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昨年の夏にペンションをオープンさせ、厨房が狭すぎることに気がつき只今増築中です。お金はあんまりないけど時間はたっぷりとあるので自分達で建てています。バックにある建物も自分達で建てました。お客様から良く聞かれることが「以前大工さんだったの?」です。私は、まったくそれ系の仕事についたことはなく、本で勉強しました。欧米では、自分の住む家を自分で建てるのはそんなに珍しいことではないらしいですね。自作の家に自分が住み家族が住む、いいですよね。
2006.03.07
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もう20年以上前になるのでしょうか。世紀末の予言が出回っていた1990年代に、神道系の預言書の一つでしょうか。「火水伝文」(ひみつつたえふみ)というのがありました。伝え人の我空さんが、仕事をしていても寝ていても、頭の中にささやきかける声がしたり文字が出現したり、無視しても駄目で、それじゃあといって書き留めた自動書記の言葉です。このメッセージは、正しくアセンションをテーマとしたものです。まもなく、この地球はとんでもない状況になるから、気付いてくれよというものです。発信してくれているのは、この大宇宙の創造の神だということです。現世が3次元。死後の世界が4次元。そして、今度のアセンションは5次元以降に行くというもの。その時に、身魂の掃除が出来ていないとアセンション出来ず、地球さん自身の自浄作用としての天変地異に巻き込まれるから、大切な5項目を教えますというのがこの五つの杖です。五つの杖1 神は喜びしか渡していない。 神は喜びしか渡していません。すべての人間が喜びのうちに楽しんで遊べるようにすべての仕組みを創っているのです。本来は、苦があるのはおかしいことなのです。苦はあなたが素直に行動しない時、あなたの我欲で動いているとき、この五つの杖のどれかを外しているとき、あなたを喜びへと戻すためのお知らせなのです。あなたがそれを人や神のせいにすることで、ますます苦を創り出すことになるのです。 2 自分のものは何もない 元素から地球まで、すべて神が創ったものです。肉体もお金も石油も電気も子供も車もすべて神の持ち物を借りて合成したり、組み立てたりしたものなのです。すべては神のものです。失う恐れや死の恐れがあるのは「自分のもの」がある証拠です。なくなったものというのは、あなたに必要がないものです。あなたには今この瞬間、必要なものはすべてあります。あなたの持っているものはあなたが遊ぶための道具です。執着していると苦しくなります。今持っているものを、必要なときに、必要なものに交換しながら遊んでいけばよいのです。 3 偶然はない すべては必然です。すべては与えられているのです。あなたが「偶然」というときは、自分が計画していない、思ってもみないことが起きたときです。「偶然」がなぜ起きるかと言われれば、そういう力が働いているとしか言えないのです。その力の正体が「神」なのです。苦しみも喜びも事故も病気もすべてあなたのために、あなたに教えるために与えられているのです。あなたが五つの杖を外していること、あなたの中に○×、損得、好き嫌いの執着や所有欲、決めつけがあること、を気づかせるための鏡を提供してくれているのです。奇跡も偶然も不思議も一切ありません。起きていることはすべて起きるべくして起きているのです。 4 中今に生かされている 病気も死もあなたの自由にはなりません。あなたは生きていません。あなたが生きていると思っているから、病気や死やケガや事故や心配だらけなのです。計画や反省や期待や希望や後悔や未来の不安はすべて、4を外しています。あなたはただ、今この瞬間にいればよいのです。あなたがしたというのはありません。すべてあなたを通して起きていることです。あなたは生かされているのですから、あなたのしたことは神のしたことです。 5 被害者はだれもいない あなたが取られたもの、殴られたあなたの肉体は、だれのものでしょうか? 自分のものだというなら2を外しています。自分の内にあるものが外に見えているだけです。