2022年12月07日
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カテゴリ: アニメ [映画、TV]

​『なぜログアウトしない?』
『どうして大人が同行しない?』
『なぜ竜はUで迫害されるのか本当の理由』
『クジラの正体は?』
『本作が「現代版 美女と野獣」である理由』​
『本作はなぜ意味不明なの?』などetc...

Ryu to Sobakasu no Hime logo
​PART2 補完解説編​

​​​​​​​​​ ​竜とそばかすの姫 ​​
​Belle​
2021年7月16日公開 日本 121分
■監督 細田守
■声の出演 中村佳穂/成田凌/染谷将太/玉城ティナ/役所広司/佐藤健



​​​​​ ■■■もくじ■■■
​『PART1 映画解説編』 ​≫ ​前回記事は ​ コチラ​ ​​
​​​​■1. はじめに
■2. 賛否両論となった本編に付いての閑談

■3. 主人公ベルが竜を救おうとする理由

■a. 死を掛けた母の行動が理解できないすず
■b. なぜ竜に「あなたは誰?」と問いかけたのか
■c. 恵の父親が腰を抜かす本当の理由

■4. 恵の父親の態度から見える恵達のその後 ​​​​


​『PART2 補完編』-前のり編-
恵の父親が窓を眺めていた訳
恵の父親もDV被害者?
中洲の場面ですずの手を取ったのは?
※文字数制限で掲載できなかった分をコチラに特別掲載w




​『PART2 補完解説編』​
  もっとディープに解説 !!!

補完編について

■5. 本作の批判に回答してみる
​「映画への批判を検討し
なぜログアウトしない?
  などの「疑問」「なぜ?」に回答解説」​
批判例01『 最後まで見ていられませんでした 』に回答
批判例02『 意味不明 』に回答
批判例03『 全体的に微妙 』に回答
批判例04『 つまらない 』に回答
批判例05『 感情移入出来ない 』に回答
批判例06『 脚本が浅くてチープ 』に回答
批判例07『 描き方が雑 』に回答
批判例08『 母性を理解していない 』に回答
批判例09『 兄弟だけで虐待に対処する結果が酷い 』に回答
批判例10『 どこに主軸があるのか分からない 』に回答
批判例11『 美女と野獣の引用は必要ない 』に回答
批判例12『 ベルに戻る展開は筋が通らない 』に回答
批判例13『 なぜログアウトしない? 』に回答
批判例14『 納得できない展開に呆れた 』に回答

■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受ける?
​​■a. 拡散する流言を真に受ける社会と偏った正義感
■b. 気軽に発散出来るネットと根拠なき正義
■c. 自警が主体の欧米の保安官
■d. 見た目を重視する清潔化(ルッキズム)の浸透
■e. 竜への迫害は竜自身が原因

■7. 割れた額縁に飾られた女性は誰?

■8. 恵はすずに振られたのか?
■a. 愛と恩の違いの「ありがとう」
■b. 本当の自分を好きになってくれた「ありがとう」
■c. 母に向き合えた「ありがとう」
 ● 弟「とも」は病気?
 ● クジラの正体は何?
 ● 3人が抱き合った意味

■d. 救えた事への「ありがとう」
 ● ​恵の父親は逮捕されてもそれで終わりでは無い理由

■e. 恵達を救った事で救われたすずの母
 ● すずがアンベイルしても再びベルになった本当の理由

■f. 暴力の連鎖を断ち切ったという意味
■g. DVの連鎖を断つという意味
■h. DV被害者に追い打ちをかける世間とその戦いという意味


■9. 大人が同行しない本当の理由
 ■a. リアルではこれが当たり前
 ■b. ジャスティンと対峙した事で既に経験済み
 ■c. すず以外招かれていなかったから
 ■d. 大人が付いて行くと恵達の死を招く危険

■10. ジャスティンは恵の父親?
■a. 「ペギー・スー」という名前に潜んだ意味
   バディー・ホリーと「音楽の死んだ日」

 ● 「ペギー・スー」はすずの母が救った子?

■b. 恵の父がジャスティンだった場合の坂の場面の解釈

■11.
すずにとってのしのぶくんの存在と
ラストの「ありがとう」の意味


■12. 「まとめ」
●a. 本作が「現代版美女と野獣」である理由
●b. 本作はなぜ意味が分からない映画なのか
   そして本作の「隠されたメッセージ」とは
​​
​​​
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​


▲目次へ▲
■補完編■
「もっとディープに解説 !!!」



ここからは補足として

「なぜ竜はUであそこまで迫害されるのか」
を解説して欲しいという要望が出ましたので

重複する所があるかも知れませんが 解説しながら
本作を更に深く考察していきたいと思います



今回は「批判」を込めた映画の解説という
小規模な更新だったはずでしたが

その後 改めて考察をし直しまして
再び目を皿のようにして映画を再鑑賞してみた所

次から次へと新たな真実が見えてきまして・・・

映画を再考察すればするほど
製作者の意図はもっと隠れた所にあって

それを読み間違えていた事が段々と分かってきたのでした


前回の更新では
「鑑賞者にミスリードをさせる困った映画の失敗作」
と評した本ブログでしたが

前言は撤回しまして・・・


この映画は以前当サイトでも解説した
大島渚監督の『 戦場のメリークリスマス
マーティン・スコセッシ監督が演出した
マイケルジャクソンのMV『 BAD
庵野秀明の 旧劇場版エヴァンゲリオン
クリストファーノーラン監督作のミステリー『 プレステージ

などの

「鑑賞者にミスリードを体験させる為に
鑑賞に必要な情報を意図的に抜いたタイプの作品」
と捉え

「意味が分からないのには意味がある」
「人が見た目では中身が分からない事と同じである」

という世の中の当たり前な「道理」を描いた映画として
その真意を更に深く探って行きたいと思います


補足編の今回は10万文字もの大長編となり
加筆修正したPART1も加えた全編はもはや
いつもの出版クラスの文字数となりましたw


ともあれ 順を追って説明していきたいと思います


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■1.本作の批判の検証■

PART1 の記事にも書きましたが
本作は大ヒット作でありながら賛否両論となった事でも

異色作と言えますが

その批判の多くが
その批判の要因となるものさえ無ければ
最高の映画であるという意見も多い事から

ある意味その批判の要因である事が解決出来れば
この映画が再評価される事に繋がるという事になります


そこでまずは主な「批判」を検討し
それはどういう性質の「批判」なのか
それは本当に「批判」なのか
確認する所から始めて

それを本作に於ける「疑問」と捉えて
解説して行きたいと思います


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■1.本作の批判の検証■
批判例1
『最後まで見ていられませんでした』に回答


映画の結末まで観ていないという事は
映画の構造上の問題を指摘しているのでは無くて
鑑賞者の方の 「メンタル」 の問題になるので

ある意味批判に値する意見として
尊重いたします

そういう事では無く
「最後まで見ていられなくなる程意味不明だった」という
比喩の意味での意見という事なのであれば

批判という意味では主観的過ぎますし

どちらかと言えばある種の思い込みで鑑賞していた事で
想像と違っていた内容に対しての抗議という意味が

強い印象がありますので

その場合は次の批判例を参照されてから
再考されるのも良いかもしれません



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■1.本作の批判の検証■
批判例2
『意味不明』に回答

これは本作の批判の中でも圧倒的多数を占める意見でした

ただこれに至っては
映画の意図を把握できるかどうかという
ある程度の映画鑑賞歴と映画の目利きが出来る能力が
必要とされる事でもあるので

一般の方の鑑賞での場合は傾向として
この様な意見はどの映画にも見られる現象ではあります

本作にこの様な意見が出る背景には
一般の観客 の方々が 映画に臨む事

まず 「分かりやすい」 というのが第一にある所に
理由があると言えます

本作の様に観た人に答えを投げかける様なタイプの作品は
呟きにコメントやナイスをする事でコミュニケーションを取る
SNS全盛の現代に於いてはマッチした作風と言えるのですが

良い映画には劇場でも声援を送り
駄目な映画にはスクリーンに向かってビール瓶を投げつけて
サムダウンの意思を示す欧米の鑑賞スタイルとは異なり

日本の映画観客層は鑑賞するのみの 「受け身」 が主体なので
本作の様な「描かない所は各自で想像する」タイプの作品は

脚本に 「穴」 が開いている様に感じるのだと思われ

「意味不明」では無くて 「意味が分からない」 というのが
本当の所なのではと思います


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■1.本作の批判の検証■
批判例3
『全体的に微妙』に回答

これも批判の多数を占める意見です

映画の鑑賞後感に対して「面白くない」という様な
映画の出来が明らかに悪い事を端的に示す言葉とは異なり

「微妙」という感想は多分に観念的で
90年以降の上から目線で物事を評価する風潮下での
「マウント文化」を堺に誕生した言葉という印象があり
80年代までは無かった表現ですが

映画の完成度には触れずに自分の「琴線」に触れなかったという
評価の中心が「映画の出来」では無くあくまで「自分」にあり

その鑑賞が 「退屈」 だった事を訴える

鑑賞に於いての 「居心地」 を評価の基準に捉えた
感覚的な言葉の様に思われます

従って本作の鑑賞が「琴線」に触れる所が無く
鑑賞中の「居心地」も「退屈」だったのであれば

当サイトの解説を読んで本作の真意を理解して頂けたとしても

それで見た目の「感覚」の「微妙」さが
変わる事はありませんので

「なるほど」 としか言えません


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■1.本作の批判の検証■
批判例4
『つまらない』に回答

これも先程の『微妙』同様 感覚的な意見ではありますが
私の様な平成以前世代でも使う言葉なので

マストな言葉だと言えます

これに至っても
当サイトの解説を読んだ事で映画の鑑賞感が変わる訳では無いので
「そうですか」 としか言えませんが

先程の『微妙』とは異なり
映画の構造に対して出た言葉という意味にも
取れるものがあり

映画のプロットに魅力を感じられないという事なのであれば
本作に潜んだ真意を掘り下げる事で

又評価も変わる可能性もありますので

その様な方々は是非
当サイトの様な 「映画解説」 を観覧して

再度、鑑賞して頂きますと
面白く鑑賞できる 新たな発見 があるかもしれません


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■1.本作の批判の検証■
批判例5
『感情移入出来ない』に回答

私は映画レビュアーの端くれですが

通常 映画に引き込まれる様に鑑賞するという事はあっても
映画を特に個人的な感情移入をしながら鑑賞するという事は
殆どありませんし

周りの鉄壁の映画ファンの方々の中にも
「感情移入」の入り具合で映画の良し悪しを計る方は
知る限り聞いた事は無いです

従ってこれはこの方特有の鑑賞法という事になりますので
「そうですか」 としか言う事は出来ません


ただ、映画鑑賞に対してこの様な意見を述べる方は多く
そういうタイプの方々は映画を 「体験」 だと捉えて

映画に感情を揺さぶられる何かを期待して
鑑賞しているという印象があります

つまり「演劇」の要素や「音楽」の要素
「映像」「美術」などの要素を含んだ

「総合芸術」を愉しむという「鑑賞」を嗜むのでは無く

映画の登場人物達が自分に近しい存在や
同じ道のりを歩んでいるなどの
「共感」 できる何かを求めたり

「全米が泣いた」「ハンカチをご用意下さい」
などの感情に訴えるコピーに惹かれて映画館に足を運んで
「癒やし」 を求めたりするなど

映画を 「エモーショナル」 に捉えて
自分の気持ちを投影する 「受け皿」 となりえるものが
良い映画として捉えている印象があり

そんな感情を揺さぶられるドラマに心を寄せて
自分とは 異なる人生を対外的に「体験」 する事を望んでいる
と思われますので

その様な鑑賞をされるのは
非常に 豊かな感受性 を持っている方だという事が分かります

故に本作の主人公は
社会から自分を隔絶した中で
世界に身を置こうとしている

「自閉」 して自分の気持ちを周りに出さない
社会にコミットしない「Z世代」ならではのタイプの人物なので

主人公が作る音楽のエモーショナルで多彩な創造性とは裏腹に
行動原理は全てに於いて自閉的であり

「情報」の観点からも主人公の感覚を「共有」して
実存感を持つ事は同じ感性の持ち主で無ければ難しいものがあり

その辺りに 感情移入出来ない 要素があると言えます


本作の「U」空間での多彩なビジュアルの拡がりは
人間の「内面」を反映させた 「深淵」 でもあるので

この様な現実世界とは異なった「異世界」的空間は

例えば「ファンタジー」作品の様に
「ラノベ」「アニメ」「ゲーム」などの舞台としておなじみの

ビジュアルや世界観などが
ある程度の認知度が望めるものとは異なり

感情を投影出来る様な共有する要素を見付けにくい事からも
感情移入出来ない 「違和感」 につながっているのだと言えます

また本作で描かれる 「DV」 は いわゆる社会問題ではあっても
どう対処するべきかという様な
具体策 が提示される内容では 無い 事などが

それが映画の重要な 「要素」 ではあっても
それ以上でも以下でも無いという印象を与えるという

核となるプロットに対しての 不信感

感情移入以前に 「共感できない」 要因になっていると言えます

それはこの映画の「感動」が共感する「感情」を超えた所の
心のもっと深い場所にある 「琴線」 に触れる

「信念」 「良心」 に訴えるタイプの作品である故に

「感情移入」とは 異なる要素 を中心に添えた演出に
その様な印象を持つのだと思いますので

これは感情移入出来る出来無いの問題では無く

「そういうものです」 と言うしかありません



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■1.本作の批判の検証■
批判例6
『脚本が浅くてチープ』に回答

本作での「U」の中でのやり取りや
世界のユーザー達の描き方がやや画一的で
ある方向に偏った描き方になっている所に

私もその様な感覚を持った事はありました

ただ、この様な意見を言う方々の多くは
本作に限らず最近の映画がその様な傾向にあると言う様な
映画全般の総評 になっていたりと

おそらく本作が『バケモノの子』まで担当していた
『八日目の蝉』の脚本家 奥寺佐渡子の不参加に対して
異を唱えた
映画に詳しい方 の意見と捉える事が出来ます

しかしその多くは「使い古されている」「アマチュアレベル」
といった画一的なワードを多用した 観念的 な論評で占められ

ことさら「脚本」というワードを使っているだけに
どう脚本が浅いのかを具体的に上げて
映画の構造的欠陥なりを深く掘り下げた意見
という訳では無い所に

信憑性 という点に於いて 欠けている 印象を受けるものがあります

本作はむしろ 「正解はない」 という理念で
脚本を書いているという印象があり

「虐待」 という要素一つ取ってみても
アニメの監督が 答えを出せる様なものでは無く

社会全体 が取り組んで考えていくべき 社会問題 であるという
その様な問いかけで全編が出来ているという性質から

「チープ」 というよりも 「空欄」 だと
言う所にその様な印象を受けるものがあるのかも
しれません


▲目次へ▲
■1.本作の批判の検証■
批判例7
『描き方が雑』に回答

「面白さが見いだせない」という意見の中に
「キャラクターの役割や行動の動機の描き方が雑」
という理由を述べているものがあり

多分に主観的な印象はありますが
具体的で興味深い意見だと思いました

この様な方に取って映画とは
場面を丹念に積み上げる事が
クライマックスのダイナミズムに繋がり
鑑賞に於けるカタルシスを産み出す という様な

映画の完成度を求めた上で「感動」があるという
何事にも集中して事にあたるタイプの方だという印象があります

これに付いても先程の『脚本』のケースと同様で
本作は描き方が「雑」というよりも
そもそも 「描かない」 演出になっているので

「描き方が雑」では無くて
「描き方が丹念ではない」 と捉えるのが正しい様な
印象があります


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■1.本作の批判の検証■
批判例8
『母性を理解していない』に回答

