「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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第一幕~第六幕
本作品は、
「るろうに剣心小説(連載1)設定」
をご覧になってからお読みいただくことをおすすめいたします。面倒とは思いますが、多少オリジナル要素が入りますので、目を通していただきますと話が分かりやすくなります。
『きみの未来』目次
『きみの未来』
第一幕「もうどこにも行かないんだ」
明治十一年。夏。今日もまぶしい光が東京下町にふりそそぐ。
「やぁっ!」
ビシィッ!!
「惜しいっ。もう少し!」
神谷道場の庭で、今日も剣心は弥彦に稽古をつけていた。弥彦の掛け声と、竹刀のぶつかりあう音が、庭いっぱいに響き渡る。薫と左之助は、二人を縁側で見ながら涼んでいた。
「どーした嬢ちゃん。この暑さでバテてんのか」
ぼんやり二人を見つめる薫に、左之助はたずねた。
「うん……」
薫は、剣心に目を向ける。
「なんでェ、また剣心が流浪に出ないか、心配してんのか? あれ見りゃあ、大丈夫だろ」
左之助は、二人の稽古を見て、にっと笑った。
「そうなら、いいけど……」
「なにぃっ!?」
薫の声を吹き飛ばすように、弥彦は叫んだ。
「だから、飛天御剣流を教えているわけではないと言ったでござるよ」
剣心は弥彦に、にっこり笑った。
「弥彦は、神谷活心流で強くなるはずでござろう」
弥彦は、ぐっと言葉に詰まった。
「弥彦、おめぇの負けだな……」
左之助は言いかけて、同意を求めようとした薫の様子に驚き口を止めた。薫は、浮かない顔をしていた。開き直りの早い弥彦も、なぜか今日はうつむいていた。
「弥彦? そんなに怒ったでござるか?」
「……別に」
弥彦が無愛想に答えて竹刀を背中にしまったとき、郵便が届いた。
「由太郎が帰ってきたー!?」
薫が由太郎からの手紙を読み終えるのもそこそこに、弥彦は叫んだ。
「しかも今日!? 俺一人で河原に来いって!?」
「由太郎殿は、友人の弥彦に一番に会いたいのでござるよ」
剣心は、うれしそうに弥彦の肩にポンと手を置いた。
「いや、違うね。早速俺との決着をつける気なんだ!!」
弥彦は、すぐさま道場を飛び出していった。
「由太君、帰ってきたんだ。腕も完治したって!」
薫は、大喜びだった。
「あいつが、フェンシング身につけて帰ってくるなんてねェ」
左之助も、にやりと笑った。
「よっ、チビ猿!」
河原で一人、由太郎はにっと笑った。あの、二度と剣術は出来ないと言われた右腕を、高々と振りながら。
「誰がチビ猿だ。猫目野郎!」
弥彦もにっと笑い返して、由太郎が上げた手のひらにパアンと自分の手を打ちあわせた。
「ホントに治ったみてぇだな。なら早速勝負するか?」
「そのつもりだったんだけど、それは後だ。俺は今日家出する!」
「はぁ!?」
あきれる弥彦に、由太郎はムッとした顔をした。弥彦がよく見ると、由太郎の背には、旅支度のように風呂敷包みが背負われている。どうやら本気らしい。
「親父のやつ、独逸でますます商売繁盛して、ペコペコ頭下げやがって。士族の誇りってやつがまるでねぇんだ! そんなやつと暮らすのは、もうまっぴらごめんだね」
由太郎は、憤慨していた。弥彦も、「士族の誇り」を出されると、過剰反応してしまう性質がある。以前剣心から、由太郎の父の思いを聞かされていたものの、由太郎の気持ちは痛いほど分かる。彰義隊で義に殉じた立派な父を持つ弥彦にとって、尊敬出来ない父を持つ由太郎は哀れとさえ感じた。
(仕方ねぇ。一日二日位、付き合ってやるか)
「分かった。じゃあ、丸太手に入れてこい。それから丈夫な紐。あと食いもんな」
「どーするんだよ」
「イカダ作って、川下へ流れんだよ。普通に歩いたんじゃ、すぐつかまっちまうからな」
弥彦は、スリ時代の経験を思い出して言った。つかまりそうになったとき、よく川へ身を投げ込んで逃げたものだった。
由太郎はうなずくと、すぐに駆けだしていった。
にわか作りのイカダで川下に流れ続けた二人は、辺りが真っ暗闇になると岸に下りた。
「ちょうどいい小屋がある。誰もいねぇし、今夜はここで休もうぜ」
弥彦が岸辺で見つけた小屋で、二人は休んだ。
(ここまでくれば、簡単には見つからないだろ……。けど、イカダはあと一日が限界だな)
弥彦はそう思いながら、眠りについた。
次の日の夕方、イカダは半分以上崩壊し、そろそろ限界に来ていた。
「なぁ由太郎……」
夕焼け色の川で、弥彦はイカダをこぎながら、ふいに言葉を発した。由太郎も反対側でイカダをこぎながら、弥彦に目を向けた。
「お前の父上、自分のこと責めてるみたいだぞ……」
「へっ?」
あまりに唐突な言葉に、由太郎はあぜんとした。
「自分がふがいない親だって、分かってるんだってさ。でも、お前を養うためには、仕方ねぇんだって」
「だからって何もあんな……」
「俺の母上は、遊郭に身を売った……」
それきり黙ってこぎつづける弥彦を、由太郎もまた黙って見つめた。由太郎は続きを知っている。それは以前、神谷道場に稽古に通っていたとき、こっそり薫に聞いたのだ。弥彦は剣心の子でもなく、薫の弟でもない。父は彰義隊で、母は病気で亡くなった。弥彦には、父も母もいないのだ。
