全1171件 (1171件中 1-50件目)
お久しぶりです。移転先『月下の木馬』につながらないという問い合わせを、複数の方からいただきました。再移転先のurlは以下の通りです。http://kokame.at.webry.info/セミクラシックカメラによる撮影画像がメインになっています。憶えていてくださった方、本当にありがとうございます。
2012年03月10日
コメント(4)
本日6月2日をもって本ブログ=『逢坂越えぬ櫻井中納言』への記事掲載を休止したいと思います。次回以降の記事は、前に別宅として利用していたBiglobeブログ=『月下の木馬』にて掲載していきますので、今後もよろしくお付き合い願います。 ↓http://atsushi86.at.webry.info/(当ブログの`お気に入り`のカテゴリーからも入れます)なお移転を決めたのは、純粋に画像容量の問題からで、楽天の運営に特別の不満があるという訳ではありません。今後もここのページはすべて残していきますので、過去記事やその他の読みものなど、折にふれご覧いただければ幸いです。長らくのご愛読ありがとうございました。
2008年06月02日
コメント(2)
西の通りです。小さな橋を渡ると、日本にもあるような細道が対岸のメインストリートと並行してつづいています。そのまま歩きつづけると、やがて、石積みのある丘に行き当たります。あきらかに鉱山跡ですが、地元のガイドパンフレットには、その名も由来も記されていません。鉱山跡を見守るよう、木立の中に白い教会が建っていました。この教会も、やはり、ガイドバンフレットに載っていません。地元の方にとって、外部の者を受け入れたくない大切な場所なのでしょう。道はここから無舗装路となって、ずっと川沿いに延びていました。次に訪れるときは、その果てを見極めたいと思います。
2008年06月02日
コメント(0)
東の通りをしばらく行ったあと、右手の坂道を登りました。最初に見えてきたのはOriginal Amador Mine、またの名をLittle Amadorと言って、Amador Cityの最初の水晶鉱山です。1870年に操業を開始し、1937年に閉山しました。 今もフェンス越しに、スタンプミル等の施設の残骸をのぞむことができます。さらに坂を登ると、旧Amador Schoolの校舎にたどり着きます。ピーク時には150名の生徒数を数えたこの学校も1909年に廃校となり、以来、町のコミュニティホールとして建物は使用されています。旧校舎の南側にあった共同墓地の一部です。1800年代の没年を刻んだ墓碑がいくつか見られました。周囲は住宅地で、生者も死者も、ともに町の歴史を生き続けているように感じられました。
2008年06月01日
コメント(0)
こんなに小さな町にもふたつの路地があり、それぞれ東西の細い通りに通じています。実は、Amador Cityの本当の魅力は、それらの裏通りにあると言っても過言ではありません。次回(次週?)は、新緑の中でしずかに眠るゴールドカントリーの歴史をお届けします。
2008年05月26日
コメント(0)
今もなお営業を続けるImperial Hotelです。客室は6部屋、数は少なくてもそれぞれ内装が異なっており、常連客を楽しませているようです。 こんなバーでカクテルを飲み、ほろ酔い加減で古い町をうろついたらどんなに心地よいでしょう。でも男一人、あるいは男同士では、どう考えても格好がつきません。こんな時、カミさんが早く遊びに来ないかな、と思ってしまいます。
2008年05月26日
コメント(2)
川沿いの通りには、Chichizola Storeと呼ばれる元雑貨屋さんの建物(1877年築)があります。今もポストオフィスやガーデニング用品をメインとするギフトショップが入居しており、人の出入りが絶えることはありません。特に朝方、白い壁面がさまざまな物の影を映して豊かな表情を見せてくれます。ここ一ヶ所だけで何カット撮っても飽きません。一枚目に写っているベンチに腰掛けて愛犬と憩う老夫妻の姿を見かけました。それがまた何とも良い絵でした。でも、あいにく標準レンズしか持っておらず、その姿を遠くから小さく捉えただけで終わってしまいました。ここに載せられないのが残念です。
2008年05月25日
コメント(0)
