売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2023.01.21
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カテゴリ: ファッション
あれは確か1984年正月明けの寒い日でした。ニューヨークから一時帰国した私はオヤジの代理で、弟が結婚したい女性の父親にご挨拶に出向きました。名鉄岐阜駅の改札口、全身黒いコムデギャルソンをまとった白髪の男性が立っていたので「この人だな」とすぐわかりました。そのまま柳ケ瀬の割烹店に案内され、初対面ながら昔から親交があったかのようなもてなしを受けました。


松下弘さん(故人)

織物研究舎、通称オリケンの松下弘さん。当時コムデギャルソン全ブランドの大半の生地をデザインし、ヨウジヤマモトにも生地を提供していたテキスタイルの達人です。

すでに世界で高い評価を得ていたイッセイミヤケにはテキスタイルデザイナーの皆川魔鬼子さんという強力な戦力が社内にいました。イッセイミヤケの海外進出から10年遅れてパリコレに進出するんですから、コムデギャルソン、ヨウジヤマモトも意匠性ある独自素材を作る仕組みが必要でした。そこで松下さんにテキスタイルの創作を託したのでしょう。

弟は松下さんの長女と1984年秋に結婚しました。名古屋の熱田神宮での結婚式、新婦の父は儀式進行の巫女さんの方をじっと眺めていました。「巫女さんの裾模様のジャカード、見ましたか。素晴らしい。今度作ってみようかな」、と。娘の結婚式なので父親の感傷的表情を見せたくなかったのかもしれませんが、松下さんは新婦の父というよりクリエイターそのものの目でした。

松下家の披露宴主賓は山本耀司さんと川久保玲さん、太田家の主賓はオヤジの長年の友人の実業家と私の友人でちょうど来日していた米国デザイナーのジェーン・バーンズでした。あの頃ヨウジヤマモトの米国小売店パートナーはセレクト店シャリバリ、そしてジェーンはデビュー当初シャリバリのアトリエ専属デザイナー、妙なご縁でした。このとき私は新郎の兄として初めて山本耀司さんと会話を交わしました。

結婚式の数日後、ファッション業界のことを全く知らないわが親族は朝日新聞の「天声人語」を読んで驚きました。朝日新聞社所有の有楽町マリオン朝日ホールこけら落としファッションイベントにヨウジヤマモト、コムデギャルソンが参加、山本さんと川久保さんの記述があったので親戚のおばさんたちは「あの方たちは有名なデザイナーだったのね」。田舎のおばさんたちにとって「天声人語」に載るような人が参列していたのでびっくりだったのでしょう。

その後私は米国から帰国、東京からパリコレ出張はどういうわけか毎回松下さんと同じフライトでした。当時はまだパリ直行便がなく、アラスカのアンカレッジ経由便、もしくはアンカレッジとロンドンで給油してからパリに入る日本航空便でしたが、アンカレッジ、ロンドンの空港待合室で松下さんは私によく囁きました。「今度は光るんですわ」、「今度は赤なんですわ」、と。パリコレ当日ショー会場に行くと、コムデギャルソンの配慮なのか松下さんの隣が私の席、そこでも「光るんですわ」、「赤いんですわ」。


1988年秋冬テーマ「エスニック」

そしてショーが始まるとどのシーンでもキラキラ光る織物やニットだったり、布に付けられた透明ストーンのアクセサリーが光っていました。松下さんは素材提供していても実際にどういう形で服が登場するかは事前にご存知ありませんから、ショーが終わるや「全部光ってたねえ」と満足そうでした。

ステージに登場した全点がどこかしらに赤を使っていたコレクションでは「全部赤だったねえ」。このとき松下さんが教えてくれたのは、コムデギャルソンから出たキーワードは「私のエスニックを作って」だったと。このキーワードを膨らませて素材を創作していたらトマトのような赤が浮かんできたそうです。「赤い布を作って」ならば我々にも想像つきますが、川久保さんと松下さんとの間はまるで禅問答のような掛け合い、「私のエスニック」が赤い布になりました。




1993年春夏コムデギャルソン

80年代の中頃、パリコレの記事ではフランス左翼系日刊紙リベラシオンに優秀な記者がいて、フィガロ紙、ルモンド紙、インターナショナルヘラルドトリビューン紙以上に注目されていました。パリコレ期間中リベラシオン紙はコレクション報道の一環として松下弘さんを顔写真入りで大きく取り上げ、彼のテキスタイル作りの姿勢、川久保さんと山本さんとの関係を紹介したことがありました。

この記事で恐らく多くのジャーナリストやバイヤーは、ヨウジヤマモトとコムデギャルソンのテキスタイルがどことなくニュアンスが似ている理由を初めて知ったのではないでしょうか。コレクションそのものの記事よりも大きな扱いでしたから。

ヨウジヤマモトプールオムのショーではこんなことがありました。フィナーレに登場した男性モデルたちは一斉にジャケットの前をパッとオープン、そこには白地のシャツにプリントで描かれた大きな花の絵がズラリ、これに観客は拍手喝采でした。黒の世界が最後に一転パッと派手なお花のプリントでしたから。

このとき客席にいた川久保さんがただ一人ムッとした顔つきで下を向いたまま。フィナーレの演出はいたって単純、モデルごとに違うお花プリントに特別な意味はなさそう。私はあまりに単純な演出で拍手喝采とはクリエーションの同志としてあまりにありきたりすぎると不満なんだろうな、と勝手に推察しました。

しかし、私の見立ては間違いでした。フィナーレ直前のワンシーン、登場したプレーンな平織り素材はヨウジヤマモトではなくコムデギャルソンに配分してくれたら良かったのに、という理由での不満表情だったのです。

ショー終了後会場近くのカフェで松下さんがコムデギャルソンの幹部たちに、「来月(婦人服パリコレ)は表面起伏のある素材でもヨウジはジャカード、ギャルソンはドビー(織り)。あっちの方が良かったなんて言わないでくれ」とピシャリ。起伏の表現をわざわざ織り方を変えてテキスタイルを作る、時代を牽引する二人のクリエイターの狭間で仕事する苦労とプレッシャーを垣間見ました。


2003年秋冬ヨウジヤマモト

それから数年後、ある事件があってヨウジヤマモトと織物研究舎の関係が切れ、松下さんはコムデギャルソンに全力投入できる状況になりました。

ところが、川久保さんから私に連絡があり、山本さんと松下さん二人を説得する仲介役を頼まれました。私が「100%ギャルソンになったから良かったじゃないですか」と言ったら、川久保さんは「両方に素材提供するから緊張感があるし、松下さんは手抜きができない。うちだけだと良いもの作れないかもしれない。親戚なんだから何とかしてください」。川久保さんのクリエーションに対する姿勢はハンパないです。

頼まれた私は山本さん、松下さんと個別に会って両者の和解を試みましたが、このときは完全に力不足、失敗でした。

その後松下弘さんは亡くなり、大学卒業後ヨウジヤマモトで数年間修行したことのある松下さんの長男が織物研究舎を引き継ぎ、いまはヨウジ社とは良好な関係が続いていると聞いています。写真上の2003年秋冬ヨウジヤマモトのコレクションはいかにもオリケンという感じだったので、私は弟に「オリケンはまたヨウジの仕事を始めたのか」とメールしたくらい。テキスタイルの達人の味、亡くなったいまもしっかり続いています。





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Last updated  2023.01.29 12:00:24
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