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ロンドン・オリンピックだからというわけではないけれど、 今回は エルガー 交響曲第1番 です。 珍しいことですが、 このジャケット写真は、音楽と演奏の雰囲気をとてもよく表現しています。 ゆったりと幅広く歌われる、哀愁漂う序章は、とってもノーブル(高貴)な音楽です。 (またそれが、「コケイン」序曲の喧噪あとに静かに始まるのがよい。) その点、バルビローリは、心得ています。 挙措動作が美しく、自然で、堂々としていて、しかも温かい。 第2交響曲も有名ですが、個人的には、第1番の寂寥感とスケールの雄大さが好きです。 栄光をたたえて、ゆっくりと落日は沈む。 かつての大英帝国の栄華を偲ぶような、そんな音楽。 まさに、 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」 の世界です。 ロンドン・オリンピック、勝敗はあまり興味はないけれど、 鍛え抜かれたアスリートたちの肉体の躍動は、 純粋に美しいですね。 たぶんそれこそが、 そもそものオリンピックの目的であり、 最大の楽しみのはずではなかったのではないでしょうか。
2012年08月04日
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あるニューギニア人が白人である著者に聞いた、 「あなたたち白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」 本書は、この一見素朴だが世界の成り立ちについての本質的な質問に対する、壮大な回答の試みである。 人類の発祥の地はアフリカである。なのになぜ、アフリカ人は万年の単位で後進のヨーロッパ人に征服されるに至ったのか。 小麦の発祥地の地(つまり、最初期に食糧生産を始めた地)は中東である。しかし、今の中東はなぜ石油以外でヨーロッパに勝るものがないのだろうか。 なぜ豚や牛や馬は家畜化できて、サイやキリンやシマウマは家畜化できなかったのか。そして、家畜が人類にもたらしたものとは。 かつて中国では、ヨーロッパよりも先んじて多くの科学技術を持っていた。それなのになぜ、アヘン戦争で植民地になってしまったのか。 北アメリカ大陸のインディアンたちは、ヨーロッパ人に「発見」されて、その土地を奪われてしまったが、なぜ、その逆は起こらなかったのか。 インカ帝国は、統一国家として数十万もの軍隊を擁していた。それなのになぜ、たった百数十人程度のピサロの一団に滅ぼされてしまったのか(著者は、スペイン人ピサロがインカ皇帝アタワルパを捕えた瞬間こそが、人類史上最も「銃・病原菌・鉄」を持つ者と持たざる者の格差が顕わになった劇的な瞬間であったと位置づけており、その瞬間を描いた絵が本書の表紙になっている。)。 などなど。 上記ニューギニア人の素朴な問いには、考察すべき問題がいくつも横たわっている。 著者は、これを順番にひとつひとつ取り上げ、つぶさにその答えを発見することを試みている(現在のところ、著者は、それは絶対的なものではない、という前提に立っているが、いずれの結論においても、かなりの説得力があるものである。)。 読み進むに従って、歴史科学という新しい分野における、 斬新かつ慎重な確固とした見解が次々と示されていきます。 ときたま文章の流れにちょっとしたくどさを感じる箇所もありますが、それは著者の考察の丁寧さの範囲内に留まるものでしょう。 まだ読んでない方はぜひ読んでみてください。 絶対に、面白いから。 なお、著者は「人間はどこまでチンパンジーか」などで有名な、お医者さんだそうです。
2012年07月05日
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村上春樹の「小澤征爾さんと、音楽について話をする」で 第3ピアノ協奏曲の緩徐楽章の魅力を発見して以来、 ベートーヴェンばかり聴いています。 中でも、最近とみにハマっているのが、 第8交響曲。 ベト7と第九の間に挟まれた地味な存在ですが、 全曲を通じて、第7番のような沸き立つリズムがあり、 変奏の域にまで徹底され尽くした主題の展開は、第9の強靭な集中力を予感させます。 (特に、第1楽章の中間部の盛り上がりは、若々しく、精力的です。) それでいて、ハイドン風のコンパクトなサイズ。 ユーモアさえ感じます。 これは、交響曲のひとつの到達点だと思います。 ようやく最近になって、「偉大な」とか「楽聖」とかという権威を気にせずに、 自然とベートーヴェンを聴けるようになってきた気がします。 CDの紹介。 いわずと知れたスクロヴァチェフスキ。 テンポが速く、リズムのキレがよい。 カラヤン=ベルリン・フィルから古楽ブームまでの歴史を越えたところにある、 スリムで現代的な演奏。 巨匠チェリビダッケ。 とにかくテンポが遅い。 これで聴かせる、持たせる力量には脱帽。 ホワンとしたまろやかな音色と誰も傷つけないような優しさが独特で、 とっても魅力的なんだけど、 最後までちゃんと起きて聴けたことがありません(第4楽章の途中で必ず寝る。) 今のところ、フルトヴェングラーを除いては、 これが東西の横綱かな。
2012年07月02日
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真夜中に 私は目覚め そして天を仰いだ ひしめき合う星たちは ひとつとして 私に微笑みかけなかった。 私はこの世に忘れられた(あるいは、捨てられらた)。 私はこの世とともに多くの時間を費やしてきたが、 今やこの世では私のことを聞かなくなって久しい。 私が死んでしまったとでも思っているのだろう。 たとえそうだとしても、私には関係ないことだ。 私はこの世の喧噪から死んでしまい、 静かな土地で安らいでいる。 ≪リッケルト歌曲集「真夜中に」および「私はこの世に忘れられて」から抜粋≫ この暗~い感じがマーラーの音楽にハマって、味わい深い。 ソリストのダレーナ・コジェナーは、サイモン・ラトルの奥さんらしい。 (最近、夫婦協演の本歌曲集のCDが出て知った。) 華奢に細すぎず、野暮に太からず、存在感ある強さのある歌声。 すらりとした長身に金髪に白いドレスが素敵。 あと、イングリッシュ・ホルンの女性がうまい。 5曲の配列は作曲家の指定がないようだが、 音量的なクライマックスである「真夜中に」をセンターに置き、 音のボリュームは少なくても、もっとも音楽的に充実した「私はこの世に忘れられて」をラストに持ってきたのは、 いかにもアバドらしい。 ちなみに、 1 美しさゆえに愛するのなら 2 私の歌をのぞきこまないでください 3 真夜中に 4 私は仄かな香りを吸い込んだ 5 私はこの世に忘れられてという配列になっています。 併録の(本DVDでは、交響曲の方がオマケ扱いである。) 交響曲第4番も、秀演である(が、アバド翁、相変わらずと言えなくもない。)。
2012年06月26日
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風格ある演奏。 クレンペラー&バレンボイム 堂々たる歩みの中に、煌めく繊細さ。
2012年06月24日
