睦して丹波は三好領国となった。 播磨国でも元成が明石氏と結んだが、弘治元年(1555年)に明石氏が三好軍に攻撃され降伏、勢力拡大した長慶の前に手も足も出せなくなった。 永禄元年(1558年)に上洛を図り将軍山城で三好軍と交戦するも(北白川の戦い)、六角義賢の仲介で義輝と三好長慶が再び和睦を結ぶと坂本に止まる。 永禄4年(1561年)隠居の晴元は次男の細川晴之を細川家の当主に見立て、六角・畠山軍とともに近江に反三好の兵を挙げさせる。 三好軍に敗退し晴之は戦死、三好長慶と和睦するも、摂津の普門寺城に幽閉された。 永禄6年(1563年)3月1日に普門寺で死去した。享年50。 晴元の死後は昭元が京兆家の家督を相続したが、管領に任命されず、かつての威勢を取り戻せず没落していった。 細川氏綱は管領に就任したとされるものの史料的な裏づけは無くこれも三好長慶の傀儡のまま死去、以降は誰も管領に任命されなかった。 後に、昭元は織田信長に仕え、子孫は縁者の秋田氏を頼り、三春藩の家老として遇された。 元長の子の三好長慶は、足利将軍家や晴元と対立しながらも、着実に勢力を伸ばしていった。 そして天文18年(1549年)、晴元の側近で同族の三好政長を討ち取った長慶を恐れた晴元は、13代将軍足利義輝と大御所足利義晴を連れて近江坂本へ逃れた(江口の戦い)。 江口の戦い(えぐちのたたかい)は、天文18年(1549年)6月12日から6月24日にかけて摂津江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において三好長慶軍と同族の三好政長(宗三)が衝突した戦いである。 江口合戦とも呼ばれる。
2024年08月26日
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18「人物像と評価」外見は痩せた長身(五尺六寸五分=171.2センチメートル。当時としては非常な長身)であり、上前歯が突出していた。部下たちは密かに「反歯伯」と呼んでおり、井上馨の見合いの際には廊下で花嫁候補とぶつかり前歯でけがをさせたと言われる[292]。早くから長州奇兵隊や新政府軍の中枢を任された山県は軍政家であり、兵を率いて前線に立ち軍功を上げるということはそれほど多くはなかったが、日清戦争で元首相でありながら第一線に立ったほか、日露戦争でも満洲軍総司令官就任を希望しているなど[293]、軍人であることを意識しており「一介の武弁」を口癖としていた。政治思想山縣は議会・政党に不信感を持っており、民主主義思想や普通選挙の拡大についても警戒していた。一方で星亨や原敬など、政党政治家でも妥協できる相手ならば連携をすることが出来た。第一次世界大戦後には普通選挙もやむなしと考えるようになり、1919年秋頃には10年以内に普通選挙を国政にまで広げるべきとする田健治郎の案に同意している。風雅の道と普請道楽趣味は和歌を詠むことであり、生涯に数万首の和歌を読んでいる。また漢詩、仕舞、書を好んだ。石上神宮の楼門に掲げられる「萬古猶新」の木額も山縣の揮毫による。茶人として、また普請道楽、造園好きとしても知られる。東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山県が自ら想を練り岩本勝五郎や近代庭園の先覚者として知られる7代目小川治兵衛をはして築かせたものである。これらは山県の好みに従った自然を活かした構成であり、伝統的な日本庭園とは一線を画す近代主義的・自然主義的日本庭園とも言えるもので(#邸宅・記念館も参照)、「明治期の新庭園が打ち出した特色は、山縣有朋の造園感覚そのものである」とまで言われており、携わった小川治兵衛自身の造園手法にも影響を与えたとされる。松井広吉 「和歌漢詩ともに妙で、前者には通泰博士を師として名作も多いといわれる。書も骨立ながら気品犯しがたいものがある。武骨人のようだが、謡曲や仕舞以外に、清元の咽は勿論、その方の鑑識も高いという。公を一介の武弁謹直人に止まるとするのは、全くその韻趣を解せぬ垣のぞきといわざるを得ぬ」逸話ドイツ帝国宰相ビスマルクと参謀総長大モルトケを深く尊敬していた。椿山荘の居室の暖炉の上には、ビスマルクとモルトケの銅像を飾っていたという。明治30年代(1897年 – 1906年)には社会主義が勃興しつつあり、「社会」という言葉に対してさえも政府が敏感であったころの話である。第2次山県内閣のとき、ある政府の役人が、日本の大学に社会学のようなものを置いてはいけないと言った。すると山県は、一体どこで誰が社会学をやっているのかと問うた。それに対して、それは東京の文科大学で、建部という教授が担当してやっていると答えると、山県は「建部がやっているのか。それならいいじゃないか」と言ったため、その結果、この時期の日本の最高学府において社会学が潰されてしまう危機を脱することができた。伊藤博文との関係山県と同じく長州閥出身で大勲位となった伊藤博文と対比され、伊藤が政党・議会を高く評価する一方で、否定的な山縣との思想は全く異なっていたが、当人たちの仲は非常に良好で、お互いのよき相談役であった。日清戦争後、司令官から退いた山縣に対し伊藤は詩を贈り、また山縣も返礼の詩を贈っている。伊藤の死を伝えた松井広吉は「山縣公にお目にかかった時、公は藤公の訃報を聞いて暗然としながら、伊藤は幸いに死所を得た。私なども畳の上で往生したくはないと心がけておるがと語られた」と回想している。また「かたりあひて尽し丶人は先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」と弔歌を詠んでいる。後に山縣は伊藤を「考慮万端少しも落ちのない方」であり、「思慮に余って決断が遅い」面はあるものの「全体としては真に国家有用の人物」であると評している。原敬との関係山縣は古くから原を「屈指の人物」であると評価し、大阪毎日新聞の社長だった時代には主要国の駐在公使に抜擢しようと考えていたこともある[317]。また松本剛吉への談話では、星亨、大浦兼武、田健治郎らと並べて「人格を貴び、やろうとすることはどんなことでもやろうとする人物」と評している。原は政友会入りした後は対立者となったが、政党自体は嫌っていたものの、原個人に対してはそれほど嫌悪していなかった。原内閣成立時にも「今度の原の遣口は能く出来た」と上機嫌で語っていたという。一方の原は『原敬日記』では山縣について「種々の奸計」「陰険手段」を用いる人物と評し、山縣が勲章や栄典を求めるとして「あれは足軽だからだ」と否定的に記述している。一方で山縣の外国への慎重姿勢などを評価して、山縣が生きている限り日米戦争は起こらないと発言していた。原は山縣の完全排除を望まず、宮中某重大事件で山縣が謹慎していた際にはその復帰を求めている。以降原への信頼を厚くした山縣は「原位の人間は只今では無い」「(辞表が受理されて平民に戻った後は)原と力を合わせて遣りたい」と述べている。原が暗殺された際には非常に嘆き、「原と云ふ男は実に偉い男であった。ああ云ふ男をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と述べている[321]。了
2024年08月20日
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17「自由党の結成明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。以後、全国を遊説して回り、党勢拡大に努める。(自由民権運動) 自由民権運動(じゆうみんけんうんどう、)とは、明治時代の日本において行われた憲法制定、国会開設のための政治運動・社会運動。 明治6年(1873年)征韓論を主張して敗れた板垣退助らが、野に下り征韓派勢力を結集し、明治7年(1874年)1月12日、愛国公党を結成し、1月17日『民撰議院設立建白書』を左院に提出し東アジアで初となる国会開設の請願を行ったことに始まる運動である。藩閥政府による専制政治を批判し、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の撤廃、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、明治23年(1890年)の帝国議会開設頃まで続いた。 自由民権運動は三つの段階に分けることができ、第一段階は1874年(明治7年)の『民選議院設立建白書』の提出から1877年(明治10年)の西南戦争頃までであり、第二段階は西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)頃までが、この運動の最盛期である。第三段階は条約改正問題を契機として、この条約改正に対する条件が日本にとって屈辱的であったため反対した民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心とした明治20年前後の運動である[3]。 日本における独自性 日本における自由民権運動は、維新回天の元勲・板垣退助が億兆安撫国威宣揚の御宸翰の意を拝し尊皇思想を基礎とし、明治天皇の五箇条の御誓文を柱として発展したもので、世界の自由主義思想とは潮流を異にする。特に御誓文の第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」の文言は重視され、国会開設および憲法制定の根拠とされた[4]。 朕、幼弱を以て猝(には)かに大統を紹(つ)ぎ、爾来、何を以て万國に對立し、列祖に事へ奉らんかと朝夕恐懼に堪ざる也。竊(ひそか)に考(かんがふ)るに、中葉、朝政衰(おとろへ)てより、武家、権を専(もっぱ)らにし、表には朝廷を推尊して實は敬して是を遠け、億兆の父母として、絶て赤子の情を知ること能(あたは)ざるやふ計りなし、遂に億兆の君たるも、唯、名のみに成り果て、其が爲に今日、朝廷の尊重は古へに倍せしが如くして、朝威は倍(ますます)衰へ、上下相離ること霄壌(しょうじょう)の如し。かゝる形勢にて何を以て天下に君臨せんや。今般、朝政一新の時に膺(あた)り、天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆、朕が罪なれば、今日の事、朕、躬(みづか)ら身骨を勞し、心志を苦(くるし)め、艱難(かんなん)の先に立(たち)、古(いにしへ)列祖の盡(つく)させ給ひし蹤(あと)を履(ふ)み、治蹟を勤めてこそ、始(はじめ)て天職を奉じて億兆の君たる所に背(そむ)かざるべし。往昔、列祖萬機を親(みづか)らし不臣のものあれば自(みづか)ら將として、これを征し玉(たま)ひ、朝廷の政(まつりごと)、總(すべ)て簡易にして如此(かくのごと)く尊重ならざるゆへ、君臣相親(あひしたし)みて上下相愛し、德澤天下に洽(あまね)く、國威海外に輝きしなり。然るに近來宇内大(おほい)に開け、各國四方に相雄飛するの時に當(あた)り、獨(ひとり)我邦(わがくに)のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効をはからづ、朕、徒(いたづ)らに九重中に安居(あんきょ)し、一日の安きを偸(ぬす)み、百年の憂(うれひ)を忘(わする)る時は、遂に各國の凌侮(あなどり)を受け、上は列聖を辱しめ奉り、下は億兆を苦めんことを恐る。故に朕こゝに百官諸侯と廣く相誓ひ、列祖の御偉業を繼述し、一身の艱難辛苦を問(とは)ず、親(みづか)ら四方を經營し、汝、億兆を安撫し、遂には万里の波涛を拓開し、國威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置(おか)んことを欲して、汝、億兆旧來の陋習に慣れ、尊重のみを朝廷の事となし、神州の危急をしらず、朕一(ひと)たび足を擧(あげ)れば非常に驚き、種々(さまざま)の疑惑を生じ、萬口紛紜(ばんこうふんうん)として、朕(ちん)が志をなさゞらしむ時は、是、朕をして君たる道を失はしむるのみならづ、從て列祖の天下を失はしむる也。汝、億兆能々(よくよく)朕が志を躰認(たいにん)し、相率(あいひきゐ)て私見を去り、公義を採(と)り、朕が業を助(たすけ)て神州を保全し、列祖の神靈を慰し奉らしめは生前の幸甚ならん。— 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰』 自由民権家が例外なく尊皇家であったのは、その主導者である板垣退助の影響が大きい[6]。板垣は「君主」は「民」を本とするので、「君主主義」と「民本主義」は対立せず同一不可分であると説いた[7]。これらの論旨の説明には「天賦人権説」がしばしば用いられている[8]。東北地方では河野広中、北陸では杉田定一、九州では頭山満らが活躍したが、初期において自由民権運動に参加した者は、いずれも板垣の薫陶を受けたものから派生している[9]。世界の自由主義思想は、キリスト教神学の聖書解釈や個人主義などを伴って発展したものが多い中で、日本の自由主義は愛国主義と密接に結びついており、単純にリベラリズムと翻訳出来ない特徴を有する。現在の自由民主党の起源を成す政治運動である。 私擬憲法国会期成同盟では国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと、翌明治14年 (1881年)までに私案を持ち寄ることを決議した。板垣退助は私擬憲法の作成意図について『我國憲政ノ由來』で次のように述べている。國家の根本法たる憲法は、君主と人民との一致に基(もとづ)いて定むべく、國約憲法とは之(これ)を謂(い)ふなり。即ち知るべし國約憲法とは君民同治の神髄なることを。故(ゆえ)に苟(いやし)くも我國の憲法を制定せんと欲せば先づ憲法制定の為めの國民議会を開かざる可からずと。真に皇室の安泰と人民の福祉を慮(おもんぱか)り、この金甌無欠の國家を永遠に維持せんが爲めに、萬世不易の根本法を定めんとするもの。『我國憲政ノ由來』板垣退助著
2024年08月16日