町の中心を貫くように、澄んだ小川が流れています。その様子を見て、自分は、学生時代に訪ねた岡山県の高梁市を思い出しました。あいまいな記憶の中でですが、たしかにこんな景色があったような気がします。その川にかかる短い橋を渡った先に三叉路があり、左手の道脇には、マッチ箱でできたような消防署の建物を見ることができました。これは1900年代初期の築とのこと。半鐘のデザインが周囲の木々とよく調和しています。
2008年05月18日
コメント(2)
ふたたびゴールドカントリー巡りのシリーズを載せていきます。今回紹介するのはAmador Cityという、人口200人少々の小さな町です。日本のガイドブックでもよく紹介されるSutter Creekの通りからHighway49の旧道を走ること10分足らず、金鉱跡の駐車場に停めた車を降りると、古い映画のようなメインストリートが私たちを迎えてくれます。手前のミュージアムとなっている建物は、Fleehart Buildingといって、1860年以前に建てられたものだそうです。
2008年05月18日
コメント(0)
今夜は、お気に入りのこの番組↓を聴いてから寝ます。http://www.npr.org/templates/rundowns/rundown.php?prgId=24&agg=1曲が良いのはもちろん、ゆったりしたおしゃべりがとても心地よく、ヒアリングの練習にもなります。'Recently on Marian McPartland's Piano Jazz'の各回のタイトルをクリックすると録音が聴けますので、ぜひお試しください。
2008年05月12日
コメント(0)
日本を発つ前々日、半日の休暇をもらい、近所の公園に撮影に行きました。そこには古い電車の車両が展示されていました。半木製の客車内の様子が、昭和の匂いを思い出させてくれました。あいにくの雨で、園内に人影はありません。観光牧場の馬たちも、かえって自然な、伸び伸びとした姿を見せていました。これが、今回、日本にいる間に撮った最後の写真です。自分は不器用なので、思ったことや感じたことを正しく表現する術を知りません。でも、何かかたちにしないといけないという衝動から逃れることができず、こうして画像をアップし続けています。うまく言えないけれど、自分にとって表現は呼吸と同じです。そこ呼吸すら許されないとしたら、どこでどう生きればよいのでしょう。今、厳しい選択を迫られています。
2008年05月11日
コメント(10)
昨年、このブログに載せた設楽町の東大名倉にも行ってみました。写真は、東海自然歩道(田口森林鉄道軌道跡)から寒狭川越しに見た廃屋と、元操車場の下に設けられた休憩所です。静かな日曜日でした。風もなく、寒狭の瀬音と鳥の声ばかりが耳に心地よく聴こえていました。
2008年05月05日
コメント(4)
もうすこし、日本での画像を紹介させてください。久々に訪ねた奥三河の廃校たちも、それぞれの春をむかえていました。去年の春に、取り壊しの話が出ていた旧御園小学校の校舎も健在でした。旧阿蔵小学校の玄関には「エコキッズ学校」の看板が掲げられ、子供たちが泊まった跡がありました。毎年、新入学の子供たちを歓迎した桜の花も、廃校の事実を知らないかのように咲いていました。山村に子供の賑やかな声を取り戻すのが無理ならば、せめてこの静かな聖地を、そっと守ってあげてほしいと思います。(写真上から、旧設楽町立名倉中学校、旧東栄町立御園小学校、旧下山村立阿蔵小学校、旧設楽町立豊邦小学校)
2008年05月04日
コメント(0)
今日、山道をのぼって、ゴールドカントリーの奥にある村々を撮影してきました。最初の目的地には朝八時に着いたのですが、日はすでに高いところにあって、苦手な日中撮影のコンディションとなりました。左手でフィルターをかぶせたり外したり、一方で測光ポイントを少しずつずらしながら、同じ景色を何枚も写してみました。これを行く先々でやったものですから、最後の村では、水をがぶ飲みしたあと公園の木陰の芝生に寝転んで体力の回復を待たざるをえませんでした。で、それだけがんばった結果はというと……アップの日まで内緒にしときます。下の二枚の写真は、豊田市の平戸橋付近で写したものです。こうした、濃淡と立体感あるやわらかい影は、なかなかカリフォルニアの屋外ではお目にかかれません。表情ゆたかな陰が、日本の色を引き立てていると思います。