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更新が滞ってすみません。 一応毎日、音楽は真面目に聞いておるのですが、 文才の乏しさに加えて、なかなかPCに向かう時間がなくて。 相変わらず無能なので、時間ばかり食って生きております。 さて今日は、余計なことは言わずに、推薦に留めます。 チェリビダッケの、ブラームス交響曲第1番。 冒頭のティンパニーの打撃音の意味深さといったらないです(イミシン・クレッシェンド(小澤征爾)ならぬ、イミシン・ティンパニー)。 テンポはものすごく遅いですが、「よくぞやってくれた」と応援したくなるような深い深い味わいがあります(しかも「ここぞ」というところでさらに美しくテンポを落としてくれます。)。 フルトヴェングラーの仏ターラ盤を超える演奏があるとすれば、現在のところ、これが最有力の対抗馬となるでしょう。 今日は、アイポッドでこの録音を聴きながら7~8キロほど走りました。 雨の中のジョギングでしたが、この録音の色と湿度とちょうど合っていて、 心地よかったですよ。 それにしてもチェリビダッケって、雰囲気ありますよね。 こういう「権威」の押し出しの強さというのは、時代がなせる業なのでしょうか。
2012年06月10日
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僕のような素人に言わせると、ポリーニは20年経っても30年経ってもポリーニのままである。 最近、ティーレマンとの新録音を聴いたけれども、ポリーニのこの曲に対するスタンスはほとんど変わっていない、と僕は理解した。 僕の耳が正しいとするならば、彼は30代の頃から既に完成形であった、ということになる(もちろん、テクニックについては、昔から非の打ちどころがないし、70となった今でも全く衰えていないし、むしろ、ますます冴え渡っている。)。 一般論として、そのことに異論はないはずだ。 なにしろポリーニは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の録音を後期3大ソナタから始めた人なのだから。 このブラームスのニ短調ピアノ協奏曲については、ポリーニの3つの録音のうち、ウィーン・フィルの美音が聴けることにより、この最初の録音が、あとの2つの録音(アバド、ベルリンp・ティーレマン、ドレスデンsp)よりも価値が高い、と思う。 岩城宏之のあるエッセイの中で知ったことだけど、「おやじ(ベームのこと)の音楽を理解できるのは俺たちウィーン・フィルだけだ。」、「おやじの耄碌した棒(注:円熟したタクト)についていけるのは俺たちだけだ。」と、当時のウィーン・フィルのツワモノたちは自負していたらしい。 実際、当時、『オーストリア音楽総監督』という長嶋茂雄みたいな肩書きを持っていたベームがウィーン・フィルを指揮した音楽の中には、これは絶対にほかとはちがう、まったく格別なものだ、と思わせるもの(特に音色とか楽器の鳴り方とかそういう面において)が少なくない。たとえば、ブルックナー第7交響曲の冒頭のチェロ、来日ライヴのベートーヴェン第7交響曲の主題のホルンなど。 この録音もそうだ。 第2楽章の出だしの美しさは、初めて聞いたときは本当にびっくりした。 静かな寝室でまっさらなシルキーのベッドにもぐる感じで、ここちよい。 そして、重力というものを全く感じさせない。 こういう比喩にもならないブンガク的な表現はできる限り避けたいのだが、 「まるで天女の羽衣が空から舞い降りて来たかのような」 そんな音楽である。 個人的には、安易に「闘争から歓喜へ」と向かってしまう第3楽章が嫌いです。 なんにも解決していないだろ! と突っ込みを入れたくなる。 ブラームスは、なぜこの曲を短調のままで終わらせることを拒んだのだろう?
2012年05月13日
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今日は、乃木坂にある新国立美術館に行ってきました。 エミルタージュのコレクションはさすがで、どれもが秀逸な作品ばかりでしたが、 僕がもっとも魅かれたのはこの作品。 ヴィンダーハルター『女帝マリア・アレクサンドヴァナの肖像』 音楽の世界においてもそうだけど、名作・名演と呼ばれるためには、そもそもの素材が優れていなくてはだめです。 それは料理の世界も一緒ですね。 物憂げな気品漂う女帝の肖像は、素材の素晴らしさにおいて会場随一の存在感でした。 それほど豊かでない巻き毛の黒髪にからめられた上品な真珠と、白を基調にした控え目だけど優美さを隠しきれないドレス。 生来のものなのか、それとも不貞の夫か過酷な政務のためなのか、やや青白く細い疲れを見せる表情と、それを支える確かな知性を持つ両目のまなざし。 胸元に伸びるいくつもの真珠の連なりが、豊かな女性の証しを教えてくれる。 名画だと思った。 女帝は、この作品の出来栄えにいたく喜ばれたという。 ほかにも、『洞窟のマグラダのマリア』や、『ウェヌスの帯を解くクビト』、『モルフェウスとイリス』など、見るべき作品は多くあった。 帰りは、乃木神社にお参りしたら、厳かに結婚式をやっていたので、賽銭を投げて柏手をたたくにはしばらく待たねばならなかった。 そうそう、旧乃木低には人懐っこい猫がいたので、なでなでしておきましたよ。
2012年05月05日
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連休を利用して大阪・京都・奈良に行ってきました。 これは東大寺戒壇堂(戒壇院ともいう。)。 GWだというのに、大仏殿の喧噪をよそに、参拝客もまばらで、ひっそりしていました。 大きいだけで美しさにかける大仏さま(大仏殿の建造物は好きだけど)などは横目に、僕が奈良で一番にお会いしたかったのがこの方。 広目天。 戒壇堂の四天王の中で、甲冑や武具などの面では最もひかえめな存在であるにもかかわらず、彼こそが、この日本史上最高の彫像である四天王の4体の中の、白眉なのであります。 そしてその所以は、この眼差しの鋭さです。 実際に拝顔した印象は、こんなに厳ついものではなくて、ごくごく自然に、昔からそこにいらしたのだな、と感じさせる佇まいでした。 ライトアップもされておらず、さして広くもない薄暗いお堂の中に、4人の方がそれぞれの方位を、今も静かに守っておられました。 ごくごく自然に、まったくの日常として。 四天王とは、北の多聞天、東の持国天、南の増長天、そして西の広目天の4人の天部である、仏の守護神のことをいいます。 戒壇堂の四天王は、それぞれが優れた彫像であるだけでなく、それぞれの武具・甲冑・姿勢・手足の動き・表情あるいは足元の餓鬼に至るまで、前後・左右又は対角のコントラスト・シンメトリー、若しくは四方の円のグラデーションをなしており、4楽章の交響曲のような統一感と安定感を持った傑作です(それについて詳細に述べようとするならば、拙い私の見識でも一つの論文が書けるかもしれない。)。 それぞれ、世俗的なご利益があります。 多聞天:知恵、財宝授与 持国天:国家安康、家内安全 増長天:商売繁盛 広目天:知恵、無病息災 多聞天と広目天とでは、「知恵」というキーワードで似ているようですが、多聞天には多くの知恵を得て共に利するという側面がある一方、広目天においては、広く世間を見、大らかな心で視野を広げて、正しい知恵を得ることが、結果的には無量の寿命を得るという意味があるということです。 それはさておき、私が広目天に魅かれるのは、そのドスのきいた目力、ではなくて、その表情の奥に感じさせる豊饒な知識と強靭な精神です。 それでいて、実際に会ってみると、好戦的な雰囲気などまったくなく、泰然自若としていて、むしろ、献身的なひた向きさがあり、指先と腰回りには、ハッとするような繊細さを感じました。 そういう人に、私はなりたいと思います。
2012年05月05日