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水戸では、密勅への対応をめぐって藩論は紛糾した。返納阻止派の藩士らは、密勅の下された安政5年の9月、街道の本陣のある小金宿 に結集し、武装した農民部隊まで加わった(第一次小金屯集)。この屯集が収まりを見せる頃、直弼による安政の大獄は本格的になり、密勅降下に関わった鵜飼吉左衛門父子らが拘禁された。やがて家老・安島帯刀らも拘禁され、これに反発した水戸藩士民は、安政6年(1859年)5月、再び小金宿等に屯集した(第二次小金屯集)。一方、水戸藩士金子孫二郎は、高橋多一郎と計り関鉄之助、矢野長九郎、住谷寅之介らを西へ向かわせ、密勅の写しを諸藩へ回達させようとした。彼らは西南雄藩との連合を目指し、数か月間に渡り諸藩を遠遊した。また、弘道館内の鹿島神社神官・斎藤監物も神官3名を西国へ向かわせ、諸国神官職の者達へその写しを回覧させた。8月27日夜半、水戸藩関係者への刑が執行された。水戸藩家老安嶋帯刀を切腹、水戸藩奥祐筆茅根伊予之介、水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門を斬首、水戸藩京都留守居役助役鵜飼幸吉を獄門に処する等、御三家の家老格重鎮への処分としては、異例のものであった。また、前水戸藩主・徳川斉昭は国許の水戸に永蟄居処分を受けた。さらに、幕政から『戊午の密勅』の朝廷への返還を求められ、主君の処分解除のためには、水戸藩は幕府へ恭順を示さねばならなくなった。しかし、断固返納反対の立場をとる藩士らの勢いも止まず、藩内の膠着状態となった。幕府は自ら返還を促す勅命の草案を作って天皇の同意を得る方針に転換し、12月、藩主・徳川慶篤に勅書返納の朝旨を伝達した。水戸藩庁では斉昭・慶篤間での協議により返納論が主流となりつつあったが、密勅返納阻止の運動は却って激化した。返納反対派は密かに密勅が運ばれることを警戒し、藩境の長岡で集まり水戸街道を封鎖して返納に抵抗した(長岡屯集)。安政7年(1860年)1月15日、幕閣は江戸城へ登った慶篤に対し、重ねて密勅の返納を催促、同年1月25日を期限とし、もし遅延したら違勅の罪として同藩を改易する可能性まで述べた。慶篤は返納に肯定的であったが、水戸藩内の返納反対論者の勢いは強く、幕府に猶予を願い出続けた。水戸で永蟄居中の斉昭は事態を危惧し、密勅を水戸城内の祖廟の元へ納めさせ、またさらに水戸より六里(約23.56キロメートル)北で、歴代藩主の墓のある瑞龍山の廟へ移した。2月14日、返納容認論者の藩士・久木直次郎が江戸で、夜半何者かに襲撃された。また2月18日、水戸城下の魂消橋で、返納反対派の藩士と容認派の藩屏が衝突、負傷者を出し、水戸城下は騒ぎとなった。2月24日、藩士・斎藤留次郎が水戸城・大広間で割腹自殺したため、返納は延期された。長岡屯集は、水戸藩上層部からの工作により懐柔されたことと、活動の主要人物の一部が直弼暗殺計画のため江戸へ移って地下に潜行したことにより解散した。 一方、以前より尊攘激派の藩士・高橋多一郎や金子孫二郎らと、薩摩藩の在府組である有村次左衛門らは、双方の藩に仕えた日下部伊三治 (大獄により獄死)を介して結合を維持していた。この水戸藩士に薩摩藩士を加えた攘夷激派は、江戸での井伊大老への襲撃と同時期に、薩摩藩主・島津斉彬が率兵上京により天皇の勅書を得、それにより幕政を是正しようと図った。しかし、薩摩藩では斉彬の急死後に実権を握った島津久光が、江戸での大老襲撃を黙認しつつも、自藩の直接関与を抑制する方策をとった。久光の息子である藩主・島津茂久が、直書で志士の「精忠」を賞賛するとともに、後日を期して脱藩突出を思いとどまるように説諭するという異例の対応で、攘夷激派を沈静化させた。ここに率兵上京の計画は頓挫した。しかし、薩摩藩から尊攘急進派の水戸藩士らへこの事は知らされなかった。 しかし、幕政是正のためには大老井伊直弼の排除が不可欠と考えた尊王攘夷急進派の水戸藩士達は、単独でも実行する方針を固め、直弼暗殺計画の準備を進めていた。 ◯毛利 元徳/定広(もうり もとのり/さだひろ)は、長州藩第14代藩主。長州藩最後の藩主。のち公爵。位階は従一位。勲等は勲一等。 徳山藩第8代藩主・毛利広鎮の十男として生まれる。母は三宅才助の娘で側室の多喜勢(滝瀬)。広鎮は還暦を迎えた2年前の天保8年(1837年)に隠居し、すでに成人していた七男(元徳の異母兄)の元蕃が藩主を継いでいた。元徳の兄には他に福原元僴(越後、長州藩家老福原家を継ぐ)、秋元志朝(山形藩主、のち館林藩主)らがいる。徳山毛利家は長州藩祖輝元の男系の血筋を伝える毛利家の分家であったが、広鎮の曾祖父元次(輝元の孫)が毛利家の後継候補から外されたことが元で、長州藩内に確執を生んでいた。輝元直系の長州藩主は、4代吉広以来となる。 嘉永5年(1852年)2月27日、先代藩主の毛利慶親(のちの敬親)に嗣子がないため、元徳もその養子となる。はじめは広封(ひろあつ)と名乗るが、安政元年(1857年)2月18日、養父・慶親の嫡子となった。同年3月9日、従四位下侍従・長門守に叙任する。また、将軍・徳川家定から偏諱(「定」の一字)を受けて定広(さだひろ)と名乗った。 安政5年(1858年)、長府藩主毛利元運の次女銀姫(安子)と婚儀を挙げる。銀姫は元徳と前後して慶親の養女となっていた。 元治元年(1864年)7月14日、禁門の変に際し三条実美らをともない、兵を率い京都に向かう。だが7月21日、禁門の変の敗北を知り、山口に引き返す。8月22日、幕府により官位を剥奪された。また、「定」の字を召し上げられて広封に戻す。明治維新後に元徳と改名する。 元徳は慶応4年(1868年)2月上洛し、3月議定に就任する。明治2年(1869年)6月4日、養父・敬親の隠居で跡を継ぎ、従三位・参議となった。就任後、まもなく版籍奉還で知藩事となった。明治4年(1871年)、元徳は廃藩置県で免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。 明治29年(1896年)12月23日に死去した。57歳没。国葬が営まれた。号は忠愛公。
2024年08月15日
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*「鍋島 直正」(なべしま なおまさ)は、江戸時代末期の大名。第10代肥前国佐賀藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の諱は斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。文政10年(1817)、将軍・家斉から松平名字を与えられた。天保元年(1830)、父の隠居の後を受け17歳で第10代藩主に襲封。将軍・家斉の偏諱を与えられ斉正と名乗る。当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主・斉直の奢侈や、2年前のシーボルト台風の甚大な被害もあって、その財政は破綻状況にあった。斉正自身も初入部のため、江戸藩邸を佐賀に向けて出発するやいなや、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せ、借財返済を申し立てたため、斉正の行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験をしている。斉正は、襲封するとともに藩政改革に乗り出したが、当初は江戸にいた前藩主・斉直とその取り巻きら保守勢力の顔をうかがわねばならないことが多く、実行できた改革は倹約令の発令がせいぜいであった。しかし天保6年(1835)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼するという危機にあたり、荒廃していた佐賀城本丸に御殿を移転・新築させる佐賀城再建を、斉直の干渉を押し切って実行した。これを皮切りに、役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料の支払免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。役人削減とともに藩政機構を改革し、出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に政務の中枢へ登用した。さらに長崎警備の強化を掲げるも、幕府が財政難で支援を得られなかったことから、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。高島秋帆の西洋砲術に多大な関心を寄せるが、守旧派重臣の反対や幕府に睨まれるといった懸念があったため、義兄で武雄領主の鍋島茂義に先導させてその導入に励んだ。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関・蒸気船(凌風丸)までも完成させることにつながっている(それらの技術は母方の従兄弟にあたる島津斉彬にも提供されている)。また、当時不治の病であった天然痘を根絶するために、当時佐賀藩医であった伊東玄朴が藩に痘苗の入手を進言した。藩は長崎出島のオランダ商館長に牛痘苗の入手を依頼した。出島の医師オットー・ゴットリープ・モーニッケがバタヴィアから牛痘苗を入手し、1848年6月に長崎にて種痘が施され、その一部が善感した。この痘苗は、長崎・佐賀を起点として複数の蘭方医たちを中心とするネットワークによって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播する。長崎の唐通詞穎川四郎八から京都に送られた痘苗によって、同年10月笠原良策とその師である日野鼎哉が京都に、京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月大坂に、「除痘館」という種痘所をそれぞれ開設した。 一方佐賀藩では、7月に長崎で鍋島藩医の楢林宗建の息子に接種、善感した。8月には楢林によって佐賀藩領にもたらされ、直正の長男の直大にも施された。同時期に種痘事業を担当する引痘方が設けられ、医師の出張・宿泊費を藩が支給し無料で藩領に接種が開始された。並行して熟達した医師に医業免札を発行する制度が導入された。10月に佐賀藩江戸藩邸に送られた痘苗から、牛痘法は関東以北の各地に広がることになる。嘉永6年(1853)、マシュー・ペリーが来航し、江戸幕府老中の阿部正弘が各大名に意見を募った時、斉正はアメリカの武力外交に対して強く攘夷論を唱え、品川台場建設に佐賀藩の技術を提供し、正弘より信頼を得た。一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を知っており、イギリスの親善外交に対して開国論を主張する。文久元年(1861)、48歳で隠居。家督を長男・直大に譲って閑叟と号した。文久2年(1862)12月25日、上京した閑叟は関白近衛忠煕に面会し、京都守護職への任命を要請している。この時に閑叟は「長崎警備は他大名でも担当できるが、大阪・京都の警備には実力が必要であり、私であれば足軽30人と兵士20人の兵力で現状の警備を打ち破れる」旨の発言をしている。この件は他に島津藩などからの守護職要請もあり立ち消えとなった。質素倹約と経営手腕を商人たちに「そろばん大名」と呼ばれ、『葉隠』に表される保守的な風土にいながら、当時は医者の学問と侮蔑されていた蘭学を「蘭癖大名」と呼ばれるまでに熱心に学び、他藩が近代化と財政難の板挟みで苦しむ中、財政再建と軍備の近代化に成功したが、盟友であった阿部正弘が没した後の、激動の中央政界では佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒され、参預会議や小御所会議などでの発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるものの実らず、政治力・軍事力ともに発揮できなかったものの藩内における犠牲者を出さずに済んだ
2024年08月13日
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5、「龍造寺 隆信」(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。龍造寺氏の出自については諸説があるが、本姓を藤原氏秀郷流と称す。家督相続享禄2年(1529)2月15日、龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男として肥前佐嘉郡水ヶ江城の東館天神屋敷で誕生。幼少期は宝琳院の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて養育された。天文5年(1536)、7歳のときに出家して寺僧となり、中納言房あるいは中将を称し、法名を円月(圓月)とした。円月は、12、13歳の頃より、20歳くらいの知識があり、腕力も抜群であったとされる。まだ15歳の僧侶であった頃、宝琳院の同僚が付近の領民と諍いを起こし、院内へ逃げ込み門戸を閉ざしていた。これを領民6,7人がこじ開けようとしていたのを円月が一人押さえていたが、力余って扉が外れ、領民4,5人がその下敷きになった。領民は恐れをなして逃げ帰ったという。天文14年(1545)、祖父・龍造寺家純と父・周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺された。円月は、曽祖父の家兼に連れられて筑後国の蒲池氏の下へ脱出した。天文15年(1546)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、その一年後に家兼は高齢と病のために死去した。家兼は円月の器量を見抜いて、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残した。それに従って翌年、円月は、重臣石井兼清の先導で、兼清の屋敷に入り、還俗して胤信を名乗り、水ヶ江龍造寺氏の家督を継ぐことになった。しかし胤信が水ヶ江家の家督を相続するに及んでは一族・老臣らの意見は割れた。そこで八幡宮に詣でて籤を三度引き神意を問うたが、籤は三度とも胤信を選んだため、家督相続が決定したという。その後、龍造寺本家の当主・胤栄に従い、天文16年(1547)には胤栄の命令で主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放した。天文17年(1548)、胤栄が亡くなったため、胤信はその未亡人を娶り、本家(村中龍造寺)の家督も継承した。しかし胤信の家督乗っ取りに不満を持つ綾部鎮幸等の家臣らも少なくなく、胤信はこれを抑えるために当時西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、翌天文19年(1550)には義隆から山城守を敷奏され、さらに実名の一字を与えられて7月1日に隆胤と改め、ついで同月19日に隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に家臣らの不満を抑え込んだ。また、同年、祖父・家純の娘である重臣・鍋島清房の正室が死去すると、隆信の母・慶誾尼は、清房とその子・直茂は当家に欠かすことができない逸材として、押し掛ける形で後室に入って親戚とした。肥前統一天文20年(1551)、大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により死去する(大寧寺の変)と、後ろ盾を失った隆信は、(密かに大友氏に通じて)龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立せんと謀った家臣・土橋栄益らによって肥前を追われ、筑後に逃れて、再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せた。天文22年(1553)、蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利し、肥前の奪還を果たす。その際に小田政光が恭順し、土橋栄益は捕えられて処刑され、龍造寺鑑兼は隆信正室の兄であり佐嘉郡に帰らせて所領を与えた。その後は勢力拡大に奔走し、永禄2年(1559)にはかつての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込んで大名としての少弐氏を完全に滅ぼした。また、江上氏や犬塚氏などの肥前の国人を次々と降し、永禄3年(1560)には千葉胤頼を攻め滅ぼしている。さらに少弐氏旧臣の馬場氏、横岳氏なども下し、永禄4年(1561)には川上峡合戦で神代勝利を破り。永禄5年(1562)までに東肥前の支配権を確立した。このような急速な勢力拡大は近隣の有馬氏や大村氏などの諸大名を震撼させ、永禄6年(1563)に両家は連合して東肥前に侵攻するが、隆信は千葉胤連と同盟を結んでこの連合軍を破った(丹坂峠の戦い)。これにより南肥前にも勢威が及ぶようになったため、今度は豊後国の大友宗麟が隆信を危険視し、少弐氏の生き残りである少弐政興を支援し、これに馬場氏や横岳氏ら少弐氏旧臣が加わって隆信に対抗する。永禄12年(1569)には宗麟自らが大軍を率いて肥前侵攻を行なうが、毛利元就が豊前国に侵攻してきたため、宗麟は肥前から撤退した(多布施口の戦い)。その後、元就を破った宗麟は、元亀元年(1570)に弟の大友親貞を総大将とする3千の軍を組織し、肥前に侵攻させる。しかし隆信はこれを鍋島信生(後の鍋島直茂)による奇襲策によって撃退した。
