諦念がもたらす美


諦念がもたらす美(吉屋信子『ある女人像』)


 吉屋信子『ある女人像』(朝日文庫 昭和五十四年初版)を読了。
 近代女流歌人九人の、恋と歌と生涯を描いた伝記集。採りあげられた歌人は、石上露子、山川登美子、原阿佐緒、茅野雅子、三ケ島葭子、川端千枝、藤蔭静枝、杉浦翠子、今井邦子。
 山川・今井のように有名すぎる人もいれば、石上・川端のようにほとんど名前を聞かない人もいる。原・藤蔭などは、歌よりもそのスキャンダルの方が有名な女性だろう(原は著名な物理学者である石原博士との逃避行で世を騒がせた。藤蔭は荷風と浮名を流し、後には日本舞踊の家元として褒賞も受けた)。

 他の女性がおしなべて道ならぬ恋、悲劇的な結婚と別れに心を砕く中、ドイツ文学者の良人と静かなおしどり夫婦の暮しをまっとうした茅野雅子の存在は注目に値する。

 結婚したとき雅子は大学を卒業したばかり、年下の良人はまだ在学中だった。
 以来四十年、実家の廃業や長女を流行性感冒で喪うなどの悲しみはあったが、文人夫妻はささやかな家の書斎に寄り添うようにして、明治・大正・昭和の揺れ動く時代を生きた。

 終戦の翌年、良人は脳溢血に倒れ、雅子もまた体調を崩してその隣に臥した。そのとき彼女が、付添い婦に口述筆記させた歌がのこされている。

  かたはらにあるはわがせか をさなごのごとくにあいしてねむりておれり

  またの世もそのまたの世もあやまたぬ世をえらびつつほのかなるみちゆかむ

  こうりよりさらにはかなくちのうへに きふるいのちのおもしろきかな

 二首目は良人の死に際して詠まれた歌である。その五日後、彼女もしずかにこの世を去った。

 短歌はひとのあきらめを吸って成長する芸術のようだ。
 幸福の頂上からいっきに谷底へと突き落とされることもある。雨風の浸食作用のようにじわじわと大切なものを奪われることもある。さまざまなかたちで運命に抗いつづけ、最後の最後にきて力尽きた人間たちが洩らすあきらめの一言は、詩歌の世界を司る神の舌に甘露のごとき味わいをもたらすらしい。
 そんな主の残酷さを知りながら、彼女等はなお歌にすがりつづけた。貪欲な神の求めに応え、新たな運命に向かっていったものもいる。そのひたむきさは、一種の自虐を伴う信仰心と呼んでも差し支えないほどだ。

「こうりよりさらにはかなくちのうへにきふるいのち」であろうとも、「またの世もそのまたの世も」と希わずにいられなかった雅子も、運命に挑む姿勢、ひたむきに歌にすがる姿勢においては、恋多き女人たちに少しも劣ることはなかった。いやむしろ、他の女人のような「浮名」「あだごころ」といった混じり気がない雅子の甘露は、さぞかし清冽な味わいで神の舌を喜ばせたことだろう。

 諦念の露は、零れる寸前のゆらめきにすべての光と色を凝縮させることがある。よくよく眼を凝らしていないと、その一瞬を見失いがちだ。


ZOUSHOHYOU


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