「SDGs」 をスローガンに差別のない世の中を目指し
誰も取り残さない社会作りが叫ばれる昨今

「母性」という言葉は 子育てありきで女性を縛る言葉として
女性蔑視発言 に当たると
問題視 される様になった現在に於いて

批判ワードに「母性」を使う方がおられた事に
若干の戸惑いを感じるものがありましたが

この様な言葉を使う 真意 とは何かを考えると
おそらく 「親の資格」 の話をしているのでは無いかと
思った訳です

つまり 親だったら行動を起こす前にまずは
自分の 子供の事 が頭によぎるのが 普通 であると

しかしこの映画の母親は自分の子供の事を考えるよりも
自分の主義主張を優先し行動し

その盲目的信念に基づいて命を落としている事から
全く 人として理解できない 、異端者である

という事を言いたかったのでは無いかと
想像した訳です

であるとすれば
「SDGs」の精神にある 「多様性」 に基づけば

子育てよりもまず主義主張を優先する「生き様」も又
人の世の「多様性」であると捉える事が出来るので

その様な捉え方をする人が居るという事を認めるとしても

その様な人物の行動を 理解する必要は 一切無い と言えます


本来差別のない公平で平等な世の中とは

その人物が白人で「白人最高」と本当に思っているなら
その人物が女性が「母性」があると本当に思っているなら

その様な事を口にする人物を理解する必要は無く
問題視する事も無くなるので

その様な事を普通に口に出来る社会が
本当の差別のない社会だという事になります


しかし人種問題や差別問題などの人類の歴史が
それを不可能にしているのであって

何かを口にする度過剰に問題視したり
問題視される事を気にする様な内は

それはまだ「問題に取り組む前の状態」ではないかと
思ったりもします

ともあれ・・・

人の信念や行動に対して「理解できない」という主観では無くて
「理解していない」 という意見を言う事は

これからの世の中ある種の「リスク」を伴うという事を

それこそ「理解」してから言うべき事になるのかも
しれませんので

気を付けたい所だと思います


▲目次へ▲
■1.本作の批判の検証■
批判例9
『兄弟だけで虐待に対処する結果が酷い』
に回答


この世の中にこんな酷い家庭があるのかという感想であれば
その通りであり

この映画の兄弟の例の様に社会は「誰も助けてくれない」というよりも
社会に 「余裕がない」 現れが この様な家族を孤立させる

最大の要因と言えます

この映画の対処の結果が酷いと感じるのであれば
ではどの様な世の中になれば この様な家族が取り残されないのか

「SDGs」の取り組みは単なる念仏では無くて
一人ひとりの意識の改革の問題でもあるという

「社会に余裕が無い」では無く
余裕を生み出す為の気持ちの 「ゆとり」 を持つ事が

この映画の結末を酷いものにはしない
誰にでも出来る 唯一の方法だと言えます

が、そういう事では無くて・・・

単に この映画の結末が酷い という意見なのであれば
それは脚本の問題というよりも鑑賞者の主観の問題なので

「全くその通りですね」 としか言えません


▲目次へ▲
■1.本作の批判の検証■
批判例10
『どこに主軸があるのか分からない』
に回答


本作は現実世界と仮想世界が舞台で
主に仮想世界でのやり取りが現実世界に反映される内容に
なっているのですが

最終的に到達する場面での答えが
私達に対する 「問いかけ」 である為

映画全体から明確なものが受け取れ無かった様に捉えられ
その様な印象を持たれたのかもしれません

この映画の造りはどちらかと言えば
「竜は誰?」に集約されており

悪の権化とまで言われ様々な人物が容疑者となって取り沙汰される中
驚くべき人物が竜だと分かり
その衝撃の真相が明らかになるという

「ミステリー」 の要素が強い印象があります

その様に捉えれば「何処に主軸があるのか分からない」物語も
ミステリーならではの 布石 だと捉えれば

当然と言えば当然という印象もありますので

その様な評価となるのは
ミステリー映画的には「実に良いお客様」
という事になりますw


そういう事では無く・・・

主人公すず と その周りの人々の他に
仮想空間「U」での体験の他
すず達と絡まない 遠く離れた外国の人物達も登場し

それらが有機的に絡んでいる様には見えない所に
そう感じるものがあるという事なのであれば

その様な様々な要素が 同時多発的 に進む事が
『主軸』が分からない様に見える要因があると言えます

しかしこれは正に

手のひらサイズで世界にアクセスしては
次の瞬間目の前の仕事に準じて
来訪者と語りながら離れた者と連絡を取り
時には癒やしの時間を過ごし
秒単位で変わる世界の情報を入手して
その様な日々の生活を生きる

生活にネットが欠かせなくなり
日常の行動が複雑化して 『主軸』 となる生活が 『多様化』 した

「私達の姿そのもの」 だと言えます

従って本作の『主軸』の分からなさは
ネット社会となった 社会の多様化した姿 の現れとも

言えるのかもしれません



▲目次へ▲
■1.本作の批判の検証■
批判例11
『美女と野獣の引用は必要ない』
に回答


「必要ない」のでは無く
そもそも本作は 現代版「美女と野獣」 として制作された映画です

それはインタビューで細田守が言及しておりますが
この意見の主旨はそこでは無く

『美女と野獣』の要素が
余りにも表面的過ぎて物語のコアとして機能していない
故に引用に過ぎない

という事を言っているのだと思います


確かに本作を鑑賞していると
学校での現実社会と「U」での仮想世界とを繋ぐ要素としての
「美女と野獣」が機能しておらず

表層的というよりも唐突感が著しく
全体の物語にコミットしていない印象がありました

が、

それは私もそうでしたが、
この映画が「ダメ映画」で「ダメ脚本」の「失敗作」
に見えるのは

これは鑑賞側がこの映画を「表層的に観ている」現れであり

この映画を観る視点が「一般的な視点」であればある程
その様に取れる様に出来ているからだと言えます


これは「映画解説編」でも書きましたが
この映画が 「薄っぺら」 に見えるのは

この映画が描いているものが
多層に渡ったレイヤー構造を持った
言わば「玉ねぎの皮」の様に何層にも重なった意味を持ち
層の一枚一枚に意味があって
本当の意味は奥の芯の中にあって
普通の人には分からない様に隠されているという

「社会の構図」 そのものであり

通常私達はその表面にあるもので判断し
目に見えるもの 「全て」 だと捉えがちになる所に
理由がある様な印象があります


説明しますと

「人」は 他人の心の中は見えない ので
目に見えるもので評価して捉えるしかありません

又、その様に評価された「その人」も
本当の自分 の姿はそうでは無いと感じているものです

つまり他人が下す人への 「評価」
その人の 「真の姿」 の間には

「いくつもの隔たり」 がある訳です

それは複雑な人物であればある程
幾つもの 「階層」 の様に重なった 「様々な面」 を持ち

その様な人物の 「真の姿」 に辿り着くには
その人物を 「深く掘り下げる」 必要がありますし

それが 「人」 だと言えます


同様に
社会で起こっている出来事の「真相」や「真実」や「真意」なども
多くの場合 表層的な事しか捉える事は出来ません

それを知るには「情報」を集めて「真相」に迫るか
「裏事情」を知って「真実」を知るか
当事者に真相を語ってもらい「真意」を求めるか

物事が複雑になればなるほど
様々な実情が階層の様に重なって

「本当の事」に辿り着くには
物事を深く掘り下げなければなりませんし

それが「社会」だと言えます

ある出来事に対して本当は何が起こっていたのかという様な
後に書籍化された本などで真相を知った時の
真実だけが持つ深みと重さに
驚天動地な程の衝撃を受ける事は多々ありますが

その様に
「自分が知っていたのは真実の中のほんの上っ面だけだった」
という様な事を知るのが 「体験」 であり

その様な人々の体験が 経験度 として 仕分け られて 階層化 したものが
「社会の構図」 だと言えます


その様な見えるものの下にある
もっと奥にある真相に迫ろうとするには
それが 「人」 だろうと 「社会」 だろうと 「映画」 だろうと

それを紐解く 「鍵」 に気付く必要があるという事になります

本作の「鍵」は
【PART1映画解説編】で解説しておりますので
参照して頂くとして・・・

その様な「鍵」の存在が認められる場合は
映画が「階層化」している「証」となる訳です


そして人は心の中の 「本当の自分の姿」 に対して
社会的な立場としての社会人を演じる

「社会の顔」
を持って社会を生きており
ある種 「仮面」 を付けて社会を生きていると

いう事になります

本作で描かれる「美女」や「野獣」は「仮面」を付けた姿であり
この場合の「仮面」とは
ネットの 「匿名性」 だと捉える事が出来ます

つまり本作「竜とそばかすの姫」の「美女と野獣」の「仮面」は

SNS全盛のネット社会の ユーザー である
私達自身 の姿を差していると言えます



つまり私たちはこの「匿名性」を利用して
「美女」にも「野獣」にもなっているのだと

映画はその様に問いかけているのでは無いかと
思える訳です


原作での「野獣」は「いわれのない罪」を 「背負う者」 として描かれ
「美女」は いわれのない罪を「背負う者」を 「理解する者」 として描き

「いわれのない罪」は「第三者」の
「思い込みをする者」 によるものして描かれ

物語に投影されていました


本作での「美女と野獣」の描かれ方は
現代の複雑な社会の事情が反映された内容になっており

現代に於ける 「いわれのない罪」 とは
事情を知る由もない第三者達による

「デマや誹謗中傷」 であり

そのデマや誹謗中傷を生み出す 要因 となるのが
「匿名性」 という 「仮面」 であるとして
物語に投影されているので

これは物語を「引用」しているのでは無く

これが本作が 『現代版 美女と野獣』 として描かれている
所以だと言えます


加えて本作が描く「野獣」とは 「攻撃性」 を指してはいても
「匿名性」に潜む「攻撃性」には「悪意」が潜むものがあり

先程「階層」の所でも語った
「表面的」な「仮面」の下の「真の姿」は「異なる姿」があり

同じ「攻撃性」でも全く 「性質」 が異なる事が分かります

それは「美女」も同様に
「悪意」が潜む「攻撃性」を持つものすらある事を意味します

そしてそれらの「攻撃性」を生んでいるのは
他ならないこの 「ストレス社会」 であると捉え

その様な複雑なネット社会を通した現代社会の事情を
「美女と野獣」に投影して描いた
本作の「野獣」も「美女」も「仮面」であるならば

表層的な捉え方では本当の事は分からないという事になります

そうして捉えてみますと
賛否両論となった 本作のあのダンスの場面の真意は

ダンスが成り立つには お互いを尊重する 必要があるという
「大前提」を考慮すると

主人公の二人がどの様に人として繋がっているのか
深く掘り下げるまでも無く分かる 様に見せたという

映画ならではの 「表現」 としての狙いと
それ自体が映画を紐解く 「鍵」 としての役割を持っていた事が
見えてきます

故に本作は「階層化」の存在と「美女と野獣」の必然性が
あると言う事になる訳です


つまり映画が語る「美女と野獣」の「仮面」である
「匿名性」に潜む 「悪意」 とは

ネットユーザーである
私達一人ひとりに潜んでいるかもしれない事として

自分が相手に見えない故に
自分の言動によって相手がどうなったのかを知る事も無い

「無知」 が生み出すものだと語っているのであり


「匿名」とは個人情報保護の為の「盾」であると同時に
「匿名」故に見えない相手を気にせず攻撃できる
「矛」 でもあると語っていると言えます

本作の「野獣」こと「竜」とは
家庭の問題に 苦しむ 少年を 救う事が出来ない社会 憎悪 する
「負の群像」 であり

本作が語るそれらの問いかけは
本作が『美女と野獣』だと 気付いた時 に初めて 見える 事なので

本作の『美女と野獣』が引用程度に感じるのも
それによって批判されるのも

「匿名性」に準ずる「社会の構造」故に見えないのだと
「映画」そのもので 自虐的 に語っているのではないかと

思う訳です




▲目次へ▲
■1.本作の批判の検証■
批判例12
『ベルに戻る展開は筋が通らない』
に回答


本作が
「臆病だった少女が偽りの仮面を脱いで素顔の自分を受け入れる」
という内容であるならば

ジャスティンの緑の石の光を自ら浴びて
ベル の仮面を外しアンベイルした「すず」が
普通の女子高校生である事を全世界に晒した時に

すずのままで歌った唄に世界が感動して一つになり

それをきっかけに「U」で野獣の竜となり社会から孤立してきた恵が
現実社会で家庭の事情と向き合い問題と闘う事を決意し

「U」で歌姫のベルとなり社会と途絶してきたすずが
実社会でも現実と向き合い閉ざしてきた心を開き
ありのままの自分を受け入れ
すれ違ってきた父親とも打ち解け
しのぶくんとの恋も実り