2024年08月13日
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米内は、陸軍出身の小磯國昭と二名で組閣の大命を受けた(小磯が上席で、内閣総理大臣となった)異例の組閣経緯から「副総理格」とされ、「小磯・米内連立内閣」とも呼ばれた。 〇小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月22日 – 1950年〈昭和25年〉11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。山形県士族。山形県新庄市出身。 陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役に編入された。その後平沼内閣と米内内閣で拓務大臣、朝鮮総督(第8代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年(昭和19年)に内閣総理大臣に就任した(小磯内閣)。悪化の一途をたどる戦局の挽回を果たせず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、小磯は1945年(昭和20年)4月に辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。 栃木県宇都宮に山形県士族(旧新庄藩士)で警察署警部であった小磯進の長男として生まれた。新庄小学校、上山小学校を経て、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)を卒業するまで8箇所の学校に在籍した。その後、陸軍士官学校(12期)、陸軍大学校(22期)卒業。 小磯は陸大での成績が同期55人中33番であり、20番以下の成績の者で小磯ほど出世した者は他にはいない。若い頃はエリートコースを歩んでおらず、陸軍内の派閥にも属していなかった。このような事情により小磯の陸軍内での人気は高くなかった。しかし当時の陸軍の最大の実力者だった宇垣一成にその能力を買われ、小磯は陸士同期の杉山元や二宮治重らと共にその側近として重用されていった。これに畑俊六をあわせたこの四人は陸士・陸大の同期で、その後も近い関係を保ったまま昇進していく。 1930年(昭和5年)、杉山の後任として軍務局長に抜擢されると、人付き合いの良さや耳学問と読書で吸収した知識を活かし頭角を現した。その演説は理論構成もしっかりし、表現力も豊かで一級品といわれた。1931年(昭和6年)には宇垣を首班とする軍事政権樹立を図る三月事件の中心人物として関与。結局この計画は中止されるが、その後の小磯の軍歴に大きな影響を及ぼす。 三月事件や十月事件などの責任問題を背景に同年11月、荒木貞夫が陸相となり、いわゆる皇道派が陸軍内の実権を握ると、彼等は宇垣閥の排除を開始。小磯は1932年(昭和7年)2月に陸軍次官に昇進するものの、大臣は皇道派の荒木貞夫で、半年で中央を追われ関東軍参謀長となる。後任次官には陸士同期で皇道派の柳川平助が就いた。その後は皇道派と永田鉄山や東條英機ら統制派の確執が続くが、1936年(昭和11年)に二・二六事件が発生、翌年までの粛軍人事で皇道派は壊滅した。朝鮮軍司令官だった小磯は大将に進級するが、寺内寿一や梅津美治郎ら陸軍首脳部とは疎遠となっており、予備役間近と考えられていた。 1937年(昭和12年)、広田弘毅の後継として宇垣に組閣の大命が下る。しかしかつて陸軍の首魁であった宇垣の掣肘を嫌う石原莞爾ら省部中堅層が策動した結果、陸軍首脳部は三月事件の責任や派閥色を名目に陸相を推薦せず、復活したばかりの軍部大臣現役武官制を早くも利用して宇垣の組閣を流産させる決定を下していた。宇垣は小磯に陸相就任を直接要請するが、小磯は三長官の同意がないことを理由にこれを固辞。ここに至ってさすがの宇垣も大命を拝辞せざるを得なくなった。小磯は宇垣に陸相就任を受諾しても東京に着くまでに予備役にされてしまうと伝えていたともいう。宇垣はその日の日記に「小磯の台頭が炎となり小磯の軽挙が招来したる三月事件が其の口実に利用せらるる(中略)。彼の捨身的奮起を促し見たりしが、彼も凡庸儕輩と等しく明哲保身以外に立ち得ざりしは可憐なり矣」と書き付けて憤りを露わにしている(『宇垣日記』)。 1938年(昭和13年)に予備役編入。1939年(昭和14年)、平沼内閣において拓務大臣として初入閣した。翌年には米内内閣でも拓務大臣として再入閣を果たした。 太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)に朝鮮総督に就任し、「内鮮一体」をスローガンに前任者の南次郎総督が行った皇民化政策をよりいっそう押し進めた。小磯は朝鮮人官吏の登用、朝鮮人企業の推進、朝鮮人の政治関与の実現などを掲げ、1943年(昭和18年)8月1日には総督府統治下の朝鮮にも徴兵制度を施行した。戦後、朝鮮が独立したと聞いた小磯は「今更、朝鮮の独立を夢みるのは九州や、北海道が独立を企図すると同じで馬鹿げた意味のないこと」と否定的だった。 内閣総理大臣 アメリカ軍の反攻が本格化すると重臣らによって東條内閣の倒閣運動が発生し、サイパン失陥によって東條は辞任を余儀なくされた。後任を決める重臣会議では、南方軍総司令官の寺内寿一、朝鮮総督の小磯、支那派遣軍司令官の畑俊六の3人に候補が絞られるが、前線指揮官の寺内を呼び戻すことに東条が反対、畑についても重臣の多くが反対し、米内光政、平沼騏一郎らの推す小磯に落ち着いた。 当初は小磯単独の予定だったが近衛の発案で、元首相で海軍の重鎮である米内と連立させることになった。昭和天皇は重臣とも話した上で、小磯・米内の両名に「協力して内閣の組織を命ずる」という異例の大命を下した。
2024年08月07日
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中華民国の戦争準備とドイツ軍事顧問団 1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した。このため、上海の各要地に密かに堅固な陣地を築き、大軍の集中を援護させ、常熟、呉県で洋澄湖、澱山湖(中国語版)を利用し、主陣地帯 (呉福陣地: 呉県と福山(中国語版)の間)と後方陣地帯 (錫澄陣地: 江陰と無錫の間)、淞滬線: 呉淞と竜華の間、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された。長江沿いに対日戦のための要塞線は、「ヒンデンブルク・ライン」と称された。 1936年、幹部参謀旅行演習を実施し、龍華、徐家匯、紅橋、北新涇、真茹(中国語版)、閘北停車場、江湾、大場江湾、大場(中国語版)の各要点における包囲攻撃陣地の構築、呉福陣地の増強、京滬鉄道の改修、後方自動車道路の建設、長江防備と交通通信の改善、民衆の組織訓練等を行った。 1936年末頃から、1932年の上海停戦協定に違反して、保安隊と称する中央軍を滸浦口 (碧溪街道(中国語版))-安亭-蘇州河-黄浦江-揚子江に囲まれた非武装地帯に侵入させ陣地を構築していた[21]。北支事変勃発後、中・南支の情勢が逼迫するなか、上海附近の兵力を増強し、頻繁に航空偵察を実施していた。 1936年4月1日、ドイツ軍事顧問団の第五代団長ファルケンハウゼン中将は、蔣介石あての「極秘」報告書で「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手があがって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争にふみきるべきである」と進言した。中将は、中国の第一の敵は日本、第二の敵は共産党であり、日本との戦いの中で共産党を「吸収または消滅」させるのが良策であると判断していた。中将は、それまでは中国の防衛問題に関する助言しか与えていなかったが、1936年のメモを皮切りにもっと強い主張をするようになり、その中で日本側に奇襲をかけ、日本軍を長城の北方へ押し返し中国北部から追い出すことを提案した。 京滬区の軍事責任者に就任した張治中は、1936年に「上海包囲攻撃計画」を立案し、上海周辺の日本軍への先制攻撃の準備を進めた。ファルケンハウゼン中将は、北海事件の直後の9月12日、「ただちに河北省に有力なる部隊を派出し、空軍の掩護のもと所在の日本軍に先制攻撃を加え、河北省を奪還すべきである」と提案した。蔣介石は、提案を採用しなかったが、9月18日、「戦事一触即発之勢」と判断し、軍政部長何応欽に「準備応変」を指令した。10月1日、中将は、軍事委員会弁公庁副主席劉光を通じて、漢口、上海の租界地の日本軍を奇襲して開戦の主導権を握るよう提案したが、何応欽は時期尚早である旨を述べるとともに、「ファルケンハウゼンの熱心さはわかるが、外人顧問は外人顧問であり、無責任な存在にとどまる、国運を委ねるべき相手ではない」とも指摘した。蔣介石は「加仮我一年之準備時期、即国防更有基礎矣」と判断し、10月8日、外交部長張群との交渉を前にした川越茂と会談し、10月22日、第六次剿共作戦を準備すべく西北剿匪副総司令張学良と会談するため、西安に飛んだ。中将は、1937年4月3日、軍事委員会弁公庁副主席劉光に書簡を送り、すみやかに防衛態勢をととのえるべきだ、とくに朧海、京漢、津浦線の確保と青島、済南の要塞化、さらに塘沽、天津、北京に「奇襲進駐」をおこなう必要がある、と強調した。 盧溝橋事件後、張は日本による陸軍の上海派遣、揚子江にある日本軍艦の上海への結集、日本による無理な要求の提出などの事態が発生した場合、主導権を獲得するため先制攻撃を発動するよう国民政府に提案した。蔣は、提案の主旨を承認し、先制攻撃の態勢を作っておき発動の時機については命令を待つよう返電した。八月一三日以前に、中国側は既に先制攻撃を仕掛ける決断をしていた。 中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、チェコ製の軽機関銃などを装備し、第36師、第87師、第88師、教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けて精鋭部隊と評価されていた。1937年8月6日、蔣介石は国際宣伝組織を結成するため㏄団の陳立夫を上海に派遣した。蔣は同日の日記(中国語版)に「毒瓦斯をもっていく」と書いており、実際に中国軍による毒ガスの散布は日本軍によって確認されている[34]。 「第二次日独戦争」 8月12日、国防大臣ブロンベルクは、訪独して武器購入に奔走していた国民政府財務部長孔祥熙に対し「中国への武器輸出を継続するためあらゆる努力をする」と約束した。8月16日、ヒトラーは「中国との条約に基づいて輸出される物資 [武器] については、中国から外国為替ないしは原料供給で支払われる限り、続行せよ」と命じ、ドイツは日中戦争勃発後も対中国武器輸出を精力的に推進した。 ファルケンハウゼンは、上海戦の指導にも関与しながら、蔣介石にも適宜戦況の報告やアドバイスを行い、ファルケンハウゼンが数日間、激戦の続く上海に滞在し自ら作戦を指導したことは、駐日大使ディルクセン(ドイツ語版)も知っていた。 同盟通信の松本重治上海支社長は、「上海の戦いは日独戦争である」と月刊誌『改造』に書いたが、そのところが削られて掲載された。 在留日本人引き揚げ 7月28日、日本政府は、揚子江沿岸に在留していた日本人約29,230名の引き揚げを訓令し、8月9日までに上海への引き揚げを完了した。さらに、上海への危険が増加したため、奥地からの引揚者及び上海居留民約3万名の内婦女子約2万名と13日から19日頃までに帰国し、約1万名が残留した。
2024年08月07日
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朝鮮の朱子学受容の特徴として、李朝500年間にわたって、仏教はもちろん、儒教の一派である陽明学ですら異端として厳しく弾圧し、朱子学一尊を貫いたこと、また、朱熹の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を徹底的に制度化し、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変するなど、朱子学の研究が中国はじめその他の国に例を見ないほどに精密を極めたことが挙げられる。こうした朱子学の純化が他の思想への耐性のなさを招き、それが朝鮮の近代化を阻む一要因となったとする見方もある。琉球への影響17世紀後半から18世紀にかけて活躍した詩人・儒学者の程順則は、琉球王朝時代の沖縄で最初に創設された学校である明倫堂創設建議を行うなど、琉球の学問に大きく貢献した。清との通訳としても活動し、『六諭衍義』を持ち帰って琉球に頒布した。この書は琉球を経て日本にも影響を与えている。日本への伝来と影響一般には正治元年(1199年)に入宋した真言宗の僧俊芿が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされるが、異説も多く明確ではない。鎌倉時代後期までには、五山を中心として学僧等の基礎教養として広まり、正安元年(1299年)に来日した元の僧一山一寧がもたらした注釈によって学理を完成した。後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけての彼らの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。その後は長く停滞したが、江戸時代に入り林羅山によって「上下定分の理」やその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた[5]。全国で教えられた朱子学は、武士や町人に広く浸透したが、儒学者や思想家の中には朱子学批判を行うものも現れた。山鹿素行、伊藤仁斎、伊藤東涯、荻生徂徠、貝原益軒、中江藤樹、本居宣長、平田篤胤などがそれである。大坂の町人学問所懐徳堂では、中井竹山や中井履軒などの朱子学者の他、富永仲基や山片蟠桃の朱子学批判者(合理主義者)を生み出した。 