2003年07月27日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
次は、いよいよtetywestの一番興味のある「自由都市」のコーナーだ。何をそんなに期待しているのかは、実は自分でもよく解ってはいない。強いて理由をあげれば、tetywestの職業が農業なので、それ以外の文化に惹かれるのかも知れない。

「士農工商」と身分制度を固定した江戸時代は、ピラミッドの頂点に武士が存在していた。しかし、どう考えても一番底辺は農民だったはずだ。これは今も昔も変わらないだろう。それを敢えて「士農工商」の順番にした裏には、武士が農民以外の、特に商人の力を恐れたからではないだろうか。

司馬遼太郎は江戸時代の終焉を、「海外の脅威から自国を守るため」だったと捉えている。もちろんtetywestはそれに反論するものではないのだが、経済の側面から見れば、「禄高制を基礎とする経済システムの破綻」だったのでははないだろうか。たとえば、江戸時代の「享保の改革」、「寛政の改革」、「天保の改革」にしても、武士の「禄高制」のシステムと商品経済の発展との間に生じた矛盾をチャラにするために行われたとも言えるのだ。

世界史の上では、イギリスの東インド会社の成立が1600年だし、中国ではそれより前の宋・元の時代(12世紀後半~14世紀)に泉州が世界的な貿易港として栄えていた。江戸時代が始まる頃には世界は既に商品経済へと移行していたのだ。それを江戸幕府が敢えて「禄高制」という極めて商品経済が発展しにくい固定的なシステムにこだわった背景には、平安時代から続いてきた「租庸調」の考え方が根強く残っていたからだろう。

そう考えると、中国の清も、日本の江戸幕府も、ほぼ同じ時期に鎖国をしていることは偶然ではないように思える。世界の商品経済の発展から、自国のシステムを護るためには鎖国という手段が一番手っ取り早い。

そのような江戸時代に突入するちょっと手前、つまり戦国時代は、日本の歴史の中でも「商業」が大きく発展した時代だったと思う。この時代に近江商人、伏見商人、堺商人、平野商人等という独特の気質を持った商人が各地に現れている。信長や秀吉は「楽市・楽座」を設けて積極的に商業を奨励したが、なぜかと言えばそこから上がる利益が大きかったからなのだ。

武士を中心として成り立つ江戸幕府は、その社会を維持するために、これら商人の台頭が一番怖かったに違いない。だから「士農工商」という身分制度で、商業を最下位にしたのだ。

話がややこしくなってしまったが、tetywestは以前から、戦国時代に堺が「町民の自治都市」として栄えたのは、「貿易」・「商業」がキーワードだろうと考えていた。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2003年07月27日 12時23分38秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

コメント新着

鶴亀彰@ Re:50年前のビデオ(2)(08/08) 突然のメールで失礼致します。私はカリフ…

バックナンバー

2024年12月
2024年11月
2024年10月
2024年09月
2024年08月

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: