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2「万次郎出自と生い立ち」(ジョン まんじろう、旧字体:ジョン萬次郎、、1827年〈文政10年1月1日〉 – 年〈明治31年〉11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人である。アメリカ人からはジョン・マンという愛称でも呼ばれた。土佐国(現・高知県)出身。帰国後は本名として 中浜 万次郎(なかはま まんじろう、旧字体:中濱 萬次郎)を名乗った。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、1938年(昭和13年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたことで広まったもので、それ以前には使用されていない。日米和親条約の締結に尽力し、その後、通訳・教師などとして活躍した。生い立ち万次郎(旧字体:萬次郎)は、文政10年1月1日(新暦換算:1827年1月27日)、土佐国幡多郡中ノ浜村(幕藩体制下の土佐高知藩知行中ノ浜村。 ◯幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。戦前段階には狭義に政治体制自体を指していたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになった。幕藩制(ばくはんせい)ともいう。 江戸幕府を全ての武士の頂点とし、最高の統治機関としながらも、藩を形成していることと、米などを現物で納めさせて年貢とする石高制をその基礎に置いていることが特徴である。諸大名を親藩、譜代大名、外様大名に分け、参勤交代や改易によってこれを統制した。また、職分の区分けによって、武士を一部の権利を持つ階級に位置づけた(もっとも、「士農工商」という言葉は当時の階級を正確に表してはいないと指摘されている)。 石高制については豊臣政権によって兵農分離が行われ、太閤検地によって徐々に形成され、続く江戸幕府の成立後に初代将軍徳川家康以降、2代徳川秀忠、3代徳川家光の時代に、鎖国体制や知行制、村請制などが確立、更に武家諸法度や朝廷に対する禁中並公家諸法度、寺社に対する諸社禰宜神主法度・諸宗寺院法度・寺院諸法度といった統制なども行われていった。 古くは「江戸時代=幕藩体制」であり、当然江戸幕府が成立した1603年が幕藩体制の始期と考えられてきたが、1960年代に安良城盛昭が太閤検地による荘園制の解体が中世と近世の統治体制を分ける画期と考え、豊臣政権が日本全国を統一した1590年を幕藩体制の始期とする考えを打ち出し、論争を呼んだ(太閤検地論争)。このため、現在では1590年をもって幕藩体制の始期とする説が有力ではあるが、1590年・1603年どちらを採用した場合でも、その年に幕藩体制が完成したものではなく、最終的な完成は17世紀中期以後であったと考えられている。 江戸時代には商人資本の成長や農村への商品経済の浸透、それらによる身分制の変質など、村落共同体の動揺は一揆や打ちこわしを招き、幕府や諸藩は幕政改革や藩政改革を行い、再編を試みる。 幕末には、諸外国の砲艦外交により幕府は鎖国政策を改めて開国し、朝廷権威も伸長して公武合体路線が進められる。江戸幕府は大政奉還、王政復古、江戸開城により解体され、明治初期には旧藩による統治は維持されるが、中央集権政策のもと、版籍奉還、廃藩置県により幕藩体制は完全に終結する。しかしその後も名残として残っている箇所が多く見られている。 ◯土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正式名称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内家が支配した。 藩史 土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部家が統治していたが、長宗我部盛親は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易となった。この合戦において徳川家に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国20万2600石を与えられた。以降、明治時代初頭まで山内家が治めた。 当初、「一領具足」と呼ばれた半農半兵の長宗我部家旧臣が、山内氏に馴染まずに反乱を繰り返したため、山内家は藩内の要衝に重臣を配して反乱に備えた。中村の山内康豊(2万石)を始め、佐川に深尾重良(1万石)、宿毛に山内可氏(7000石)、窪川に山内一吉(5000石)、本山に山内一照(1300石)、安芸に五藤為重(1100石)を配している。 当初、一豊は長宗我部家(浦戸藩)の旧城である浦戸城に入城したが、城下町を開くには狭かったため、現在の高知市中心部に高知城と城下町の建設を行った。藩政が確立したのは2代山内忠義の時代で、忠義は野中兼山を登用して新田開発など殖産興業に努めたが、兼山の強引な施策は政敵の恨みを買って失脚する。 藩財政は江戸時代中期頃までは比較的安定的に推移したが、宝暦期(1751年 – 1764年)以降、一揆、農民の他領への逃散など藩政には動揺が見られた。9代・山内豊雍による質素倹約を基本とする藩政改革(天明の改革)が行われ、藩政はやや立ち直った。さらに13代・山内豊熈は「おこぜ組」と呼ばれる馬渕嘉平を中心とする改革派を起用して、藩政改革に乗り出したが藩閥派の敵対により失敗した。 幕末には、15代豊信(容堂)が吉田東洋を起用して改革を断行した。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、武市瑞山を中心とした土佐勤王党によって暗殺された。後に勤王党は実権を回復した容堂(豊信)の報復を受け、瑞山の切腹や党員が処刑されるなど弾圧解散された。 なお、上士勤王派から板垣退助や、東洋の門下より後藤象二郎や岩崎弥太郎ら明治時代を代表する人物を、また、郷士である坂本龍馬や中岡慎太郎など優れた人材が輩出された。坂本や後藤を通じて容堂から15代将軍徳川慶喜へ献策された大政奉還により、江戸幕府の歴史が閉じられた。土佐藩は薩長土肥の一角をなし、時代転換の大きな役割を演じた。 明治4年(1871年)、廃藩置県により高知県となった。山内氏は明治17年(1884年)の華族令により侯爵に列せられた。