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大河ドラマ「平清盛」の視聴率が悪いらしい。 僕が思うに、その原因は、表現する側とそれを受け取る側の乖離にある。 そして、言うまでもなく、劣っているのは、後者の方。 「清盛」の表現手法は、すごく面白いと思うのに、それを理解しない人が多いみたい。 悲しいことに。 演技力でも存在感でも脇役(宮沢りえ)にお株をすっかり奪われてしまった、白痴のような「江」に比べれば(ハクチなのは、主演も演出もだったが)、天地の開きがあるというのに。 リアリティという意味での映像美ならば、龍馬をはるかに凌ぐのに(単なる埃っぽさだけでなくて、ちょっとブルジョアな生活感という意味で。)。 滝沢なんとかが演じたお遊戯会のような「義経」とは、ぜんぜんレベルが違うというのに。 白塗りと鉄漿がいけないのか?あの國村隼と山本耕史の異質感がよいのに。 天皇家の汚猥な権力闘争(というより、あけすけなコヅクリ合戦)が日曜7時の映像表現に適さないのか? そうそうなんといっても、ワイルドで優しくて、悲しげな吉松隆の音楽がよいのに。 オープニングのピアノ・コンチェルト的な躍動感もいいけど(能楽の挿入画像の不気味さが特にいい)、 挿入音楽の、静かで優しいピアノ曲、「プレイデアス舞曲集」から「5月の夢の歌」が特によい。 時代を感じさせない、こころの表現がある。 民放とちがって、視聴率が低くても、打ち切られることはないとは思うけど。 「平安もの」という難しい題材に果敢に挑戦して、それがかなり成功しているのに。 こんなに優れた番組が、正当な評価を受けていないことと、 21世紀初頭の日本の映像表現の粋とも言えるこの作品に対して、正当な評価をくだせない社会の中に生きていることが、何より悲しい。
2012年04月02日
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ブログを再開します。 公務員という仕事柄、毎日毎日、法律の解釈とか運用について文章をこねくり回しているのですが、 最近、僕の文章を読み返すにつけ、とってもくどくどしくなってきているように思うのです。 それが組織内で共有されているので、無反省にそのまま国の訴訟なんかに使われたりします。 恥ずかしいことに。 法律チックな文章はだいたい書けるようになってきたけれど、反面、偏ったところだけに筋肉がついてしまって、バランスが欠けてきたような。 なんかねえ、ゴテゴテして美しくないんですよ。自分の文章のそういうところが許せない。 これ以上、固くて頑なで料簡の狭い文章になってしまわないために。 そんな人間になってしまわないために。 文章のストレッチのために、 ブログを再開します。 まあ、どれだけ続くかわかりませんが。 気長におつきあいください。 ポリーニのリストは、これまでずっとずっと聞いてきたものですが、 最近とっても「お気に入りの」存在になっています。 サイとか、ポゴレリチなんかもいいけど、ポリーニのリストは、なんか特別なのです。 例によって変な色気は出さないし、ストイックで力強くて。 長い序章を経たあとに現れる、華麗としか言いようのない主題においても、ポリーニはちゃんと期待に応えてくれていますよね。 ポリーニにおいて、ポリーニにやってほしいことを。 派手にやりすぎずに、かといって、あっさりし過ぎずに。 堅実だけどスリムで、筋肉質だけど重たくなくて。 自分で期待されていることがわかっていて、それに応えられる能力を持っているというのは、とっても幸せなことだと思います。
2012年03月31日
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ずっと、この作品の4管編成による録音を探していた(なかなかないのだ)。 ※ ヘルベルト・ゲーゲルの録音は確かに偉業だけれども、いかんせん2管編成によるものだった。 ジュリー二という古典的な指揮者が、ベルリン・フィルという優れたオーケストラと、 このような、大編成でしかし演奏時間が少ない現代音楽の録音を残してくれたことに、 感謝したい。 これは私のように頭が悪く現代音楽への理解が乏しい物にとって、 最高の浮標(ブイ)であり、里程標となるものだ。 僕はまだ(と言えるかどうかわからいが)この作品がわからない。 でも、とっても魅かれてはいる。 よくいるではないか、 よくわからないけれども、気が付いたらその人のことばかり見ているという、 そういう人が。 ・・・特に若いころ。 僕にとっては、そういう作品なのだ。 この6曲合わせて11分ないし12分足らずの「小品」が!
2011年08月13日
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ブーレーズの全集から。 第1番にツィマーマン、第2番にアンスネス、第3番にエレーヌ・グリモーを配した なんとも贅沢な企画によるCDだけど、 ここは第3番の作品の素晴らしさに的を絞ろう。 第1楽章の出だしは、 可憐なバレリーナが軽くステップを踏んで躍り出すように。 すぐに現代的でクールな喧しさの中に飲み込まれていくが。 バルトークならではの、強く荒々しいリズムの躍動の連続。 しかしその構成の美しさ。 第2楽章は、 宗教的瞑想。 その静謐さは、ブラームス以上である。 比較論になるが、彼は少し多くを話しすぎたかもしれない。 個性の違いにもよるが、バルトークの方が、少ない言葉で、多くを語っていると思う。 これだけの調和を見せつけた不協和音は、ほかにないだろう。 第3楽章。 何をか云わんや。 前述の優れた楽章を受けてバルトークが書いたフィナーレが、 そうでないはずがない。 ヤワな聴き手は、爆音の凄まじさに耳を痛めないよう、せいぜい気を付けることだ。
2011年08月13日
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抒情的なショスタコーヴィチ。 第7、第8、第12の冒頭は、 たいていの指揮者は「ズーン」と握りコブシでマックスの力を入れるところなのに、 エリアフ・インバルはいかにも自然。 第8、第10のスケルツォはいささか大人しすぎるきらいはないではないが、 これはこれで一つの哲学として成り立ち得るものだ。 このようなアプローチによって、作曲家本来の饒舌さも際立つというもの。 個人的には、第7交響曲のCD。 これは高校生のときにお小遣いを貯めて買ったものだったけど(当時3000円もした)、 大学時代に明日の食費にも事欠いて手放したもの。 ヨワイ36にして、やっと取り返した。 15曲の交響曲全集で、たったの7000円。 しかもDENONの正規盤。 これを買わない手はない。
2011年08月13日