もう「ベル」の仮面を付ける事無く
ありのままの自分のままでこれまでよりももっと積極的に
現実世界に関わっていく

という展開を期待していたら

謎のクジラの登場ですずの ベイル(Veil 覆い)が復活 して
ベルに戻って 唄い始める展開に

これでは「仮面では無く素顔を選んだ」という
本作が描いてきた事に対しての 筋が通らない

という意見での批判だと思います

本作がその様な筋立てで物語が進んでいるのもひとえに
「美女と野獣」の現代版として描かれている為と言えますが

それだけに「美女と野獣」の結末を投影させたものであるべき
という意見が出るのも至極当然だと言えます


つまりは
そういう作品では無かった 訳です


簡単に言えば
あの場面の「ベル」とは「アーティストとしてのすず」の姿であって
「すず」 そのものでは無い ので

歌っている時は「ベル」になったのは
「正解」だと言えます

つまり
これまで現実逃避として利用してきた「ベル」という存在から
「すず」を切り離した姿が今の「ベル」であり

あくまで「U」に居る時に「ベル」になる事にしたという
「すず」の中で折り合いをつけた表れが

この場面となったという事だと言えます


もう少し深い意味としては・・・

本作は今後、特にネット社会に関わって来る
「メタバース」 を描いた作品でしたが

SNS全盛以前の社会では
「個人情報保護」の必要性すら感じられなかった事が

スマホの普及と共に不特定多数がユーザーとなるネットが
社会の第二のインフラと認められる様になると

「Twitter」や「Instagram」などで
通常私達が「匿名」という「仮面」を付けてアクセスするのは

今ではネットにおける社会行為となり

それと共に
「個人情報保護」の必要性が重要視される様になった様に

「メタバース」がネット社会に導入されて以降の社会は
現在の価値観では必要性すら感じられない新たな価値観が付随される事は

想像に難しく無く

故に本作の主人公がアンベイルして「仮面」を取る行為は
現在の価値観を投影したネットの「匿名性」を捨てる行為

とは異なる

主人公すずの個人的思惑で行った
意思表示に他なりません


この仮面に当たる匿名性とは
先程も語った様に盾であり矛でもあります

同時に
私たちは現実社会でもある意味「社会人」を演じている様に

この仮面とはネット社会でも「キャラクター」を演じる為の
ネット社会に於ける必要な「人格」でもあります


スマホが普及する前にネット以前の社会なら
本当の自分に戻る結末は美しい終わり方だったのかもしれません

しかし現代の現実社会に社会人としての「人格」がある様に

これからの未来は
ネット社会にもネット社会人たる「人格」が不可欠だという事を

すずが再びベルの仮面を付け
ネットにおける「人格」を受け入れる事で
映画が示唆したとも取れるものがあります

その理由として

人は「ありのままの自分」を見せたくても
様々な障害があって見せられないという

ある意味現在の社会に「囚われた状態」にあると言えます

この場合の「ありのままの自分を見せる」というのは
映画の中でジャスティンがする様な強制的にアンベイルして
「個人情報を晒す」という事では無く

「匿名」という「仮面」を付ける事で
余計な「個人情報」を晒さずに
「ありのままの自分」を見せられる「自由」を得るという

「囚われの状況からの開放」 がそれに当たり
それが本作の真のテーマだと言えるからです



元々 「ベルじゃなくすずのままの姿で呼びかける」
と言い出したのは しのぶくん でしたが

この一見突飛に思える発想は

北九州に住む一般の方がSNSで受けた
デマを書き込まれたという実際の事件で

「アカウントを 実名 にすれば不要な誹謗中傷や嫌がらせは無くなる」
という被害者の 実体験 を通した着想に付いての言及にもある通り

「匿名」とはある種の「責任感の放棄」であり
これが「不要な発言」の温床となっている事からも

責任が伴う意見を語るには「匿名」という仮面を外して
自分がどれだけ本気なのかを意思表示するのは

ネットも現実社会も同じ であると
語っているのだと言えますし

これが今後の「メタバース」社会に於いての
スタンダードな捉え方となる可能性を示唆したとも考えられます

この場面のしのぶくんの意見が突飛に感じるのは
私達がまだ「メタバース」社会以前のネット社会しか知らないから

という事なのかもしれません


SNSやネットを仕事や学校、交友関係で日常的に利用している現在、
不要なデマや誹謗中傷の被害を受ける可能性は常にあると言えます

故に ある種の「匿名」という保護措置は必要に迫られるものであり

それだけに 「匿名性」 が持つ仮面の
「盾と矛」 という二面性の意味と

「自由を得る」 という
ありのままの自分を見せる方法としての意味を

もっと深く考えなければならない次の「フェーズ」が来ている事を
映画が提示しているとも取れるものがあります


かつて2016年の都知事選に出馬した鳥越周太郎氏は

「ペンの力」を信じるリベラル派としては
最右翼にあたるジャーナリストの立場で
誰も取り残さない都政を牽引する事を力説して来ましたが

「ネットはしょせん闇社会」 発言がきっかけで
「ネット社会」の理解の無さを有権者の知る所となって

SNSを味方に付けた小池候補に全ての風向きが代わっての
落選だと言われました

いち早くネットのホームページに取り組んだ事のある
鳥越氏程の人物でもこの様な思い違いをする程

今や私達の社会には無くてはならない存在のネットを

当時の社会ではまだ予想する事が出来なかった
良く分かる例だと言えます


この場合の 「理解の無さ」 とは


その様な新しい物事を「理解」出来ない層が
新しい物事を受け入れる事が出来ない余り
「存在しない」事にしてしまおうとして

端的に 「切り捨て」 様としてしまう働きであり

その様な層が世の中がネット社会という
新たな「フェーズ」に入った事を理解できずに
それを否定する事で世の中から淘汰される行為を
無意識に取っているという意識も無い故の

一つの現われだと言えます


「メタバース」の場合も同様で
今後「メタバース」がネット社会でどの様な位置を占めるのか

想像することが出来ない事が背景となり

本作の「U」空間の描き方に対して
現在の価値観 を投影して
すずがベルに戻る事を否定 してしまう事は

「メタバース」は元より
これからの ネット社会そのものを否定 する事に繋がり

鳥越周太郎の「闇社会」発言同様の失言となる
可能性があるのか・・・

までは分かりませんが

今後「メタバース」がネット社会にどう関わって行く事になるのか
注目する所ではあります


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■1.本作の批判の検証■
批判例13
『なぜログアウトしない?』
に回答


これもこの映画に対する圧倒的多数な意見の一つで

ジャスティンに捕まりそうになったのなら
直ぐ様ログアウトすれば逃げられるだろう

という演出に対する 素直な苦言 という
素朴な疑問 だと思われます


しかしこれは 「やってはダメ」 な理由があるから
主人公はログアウトしないわけです


これは先程語った
「ネット社会に於ける次のフェーズ」まで思考を巡らせなくても
普通に考えれば駄目な理由が自然と出て来る事なので

理由が分からないという方もどういう事なのか
少し考えてみながら読んでみて下さい



かつてSNSで誹謗中傷を受けた事を警察に訴えた時に
「SNSをやらなければ良い」と答えた日本の警視庁は

ネット社会が現在の様なものになる事が
微塵も想像できなかったと言えますが・・・w

現在の「ネット社会」が第二のインフラと呼ばれる様に
この映画の世界は
「メタバース」が第二の故郷と呼ばれる世界を想定した
ネット社会の次のフェーズを描いたものなので

現在はSNSやメールが 「証明」 として使用され
SNSの投稿では
その発言によって社会的責任が問われ
「逮捕」 すらある世の中になって来た事で

現実社会もネット社会も「生きる世界」となった様に

映画で描かれる世界で生きる人々にとっては
「現実社会」も「メタバース」も

どちらも 「生きる世界」 である事になります

「世界」であれば現実世界同様に「社会」であり
「社会」であれば「警察機構」も存在する事になります

映画の中では「U」の創造主の「Voices」は
「公平」を理念に「警察機構」は作らなかったとなっているので

「ネット」の出現を想定しなかった現在の「資本主義」が
限界に達したと呼ばれる現在

「平等」よりも「公平」な社会を目指している所に
この様な作品が新たな社会理念を提示したと
感じるものがありますが

その様な「新しい社会」の枠組みを想定した
メタバース空間である事を 念頭に置き ながら

本作を見てみると

映画の中でのジャスティン達は
話が進むに従って 自分達の理想を人に押し付けているだけの
単なる「徒党」である事が判明しますが

それは私達が 映画として内容全体を鑑賞 して把握しているから
分かっているだけの事であり

少なくとも 問題の場面の時点
すずがジャスティン達の高圧的なやり方に
「疑問」は持っていたとしても

「単なる徒党」とまではまだ考えが及んで居ないと
捉える事が出来ます


であるならば、 ジャスティン達 は自警団ではあっても
ある種選ばれた立場の、欧米で言う所の 「保安官」 であり
事実上の「警察」 である事を
すずは 認めていた 事になります

従って

​少なくともその様な 「警察」 に追われて​
​「逮捕」 を逃れる為にログアウトして
「逃走」 する様な真似は​​



スピード違反で警官に捕まったら
逃走すれば良いと言っている様なもので


まともな人物であれば
​​ 普通 やりません ​​



という理由で「ログアウト」しなかった訳です

日本にはない「保安官」制度に付いては
この後説明するとして・・・


仮に ジャスティン達を認めない という考えで
「ならず者」となる事を覚悟して「ログアウト」したとして

ジャスティンに捕らわれたベルが
親友の機転で逃げた時にスパンコールの様なものを落とし
それがいわゆる「クッキー」か「IPアドレス」的な 痕跡 として
残る描写がある事からも

「ログアウト」するにも正式な手順で行わないと
所構わず行えば 残留物 が残りそこから痕跡を辿られてしまう様な

「不用意に行動できない」 ものがあると捉える事が出来

どちらにしても「ログアウト」すれば済む様な問題ではないと
いう事が言えます


一方で

「それならそうとメタバース空間は
やおら 「ログアウト」すれば良いという場所ではない
という事をもっと 明確に描いておくべき だ」

という意見もあると思いますが
これは映画の解説でいつも言っている事ですが

物事を 明確 にする 「演出」 「手法」 の一つではありますが
明確に描かない のも 「演出」 だと言えますので

それはただ観客の 理解に繋がらない
「リスク」 が伴う事であるか無いかという 「選択」 に於ける

「結果論」 に過ぎません


90年代に一世を風靡したアクション映画の金字塔の第二作
『ダイ・ハード2』での空港内のやり取りの中で

当時世界のオフィスに普及していた「FAX」を使って
指紋を参照し便利な時代になった事を強調したり

携帯電話が一般的ではなく「ポケベル」が全盛だった頃
ポケベルが重要な役割を果たしたりと

ハイブリッドな時代になった事を明確にする為
これらの 「アイテム」 を積極的に利用した演出が取られましたが

そもそも「ポケベル」をリアルタイムに知らない世代はともかくとして

今や時代遅れとなったこれらのアイテムは
むしろ懐かしさすら感じるものがあり

映画が提示する 「ハイブリッドな時代」 を強調するには
今では 過不足 であると言わざる負えないので
むしろ明確な強調は無しにしてこれらの機器を

説明無しに 「普通」 に使えば
今見たとしても 「そういうもの」 に映るので

数十年後に苦笑混じりの鑑賞になる事は
避けられたと思われます


「明確に描く事」 とはそれと同じで


今では必要な事が今後過不足となり
助長的にすら感じる事に繋がる可能性も出てくる
そういう 「リスク」 もある訳です

本作の場合はメタバース空間は既に社会に浸透して
既成の事実として捉えて描いている所から

今後訪れると思われる「メタバース社会」が浸透した時の
余計な説明を省いた「先取り」な演出だったと取れば

その様な説明に割く時間を割愛した
リスクを負った演出ではあった というのが

正しい捉え方なのではと言えます



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■1.本作の批判の検証■
批判例14
『納得できない展開に呆れた』
に回答


これはこの映画を批判する方の大半が持つ意見であり
逆に捉えれば、

展開に納得できれば再評価する様にも捉えられる意見でもあります

こういう発言をされる方の多くは
映画の鑑賞の仕方が極めて「受け身」であり

映画で描かれる事は映像と台詞で完結されるものだと捉えて
物語に集中して鑑賞し

物事の「裏側」まで余り気持ちを馳せる事はしない

何事にも 「フェア」 な姿勢を持ったタイプの方が
この様な意見を持たれる傾向がある様な印象があります

この様な方々も 様々な文献や映画を解説したレビューを読むことで
評価も変わるかもしれませんので

是非 ご一読される事をオススメ致しますw




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■6.竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか

前回の記事に付いてこの様な質問が寄せられたので
解説して行きたいと思います


有り体に言えば
父親からのDVを訴えても何も出来ない社会と
トレンドに群がり人の不幸をネタにして拡散するネット社会に対しての
巨大に膨れ上がった 憎悪 の全てを「U」にぶつけて来て

跳ね返ってきた 「結果」 なのですが

この質問には 一つは 「多様性」 に対しての描き方に於ける疑問という

全ての人が一つの事に対して
同じ考えを持ち同じ意見で同じ行動を取り
同じ様に物事を捉えている描写に対して違和感を持ったという
道理 からの疑問であること


もう一つは
「U」全体を巻き込んでこれ程までの巨大な迫害を受ける 「理由」 とは何かという
理解できない 違和感 に対する素朴な疑問であること

この2つの答えるべき疑問があります


これには
「多様性」に付いてはコミュニティーで生まれる 「正義」 の問題である事と
「理由」に付いてはネット社会でコロナ禍となった近年の 「清潔化」 の問題

そしてそれ以外の 通常全く認知出来ない 「無意識」 の問題という

それぞれ 「時流」 の問題が潜んだ
複雑な理由があると言えます


では順番に説明していきます


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■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか■
​​ ■a.拡散する流言を真に受ける社会と偏った正義感
「欧米は自警が基本」という「世界標準」と

「多様性」に於ける「正義」の是非 ​​​



まず「多様性」に於いては そもそも 人とは
異なる考えを持った異なる意見で異なる捉え方で異なる立場を取る
様々な対立した中で調和を生み出しコミュニティを形成する
社会性のある生き物 だと定義すると