2023年08月16日
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「ジョン万次郎の生涯」1, 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・22, 「万次郎の出自と生い立ち」・・・・・・・・・4123, 「漂流」・・・・・・・・・・・・・・・・・・244, 「渡米」・・・・・・・・・・・・・・・・・・355, 「捕鯨生活と帰国」・・・・・・・・・・・・・486, 「帰国後の活躍」・・・・・・・・・・・・・・877, 「日米修好条約に渡米」・・・・・・・・・・・1318, 「土佐藩の教育に貢献」・・・・・・・・・・・1449, 「社会的影響」・・・・・・・・・・・・・・・17510,「万次郎の人物像」・・・・・・・・・・・・17911,「万次郎のもたらした日本初」・・・・・・・19212,「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・199 1,「はじめに」ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれた。9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ていた。天保12年(1841年)14歳だった万次郎は仲間と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着した。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられた。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなった。救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づける状態ではなかった。それに、帰国できたとしても命の保証はなかった。ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろしましたが万次郎の事を気に入った船長は、アメリカへ連れて行きたいと思い万次郎に意志を問い、万次郎もアメリカへ渡りたいという気持ちがあったので、船長とともにアメリカへ行くことを決断をした。この時、船名にちなんだジョン・マンという愛称をつけられた。そして、万次郎は日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れることになった。アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らした。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学習に励んだ。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励しんだ。卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。帰国資金を得るために万次郎が向かったのは、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニア。金鉱で得た資金を持って、ハワイの漂流仲間のもとへ向かった。そして帰国準備を整えて、日本に向けて出航したのである。嘉永4年(1851年)薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸した。万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けた。そして嘉永6年(1853年)帰国から約2年後に土佐へ帰ることができたのである。土佐藩では公式な記録として「漂客談奇」が記され、土佐15代目藩主山内豊信(容堂)の命により蘭学の素養がある絵師・河田小龍が聞き取りを行った。このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くある本である。土佐藩主山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたに違いないと思われている。その後、高知城下の藩校「教授館」の教授に。後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けたといわれている。万次郎は幕府に招聘され江戸へ。幕府直参となった。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中濱万次郎と名乗るようになった。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府がありました。万次郎は江川英龍の元で翻訳や通訳、造船指揮、人材育成にと精力的に働いた。しかし、スパイ疑惑によりペリーの通訳をはじめとする重要な通訳、翻訳の仕事から外されてしまった。しかしながら、万次郎の知識を必要とする志士は多く、万次郎に英語や航海術を学びに来る人は多かったそうである。万延元年(1860年)万次郎は、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカへ行く使節団を乗せた、ポーハタン号の随行艦「咸臨丸」の通訳、技術指導員として乗り込むこととなった。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていた。その後、捕鯨活動、小笠原開拓、開成学校教授就任などめまぐるしく動き続けた。明治3年(1870年)、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣された。ニューヨークに滞在したときに、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たした。しかし帰国後、万次郎は病に倒れ、それ以後は静かに暮らすようになり、そして明治31年(1898年)71歳で万次郎はその生涯を終えた。
2023年08月15日
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