たけぞうわるあがき

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September 9, 2006
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カテゴリ: 文化・歴史
細井平洲~「人づくり」と「国づくり」
ケネディ大統領が絶賛した上杉鷹山の「国づくり」は、
細井平洲の「人づくり」の学問が生みだした。
-----------------------------------------その1
■1.美しき土地・米沢■

米沢の地を、「アジアのアルカデヤ(桃源郷)」と呼び、「美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域」と形容したのは、明治初年に日本を旅したイギリスの女流探検家イザベラ・バードであったが、その余韻は現在でも感じられる。

平地ではゆるやかな傾斜に沿って段差をつけた水田が広がり、山肌ではぶどうやリンゴの栽培がなされている。
土地の隅々まで丹精に手が入れられている。

土産物店をのぞいてみれば、米沢織り、米沢牛、リンゴ、ぶどう、さくらんぼ、鯉、ワイン、ジャム、彫り物、漆器、、、と、物産の豊かさには驚かされる。

その勤勉と工夫の精神は、今も受け継がれて、これらの豊富な物産を生みだしているのだろう。

この鷹山公は常々、わが改革の成功は細井平洲先生の賜物であると言っていた。
平洲はそのほかにも紀州徳川家の松平頼淳、尾張藩の徳川宗睦、奥州白河藩主、後の老中・松平定信などを心酔させ、さらにその著書「嚶鳴館遺草」は、我が国の政治的理想を高く掲げて、明治維新の志士たちにも大きな影響を与えたのである。

■2.辻講釈師から上杉家世子の賓師へ■

江戸両国橋の近くで街頭に立って辻講釈をしている若い男がいた。
歴史上の人物や、孝子節婦の実話を述べ、さらに四書五経の真義を分かりやすく語って、学問のない聴衆も聞き惚れている。
細井平洲、30代の頃の事である。

学問とは今生きてる人々に役立つものでなければならないというのが、平洲の信念であった。
そのためには字の読めない人々にも「学問とはこんなにも面白いものか」と興味を持たせるところから始めなければならない。
辻講釈なら、聴衆はつまらなければければすぐに立ち去ってしまう。
平洲は自らの学問を磨く真剣勝負の場として辻講釈に臨んでいた。


米沢藩の藩医・藁科松柏(わらしなしょうはく)であった。
松柏はこの人こそ、米沢藩の世子・直丸(治憲、後の鷹山)の学師たるべき人物だと見て、講釈を終えた平洲にすぐに弟子入りをお願いした。
平洲は「師匠などとんでもない、ただ学友としてなら喜んで」と答えた。

松柏から話を聞いた米沢藩の江戸詰めの者たちは、翌日大挙して平洲の家を訪れ、弟子入りをお願いした。
やがて明和元(1764)年、藩主上杉重定からの直接の懇請を受けて、平洲は14歳の直丸の賓師となった。そして江戸藩邸で平洲に弟子りした者たちが、後の鷹山の改革の推進役として育っていく。



明和4(1766)年、上杉治憲は17歳にして家督を継ぎ、第9代米沢藩主となった。
この時上杉家の祖神春日神社に奉納した誓詞には、次の歌が添えられていた

   受けつぎて国のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母

治者は民の父母でなければならない」とは、常々平洲が主張していたところであった。
平洲は言う。

経済というのは、経世済民の略であります。
経世というのは乱れた世を整えるということです。
済民というのは、苦しんでいる民を救うということであります。
したがって経済というのは単なる銭勘定ではなく、その背後に、民を愛する政治を行うという姿勢がなければなりません。

治者は民の父母であるというのは、世の親のような気持ちになって政治を行ってほしいということであります。
世の親は、子供が飢えていれば自分の食べる食事も差し出します。
また子が勉強したいのにもかかわらず資金が足りなければ、自分の生活費を削ってでも子に学費を送ります。
こういう愛が政治にも必要でしょう。

「父母」という言葉には、平洲自身の体験がこもっている。
平洲の両親は、尾張の国(今の愛知県東海市)の農民であったが、彼の学問への志をかなえさせたいと、京都や長崎にまで遊学に出してくれた、その愛情を平洲は深く胸に刻んでいたのである。
そのように父母が子を思う愛情を抱いて、知者は経世済民の道を歩むべし、と平洲は説いた。

■4.町人や農民にも、女、子供にも■

知者が徳と愛情を持って人民を治める、というのは、古代シナの聖賢の道でも言われていたが、平洲が特に強調したのは、人を育てるということであった。
人民とは為政者に治められる愚民ではない。
平洲は治者に父母としての愛情を求める一方、人民の側にも子として学問の道にいそしみ、国家有用の人材となることを期待した。

そのために、平洲は学問の道に、身分制度や男女の差別などは認めなかった。
辻講釈で町人や女子供までを相手にするのは、こうした考えからであった。

鷹山は改革の大きな柱に「人作り」を据え、安永5(1776)年、「興譲館」という学校を作った。
9月に米沢入りした平洲は、興譲館での講義を求められて言った。

私の講義は、武士だけでなく町人や農民にも聞かせたい。
また、女、子供にも聞かせたい。

担当の役人は、農民、町人はともかく、女子供に先生の講義が分かるのだろうか、と疑問に思った。
しかしそれは杞憂だった。
辻講釈で鍛えた平洲の話し方は平明だけではない。
感情が入る。面白おかしい。聴いている方は、その度に笑ったり、涙を流したりした。
そして話を終わった後、聴衆の胸には一様に深い感動が残っていた。

■5.熱心な者は誰を弟子にしても構わないはずです■

領内の小松村に伝五郎という農民がいた。伝五郎は江戸にいた時に両国のほとりで平洲の辻講釈を聞いて、深い感銘を受けた。
平洲が米沢に来るとすぐに行って、弟子入りを希望し、快く許された。

藩の武士たちは不満そうに言った。
「先生は、藩の学校のためにこちらにおいでいただいたはずです。それをいきなり農民の弟子をとるとは何事ですか?」

学問に身分はありません。熱心な者は誰を弟子にしても構わないはずです。この伝五郎君は、江戸時代から私の話を聞いてくれた学友です。

藩の武士は、恥ずかしさで顔を赤くして黙った。
伝五郎は自分のことを「学友」と呼んでくれた平洲の温かく広い心に涙ぐんだ。





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最終更新日  September 9, 2006 02:11:14 PM
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