少なくともこの映画の世界観は

アニオタ御用達萌的マニアック作品でも
クレしん的突飛で極端な作風の冒険親子映画でも
炭治郎的怪奇幻想異能残酷鬼退治国民的作品でも

無く

アニメでありながら現実社会を彷彿とさせる リアル志向 な作風で
「U」という場所が世界中の人種が集う 社会空間 を謳っているので

それに則れば本作は 最低限

反感を持つ立場に対して 相反する 養護する立場の者が居る

対立する関係
を描く必要があると
捉える事が出来る訳なので

全員が同じ様になって「竜」を 一斉に憎悪 する描写は
コミュニティ社会という見地から捉えても 現実性に欠け ていておかしい

となる訳です


そこでこの様な描写を 「あるテーマを描く映画」 という性質に於ける
意図する結末に向けて 誘導 するベクトルと捉えてみますと

この極端に感じる描写は製作者が 「あること」 を描く
示威的な演出 の一環という

今現実社会で起こっている 社会問題の何か
この様な 形に変えて描いている のではないか

という可能性を考える事が出来ます


例えば映画の中で
すずが しのぶくんに手を握られた 事で
学校の SNSが炎上 した出来事がありましたが

これはネット特有の 「拡散」 が生む 「流言」
ユーザーが真に受ける 様を描いていました

これは何を意味しているかと言いますと

SNS上で起こる炎上の仕組み
「U」で竜が憎悪を買う仕組み

重ねてみると


だと分かる事から

「しのぶくん炎上事件」とはその為の
「布石」
として描かれた場面だった事が分かります

「しのぶくん炎上事件」では
幼なじみで全校女子憧れの的の
「しのぶくん」と手を繋いだとして

すずが全校女子の怒りを買う所が描かれています

しかし正確には すず は しのぶくん に手を握られた
に過ぎないので

この 情報は間違っており
すず にしてみれば完全な 「濡れ衣」 な訳です

しかし女子達は
すずがしのぶくんに 手を握られた という 事実のみロックオン して
怒りに任せ勝手に 自分達の思惑を上乗せ

無責任 に歪んだ 情報を拡散 します


この現象は映画の中でも
「こびてる子もこびられなくて苛ついていた子も我慢して牽制していたのが
一気に火を吹いた」と言及している通り


色々な考えや見解で物事を捉えて来た集団が
ある「一つの問題」で「軋轢」を生んだ時に

「軋轢」という同列の事象で一つにまとまり
一斉に 「ガス抜き」 先を 求める という

問題を起こした、ただそれだけの理由で
問題を起こした者が「生贄」 とされる様子を捉え

すでに問題は問題では無くなり
個々の 「ストレス解消」 の為に 「問題が利用される」 様を
描いたものと言えます


取り巻き組は誰も出し抜かない様に皆で調停を結びながら
結果しのぶくんと一定の距離を取らなければならない事への 不満 があり

取り巻きに入れないその他の層は
あからさまに媚びて近づこうとする取り巻きへの 嫉妬 があり

その様な様々な思惑で溜まりに溜まった女子達の ストレス
すずの一件で 頂点に達し

誰かの「調子乗ってる女に認定」という書き込みが
トレンド一位になるのをきっかけに

これまで溜まりに溜まったのストレスのはけ口をすずに据えて
すずを 一斉に攻撃 してきたというのが

この場面の真意であり


これが「U」で竜が迫害を受ける要因と同様の
SNSでの「憎悪」を纏めて買う仕組み

という事になる訳です



すずがしのぶくんの件で炎上したのも
竜が「U」のユーザー全てに迫害を受けるのも

ユーザー達のストレスのはけ口を求める行為
という事は分かりましたが

ここで 真の問題 となるのは
行為そのものにあるのでは無く

それはユーザーにしてみても
分かっていても止められない

だから 「止まらなくても良い方法」 を探そうとする
その 心理 にあると言えます


炎上を起こすヒステリックな行為は
「感情」 から湧き出た事が要因となっているので

人間の心の動きから 「罪の意識」 が働く訳です

従ってこの様なケースでは
「罪の意識」を感じない様に

「ストレス」の為に「はけ口」とされる 「生贄」

「正義」の為に「退治」される 「社会悪」
という風に仕立て上げられて

これは 「正義感」 からの 「悪」 排除する行為 だから
何の 問題も無い のだと 思い込 む事で

何のためらいも無く攻撃出来る様になるという

ある種の 「すり替え」 が集団で行なわれる 社会的心理
真の問題 があると言えます


これは近年、
問題を起こしたタレントなどに対して世間が一丸となって
問題の是非 罪の軽重は無視して

まるで社会悪でも退治するかの様に
一斉に非難を浴びせ叩こうとする

寛容 が無くなった現在の社会の時流を
警鐘 を込めて表現したものでもあると言えます


竜が ユーザーに「悪」扱いされる理由は
ベルのコンサートに乱入する初登場場面でも分かる通り

武闘会でのルールやマナーを無視した蛮行が
ユーザーからの非難を浴びた事に端を発したものだと言えますが


その行為が「U」全体へSNS的に拡散され知れ渡る中で
「許せない行為をするユーザー」としてハッシュタグが付き
トレンドのトップに表示されると

その流れに乗る様に 拡散する行為 そのものが
社会悪を許さない 正義の行いの様な様相 となり

やがてその行為に 参加する事自体が意味を持つ 様になって
それが 「祭り」 の様な関心事へと変貌するという様に

気軽に呟けるSNSの特性から
まるで スナック感覚 で投稿しながら

非難を浴びせる事
「祭り」に 参加する状態 となる所に

一つの要因があると言えます

そのトレンドに乗る様に
如何わしいサイトへ誘導させる「釣り」目的の
無数の解説と称する偽情報サイトが湧いて出て

その様にネットが騒然となって行くと

そうなるのも全て「悪」のせいだと
その社会的責任は全て「悪」にあると

そんな風に世間は捉える様になるという

「トレンドを真に受ける」 ネット上の性質に
理由があると言えます


そうして情報に疑問を持つ層が出ても
トレンドを真に受ける層が強大な数になれば「同調圧力」が生じて

周り全てが同じ意見を持つ様になり
ベルの様な新参者にも「竜=悪人」という形で知る所になる訳です


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■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか■
■b. 気軽に発散できるネットと
社会の偏った正義感
「竜が蛮行を行う仕組みとしての社会」


なぜ竜こと恵が「U」でその様な蛮行をするのかに付いては
家庭内DVが原因のストレスによる
憂さ晴らしが過ぎた事が発端と言えますが

こちらもネット特有の 「気軽さ」 によって
「格闘技ゲーム」の ヘビーユーザー となった所に
理由があると言えます


従って竜のホストである恵にとってみれば「U」とは
単に格闘技ゲームをする「ネトゲの場」に過ぎないので

周りから蛮行と謗られる行為も
言わば「氏ね氏ねっつ」と言いながらストレスを発散する

ネットゲームユーザーにありがちな
「普通の行為」 に過ぎない事が分かります


従って「マナー違反」に当たる行為はあったとしても
「U」全体の憎悪の対象となり挙げ句自警団に追い立てられるのは

竜にしてみればなぜそこまでの目に遭うのか
訳の分からない話であり

もはや追ってくる者を追い払う様に倒すしか無くなったというのが
事の経緯だと言えます

加えて竜は束になって襲いかかる自警団を纏めて倒せる程の
「U」の中でも最強の 「怪物」 だった事が

事情を知らないユーザー達に
正義の自警団を攻撃する「悪」として印象付け

更なる憎しみを買う結果に繋がったと言えます



実は「問題」はこれでは無く


ここで言う「正義」 が「法律」で定められた
絶対的で 社会的根拠 を持つものではなく

個々に持つ相対的で 多様な価値観 に基づくもので

それこそ人によって言う事や考える事がまるで違う価値観の中で
「正義」と一括りにする事の 「危うさ」 に加えて

「ジャスティン」を名乗る自警団が 巨大企業の後ろ盾 があるという
ただ それだけの有利 さで

強制的にユーザーを晒す事が出来る
「アンベイル」出来る

その様に 処分を下せる特権 を持ってしまう事で

民主的に選ばれた訳でも法的根拠を持つ「警察組織」でも何でも無い
匿名の何処の誰とも知れない 経歴も知れない 徒党 にすぎない存在が

事実上の警察 になっている様な場であるのがネットである
という事の 危険性

ネットユーザー達はそれを 「リスク」 として
本当に理解できているのかどうかというのが


「本当の問題」


この 危うい価値観 で自分勝手に「悪」を憎んだり
その 資格が無い存在 が「悪」に 罰を与える権限 を持つ事こそが

「虐待」 であると 製作者は語っている訳です


それは逆に言えば
先程の「すず炎上事件」も事の 本質は同じ である事から

この映画で竜が虐げられる場面があるのは
竜が虐げられる事も、SNSで炎上する事も、

本質は「虐待」
であると

かなり辛辣な事を描いていたという事が分かります



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■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか■
■c. 自警が主体の欧米の保安官

ちなみに、
なぜ映画の様な自警集団が認められるのかという背景ですが

まず「U」が全世界の人々が集う空間という性質から
欧米の価値観 が強い空間である所に理由があると言えます


米国の警察機構は郡警察、市警察、州警察を始め非常に数が多く
日本の様に一本化しておらず

主に郡警察は「保安官」と呼ばれる「自警」でまかなっているという
歴史があります

「自警」と言っても誰でも出来る訳ではなく
「保安官」になる為には立候補をし選挙によって選ばれなければならないので

市民に認められたという点では警察官というよりも
政治家に近い立場と言えます

全米で事件があった時に保安官が市民の前に立って説明したりするのも
市民代表という立場だからであり

保安官出身者が政治家になるのもそういう理由があるからです

つまり欧米人にしてみれば
自分自身で志願してなる 警察官

誰にも選ばれていない人間が
勝手になっている存在 であり

立候補して市民に選ばれる 保安官 の方が
信頼度に於いては警察官よりも高い感覚があると言えます


「U」での自警団は自ら宣言してなったという意味では
巨大企業がスポンサーに付いているという「箔が付いた」状態である事で

社会的に認められたも同様という事で
警察官の拳銃に当たる「アンベイル」の「緑の石」を持つ資格を得たと言えますが

市民代表で立候補して市民の投票による当選で選ばれた訳では無いという意味では

誰にも選ばれていない保安官ですらない存在であり
志願してなってはいても警察官の様な法的根拠も持たない

本来人を裁く資格が無い只の徒党に過ぎない存在と言えます

しかし巨大企業がスポンサーに付く 認知度の高さ があり
「U」で事実上ユーザーを裁く権利を持つ
「アンベイル」出来る権限を持っている事から

「金を持っている人間は正しい」 という
欧米の 「資本主義的」 価値観に則れば

市民に「警察機構」として認知される 「根拠」 がある
と言える訳です


この様な欧米の価値観とは大きく異なる
日本人の感覚に従えば

本来人を裁く資格が無い存在が
「悪」に罰を与える権限を持っているのが
この自警団の実態だと言えます

この様な集団に対して過ちを裁く仕組みが無いと

やがて、
自分の考えは正しい 自分の行為は正しい
だから自分自身が正義であるという思考で

ある種の「特権」意識が生じて
何をしても許されると思い込む様になり

増長して自分達の主張を周りに力ずくで
押し付ける様になり

この様な行動原理は 「テロリスト」 と同じだと言えます


ベルが竜の城から出てきた時 自警団に呼び止められる場面でも
確固とした証拠に基づく疑惑では無く

ただ何となく怪しいという理由だけでベルを脅迫して力任せに尋問をする様な
「悪人」 同様の行動を取っている様に見えたのはその為です


その後この自警団は

自ら自分の姿を晒したすずの魂を込めた唄に
「U」のユーザー達は合唱する事で同調の意思を伝える中で

「アンベイル」は信念を持つ者には効果がない事と
その様なものを「正義」と称してきた自警団の
「正義」と「権力」を履き違えた 思い上がった本性を晒し

ユーザーの素顔を晒す権限を持った自警団が
素顔を晒した者によって自分達の本性が晒されるという

皮肉な結果を生んだ事で民意を失い

自警団のスポンサーだった企業も全て撤退し
事実上の「解雇」を宣言されて

「解散」する末路をたどる訳です


そうして改めて捉えてみますと

一見ニューヨークのタイムズスクエアーの様な華やかさがある
「U」のメインストリート

実際には

腕力と銃の腕が立つというだけの保安官が統治して
法も秩序も無いならず者だらけの街の酒場で歌う歌姫と
乱暴者と謗られて嫌われている流れ者が集う

200年も昔の 西部劇 の舞台と
何も変わらない場所だという事が分かります


ネットが誕生して約20年余り
今や社会のインフラとして 「ネット社会」 と言われるまでに認識された
インターネットですが

法整備が未だ議論の段階で行き届かない
基本「自警」の精神で利用しなければならない

その本質はまだまだ 「西部劇」 の舞台と変わらない

ならず者 だらけの 未開拓空間 というのが
本当の所なのだと言う事を製作者は描いており

私たちはその様なネットの 本質 を理解した上で
正しいあり方を考えながら安全に利用して行くべきだと言えます


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■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか■
​■d. 見た目を重視する清潔化 (ルッキズム) の浸透
「​コロナ禍で加速する社会の清潔化」​​



