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三重県最北端 いなべ市の阿下喜(あげき)にございます 日本料理 昭栄館 の料理長のブログ。2006年9月13日から12年間毎日更新中です。 ↑ いなべ市ってこんなところ。 桐林館 トウリンカン ってご存知ですか? 旧阿下喜小学校のことです。 私は、小学校4年の1学期まで通いましたよ。 (2学期からは、鳥坂の新校舎へ) 現在は、『桐林館 阿下喜美術室』というカフェになっています。当店周辺の地図は、 グーグルマップでご覧下さい。本日は、2019年 2月4日 月曜日。地元いなべ食材の仕入れに いなべっこ に参りました。JAみえきたが運営するファーマーズマーケットのこと。当店から車で3分ほど。近くてとても便利です。本日の仕入れものです。小松菜 かぶら 人参 全て地元いなべ産。お葱 椎茸 さくらポーク ウインナーは、地元いなべ産。レタスは、お隣 桑名産。牛乳は、四日市酪農の製品です。 地産地消に力を入れて・・・。今日は、午前中は仕込み。午後からお休みとさせて頂きました。女将(妻)と市内でランチ。私は初めてのお店。女将は2回目かな?美味しく頂きました~。夕方から、近くの桐林館へ。先程もご紹介しましたが、旧阿下喜小学校です。私は、小学校4年の1学期まで通いました。2学期からは、鳥坂の新校舎へ。当時のままではないですが、思い出深い場所。板張りの教室・廊下。雑巾がけは、大変でしたね。ささくれた木が、指によく刺さりました。消化器がひっくり返って大変になったこともありましたね。我が家で捕まえた(窓にぶつかって気絶していた)ふくろう(ミミズク?)を連れて行き、学校のみんなに見てもらったことも。現在は、「桐林館 阿下喜美術室」。人気のスポットです。今日は、野球の練習に来ました。秋頃まではよく来ていましたが、久しぶり。先日、新しい背番号を頂いてきた三男(四年生)。本人も私も、スイッチが入りました。最近、古いアルバムの写真を見直す機会が多いです。55年前 昭和39年1月15日 成人式の記念写真です。父は昭和20年9月生まれなので、成人式はまだ。どうしてこの写真があるのかな~っと思っていたら、祖父が写っていました。一番前の列の一番右で座っている男性です。どうして、祖父が写っているのかな~と思い、北勢町史を調べてみました。昭和39年1月15日 成人の日。祖父が、北勢町議会5代目の議長の在任中でした。55年前に議長在任中だった祖父が写っている阿下喜小学校。それから55年後、子供とキャッチボールする私。いろんな思いを胸に、この阿下喜の町で生活しています。昔(昭和30年頃)の写真、A4サイズに引き伸ばして、2月から店内にいくつか掲示しています。ご来店の際は、是非 ご覧下さい。 昔のこと、ブログ内 ご先祖あれこれ のカテゴリにまとめています。 ↑ ご覧下さい。 料理長
2019.02.04
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三重県最北端 いなべ市の阿下喜(あげき)にございます 日本料理 昭栄館 の料理長のブログ。2006年9月13日から12年間毎日更新中です。 ↑ いなべ市ってこんなところ。もうすぐ「あげきのおひなさん」。平成31年2月16日(土曜日)から平成31年3月3日(日曜日)まで当店のある阿下喜(あげき)の町で開催されます。 あげきのおひなさんって?当店周辺の地図は、 グーグルマップでご覧下さい。本日は、2019年 1月29日 火曜定休日。・ホームページの更新・食べログ 昭栄館のクーポン更新 他、パソコン作業に励みました。午後からは、掛け軸の掛け替え作業。↑ 新年から、コチラのおめでたい掛け軸を飾っていました。50年以上前に祖父が求めたものと思います。祖父は、40年ほど前に他界。掛け軸のことを祖父からは直接聞いていないので、ネットで調べて、添え書きにして隣に掲示しています。間違っていたらゴメンナサイ。そろそろ2月。