松平定信は、1790年(寛政2年)に寛政異学の禁を発している。だが皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。ただし、幕末・維新期の尊皇派の主要人物である西郷隆盛や吉田松陰は、ともに朱子学ではなく陽明学に近い人物であり、佐幕派の中核であった会津藩、桑名藩はそれぞれ保科正之、松平定信の流れであり朱子学を尊重していた。朱子学の思想は、近代日本にも影響を与えたとされる。1890年(明治23年)、『教育勅語』が下賜されると六諭は近代日本の道徳思想として本格的に採用された。 8「象山書院塾を開く」ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸の神田於玉ヶ池で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。象山書院(ぞうやましょいん)は、1839年(天保10年)に佐久間象山が神田お玉ヶ池に開いた私塾。玉池書院ともいう。「俊英達識、傲岸にして人に下らず」と言われていた佐久間象山ではあったが、1844年(天保15年・弘化元年)に、著名な教育者・朱子学者であった伊予小松藩の近藤篤山に請い、「懐貞」の揮毫と「尊所聞行所知(聞所を尊び知るところを行ふ)」の言葉を贈られている。また、度重なる依頼の末「庁事」、「象山書院」[2]の扁額も贈られ塾に掲げている。1851年(嘉永4年)には江戸木挽町にあらたに「五月塾」を開いた。沿革[編集]佐久間象山は漢学者・朱子学者としては早くに一家をなし、湯島聖堂の佐藤一斎の門下として名の知れた学者であった。天保10年、29歳で神田お玉ヶ池に「象山書院」を開いて弟子をとったのが始まりである。隣に梁川星巌がいた。翌11年には『江戸名家一覧表』にその名が載せられて本人も自信満々になったといわれる。のちに象山の主君である松代藩主・真田幸貫が老中となり、海防掛となったため、象山は海防のことを研究し始める。象山は塾を明けて伊豆韮山の西洋砲術家・江川英龍の下に入門したが退塾して下曽根金三郎について砲術を習った。蘭学については、象山は34歳から本格的に研究し始めた晩学で、塾で黒川良安と交換教授を始め、窮理・兵法を修めた。弘化4、5年頃には蘭人ベウセルの砲術書を読んで、小砲を鋳造したり、ショメールの百科全書によって硝子を製造したりしている。弘化3年には象山が帰藩したため塾は閉鎖されることとなった。帰藩している間、象山は多彩な活動を続けていた。1850年(嘉永3年)には江戸居住を許され木挽町(現在の東京都中央区銀座)に「五月塾」を開設して砲術、西洋学を講じる。門下は数百人に及んだといわれる。元治元年3月17日、象山は幕府の命により、上洛して開国論をとなえるという危険な仕事に就いた。攘夷論渦巻く京都で攘夷派の標的となり、三条木屋町通りで刺客に襲われることとなった。
2024年08月06日
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毛利勢の東進信長と断交した後の毛利氏は、山陽道から東進して上洛するルート、山陰道から京都の背後にせまっていくルート、そして、海上から和泉あるいは摂津に上陸するルートの三方面からの進攻作戦を考えていた。山陰道・山陽道のルートはそれぞれ輝元の2人の叔父吉川元春・小早川隆景が担当になった。天正3年の時点で毛利と同盟を結んでいた直家が浦上宗景の所領をほぼ掌握し備前より東への東征が可能になると、天正4年に毛利氏は播磨に侵入して上月城(兵庫県佐用郡佐用町)に兵を進めた。こうして、毛利勢の播磨侵攻の機が熟した。同月、信長の紀州攻めに播磨三木城の別所長治が従軍したことで播磨方面での軍事的均衡が崩れ、これが毛利勢東進の直接のきっかけとなった。3月、宇喜多直家はじめ備前・美作の兵が国境を越えて播磨に進入し、龍野城主赤松広英を毛利方に寝返らせている。4月から5月にかけては、毛利氏は上月城を前線にして姫路(兵庫県姫路市)へ兵を進めた。4月、海上からも室津(兵庫県たつの市)に上陸し、英賀(兵庫県姫路市)から姫路をめざした。英賀は播磨の一向宗門徒の中心地で、毛利勢はここにも軍事拠点を設けていた。この間、小早川隆景は備中笠岡(岡山県笠岡市)に進出して本陣をおき、当主輝元は安芸三原(広島県三原市)に本営を構えた[25]。毛利勢は、姫路で御着城主小寺政職によって撃退され、いったん上月に退却した(英賀合戦)。この時、政織の家臣小寺官兵衛(黒田孝高)のめざましい活躍は自家の家運をひらく端緒となった。なお、黒田孝高の居城姫路山城(兵庫県姫路市)は後に秀吉に献上され、孝高自身も中国攻略戦のなかで秀吉に重用されることとなる。備後の鞆にいた義昭は毛利勢を励まし、謙信に越前進攻を命じ薩摩の島津氏に援助をもとめた。義昭は7月7日付で村上左衛門大夫に、幕府奉行人奉書の形式を用いて摂津尼崎(兵庫県尼崎市)の土地を給与している。奉行人奉書は、管領奉書の替わりとなった将軍の公的な命令書(奉書)であり、この命令が最後の奉行人奉書となった。天正5年7月、毛利勢は四国地方の讃岐・阿波へ侵入し、信長に服属した三好氏の勢力を攻撃した。戦後毛利氏と三好氏の間で交渉がなされたが、鞆にいた義昭の裁定により、三好勢が人質を差し出すことで講和が成立した。中国攻め - 戦局の推移羽柴秀吉の着陣 /天正5年姫路山の城主であった黒田孝高天正5年(1577年)、前年に能登に進攻した上杉謙信は、この年の閏7月に能登七尾城(石川県七尾市)を包囲した。信長は柴田勝家を大将にして、越前に所領をもつ前田利家・佐々成政などに加えて滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉らの精鋭を北陸地方へ派遣した。この時、大和の松永久秀が謙信や輝元、本願寺などの反信長勢力と呼応して、石山戦争から離脱して大和信貴山城(奈良県生駒郡平群町)にたて籠もり、再び信長への対決姿勢を打ち出した。『信長公記』によれば、信長は松井友閑を派遣して理由を問い質そうとしたが、久秀は使者に会おうともしなかったという。信長は嫡子織田信忠を総大将に筒井順慶の兵を主力とした大軍を送り込み、10月に信貴山城を包囲させて久秀を自害させた。一方、秀吉は勝家と意見が合わず、手兵をまとめて戦線を離脱し、居城の長浜城(滋賀県長浜市)に籠もったため、信長の逆鱗にふれたといわれる。中国戦線においては毛利氏の播磨侵攻が本格化しており、これに対し信長は北陸戦線から離脱して謹慎していた秀吉を指揮官に任じて中国攻めを開始した。秀吉は、天正4年7月の時点で信長より中国攻略を命じられていたが、そのときは作戦に専念できる状況になく、翌天正5年10月に、ようやく播磨に入ったのである。秀吉は、すでに信長方に服属していた小寺家の家老黒田孝高の姫路山城を本拠にして播磨・但馬を転戦した。但馬では岩洲城(兵庫県朝来市)、ついで竹田城(朝来市)を攻略し、竹田城に弟の羽柴秀長を城代として入れた後播磨に引きあげた。もっとも、『信長公記』によれば、信長が秀吉に命じたのは播磨攻略で、但馬攻略については秀吉の独断であったとされている。播磨では、秀吉は国中を巡って信長の旗下に入るよう促し、置塩城の城主で旧守護家当主の赤松則房ほか国人衆の多くを調略によって降伏させて人質をとり、1か月ほどで西播磨全域をほぼ支配下においた。秀吉は播磨佐用郡を中国地方への前進基地として重要視し、竹中重治・孝高らを派遣して毛利方の福原助就を城主とする福原城(兵庫県佐用町)を攻略して陥落させた。西播磨の豪族のなかでも、備前・美作国境に近い上月城の赤松政範は、容易に秀吉になびかず、毛利氏と結んでいた備前の宇喜多直家との連携を強化した。そこで11月27日、秀吉は上月城に兵を進めて城の周囲に3重の垣を設け、攻守に備えた。これにより、赤松政範救援のために派遣された宇喜多勢を撃退し、12月3日に上月城を陥落させた(第一次上月城の戦い)。「西播磨殿」と呼ばれた政範はこの戦いで自害し、家老の高島正澄も殉死した。秀吉は城兵の降伏を許さず、ことごとく首をはね、城内の子供も処刑した。
2024年08月05日
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毛利軍はこの反乱を鎮圧した後、尼子氏再興に向けて挙兵していた尼子勝久・山中幸盛らを討つべく出雲国へ向かった。最終的に、大内・尼子両氏の残党を掃討することに成功した毛利氏は、周防国・長門国・出雲国などの支配を確立する。一方で、この戦いのために主力軍を撤退させた豊前国では、門司城などの一部を残して拠点を失った。永禄13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反乱(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲国の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部(現在の島根県安来市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える。2月14日(3月20日)、尼子再興軍は、布部で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊を防いだ後に居城の末次城へ帰還している。戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し、尼子再興軍の包囲から城を解放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。6月、布部の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた。7月 – 8月には、両城下で毛利軍による麦薙ぎが行われるなど危険な状態となるが、9月5日(10月4日)、安芸国で元就が重病に陥り、吉川元春を残して毛利輝元・小早川隆景らの軍が国許へ帰還する[75]と状況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠点である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆の国境にある城を次々と奪還するとともに、一時、清水山要害を攻略して再び月山富田城へ迫った。また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連携を図るため、宍道湖北岸に満願寺城を奪い増築する。 吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込むなど、その攻勢を強めている。さらに、隠岐国の国人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており、日本海側の制海権も取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。元亀元年10月6日(1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直属の水軍部隊・児玉就英を派遣する。この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が、12月には満願寺城が落城する]など、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していった。そして、元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、最後の拠点であった新山城が落城。籠城していた尼子勝久は、落城前に脱出して隠岐へ逃れている。同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられた。捕らえられた幸盛は尾高城へ幽閉されることとなったが、宍戸隆家と口羽通良の助命嘆願により周防国佐波郡徳地と伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領を与える約束がなされた。しかし幸盛はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している。こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。 8「第二次尼子再興運動」尾高城から脱出した幸盛は、海を渡って隠岐国へ逃れると、元亀3年3月 – 4月(1572年2月 – 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬国に潜伏する。 そして、瀬戸内海の海賊・村上武吉や美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ、再び尼子家再興の機会をうかがっていた。なお、このとき幸盛は亀井姓を名乗っていたようである。元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬国から因幡国へ攻め込み、桐山城を攻略して拠点とすると、様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡国を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計画していたと思われる。このとき、因幡国の実質的な領主は、毛利方の国人・武田高信であった。高信は、去る永禄6年(1563年)に当時の因幡国主・山名豊数と争って勝利を収めると、毛利氏と連携をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。幸盛ら尼子再興軍は、豊数の弟で山名氏再起を目指す山名豊国を味方につけると、因幡国の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、天正元年8月1日(1573年8月28日)、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れ)、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。
2024年08月02日
