前項で触れたバーニーズニューヨークの日本買い付けチームの定宿はホテルオークラでした。ちょうどオークラの向かい側のマンションには赤峰幸生さんが企画ディレクターを務めるグレンオーヴァーのオフィスがあり、私はジーン・プレスマン副社長に「アメリカントラディショナルを作っている会社だから発注はしないと思うけど、セイハローだけはしよう」と言って赤峰さんを訪ねました。
以前はアメトラを標榜するアパレル企業マクベスの企画担当だった赤峰さん、グレンオーヴァーのショールームにお邪魔するとマネキンにはダッフルコートが飾ってあり、いかにもアメリカントラディショナルという雰囲気。バーニーズにとっては自国で見慣れたアメトラですから最初は関心を示しませんでした。
ところが、グレンオーヴァーの親会社テキスタイルコンバーターのシャツスワッチを多数見せてもらうとジーンの目の色が変わりました。グレンオーヴァーの縫製は丁寧で質感があり、親会社が素材を安く提供してくれたらバーニーズオリジナルのブラウスを製造できる。アメトラの代表格ラルフローレンよりも素材、縫製仕様が上質で価格が半額なら競争力ある、さっそく特別注文することになったのです。
後日バーニーズはデザインをグレンオーヴァーに送り、スワッチ台帳から素材を選び、クオリティーは高いがリーズナブルなブラウスが出来上がりました。アメトラのグレンオーヴァーのオリジナル商品そのものには興味を示さず、その代わりシャツのスワッチからバーニーズP B商品の生産を思い付く、ジーンは目利きの商売人でした。
私が赤峰幸生さんと最初に会ったのは、彼がマクベスの企画責任者だった頃です。マクベスは服飾評論家の伊藤紫朗さん兄弟が経営する会社、胸にMBのロゴが入ったスタジアムジャンパー(写真下)がヒットアイテムでした。
トラッドファンに人気があったマクベスのスタジャン
マクベスをはじめ多くのアメトラブランドに1978年大きな転機が訪れます。
日本のメンズファッションを牽引してきた VAN JACKET
(ヴァンヂャケット)が思いがけず倒産、日本のアメトラ市場にポッカリ空白ができたのです。日本には本国アメリカ以上にアイビールックを熱狂的に愛する消費者が多く、リーディングカンパニーVANが消滅したことでアパレルメーカーは一斉にアメトラ強化に走りました。
大同毛織はアメトラの元祖とも言える「ブルックスブラザーズ」を、紳士服専門店三峰はブルックスのマジソンアベニュー本店の並びに店を構える「ポールスチュアート」を、大手アパレル企業オンワード樫山はブルックスの向かい側「J・プレス」を導入してそれぞれアメトラを強化、マクベスはJ・プレスの横にあるCHIPP(チップ)と提携して販路拡大を狙いました。
私がニューヨークに渡って記事を書くこと以外に最初に携わったビジネスプロジェクトは、マクベスとマジソンアベニュー東 44
丁目のチップとの提携でした。加えてマクベスはチップの米国内リソースから商品直輸入を計画、私がニューヨークでベンダー各社との交渉を担当しました。
20 44 丁目にオープンしたのがチップ。2代目ポール・ウインストン氏と交渉してチップの日本展開が決まりました。また、マクベスはポロシャツ専門の老舗キューナート社、アメトラ路線のバッグやベルトのトラファルガー社、紳士傘のアメリカンアンブレラ社などから直輸入を始め、マクベスアメリカとしてトラッドショップに販売しました。
私はポールに頼んでチップの地下倉庫の中にマクベスとの連絡用テレックス(当時はまだファックスもネット通信もなかった)を設置してもらい、発注フォローや出荷情報をマクベスに送っていました。そのときチップの視察と買い付けのためニューヨークに来たのが赤峰さんでした。
かつてのグレンオーヴァーを着る赤峰幸生さん(繊研新聞より)
グレンオーヴァーの織りネーム
数シーズン後チップの契約とマクベスアメリカの直輸入は私の手から離れ、赤峰さんはマクベスを去ってグレンオーヴァーに参画、そしてマクベスの倒産、日本でチップがどのような足跡を残したのか詳しくは知りません。が、赤峰さんとは個人的にやり取りが続き、前述のようにバーニーズPB商品で再び繋がりました。PBのブラウスはクオリティーと価格のバランスがよく、バーニーズのお客様には好評でしたが、全て赤峰さんらのお陰です。
CFD設立のため1985年に私が帰国すると、どういう流れでそうなったのかはわかりませんが、アメトラの申し子だった赤峰さんはクラシコイタリアの伝道師になっていました。出張先はニューヨークでなくフィレンツェ、イタリアの職人的ものづくりに惚れ込み、アメリカのことよりもイタリアのデザインや伝統文化、テキスタイルや縫製技術のことを熱っぽく語る赤峰さんにはびっくりでした。イタリア大使館との繋がりもあったのか、当時都内で人気のイタリアンレストランのアドバイザーも務め、イタリア人従業員の労働許可の世話までしていましたから。
1994年にIFIビジネススクールの授業が始まり、夜間プログラム「プロフェッショナルコース」ディレクターだった私は赤峰さんに指導協力をお願いしたので、赤峰さんのものづくりの話に強く感化された受講生はたくさんいます。現在もコンサルティングあるいは顧問デザイナーとして活躍されていますが、生涯現役でファッションの楽しさ、奥深さを若者たちに伝え続けて欲しいです。
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