「おい。そろそろイカダが限界だ。降りるぞ」
弥彦たちが河原に降り立ったときには、もう日が落ちる寸前だった。
真っ暗闇の河原を、弥彦と由太郎は川下に沿って歩き続けた。
「まだ続けんのか? もうこれ以上進んでも、何の解決にもならないぜ」
由太郎は弥彦の言葉を無視して、黙って歩き続けた。本当は、弥彦の言うことはよく分かっていた。お金はあるから食べ物には困らないが、確かにこれ以上続けても何も解決しない。一生弥彦と逃げ続けるわけにもいかない。それに由太郎は、先程の弥彦の話を聞いて、ずっと考えていたことがあったのだ。
その時、突然怒濤のような馬車の音がした。二人があっと思ったときには、馬車が土手の上にきっと止まり、由太郎の父と剣心が駆け下りてきた。逃げる間もなく、二人は追いつかれた。
「由太郎……。良かった。無事で……」
「親父……。俺、聞きたいことがあるんだ……」
由太郎は、両肩に手をかけてきた父を見上げた。剣心は無言で弥彦の腕をとり、少し離れた場所へ歩いた。弥彦は由太郎たちのやりとりが気になったが、気を利かせているらしい剣心を尊重し、遠くから由太郎たちを見守った。
「親父は、俺のためにヘコヘコしてんのか? 俺、そんな親父見んの、やだよ……」
由太郎は、伏し目がちに、悲しそうに悔しそうに、つぶやいた。
「由太郎、済まない……。お前の気持ちは、いつだって良く分かってた。けれど、父さんはもう、そんな風にしか、お前を守ってやれないんだよ……。だから……」
由太郎の父は、由太郎の肩に置く手に力を込めた。
「お前には、強くなってもらいたい。そのためなら、父さんなんだってする」
由太郎は、思い出していた。強くなりたいと願う自分に、雷十太という先生をつけてもらったこと。腕の治療のために、わざわざ独逸へまで連れて行ってくれたこと。フェンシングを、習わせてもらったこと……。
由太郎は、父に抱きついた。由太郎の父は、由太郎の頭を何度も何度もなでていた。
弥彦は、会話こそ聞こえなかったものの、二人の様子から和解したことを理解し、ほっとして剣心に目を向けた。剣心は、弥彦に目を向けた。弥彦は、向けられた目にはっとした。初めて自分に向けられた、厳しい目……。
瞬間、弥彦は剣心に頬をぶたれた。
「心配……したでござるよ」
「心配? 剣心が、俺を?」
弥彦は、不思議そうに剣心を見上げた。本当に、不思議だった。薫を心配するのは分かる。好きな人だから。左之助を心配するのも分かる。友人だから。でも、自分が剣心に心配される理由が、どうしても思いつかない。
「当たり前でござる!」
きょとんとしている弥彦に、剣心は怒鳴った。由太郎はびっくりして、父に抱きついたまま半分体を弥彦たちの方へ向け、涙目で様子をうかがった。
「薫殿も、左之も、みんな心配してるでござるよ!」
怒鳴った拍子で、剣心が持つ足下を照らしていた提灯の明かりがゆれた。弥彦は、明かりに照らされた剣心の顔を見て、驚いた。
「剣心、その目の隈……」
「心配で、眠れるわけないでござろう……」
それは、いつもの優しい剣心の声だった。その瞬間弥彦は、剣心たちが一睡もせずに、必死に自分たちを探していた事実を理解した。急に胸が熱くなって、それはのどまでこみ上げてきた。
「ごめん……」
弥彦は、声が上手く出ず、かすれ声で言った。剣心の目が見られなくて、うつむきながら……。
「無事で、良かったでござるよ」
剣心は、弥彦をそっと抱きしめた。弥彦はどうしようもなくなり、剣心の背中に腕をまわした。肩をふるわせ、声を殺して泣いた。
由太郎はそんな弥彦を見て、ふぅと息を吐いて安堵した。
(さっきは、両親のいない弥彦を家出に付き合わせて、無神経なことしたかなって思ったけど、そーでもなかったみたいだな)
「どーしたの! その腫れ上がった頬!」
「誰にやられたんでェ」
神谷道場の縁側で待っていた薫と左之助の二人は、開口一番に口をそろえて言った。剣心は先程の馬車で由太郎の家へ行っていた。
二人のそばに立った弥彦は、蝋燭に照らされた二人がやはり隈を作っているのを見て、また涙がでそうになった。けれど男として、さすがに何度も泣くわけにはいかないと思い、ぐっとこらえた。
「誰って……剣心」
弥彦は、泣きそうな顔を悟られないように、ぶすっと答えた。
「えーーーーー!?」
「冗談だろ、おい!」
二人は大声で叫んだ。
「うっせぇな。近所迷惑だろ」
「なんだとこのクソガキ! お前にそんなこと言う権利はねェ!」
「そうよ! さんざん心配させて!!」
二人の言葉に、弥彦はうっとなった。
「……だから、ごめんって……」
弥彦は、ぼそっと口にした。あやまる機会をうかがっていたのに、二人の質問攻めにそのすきがなかっただけなのだ。
薫は、弥彦を眺めていたが、急にたずねた。
「弥彦、ほっぺた、すごく痛い? 思い切りたたかれた?」
「……ああ。思い切りぶたれた。すげぇ痛いよ」
めずらしく弥彦は、素直に答えた。薫は、ふっと笑った。
「なんだよ。そんなにいい気味なのかよ」
弥彦は、ぶすっとして薫を見つめた。
「ううん。ただ、うれしくて……」
「何だよ……」