竜が迫害を受けるもう一つの理由に
見た目で判断する社会 「ルッキズム」 の浸透が根底にあると言えます

これはコロナ禍となって極まって来た事なのですが

元々「ルッキズム」というのは見た目で判断する差別や
外見で価値を付ける偏見を差した言葉で

近年コンプライアンスの意識が高まり
これまでバラエティー番組で見られてきた「不細工いじり」の様な

見た目が悪かったり、立場が弱かったりするタレントをイジる事は
差別や偏見に当たるとして

いけない事だからやめましょうという考えに社会が変わって行く中で
無くなりつつある事である一方


ドラマの主要キャストに加えて悪人までもイケメン美女で占められたり
アーティストと呼ばれる人もイケメン美女ばかりが目立つ様になると言った

私はコレを「日本のエンタメの韓流化」と呼んでいるのですがw

近年の日本の映画、ドラマ、芸能界には
見た目主体の傾向が強まってきている印象があって

最近、若者が出てる日本のドラマが
まるで韓流ドラマでも観ている様な錯覚をする事が
あるのがその理由なのですが

これは「ルッキズム」が浸透した末に 倒置 して
その裏返しの 「美しさは良い事」 と捉える社会が浸透して来ている

一つの現われではないかと言われています


コロナ禍以降の社会で
清潔な環境作りをするのが当たり前の社会となり

の場合も 「清潔」 を求める傾向から
「清潔で食べ物も美味しい」という店の評価が高まり

「店内が汚くてもウマい店」がだんだんと支持されなくなったり

寿司やおにぎりなどを 手で握る行為 にも
徐々に 違和感 を感じる様になる感覚が

じわじわと浸透してきている事もあり

「清潔なものは美味しい、美味しいものは正しい、だから美しいものは正しい」
という捉え方を持つ様になって来ていると言われ

これらの捉え方は同時にその裏返しとなる「負」の感覚にも影響し

「醜いものは不味い、醜いものは間違っている、
だから醜いものは悪である」 という「ルッキズム」が

コロナ禍以降の社会に浸透して来ているのではないか
という訳です



映画の中では竜の初登場場面で 竜の事を説明する台詞に
「Uに住む醜いモンスター型Asだよ」というのがあったり

他でも竜の城に来たベルに対して竜が
「醜さを笑いに来たか」と言い放ったりと

随所に 「醜い」 を強調する演出が見られるので

これは製作者が近年の「ルッキズム」の浸透を
意識している事の現れだと捉える事が出来ます



「U」で「As」というアバターを作る仕組みが
自分の生体情報とパーソナルな面が投影される仕様になっている事で

「醜い」アバターを作る者は「心が醜い悪人」だと
「U」のユーザー達は捉えているという事になります


つまり竜が怪物で 「醜い」 という事そのものが
「U」のユーザー達に 「悪」 として忌み嫌われる理由なのであり

先程説明したSNSでの炎上に於ける「虐待」の図式が加わり

ストレス社会を逃れて「U」に集うユーザー達が
ストレス解消になる良い「生贄」を求めて

又は 自分が感じる「正義感」に過敏に反応する者達が

或いは その様な時流に追随する性質の集団が

更には 事情を知らずに額面通りに捉える多くの人々が

「悪」を排除する事は「正義」の行いであり
「正しい」事であると捉えて
「罪悪感」 というリミッターを 外し

スナック感覚で「批判」を浴びせて
速攻で「憎悪」する
集団ヒステリー状態となる事で

社会悪を許さない正義の行い の様相となり

やがてその行いそのものに 参加する事 自体が 意味を持つ 様になり
それが「U」全体に飛び火して起こった「炎上」現象が

「U」全体から竜が「迫害」を受ける「要因」だと言えます


つまり今回の質問にあった
「なぜ竜はUであそこまで迫害されるのか」が分かりにくいのは

「ダメ映画」だからと思っていましたが、
これは完全に私の思い違いで・・・w


SNS炎上の「虐待」の図式と

「醜い」アバターを作る者は「心が醜い悪人」だと認識される
「ルッキズム」による 偏見 が本当の理由だと言う事を


普通に観ているだけでは鑑賞者に 理由が分からない 様に
製作者が意図的に誘導して真意から逸らせていると思われ

それでいて「醜い」という「ワード」を
随所に「鍵」として潜ませて

「意図」する事の存在の痕跡を残す布石を惜しまない

その様な「分かりにくい」映画を作る行為を
「分かりやすい」映画を「良い」と評価する裏返しとして

本作を「悪い」「駄目」「失敗作」
だから「悪」であると判断する

私を含めた鑑賞者が「ルッキズム」を体現する為のものだと
いう事なのかもしれません


この場合「体現」は良いとして
その事を 「自覚」 出来なければ意味が無い様に

思うかも知れません・・・が


往々にしてSNSで炎上する様な
忌み嫌われている人物が居たとしても

書かれている様な酷い人物なのかどうか
ネットや文献以外で確認する方法は
接点のある人物以外 不可能なので

本当の素顔や真実は「分からない」のと同じで
「人は、真実は、見た目では分からないもの」だと言えます

それを「体現」する為に
「鍵」となる布石を全体に散りばめて
「答」は敢えて分からない様にすると

多くの場合「悪い」作りの映画という評価が下ったとしても
「感動」という要素が鑑賞者に残れば

「納得できない」 箇所が 「フック」 となり
モヤモヤした様な形で 「記憶の印象」 として頭に残ります

すると後日
「フック」となった「記憶の印象」と合致する様な事を
何気ない日常の中で体験する事が合った時に

それがある種の 「既視感」 を覚える事で
新たな形で記憶に定着して

それまで無意識に行ってきた行動に
「問題意識」 を抱くきっかけとなる・・・

かもしれない可能性を生みたいというのが
「答」を分からなくする理由の「答え」になります


製作者がなぜその様な造りで映画を作ったのかという理由は

SNSのハッシュタグで トレンドに上がった事が
真実 だと 思い込み をするのが

「偏見」 の始まりであり

その「偏見」から生まれた偏った「正義」で批判をして
社会悪を 裁いた気 になる事は
「虐待」 となる恐れがあるという事を

「ダメ映画」「失敗作」と評しながら
それを映画の中で「体感」をしているだけの内なら
まだ 「間に合う」 という

ネット社会への 「警鐘」 としようとした
意図からだと思うのでした



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■6. 竜はなぜ「U」全体から迫害を受けるのか■
■e. 竜への迫害は竜自身が原因

恐らく細田守もこの事を念頭に置いて作品を作っていると思われ

実はこれが竜が「U」で迫害される「本当の理由」だという
「悲しい理由」 の原因がありました



恵は虐待のストレスを「U」の中で「竜」となって
格闘技プログラムの中で発散していました

それは言ってみれば 「暴力」に対して「暴力」を振るう 事で
発散して来た事になります

この様な行為を行う衝動の「核」となるものは
親から日常的に受けてきた「虐待」が影を落としていると言えます


幼少から親から虐待を受けて育った子供が親との関係の中で
「癒やしや助けを求めれば求めるほど拒絶され暴力を加えられる」

という認識が子供の中に作られたとします

その様に認知された「認識」の事を 臨床心理学 では
「内的ワーキングモデル」 と言います

子供は、自分の「愛着人物」となる親から
いかに受容されているか、いかに助けを与えられるに足る人物として
判断されているかが

「ワーキングモデル」を構築する上の 「中心事項」 となる事から

「国立社会保障人口問題研究所」がまとめた
「児童虐待における世代間連鎖の問題と援助的介入の方略」
という報告書によりますと

子供にDVを働く様な社会的行動に明らかな問題のある人物には
我々社会人は「行動が異常」であると認識する事が出来ますが

その様な認識をまだ持てない成長途上の子供が親のDVに晒され
先程の「ワーキングモデル」で親子の関係を認識した時に

「どうして親は自分を憎むのか」分からずに
「理解できない親の行動」を理解しようとして

「助けを求めても応じられる事は無く、無力で価値のない、愛されるに値しない
自分は悪い子 なので、敵意を向けられ、暴力を振るわれても 仕方がない

という考えを抱くようになり

既に構築した「ワーキングモデル」に 補完 を加えて
自分を納得させる と言われています

するとその様に認識した「ワーキングモデル」は
そのまま他者や周りの世界での 認識 としても使用され

家庭外の他者との関係や交流に於いても
親から感じた時と同じ不安や脅威、恐怖が潜んでいる可能性を感じる事に
著しく敏感になり

他者 という存在は、自分に敵意を持ち 自分を拒絶 する存在」と考え

自分は親に嫌われているだけでは無く
「他の 誰からも望まれない 存在」だと 確信 するようになり

この様な 認識を固め て行くと

世界 には何の 慰め になるものが 無く
世界 からは拒否され 脅威 を感じる 敵意 しかなく
世界 とは予測が付かない、 不可解で混沌 としたもの」

の様にしか捉える事が出来なくなると言われています


映画の中での
「お前には何の価値もない」となじる恵の父親の激昂に
「僕が悪いんだ」を繰り返す恵の態度や

ネットで竜のオリジンを割り出して恵の自宅に辿り着いた時に
すず達を敵視して「助ける」を連呼し
相手への憎悪を増幅させる恵の態度は

正にその「ワーキングモデル」に当たり

「U」全体から忌み嫌われ迫害される様な目に遭っても
恵にとってはそれが世の中の摂理で 当たり前 な事に
感じている事が分かります

つまり 恵にとって世界とは
脅威を感じる敵意に満ちた安堵する場所など無い 「戦場」 なのであり

そんな、
助けを求めても応じられる事は無く、無力で価値のない、愛されるに値しない
敵意を向けられ、暴力を振るわれても 仕方がない 様な、

自分は 「悪」 だと思い込んだ考えが「U」のアバターにも影響して

忌み嫌われ迫害される様な 「醜い野獣」 を自ら生み出して
「U」の対戦プログラムで相手を 完膚なきまでに叩きのめす行為 とは

「虐待」 される事でしか自分以外の存在との 繋がり方を知らない
竜になった時の 恵なりの世界との関わり方 だったと言えます


それが結果的に本当に忌み嫌われ迫害される原因を自ら生み出すという
皮肉 に繋がる事になってしまった訳です


竜がなぜ醜い野獣で迫害を受けるのかという理由は
虐待の「ワーキングモデル」で全ての説明が付くので

今回「虐待」をテーマに描いた細田守が
その事を考慮しないで物語を作っているという事は
まずあり得無いと思います

つまり今回の質問にあった
「なぜ竜はあれ程の迫害を受けるのか」という本当の理由は

「竜自身が生み出した」 という悲しい理由が


答えなのです


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■7. 割れた額縁に飾られた女性は誰?■

「ルカちゃん」にはめられたと思い込んで人を信じられなくなったすずが
「U」で竜の城へ入った所で

顔の所に殴って付いた様なヒビが入っている
額縁に入った女性の写真が壁に飾られていたのを観るという
場面がありました

映画ではその写真についての言及はありませんでしたが
状況からその写真の主は 恵の母親 だと考えられます


恵達親子は父親を含めて3人だという事は分かっていますが
母親に付いては「居ない」という言及しかありません

従って問題は「恵の母はどうして居ないのか」ですが
恐らくは「死んだ」のではないかと思われます

それがなぜ分かるのかですが・・・

例えば額縁の写真の顔のヒビが「故意」に入れられたものだとすれば
母親が居なくなった理由は「離婚」だといえます

離婚の理由なら父親がアノ様に暴力的な人間なので
いくらでも想像が付くでしょう

それで恵があの様な写真を飾っているのは
母に捨てられた事への「憎悪」と
それでもたった一人の母だと思っている「愛情」とがせめぎ合う

「愛憎」の現れであると捉える事が出来ます


ただこの時点では竜のオリジンの年齢も性別も判明して無いので
状況的に額縁に飾られた女性は竜にとって「大事な存在」で

それが割れているので「かつては大事な存在だった」という
「仲を引き裂かれた恋人」か
という事くらいまでしか推し量ることは出来ません

なのでこの時点での竜は

「かつて愛していた女性に裏切られ心に傷を持つ」
という人物像が当てはまって

竜とは何者なのかという映画での 謎が深まって行く 訳です


しかし映画が進んで
すずがネットで竜の居場所を特定した時の場面では

竜のオリジンは恵という名の14歳の中学生の少年で
父親から虐待を受けているという 衝撃的な事実 が判明します

その時に恵の懐から落ちたスマホ画面が
あの 額縁の写真と全く同じ 様に液晶が割れていて
同じ女性の画像が壁紙になっていた事で

恵が竜である事が 確実 となる訳です


そしてこの時点で割れた額縁の女性の写真の意味も
全く変わってくる 事になります


通常スマホの壁紙は気に入った画像を貼るものです
そのスマホの 液晶が割れて いたのは

恐らく父親から受けた 暴力が原因 だと考えられます

普通なら買い替える所ですが
実の息子に向かって「消えてくれ」と言う様な

「異常者」
の父親では定かではありません

仮に買い替える事が可能だった場合でも
未だ 液晶が割れたまま のスマホを持っている訳ですから

どちらにせよ なぜ持っているのか という
「理由」 がある事になります


それはつまり「母との思い出」が詰まった大事な
いわば 「形見」 の様なスマホだからと言えます

その様なスマホを大事に持っているのですから
恵の母はもう死んでいる と考えられる訳です


割れた額縁に飾られた女性が誰でどうなったのかは分かりましたが
「なぜ竜の城の母の写真まで割れているのか」については

これは始めに述べたように
「色々と想像をさせて真相を煙に巻くミステリーとして演出の一環」

というのが理由ですが

真の理由は
「母の形見のスマホの画面そのまま」だというのが一つ、

もう一つは、
「もう絶対に取り戻すことは出来ない 絶望 」の現れだと言えます

恐らく恵達兄弟は母親の事が大好きで
母親が生きていた頃の家庭はもっと明るくて
ひょっとしたらかつては父親も厳しいというだけで
穏やかでマトモな人物だったのかもしれませんし

家庭の中は暖かかったのかもしれません

壁紙の写真も恵が自分のスマホで撮ったもので
良かった頃の時代を思わせるものがあります

そしてそれが母親との最後の思い出となったのかもしれません

それだけに母の最後の写真も母を最後に撮ったスマホも
恵に取ってはどちらも欠かせない大切なものである事が

割れた液晶のスマホを持っている理由となり

そんな割れた状態の母の写真を飾るのも
それ位 決して失ってはならない存在だったという

恵の心の傷がどれ程深いのかを物語っているという事だと
言えます






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■8.恵はすずに振られたのか?■

金ローの放送があった時 SNSやネットでも
「大好きだよベル」「ありがとう」というやり取りが

「恵がすずに振られたw」という風に取られた書き込みや記事が見られたので

この場面に付いて解説したいと思います


恵の父が退場した後のやり取りで
恵の「ありがとう」の後「大好きだよベル」と言った事に対して
すずが「ありがとう」と返した事に付いて

鑑賞した多くの人が「恵はすずに振られた」と解釈している様で

有り体に取れば
年上のお姉さんに恋した大人の階段を少しだけ登った少年という

『銀河鉄道999』的 出逢いと別れという事でも良いのですが
事情はもう少し深い所にあると思われます


これは言ってみれば、先程「社会の構造」の説明でも語った

何層にも意味が重なっている状態になった
玉ねぎの皮の様な 階層のレイヤー構造 になっている中での
やり取りを描いた場面の為

意味がいくつもあって、それが重なっていて
本当の意味は更に 深い所にある という
普通では分からない造りになった場面だからと言えます

「振られた」 という風に見えるのは、その皮を剥いていない
真相に迫っていない 表層的 な解釈と言うことになります


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■8. 恵はすずに振られたのか?■
■a. 愛と恩の違いの「ありがとう」

最初の皮を剥いたとして

まずこれが すずへの告白という意味があったとして
「年下過ぎる」「相手は子供」という至極当然の理由は

当たり前過ぎるので置いておきw

恵にとってすずは「命の恩人」という 巨大な「借り」がある存在なので
年齢以前に人として対等な関係とは言えません

従って「恋愛」と思っている感情も「恩」からそう思っている可能性が強く
恋愛関係は成り立たない事をすずは分かっていて

子供ながらもその様に気を使ってくれて「ありがとう」
と言ったとも 捉える事が出来ます


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■8. 恵はすずに振られたのか?■
■b. 本当の自分を好きになってくれた「ありがとう」
更に皮を剥きましてw

これは淡い「恋」を描いた場面というよりは

これまで自分の事や人の恋路にアタフタしてきたすずが
あまりにも平然としている事と

恵も「大好きだよ」の台詞を言う前に若干はにかむ所が
非常に子供っぽい態度から

心を許せる友達との会話という印象があります

つまりこのやりとりの真意は

これまで家庭内の問題から逃げる事が出来ず
行き場を求めてのめり込んだ「U」でも迫害を受けて
誰も信じられず心の平穏な時が無かった恵が

すずとの出逢いでそんな囚われの状況から開放されて
竜の仮面を外して本当の自分に戻った

本来の少年らしさを取り戻した喜びを表現した場面だと言えます


すずが「ありがとう」と言ったのは
ベルの仮面を被った自分にでは無く
心を閉ざして「生徒」に準じる高校生の自分にでも無く

映画を観た一部の層には
子を持つ親の行動では無いとして批判される行動を取ったとした
そんな母の教えを抱いて行動した本当の自分に

竜では無く本当の素顔を見せた恵が
「大好き」と言ってくれた事に対しての

報われた様な感謝の気持ちだったと言えます


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■8. 恵はすずに振られたのか?■
■c. 母に向き合えた「ありがとう」