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久しぶりの音楽ネタです。 んで、のっけから恐縮だけど、ヒトの悪口から入ります(最近またも仕事中に毒舌の癖が・・・)。 ジェイムズ・レヴァインは、優れた指揮者ではあるけれど、 やっぱりアメリカの指揮者だと思う(もちろん、ヨーロッパ崇拝的に偏狭な意味で)。 彼のスコアの四分音符は、ただの四分音符でしかない。 でも、ジョルジュ・プレートルは違う。 彼のスコアの四分音符は、仮の姿として四分音符としてそこに記された「何か」だ。 彼は、その「何か」の姿を立ち上がらせ、描いてみせる。 別の言い方をすれば、 発する言葉が、スピーチになるか、それとも詩になるのか。 つくる建物が、コンクリートのビルになるのか、大理石の聖堂になるのか。 学会に発表する論文か、親しい人のために書いた手紙か。 両者の違いは、まあそういうことだ。 ジョルジュ・プレートルは、まぎれもなくフランスの指揮者だ。 生まれつき備わっていたかのような立居振舞の上品さ(もはや体臭のようなもの)、 微妙なアッチェランドと自然なテンポの落とし方の洒脱、 人格の年輪のように重なる音の重厚さ。 僕がむかし若いころは、今のコトバで言えば「普通にいい」演奏にすぎなかったけれど、 今となっては、かけがえのない贈り物のような録音である。 オーケストラは、伝説的存在のパリ音楽院管弦楽団(「のだめ」な人にはコンセルヴァトワールのオケと言えば通じるだろうか。後に発展的解消によりパリ管弦楽団となる。) オルガンは、あのデュリフレ。 古いステレオ録音だが、薫るように条件がよい。 まったくの余談ながら、指揮者ダニエル・バレンボイムの大味さは、 まるで高校生が美術の授業で中太筆しか使わずに書いた課題作品のようなものである。 僕が先生なら、通信簿は3か4。
2011年06月10日
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ひっこまない。 また秋には駅伝があるのに。 わかってる。 毎日の缶ビールとジャンクなつまみが諸悪の根源だということは。 でも・・・今日もまた・・・夜遅く帰って・・・ 缶ビールを冷蔵庫から出してプシュッ。 オヤジっす。 ところで、今日テレビつけたらNHKで少女時代の特集やってたけど、 歌って躍ってるときは「おお」と思っても、 座って韓国語で話されるとげんなりするのは私だけ? どうもハングルの発音は生理的に・・・うーん。
2011年06月08日
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むかし、「評決」というタイトルの映画があった。 主演はポール・ニューマンで、アル中の枯れた弁護士が義侠心をふり起こし、悪徳病院を相手取って一発逆転の勝訴劇を演じる訴訟映画だ。 僕はそれを見て、(たしか高校1年か2年かそんなところ) ポール・ニューマンの演技の渋さに惹かれながら、 訴訟というのは面白い世界だな、と思った(そう記憶している)。 その映画を見たことがすべてではないが、たぶんそれが一つのきっかけで(そのあとしばらく何本か訴訟映画をあさって見ていた。)、 法学部に入ることになるのだが、 日本の法曹界の狭き門の現実を知るや(当時は法科大学院もなかった)、 早々に司法試験受験を諦めて(そんなに高尚な志もなく) 落第生となり、なんとか卒業して、なんとか公務員になって、 今に至るわけだけれども、 今年から、「国の指定代理人」という立場で法廷に出るような仕事をしている。 法曹資格もないのに、裁判官や弁護士などに混じって訴訟の端くれをナリワイとしているわけだ。 不思議なもんだなと思う。 まあだいたい、法務局の部付検事がいて、彼らの下に付いて指揮を受けながら、行政庁としての応訴に必要な事実関係と法律解釈を積み立てていく地味な仕事なわけだけけれども。 訴訟をやるということについて。 それは特に「夢」というわけでもなかったはずなのだけれども、 (それを「夢」というには、あまりにもあっけなく捨ててしまったものであり・・・) しかしながら・それでも・何か・「縁」があるような気がして、 絶対的な法律知識の不足に四苦八苦しながらも(学生時代勉強してなかったからなあ。)、 心の片隅でどこか楽しむような思いを感じながら、 いまの仕事をさせてもらっている。
2011年06月04日
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再び、ライヒ。 連続する無数の美音の雫が、耳に心地よく響く。 妻は、「YMO系だ」と言って、忌み嫌って 家ではかけさせてくれない。 なので専ら、通勤電車のお供。 谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」をはさんで、 再び「ローマ人の物語」を第1巻から読み始めた。 僕は、反復する動物である。 だからなかなか、 前へ進めない。
2011年01月29日
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役所は今日で御用納め。 仕事は一向に進まず、溜まる一方だが、 なんとか時間だけが「過ぎ去った」感じ。 なんとか耐えた籠城戦。 そして今は、打って出るべき戦力がない。 だれのせいでもなく、 僕自身のの力不足。 それ以上はなにもない。 何事もなかったかのように年末年始の休暇が取れるのは、 強いて言えば、不幸な幸運が重なったため。 つくづく僕は、強運の持ち主だと思う。 「運も実力のうち」と言うが、運は実力ではない。 そのことは、僕が一番よくわかっている。 しかし僕は、マルクス・アウレリウスの「自省録」のこの言葉に救われる思いがする。 人よ、君はこの大いなる都の一市民であった。 それが5年であろうと、100年であろうと、君に何の違いがあろう。 なぜならば、ここの法では、万人に平等が与えられているのだ。 暴君でもなく、不正な裁判官でもない、君をここに連れてきた自然の中で、 君がこの都から追放されるとしても、 なにを恐れるべきことがあろう。 それはあたかも役者を雇った将軍が、 彼を舞台から解雇する場合に似ている。 君は言う、 「しかし私は5幕を演じきれませんでした。たった3幕だけです。」 よろしい。 だが人生では、3幕でもひとつの完全な劇になるのだ。 なぜならば、終末を定める者はほかでもない、 かつては君をかたちづくり、今は君を解体する責任を負うた者なのだ。 君 は そ の い ず れ に 対 し て も 責 任 は な い。 だから満足して去っていくがよい。 君を解雇する者も、満足しているのだ。 こういう「後ろ向きな」言葉に敏感に反応する僕は、 結局のところ、自分の人生に対してさえも、完全に責任を持つことができない体質らしい。 ところで、ライヒ自身と「その仲間たち」が演じる 「18人の音楽家のための音楽」は、格別である。 オリジナルの者たちが持つ、 力強さと、やさしさと、 あたたかさと。 この音楽にハマってしまったら、なかなか抜け出せない。 この一年は、この音楽と共にあった。 今年もまた、「音楽」という得体の知れない力に支えられた一年であったと思う。 来年も同じように、「音楽」なしでは生きて行けそうにない。 来年、どんな「音楽」に出会えるのか、楽しみではある。 これからの人生の困難さも、「音楽」を味わうスパイス程度であればよいと願うばかりである。 最近、シーバス・リーガルが美味い。
2010年12月28日
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今年はこの曲で、 ブラームスの聴き納めとします。 みなさん よいお年を。 来年は、 この曲のように 自由でしかし楽しく 充実した年でありますように。 若い英気と老人の大らかさの協演である ツィマーマンとバーンスタインの録音と共に。
2010年12月26日
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ローマ人の物語、 いよいよ佳境。 司教アンブロシウス、 ローマ首都長官シンマクスの元老院「勝利の女神」擁護論に反駁。 今日、世界中にメリー・クリスマスがあるのは、 キリスト教がローマ世界を乗っ取り、 「異教」と「異端」を永年にわたり抹殺してきたが故。 それには、暗黒の中世を経ねばならなかった。 「ローマ世界の終焉」まで、 あとわずか。
