「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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(八)~
「パリスの壺」
(八)
「歩美先輩、きょうは元気ないっすね。風邪でもひいたんですか」
二人きりデスクに残った時を見計らったように、後輩の男性が声をかけてきました。
「寝不足なの。ゆうべ変な夢を視て起きてから、ずっと目がさえちゃって」
「わかった、彼氏と喧嘩したんだ」
「彼氏、私が?」
「最近明るくなった、あれは絶対男が出来たせいだって、みんなが噂してますよ」
「いやあね」と言いながらも、私だって女です。嬉しくないはずはありません。思い切って彼のこと話しちゃえ。軽薄な衝動が私をそそのかしました。
「すごくハンサムな人なの。私にはもったいないくらい」
「やっぱり。社内の人ですか」
「ううん、会社とは関係ないわ。彼ね、日本人じゃないの」
「えっ、外人さん。どこの国の人なんです」
「たぶんギリシャだと思う」
「たぶんて、そんないい加減な。名前は、何とおっしゃるんですか」
「パリスっていうの。格好いいでしょ」
「パリスといえば、ギリシャ神話に出てくる美青年と同じ名前ですね」
「あなたやけに詳しいのね」
「これでも文学部出身ですよ。見損なわないでください」
「だったら、もっといろいろ知ってるでしょ。お願い、彼のこと教えてちょうだい」
「あの、僕が言ってるのは神話のパリスでして」
「それでもいいから、教えて」
「いやまいったな。話がけっこう複雑だから、ご自分でギリシャ神話の本を読んだ方がいいと思いますよ」
「つまるところ、パリスはいい人なの?」
「やっかみ半分で言わせてもらえば、史上最低の女たらしですね。全男性の敵ですよ」
「女たらし?」
「ゲーテの『ファウスト』を読んだ時は、やきもちを通り越して頭に来ました。なにしろ衆人注目の中で、絶世の美女ヘレネとラブシーンを繰り広げるんですから」
熱い群雲が胸に広がり始めました。まさか、あのパリスに限ってそんなこと。「そうそう。女たらしといえば、××さん会社辞めるそうですね。あの相手知ってますか。なんと、××先輩だったそうです」
夢に視た後輩と、彼女と一緒に私の陰口を言っていた男性のことです。いっしゅん緊張の糸が、私の中で張りつめました。
「あの相手って、何のこと」
「知らなかったんですか。それじゃ、まずいこと言っちゃたな」
「ぐずぐずしないで、早く言いなさいよ」つい、声に力が入りました。
「言いますから、そんな大声出さないでくださいよ。実は××さん、妊娠してたんですって。もちろん中絶したんですが、そのあと頭がおかしくなっちゃって、どうも病院行きだそうです。お気の毒に」
* * *
あの夢は本当だった。おそらくおばあちゃんや、海で出会った友達の変わり果てた姿も。だとすれば、パリスのいないベッドにすがる自分の姿も、やがて現実のものとなるのでしょうか。それならいったい誰が、私から彼を奪おうとするのでしょうか。
その謎を解く鍵を求めて、私は、『ギリシャ神話』と『ファウスト』、後輩の言っていた二冊の本を購入しました。
部屋に帰り、さっそく『ギリシャ神話』の方からひもときました。目次を調べても彼の名前は出てきません。巻末に索引があることを知り、そちらで確かめると・・・・・・あった! さっそくそのページを開き、両目に全神経を集中させました。
≪パリスは、トロイア王プリアモスの息子だったが、夢占いによって『国を滅ぼす者』と予言され、野に捨てられて牧人となった。
ある時、アテナ、ヘラ、アプロディナの三女神が、『一番美しい方』に与えられる黄金の林檎をめぐって競い合い、その審判者にパリスが選ばれた。アテナは功名手柄を、ヘラは力と富を、そしてアプロディナは世界一の美女を、自らの勝利と引換えに与えようと彼に告げ、けっきょく美女をのぞんだパリスはアプロディナに黄金の林檎を与えた。
その約束通り、パリスはアプロディナの保護のもとギリシャに渡り、スパルタ王メネラオスの妻ヘレネを誘惑してトロイアに連れ帰った。怒ったメネラオスはギリシャ全土の族長達に協力を求め、大艦隊を組織してトロイアに攻め渡った。これが、叙事詩『イリアス』に吟われた、名高いトロイア戦争の発端である。
最低の女たらし――私はちらりと、パリスに疑いの眼差しを向けました。けれどすぐに机に向き直り、今度は『ファウスト』を手に取りました。分厚い本の中から、目的の箇所を探すのは容易なことではありません。始めから一ページずつ斜め読みで追っていき、ようやく第二部・第一幕に『パリス登場』の副題を見つけました。
《貴婦人 まあ、なんというきれいな若者でしょうねえ。
第二の貴婦人 みずみずしい、採りたての桃みたいですわ。