さらに 玉ねぎの皮を剥きますとw

恵が父親のDVから弟の「とも」を守る姿は
「父親からのDVから弟を守る兄の姿」と言うよりは

まるで子供を守る 「母親の姿」 の様であり

それは家族の問題で全てが壊れない様に耐える
「家庭を守る姿」 そのものだと言えます


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●弟「とも」は病気?●

恵の弟「とも」は 「U」では 天使 のアバターで綺麗な声で唄う
ふわっとした印象の少年として描かれています

いつも首を傾けて 人とは視線を合わせず
話し方は恵とは異なり余り抑揚がなく
独り言の様な不思議な話し方をします

これは何らかの「自閉症」の症状の様な印象がありましたので
調べてみますと「発達障害」について書かれた記事の中の

「自閉症スペクトラム障がい(ASD)」という項目が
「とも」の症状と合致しましたので
恐らく自閉症を患っているのでは無いかと思われました

この障害の特徴としては
人への反応やかかわりの乏しさ、社会的関係形成の困難さ
興味や関心が狭く、特定のものにこだわることなどがあり
話し言葉に抑揚がなく一本調子
奇妙な行動として首かしげ、横目などの症状があるとの事です

この「発達障害」は生まれ付いて持つ障害の為
恵の場合とは異なり父親のDVによって引き起こされたものでは
無い事が分かります

であるとすれば恵の父親のDVとは

母親が居なくなり仕事も子育てもこなさなければならなくなった上に
自閉症を患っている子供の世話も加わった事で

これら全てをひとりで抱える事のストレスから
暴力的な人格へと変貌して行った事から引き起こされた
経緯が感じられます


ベルが竜の城に訪れる場面で
床にうずくまる竜の 背中が光って新たな模様が出来る シーンがありましたが

あれはリアルでは弟をかばい背中に 父親の暴力を受けている 証で

父親の暴力で背中にアザが出来る程の痛みに耐えながら弟を守り
その間 その痛みを逸らす為に 心を「U」に馳せるという

恵が「U」を利用する理由とは
過酷な状況にある現実に耐える為にその間「U」に心を置いて
何とか 精神を保とうとする 為に使っていた事が分かります


それ程までして父親の暴力に耐える理由とは・・・

恵達兄弟の行く末を考えた時 殆どの方は
「父親は逮捕され恵達兄弟は保護される」というのが

ベストな解決法だと思われている様ですが


映画の40分辺りで すずが動画を観覧している場面の中に
恵達家族が映り 父親が良い父親ぶりをアピールするという

この動画を観る限りでも
この父親の厚顔無恥振りは相当なもので

恵の自宅と繋がった時にも
既に警察かどこかの相談所へ訴えたが無駄だったという内容の

恵自身からの怒りに満ちた態度での言及があった事からでも分かる様に

この父親は警察に出頭しても
妻を失くした子育てのストレスとか

誰もが納得する様な家庭の事情を「盛って」話して

真摯に反省した様な演技をして
逮捕を逃れた経緯があった事が
見て取れます


DVを訴えて警察に駆け込んだ子に対して
出頭した父親が嘘の供述をして子供を引き取った後に
父親の手に掛かって命を落とすという

痛ましい事件が起こっている事を考えても

日本の警察と行政はDVやストーカー被害に対して
先進国の中でも取り組みが極めて遅く

群を抜いて無力な機関
だという印象がありますので

すずが恵の弟の唄を追って恵のPCカメラの配信に辿り着いて
DVの現場を目撃した場面で

恵の態度が怒りに満ちてやさぐれて絶望に打ちひしがれながら
怒鳴っていたのも

困っていても何の役にも立たない
警察や行政のお役所体質な社会と

この時の配信を観ていたすず以外のユーザーの
面白いものが見れるぞとばかりにチャットで仲間を呼ぶ様な
まるでYouTubeに上がった動画でも観覧する様に
興味本位で観ているダケの
単なる無責任な野次馬書き込みしか出来ない集まりの
心無い者達が巣食うネット社会に向かっての怒りの表明であり

東京での坂の場面での 恵の家の周りは
都内で持ち家を持つ住宅街特有の閉鎖感を持った
他人の家庭の事情に出来るだけ関わらない様にしている様子が
見て取れるという様な

何処に訴えても誰一人手を差し述べる事は無く

既に打つ手は全て打って
もはや父親の暴力に耐えるしか道が無いという
絶望感から

せめて弟にだけは類が及ばない様
身を挺して父親の暴力を自分に向けさせる行為が

家庭を守る母親の様に見せるのだと言えます


これは身を挺して子供を守ろうとした
すずの母の様でもあります


すずは恵の為に自らアンベイルして
自分がベルだという事を身を挺して信じて貰おうとした時に

すずの母が子供を救う場面がフラッシュバックして
母の取った行動と今の自分とが重なりハッとし

家庭で父親からの暴力を受け
その間逃避する先の「U」でも迫害を受け
何処にも行き場の無い竜を
身を挺して救おうとしている今の自分が
アノ時の母 だと気付きます

その瞬間 すずは 母の気持ちを理解すると同時に
自分の中にも母と「同じ想い」がある事を知り

それは居なくなった後もこれまで母は
ずっと自分と共に居て見守っていてくれた事を知った
瞬間でもありました

そんな想いが込められたすずの歌に
心を揺さぶられて呼応した人々が
すずと「同じ想い」で繋がって「U」が一つになると

その空間に共鳴する様に「U」の守り神の様なクジラが登場して
歓喜の歌声を上げたと言えます


▲目次へ▲
■8. 恵はすずに振られたのか?■
​■c. 母に向き合えた「ありがとう」​

●クジラの正体は何?●

ちなみに この「クジラ」は何かという事ですが

例えば
高尚な生き物として自由を選んで火と風を選び
世界の秩序が崩壊した時 共食いする獣と化した
『ゲド戦記』に出てくる竜の様なものだと捉えれば

ネットが炎上して乱れている時は消滅し

ネットが慈悲の心で一つになった時などに
ネットが共鳴する力で実体化して
その姿を現すという

ユーザー一人ひとりの利用が作用して生み出す
ネットで起こる「時流」をエネルギーとする

ネットの海の中に潜み「時流」を司るネットの化身の様な

ユーザーが生み出す「時流」が実体化して「具現化」した存在
という印象があります

つまり「U」の創造主は
いつか「U」がそんな慈悲の気持ちで一つになる様な
そんな日が来た時の為に

この様なプログラミングをイースターエッグの様に
仕掛けていたという事なら

人間の本質は「欲」であるという達観した視点で
警察機構の無い自由な空間を創造したという

そんな経緯も浮かび上がって来る様で
興味深いです


▲目次へ▲
■8. 恵はすずに振られたのか?■
​■c. 母に向き合えた「ありがとう」​

●3人が抱き合った意味●

すずの母は目の前で危機に晒される子供を救い
代わりに命を落とし、すずは母を失いました

子供を救う事は尊い事でも自分の命を犠牲にして
実の子供が母親を失ってまでする意味があるのか
そもそも母がしなければならなかった事だったのか
すずは理解できませんでした

しかし自分の目の前で迫害を受ける竜を見て
それを「迫害」だと感じているのが
自分だけだと知り

竜の為に行動出来るのは自分しか居ないと悟った時に
誰も救おうとしない中洲に取り残された少年を
母だけが救いに行ったあの時の状況が重なり

すずは初めて母の行動の意味を知ります

そうしてすずがアンベイルする犠牲を払って
人前で唄えない自分を乗り越えて全世界に向けて唄ったのは

たった一人の少年の為に願う命の祈りでした

それは全世界の人が理解してくれる程に意味のある事だと
すずの母が命をかけて残してくれた贈り物でもあったのです


「U」で迫害を受け家庭内DVを受ける恵は
中洲に取り残された子供同様に助けを乞う少年でした

同時に父親の暴力に耐えながら弟を守り
しいてはたった一人で家庭を守ってきた

すずやすずの母と同じ
身を犠牲にしてでも大切なものを守ろうとする者でも
ありました

それは坂の場面で恵と顔を付けて近付きたくなる程に
恵の中に母と同じものを感じる
肉親に出逢えた様な感覚だった訳です

ここでの「ありがとう」は恵へ向けての言葉であると同時に
恵の中に感じる「母」に向けての言葉でもあったのかもしれません


すずは母への不信感から、恵は弟と家庭を守る一心から
お互いの大切な母親を失ったという事を
すずも恵も
これまで本当の意味で向き合って来なかったと言えます

お互いの出逢いは
すずは臆病な自分を開放して、恵は立ち向かい闘う事を誓った事で
お互いの大切な母親を失うという事を
本当の意味で向き合う事になるのでした

ここで三人がまるで血を分けた兄弟の様に抱き合ったのは

同じ苦難を生き抜いて同じ痛みを知った
魂で繋がった肉親にも似た、もう一人の自分の様な
「同じ想い」を持った者同士が
物理的な距離を超えて邂逅した奇跡への感謝と

お互いこれまで向き合えなかった同じ悲しみと痛みを
絆を確かめ合う様に分かち合いながら
失ってはならないものを失った喪失感を皆で向き合い耐え忍ぶ

当事者にしか分からない苦難の重みがそうさせたのだと
言えます



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■8. 恵はすずに振られたのか?■
■d. 救えた事への「ありがとう」

更に玉ねぎを剥きますとw

恵の父親は恵達の母がいなくなってから(おそらく亡くなった)
元々の人間的な骨格の弱さから人が変わったと思われ

妻が存命していたらこの暴力的な性質は
現れる事は無かった人格だったとすれば

恵は父親のDVに耐える事で母親が居た時には存在していた
平和な家庭を母親に代わって守っている

と捉える事が出来ます

恵が父親のDVに耐える意味は先に説明した様に
被害を訴えても社会は救ってくれない為
せめて自分が弟を守るしかないというのが理由なら

存命なら母がしていた役割を
代わりにやっている事になるので

その様な理由で母親の様に振る舞うという事は
本当の意味で母の死を受け入れる時間が与えられていない
可能性が大きく

恵が母親の様に見えるのも
恵が母親そのものになり
恵の中で生き続けている表れだと言えます


▲目次へ▲
■8. 恵はすずに振られたのか?■
​■d. 救えた事への「ありがとう」​

​●恵の父親は逮捕されてもそれで終わりでは無い理由●​

父親の暴力を受けながら悪いのは自分だと口にして
暴力で受ける痛みを逸らす為に「U」で気を紛らしてまで
過酷な状況に耐え様とする息子に手を上げるこの父親は

おおよそ人の親の資格のない人の痛みの分からない
妻を失い失意の底にいようとどんな事情があろうと
何の共感も同情も出来ない

逮捕され牢屋に入るしか
罪を償えない様な人間ですが


恵の家の問題は父親が逮捕されたとしてもそれで終わりでは
ありません


なぜならこの父親は
刑期を終えれば出所して再び恵達兄弟の前に姿を現し

再び恵達を傷付ける可能性があるからです

この様な「ならず者」の様な人物に対して
現在の法律では釈放後に拘束出来る有効な方法は無く

仮に裁判所命令で接近禁止処分が下ったとしても
それはただの「命令」に過ぎないので

単にこの父親の行動に制限を付けて破れば逮捕されるというだけの
事実上何の拘束力も持たない「約束事」の様なものしか
存在しないのが現状です


つまり恵の父親はこの命令を無視して
勝手に子供に近づく事は出来るので

恵達兄弟はこの先一生 父親の影に怯えて
逃げ続けて暮らさなければならない事になります


1999年に公開された映画に
苛烈な舞台練習と激昂する演出で知られる
舞台演出家 蜷川幸雄 がメガホンを取った
二宮和也 主演 『青の炎』 という作品がありましたが

これは山本寛斎演じる離婚して出て行った暴力養父が
10年経ってふらっと家族の前に現れた事で
この男のDVから妹を守る為に
二宮和也演じる兄が養父を殺害する計画を立てるという
衝撃作でしたが


この映画の様に 父親が一旦は去ったとしても
いつか二人の前に現れるとも限らない訳です


恵達兄弟が父親のDVから本当に開放される為には
父親がこの世から消えるか又は

父親自身が、変わるしかありません

父親がどう変わるかは 色々あり


1. 心を改めて昔の人格に戻って子供達とやり直す

2. この兄弟から離れて金銭の扶養以外生涯関わらない

3. DVがどんなに酷い事か
今DVを行なっている加害者を諭して止めさせて
 今DV被害に遭っている人を救う活動をする

などありますが

例えば 90年代のイジメが露見して
東京五輪の仕事も公の場での活動も消えた

○山田○吾氏の様な人物が

悔い改めた証として被害者への救済を申し出たとしても
そんな資格は無いですし、今更もう遅いとしても


逆に、今いじめを行っている加害者を説得して
いじめを止めさせる
いじめ被害者を救済する活動をしていたというのであれば
正に今いじめに苦しんでいる人を救済するという
社会的にも意義のある福祉活動をしていた事になり

小山○圭吾氏の過去の罪は消えなくても
「3」の様な活動をずっとやってきていたとすれば
少なくとも今回の様な騒ぎにはならなかったかもしれませんし

何よりも小○田圭○氏からイジメ被害に遭われた方も
自分の様な立場の人が救われて行く様子を知れば
何か自分も救われた様な気持ちになったのかもしれません



話を戻しますが・・・

恵がすずに言った「戦うよ」という台詞は

元々「U」で竜となり
自分たち兄弟を苦しめる父親を憎悪して
父親の暴力の「力」に腕力の「力」で対抗出来る強さを
持とうとした考えを改める
自分との闘いと

父親の問題を含めて
家族の今後の行末に対して「立ち向かう」事を意味し
家庭の平和を取り戻そうとする 意思表示 だったと考えられ

「大好きだよ」という言葉は
その覚悟をもたらしてくれたすずへの感謝の言葉でもあったと
捉える事が出来ます

その様に捉えてくれた事に対して すず は報われた様な気持ちになって
「ありがとう」と言ったとも考えられます



▲目次へ▲
■8. 恵はすずに振られたのか?■
■e. 恵達を救った事で救われたすずとすずの母

さらにもう一枚玉ねぎの皮を剥きますと・・・


すずが恵を救おうとしたのは
川で子供を救うために命を落とした母の真意を知る為に

川で誰も救おうとしない子供の時と同じ様に
Uで誰も救おうとしない恵に手を差し伸べた
という意味もあった訳なのですが

恵も同様に 命がけで弟を、しいては家庭を守り
救おうとした人物でした

そして川で子供を救おうとしたすずの母と同じ様に
たったひとりで弟を救おうと身を挺してきて

いつか暴力者の父親の手に掛かり
死ぬ運命 にあったかも知れない人物でもありました


そうして恵達兄弟はすずのおかげで救われましたが
これはある意味

恵がやろうとした事をすずが 手を貸して成し遂げた
という意味がある訳です


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■8. 恵はすずに振られたのか?■
​■e. 恵達を救った事で救われたすずとすずの母
​​
​​
●すずがアンベイルしても再びベルになった本当の理由●