コチラの掛け軸に掛け替えました。寒牡丹の図です。毎年この時期に飾っています。コチラも50年以上も前に求めたもの。 ↑ 作者は誰でしょう。読めません。 詳しい方がいらっしゃったら、教えて下さい。とりあえず、添え書きは「寒牡丹」。続いて、2階の小間の掛け軸替え。そろそろ おひなさん。立雛の図です。こちらも古いもののようですが、昨年求めました。販売店の添え書きに「益田 蘆湖」と書いてありましたので、ネットで調べて、まとめてみました。もう一部屋、掛け軸をどれにしましょうか・・・。この季節のもの、いろいろありますが・・・。最近、古い(昭和30年頃)アルバムを出してきて、楽しんでいます。こんな写真がありました。祖父は左端のベスト着用の男性。昭和38年2月4日。今から56年前の様子です。昔の昭栄館の「松の間」のようです。20年前に、すっかり立て直しましたが、私も松の間のこと、よく覚えています。祖父の後ろの掛け軸、これにしましょうか。飾ってみました。この時期の山水画のようです。梅の花が咲き始めるかな~っていう季節感が出ています。今まで、そんなに気にせず飾っていた掛け軸ですが、56年前の写真に写っていて、より愛着がわきました。写真って大事ですね。 ↑ 玉翠 っていう方が書いたのかな? ↑ 掛け軸の裏には、こんな感じに書かれています。玉翠筆・・・その後はなんて読むんでしょう。読めた方いらしたら、教えて下さい。再度、昔の写真。祖父は、北勢町議会の議長を務めていた時期があります。↑ 昭和30年の町村合併調印式の写真。 祖父は、右端。立ってみつめている男性です。「うちのおじいさんは、北勢町議会の初代議長やったんやで・・・」と、子供の頃から聞いていました。最近、コチラの北勢町史を読んでいます。↑平成十二年に発行されました。北勢町議会の歴代議長が書いてあります。 ↑ 祖父(森嶋浅吉)は、やはり初代議長でした。 5代目 9代目の議長でもあります。 ↑ 14代目の議長でもありました。 ちょうど私が生まれた時(昭和47年3月)も議長だったんだ~。 初めて知りました。昔の写真を眺めるたび、先祖への感謝はもちろん、自分へのプレッシャーも感じる今日この頃・・・。昔の昭栄館のこと、ご先祖あれこれ のカテゴリにまとめています。ご覧下さい。私は、私のペースで・・・参りましょう。 今後ともいなべの昭栄館をよろしくお願い申し上げます。 料理長
2019.01.29
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三重県最北端 いなべ市「阿下喜 あげき」の 日本料理 昭栄館 の料理長のブログ。2006年9月13日から12年間毎日更新中です。 ↑ いなべ市ってこんなところ。本日は、2018年 11月13日 火曜定休日。料理長の休日です。毎年11月13日は、私と妻(女将)の密かな記念日。初デート記念日なんです。1994年 11月13日 24年前になります。京都の「もみじの永観堂」にて。イイお天気の休日。庭の手入れを励んでいると、ご先祖のことが頭にいろいろ浮かんできました。11月13日といえば、祖父 浅吉の命日。明治生まれ。私が小学生の時に、79歳で亡くなりました。昨秋、三十七回忌の法要でした。生きていたら117歳位。昭栄館の創業者。創業は、昭和三年と聞いております。今年で90周年。仏さん(仏壇)でお参りをした後、母に、「昔の写真ってある?」って尋ねると、出てきました。↑ 昭和30年頃の昭栄館の様子でしょう。 私(昭和47年生まれ)が産まれる15~20年くらい前の写真です。 ↑ 西の玄関 の様子。 阿下喜の方、懐かしいでしょ。一人だけ男性が写っていますが、そちらが祖父。若い頃(働き盛り)は、あんな顔していたんだ~。先程の大きな写真の年老いた祖父しか、今まで知りませんでした。北勢町は、1955年(昭和30年)4月1日 - 阿下喜町・十社村・山郷村が合併して発足。同年 8月1日 治田村を編入。(ウィキペディアより)↑ 写真は、町村合併 調印式の様子。(昭和30年の写真と思われます) 議長在任中と書き添えられています。