2010年12月24日
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年末です。 でも気候のせいか、あんまりそんな感じがしない。 やっと最近寒くなったけど。 今年は、第9を聴く暇もないまま終わってしまいそう。 思えば、年中暇がなかったな。 ずーーーっと仕事に(上司に?)追い立てられるような一年でした。 でも、今年もよく買い(CDを)、よく聴いた年だったと思う。 そんな中で、今年の一枚ではないが、 年末くらいベートーヴェンと真面目に向き合ってみよう、 と思って今聴いているのが、 スクロヴァチェフスキとザールブリュッケン放送交響楽団による、この交響曲全集。 ベートーヴェンが創造した、9つの多彩な世界に、今さらながら感嘆している。 人間の能力は不平等なものだと、つくづく思う。 今年も残すところあと2週間を切ってしまった。 年賀状もまだ書いていない。 仕事は書類の山、山、山。 でも、坂の上の雲は欠かさず見てる(←これだけは外せない)。 そんなことでいいのかと思いながら、 年が暮れていくんだろうな。
2010年12月19日
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久々に、カッコイイ音楽を聴いた。 10年ほどむかし、とある先輩から 絶対に聴くべき と忠告された意味が、 ようやくわかった。 チェロって・・・ こんなに凄い楽器だったんだ・・・ この世界の深いところから、 やむにやまれず 出て来てしまったような、 そんな異形の姿をしているけど、 きちんと目を凝らして見れば ちゃんと人間の姿をしている。 そんな音楽。 ヨーヨー・マは、やっぱりスゴイ。 最近、落ち着かないニュースばかり。 北朝鮮も、 僕の職場も、 明日はどうなるかわからない状況。 こういうときに、 アイポッドにこういう音楽が入っていると、 幾許かは心強い。 僕は、とっても弱い存在なので。
2010年11月28日
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先週金曜日は、 結婚記念日だったので、 定時で帰って 二人でお気に入りの蕎麦屋に入って 「真澄」と美味しいお蕎麦を堪能したあと、 これもお気に入りの「日比谷バー」へ行きました。 お店の人の計らいで、 最後にこんなものを用意していただきました。 このお店のこういう心遣いが好きですね。 店員さんもみんな感じが良くて。 値段はそこそこしますが、 いつも満足して帰れます。 土曜日は、同じく池袋の花屋さんで オリーブの木を買いました。 結婚式のセレモニーで ふたりで「植樹」をしたのに、 そのあとすぐ枯らしてしまったので、 今度こそは大事に育てようを思っています。 元気に育て。
2010年11月21日
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11月6日、彩の国さいたま芸術劇場。 アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルによる、 「ドライアップシート」(3つの別れ) http://www.saf.or.jp/arthall/event/event_detail/2010/d1106.html を観てきた。 『3Abschied』 3つの別れ。 マーラー最後の交響曲「大地の歌」の最終楽章、 「告別」の3つのバリエーション。 アンヌは、ダンサーとしてこの曲を表現しようとする。 ダニエル・バレンボイムは、彼女の企画を聞いたとき、こう言ったそうだ。 「やれやれ、ダンサーはいつもこれだ。 あなたが躍るべき音楽は、あなたが躍るために書かれた音楽は、たくさんある。 しかも、まだまだ多くのものが、抽斗の中に眠っている。 でももし、あなたが躍るにふさわしくなく、あなたが躍ってはならない音楽が あるとしたら、それは、マーラーの「告別」だ。」 と。 それでも、彼女は果敢にも挑戦した。 はじめに、彼女は、ブルーノ・ワルターが指揮し、キャスリン・フェリアーが歌うウィーン・フィルの「告別」の録音を流し、その音楽を聴くということを、観客と共有した。 次に、彼女は、シェーンベルクが室内楽版に編曲した「告別」を演奏する15人の音楽家たち(13人の演奏家と、指揮者、ソプラノを合わせた15人)の「中に入って」この音楽に対する共感を表現した。 最後に、彼女は、ピアノの伴奏に合せて、自ら歌い、躍り、「告別」という音楽と同化しようとした。 彼女はもちろん声楽家ではないので、その声量は小さく、か細いものだったが、それがかえって、切実で、リアルで、純粋で、美しいものとなった。 公演終了後、 観客からの質問に答える時間が設けられた。 印象に残った質問と、アンヌの回答がひとつ。 問「あなたは、(演奏者が去った後の)椅子の周りで躍り、その前には、演奏者の傍で躍ったりしていましたが、あなたにとって、椅子や奏者はどのような存在だったのですか?」 答(唇を意地悪そうに曲げて) 「チェアー・イズ・チェアー。 ミュージシャン・イズ・ミュージシャン。(笑)」 (真面目な顔に戻って、補足するように) 「私とこの場を共有した存在。」 ダニエル・バレンボイムの予言は、 半分は確かに当を得ていたものだったが、 残りの半分は、完全に間違っていた。 この曲は、ふつう考えられているよりも、 ドラマティックかつロマティックで、 静謐で瞑想的な、 祈りにも似た音楽であり、 もっとたくさんの人々に大切にされるべき、 大きな存在だと思った。
2010年11月07日
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私が好きなのは、 晩年のベルリン・フィルとの豪壮華麗な録音セッションではなく、 壮年期のケルン放送響とのものである。 つつましく、まとまりがある。 それでいて、美しい。 しかも、豪快。 これ以上のものがあろうか。
2010年10月23日
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明日(すでに今日)は、博多で友人の結婚式です。 ひさびさの九州の土地と食と人を楽しんできます。 しばしさらば、忌々しい東京の●●たちよ。 長浜ラーメンを食べよう。 焼酎を飲もう。 九州弁でしゃべろう。 しょうゆを忘れずに買ってこなきゃ。
2010年10月15日
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自由気儘。 コケテッシュ。 小悪魔。 伝統無視。 破天荒。 やりすぎ。 こんなのベートーヴェンじゃない。 なんとでも言えばいい。 でも、この演奏は面白い。 なんの前提もいらない。 聴いた音をそのままに、 素直に楽めなくなっているとしたら、、 もう音楽を聴く資格なんてないと思う。
2010年10月11日