これまですずは母の考えが理解できなくて心を痛めて来た事の他に

濁流に一人身を投じた母に手を貸さないで諦観する人々や
苦しんでいる家庭をSNSのネタにして喜ぶ者達に加え

学校では「しのぶくん」の一件でいわれのない中傷を受け
それが友人と思っていた「ルカちゃん」が仕掛けた疑いなどで

人間不信
がより強まり
現実から逃げる様に「U」にのめり込みます

そうして竜と出逢い竜に惹かれる様に竜の城を訪ね
竜と分かり合うのですが

それは竜の中に 自分と同じものを見ていた 現れで

この時のすずは「悲しみ」と「怒り」に捕らわれて
世の中を憎悪して物事を正しく捉える事が出来なくなっている 竜 と
ある意味 同類 になっていたと言えます


後に誤解が解けた時にすずが囚われてきたものが
物事を見失い誤った捉え方で眺めてきた自分の心だと分かり

吹っ切れた すず は ベルを逃げ場所として利用して
世の中を歪めて見ていた 偽りの仮面 を取り去り

自分の中にある ベルでもある自分を受け入れ

現実社会もネット社会も見失った心では無く
自分の気持ちのままに行動する事を決め

竜 のオリジンを探して竜の抱える問題を理解しようと行動して
恵の所まで辿り付き

恵が父親の暴力から弟を守ろうとする盾となりました




母の子供を救おうとした行為に手を貸す事者は無く
一人子供を救いに濁流に入った母は帰らぬ人となりましたが

自分を犠牲にして弟を守ってきた恵に すず が手を貸した事は

母にも手を貸そうとした人は
あの時は居なかっただけで
きっとどこかに居た事を意味する事にもなった訳です

世界を冷酷で非情で残酷なものと捉えて
心を閉ざしてきたすずにとってその様に考える事は

すずの母にもすずにも「救い」となり

自分達の行為は無意味な事では無かったと思える
世の中を受け入れるきっかけとなったと言えます


そのように臆病で何も出来なかったすずが
ここまでの大胆な行動が出来たきっかけを与えてくれた恵に向けての

「ありがとう」という意味もあったと思われます




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■8. 恵はすずに振られたのか?■
■f. 暴力の連鎖を断ち切ったという意味

もう一枚皮を剥きますと・・・

「虐待の連鎖を断ち切る」 という意味が見えてきます


恵は虐待のストレスを「U」の中で「竜」となって
格闘技プログラムの中で発散してきました

それは言ってみれば「暴力」に対して「暴力」を振るう事で
発散して来た事になります

これは先ほど説明した

子供の発達初期に親と子供の関係の中で
幼少からの親からのDVを受け続けた事で
認知して認識して形成される 「内的ワーキングモデル」
ものの捕らえ方の「中心事項」となる認識された 対人関係

「暴力」 でしか繋がれていない事を意味し
それが影響して

家庭内で認識した「暴力」でつながった 関係
他者や周りの世界に対しても そのまま 当てはめ

現実も「U」も 自分は憎まれる存在 だとして
「U」の対戦プログラムでの 相手

敵視 してきた現れだと言えます


これが すず達が本気で恵達を救おうとしても
憎悪しながら敵視した理由だといえますが

匿名のアバターで行動する「U」では
ほぼ「死」を意味する「アンベイル」を自ら行った

すずの犠牲的行為に心を動かされて

他人との関係は争いしか無いと思ってきた恵に
他人を信じる気持ちを初めて抱かせて

暴力な親から虐待を受け続けた事で受け継いだ 暴力と虐待の連鎖を
断ち切れた開放感からの言葉だと思われ

『大好きだよ』という言葉は恋愛感情というよりも

これまで他人に抱いた事の無かった
自分と近しい存在に感じる事が出来た すず への

言い尽くせない 感謝や喜びにあふれる 少年に戻った気持ちの現れであり

すずの『ありがとう』は
同じ様に世界を拒絶してきたすずを受け入れて
世界との関係も再び受け入れてくれた
恵に対しての感謝の言葉だったという印象があります


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■8. 恵はすずに振られたのか?■
■g. DVの連鎖を断つという意味

更に一枚皮を剥きますと・・・

世界的な子どもの擁護団体「セーブ・ザ・チルドレン」は
2012年に『虐待の連鎖』を訴えたCMで良く知られる様になりましたが

これまで説明してきた様に「家庭内DV」は
暴力による子供への肉体的な損傷よりも

「内的ワーキングモデル」で形成された認識によって

幼少期に親との正常な関係を形成できずに
心理的特性の偏りが起こり

「人を愛する」という様な人間の基本的情緒が
大きく欠けたまま成長する事が背景となって

子供の頃得られなかった愛情を過度に求めて相手に依存して
期待するものが得られないと感情が爆発して制御不能になり

本当は暴力は嫌なのに思い通りに行かなくなると
「暴力的な行為」をする様になるという

子供に正常な社会生活に支障を来す様な
精神的な障害を残す大きな要因となるものと言えます


これはそのような環境で育った子供が
虐待を受ける中で作られた親との関係性が
「人との繋がり方」の全てとなって

他にコミュニケーションの方法を知らない為に

自分が受けてきた事と同じ事を
相手に行ってしまう といった

親から虐待を受けた子供が成長して大人になり結婚して家庭を持った時に
親から受けた虐待を今度は自分の子供にしてしまうという

『虐待の連鎖』と呼ばれる 虐待の関係性の連鎖
約3割の確率で起こる事があるとされています


この様な事が起こらないように
DVの家庭で育った子供は実の親との縁を切り
里親に養育を任せる「里親制度」の取り組みなど

様々な取り組みが行われています


映画では恵が世間に対して憎しみをぶつけていた感情とは
その関係性の連鎖による可能性が高いと言えるものがありましたが

元々恵は母親の愛を強く求める気持ちが残っていた事で

父親の暴力に晒される無力な弟を慈しみ守るという
母親の愛情の様な情緒が育てられていた事が

すずの献身的な行為がきっかけとなり
恵の閉ざした心の奥に残っていた
「愛情の情緒」が揺さぶられて心を開く事に繋がった事で

虐待の連鎖の鎖を完全に断ち切る事が出来たと言えます


すずへの『大好きだよ』という言葉は
「人を慈しむ」という心が言わせている

父親のDVに晒されてきた囚われの身からの
「開放」 を意味する喜びの言葉であり

すずの『ありがとう』は
父親から受けてきたDVの連鎖に打ち勝ち
心を開いてくれた事に対しての言葉だったという印象があります


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■8. 恵はすずに振られたのか?■
■h. DV被害者に追い打ちをかける
世間に対する戦いという意味


更に皮を剥きますと
先程の続きになりますが・・・

現在一般的に使われる 「DV」 という言葉は

かつて1933年(昭和8年)に「旧児童虐待防止法」が制定され

その後1947年(昭和22年)に
「虐待」だけでは無く幅広い観点から子供を社会的に守る
「児童福祉法」という呼び方に変更されてから約半世紀

「家庭内暴力」という言葉で括られてきたものから

1998年に家庭内暴力を描いた 『愛を乞うひと』
日本アカデミー賞を受賞して以降

警察から児童相談所への児童虐待通告数が年々増加して行った事を受け
再び「児童虐待防止法」と制定された2000年以降

社会保障審議会等における検討がなされ改正が行われた 2004年
欧米で社会問題となった「DV」というワードへの関心の高さから

日本で 心理的虐待のひとつと認定 される様になりました


しかしこの分野は
これらの問題に取り組む為の中心となる 「臨床心理学」

脳科学の様に人間の行動原理を脳神経の観点から実験検証するのとは異なり
被験者の 「証言」 を集めて検証実証する学問という性質から

被験者が実態のどの程度の深さまで「証言」をしているのか
加えてその「証言」の 信憑性 はあるのかどうか

確かめる術は無い 事から

検証する為に集めたデータを検証したものが
DVの実態と言えるものなのかどうか
確定していない所がある事からも

社会的な関心が高まり本格的な取り組みをする様になってから
わずか20年余りの歴史しかない

不完全な実証 の元での 不完全な取り組み という印象が
否めないものがあり

先進諸国の中でも 日本の取り組み は様々な面で
遅れている という印象は現在も変わっていないと言えます


そこでよく言われるのは
「関連機関に強い権限を与える」
「親の権限を法的にもっと制限する」
「子供を家に一人で放置する事を取り締まる」

などの対策に対してですが

この様な子供の保護を第一に考えて問題解決を早急に行う
欧米の様な取り組み を求める声に賛同して行く中で

慎重さ故に腰の重い日本の行政では
すぐの実現は 期待出来ない だけでは無く

仮に関連機関が強権を発動して児童を保護したとしても
その後の養育を誰に任せるのかという受け入れ先が
日本では 不足 しているという問題があり

その様な課題が山積みの状態で
被害者からのSOSに対応するには
まだまだ 困難を極める ものがあります

そこでまずは身近な交友関係の中でDV被害に気付いた人達が
指摘や追求をする事で被害が進まない様くい止めて

昭和の時代には当たり前だった
街ぐるみで子供を守る精神を想起する様な

福祉や社会的リソースのみに頼るだけではない
専門家が派遣される前に 不幸な事件を未然に防ぐ 為の

「ゲートキーパー」 となり得る様な社会づくりが望ましく
社会全体で取り組む意識 が必要だと言えます


しかしこれは同時に
この分野の専門家がメディアなどの公の場で
安易 に「虐待の連鎖」を口にしてきた事で

DV被害を受けた事が人の情緒や精神に影響を与えるという様な
この手の内容に過敏な人々の間で
危機感を助長する様な情報のみが独り歩きをする事で

DV被害者を受けた人々が
まるで異常者か危険人物の様に奇異な眼で見られる様な
偏見の温床 となる事でもありました

それは
DV被害者が関連機関や福祉的サービスを得る過程で
『第二のDV』 と呼ばれる「社会的スティグマ」
いわゆる社会による「偏見の烙印」を押されて
不当に差別を受ける事に繋がる

私達が 認識すべき問題 でもあります

この様な『第二のDV』の存在を認識した上で
「虐待問題」を社会全体で取り組むという意識は
まだ 浸透して居ない という印象があります


例えば悲惨なDV被害を無くす為に
2021年4月 南青山 に作られた 児童相談所の建設 の際に

南青山の住民からの
「青山ブランドの価値が下がる」
「税金を使って法に触れる行為をした少年の施設を作るな」 という

地域住民の個人の事情で建設に異を唱える
身勝手な反対騒動 が起こる様なケースを見ても分かる様に

説明会の席で同じ地域住民から出た

「DV被害に遭って困っている人達を救う為の施設を
ブランド価値が下がるからという理由で反対するなど
DV加害者に加担しているも同様

という反論意見が全てを現している様に


物事とは往々にして
自分達とは関係無い問題には 無関心 となり

自分達のテリトリーに関する問題になった途端 過敏に反応 して
急激に情報を得ようと躍起になり

それらの情報の中に誤情報が混ざっていたとしても
問題に無関心で「無知」でいた事が 「判断の妨げ」 となり

情報を得れば得るだけ
「危機感」 を助長する事ばかりに目を奪われ

「偏見」 が育って行く、事が常です


その様な世間の誤った理解から
DV被害者だった人々が DVから開放 されても
今度は受け入れてもらえる筈の世間から 奇異な眼 で見られる様になり

それが 「社会的スティグマ」 と呼ばれる
「偏見の烙印」を世間に押される 「第二のDV」 となって

不当に苦しめられる立場 へと追いやられるケースも
少なくありません


恵がすずに語った『戦うよ』という言葉は
父親のDVに向けての言葉であると同時に

考えうる 世間の偏見 に対しての 今後の心構えの意味が
含まれているという印象を受けるものがあります



さて、この様にこの場面を観て「恵がすずに振られた」という様に
「恋バナ」に感じるのは

恵達兄弟がこの先の平穏な日々を過ごせる事を期待しながら
救われた様な気持ちで映画を観終わる事が出来る様に演出された

製作者の意図もあると思われますが

恵の家庭問題の今後がどうなるのか描かないのは
「あなたならどう考える?」という

製作者からの問いかけの様に思えます


従って この 一連の場面が批判 されるのは
今の日本のDV被害に於ける 現状に対しての批判 なのであり

細田守の脚本に対しての批判と捉えてしまうと
批判されるべき 本質が見えてこない 事になる訳です


故に「DV」とは家庭内だけで帰結しない

その様な立場を作り上げて孤立させ深刻化させる
社会環境に左右される「社会問題」である事から

恵の様な少年に『戦うよ』と言わせてしまう今の社会を作ったのは
正に 私達大人 であり

この場面の台詞にはそういう
「警鐘」 の意味も込められている様に思うのでした



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■9. 大人が同行しない本当の理由■

金ローの放送で すずが単身東京へ向かう場面を観て
「なぜ大人が同行しない?」 という書き込みがSNSで炎上し

江頭2:50がYouTubeで金ローの鑑賞を実況していた事も加えて
一時話題となりました

これに付いては当初私もそう思い
「まあ、マンガのやることだからw」で片付けていましたが

しばらく経って冷静に考えてみますと、これは至極当たり前の事を
描いている事に気付き、更に製作者の思惑も見えてきたので

前言を撤回して解説しますと・・・

これには3つの理由が考えられます


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■9. 大人が同行しない本当の理由■
■a. リアルではこれが当たり前