弥彦は、ますますふくれっ面をした。
「ちげーよ弥彦。嬢ちゃん、剣心はもう大丈夫でェ」
左之助は、にっと夜空を見上げた。
「うん」
薫も、にっこり笑った。弥彦だけが理解出来なくて、一人不思議顔だった。
「分かんねーか弥彦。つまり、剣心はもう流浪人じゃねェ。ずっとここにいる」
左之助の言葉に、弥彦は目を見張った。
「なんで急にそーいうことになるんだよ」
「お子様には分かんねーな」
「なんだとぉ!!」
弥彦はついにいつもの調子に戻り、左之助につかみかかった。
「落ち付けって。お前もそのうち分かる。今は、ぶたれた頬に手ェ当てて、これだけ思ってりゃあいい」
左之助は、無理矢理弥彦を縁側へ座らせると、しゃがんで弥彦に視線を合わせた。
「剣心はもう、どこにも行かねェ」
左之助の確信を持った言葉に、弥彦はそっと、熱を持った頬に手を当てた。
「そっか。もう、どこにも行かないんだ……」
弥彦は、そうつぶやくと、急に張りつめていた糸が切れるように薫によりかかって眠った。
☆あとがき☆
第一幕なのですが、二話分くっつけてしまいました。本当は第一幕は、冒頭の修行シーンから始まる平穏な日々だけだったのですが、平穏だけで終わってしまう話に疑問を感じて、こうなりました。次回より、剣心・薫・弥彦は、ある転機をむかえます。
第二幕「師範代の涙」
神谷道場の朝。炊事場では剣心が飯を炊きたくあんを切り、弥彦はお膳や箸を並べる手伝いをしていた。
「おはようございまーす」
突然の来客は、由太郎だった。
「お前は相変わらず常識はずれな時間に来るな」
出迎えた弥彦は、あきれてため息をついた。
「仕方ないだろ。俺、学校あるし」
「お前、学校通ってたっけ」
確か、以前の由太郎は、学校へ行けるだけの家庭環境だったにもかかわらず、本人が父に反発して剣の腕を磨くことを優先したと弥彦は記憶している。
「独逸で腕の治療中、学校へ行ったんだ。そしたらけっこう楽しくてさ。それにいろいろ知ってると、剣術に役立つことも……あっ、剣心さん!」
「おはようでござるよ。由太郎殿」
ひとしきり朝餉の準備を整えた剣心は、優しく由太郎を出迎えた。
「おはようございます。昨日は、ごめんなさい」
由太郎は、家出の一件を詫びた。
「いや、お父上と仲直り出来て良かったでござるな」
剣心は、由太郎に優しい笑顔を向けた。
(なんなんだ剣心の奴。俺のことは思い切りぶったたいて怒ったくせに……)
弥彦はそう思いながらも、不思議と怒りがわいてこなかった。それどころか、ほのかな優越感を感じてさえいた。自分でも、訳が分からなかった。
「あの、薫さんは?」
「ああ、薫ならまだ寝てるぜ。あいつ低血圧だから、朝飯が出来る頃やっと起きてくるんだ」
弥彦は仕方なさそうに、薫を起こしに向かった。
「由太君!」
弥彦と由太郎が道場で待っていると、支度を整えた薫が笑顔で入ってきた。
「薫さん……。あの、ただいま……」
由太郎は、頬を赤らめて、もじもじとお辞儀した。
「お帰りなさい。由太君」
薫はそっと由太郎の手を取ると、由太郎は恥ずかしそうに笑った。
「……!!」
弥彦は薫の行動に過剰反応した。さっきの剣心の時とは正反対に、猛烈な嫉妬心が体をかけめぐる。
(くっそぉ薫の奴いつも由太郎ばっか……! だけど由太郎の奴、いまだに薫が好きなのか)
「薫さん……。俺の札、かけてくれたんだね」
由太郎は、道場の札を見つめた。師範代 神谷薫。門下生 明神弥彦。その横に、塚山由太郎(予定)とある。
「ありがとう薫さん。俺、とってもうれしいよ。でも……」
由太郎は、申し訳なさそうな笑顔で続けた。
「札、はずしてほしいんだ」
由太郎は、柔らかい口調の中にもきっぱりとした意志を込めて言った。
「……そうね。そうだったわね」
薫は、そっと、塚山由太郎(予定)と書かれた札をはずした。
「フェンシング、頑張ってね」
薫は、由太郎にほほえんだ。けれど弥彦は、薫のさみしさをかすかに感じ取った。
「頑張れったって、日本にフェンシングの先生なんかいるのかよ」
弥彦は、門下生を失った薫の気持ちを思うと、つい喧嘩腰に口をはさんだ。
「ヘヘン。実は独逸で出会った腕の立つ先生に、専属の先生になってもらったんだ。だから今、先生は日本にいるんだ。親父が家の近くに、住むところを世話したんだ」
由太郎は、この上なくうれしそうだった。
「おい、わざわざ日本まで連れてくるなんて、いくら金払ったんだよ! まさかまた、雷十太みたいな奴じゃないだろうな」
「弥彦!」
薫は弥彦を怒鳴りつつも、心配そうに由太郎を見つめた。由太郎はてっきり怒って弥彦につかみかかるかと思ったが、反対に幸せそうに笑った。
「お金は、稽古代だけだよ。親父が余分に払おうとしても、受け取ってもらえないんだ」
薫と弥彦は、顔を見合わせた。
「雷十太のことがあったから、俺、今の先生はちゃんと自分の目で見て確かめた。フェンシングの強さだけでなくて、先生の生き方とか……。俺、いつのまにか先生に憧れて……、先生のこと一番尊敬して……」
弥彦は、いつの間にか剣心を思っていた。
「そしたら先生が、俺のこと見込んでくれて。俺に跡を継いで欲しいって言ってくれて……。日本にも、先生からついてくるって言ってくれたんだ」
