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2012年02月02日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 先月、あまりにもタイムリーに同時期に話題になってしまった「コンサートで携帯電話が鳴る」という話、2題。散々話題になっていたので、今更ですが。

 一つ目は、ニューヨーク・フィルのコンサートでiPhoneのアラームが鳴りだして、指揮のアラン・ギルバートが演奏を止めたという話。

 CNN.jp
http://www.cnn.co.jp/showbiz/30005258.html

 Newsweek Japan
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/01/iphone.php

 AFP
http://www.afpbb.com/article/entertainment/music/2850733/8303965


 一方、その数日後に話題になったのが、演奏会で演奏終了直後に携帯が鳴ったのを、その着信音を真似て弾いてみせて「笑いを誘った」「大人の対応」についての記事。こちらはメジャーなメディアでは取り上げてないんじゃないかと思いますが....

http://rocketnews24.com/2012/01/25/175409/

http://getnews.jp/archives/165875

 文脈的には、一部の記事では「この間NYでこんなことがあったのに、それに比べてこの対応の見事さ!」という書き方をしていましたが、後からその手の記事は修正されておりました。

 で。
 問題は、この記事に対する、特に後者に対する反応が極めて好意的なものが多かったこと。つまり、「大人の対応」とか「かっこいい」とかいう反応だけならまだしも、こうあるべき、みたいな反応が結構あった訳です。「音楽家なんだからどんな音楽も愛するべきだろ」みたいなのまでありました。


 そうした意見に与する気は毛頭無いのですが、しかし、翻って考えると、本当に携帯電話が鳴るのはそんなにいけないことなのですかね。
 いや、私は鳴って欲しくないし、鳴らしたくないのですが、それは何故なのか。音楽の邪魔をされたくないから?それはそうなのですが、しかし、じゃぁ、携帯はダメだけど、レジ袋がガサガサ鳴るのはいいのか?ちらしをめくるのは?鼻息は?(いや鼻息のでかい人って居るのよ。)くしゃみは?咳払いは?


 先年亡くなった黒田恭一に「はじめてのクラシック」という本があります。まだ絶版になっていないと思うけれど、講談社現代新書から出ていました。この本の中に、生で聞くこととレコードで聞くこととの対比、という話が入っています。生演奏を楽しみに出掛けたけれど、天候が、周りのお客が、連れが、それぞれに色々な阻害要因になってちっとも楽しめなかった。一方、レコード(CDだっけな?)で理想というべき素晴らしい環境での聴取体験を得られたのだけれど、楽しめた、と素直には言えない、という心持になった、という話。
 結局、生演奏というのは、一種の博打なので、環境を思う通りに調えることは出来ない、けれども邪魔をするだろうその外的要因が、実は生演奏ならではの楽しみに導いてくれるものでもある、という話なのですが。

 コンサートというのは、パブリックなものです。パブリックとは、平易な日本語で表現するなら、「誰にでも開かれた」ということだと思います。というより、皆に開かれたものでないと、コンサートというものは成立しません。もし、私だけに向けられたものを聞きたいのなら、私は全額自己負担で演奏家を呼んで演奏させることになる。
 昔も今も、そういうことをする人が皆無という訳ではありませんが、残念ながらそこまで酔狂ではないので、「皆」の一人としてコンサートに行く。少なくとも、演奏会を「私」一人で成立させることが、経済的にも、音楽それ自体の想定している空間を考えても、もう不可能になっている近代以降にあっては。
 ところが、この「皆」というのは、極めて不揃いな人達なので、百人百様の考え方をしている。でも、この不揃いな「皆」が集まらないと、コンサートというのは成立しない。この、不揃いの私達を集めてなんとか場を成立させる為の概念が、本来は、パブリックということである筈なのです。これを「決まり事」と考えることが、実は勘違い。


 とはいえ、事前に、各人の考え方を聞いて、基準に照らしてディスコの黒服(古いか)よろしく「あなたはOK」「あなたはダメ」と選別するのは、「誰にでも開かれた」とは言えない。
 誰かに決めて貰ったり、規制して貰うのは、とても楽なことです。でも、それは絶対に何処かで無理が生じるし、必ず「オレはそうじゃない」と言い出す輩が両方向に出て来る。そして、そもそもこんなこと「決める」ものではないし、ましてや「決めて貰う」もの、「規制して貰う」ものなんかじゃない。

 パブリックである、ということを端的に表現するなら、「あなたは私ではない」ということについて能動的に諦める、ということにあると思います。
 あなたと私とあの人とが皆同じ考えを持っていれば、ルールを叫ぶこともなくなります。でも、そうではないし、といって具体的に調整するシステムがある訳でもない。であれば、お互いに「あなたは私とは違う」ということを大前提としてまず受け入れる、ということ。

 そうすると、私はあなたと違うのだから、携帯電話が鳴るのは仕方ないじゃない、ということにやっぱりなるのか?ある意味に於いてはそうでしょう。でも、そこで止まってしまえば、ただのアナーキズム。

 なんでそういう方向になるのか、については次回。






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最終更新日  2012年02月03日 07時53分30秒
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