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岩崎家の起源 岩崎家は、俗に三井、住友とともに三大財閥家系であるが、三井、住友が300年以上の歴史を持つ御用商人なのに対して、三菱は、岩崎弥太郎が幕末・明治の動乱期に政商として、一代で巨万の利益を得、その後に繋がる礎を築いたという違いがある。 弥太郎は天保5年、土佐国(現・高知県安芸市)の地下浪人(半農半士)・岩崎弥次郎とその妻・美和の長男として生まれた。地下浪人とは、郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曾祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。弥太郎が生まれた時代には、相次ぐ飢饉と一揆の影響を受け没落していた。岩崎家は甲斐武田家の当主武田信光の五男岩崎信隆(武田七郎)が甲斐国山梨東郡(東八代郡)岩崎(現・山梨県甲州市勝沼町)を本拠に岩崎氏を称したことからはじまるというが、実際は、四国の土豪である山祇族の流れを汲む久米ないし三好と乾の同流だったとする説がある。岩崎家が土佐に移った時期は不詳だが、当地では安芸氏、長宗我部氏、次いで山内氏に仕えた。弥太郎の上には姉・はつ、下には妹・さき、弟・弥之助がいる。本名は敏(のちに寛)というが、一生を通称の弥太郎で通した。母美和の実家が医師の家だったことから、幼少の頃から学問的環境に恵まれ、土佐藩随一の学者・吉田東洋の知遇を得、その門下生である後藤象二郎らとの交際を経て、坂本龍馬率いる海援隊での経理を担当し、出世の糸口となった。 三菱グループのシンボル「スリーダイヤ」は、岩崎家の家紋である「三階菱」をバラした3つの菱型を土佐藩主山内氏の家紋「丸に土佐柏」の柏葉と置き換えたものである。 三菱財閥における岩崎家 三菱財閥の本社たる三菱社(三菱合資会社、三菱本社)の社長の地位は、弥太郎→弥之助→久弥→小弥太と、兄弟家の長子系男子が交互に就いていた(久弥の長男・彦弥太も、一旦は小弥太に代わる三菱本社社長就任が内定していた)。このように、弥太郎、弥之助の兄弟家系で世襲し、同族で発展したことから、「独裁政治」と言われる。ちなみに三井は「番頭政治」、住友は「法治主義」と言われている。 岩崎家の同族主義が強かった三菱財閥に対し、有能な人材を多く配したことから三井財閥は、「人の三井」、住友家長・住友吉左衛門を財閥の象徴として、総理事を筆頭に傘下企業社長が実務を執り行った住友財閥は、「結束の住友」と言われている。これに対して、岩崎両家当主が常に実権社長としてリーダーシップを維持し、本社役員や傘下企業社長がその下に結集し、一丸となって事に当たるという特徴から、三菱財閥は、「組織の三菱」と言われている。 岩崎家の親族・姻戚関係 岩崎弥太郎家 弥太郎は喜勢夫人(高芝玄馬の次女)との間に長女・春路、長男・久弥、次女・磯路の1男2女をもうけ、さらに郷純造(実業家・郷誠之助の父)の四男・昌作を養子とした。昌作は岩崎家の養子となると同時に豊弥と改名し、後に分家した。豊弥の姉・幸子は2代目川崎八右衛門に嫁いでおり、郷家を通じて三菱財閥と東京川崎財閥は姻戚関係となった。豊弥の妻・武子は旧大和国郡山藩主・柳沢保申の三女で、豊弥・武子夫妻の長女は長く昭和天皇の侍従長を務め、エッセイストとしても知られる入江相政(藤原北家の支流御子左家の流れを汲む入江為守子爵の三男)に嫁いだ。入江の姉は高木正得子爵に嫁いだが、その次女・百合子が三笠宮崇仁親王と結婚して三笠宮妃となったので、岩崎家は入江家・高木家を通じて皇室とつながった。郷純造の異母妹の息子に帯広市議会議長を務めた中島武市がいるが、武市の孫娘がシンガーソングライターの中島みゆきなので[2]、みゆきは岩崎豊弥の従弟の孫ということになる。 春路はのちに内閣総理大臣となる加藤高明に嫁ぎ2男1女をもうけた。長女は岡部長景に嫁ぎ、長男は早世、次男・加藤厚太郎は東明火災海上保険(現・日新火災海上保険)の取締役を務めた。加藤厚太郎の義兄弟には九州朝日放送(テレビ朝日系列局)の会長を務めた團伊能(團遥香の曽祖父)、セイコーホールディングス創業者・服部金太郎の長男・服部玄三、旧公爵の佐佐木行忠がおり、團伊能の係累から鳩山一郎・鳩山威一郎・鳩山由紀夫・菊池大麓・美濃部亮吉、佐佐木行忠の係累から安西正夫・住友吉左衛門・堀田庄三・上原明・三木武夫・串田和美などがそれぞれ登場する。 磯路はのちに京都府知事となる木内重四郎に嫁ぎ3男2女をもうけた。そのうち次男は経済評論家の木内信胤である。また次女の夫は渋沢栄一の孫で、第一銀行副頭取・日本銀行総裁・大蔵大臣を歴任し、民俗学者でもあった渋沢敬三である。なお木内重四郎・磯路夫妻の長男・良胤とその長男、すなわち重四郎の孫で岩崎弥太郎の曾孫にあたる昭胤はともに外交官で、元衆議院議員・木内孝胤は昭胤の次男で、岩崎弥太郎の玄孫にあたる。この他に弥太郎は6人の妾との間に6人の子供をもうけている。庶子のうち弥太郎の四女にあたる雅子は外務大臣・内閣総理大臣・衆議院議長を歴任した幣原喜重郎(幣原外交方針は欧米も評価。米 表紙を飾る初の日本政治家)と結婚した。
2024年07月20日
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狭い意味では、天皇が軍事の専門家である参謀総長・軍令部総長に委託した戦略の決定や、軍事作戦の立案や指揮命令をする軍令権のことをさす。 明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなければ国務大臣が輔弼することとなっていたが、それは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補翼することとなっていた。 この軍令と国務大臣が輔弼するところの軍政の範囲についての争いが原因で統帥権干犯問題が発生する。 なお、統帥権独立の考えが生まれた源流としては、当時の指導者(元勲・藩閥)が、政治家が統帥権をも握ることにより幕府政治が再興される可能性や、政党政治で軍が党利党略に利用される可能性をおそれたこと]、元勲・藩閥が政治・軍事両面を掌握して軍令と軍政の統合的運用を可能にしていたことから、後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかったこと、南北朝時代に楠木正成が軍事に無知な公家によって作戦を退けられて湊川の戦いで戦死し、南朝の衰退につながった逸話が広く知られていたことなどがあげられる。 統帥権干犯問題 兵力量について とあるように、統帥権は天皇大権とされていた。 統帥権のうち、軍事作戦は陸軍では参謀総長が、海軍では海軍軍令部長(後に軍令部総長と改称)が輔弼し、彼らが帷幄上奏し天皇の裁可を経た後、その奉勅命令を伝宣した(但し明治時代は平時では陸海軍大臣伝宣)。 他に軍政上の動員令・編成令・復員令という奉勅命令があり、通常陸海軍大臣が帷幄上奏し、裁可後彼らが伝宣した。 帷幄上奏と裁可を経たものに、他に、平時編制や戦時編制、参謀本部条例や編成要領、勤務令など帷幄上奏勅令があり、これは通常陸海軍大臣が、陸軍軍事教育関係ではおもに教育総監が、帷幄上奏し裁可後、陸海軍大臣が全軍へ詔勅で公布、ないしは詔勅を用いず軍内へ内達し、執行した。 但し帷幄上奏権そのものは参謀総長と軍令部総長、陸海軍大臣、教育総監が所持していたので、だれが帷幄上奏するかは問題ではなく、誰が伝宣(執行)するかが重要であった。 統帥権の独立によって、奉勅命令や帷幄上奏勅令へ政府や帝国議会は介入できなかった。他方、 とあるように、兵力量(師団数や艦隊など軍の規模)の決定は天皇の編制大権であった。これは軍政をになう陸軍大臣か海軍大臣が輔弼した。 他に、 とあり、軍の兵力量の決定は、陸海軍大臣も内閣閣僚として属す政府が帝国議会へ法案として提出し、その協賛(議決)を得るべき事項であった。 表面化 だが海軍軍令部長加藤寛治大将など、ロンドン海軍軍縮条約の強硬反対派(艦隊派)は、統帥権を拡大解釈し、兵力量の決定も統帥権に関係するとして、浜口雄幸内閣が海軍軍令部の意に反して軍縮条約を締結したのは、統帥権の独立を犯したものだとして攻撃した。 1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会衆議院本会議で、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は、「ロンドン海軍軍縮条約は、軍令部が要求していた補助艦の対米比7割には満たない」「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。元内閣法制局長官で法学者だった枢密院議長倉富勇三郎も統帥権干犯に同調する動きを見せた。6月、加藤寛治大将は昭和天皇に帷幄上奏し辞職した。この騒動は、民間の右翼団体(当時は「国粋団体」と呼ばれていた[4])をも巻き込んだ。 条約の批准権は昭和天皇にあった。浜口雄幸首相はそのような反対論を押し切り帝国議会で可決を得、その後昭和天皇に裁可を求め上奏した。昭和天皇は枢密院へ諮詢、倉富の意に反し10月1日同院本会議で可決、翌日昭和天皇は裁可した。こうしてロンドン海軍軍縮条約は批准を実現した。枢密院議長の倉富の意に反しても批准されたのは、法学者の美濃部達吉による浜口首相への助言が大きい。美濃部は、条約の事実上の批准の権限は枢密院にあるが、その枢密院の定員を決める権限は首相にある、と助言し、これが枢密院に伝わると、枢密院も宥和的になり、このやり方が汚いという考えが根底にあって、浜口雄幸狙撃事件につながった。 同年11月14日、浜口首相は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口は8月26日に死亡)。幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まった。 結果 この事件以降、日本の政党政治は弱体化する。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対しては“自分達に命令出来るのは陛下だけだ”とこの権利を行使したため、政府はそれを止める手段を失うことになる。 政友会がこの問題を持ち出したのはその年に行われた第17回衆議院議員総選挙で大敗したことに加えて、田中義一前総裁(元陸軍大臣・総理大臣)の総裁時代以来、在郷軍人会が政友会の有力支持団体化したことに伴う「政友会の親軍化」現象の一環とも言われている。 その後、総理となった犬養毅が軍縮をしようとしたところ、五・一五事件で決起将校に殺害され政党政治が終結を迎え、戦時中には軍の圧力により逼塞状態にあった鳩山一郎が、戦後に総理就任を目前でGHQからこの時の事を追及されて、軍部の台頭に協力した軍国主義者として公職追放となるなど皮肉な歴史を辿る事となった。 その他の統帥権を巡る事例
2024年07月17日
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5「幕政に参画」井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、幕府の政策方針も転換し、春嶽は文久2年(1862年)4月に幕政への参加を許される。 桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。「桜田事変」とも。 安政5年(1858年)4月、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題と修好通商条約の締結という二つの課題に直面していた。 まず、病弱で世子が見込めない第13代将軍・徳川家定の後継をめぐって、南紀派(会津藩主・松平容保や高松藩主・松平頼胤ら、溜間詰の大名を中心とした一派)と一橋派(前水戸藩主・徳川斉昭や福井藩主・松平慶永ら、大広間や大廊下の大名を中心とした一派)が争った将軍継嗣問題があった。 数年前の嘉永6年(1853年)に起きていた黒船来航など対外危機を慮った一橋派は、英明で知られた当時21歳の一橋慶喜を推挙していたが、それに対し南紀派は、家定の従弟で当時12歳の紀州藩主・徳川慶福を推し、結局、慶福が養子と決められた。これは血縁を重視する慣例と現将軍・家定の内意[注釈 5]に沿い、直弼を大老に推した南紀派を満足させたが、「時節柄、次期将軍は年長の人が望ましい」とした朝廷の意に反するものであった。 詳細は「将軍継嗣問題」を参照 もう一つの懸案である修好通商条約の締結については、孝明天皇の勅許が得られず、攘夷派の反対論が勢いを増していた。直弼は基本的には無勅許条約調印に反対であったが、止むを得ない場合調印してよいかとの下田奉行・井上清直の問いに、その際は仕方がないと許可している。 そこで、早期締結要求も強まる中、清直らは同年6月19日、勅許を得ないままに日米修好通商条約をはじめとする安政の五ヶ国条約の調印に踏み切った。これは、そもそも「鎖国」は朝廷とは無関係に始められたものであり、慣例上、条約締結に勅許は必ずしも必要ではなかったからである。 詳細は「日米修好通商条約」を参照 6月22日、諸大名に条約の締結が公表され、翌23日が御三卿による将軍への公式な面会日だったため一橋慶喜が登城し、条約締結を違勅として直弼を詰問した。さらに、翌24日に徳川斉昭をはじめ、斉昭の長男の水戸藩主・徳川慶篤、一橋派であった尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平慶永が、規則外の不時登城を行って無勅許の条約締結を違勅と非難した。直弼は慶永一人を身分が違うから、と別室に移して気勢を削ぎ、他の諸侯の詰問へは平身低頭を繰り返した。翌25日、慶福が将軍・家定の養子と発表された。7月5日、家定の命として、登城した一橋派諸侯へ処分が下される。その直後、6日に家定が没し、慶福は第14代将軍となり家茂を名乗った。 ここに一橋派は江戸城内での活動を制限されたが、一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は、かねて藩士・西郷隆盛を京都に遣わして内勅降下運動を行い、藩兵5,000人[8]を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、7月16日、斉彬は死去した。 勅許を得ない条約調印と斉昭・春嶽の排斥は、攘夷論の強かった公家たちに喧伝され、孝明天皇も幕府の行いに対し憤慨した。天皇は、同年8月、幕政の刷新と大名の結束を説く『戊午の密勅』を水戸藩へ下した。また、幕府寄りとされた関白・九条尚忠の内覧を解いて朝政から遠ざけた。 水戸藩は密勅の写しを雄藩に廻送する様に添書きで指示を受けていたが、藩内抗争の激化により、廻送することがかなわず、攘夷派公家を通して縁戚の諸大名へは廻されたものの、幕府権威がいまだに強かった当時、各藩は関わりを恐れ相手にしなかった。しかし、朝廷が大名へ直接指令するという事態は、江戸幕府始まって以来前代未聞であったため、幕閣は狼狽した。 直弼は、密勅が天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、反論者への徹底弾圧を決心した。まず、老中に再任させた間部詮勝を京都に送り、新たに京都所司代に任命した酒井忠義にこれを補佐させた。 間部は、着京後、即日密勅首謀者として水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門、幸吉父子の京都西町奉行所への出頭を命じて捕縛しつつ、対朝廷では、 態度不鮮明のまま「病臥」と称して参内を延期し、長野主膳や島田左近と連日協議した。これは、先年、入洛早々に参内して条約勅許の獲得に失敗した老中・堀田正睦の轍を踏まぬため、十分な準備を図って慎重に行動したものである。 詮勝は、直弼の指示を受けて、一橋派らと関係を深めていた公卿の家人たちを捕縛断罪、また全国でも民間の志士を手始めに、幕政を批判する政治運動に関わった諸藩の藩士を捕らえていった。いわゆる安政の大獄である。一方で、孝明天皇は、いずれは鎖国に復帰するという条件のもとで、条約調印が切羽詰まった措置であったという直弼の弁明に一通りの理解を内々に示した。 朝廷内も「公武一和」のため幕府の行いを認めたことで、幕府に批判的な一派は勢いを挫かれた。しかしこの時、朝廷との折衝に当たった詮勝は再攘夷の準備段階と説明したため、幕閣はこの内容を公表し辛くなった[9]。他方、直弼による粛清対象は日を追うごとに増加し、皇族や公家、大臣、僧侶、藩主、幕臣、浪人、学者、名主、町人等々に及んでいき、最終的に安政の大獄へ関係して罪を得た者、または社会的に失脚、迫害された者は100名以上にのぼった。 水戸では、密勅への対応をめぐって藩論は紛糾した。返納阻止派の藩士らは、密勅の下された安政5年の9月、街道の本陣のある小金宿 [注釈 7]に結集し、武装した農民部隊まで加わった(第一次小金屯集)。