由太郎は至福の笑みをこぼすと、はっと学校へ行く時間に気付き、あわてて去っていった。
薫と弥彦は、だまって由太郎が去るのを見つめていた。
「弥彦。今日も少し稽古するでござるか」
朝食後、いつものように剣心は弥彦に声をかけた。道場の稽古がある日は、その前に剣心と稽古をするのが日課になっていた。ところが今日は、弥彦は剣心をにらみつけた。
「弥彦?」
不思議顔の剣心を見ながら、弥彦は思いだしていた。
『別に飛天御剣流を教えている訳ではござらんよ』
『弥彦は「神谷活心流」で…活人剣で強くなるでござるよ』
同時に、薫の顔が思い浮かぶ。由太郎の札をはずした薫。門下生は、自分一人だけ。さみしそうに見えた薫……。
弥彦はくちびるをぎゅっとかみしめ、うつむくと、低い声で言った。
「もう、剣心から稽古は受けねぇ」
走り去る弥彦を、剣心は考え深げに見つめていた。
弥彦が道場に入ると、稽古着の薫は、自分と弥彦の名前だけになった札を見つめていた。
「ったく、いつまで落ち込んでんだよ。由太郎なんか、初めからただの予定生だったんだ。あんな奴いなくたって、俺が跡継ぎになってやるからだいじょうぶだって」
薫は、しばらく黙ったままだった。そして、急に凛とした顔で弥彦に向き直った。
稽古開始。弥彦は薫に鮮やかな面を打ち込んだ。今や弥彦の剣術は、十歳としては並はずれた実力を持っている。特に基本の面打ちは、非の打ち所もない程完璧だった。今打ち込んだ一本も、正に完璧だったはずだが……。
「……ふざけないで!」
薫は、厳しいまなざしを弥彦へ向けた。
「師匠をばかにするのも、いいかげんにしなさい!」
きつく叱られた弥彦だったが、薫の言葉の意味が皆目不可能だった。
「何……、怒ってんだよ……」
薫のあまりに激しい剣幕に、さすがの弥彦もいつものように怒鳴り返さず、抑えて聞いた。
「実力を抑えた打ち込みなんて、相手にとって失礼よ! まして私はあなたの師匠なのよ」
「薫……」
弥彦はとまどった。薫の言ったことは、本当だった。今の弥彦は、確かに薫に対して実力を出していない。全力を出さずとも一本とれればいいと思っていたし、薫に技術だけを教わっていけばいいと思っていた。けれどそれは、自分への言い訳でもあった。本当は、自分が全力を出したらどうなるか、分かっていた。それは、絶対に良くないことだと思っていた。けれど、薫は今、それを望んでいる。薫の言うことも、痛いほど分かる。けど……。
「かかってきなさい。弥彦」
薫は、師匠としての威厳にあふれた姿で弥彦の前に立った。
(これが……、俺の師匠……!!)
弥彦は、初めて薫の師匠としての偉大さを感じ取った。そして、叱咤されながらも、いつも全力で剣を教えてくれたことを思い出した。だからこそ、本気でかからなければならないと思った。
弥彦は、竹刀をかまえて薫を真剣に見据えた。そして、飛び込み面でありったけの実力を込めて、パアンと薫の面を打った。
ダーンと薫は床に倒れた。弥彦は、倒れたままの薫を、はぁはぁしながら見つめていた。そのまま、しんとした時が続いた。
「……薫」
いつまでも起きあがらない薫をのぞきこんだ弥彦は、はっとした。薫は、目に涙をためて、じっと泣くのをこらえていたのだ。
「薫……」
「弥彦。すごくいい一本だったわ」
薫は上半身を起こし、にっこり弥彦に笑った。そのとたん、涙が一筋頬を伝った。
「薫……」
「あっ、ごめんね。あなたがあまり成長してたものだから、うれしくて。本当よ」
薫は面をとると、手のひらで涙をぬぐった。
稽古後、弥彦は一人河原の土手にあおむけに寝ころび、ぼーっと青い空を見ていた。様々なことが、弥彦の頭をかすめていく。
『俺、いつのまにか先生に憧れて……、先生のこと一番尊敬して……』
由太郎は、その先生の跡継ぎとして、フェンシングを習っている。
『弥彦は「神谷活心流」で…活人剣で強くなるでござるよ』
一番尊敬していて、あこがれている剣心は、そう望んでいる。
『あなたがあまり成長してたものだから、うれしくて。本当よ』
そう言いながら、涙をこぼした薫。
弥彦が憂鬱そうに空を眺めている頃、薫は洗濯物をとりこんでいた剣心に声をかけた。
「剣心。あなたにお話があるの。これは、個人の私ではなく、神谷道場師範代として」
薫は、剣心と二人、客間へ入った。
☆あとがき☆
今回のテーマは「師匠と弟子」です。薫、弥彦それぞれがお互いを大切に思うからこそ、二人は悩みます。ひたすら剣心を目指して成長してきた弥彦。そして得た、十歳としては強すぎる実力が、自分自身を試練の道へと導いてしまうことになるのです。薫の涙の真意は、次回で明らかになります。
第三幕「それぞれの思い」
家の奥にある客間。狭いがきちんと床の間に掛け軸がある立派な部屋だ。普段入る機会が少なく、たたみも他の部屋よりきれいである。そんなかしこまった部屋に剣心と薫が二人で入るのは初めてだった。薫は剣心に上座をすすめ、自分は向かいに座った。
「どうしたでござるか? 改まって」
剣心は、いつもの優しい笑みを浮かべてたずねた。薫は、そんな剣心に胸がいっぱいになり、涙があふれそうになった。今日は涙腺がゆるくなっているようだと思ったが、薫は今師範代としてここにいるのだと思い、黙って耐えた。