2008年04月28日
コメント(4)
昨日アメリカにもどりました。自宅に戻ったとき、ちらかった部屋を眺めたら、出発前の自分のはしゃぎ振りを思い出して、少ししゅんとしてしまいました。でもだいじょうぶです。今日、こちらは土曜日。荷物の片付けや家の掃除をして一日が終わりました。夕方、庭に出て、ガーデンテーブルで食事をとりました。二週間の間に伸びきった芝生が、まるで野原のようです。涼しく乾いた風が通って、フェンスの向こうから鳥たちの声が聞こえます。午後六時過ぎても真昼のように明るく、陽光ちらつくプラムツリーの葉陰に、日本で歩いた散歩道の景色がよみがえりました。自分は、もっとカリフォルニアを好きになれるでしょう。
2008年04月27日
コメント(2)
明日、アメリカへ戻ります。短かったけれど、充実した二週間でした。あちらに行っても、しばらくは日本の風景を載せていくつもりです。今日は、落ちついた春色で眼を愉しませてくれた花や木に、感謝の気持ちを表したいと思います。撮影地はすべて旧稲武町です。平野部では満開のミツバツツジも、やっと、ふたつみっつと咲きだしたところ。モクレン科のタムシバです。その芳しい香りはもちろん、遠目にも目立つハクモクレンやコブシに対し、ヤマザクラに遠慮するようまばらな花をつけるつつましさを好む人も多いようです。「紅枝垂」と呼ばれる中の一品種でしょうが、正確な名前は分かりません。主を失った家の庭で、秋のカエデのように紅く色づいていました。自分の中でもっとも印象に残った春の色です。
2008年04月24日
コメント(12)
よほど強い花なのか、チューリップはあちこちの廃校で見ることができます。散り敷いた桜の花びらはきれいでした。でも、子供の靴跡がない校庭はさみしいものです。玄関を裏側からのぞくと、テレビ取材時の記念写真が掲げたままになっていました。5名の児童、6名の教職員(?)、彼等はなお校内に留まり、ふるさと古戸の幸福だった日々――通学路をゆく子供の声、澄んだ川での水遊び、万国旗ひるがえる校庭での運動会――を、誰にともなく示しているようでした。
2008年04月23日
コメント(2)
土曜日、折本から下津具経由で東栄・豊根へと向かいました。最初に車を停めて立ち寄ったのは、閉校から一年経った古戸小学校跡です。何か物足りないと思ったら、玄関上屋にあった「自律協同」の額が外されていることに気づきました。本校舎から渡り廊下への戸口付近。県道側の窓からのぞいた教室です。当然ながら、廊下や教室内に貼ってあった児童の作品や掲示物は取り払われています。わずか一年の間に建物はすっかり生命力を失ったように見えました。それは、県道拡幅による取り壊しが前提にあると、あらかじめ聞かされていたせいかもしれません。*後編に続く
2008年04月22日
コメント(2)
金曜日、雨上がりの夕方、北設楽郡設楽町の下川向に立ち寄りました。この地区は、枝垂桃の里として知られています。せまる宵闇のなかで雨後の水滴をのこす花には、日の光のもとで眺めるそれとはちがった風情がありました。現在、環境影響評価がすすめられている設楽ダムが完成すると、この地区は水中に没してしまいます。完成予定の2020年を待たずして人々は徐々に集落を離れ、雨戸を閉ざした空家が年毎に目立つようになりました。‘かなしいほどうつくしい’とよく言います。手垢にまみれた文句と知りつつも、毎春、紅白の花に包まれた川向の風景に出会うたび、その言葉を胸の内に繰りかえしています。
2008年04月21日
コメント(2)
昨日、今日と、車で奥三河を廻りました。満開の時期は過ぎても、桜の花も桃の花もまだ多く枝にとどまっていて、遅い田舎の春を満喫することができました。撮影枚数は約400枚。しばらくの間、連休前の静かな山村風景や、8ヶ月振りに再会した木造校舎たちの画像を掲載していく予定です。よろしくお付き合いください。(1枚目:北設楽郡東栄町御園地区にて 2枚目:同郡豊根村上黒川地区にて撮影)
2008年04月20日
コメント(2)
何と美しいのだろうと思います。こんもりと茂った山の樹木、その間隙から盛り上がる白い山桜は、きめ細かな肌を持つ女性の乳房のようです。道を歩きながら、あるいは車窓から、すがる嬰児のように自分はそれらを見つめています。かって、人の眼にインパクトを与える写真を目指し、コントラスト強い絵を写そうとつとめてきました。けれどそれは間違いであったと、再びまみえる日本の景色に気づかされます。陰の中に隠された微妙な諧調、平凡に見える景色の中の非日常、カリフォルニアの強い陽射しを逃れた今、改めて視ることに徹した者の悦びを、たとえばこんなに小さな発見の中にも自分は実感できるのです。