2024年07月15日
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9、「月山富田城の戦い」(がっさんとだじょうのたたかい)は、1542年から(1543~1565)から1566年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現:島根県安来市)を巡って発生した合戦である。この合戦は、大内義隆が毛利氏などの諸勢力を引き連れて攻め込んだ第一次月山富田城の戦いと、大内氏滅亡後に毛利元就が行った第二次月山富田城の戦いに分けることができる。なお、第二次の合戦により尼子氏は滅亡したが、その後に尼子氏の再興を目指す勢力が起こした戦いについても、併せて本項で記述する。「第一次月山富田城の戦い」天文10年(1541)に尼子晴久率いる尼子軍は、毛利氏の本拠である吉田郡山城を攻めたものの、大内軍の援軍を得た毛利軍に撃退された(吉田郡山城の戦い)。この尼子氏による安芸遠征の失敗により、安芸と備後の国人衆は、尼子氏側だった国人領主たちを含めて、大内氏側に付く者が続出した。さらに、安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が大内氏に出されたことを受け、陶隆房を初めとする武断派は出雲遠征を主張。相良武任や冷泉隆豊ら文治派が反対するが、最終的に大内義隆は、出雲出兵に踏み切ることになった。なお、大内氏出陣の少し前となる、天文10年11月には、尼子経久が死去している。「合戦の経過」天文11年1月11日(1542)1月26日に出雲に向かって大内軍本隊が出陣。大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。また、義隆の養嗣子大内晴持も併せて出陣する。1月19日に厳島神社で戦勝祈願をしたのち、出雲に向かう。毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。4月に出雲に侵入したものの、赤穴城の攻略に6月7日から7月27日までの日数を要し、10月になって三刀屋峰に本陣を構えた。その後、年を越して月山富田城を望む京羅木山に本陣を移す。天文12年(1543)3月になって攻防戦が開始されたが、城攻めは難航する。また、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に苦しむ。そして、4月末には、尼子氏麾下から大内氏に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。『陰徳太平記』によると、城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。これにより大内方の劣勢は明白となった。5月7日、大内軍は撤退にとりかかり、出雲意宇郡出雲浦[ へ退いた。だが、尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。義隆は、宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月26日に山口に帰還する。しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。また、毛利軍には殿が命じられていたが、尼子軍の激しい追撃に加えて、土一揆の待ち伏せも受けたため、壊滅的な打撃を受けた。安芸への撤退を続ける毛利軍であったが、石見の山吹城から繰り出された軍勢の追撃によって、元就と嫡子隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。この時、毛利家臣渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、僅か7騎で追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。この犠牲により元就は吉田郡山城への撤退に成功した。この遠征は、1年4ヶ月の長期間にも及んだ挙句に大内側の敗戦となり、寵愛していた晴持を失った義隆はこれ以後政治に対する意欲を失ってしまう。この戦いは大内氏衰退の一因となった一方、尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ、最盛期を創出する。また、大内氏の滅亡後には石見国を巡って毛利氏と尼子氏が熾烈な争いを続けることとなった。「第二次月山富田城の戦い」周防・長門を攻略して大内氏を滅ぼして勢力を拡大した毛利氏は、石見銀山を巡って尼子氏と対立していたが、弘治2年(1556年)の忍原崩れと永禄2年(1556年)の降露坂の戦いでは敗れていた。しかし、永禄3年(1561年)12月に尼子晴久が亡くなると、嫡男尼子義久が家督を継いだ後に、雲芸和議を経て永禄5年(1562年)には石見銀山を手中に収めることに成功する。一方の尼子側は、家臣団における不和や雲芸和議による不満の噴出もあって、出雲西部・南部国人衆の多くは毛利側へと離反していた。「白鹿城の戦い」永禄5年(1562年)7月3日、元就は3人の息子と軍勢を率いて吉田郡山城を出陣。途中、九州の大友宗麟が豊前の毛利氏領を脅かしたため、毛利隆元は遠征軍から離れてその対応に当たった。毛利軍は石見路を経由して出雲国へ侵攻、12月には宍道湖北岸に本陣となる洗合(あらわい)(荒隈)城を築いた。月山富田城の防衛網である「尼子十旗」と呼ばれる支城群のうち、赤穴城や三沢城などいくつかの城は戦わずして毛利に降っているが、白鹿城などは毛利軍に抵抗。白鹿城には城主の松田誠保とその父松田満久、さらに援軍である尼子氏家臣牛尾久清が軍勢を率いて籠もっていた。白鹿城は月山富田城の日本海側の玄関口ともいうべき役割の城で、月山富田城を孤立させるためには、この城を落とすことにより船で日本海から兵糧を運び込ませるのを防ぐ必要があった
2024年07月14日
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4「藩主の統率力の欠如」松平 光長(まつだいら みつなが)は、江戸時代前期の大名。越後国高田藩主。官位は従三位・左近衛権少将、越後守。結城秀康の孫。徳川家康の曾孫、徳川秀忠の外孫に当たる。高田立藩まで[編集]元和元年(1615年)、越前国北ノ荘藩主・松平忠直と、2代将軍・徳川秀忠の三女・勝姫の間に生まれる。元和7年(1621年)、江戸へ赴き、祖父である将軍・秀忠に初御目見した。以後の数年を江戸屋敷にて養育される。父・忠直は秀忠と仲が悪く、粗暴な一面もあったなどとされるが、元和9年(1623年)2月に幕府により豊後国に配流とされた。当主不在となった北ノ荘藩から重臣の笹治大膳が江戸に派遣され、当時江戸に住んでいた仙千代(光長)を3月に越前に迎え入れた。当初、幕府からは島田重次、高木正次らが派遣され、光長の相続の許可に対する内示があったが、その後なんらかの方針転換があったのか、7月、幕府から秋元泰朝、近藤秀用、曽根吉次、阿倍正之等が派遣され、越前の冬の気候の厳しさを理由に、仙千代ら母子は江戸に帰されることになった。翌年4月、江戸城に越前松平家支流諸家を集めた場にて、幕府の指示により、忠直の次弟で当時越後高田藩主であった松平忠昌を忠直の後の北ノ庄藩主とすることが申し渡された。忠昌は兄や仙千代の行く末を思いやって当初これを拒んだが、幕府から仙千代には別に配慮がなされるとの約束を取り付け、引き受けたという話が伝わる。 幕命により、秀康以来の筆頭家老である本多富正(幕府からの御附家老)および富正の選抜による百余名の家臣は福井藩の付属とされ、残りの家臣らと仙千代には忠昌の移動により空いた越後高田に25万9,000石が与えられ、仙千代を藩主とする越後高田藩が立藩した。 福井藩の出来事に関する諸文献を収録した『国事叢記』に拠れば、「忠昌は北ノ荘入部に際し、松平忠直旧臣に対して越後への同行、北ノ荘への出仕、他家への退転は自由にさせ、約500名の家臣の内の105名が忠昌に出仕し、大部分の家臣[5]は光長に随って越後高田藩臣となった。また、老臣のうち、本多飛騨守(本多成重)は大名になり、小栗美作守・岡島壱岐守・本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断った本多伊豆守(本多富正)のみ忠昌に出仕した。」となり、幕府と富正に選ばれなかったような家臣が光長の高田立藩時にその家臣となったと推測される。高田藩政寛文5年12月(1666年2月)、領内を地震が襲い(地震)、田畑や町が荒廃する。幕府から金五万両を借り、復興に努めた。また、旱魃に備えて中江用水を整備。元々あったおよべ川用水を拡張する形で延宝2年(1674年)から始め、延宝6年(1678年)に完成した。これにより越後高田藩は表高26万石だが実高40万石弱とも言われる米生産量となったとされる。また、大老の酒井忠清と親しかったらしく、忠清は徳川家綱死去後の後継将軍に皇族(有栖川宮幸仁親王)を迎えて将軍を擁立しようとしたとされるが、この際に光長も忠清に賛同したとされる。越後騒動延宝2年(1674年)1月30日、嫡子の綱賢(幼名・徳千代)が42歳で没した。綱賢には子がなく、光長には他に男子がなかったため急ぎ世継を定めねばならなくなった。重臣たちの評議の結果、甥にあたる永見万徳丸(異母弟・永見長頼の子)を世継ぎとすることが決まり、万徳丸を養子として迎えた(松平綱国)。ところが、この縁組の過程を巡って異母弟・永見長良(長頼の同母弟)や義弟にあたる家老・小栗美作などの重臣たちの争いが激化して、いわゆる越後騒動に発展した。長期に渡り藩内に混乱をもたらしたが、一旦は幕府により裁断が下され、落着となった。裁決の翌年(1680年)、4代将軍・徳川家綱が死去し5代将軍・徳川綱吉となった。綱吉は越後騒動に対し異例の再審議を、これもまた異例の将軍直裁にて行った。綱吉の裁断により高田藩は改易となり、先ず光長は井伊直興の江戸屋敷に預けられた。 光長は伊予国松山藩へ、綱国は備後国福山藩に配流されることとなり、藩士らにも大量の処分者を出した。また、親戚であり騒動の処理に関わっていた出雲国広瀬藩主・松平近栄(3万石→1万5,000石)・播磨国姫路藩主・松平直矩(15万石→豊後日田7万石)が連座して処分となった。配流生活天和元年(1681年)6月26日、改易となった光長は同年7月1日に江戸を発し、8月1日に配流処分先の伊予松山に到着した。松山藩主の松平定直は光長を松山城三ノ丸に蟄居させる。翌年4月、北の丸の蟄居屋敷に移転させる。光長には配流先での配所賄料(捨て扶持)として1万俵が与えられた。この配流に随行した家臣は20人とも11人とも言われる。これら家臣の子孫はのちに津山藩が立藩された際に雇用され、「譜代」と呼ばれた。この蟄居処分は、光長が江戸に移送される貞享元年(1683年)末まで続いた。同年11月1日、定直を通して幕府より赦免の奉書を受領した光長は、同月25日に松山を発して江戸へ向かい、翌月15日、江戸に到着した。
2024年07月10日
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15「薩土密約の履行」中岡慎太郎は11月17日に死去したが、中岡が奔走し締結させた薩土討幕の密約が、その後の土佐藩の将来を決定づけることとなる。慶応3年12月(1867年12月下旬~1868年1月上旬)、武力討幕論を主張し、大政奉還論に反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛。同12月28日(1868年1月22日)、土佐藩・山田平左衛門、吉松速之助らが伏見の警固につくと、薩摩藩・西郷隆盛は土佐藩士・谷干城へ薩長芸の三藩へは既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(1868年1月25日)、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立。1月3日(太陽暦1月27日)、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日(太陽暦1月28日)、山田隊、吉松隊、山地元治、北村重頼、二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦。1月6日(太陽暦1月30日)、谷が土佐に到着。1月8日(太陽暦2月1日)、乾退助の失脚が解かれ、1月13日(太陽暦2月6日)、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した。 ◯薩土密約(さっとみつやく/さつどみつやく)は、江戸時代後期(幕末)の慶応3年5月21日(1867年6月23日)に、京都の小松帯刀(清廉)寓居(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と土佐藩の実力者の間で交わされた、武力討幕のための軍事同盟で、「薩土同盟」とも呼ばれるが、性質の異なる「薩土盟約」も「薩土同盟」と呼ばれるため区別して薩土討幕の密約ともいう。 薩土密約は、土佐藩士が鳥羽・伏見の戦いに際し参戦する根拠となった密約であり、これを起因として始まった戊辰戦争においても、官軍側の勝利に貢献することになる土佐藩の参戦を確約した軍事同盟である。 薩土盟約は土佐藩の公議政体派が大政奉還を通して、温和な手段での同盟を薩摩藩に提起した盟約であり、薩土盟約と薩土密約とは性質が全く異なる。 密約締結までの背景 勤皇の誓い[編集] 文久2年6月(1862年7月)、乾退助(板垣退助)は、小笠原唯八、佐々木高行らと肝胆相照し、ともに勤皇に盡忠することを誓う。 長州の動きを洞察 文久2年6月6日(1862年7月2日)付の片岡健吉宛書簡において退助は、 長州様には今日発駕の由に御座候。長井雅楽の切腹は虚説の趣に御座候[4]。乾退助(『片岡健吉宛書簡』文久2年(1862)6月6日付) と書き送り、国許の片岡に長州藩の動向を伝えている(長井雅楽の切腹は、翌年2月6日)。 尊皇攘夷(破約攘夷派)の退助は、幕府専制による無勅許の開港条約をなし崩し的に是認する事に繋がる長井雅楽の『航海遠略策』(開国策)を、皇威を貶めるものと警戒していたと考えられ、同時期にあたる文久2年6月19日(太陽暦7月15日)の長州藩・久坂玄瑞の日記にも、 私共一同、長井雅楽を斬除仕度決心仕候。雅楽奸妄弁智、身家を謀り、欺君売国之事、衆目之視る所にて候。此度之如く容易ならざる御耻辱を取らせ、恐多くも朝廷を侮慢し国是を動揺仕らんと相謀候事言語同断に有之申候。 彼罪科、去四月中旬言上仕候事に御座候。十九日後、日々熟慮仕候得共未だ時機を得不申候。— 久坂玄瑞 とあり、退助と同様に長井雅楽の『航海遠略策』に真っ向から反対し「朝廷を侮慢している」と糾弾している。 土佐勤王党・間崎哲馬と好誼 退助は、この頃既に土佐勤王党の重鎮・間崎哲馬と好誼を結んでいた。間崎は土佐藩田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江ノ口村に私塾を構えた博学の士で、間崎の門下には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいた。文久2年9月に退助と間崎が交わした書簡が現存する[2]。 愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調ひ申さず、然るに右別封の義は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣 (文久2年)九月十七日 間崎哲馬 乾退助様 書簡を読む限り別封で、勤王派の重要人物から何らかの機密事項が退助のもとへ直接送られたと考えられている。 青蓮院宮令旨事件 間崎哲馬は、土佐藩の藩政改革を行うため、土佐勤王党が仲介して青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動した。12月、佐幕派の青蓮院宮は令旨を発したが、この越権行為が土佐藩主の権威を失墜させるものとして文久3年1月25日(1863年3月14日)に上洛した山内容堂より「不遜の極み」であると逆鱗にふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)、間崎は平井収二郎、弘瀬健太と共に責任をとって切腹した。その2ヶ月後、間崎の門下にあたる中岡慎太郎が乾退助を訪問し、のちに薩土討幕の密約を結ぶ端緒となる(詳細は後述)。