「薫殿? あっいや、神谷道場の薫先生と呼んだほうがよいでござるかな?」
薫は黙ってかぶりをふると、意を決して顔を上げた。
「あっ、あのね……」
薫は剣心を真剣に見つめた。けれど、いざとなると言葉が出てこない。薫は、自分の中のわがままな気持ちと弥彦の大事な将来への思いとで葛藤していた。
「薫殿、ゆっくりでいいでござるよ。それに、事情はよく分からぬが、話したくないのなら無理に話さなくてもいいでござる」
剣心の一言で、薫は体のよけいな力が抜けた気がした。軽くため息をつくと、心が楽になっていく。薫が辛いとき、いつも剣心は心を癒してくれる。
薫は、ふっと微笑し、いつものように話しだした。
「今日ね、稽古中弥彦に泣かされちゃった」
「弥彦に?」
薫は、少し顔を赤らめて続けた。
「非道い子よね。師匠を泣かすなんて……」
薫は、独り言のように静かにつぶやいた。剣心は、黙って次の言葉を待っている。弥彦が悪意で薫を泣かせたのではないことは、薫の様子を見れば一目瞭然だった。第一、弥彦がそんな子ではないことは良く知っている。
「弥彦にはこう言ったわ。あなたが強くなってうれしくて泣いたって。それは本当よ」
薫はそこまで言うと、急に表情に影を落とした。
「でもね、同時にさみしかったの。だって弥彦は、道場では、生意気だけど一番大切な……可愛い教え子だもの」
ここまで聞いただけで、剣心は薫が直接口にしないことも含め、大まかなことは理解した。つまり弥彦は、薫を超えてしまった。それに気付いた薫はうれしいけれど、弥彦の成長のためにもっと一流の道場へ通わせなければならない。そう思っているのだと。
「薫殿、済まぬ。実は拙者も、弥彦の実力が薫殿を越えていたのは知っていたでござるよ」
薫は驚いたが、しだいに怒りと悲しみがこみあげてきた。
「だったら……、なんで教えてくれなかったのよ……」
薫は、こみあげる涙を必死で抑えた。
「済まぬでござるよ、薫殿」
剣心は目をつぶり謝罪したあと、穏やかに笑い、話を続けた。
「けれど、良いではござらぬか。弥彦は、神谷活心流の跡継ぎでござる。なにも手放すことはない。まだ奥義も覚えていないではござらぬか」
「あの子なら、一週間で奥義を会得出来るわ。それに……そういう問題ではないの」
薫は冷静な気持ちに戻り、伏し目がちに膝に目を落とした。
「今日、由太君が言ったわ。フェンシングの先生に強い憧れと尊敬の気持ちを抱いているって。すごく幸せそうだった……。弥彦があなたを思う気持ちとそっくりだったわ。知ってる? 葵屋の戦いでは弥彦、見様見真似で龍槌閃を使ったのよ」
剣心は驚きの表情を見せたが、今朝のことを思い出しふっと笑った。
「それは違うでござるよ。今朝、弥彦は拙者からは稽古を受けぬと言ったでござる。由太郎殿がその先生についていく姿勢を見て、弥彦も薫殿だけについていく決心をしたでござるよ。だから、拙者の稽古は受けぬと言ったのでござろう」
薫は驚いたが、やがて微笑して言った。
「弥彦は優しい子だから。由太君が道場の札をはずしたから、自分だけは道場を継ぐって姿勢を見せたかったのね……」
薫は顔を上げ、剣心をみつめ笑った。
「そうでなければ、あなたの稽古を受けないなんて言うはずがないわ。あの子が初めて剣心に稽古をつけてもらったとき、どんなにうれしそうだったか」
「けれど拙者は、弥彦を怒らせてしまったでござるよ。飛天御剣流を教えていると勘違いさせてしまったでござる」
剣心は苦笑した。けれど、薫はその言葉にするどく反応した。
「そう思うなら、弥彦の気持ちは分かるでしょう?」
強い口調の薫に、剣心も真顔に戻った。薫は、剣心の目を真剣に見つめた。そのまま薫は、剣心の何かを確かめるように見つめ続けた。そして言った。
「弥彦に、飛天御剣流を教えてあげて」
「薫殿……」
驚く剣心に、薫は続けた。
「弥彦には、近いうちに奥義を教えて神谷道場を卒業させるわ。さすがに、免許皆伝はあげられないけれど。だからこれからは、あなたの剣を教えてあげて」
薫は、心を込めて剣心にたのんだ。本当は弥彦を手放したくない。けれど、弥彦の為に一番良い道を開くのが、師匠としての最後の務めだと思った。
「薫殿……。拙者は飛天御剣流を誰にも教えるつもりはないでござるよ。特に弥彦には、教えたくない」
剣心は、困ったように笑って言った。
「何故? あなたは弥彦を一番に見込んでいるじゃない」
「だからこそ……でござるよ」
剣心はきっぱりと答えた。
「飛天御剣流は殺人剣でござる。弥彦には、絶対にそんな剣術は教えたくないでござる」
「私が望んでいるのは、殺人剣の飛天御剣流じゃないわ!」
薫の言葉に、剣心は面食らった。
「私が望むのは……、いえ、私だけでなく弥彦が望むのは、不殺の信念を持って成り立つあなたの飛天御剣流よ」
剣心は、はっとした顔をした。
「それに、私は知ってるわ。きっとあなたも気付いていない、無意識だけれど強い想いを」
薫は剣心を真っ直ぐに見つめ、きっぱりと言った。
「剣心。あなたは、弥彦に自分の跡継ぎになってもらいたいと思ってる。絶対よ。今まであなたを見てきて、分かるの。これだけは確信を持って言えるわ」
剣心は、胸の中の眠っていたなにかが目覚めるような、どくんとした衝撃を覚えた。