第三の貴婦人 唇がやわらかな線を描いて、なんとふっく
らしていることでしょう》
パリスはすぐに腰を降ろし、すやすやと眠ってしまいます。貴婦人達はその愛らしさを褒めそやし、紳士達はやっかみ半分のけちをつけます。そこへヘレネが現れました。
《天文博士 正直のところを申さば、
これほどの美人がまたとあろうか。
こういう美人が出てきたのでは、どれほど弁舌が冴えていて
も、どうにも形容の言葉がない。
美人については昔からいろいろなことがいわれてきたが、
この女を見ては、うっとりぼんやりしてしまって、まず手
も足も出ない。この女を手に入れたやつは、仕合わせ者ど
ころのさわぎじゃなかったわけだな》
この台詞で、私はたちまち物語の中に引きずり込まれました。汗をかいた親指がページに染みをつけました。こめかみの辺りで打つ脈が、ずきずきと頭の中で響いています。
《貴婦人 エンデューミオンとルーナですわね、まるで絵のよ
うだこと。
さきの詩人 全くその通りですな。女神は身をかがめようと
するらしい。
上から身をかぶせて、若者の息を吸おうとする。
羨むに堪えたりですな――接吻か――もう堪らん》
なにをやきもち焼いてるの。こんなの作り話よ、そう自分に言いきせても、頭に浮かぶ艶色たっぷりな情景から、とても逃れることはできません。
《延臣 女は軽やかに身を引く。男が目を覚ました。
貴婦人 女はうしろへ振り向きますわ、大方そんなことだろ
うと存じておりました。
延臣 男は驚いていますな。なにしろ男の身の上に起こった
ことは、奇蹟のようなものですからな。
貴婦人 目の前に見ていることは、女にとって奇蹟でもなん
でもないのでございます。
延臣 しとやかに若者の方へ戻って参りますな。
貴婦人 たらしこむつもりね、わかっていますわ。
こんな時、殿方って本当にだらしない。
自分が最初だぐらいに自惚れるのですからね》
駄目よ、パリス。その人から逃げて! もはや私が接しているのは、活字で出来たお話ではありません。私は、ファウストやメフィストフェレス、その他大勢のやじうまに混じり、騎士の間で繰り広げられる古代の恋愛劇に居合わせていたのです。
《天文博士 もう小僧どころか。若者は大胆な英雄になって、
女をぐっと抱き寄せる。女は抵抗できない。
愛によって高められた力で女を高々と抱き上げたぞ。
どこかへ連れ去ろうというのだろうか。
ファウスト 不届き者めが。
なんということをするのか。やめろ、過ぎるぞ。
メフィストフェレス あんた、自分も狂言芝居の役者を買っ
て出ちゃ困りますなあ。
天文博士 もうひと言、いわせていただきましょう、
私はこれまでの成行一切から見まして、この劇を「ヘレネ
の掠奪」と名づけたいのです》
もう我慢がなりません。私は、本をテーブルに叩き付けて立ち上がりました。そして整理棚に据えたあの壺を手に取り、血ばしるまなこで睨みつけました。
成り行きいっさいが解れば、その絵物語を読み解くことは簡単です。日傘を持つ貴婦人を相手に、汚らわしい媚態を演じる男は、パリス、本当にあなたなの? 壺を回し、反対側の胴に描かれた図柄をしっかりと確かめました。
それはなんとも残酷な、しかし予想した通りの答でした。三人の女性を前に、一段高いところから林檎を差し出す男の顔は、表に描かれた誘惑者と瓜ふたつだったのです。
「私にあんなことを言っておきながら」呷くように呟いて、私は身につけたものを脱ぎました。ベッドに近付くと乱暴に布団を剥ぎ、青白い蛍光灯の光に濡れた彼の裸に挑みかかりました。
正直に言います。その時私を動かしたのは、身体の中を掻きむしる嫉妬と、それを火種に燃え上がった初めての性欲でした。彼の唇にあてる乳首は痛いほど尖り、太腿に擦りつける性器は熱く充血し、彼の下腹へと這った手は、それまで一度も触れたことがない男性自身をその内に収めました。
「やっぱり、あなたもきれいな女が好きなの? 私のようなブスは相手にしたくないと言うの?」いくら刺激を加えても、それは頼りなく頭を振るばかりです。もどかしさに気が狂いそうになりました。ついに秘めておくべき言葉が、激しい息づかいに混ざりこぼれてしまいました。
「お願いパリス、私を抱いて」
(九)
びくり、と彼の身体が動きました。急に輝きを増した瞳が、大きく左右を確かめるように揺れました。私が身を離したわずかな隙に、彼はすっくと身を起こしベッドから降り立ちました。
彼のまなざしの先には、白い靄が渦巻いていました。靄はだんだんと凝固し、女性の立姿を形づくりました。完璧に均整がとれた身体と、ルネッサンス絵画から抜け出たような美色燦然たる顔だち。金色の髪を乳房の上で弄びながら、彼女はやるせなさそうにしなをつくりました。