祖父は、北勢町議会の初代の議長だったそうです。(一番右端で立っているのが祖父です。)↑ 昭和30年1月 名刺交換会と書き添えられています。 祖父は、一番前の列の真ん中の辺り、背の高い方とヒゲの方の間。先日お越し頂いたお客様がおっしゃいました。「浅吉さんには、お世話になったわ。 昭和32年の鉄道事故の時、昭栄館に対策本部が出来て・・・。 忘れもしない、昭和32年11月25日。給料日前やった。」お亡くなりになった方(3人)のお名前 お住まいなど、90を超えるおじいさんが、しっかり覚えていらっしゃいました。大変な事故だったんですね。祖父は、鉄道関係のお仕事(車掌さん?)もしていた時があると聞いています。六石駅から阿下喜駅(この辺りは崖で、工事のかなりの難所らしい)まで線路が伸びたのは、祖父の功績があってのこと・・・と我が家では言い伝えられています。おじいさん、いろいろやってらしたのね。映画館もしていました。 ↑ 北勢文化映劇阿下喜に映画館があったと聞いたことがある方も多いことでしょうが、ネットで「北勢文化映劇」を探してもほとんど出てきません。画像も。 ↑ 真ん中に経っているのが祖父。 昭和32年10月5日開館と書き添えられています。 写真をよく見ると、十社屋さんから開館祝いのお花も。 今でも、当時の映写技師さんが、よくお食事に来て下さいます。お墓参りにきました。当店から車で2~3分ほど。昨日いなべっこで仕入れた いなべ産の菊 庭のアオキを入れてきました。祖父は、庭のアオキを大切にしていたそうです。 ↑ 右側の大きなのは、戦死した 虎生さんの墓石。 ↑ 虎生 とらおさん。祖父の一人息子。 (私の父は、幼少期 昭和25年くらいでしょうか、 昭栄館の養子に入りました。)一昨日の日曜にお越し頂いた阿下喜の近藤様(90を超えるおじいさん 先ほどのおじいさんとは別の方)から「わしは、ここの戦死された虎生さんの一つ下やわ。 虎生さんは、優秀で、体も大きくて・・・」祖父の浅吉 虎生さんのお話をして下さるお客様(90代の方)まだまだたくさん当店にいらっしゃいます。そのたび、昭栄館の歴史を感じます。墓石の後ろはこんな感じです。桑中を卒業後、大連の学校に行かれていたようです。昭和20年5月、学徒動員で入隊。12月、収容所にて戦病死。終戦後 行方不明のところ、昭和34年戦病死の広報にて知る。20歳で亡くなったようです。祖父は、息子が帰ってくることを願い、墓を建てずに待っていたそうです。戦後十数年経った昭和34年に、戦病死との知らせを聞き、昭和34年12月23日にこのお墓を建てたようです。 ↑ こちらは、本日撮影したお墓の写真ですが、 昭和34年に建立された当時の綺麗なお墓の写真も残っております。 昭和34年の盛大なお葬式の写真も。昭和33年7月15日 八幡祭の写真が出てきました。当店のある地区 赤神地区(社宮司地区)が吊り番だったようです。祖父は、当時の氏子総代(書き添えられていました)だったようで、写真がたくさんありました。紋付き袴の3人のうちの一人です。(真ん中です)いつも険しい顔していますね。厳しい人だったのでしょう。父の写真が出てきました。昭和20年生まれの父ですので、昭和32年くらいでしょうか。阿下喜小学校 鳥坂校舎とのこと。(桐林館の建物とは違います)父と同級生の方、懐かしいでしょ。(団塊の世代、一クラスでは無かったそうです。 写ってなかったらゴメンナサイ。)毎日、ブログ Facebook インスタグラム グーグルなどで、日本中 世界中に発信しておりますが、地元 阿下喜・いなべの皆様 ご先祖様に囲まれ、愛され、励まされ、地道に日々お料理しております。今後とも、いなべの昭栄館をよろしくお願い申し上げます。(本日書き綴ったブログですが、家族の言い伝えによるものもあります。 正しい情報ではない場合もあります。ご了承ください。) 料理長
2018.11.13
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