あなたの内が中立ならば、被害者はなくなります。あなたを傷つけているのは、あなたです。あなたが傷つけられたと言って人を傷つけたのもあなたです。不慮の事故というのはありません。偶然はないのです。あなたがあなたの加害者です。傷つけられた被害者がいるとすれば、神です。あなたが被害者をやっている時は、ちゃんと苦しい状況を体験します。あなたの事故や喧嘩やケガやその他諸々のトラブルはあなたがこの五つのどれかを否定したり、外しているお知らせなのです。あなたがあなたの加害者なのです。 我空徳生 がくう とくお私がアセンションという事に意識しだしたのはこれが出た頃からでしょうかね。当時は、さほど真剣には思っていませんでした。今は、身魂を磨くという事は、難しい事なんだと、ひしひしと感じている毎日です。私は、縁ある多くの方達と共に、アセンションすることを強く意図します。
2008.02.15
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いつも、私が愛用しているマイボートの船外機がいかれてしまいました。朝に、買出しに行こうと思ってボートの船外機をチルトダウンさせようとしましたが、どういう訳か、まったく動きません。チルトダウン、チルトアップとは、係留中は船外機のプロペラ部分を海中から油圧であげておきます。これが、チルトアップ。85馬力の船外機なので、手動ではちょっと動きませんね。そして、出港時に船外機をダウンさせて走行するわけです。その、チルトダウンが出来ない!買出しをキャンセル出来ない日で、慌てていろんな業者さんに電話で対処方法を聞きました。その日は日曜日にもかかわらず、その方法を聞き出す事ができて、無事に買出しに行ってこられました。どうも、油圧で上げ下げする所が壊れたらしい。その後、いろいろ検討した結果、修理するよりも、新しい船外機を買うことにしたんです。(トホホ・・・)今までの奴は、10年くらいお世話になったからね。業者の方には、随分値引きしてもらって助かりました。なんせ、このボート、大変活躍するのなんの。建築資材を運んだり、海のタクシーだったり、磯渡しをしたり。離島の生活には、巡航船に頼らない方法として、マイボートは必要かもね。新しい船外機は、スズキの4サイクルエンジンで、60馬力。大変調子がいいんです。25ノットくらいは楽に出ちゃいます。(1ノットは、時速1852m、25ノットは時速45kmくらい)(高速船のブルーライナーで巡航速度18ノットです。)ちなみに、私のボートの船名は ユニコーン 5(ファイブ)。ヨットをやっている時からの船名です。ユニコーン(一角獣)の角は、どんな毒も中和して無毒にしてしまうとか。私の解釈は、“毒”というのは自分や周りの人達にとって、災いとか不幸な出来事とかと考えています。それらを中和して、災い転じて福と成すという具合に、幸せに成れるという、誠に勝手な解釈なんですね、これが。ちょっと、楽しくなる船名でしょ?我ながら、気に入っています。
2007.03.28
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ようこそ、お越し下さいました。「雅」を辞書で見ると、上品で優美な様とあります。日本人の、我が子を命名するにあたり、「雅」という字を用いる例は多いですね。名前は、親の我が子への願いが込められています。思いつくままに「雅」のイメージを言葉にすれば、余裕があり、幅があり、寛容で豊か、もっと言えば粋(いき)で遊びがあり「愛」がある。そんな意味が込められている「雅」は、日本人の美意識の極みだ。西行(佐藤義清)が、「雅」という言葉に出会ったのは14歳の時だった。西行が出家する前は、鳥羽上皇の北面を務め、武芸に秀でた武人であったと前回に記した。8歳で父を亡くして佐藤家の棟梁となり、紀ノ川のほとりにある広大な領地の管理、いずれ朝廷に出仕する為の武芸の鍛錬と、同年の少年には無い責任を背負っていた。その中で、弓馬の鍛錬の師から学んだ「雅の心」という事に心を惹かれていた。義清が、流鏑馬の作法も何も解らずに、ただ馬を走らせ、矢を射っていた時に、それを見ていた鳥羽院の重鎮、源重実から言われた言葉だ。「流鏑馬には一定の作法があり、すべてがあるべき型が定まっている。