「神谷道場なら心配しないで。そろそろ辻斬りの汚名も忘れられてきたころだし、また新しい門下生が入ってくるわ」
薫は剣心ににっこり笑うと、部屋を出ていった。
残された剣心は、長いこと座っていた。そして独り、静かに口にした。
「薫殿の言うとおりでござる。拙者は弥彦を……。けれどやはり、それは出来ぬ……」
部屋いっぱいに満たされた夕日の赤い光を、剣心は血の色と重ねて見ていた。
その夜、夕飯を食べ終えた剣心たち三人は、何事もなかったようにいつもの夜のひとときを過ごした。茶の間で、薫は針仕事をし、剣心は戦国物語の本を読みながら、そばでのぞき込む弥彦に内容を教えてやっていた。けれど、今夜は静かだった。三人とも言葉少なく、それぞれが、していることにうわのそらだった。
☆あとがき☆
物語もメインに向けて動き始めました。弥彦は神谷活心流と飛天御剣流、どちらの道へ進むことになるのでしょうか。
第四幕「最後の稽古」
次の日の朝。いつものように洗濯をする剣心の横に、弥彦は来るとも無しにやってきた。ただ黙って、作業をする剣心を見ている。
「どうしたでござるか? 弥彦」
「別に。ただ、暇だし……」
弥彦は何か言いたげだったが、それきり黙って立っていた。
「いつものように、素振りをすればよいではござらぬか」
剣心は笑い、けれど洗濯物から目を離さなかった。
「……」
弥彦は何も言わず、うつむいた。剣心は、洗濯物の手を止めて、弥彦に向き直った。
「弥彦……」
苦しげな表情を必死で隠そうとしている弥彦に、剣心は思わず呼びかけた。
「どうしたでござる?」
先程よりさらに優しく、剣心はたずねた。けれど弥彦は、うつむいたままぼそりと言う。
「……うまく出来ねーんだ。素振り……」
「何故でござるか?」
弥彦は、剣心から顔を背け、しばらく黙ったあとぼそりと言った。
「剣心が、こないだまで稽古をつけてくれただろ。だから……独りで素振りすると……、何か変なんだ……。よく、分かんねーけど……」
「それなら拙者と稽古するでござるか?」
「稽古は受けねぇってこないだ言っただろ!」
にっこり笑う剣心に弥彦は怒鳴ったが、その勢いも長くは続かなかった。
「けど……、やっぱ……、最後に一回だけつけてくれねーか?」
「ああ」
思い切って言った弥彦に、剣心は優しくうなずいた。弥彦は一瞬うれしそうな表情を見せたが、すぐに複雑な表情に戻り、竹刀を取りに道場へかけていった。庭に戻り、剣心に竹刀を渡す。
「さっ、かかってくるでござるよ」
「おうっ!」
構える剣心に、弥彦は思いきり打ち込んでいった。パアンと竹刀のぶつかり合う音が辺りに響く。久しぶりの感覚だった。誰よりも憧れ、尊敬している剣心へ打ち込む剣。まだまだ遠すぎて届かない実力。その実感が、悔しくもあり、けれど今はその何倍もうれしい。剣心がどれほど強いか実感できる。それに、単に剣の強さだけでなく、剣心の生き方さえも伝わってくる気がする。
「良い太刀筋だ! けれど踏み込みをもう少し!」
「おうっ!」
弥彦はひたすら剣心に竹刀を打ち込んだ。やがて息が上がってくる。
「休むか?」
「まだまだぁっ!」
弥彦は限界に近かったが、稽古をやめようとはしなかった。剣心に稽古をつけてもらうのも、これが最後だ。
「俺……」
竹刀を振るいながら、言葉を紡ぎ出す弥彦。剣心は、剣を受けつつ弥彦を見守る。
「俺……、神谷活心流の跡継ぎになる」
パアンと剣心の竹刀に打ち込み、弥彦は言った。
「そうでござるな」
剣心は、本来なら今更の弥彦の言葉に、話を合わせた。
「だから、もう剣心に稽古は受けねぇって、言ったんだ」
「そうか」
剣心は、静かに笑った。弥彦は、さらに剣心に竹刀を打ち込みながら、真剣に語り続ける。
「薫は、ブスで頼りねぇところもあるけど、それでも俺の師匠だ。一生懸命、俺に剣を教えてくれる。いつも怒られるけど、上手く出来たときは、すげぇうれしそうにほめてくれるんだ」
「そうでござるな」
剣心は、苦しそうな弥彦に、優しく笑いかける。
「俺、薫のこと、裏切れねぇ……」
「ああ」
攻撃一方の弥彦の竹刀を受け止め、剣心は弥彦の後ろへまわった。弥彦の手を取り、竹刀の握り方を直してやる。
「弥彦は、無理をするとほんの少しだが、竹刀の握りが甘くなる癖があるでござるよ」
「……」
弥彦は、黙って竹刀を握る力を強めた。けれど、やがてその手を下ろした。
「薫のこと……裏切れねぇ……」
弥彦は繰り返す。
「けど……」
弥彦は、それから本当に長い間黙ったあと、言った。
「本当は、剣心に剣を教わりたかった」
弥彦はそれだけ言うと、くるっと後ろを向き、道場へ走り去った。
剣心は、弥彦の後ろ姿をしばらく見つめたあと、独り言った。
「ありがとうでござるよ弥彦。拙者も、弥彦に剣を教えたかった。けれど……」
剣心はもう何も言わず、洗濯を続けた。
「けれど……何よ」
突然の薫の声に、剣心はびくっとして顔を上げた。薫は、塀沿いの低木から姿を現した。頭や着物に着いた葉が、ぱらぱらと落ちる。
「薫殿……いつからそこに……」
「朝ご飯のあと、ずーっとよ」
薫は、怒りの表情で剣心を見つめた。
その頃、道場へ入った弥彦は……。