2008年04月17日
コメント(8)
規模と外観から察すると、どうやら元タウンホールのようです。色褪せたリースは、疾うに滅び去ったダウンタウンとその繁栄に尽くした人々に手向けられたのかもしれません。同地区をリゾート地として見直す動きもあるようで、廃墟から少し離れた場所では、新しいログキャビンとキャンプを楽しむ家族の姿が見られました。この建物に人の息吹がよみがえる日を想像しつつ、自分は路肩に停めた車へと引き返しました。
2008年04月16日
コメント(0)
道を挟んで廃墟と向かい合う丘の上には、バラックの住宅が建っています。貧しげな家は、現在も人の住む気配を漂わせていました。
2008年04月15日
コメント(2)
かってここには、三つのホテルと二つの教会、いくつかのサロン、ビール醸造所、貸し馬屋、鍛冶屋、レストラン、郵便局、商店などが軒を連ねていました。けれど今、公共の建物として残るのは、この小さな郵便局ひとつきりです。仲良く並んだ椅子は、過ぎた日の客人のため用意されたのでしょうか。
2008年04月14日
コメント(0)
広大な草原を背に、日干しレンガ造り・石造りの建物の廃墟が並んでいます。Campo Secoの町は、メキシカンによって1849年に設立され、1854年の大火でほとんどを消失しました。いま見られるのは、その後に再建されたメインストリートの建築群です。またある資料には、初めはオレゴンの探鉱者によって開発され、Oregon Cityと呼ばれる時期もあったと書かれています。金鉱としての時期は1年足らずでしたが、豊富な銅の産出が町の繁栄を保ってたとのことです。
2008年04月14日
コメント(2)
Valley SpringでHighway12を左にそれ、曲がりくねる山道をしばらく走った先、その町の跡は、人を驚かすように姿を現します。地名のSeco はスペイン語で「乾いた」という意味、英語では‘Dry Camp'になります。その荒涼とした景色に、あまりにもふさわしい名前でした。
2008年04月13日
コメント(4)
以前に紹介した、Sutter CreekにあるThomas Baugh工房にて。ただしタイトルは私が勝手につけました。写真を見直すと、日本に戻った自分の、今の気持ちに感応するものがあるような気がしてきました。人は土に還り、ふたたび土より産まれる。そう信じたくなる作品です。
2008年04月12日
コメント(4)
こんどの11日、日本に一時帰国します。いつも行く、小さな食料品店でそう話したら、店員さんたちがびっくりしていました。「でも、たった2週間なんだ」とつけ加えると、拍手をしてよろこんでくれました。うれしいのか、かなしいのか、複雑な気分です。まあ、こちらにも自分の´居場所´が出来つつあると、よい方向に捉えておきます。
2008年04月06日
コメント(10)
一見、普通の民家のようです。しかしこの建物も、1850年代に建てられた靴屋さんの店舗とのこと。レリーフの紋章が何とも可愛らしかったです。Mokelumne Hillの紹介はこれで終わります。町の公式ホームページのurlを載せておきますので、さらに興味ある方はこちらをたずねてみてください。http://www.mokehill.com/(なおMokelumne Hillは、1906年サンフランシスコ大地震のドキュメンタリーフォトでその名を知られる女流写真家、Edith Irvineが暮らした町でもあります。'HISTORY'または'PHOTOS'のコンテンツで、彼女のいくつかの作品を鑑賞することができます)
2008年04月06日
コメント(0)
その廃墟となった店舗の門の傍らにあった電話ボックスです。フレームは鋳鉄製の立派なものでした。
2008年03月30日
コメント(4)
廃業したお店(ベーカリー?)の看板です。その店舗は比較的新しい建物なのか、ガイドパンフレットに何の由来も記されていません。しかし咲き初めた春の花との対比は、過疎の町を故郷に持つ自分にとって、とても近しく、せつないものに感ぜられました。
2008年03月30日
コメント(2)
日曜の朝、タウンホールからはゴスペルソングの合唱が聞こえていました。この建物は1901年の築です。100年の時が流れても、歌声は同じように響きつづけています。
2008年03月24日
コメント(6)
Mokelumne Hillの中心部です。いちばん大きなビルは、I.O.O.F,(International Order of Odd Fellows) Hallと言います。1階と2階は1854年築、1861年に3階が追加されました。ゴールドカントリーでもっとも古い三階建のビル、そして豪華な石造建築の例だそうです。屋上にあるパラボラアンテナは、現在も使われている証しとして目をつむっておきましょう。
2008年03月23日
コメント(4)
ゴールドカントリーのマザーロードと呼ばれるHighway 49沿いには、大小の古い町が点在しています。中には、魅力ある街並みを持ちながら、観光施設らしきものを置かないため、ツアー客からスキップされる町も少なくありません。JacksonとSan Andreasの中間に位置するMokelumne Hillもそのひとつです。自分が最初に訪れた2月中旬、ちょうどアーモンドツリーやプラムツリーの開花直後で、高台の駐車場の見下ろす住宅地は、桃源郷さながらの景観を呈していました。しばらく、この町の様子をお伝えしていきます。
2008年03月17日
コメント(2)
日本から来た人を何度かゴールドカントリーに案内しました。素直に感動してくれて二度三度と再訪した人、「何もないところだ」とこぼしてそれっきりの人――反応ははっきりと分かれました。これは、日本で奥三河に人を案内した時と同じです。自分の好みを無理強いしたくはありません。むしろ一人の方が、写真を撮るのに集中できます。でもやっぱり、「いっしょに出かけてよかった」と言われると嬉しくなります。単身赴任も半年過ぎて、すこしさみしくなっているのかも知れません。(写真はSutter Creekの彫刻工房にて)
2008年03月15日
コメント(4)
橋の袂の辻を左に折れると、深い渓谷に沿って無舗装の道が延びています。自分も歩いてみたけれど、どこまで続いているか見当もつかないので途中で引き返しました。普通、カリフォルニアでは、公園施設等の例外をのぞくと、草地や藪は柵囲いされていて中に立入ることはできません。自由気ままに異国の大地に触れる貴重な機会です。もちろん、安全には充分な配慮をしなければいけませんが……。
2008年03月10日
コメント(8)
Knight's Ferryのシンボル、Covered Bridgeです。最初の橋は1860年に造られ、1862年に洪水で流されました。その後、8フィート高い位置に再建されたのが現在の橋です。当時、鉄は貴重品で入手困難だったため、木造の橋に小屋がけをして、耐久性を高めたと聞いています。今は車は通れず、歩行者専用となっています。ところどころ補修の跡があって、大切に保存されていることがうかがえます。
2008年03月09日
コメント(6)
もうすこし、Knight's Ferry散策にお付き合いください。町の中心地を離れ、橋に向かって土の道を引き返します。なだらかな丘のふもとにあるのは、先週24日に載せた写真の右側に写っていた建物です。最初はCovered Bridgeの、後には旧水力発電所の管理者が使用していたようです。なんだか、たましいを獲られそうな眺めです。青空は薄雲をともない、ずうっとこんな感じでひろがっていました。
2008年03月02日
コメント(2)
さらに坂をのぼって辻を右に曲がると、Knight's Ferry Methodist Churchの建物が見えてきます。モノクロコピーの簡素なガイドブックからその略歴を引用してみましょう。"This building was constructed in 1890 to replace the original(built in 1860)which was torn down. They salvaged the pews, altar,--and upper panes of the windows from the old church to be used in the new one."単純ながら心に迫るものあるこの建築は、アメリカがまだ豊かでなかった頃の人々の艱難辛苦と愛着を、静かに語りつづけているようです。