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マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」 アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー他 見通しがよい。 よく整理されいる。 なによりも、音が綺麗。 ブルックナー 交響曲第8番ハ短調 ハイティンク指揮 ウィーン・フィルハーモニー いくら音を引っ張っても、決して重くならない。 初秋の広い空いちめんに伸びて流れる雲のように軽やか。 それでいて、荘厳華麗なブルックナー。 マーラー 交響曲「大地の歌」 シノーポリ指揮 ドレスデン・シュタッカーペレ 酒、秋、青春、美、再び酒、そして別れ。 「告別」におけるかすかな希望と逃れられない絶望。 そして諦観。 すべてを理解し、表現し尽くした稀有な演奏。 ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 ツィマーマン&バースタイン ウィーン・フィル 毎年秋になると聴きたくなる、快心の演奏。 老練の落着きと若い光の競演。 再録音はたぶん、必要ない。
2010年10月10日
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ライヒにしては、 わかりやすくて、聴きやすい曲、だとおもう。 でも、それは「聴いてて心地いい」とは同義ではないことは、 はっきりと、断わっておかねばならない。 僕は、「大アンサンブルのための音楽(Music for large Ensemble)」が好きだけど。 ライヒは、クールです。 僕ら凡人を寄せ付けないほどに。
2010年09月04日
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「予言の鳥」(『森の情景』)の優れた演奏が聴きたくて買った一枚。 第1曲目の「森の入口」の冒頭からして静かで力みがなく、 森へ入る不安さえ感じさせるタッチが好感を持てる。 『蝶々』もよい。 だが、併録のブラームス『6つのピアノ小品集op.118』については、 まだまだ往年の巨匠たちに及ぶ域には達していないのは致し方のないところか。 (この曲を御するには、ウィルヘルム・ケンプの枯淡の境地が必要だ。) このCDのタイトル(企画)は、シューマンとブラームスを「リエゾンス(融合)」する ということだが、いささか大風呂敷にすぎるというもの。 しかし、若さゆえの純粋な意気込みが、羨ましいほど輝いている一枚。 シューマンの佳品を味わうものとしては、傑出した録音といえるだろう。
2010年08月28日
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いわゆる「ジャケ買い」でしたが、 テンションの高さと集中力、それと技巧の確かさに脱帽。 珍しい選曲のヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集。 続編に期待します。 録音もいいです。
2010年08月28日
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最近よく聴いています。 通勤の帰りとか、 残業や休日出勤のときとか、 走るときとか。 家では聴きません。 こうゆうの、妻が嫌いなので。 この無限に連続するリズム、 昔子供のころ山の中で聴いた、 遠い記憶のなかの 大勢の日暮の鳴く声に似ている。 カナカナカナカナカナカナカナ・・・ という、清涼な山の声。 夏の終わりに聴くには相応しいのかもしれない。 こういう音楽に接すると、 音楽というものの本質は 「反復」と「変容」にあるのだと思う。 徹底して数学的に計算された造りが、 かえって自然音を連想させるから面白い。 夕暮れの光のグラデーション。 セクション5のクライマックスなどは、 虹色の雨が降り注ぎ地面で跳ね回っているような、 超自然的な光景すら垣間見せる。 悲しみでもなく、歓びでもなく、 ただそこにあるもの。 でも、この作品の中には、とてもたくさんのものが詰まっているのを感じる。 今日は官舎の草取りでした。 朝から大汗かいて、ビール飲んで、クーラーで涼んでいます。 夏も終わりです。 昨夜、線香花火を買いにいきましたが、コンビニにはもう置いてませんでした。
2010年08月28日
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人生ではじめての富士山体験でしたが、 無事に山頂まで登り、 御来光を拝むことができました。 これも、妻と皆様の支えがあってこそ。 感謝。 僕の35歳は、なんだかいい年になりそうです。
2010年07月18日
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今から富士山登ります。35歳の誕生日に、御来光を拝んできます。では。
2010年07月17日
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でも、半歩前進。今日は、これでよしとしよう。
2010年07月12日
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休日出勤、 成果なし。 疲れる。 楽器の練習もしていないのに、 楽譜をどっさり渡されて、 「さあ弾いてみろ」 と言われているような、 そんな無力感。 いや、違う。 もともと無能だったのに、 今ころ気付いたという だけのことか。 選挙にも行かなかった。
2010年07月11日
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最悪の日に生まれた人には、悪い日でも快適であろう。 ゲーテ。 明日はよい日でありますように。
2010年07月06日
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土曜日の朝11時ころ、半分二日酔いの身体でだらりとソファーに座ってテレビを見ていると、 玄関のブザーが、短く控えめに鳴った。 妻は、「びょういん」と「びよういん」に行くと言って出かけてしばらくした後だったので、忘れ物をしたとしても戻って来るようなタイミングではなかったし、 先日神保町で買った「日本の仏像」20巻セットも、既に配達済みだった。 通信販売も頼んだ記憶もないし、新聞の勧誘も4・5月で撃退完了済みだった。 という訳で、今日、僕の官舎に用のある人はいないはずだったが、 でもとりあえず、「はーい。」と返事をして、玄関のドアの覗き穴から外を見た。 人影がない。 誰かが間違って押して立ち去ったのだったか、と思って一応ドアを開けてみると、 視線の下に小学校1年生くらいの少年が立っていた。 「隣と間違えました。ごめんなさい。」と言って立ち去るかと思ったら、 「あのね、屋根の上に載っちゃったみたいだから、取ってほしいの。」と遠慮がちに、 しかし照れもせずに言う。 この少年は、突然見知らぬ官舎のドアのブザーを鳴らし、少し酒の臭いの残った甚平姿の見知らぬオジサンが出てきたのを、何の留保もなしに頼っているのだ。 気が付くと、僕は、「どこ?」と返事して、反射的に外に出てしまっていた。 その少年のペースに「乗せられた」と言っていい。 その少年は、一人で遊んでいたら、おもちゃの一部(それはとっても大事なものだ)をなくしてしまったらしい。 その少年の指し示す場所は、官舎の倉庫の屋根の上だった。 さして高いものじゃない。 せいぜい、2メートル程度だ。 でも、僕の身長は170センチ。脚立の持ち合わせもない。 とりあえず、その少年と一緒に、官舎の階段を登って上から確認することにした。 少年は、「ほら、あそこ」と言う。 僕には、ただの石にしか見えないよ。と意見する。 なくしたのはどんなの?と聞くと、 一見すると石に見えるかもしれないけど、真ん中部分が赤くて、白くて丸いの。 大きさは、「これくらい」と言って両手でピンポン玉くらいの小さな輪を作って見せた。 