『弥彦へ。剣心と二人きりであんみつ食べに行くから、独りで稽古しててね。今日は素振り三百回と……』
「なんだこりゃ! ふざけんなヘッポコ師範代!!」
弥彦は、置き手紙をめちゃくちゃに破り去った。
「ちくしょー。やってられっか」
弥彦はそう叫んだものの、急に静かに紙を拾い集めた。そして素振りを始めたが……。
「やっぱ、うまくできねぇ。ちくしょう……」
弥彦は、それでも気を取り直し、再び竹刀を振るった。
☆あとがき☆
今回の話、本当に悪戦苦闘しました。大幅に書き直したのも初めてです。最後まで迷ったのが、弥彦と剣心の稽古シーンをいれるかどうかです。予定ではこのシーンはなく、話もずるずる長くなるので(この辺りは序章なので早く本題に入りたいのです)相当迷いました。けれど、本当にいろんな面で考えたあげく、決めました。結果、書き直し前よりずっと良くなったと思います。
第五幕「朝顔の散歩道」
剣心と薫は、二人並んで並木道を歩いていた。夏の日差しが射るように二人に降り注ぎ、通りすがる家の垣根には色とりどりの朝顔が咲いている。
「綺麗でござるな。朝顔」
「うん……」
静かに語る剣心に、薫はうつむいたままうなずいた。
「……弥彦の言葉、気にすることないでござるよ。飛天御剣流を習いたいと思うのは、弥彦がまだ子供故でござる。神谷活心流に比べて、飛天御剣流のほうが見た目からして派手でござるし、あの年代の子なら憧れるのも無理ないでござるよ」
「……剣心。私はあなたに慰めてもらいたいわけじゃないわ。あなたの、本当の気持ちが聞きたいの」
強い意志の目で薫に見つめられ、剣心はふっと笑った。
「薫殿には、かなわないでござるな」
剣心は歩きながら、語り始めた。
「そうでござるな。弥彦は、見た目だけの技で憧れるような子ではないでござる。拙者の不殺の信念も理解してくれている。拙者を、いつでも信じてくれる……」
「そうね……」
薫は、葵屋での戦いを思い出した。巨人不二を目の前に、ただ一人立ち上がり言った。俺は剣心を信じるんだ、と。
剣心は一呼吸おき、話を続ける。
「弥彦を初めて道場へ連れてくる途中、弥彦は泣きながら言ったでござる。強くなりたい、と。そのとき、拙者は思ったでござる。この子が強くなるのを、出来ればずっと見守っていきたいと……。けれど拙者は、流浪人でござるから……」
剣心は立ち止まり、微笑した。
「けれど本当は、その時から思っていた。そう、薫殿の言うように、無意識のうちに……。その気持ちは無意識の中でどんどん大きくなって……今でははっきり思うでござる」
剣心は、朝顔を見つめる。
「弥彦が、拙者の跡を継いでくれたら……と。理屈ではなく、ただ強く、そう思うでござるよ」
「剣心……」
薫は剣心のそばに立ち、そっとその赤い袖をつかんだ。
「あなたは、京都から帰ってきたとき、ただいまって言ってくれたわよね」
「薫殿……」
「弥彦に稽古をつけたり……こないだなんか、弥彦をひっぱたいたわよね……」
薫は、剣心の袖をつかんだまま、目に涙をためた。
「もう……どこにも行かないわよね……」
「ああ……」
剣心の返事に、薫は一筋の涙をこぼした。ほっとして、剣心の袖を離す。
「それならあなたは、もう流浪人じゃないわ。お願い。弥彦にあなたの剣を教えてあげて」
剣心は、朝顔を見つめたまましばらく黙っていたが、ふと言った。
「不殺……。飛天御剣流はその剣の性質故、それを貫くのはとても難しく、辛いことでござる……。弥彦には、そんな思いはさせたくないでござるよ」
「弥彦ならだいじょうぶよ」
「簡単に言うでござるな。薫殿は……」
剣心は、ふっと笑った。薫ははっとして、落ち込んだ表情を見せる。
「ごめんなさい」
薫は素直に謝ると、再び真剣な顔に戻り言った。
「でも、弥彦は神谷活心流でやってきた子よ。活人剣の心得は教え込んであるわ。それに……」
薫は、微笑して剣心を見つめる。
「弥彦は、いつもあなたのことを見てるもの。あの子は、不殺の剣を振るうあなたを、とても尊敬しているわ。私と稽古しているときにも、見据える先は私ではなくあなたよ」
剣心は、考え込むように朝顔を見つめた。
「何しけた面してやがんでぇ」
「……左之」
突然ふらりと現れた左之助に、剣心は驚いて顔を上げた。
「さっき道場行ったらよ、なんか弥彦の様子おかしかったぜ。素振りはめちゃくちゃ。なんか落ち込んでたみてぇだったけど、どーせ聞いてもあいつが答えるわけねぇから、お前らに聞こうと思ってよ」
薫はとまどったが、思い切って左之助に全てを話した。
「お前ら、バカじゃねーのか?」
「なんですって!? 私たちは真剣なのよ」
怒鳴る薫に、左之助は涼しい顔で言った。
「おめぇらが勝手に決めてどーすんだ。決めんのはアイツだろ」
剣心と薫は、左之助を見つめた。
「俺が弥彦に一言言ってやっからよ。おめーらは仲良く遊んで待ってな」
「仲良くって……」
薫は、思わず顔を赤らめる。左之助は二人にニッと笑うと、ふらりと去っていった。
「左之……」
剣心は、考え深げに左之助の背中を見つめていた。
独り道場で稽古を続けていた弥彦は、木戸の開く音に手を止めた。
「なんだまた来たのかよ。いったい何だってん……」
弥彦は途中で息をのんだ。左之助の目が、あまりに鋭かったからだ。
