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「世阿弥の墓」


○水原紫苑・転記
[ Weblog ] / 2005-03-13 13:02:01


2005年03月01日
○水原紫苑の詩
○水原紫苑の詩

○『世阿弥の墓』
はじめて水原の短歌集。ひととおり眼を通したほどで、まだ堪能して
いない。なかなか複雑な観念をもつヒトらしく、一筋縄ではいかない
。フィード・バックとでもいおうか。一度、過ぎた時間が、津波のよ
うに引き、押し寄せてくるのだ。「反芻」か。

大体、「世阿弥」へのオマージュとしても、「墓」とはと、思ってい
たが、やはり知るヒトは知ると言うことか。大徳寺の一休宗純が、7
0歳を過ぎて佐渡に流された世阿弥を想い、「墓碑」を建立したとい
う。そこから始まり、水原の彷徨は、能登、佐渡、・・・へと続く。

水原に関しては、PC検索という安直な手法で、「評」した小文をい
くつか、読んだ程度の新参者だが、どれも彼女の教養の襞に触れ、妙
に理屈めいた袋小路を、自らに強いている気配を感じる。それよりも
、「着物」がすきで、それに執着するこころを隠さない彼女のエッセ
イの方が、はるかに魅力的なのだ。

およそ、「評」とか、「批評」とかいう作業めいたもののもつ、慇懃
さをどう遠ざけるかが、その「対象」との距離の持ち方なのだ。わた
しがかつて思い、これまでなにも為さずにきた、<批評の地平>には
、「対象化」以前のベースとなる知識が、不可欠だ。そしてそれ以上
に、「対象化」以前に、それを見る自分というモノの知りよう次第な
のだと言うことだ。こんなことは、だれしも思いわずらうことだが、
実際の表現として、これらのものを、包括的に捉えているものは、滅
多にない。(中)

大体、「世阿弥」を撰ぶこと自体。が、凄いのだ。対象へ、まっすぐ
な姿勢が、心地良い。衒いもなく、不遜もなく、率直に、むかう。「
中世」という時代相のもつ独特の響き。室町から、戦国・乱世への後
期・中世には、鎌倉とは異なる明るさがある。鎌倉が、武家の政権確
立のために、もののふのかたちを懸命に求め、造ろうとする意思があ
る。対して、それ以後は、ひとつのかたちが、あらたな胎動を求めて
、解体するじきなのだ。そこには、多様な、多角的な、視線の、思考
の、試行の交錯がある。闘争がある。意思在る個的な存在がある。

およそ、世阿弥という存在そのものが、そういったものだ。本阿弥。
世阿弥。時宗や真宗の系譜となるが、それほど確かなことではなさそ
うだ。自称の世界を感じる。あの『二条河原落書』ほどではなくとも
、あらゆる権威が瓦解し、非・日常性のなかを生きている。そうした
俗世にあって、申楽(能)の確立を目指すという、常人ならざる境地に
いるのだ。かれらの存在そのものに、権力の匂いが取り巻いている。
当然なことだが、世阿弥はそれらとの決別のなかで、放逐(流罪)され
るのだ。個とか、人間とか、世間とか、そうしたもろもろのものを超
えようとしている。(中)
posted by breton at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日

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