僕も視力には自信はない(こないだの免許更新で「眼鏡等」の条件を付けれた。)が、 神の被造物たる自然物か、工場で作られた人工のおもちゃかどうかの区別くらいはつく。 でも、しょうがないから、少年の指示のとおりに、官舎の階段を降りて、 その屋根の部分に両手を掛けて飛びついて、懸垂の要領で屋根の上を覗き込んだ。 しかし、そこにあるのはただの「石」だ。 「ピンポン玉くらいの大きさで、真ん中が赤くて、白くて丸いの」ではない。 僕がその結果を「報告」すると、 「じゃあ、屋根を飛び越えてその辺の草むらに落ちたのかもしれない」という新説。 季節は6月後半。午前中とはいえ、少し動けば汗が出る。 僕も意地になってきた。 ドクダミが少し混じった草いきれを感じながら、 しゃがみこんで、結構本気で探し始めた。 少年から意外な提案があった。 「草を全部刈ってしまえばいい。」 そしたら確実に見つかる、ということだろう。 しかし、僕は反対した。 「あのね、ここには大きな紫陽花も咲いてるし、官舎と言っても一応人様の庭だし、そんなこととはしたらいけないんだよ。」と。 それに、その案は大変に効率的でない。 今から二人で(実質的には僕一人で)このあたり一帯の草刈りをすることは不可能だ。いや、不可能でないにしても、時間がかかりすぎる。いくら僕が午後から特に用事がないから言っても、せっかくの休日なんだから、ゆっくり休ませてほしい。 しばらく、二人で(実質的には僕一人で)「草の根を分けて」探した。 その間、すこし少年と話をした。 官舎の子ではなく、近所の商店街に住んでいること、(少なくとも今日は)一人で遊んでいること、など。 で、見つけた。 見つかった。 その「ピンポン玉くらいの大きさで、真ん中が赤くて、白くて丸いの」を。 草むらの中から出てきた。 今はやりのプラスチック製のベーゴマの一種だった。(あとで、妻からそれは「ベイブレード」というものだということを教えてもらった。) 少年は、ずいぶん喜んだ。 汚れているから洗いたい、と言ったので、官舎の水道で洗わせてあげた。 「わざわざ、どうも、ありがとうございました。」 と、少年は、ずいぶん大人びたお礼を言った。 「どういたしまして。次はなくさないように、気をつけて遊びな。」 と言って、別れた。 僕はその後、近所の公園に走りに行った。 夕方、妻と一緒にカレーを作りながら、その話をした。 彼女の感想は、そういう少年がいるということは、この辺りの共同体も捨てたものじゃないんじゃないか、というものだった。 あの少年、来週もまた来ないかな。 別に健全な共同体の象徴でなくてもかまわないんだから。
2010年06月26日
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何の先入観もなしにこの曲を聴き始めたけど、 やっぱりこの曲は「恋の歌」だと思う。 モノの本によれば、ブラームスは、この曲のメロディーに 恋人の名前を隠しているという。 ベルリオーズは、『幻想交響曲』で、破天荒にも恋人を地獄まで連れていったが、 作曲当時30代半ばであったブラームスは、もちろんそんなことはしない。 第1楽章は、いかにも彼らしく、とてもためらいがちで、進むか退くか迷う心のよう。 ピッチカートは、ときどき疼く心臓の鼓動の高まりを表現する。 第2楽章は、揺れ動く幻のようにはかない。 第3楽章は、独り思い悩む夜の思い。 第4楽章は、一応の「解決」と「納得」。 そしてブラームスは、生涯独身であった。 演奏は、先日も触れたアマデウス弦楽四重奏団+αの60年代の録音を。 濃密な表現で、いかにもこの「隠された恋の歌」に相応しい。
2010年06月26日
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有名なアマデウス四重奏団による録音に慣れ親しんだ方が、 もし、このベルリン・フィルハーモニー八重奏団員による演奏に初めて接したとしたら、 どのように聞こえるだろうか。 前者を大河のうねりとするならば、 後者は湖の静けさにも例えることができるだろう。 もちろん、水面の下には濁流が渦巻いているのだが。 (そこにはあらゆる奇奇怪怪な生物たちが棲んでいるに違いない) ここでのブラームスは、 シューマンの深淵の覗いてしまったのではないのか。 しかも彼は、幸か不幸か、そこから生還してしまった。 作品が求める引き摺るような第二楽章のメロディーの響かせ方に、最も成功しているのが、 このベルリン・フィル・オクテットによる演奏だと思う。 人に媚びず、俗に落ちず、しかし世を捨てず、地を這い、のたうつ苦悩のブラームス。 第四楽章のヴァイオリンは、第二楽章のメロディーのアレンジであるが、 僕には悲しい鼻歌に聞こえる。 苦悩に終わりがないのならば、とりあえず嘯いてみようと。 無理に明るく振舞ってみせる、周囲を気遣う作り笑い。 このあたりの表現力にも、 土屋邦夫さんも属したベルリン・フィルハーモニーの弦の精鋭たちに 他を懸絶した凄みを感じる。 1966年の録音。 カタログによれば、廃盤のようです。
2010年06月22日
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毎日、通勤で池袋駅を使う。 毎朝、同じ時刻に、同じ柱に寄りかかり、蹲っている初老の男がいる。 彼を毎日眺める、 毎朝、同じ時刻に、同じ改札をくぐり、通過していく僕がいる。 彼が池袋駅のその柱から離れるのと、僕がその駅の改札を通らなくなるのと、 どちらが早いだろうか。 どちらが長くその場所に留まり、どちらが早くその場所を去るのだろうか。 深夜の池袋駅で、マタイ受難曲を聴いた。 構内のすべての建造物が、協会のように美しく思えた。 在り来たりの広告ポスターが、宗教画のように貴重な存在に見えた。 醜く疲弊した人々は、敬虔な巡礼者のようだった。 マタイ受難曲は、人間のあらゆる場面を包む力がある。 そっと寄り添ってきて、いつの間にか、それなしでは世界が成立しないかのような、 そんな存在感のある、不思議な音楽。 池袋駅でも、 マタイ受難曲は、 マタイ受難曲のままで、 整然と鳴り響く。 それが僕の小さなアイポッドの中に取り込まれた電子データだっとしても。 それを聴く者がどんなに卑小で低俗で無能な存在だったとしても。
2010年06月18日
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一日に一度くらいはシゴトのブンショためでなく、ただ自分自身のためにキーボードを打つ。そういう時間もあってよいと思う。僕にとっては、このブログがそう。一日に一度くらいはシゴトのチョウサのためでなく、ただ自分自身のためにインターネットを使う。そういう時間もあってよいと思う。僕には、そういう時間は日付をまたいでから訪れる。一日に一度くらいはシゴトのショリのためでなく、ただ自分自身のために頭を使い、心を巡らせてみる。自分のためだけの時間。睡眠時間が削られることはわかっていても、僕が僕であることを保つためには、必要な時間。キリン・ラガー・ビールとともに。そして、寝るのは2時。
2010年06月08日
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気が付くと、マーラーの交響曲を聴いている。 そんな時期になってきた。 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲だって聴いてるし、 リストのピアノ・ソナタも勉強中なのだが、 マーラーの交響曲、とりわけ、 ラトルの第2、第7と、 シノーポリの第9には、 耳を奪われている。 特に、シノーポリがシュタッカーペレ・ドレスデンを振った第9番には、 凡人の言葉では言い表すことはできない、特別な何かがある、と思う。 それは、「殉死」した指揮者の凄みなのだろうか。 俗世に生きる者を超えたところから響いてくるような、 この世ならぬもの。 久しぶりに、そんな音楽を感じている。
