『裸足(Barfuβ)』



幸福とはなにか。
社会というシステムの中に構築された関係性を維持していくことに幸福はあるのか。
少なくとも、社会的にはそう認知される。

主人公のKは、自分も出資する広告会社の有能な社員であり、仕事はきわめて順調だ。
美しい妻のおなかには彼と彼の妻の子供が宿っている。
経済的にも社会的な地位も満たされている。
「人もうらやむ」まさにこの形容詞がぴったり来るような「生活」をKは手に入れていた。

しかし、その幸福は関係性の中で定義された相対的なものでしかない。
K自身、その生活を「プチブル」と表現し、心の奥底でそれを甘受する自分を疑問視する。
「満たされた」生活は受身であり、それを許容している限り、自分は「満たされる」ことはない。
ミニテルの窓から覗いた「SADO」というSMサイトはKの満たされない部分を最初は針で刺すように、そして最後は「生活」を凌駕するほどに刺激していく。

領域に関係なく『社会』全体として、物質的な何かが欠けている場合、追求すべき幸福は、その欠けている『モノ』を手に入れるということとして明確に提示されうる。
反面、物質的にすべてが満たされたとしたら、追求すべき幸福は見つけにくくなる。
物質的な何かを追求することに幸福を見出してきたものは、満たされた後、その状態を幸福であると思い込み、それを維持しようと努力する。
満たされているはずなのに、しなければならない『努力』。
つねに存在する微熱のような不安。。

魂の開放に幸福があるのか。
Kは「SADO」で知り合ったダニエルとのSM行為の中に魂の自由を見出し、それまでの「人もうらやむ」生活をすべて放棄する。
そして最後にダニエルの手によって命を絶つ。
最後の瞬間、これ以上ないほどの至福の微笑を浮かべながら。。

何も所有しないところに真の幸福が存在する。
キリストの磔にも暗示されているのかもしれない。
実際、この物語の最後のシーンは、キリストの磔を髣髴とさせる。
何も所有しないことに幸福があるとすれば、それ自体所有することのジレンマから生じる相対的な幸福ではなかろうか。
いや人間は所詮、素直に『生きる』ことができないのかもしれない。

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