2008年03月02日
コメント(6)
こんな小屋に出会うと、日本の田舎にワープしたような気がしてきます。(Knight's Ferryの住宅地にて)
2008年02月25日
コメント(4)
カリフォルニアはすっかり暖かくなって春の花が咲きはじめました。アーモンドツリーの白い花を見ると、最初の訪米から一年経ったんだと実感します。先週、Knight's Ferryという町に行ってきました。この町もGold Countryの一員で、古い木製の小屋掛けをした橋=Covered Bridgeがのこっていることで知られています。橋の袂に近い三叉路で、聖職者風の装束に身を包んだ男女が小さな女の子を連れて散歩する姿を見かけました。無舗装の道とその両端にたたずむ廃墟に、昔の絵から抜け出してきたような人々――思わず時を止めて眺めていたくなる、でも近づいたらふと消えてしまいそうな光景でした。
2008年02月24日
コメント(4)
黄金に憑かれた人たちの残像がやどる町
2008年02月18日
コメント(8)
橋を渡れば、その希いはかなう
2008年02月10日
コメント(6)
やっとネット接続ができるようになりました。また週に一回は、近況をアップしていきたいと思います。今後もよろしくお願いします。
2008年02月04日
コメント(16)
この日曜、正式にホテルから新居へ引っ越します。ネット接続がまだ申し込めていないため、しばらくこのブログもお休みになります。けっしてこのまま消えないように心がけますので、復帰の時まで待っていてくださいね。
2007年11月17日
コメント(6)
家が決まりました。二階建ての真っ白な家、2バスルーム・3ベッドルーム、電気・水道・ガーデンメンテナンス込みで月に1,500ドル、信じられないコンディションです。オーナーさん(前の住人)が女性の一人住まいだったため、内部はとてもきれいです。こう書くと‘めでたしめでたし’ですが、仕事の方が、ラインオフ=生産開始まで1ヶ月という状況と、個人的な環境変化や引越しづかれが重なって、正直、肉体的にも精神的にもまいっています。社内で「あいつはぜったいに仕事で死なない」と言われ、打たれ強さだけで通ってきた自分でも、今回はさすがにきついです。でも、いたずらに休息が無いと嘆くより、たとえわずかな時間でも、みずから進んで安らぎの機会をもとめるべきでしょう。……そう、歩きながら考え、進みながら休む。これまで自分が日本でしてきたように。写真の中の彼も、同じ心境でボートを漕いでいたのかな。撮影の直後、こちらに向かって手を振ってくれました。
2007年11月04日
コメント(2)
土曜の朝、ホテルの窓から外を見ると、深い霧が街にたちこめていました。自分はカメラを片手に外へ出て、川沿いの通りへと向かいました。ところが、30分もしないうちに霧は手品のように消えてしまったのです。けっきょく撮影できたのは、街路樹の影を映した1枚だけでした。午後、この件をアメリカ人の友人に話したら、彼のもとにも、「すごい霧だ」とわざわざ電話してきた人があったそうです。それくらい、地元の人にも珍しかったのでしょう。写真は、北設楽郡設楽町の長江地区付近で撮影した、霧をこめた杉林です。
2007年10月15日
コメント(4)
あたたかいカリフォルニアですが、さすがに夏の匂いは遠ざかってしまいました。こちらへ来てから忙しくて、なかなか写真を撮りに行くこともできません。今回も、前に日本で写した絵を載せておきます。データを見ると、ちょうどこの時期の写真です。日暮時、フリーウェイの高架から、同じような色の空をのぞむ時もあります。
2007年09月30日
コメント(4)
これも去年の夏に撮った写真です。現代語の「眺める」よりも、古い下二段動詞のそれがぴったりくる彼の表情(?)でした。
2007年09月15日
コメント(4)
これは昨年の夏の終わりに撮った写真です。島根と鳥取の県境の辺りを走っていたら、大雨で道が川のようになり、まったく動けなくなりました。ここカリフォルニアでは、ほとんど雨が降りません。この写真を見返すと、日本の夕立のたたきつけるような雨音が耳元によみがえってきます。
2007年09月10日
コメント(6)
全1171件 (1171件中 1-50件目)