それから外れると、例え矢が的を射抜いても、それは雅な匂いを失う事になる。ここで大切なのは、的を射抜くという事と同時に、雅であるという事なのだ。何故なら、雅である事はこの世の花(美)を楽しむ事だからだ。矢を的に当てるという目的が達した時、人は満足し余裕が出来る。ガツガツしなくなる。余裕が生まれれば、この世を楽しもうとする気にもなる。その心が雅だ。しかし、目的に達した人が必ずしも雅であるというわけにはいかない。目的を達しても、また次の目的を定めてそれに力を注ぐ。それが達すればまた次と、息せき切って決して満足する時が無い。満足とは留まることだ。自分の居場所に気付くことだ。矢を射る時、的に当てる事のみを考える人は目的を追う人だ、だが、矢を射る事その事が好きな人、当たれば嬉しいが当たらなくとも嬉しい人、そういう人が留まる人、つまり雅である人だ。」秋の一コマその約1年後、頼りにしていた母が無くなった。8歳で父を、15歳で母を亡くし、義清には死というものが何を意味するものなのかを考えるようになったのは自然の成り行きだ。その頃から、義清の死生感は定まりつつあったのだ。前回と同じ、義清の独り言として記して見た。「あの、心優しく偉大な母が無くなって、あの悲嘆からは抜け出る事が出来たが、母が無くなったという事実は変わらない。人が死んでいなくなる事と、生きている事とどう違うのか。この二つは決定的に違っている。まるで矢が的に当たるのと当たらないのとが違っているように。矢が人に当たれば人は死ぬし、当たらなければ死なない。つまり、人の生死も矢の当不当も決定的な違いだ。しかし、重実殿は矢が当らない事にさして気を遣うなと申された。当不当を一喜一憂するよりも、矢を射る事を楽しむべきだと諭された。当たるも嬉しい、当たらぬも嬉しい、これが「雅」だと。当たる当たらないで一喜一憂するのは、下卑た態度なのだ。当不当に共通した矢を射る事に注目すれば、当不当は気にならない。そうだとすれば、人の生きる事と死ぬことが決定的に違っていても、両方を同じように楽しめるのではないか。当たるを喜び当たらぬを悲しむ事は雅ではないとすれば、生を喜び死を悲しむ態度も雅ではないはずだ。雅である為には、生を喜ぶとともに、死をも喜ばなくてはならない。矢の当不当には矢を射るという共通点があった。矢を射る事のみに注目しそれを喜べば、矢の当不当の煩いから超えられる。人の生死を超えた、矢を射るに相当するものが解れば、母の死も空白の悲哀ではなく、歓びと感じられるはずだ。」成人に至っていない少年の義清が、ここまで深く生死というものを追及している。これは、後に23歳にして出家を決意した背景に繋がっていると思われます。そして、後の心の友の死を迎え、死も生の一部なんだという事に気付いて行く。更には、「魂の不滅」という真理に触れる事が許されるのだ。雅とは、その中の「美」を求める生き方だ。そして「美」は、事が成るか成らぬかに一喜一憂する世界から解き放たれ、浮世の外の変わりない楽しさを生きる事なのですね。成るか成らぬかという結果はどうでもいいという事。言った事、やった事の動機が純粋で「誠」であれば、そこには「美」があるし、「雅」がある。イギリスの詩人、ワーズワーフの詩句にある「低く暮らし、高く思う」という言葉が胸を突く。今の私達が生きている組織という環境の中で、成るかならぬかが評価の大半を占めているのは事実でしょう。しかし、西行は3次元的しがらみを一切捨て去り、「無条件の自由」を得る事が出来ました。私も西行とまでは行きませんが、その雁字搦めに自身を縛りつけている鎖を18年前に決別し、「私は自由人だ!」と心から思えます。なんと、ありがたいことか。後の西行は言っています。「山里の貧窮の中に、浮世を離脱し生きながらに死者となった者の目が、どれほど豊かなものを見出すことが出来るか。」これは、解脱に至る道を歩んでいる者の誰もが経験する美意識だ。その道の過程で発見できる「雅の心」が、アセンションに繋がる意識変容のキーワードかもしれません。9月24日夕刻、こんな印象深い西の空の、西国浄土を思わせるような夕焼けでした。
2010.09.28
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