それを見て、ゆらりとパリスが進みでました。さっきまで私を拒んだあの場所が、おなかを打ちそうなほどいきり立ち、脈に合わせてびくびくと動きました。
「ア・ユ・ミ」と呟いて、彼は一歩二歩と前に出ました。
「パリス、いっちゃだめ」彼は、無情にも私の願いを背中で跳ね返しました。両腕を差し伸べ迎えるヘレネ、その顔は喜びと羞じらいの朱に彩られています。
パリスがその間合いに入った瞬間、ヘレネの腕が小鳥を捕らえる白蛇のように絡みつき、魂を奪い合うような口づけが交わされました。そして、ついさっき私が彼に欲したことが二人のあいだで始まったのです。
「お願い、やめて」
口ではそう叫んでも、私は目をそらすことができません。生まれて初めて目の当たりにする男女の行為、完全な結合を求め変容する二人の肉体に、私は心ならずも魅了されてしまったのです。薔薇色に染まる裸体がもつれ合って波をうち、ただひとつの存在に近付いていく過程、汚らわしくなどありません。それは、経験や思考を脱ぎ捨て原始の無垢に還った生命が、互いに歓びを与え合う劇的な光景でした。これこそ私が彼と求めた愛のかたち・・・・・・「そうよ」と、我を取り戻し叫びました。
「待って、私はここにいる。その女はヘレネ、あなたをふたたび我欲の罠に落とそうとする人よ」
わずかにパリスの目が開きました。けれどすでに時は遅かったのです。
再び目を閉じると、彼は筋肉を浮き立たせた腕で固くヘレネを抱き締めました。ヘレネもその奔流を余すことなく受け止めようと、蔓のような手脚でパリスの胴を締めつけました。快楽の頂点に彼らの身は震えます。
がくりと二人の身体から力が逃げていきました。同時に、かさを増す水のような無が、彼等の足元からせり上がってきました。脚が、胴が、胸が消え、最初から眠っているように安らぐ二人の顔だけが宙に残されました。
「パリス」と呼びかけると、ふっと彼がこちらを振り向いたように、その唇が何か言いたげに動いたように見えましたが、次の瞬間すべては消え失せ、もう確かめる術はありませんでした。
静まり返った部屋には、私とあの壺だけが残されました。涙もなく、ガラス玉のように、私の瞳は彼の面影を夜が明けるまで映していました。
「いらっしゃいませ」と言ったきり、あのご婦人は言葉を失いました。
「この壺、お返しします」私は、カウンターの上にパリスの壺を置きました。それを見た彼女は、深くため息をつきました。
「そう、やっぱりあなたも『彼』に求めてしまったのね」
「いろいろ心配していただき、ありがとうございました」
一礼するとすぐ、私は出口に向って踵を返しました。
「あなた分かってるの」扉の把手に手をかけた時、彼女の声が私の脚をとめました。
「あなたは、二度と人を愛せないのよ。だってあなたは、もう究極の恋愛を過ごしてしまったのだから」
振り向くことなくうなずいて扉を開くと、夜の冷気が一斉に私を取り囲みました。
* * *
また独りぼっちにもどりました。このままずっと連れ添う人の無い人生を送るんだ、そう考えたら、寂しさで胸がつぶれそうです。すれ違う人々は、立ちつくす私にさげすみの一瞥を送ります。けれど、私はこの人達を恨む気にはなれません。いまの私には、この人たちの隠された涙が見えるのです。
人間はどこまでも孤独な存在だから、生きることそのものが悲しみです。けれど悲しみこそ唯一人々を結ぶ絆であり、あたかも一本の果樹のようにそれぞれを繋ぎとめてくれるから、私たちは不幸という嵐にもがれることなく新しい日々を生きてゆけるのでしょう。そして愛とは、その幹や枝を駆けめぐる樹液であり、私の内にも脈々と流れているという事実を、教えてくれたのはパリス、あなたでした。どれほど言葉を尽くしても、あなたへの感謝をあらわすことはできません。
「ありがとう」ただひとこと囁くと、にじむ街の灯が光のベールとなり、私を包んでくれました。まるで、あなたの花嫁に選ばれたしるしみたいに。私にとって幸福とは、あなたの記憶に留まり続けることだから、こんなささやかな幻でも生きる勇気を与えてくれるのです。
どうぞ、見守っていて下さい。私はもう自分を傷つけたりしないし、悲しみのときにこそ、あなたの優しさに見守られていることを忘れないから。どうぞ、いつも私を眼差しの裡において下さい。たとえこの身体が滅んでも、永遠の魂があなたに出会うと信じているから。
私はふたたび歩き始めます。寂しさに後退りすることなく、あなたにさずけられた道のりを歩き始めます。だから、
このこらえ切れぬ涙を許してください。あと少し時間が経てば、あなたのため強くなった私を見せられるはずだから。それまでは、もうすこし。
『パリスの壺』了
本編中『ファウスト』の引用部分は、新潮文庫版 竹山道雄訳に拠っています。
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