2010年06月05日
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今日は起きれなかった。 いつまでたっても覚醒できなかった。 予定では、午前中に職場に行って、たまった仕事を片付けるつもりだったのだが。 身体が全く言うことを聞いてくれなかった。 僕はもともと類稀なる怠け者なので、「たまにはこういうこともあるさ」なのであるが。 それにしても、歴史に残る情けない休日の過ごし方だった。 昨日、久しぶりに1時間ランしたのがいけなかったのか(確かに全身筋肉痛だった)。 それともやはり、夜更かしして『サロメ』のDVDを二本立てで見たのがいけなかったのか。 鬼気迫るシノーポリ盤と、(やや古くなったが)絢爛豪華なベーム盤と。 確かにすごいオペラだ。 ここで表現される赤裸々すぎる精神は、人間に科せられた呪いなのか。 宿命のように繰り返し響く「赤い月」の主題。 リヒャルト・シュトラウスは、よくぞこのオペラを書いた、と思う。 僕は完全に打ちのめされた。 でも、後味が悪くて、ゼッフィレッリ演出の「トゥーランドット」を見直して寝た。 「それは愛!」というトゥーランドットの感動的なラストシーンも、 サロメの毒抜きにはならなったよう。 今日は、呪われた一日だった。 以上、駄目男の言い訳です。 明日からは、もう一度真っ当な人間に戻って、マジメにシゴトしますです、はい。
2010年05月30日
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以前にも書いたかもしれないが、 「コンチェルト・フォー・オーケストラ」 という、なんとシンプルなタイトル。 まるでバッハのよう。 しかしながら、作曲者がベラ・バルトークとなると、 そのタイトルの重みと意味が全く違って異なって聞こえるから、 不思議だ。 バルトークは、とても男くさい作曲家である。 彼の男性性的なるものが、 鋼のように錬えられており、 蒸留酒のように人を酔わせる。 凝縮された音楽。 力強さ、虚栄心、残酷さ、執着心。 ユーモア、諧謔、皮肉、いやらしさ。 愛情、繊細さ、傷付きやすさ。 悲哀。 そして、性的なものと、民俗性。 ベートーヴェンも確かに男くさいが、 バルトークのそれは、まったく違うのである。 江戸っ子と九州男児以上の開きがある。 さて、標題の「管弦楽のための協奏曲」。 全五楽章の大曲であり、 序章、対の遊び、エレジー、中断された間奏曲、フィナーレ。 すべての楽章が完璧で、異常に純度が高く、そして、「男くさい」。 演奏は、カラヤンも優れて緊張感があるが、 アンサンブルの精度によりバルトークの深層を掘り下げた ジョージ・セルに首席の座を渡そう。 併録のヤナーチェク「シンフォニエッタ」は、 言わずと知れた青豆さんの愛聴盤。 『1Q84』のお陰で、随分この盤も売れたはず。 「シンフォニエッタ」だけでなく、 購買者の方には、是非この「管弦楽のための協奏曲」も聴いてほしい。 『1Q84』BOOK3、僕も楽しみませていただきましたが、 村上春樹のこの作品について述べるのは、もっと後にしたいと思います。 だって僕は、今のところ『ノルウェイの森』についても、 『羊をめぐる冒険』についても、述べる資格を持っていないのですから。
2010年05月29日
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壮大で雄雄しい12番と、宗教的に浄化された14番との間に挟まれた、 この13番。 聞けば聞くほど、味わいがあります。 カラフルな球体を転がすように自由で、 ガツンとくる喉越しもあり、 固そうで柔らかく、 東洋的な神秘さすら感じられる。 もちろん、終楽章は「大フーガ」。 大変ごちゃごちゃしてそうなイメージですが、 21世紀の我々にとっては、なんという心地よい晦渋さ、難解さではないですか。 最近、帰りの電車のなかで、ずっと聞いています。 演奏は、ハーゲン・カルテット。 クールです。 「ローマ人の物語」は、ようやくアウグストゥスの「パクス・ロマーナ」が始まりました。 カエサル、天才すぎ。
2010年05月23日
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今日は 朝寝をするには勿体ないくらい いい天気だったので、 朝から近所の公演に ジョギングに行きました。 もう日中は半袖で過ごせます。 この心地よい陽気。 しかし湿気はすでに梅雨の到来を知らせています。 これから、長い梅雨の暗黒時代がやってきて、 そのあとは灼熱の猛暑というわけです。 今年も東京は亜熱帯気候のスコールのような雨が降るのでしょうか。 今日のジョギングのお供は チャイコフスキーの『イタリア奇想曲』。 このテの管弦楽作品を振らせたら、カラヤンの右に出る者なし。 また、どんな小品であっても、決して手を抜かないのが、 カラヤン=ベルリン・フィルの矜持。 出だしの金管のファンファーレからして、 これを超える演奏は、 僕は寡聞にして知らず。 併録の(?)交響曲第4番も、 まるで彼らのために書かれた曲のような 凄演。 有り余るオーケストラのパワーと、 それ引き出しコントロールするカラヤンのタクト。 文句なしの1枚。
2010年05月08日
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1833年5月7日。 ベートーヴェンの第九交響曲が初演された日からちょうど9年が経ったこの日、 ヨハネス・ブラームスが誕生しました。 177回目の誕生日に、 ハッピー・バースディ。 彼がこの世に生を受け、 4つの交響曲とひとつの子守唄とその中間の音楽たちを それほど多くはなくとも 必要なだけは 遺してくれたことを祝いたい。 自由に、しかし楽しく。
2010年05月07日
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今日は、役所から 「休め。なぜならみんなが休むから。お前だけ休まないのはまかり通らん。」 という理不尽な命令によりお休みを頂くことになりました。 といっても、妻はいないし、 男一人無聊に過ごすのにはいささか勿体ない陽気でありましたので、 亀戸天神に行ってきました。 僕は藤の花の匂いが大好き。 かすかに淡く、しかし濃厚なあの匂いが。 年月を経た者にしか醸しだせない、あの大人の色気が。 亀戸天神には、やっぱり亀がいました。 甲羅干しをする亀がたくさん。 小魚を狙う鷺が一匹。 何十分もそのままで静止状態。 浮世の憂さも忘れる光景でした。 早咲きの散った藤が水辺に絨毯を作っていました。 「藤は水に合うわね。」 と僕の隣の老婦人がつぶやいておられました。 でも、東京の藤は香りが薄かったです。 媒介する空気がよくないせいでしょうか。 お国自慢をするわけではないけど、 僕の田舎の藤棚は亀戸以上に立派です。 そこの藤は、濃厚な、大人の香りを楽しませてくれます。。 来年のGWは、僕も田舎に帰ろうかな。
2010年05月06日
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