2024年06月26日
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10「揺れ動く土佐藩」8月20日(太陽暦9月17日)、山内容堂が後藤象二郎の献策による大政奉還を幕府へ上奏する意思を示す。 ◯山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主(文政元年10月9日(1827年11月27日) - 明治5年(1872年)6月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室の平石氏。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士たちからは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。 藩主就任まで 文政10年(1827年)生まれ。豊信生家である南邸山内家は石高1500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下であった。通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、豊信は分家の出であったため高知城下で生まれ育った。 13代藩主・山内豊熈の死後、その弟の山内豊惇が跡を継ぐが、藩主在職わずか12日という短さで急死し、山内家は断絶の危機に瀕した。豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)がいたがまだ3歳であったため、分家で当時22歳の豊信が候補となった。 豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実家に当たる薩摩藩島津家などが老中首座であった阿部正弘に働きかけ、豊惇は病気のため隠居したという形をとり、嘉永元年(1848年)12月27日、豊信が藩主に就任した。候姫の格別の推挙と幕閣に働きかけをした上での藩主就任が、その後の容堂の倒幕的行動を制限したとも言われる。 藩主時代 藩主の座に就いた豊信は門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を起用した。嘉永6年(1853年)、東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて西洋軍備採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・身分制度改革・文武官設立などの藩政改革を断行した。 翌安政元年(1854年)6月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となった。しかし3年後の安政4年(1857年)、東洋は再登用され、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らを起用した。 豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。 阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。 一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福を推した。井伊は大老の地位を利用し、政敵を排除した。いわゆる安政の大獄である。結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。容堂はこれに憤慨し、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出した。この年の10月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。 隠居後から大政奉還 前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、隠居の身となった当初、忍堂と号したが、水戸藩の藤田東湖の薦めで容堂と改めた。容堂は、思想が四賢侯に共通する公武合体派であり、単純ではなかった。藩内の勤皇志士を弾圧する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取った。このため幕末の政局に混乱をもたらし、世間では「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、のち政敵となる西郷隆盛から「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言わしめる結果となった。 謹慎中に土佐藩ではクーデターが起こった。桜田門外の変以降、全国的に尊王攘夷が主流となった。土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、容堂の股肱の臣である公武合体派の吉田東洋と対立。遂に文久2年4月8日(1862年5月6日)東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。 文久3年8月18日(1863年9月30日)、京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、長州側が一触即発の事態を回避したため、これ以後しばらく佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握した。以後、隠居の身ながら藩政に影響を与え続けた。 容堂は、まず東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、党員を片っ端から捕縛・投獄した。首領の瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ、逃れることのできた党員は脱藩し、土佐勤王党は壊滅させられた。同年末、容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ、国政の諮問機関である参預会議に参加するが、容堂自身は病と称して欠席が多く、短期間で崩壊した。 東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介によって、慶応2年(1866年)1月22日、 薩長同盟が成立した。これによって時代が明治維新へと大きく動き出した。
2024年06月26日
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慶応元年(1865年)閏5月11日、武市瑞山を獄に断じ、次いで慶応2年(1866年)、藩命を奉じて薩摩、長崎に出張、さらに上海を視察して海外貿易を研究した。 ◯武市 瑞山(たけち ずいざん)は、幕末の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称の武市 半平太(たけち はんぺいた)で呼ばれることも多い。 幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。 土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士島村源次郎の長女富子。板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる[2]。 優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。 剣術家 文政12年9月27日(1829年10月24日)、土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家は元々土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格。白札郷士とは上士として認められたことを意味する。 天保12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ。嘉永2年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子を妻としている。翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。 嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している。翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き[6]、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。 安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政2年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった[7]。この道場の門下には中岡慎太郎や岡田以蔵等もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。同年秋に剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡や香美郡での出張教授を行う。 安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。 同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場(北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている。 これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる[11]。 安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信が大老・井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。土佐藩士達はこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年)3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士達は変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった。 同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが、その真意は西国諸藩の動静視察であった。一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した。この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている。 土佐勤王党結成 文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立、7月に江戸に到着し、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流する。半平太は特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴した。 土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感した半平太は久坂・樺山と三藩の藩論を攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうと提案し、この提案は一同の同意を得ることとなった。8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成し、大石弥太郎の起草により、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨とする盟曰(盟約)を定めた。9月に帰国した半平太は同志を募り、坂本龍馬が土佐における筆頭加盟者となり、間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟した。
2024年06月24日