「男ならな……自分で信じた道を突き通せ」
左之助は弥彦の前に立ち、左肩をぎゅっとつかんだ。
「……っ!」
弥彦は痛みのあまり、苦痛に顔を歪めた。
「嬢ちゃんを裏切れねぇだぁ? おめぇ同情で神谷活心流継ぐつもりか?」
左之助は弥彦を突き飛ばした。弥彦は壁にバアンとぶつかる。左之助は弥彦が立つ横壁に、ダンと思い切り手を突いた。
「剣心がなんと言おうが、嬢ちゃんがなんと言おうが、おめぇの人生だ」
「左之助……」
弥彦は、ごくんとつばを飲み込む。
「道は、自分で決めろ。そして自分で切り開け」
弥彦は、左之助を見上げた。弥彦は一瞬で感じ取る。左之助の持つ、男の生き様……。それは剣心とはまた違う、左之助の魅力。弥彦も男として、左之助のそんなところに憧れを抱いている。
「答えはもう決まってるんだろ」
それだけ言うと、左之助は出ていった。弥彦は、左之助の去った木戸を、睨むように真剣な目で見つめ続けていた。
☆あとがき☆
まだ序章です。ずるずる長くてごめんなさい。あと数話(まだ数話?)で本題です。
作者(管理人)の正直な気持ちですが…剣心・薫が弥彦抜きに相談する気持ち、左之助がそれは弥彦の問題だと言う気持ち、それぞれ理解できます。弥彦には、左之助の助言を踏まえた上で、改めてどちらを継ぐか決めてもらいたいのです。神谷活心流なら薫への同情でなく心から。飛天御剣流なら剣心に意志を示す(こっちの場合、剣心が納得するか謎ですね)
第六幕「答えはもう決まってる」
その日、独り稽古が終わった弥彦は、そのまま道場に残り、壁にかけられた札を見つめていた。「師範」の横は何も掛けられていない。「師範代」の横に「神谷薫」の札。「門下生」の横に「明神弥彦」の札。ただそれだけで、あとは何も掛けられていない……たった二人きりの道場。けれど……。
『おめぇ同情で神谷活心流継ぐつもりか?』
左之助の言葉が頭から離れない。
「弥彦ぉ。ここにいたのね」
散歩から帰った薫が、道場をのぞき込む。弥彦はあわてて札から目をそらしたが、薫は既に気付いていた。
「ああ」
平静を装い道場を出ようとした弥彦だったが……。
「左之助に、何を言われたの?」
ずばりと聞いてくる薫。
「男同士の話だから秘密だ……ってか、お前こそ左之助に何話したんだよ」
「何って、全部よ」
「はぁ?」
訳が分からないという表情の弥彦。その両肩に、薫はそっと手を置いた。
「いいのよ弥彦。私のことは、気にしなくていいから」
薫は、笑顔で弥彦をのぞき込む。
「剣心のところに、行って来なさい」
その一言と今までの経緯から、頭の回転が速い弥彦はだいたいのことを察する。
「薫……。俺、同情で……」
同情で神谷活心流を継ごうとしたわけではない。そう言おうとした弥彦だったが、後が続かない。果たして本当にそうだったのだろうか。薫を裏切れないと剣心に言った。それは、考えてみれば同情以外のなにものでもない。
「由太郎の札を外してから……、確かに俺、同情で……道場を継ごうとした」
弥彦は、素直に認める。
「ずっと前から、剣心に飛天御剣流を習いたかった。それも本当だ」
弥彦は、うつむいていた顔をあげ、薫を見つめる。
「けど俺、今まで神谷活心流を教わって……お前に教わって……良かったと思ってる」
それだけ言うと、弥彦は薫の横をするりと抜けて、道場からかけていった。
薫は、にっこり笑い弥彦を見守った。
『答えはもう決まってるんだろ』
そう――答えはもう、決まっている。
「――剣心!!」
青空の下で洗濯物を干す剣心に向かい、弥彦はかけてきた。全速力で走ってきて息も絶え絶えの弥彦に、剣心は穏やかな笑顔で弥彦の向かいに立つ。
「俺は……」
「拙者は弥彦に、自分の跡を継いでもらいたいでござる」
弥彦より先に、剣心は口にした。弥彦は目を見開く。
「今……、なんて……」
「弥彦に、飛天御剣流と不殺の信念を継いでほしいでござる」
弥彦は、自分がそれを頼みに来たのだが、剣心の言うことがいまだに信じられなかった。今まで何度も何度も、それを断られてきた弥彦である。
「なんで……急に……」
心臓の鼓動をやけに大きく感じながら、弥彦はやっと言葉を紡ぐ。
「そうだな……。確かに今までは、飛天御剣流は教えぬと言ってきた。あれは、殺人剣でござるから……。けれど、弥彦なら飛天御剣流を殺人剣としてではなく、不殺の剣として会得してくれると思ったでござる。そしてそれは薫殿の願いでもあるが……」
剣心は弥彦に、真っ直ぐな目を向ける。
「拙者が、弥彦に出会ったときから少しずつ……そして今では強く想う願いでござるよ」
「剣心。俺に飛天御剣流を教えてくれ」
弥彦は改めて言った。
「ああ」
迷い無く剣心はうなずいた。
☆あとがき☆
そういうことになってしまいました……^^; この展開にお怒りの方ごめんなさい!
この問題をあれだけ引きずったわりに、あっさりと解決させてしまいました・汗 ずるずる長引く展開に、管理人我慢の限界に達してしまいました。
『きみの未来』は、飛天御剣流を継ぐ弥彦の成長物語となります。なので、飛天御剣流の修業が始まると同時に序章から本編へ入る形となります。
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