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11「円仁帰国後の活動」翌年帰京、大法師位に任じられ、翌嘉祥2年(849)延暦寺に灌頂を始終し、翌年春文徳天皇即位に際し、奏請延暦寺に総持院を建て常時修法の道場とした。文徳天皇(もんとくてんのう、827年〈天長4年8月〉- 858年10月7日〈天安2年8月27日〉)は、日本の第55代天皇(在位:850年5月4日〈嘉祥3年3月19日〉- 858年10月7日〈天安2年8月27日〉)。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。仁明天皇の第一皇子。母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。承和9年(842年)、承和の変で皇太子・恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父・藤原良房にも推されて代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)3月19日仁明天皇の譲位により践祚。こうした経緯も含め、藤原良房は仁明朝期頃から次第に権勢を強めた。文徳天皇が東宮の頃に、良房の娘・明子(あきらけいこ)が入内しており、ちょうど天皇即位の年の3月に第四皇子(惟仁親王、のちの清和天皇)を産んだ。惟仁親王は11月に、生後8か月で3人の兄を押しのけ立太子した。天皇は更衣・紀静子所生の第一皇子・惟喬親王を鍾愛し期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。しかしその後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に大内裏の東部にある東宮雅院や、嵯峨上皇の後院だった冷然院などに居住して、遂に一度も内裏正殿を居住の間として生活を送ることはなかった。また、天皇自身も病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なかった。9世紀後半における摂関政治や陣定の成立など、朝廷の政務における「天皇の不在化」の原因を文徳天皇期の天皇不在が影響しているとする説もある。やがて天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた左大臣・源信の諫言で取り止めとなった。かかる状況下で、天安2年(858年)8月に突然の病で急死する。宝算32。通説では死因は脳卒中といわれているが、歴史学者の彦由一太はあまりの病状の急変から藤原良房による暗殺説を唱えている。翌翌年文徳天皇に両部灌頂を授けたのをはじめ、清和天皇に菩薩戒、太后に菩薩戒、灌頂を授けた。清和天皇(せいわてんのう、850年5月10日〈嘉祥3年3月25日〉 – 881年1月7日〈元慶4年12月4日〉)は、日本の第56代天皇(在位: 858年10月7日〈天安2年8月27日〉 – 876年12月18日〈貞観18年11月29日〉)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。略歴父・文徳天皇が践祚して4日目に生まれる。第四皇子であり、異母兄に惟喬・惟条・惟彦親王がいたが、 外祖父・藤原良房の後見の元、3人の兄を退けて生後8か月で皇太子となる。天安2年(858年)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位した。病床の文徳天皇は皇太子が幼少であることを危惧し、6歳年長の惟喬親王に中継ぎとして皇位を継承させようとしたが、実現しなかった。幼少の為、良房が外戚として政治の実権を握った。貞観8年(866年)には伴善男らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生した。善男を信頼していた天皇は、事件が解決しない最中の同年8月に良房を正式に摂政に任命した。なお、『日本三代実録』の清和上皇の崩伝記事(元慶4年12月4日条)によれば、応天門の放火の主犯は善男の子である中庸とされて善男はその連座に過ぎないとされたものの、清和天皇の意向によって厳罰に処せられたという。貞観18年(876年)第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、太上天皇となる。2年半後の元慶3年(年)5月に出家、その年の10月より畿内巡幸の旅に入った。翌年3月丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融の別邸棲霞観にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御。宝算31。陽成天皇即位後の清和上皇が国政に関わったという記録は見えないものの、藤原基経の摂政任命及び上皇の崩御その日に行われた基経の太政大臣任命には上皇の意向が働いていたとする説もある[3]。嘉祥3年(850年) 生誕。同年、立太子。天安2年(858年) 践祚。11月7日(12月15日)に即位(9歳)。貞観8年(866年) 応天門炎上事件(応天門の変)。貞観18年(876年) 27歳で突然譲位。元慶3年(879年) 出家して仏門に帰依。仏寺巡拝の旅へ。元慶4年(880年) 崩御。
2024年06月14日
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文明3年になると信賢と国信の弟で安芸の留守を守っていた武田元綱が西軍の工作で反乱を起こし、毛利豊元も大内氏に誘われて安芸に帰国すると西軍に寝返り、安芸・備後は西軍有利に傾いた。東軍は国人衆に忠誠を誓わせ寝返り防止に努め、山名是豊も備後で転戦して形勢を立て直そうとしたが、文明5年から文明7年の2年間西軍の小早川弘景ら安芸・備後国人衆が東軍方の小早川敬平が籠城する高山城を包囲したにも関わらず救援に来なかったことから人望を失い、備後から追放され消息を絶った。文明7年4月23日に安芸・備後の東西両軍は和睦を結び、中国地方の戦乱は終息に向かった。戦後備後は山名是豊の甥(弟とも)に当たる山名政豊が領有することになり、残党は政豊に討伐された。安芸は武田氏を始め国人が割拠する状態に置かれ、武田元綱は文明13年に信賢の後を継いだ武田国信と和睦、安芸の国人領主として兄から独立し大内氏と友好関係を結んだ。他の国人衆も大内氏との対立を解消し安芸は平穏になったが、戦乱を通して大内氏の影響力は増大、備後で山名政豊と国人が対立して支配が揺らいだため、大内氏と新たに台頭した尼子経久が国人衆を巻き込み衝突していった。御霊合戦文正元年(1466年)12月、畠山義就が突如大軍を率いて上洛し、千本地蔵院に陣取った。これは、文正の政変の結果に満足しない山名宗全、斯波義廉の支援をうけたものであった。足利義政はこの動きに屈し、文正2年1月2日(1467)、畠山政長(管領)や、細川勝元に断ることなく、将軍邸の室町御所に畠山義就を招いた。追い討ちをかけるように足利義政は正月恒例の管領邸への「御成」を中止し、3日後の5日に畠山義就が宗全邸で開いた酒宴に出席、その席で義政は畠山義就の畠山氏総領を認め、畠山政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。畠山政長は反発して管領を辞任し、後任に山名派の斯波義廉が就任した。細川勝元は室町御所を占拠して足利義政から畠山義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して山名宗全に情報を漏らしたため失敗した。政局を有利に運んだ山名宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と室町御所を囲み足利義政に畠山政長や細川勝元らの追放を願い出た。これを知った細川勝元・畠山政長・京極持清はそれぞれ御所の西側・北側・南側に布陣して御所への攻撃を企てた。足利義政は細川勝元の追放は認めなかったが、諸大名が一方に加担しないことを条件に畠山義就による畠山政長への攻撃を認めた。文正2年(1467年)1月18日、政長は無防備であった自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷いた。一方義就は後土御門天皇や後花園上皇、伏見宮貞常親王(上皇の実弟)を一つ車に御乗せして室町御所に避難させた。義政は畠山氏の私闘への関わりを禁じるが、宗全や斯波義廉(管領)、山名政豊(宗全の孫)、朝倉孝景らは義就に加勢した。一方勝元は義政の命令に従って援軍を出さなかった。このため勝元は「弓矢の道」に背いたと激しい非難を受けた。御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置した。義就側は釈迦堂から出兵して政長を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装って逃走した。勝元邸に匿われたと言われる。室町御所が山名軍に占拠されたために、勝元は形式上は幕府中枢から排除された。だが、勝元は京都に留まり続けただけでなく、非常事態を口実に細川京兆家の当主として、独自に管領の職務である軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行わせた[12]。大乱前夜御霊合戦の後、細川勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させるなど緊張が高まった。文正2年(1497年)4月5日には元号が文正から応仁に改元された。4月になると、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。片や宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるという指摘もされている。京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、当初から東軍が優位を占めていた。西軍は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は、細川家、斯波家、畠山家と、京極持清、赤松政則、武田信賢であり、西軍の主力は、山名家、斯波家、畠山家、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や、土岐成頼、大内政弘であった。一方、関東や九州では鎌倉公方や少弐氏らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、中央の大乱より前に戦乱状態に突入していた。
2024年06月12日
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8、「大聖寺藩前田家」*「前田 利治」(まえだ としはる)は、江戸時代前期の大名。加賀国大聖寺藩の初代藩主。小堀政一(遠州)から手ほどきを受けた茶人であった。元和4年(1618)、加賀藩2代藩主・前田利常の三男として誕生する。寛永16年(1639)、父・利常が隠居するにあたり、江沼郡を中心に7万石を分封される。当初、鉱山の開発に力を注ぎ、領内に金山銀山を発見した。この鉱山開発の途上で見つかった良質の陶土と、利治が茶人であったことが、後の九谷焼の生産に結びついた。万治3年(1660)に死去。享年43。跡を弟で養子・利明が継いだ。*「前田 利明」(まえだ としあき)は、江戸時代前期の大名。加賀国大聖寺藩の第2代藩主。寛永14年(1637)12月14日、加賀藩2代藩主・前田利常の庶子(五男)として金沢に生まれる。万治2年(1659)、兄で大聖寺藩初代藩主であった前田利治の養子となり、翌万治3年(1660)に利治が死去したため跡を継ぐ。治水工事や新田開発、用水路改修や製紙業の導入など、富国政策を重視して藩政を確立した名君であった。元禄5年(1692)5月13日に死去し、跡を子の利直が継いだ。1917年(大正6年)11月17日、贈正四位。*「前田 利直」(まえだ としなお)は、江戸時代中期の大名。加賀大聖寺藩の第3代藩主。寛文12年(1672年)6月25日、第2代藩主・利明の長男として江戸に生まれる。貞享元年(1684)に将軍・徳川綱吉に御目見して以降、綱吉の寵愛を受け、藩主になる以前の元禄4年(1691)に、外様大名の世子の立場にもかかわらず奥詰に任じられ、待遇も譜代大名並に扱われた。翌元禄5年(1692)に父親が死去したために跡を継ぐ。このとき、弟の利昌に1万石を分与して、支藩である大聖寺新田藩を立藩させた。綱吉の側近であった立場から江戸に在府し、国に戻って藩政を執るということがほとんどなかったため、藩政は家臣団によって牛耳られ、実権をめぐっての対立が絶えず、また江戸藩邸の焼失などで藩財政が圧迫した。しかも晩年の宝永6年(1709)、綱吉が死去すると奥詰を解任された上、弟の利昌が大和柳本藩主・織田秀親を刺殺して切腹処分となり、新田藩も改易となるなど、不幸が続く中で、宝永7年(1710年)12月13日に死去した。跡を養嗣子の利章が継いだ。*「前田 利章」(まえだ としあきら)は、江戸時代中期の大名。加賀大聖寺藩の第4代藩主。元禄4年(1691年)3月16日、加賀藩主・前田綱紀の五男として金沢で生まれる。大聖寺藩の第3代藩主で大叔父にあたる利直の養子となり、宝永7年(1710)に利直が死去したため、翌年1月29日に跡を継いだ。しかし、実父の諫言も聞かずに放蕩三昧な生活を繰り返して藩財政を悪化させ、さらには凶作が原因で正徳2年(1712)に百姓一揆が起こり、享保17年(1732)には幕命による江戸城改修工事による出費でさらに藩財政を悪化させた。元文2年(1737年)9月9日に大聖寺で死去した。享年47歳。跡を長男の利道が継いだ。*「前田 利道」(まえだ としみち)は、江戸時代中期の大名。加賀大聖寺藩の第5代藩主。享保18年(1733年)4月24日、第4代藩主・利章の長男として生まれる。元文2年(1737)の父の死去により跡を継ぐ。宝暦2年(1752)、東海道吉田大橋架け替えの手伝普請が命ぜられるが、完成した橋が半年ほど後に湾曲してしまう事態が生じた。井沢弥惣兵衛為永の子で工事を担当した勘定組頭の井沢弥惣兵衛正房は小普請組に降格され、利道には再度の手伝普請が命じられた。また、治世中に領内が災害に見舞われたこともあり、藩の財政は逼迫した。安永7年(1778)5月25日、家督を子の利精に譲って隠居し、安永10年(1781年)1月14日に死去した。享年49歳。 *「前田 利精」(まえだ としあき)は、加賀大聖寺藩の第6代藩主。宝暦8年(1758年)11月15日、第5代藩主・前田利道の次男として大聖寺で生まれる。宝暦9年(1759)に長兄・利貞が早世したため世子となり、安永7年1778年5月25日に父の隠居により家督を継ぐ。しかし安永10年(1781)、父が死去すると、遊郭に頻繁に通って女狂いとなり、無頼と交じって好き放題にふるまうなど、無法を繰り返すようになる。これら一連の行動に関して、家臣団は無論、本家の藩主・前田治脩も諫言したが、利精は聞く耳を持たなかった。このため天明2年(1782)8月21日、治脩は利精を「心疾」として監禁し、家督は利精の弟である利物に継がせた。寛政3年(1791年)9月15日に大聖寺で死去した。享年34歳歳。*「前田 利物」(まえだ としたね)は、加賀大聖寺藩の第7代藩主。
2024年06月04日
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