まず1つ目は 「リアルではこれが当たり前」 という
理由です

これが「映画」では無くて
今 我々に起こっている事だと 「想像」 して考えてみます


映画に登場する大人たちにとって「すず」とは
小さい頃から付き合いのあるご近所さんだったり音楽仲間だったりで
田舎特有の 家族的な輪 を感じるものがあります

これは私達に置き換えたら一番近い概念は
「家に良く遊びに来る、自分の 子供の友だち 」位の関係が

妥当だと思われます


そうして冷静によく考えて
これは 「自分の事」 なんだと思って よく観てみますと


自分の子供の友だちが
「私は東京に行く」と言っています

それに対して
「良しっつ!!! 私も一緒に東京に付いて行ってあげるっつ!!!」

と言う人は 「普通居ない」 と思います


こういう場合 普通は「普通に止める」でしょう

或いは この子が行かなければならない様な
そんな空気になった時でも

普通考える事は

「付いて行きたいのは山々だが自分にも都合がある
まして緊急性があるからといって
警察を差し置いて出過ぎた真似をするのは
果たして家族がなんて言うか

何よりも何かあったら 全部自分の責任だ
やっぱり止めないと」


となるのが  現実的 と言えます

この場合はその大人の忠告を振り切って出て行ってしまう
というケースに当たりますので

映画の様に車で駅まで送る事は
相当な肉親的繋がりが無くては出来ない事だと捉えると

そもそも 既存の物差し で推し量る事は
出来ない事 だと言えます


映画の中の大人は すずが出かけた後何をしたのかは
描かれてはいないので想像するしかありませんが

アノ場面で大人がすべき事とは

普通に考えれば、すずが東京に向かっている間
大人達はとにかく考えられる限りの関係各所に連絡し

何とか恵の家のDVを通報して すずが恵の家に付く前に
その筋の専門家を派遣しようと尽力する事だと言えます


それでも「大人には子供を守る責任がある」と考えて
「私なら同行する」 と言う方もおられるかもしれません


しかし
すずの母が命を落とした
子供が中洲に取り残された場面を思い出してみると


あの場面で大人がすべき事は、レスキューに通報する事であって
すずの母の様に危険を冒して濁流の中に入ろうとする事では無いと

​誰もが考えると思います

つまり 「プロに任せるべき」 と考えて
​「何もしない」​ のが ​「普通」​ だと言えます


それがなぜ すず が東京に行く場面になると
「大人はなぜ付いて行かないのか」となるのか

矛盾している と言えます


この矛盾に目を向けても尚
私なら同行すると答える方であれば

批判をするだけの資格は充分にあると思います


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■9. 大人が同行しない本当の理由■
■b. ジャスティンと対峙した事で既に経験済み

2つ目は 「ジャスティンと対峙した事で既に経験済み」 だから
という理由です

前にも書いた様に 自警団のリーダー ジャスティンも 恵の父親も

良い人に見える様に繕う性質と
腕力に自信がある様な風体を持ち

「自分勝手な考えを人に力付くで押し付ける」
「人を自分の思い通りにしようとする」
「思い通りにならないと力付くでも分からせようとする」

という行動をする点では同類で

この様な事を平然と行う自警団も結局は
やっている事は「虐待」であり

そういう人物にありがちな
「狭量」で「稚拙」な性質からの

自分自身を客観的に顧みることが出来ない
「心の弱い人間」 だという事が分かります


1時間6分辺りで ベルが自警団に拉致される場面で
ジャスティンが すず に対して マウント を取っていたのは

「アンベイル」できる緑の石を持つ 特権意識 からであって
「正義」などでは無い事は観て分かります

そうして ベル の正体を晒そうと緑の石を照射し始めた時に
「その美しい皮膚の下にどんな顔を隠しているのか」
と言い放ちますが

これは すず が 恵の父親と対峠する坂の場面で
すず が 恵達をかばっている時に
恵の父親が無理やり すず の顔をこちらに向かせようと
顔に指を引っ掛けて傷を負わせた時の行動と

全く同じ と言えます

その後 ベルが自らアンベイルして自分を晒した時

その行為に死ぬほど怯えたジャスティンが
自分の狭量を晒して 企業の後ろ盾を無くして
全てを失う顛末は

「U」全体が観ていた既成の事実なので

恐らくすずは 東京へ行くバスの中でもその事を頭に置いて
何をすればあの父親に対抗できるか
ずっと考えを巡らせていた筈です


恵の父親がジャスティンと同じなのであれば
恵の父親に取って 一番の弱み となるのは

自分の本当の素顔が晒される事 に他なりません

従って 恵の父親の本性が晒されるには
すず が何の防御もしないで自分自身を見せるという

正に 「何もしない」 事だと言う事になります


つまり すず は無策で恵の父親と対峠したのでは無く
恵の父親の様な 力付くで人を従わせようとする様な人物が

無防備に自分を晒して見据えて何もしない事に
ひどく動揺する事を
ジャスティンの時に既に経験している事を知った上で

力付くが無駄だと言う事を知らせて
戦意を喪失させようとしたのであり


それはジャスティンや恵の父親にとっては
自分を無防備に晒すという事が
何も残らない空っぽな人間だと知られる行為であり

ましてや助けを求める者に
身を挺して盾になる様な信念など無い事を
思い知る事でもあるので

それが出来る人間を前にする事は
理解不能な行動への動揺と
高過ぎるプライド故からの羞恥心で

思考が停止して何も出来なくなる様な
恐怖でしかないと言えます

すずがそこまで計算したかどうかは分かりませんが
その様な勝算があって立ち向かったのだと言えます


この事に気付けば
この場面は「絵空事」では無くなり

江頭2:52も 納得して鑑賞していた筈ですw


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■9. 大人が同行しない本当の理由■
■c. すず以外招かれていなかったから

3つ目は すず以外招かれていなかったから です


映画では車で駅に送ってすずを見送る二人の会話に
「一人で大丈夫かな」「すずが決めたんだから」という台詞があります

それは車の中ですずが二人に
もし恵の父親と対峙する事になった時には
想像通りの人物であれば先の様な行動をとれば
力に訴える事を思いとどまるだろうという事を

話して聞かせて

この二人が同伴して東京に行く申し出を
断わったという経緯を感じさせるものがあります


つまりここでの問題は
「大人がなぜ同伴しなかった」という事では無くて

「なぜ同伴出来ないのか」
という理由にあると言えます


なぜならこの時点で恵達が信じたのは 「すず」一人だけ
他の人達では無いからです

しかも恵はまだまだ「すず」を
信じ切ってはいない様子でもありました

そんな時に
せっかく心を開こうとした恵達の前に
部外者を連れてきた「すず」を見たら

口では自分が助けると言いながら
危険な目に遭ったら大人達に丸投げ出来る様に

「安全を確保してやって来た」


「すず」の覚悟を上辺だけのものだと捉えて
「すず」を信じてもらえなくなるかもしれません

なぜなら「すず」がやろうとしている事は
「DV」からの「救済」であって

危険地帯に居る人を「レスキュー」する為に
「安全」を確保してから「危険」に望もうとしている訳では
無いからです

又、恵達の望みも
「危険」地帯から「安全」地帯へ「非難」したいのでは無く

皆と同じ 「普通」の暮らし をしたい、それだけなのです


これはDV被害を受けている家族の心境というよりも

善意の支援を押し付ける行為を拒否する
被災者家族の感情 に近いと言えます


先の「東日本大震災」では

「頑張れ日本」「がんばろう東北」をスローガンに
震災に遭われた方達の支援と街の復興に向けて

多くの方がボランティアとして駆けつけ
現地での貴重な労働力となって貢献されました

その一方で
善意の支援をしなければと感情が先走り
自分の衣食住を確保しないまま
現地に無計画にやって来たボランティア達の為に
本来被災者に行くべき食料や寝床を
回さなければならない 結果を招いた

ボランティア熱が高まり過剰な支援が集まり過ぎて
現地の 自立の妨げ になってしまったりと

善意が押し付け になるケースが「ボランティア」のあり方として
社会的に問われる事となりました


「被災」を「気の毒」に思い
「支援」の要求に応えて「支援」しようとするのと

「被災」した事で生活水準がこれまでよりも下がり
「普通」の暮らしが出来なくなった事を「気の毒」に思って
「支援」しようとするのは

全く意味が違います



「被災」した方の立場からすれば
生活水準がこれまでよりも下がったというだけで

自分達なりに 「普通」 の暮らしをしてる訳です

従ってそれが「人情」からの「善意」であっても
必要以上に自分達の 「普通」を押し付ける のは

不幸な被災を乗り越えて自立しようとしている方々に対して
「失礼」 に当たり

それはもはや「善意」とは言いません

又その様に善意を押し付ける考えには
自分達が考える「普通」に至っていない人々に対して
知らず知らずの内に・・・

正しい社会生活を送っていない
自分達の様な 「社会人」とは言えない  と

安易に思い込む


「偏見の温床」 になり得るものがある事を
肝に銘じるべきです


この映画の場合も同様で

父親の暴力から弟を守り「盾」となっている恵は
哀れで気の毒な少年ではあっても

今出来る事を精一杯やり切って家庭を守って
「普通」 でいようと 「努力」 している人間なのであり

それは 「助ける」 という言葉では片付けられない 壮絶 なものがある訳です

その様な事情を知らない他人からの 安易な「助ける」 という言葉は
恵には何も刺さらない 「普通」の押し付け であり

恵達に対して「失礼」に当たる訳なのです

だから すず は恵に自分の想いを信じてもらおうと
「U」では「死」を意味する「アンベイル」を自ら行い
自分を晒して 思いの丈を「U」に向かって謳い上げた訳です

それは「U」の全ユーザーが涙を流して同調する程の
尊い行為だったから 恵も すず だけ は信じようとした訳です


他の大人たちが付いて行かなかったのは
「付いて行かなかった」のでは無くて

あれ程の自己犠牲を行ってまで少年を救おうとした すず に
付いて行く様な 資格が無く 「付いて行けなかった」

訳なのでした


▲目次へ▲
■9. 大人が同行しない本当の理由■
■d. 大人が付いて行くと恵達に死を招く危険

先程は「なぜ大人が同伴しなかったのか」
という理由を解説しました

それでも大人が付いて行った方が早期の解決に繋がった筈だ
という考えを譲らない方は

やはり多いと思います

ではそういう方が言う様に大人が付いて来ていたら 何が起こるのか
恵の父親のスムーズな逮捕に繋がり万事めでたしとなるのか

「リアル」な場合を想定 して 解説します


その場合「恵達」のみならず「すず達」の 命を脅かす
「最悪なシナリオ」 が 動き出す可能性が高くなります

ではなぜそうなるのかと言いますと、

この場合たとえ父親が逮捕されたとしても
それで 危機が去った事にはならない からです

むしろそうなった事によって
本当の危機が訪れる 事になると言えるからです




では順に説明します・・・

これは先程も解説しましたが
この父親は逮捕されて有罪となり実刑が決まって投獄されたとしても

刑期が終われば 出所して社会に解き放たれます

この父親は恐らく初犯なので良い弁護士が付いたら状況次第では
執行猶予付きで実刑を免れる可能性すらあります

又刑法では実刑が付いても 控訴 すれば 再審 が認められます


そこでこの様な人物が
「実刑をのがれて執行猶予付で出てくる可能性」ですが


東京の場合は東京高等裁判所という所で再審を行う事になります

この東京高等裁判所とは
実際に実刑の経験がある 堀江(ホリエモン)貴文氏 の言及では

「世界一保守的な裁判所」という事で

「疑わしきは被告人の利益に」と言われる通り
合理的な疑いが一つでも残っていたら
無罪判決を出すのが裁判の原則ではあっても

有罪判決を出す事が非常に多い裁判所として知られ
ここで裁判を受けると実刑になる可能性が高くなると言えます

つまり逆に言えば、
判決が不満で控訴した事で逆に実刑を喰らう事が言える訳です

なので 実刑が確定 すれば ほぼこの父親の 投獄も確定 するので
この期に及んで 無傷で出所 するという事は 無い と思われます


しかし検察が絶対実刑にするという巨悪な犯罪のケースならともかく

恵の父親は慢性的な暴力と精神的苦痛を子供に与えた罪はあっても
子供を殺した訳ではありません

むしろ止めに入った すず に対して 拳を振り下ろせなかった 事と
事実上 次男に手を出していない 所に

「減刑」 の余地が入る可能性が高くなり

アザが残る程の恵への暴力行為が判事にどう受け止められるかが
裁判での争点になると思います


恵の家は東京でも坂道のある高台なので
高級住宅地の一軒家の裕福な家庭だと言えます

この場合、脱税や横領などの金銭の絡んだ犯罪とは違って
資産が差し押さえられる訳では無いので

腕のある弁護士を雇う余裕は充分にあると思われ
刑期も 検察が5年の求刑をしたとしても 実刑は2~3年 というのが

恵の父親が求刑される 現実的な刑期 だと言えます

日本の場合は有罪判決が確定しても
そのまま「牢屋入り」にはなりません

まず裁判所に収監され その後東京拘置所に送られると
そこで様々な試験を受け「適正」を判断されます

犯した罪にもよりますが通常は10日間の調査の後
実際に刑期を過ごす刑務所に移って更に20日程の調査を行います
これらの調査は刑の開始から2ヶ月以内に終了するとされています

ここで受刑者は東京在住だから東京の刑務所に送られるのでは無く
相応しい機関がある県の刑務所に送られます


従って問題は然るべき機関の刑務所で刑期を終えた後
どの様な人間になって社会に戻って来るかになる訳です


つまり私がここで言いたいのは
一般的にイメージされる「受刑者」が

収監先で被害者に謝罪の手紙を書きながら真摯に罪に向き合い
心から反省して受刑者としての日々を過ごし

社会に出た時には二度と罪を犯さない真人間として生まれ変わっている
という「人の道」の「理想型」があるとして

それは多くの場合「火曜サスペンス的殺人」の
TV 映画 が生み出した「イメージ」であって

恵の父親の様な「DV」犯罪者は
刑を受け出所した後はどうなるのか

実態は分からない という点にあります

ただこの場合考えるべき事は
恵の父親は受刑中に真摯に自分を見つめ直して罪に向き合い
心から反省して真人間になって出所するのかどうか

という点です

恵の父親は
すずとの対峠で「人間力の差」を腹の底から思い知り
青天の霹靂とも言える 衝撃的体験 をしたと言えるので

自分がどれほど愚かで傲慢な人間だったか
初めて 思い知った という事であれば

これまでの 「毒」 が全て抜け落ちて真人間になって出てくる可能性は
高いと思われます

その様に真人間になって出所してきたからと言って
果たして恵達兄弟がそれを受け入れるかどうかは又別の話で

恵達が平穏な暮らしを取り戻す為には
それを手にする為の本当の戦いが待っているのだと言えます


しかし問題は
「もし すずに大人たちが同伴していたらどうなっていたのか」

という場合のシナリオです


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■9. 大人が同行しない本当の理由■
​■d. 大人が付いて行くと恵達に死を招く危険​

●大人たちが同伴していた時のシナリオ●

坂の場面に戻りまして・・・

恵達兄弟はすずを発見して 本当に来たんだ と
信じられない気持ちと安堵する気持ちでいた所に

すず の音楽仲間のおばさんたちがゾロゾロと坂に集まって来たと
します

するとこんなやり取りが想像出来ます・・・


意図しない大人達の姿を見て
恵の表情が急に硬くなり「コイツラは誰だ?」となります

当然大人達がこの場のイニシアティブを取るべきだと考えて
すず が経緯を説明しようとするのを誰かが

「一人では危険だと思って付いてきた」と割って入り

この問題は大人の力が必要である事を説いて
笑顔で「もう大丈夫」と続けます

この不意に出た「大丈夫」というワードに反応した恵は
「俺が信じたのはベルだけだ!」と憤ります

すると大人の一人が恵を落ち着かせようと
「あなた達を助けたいの」と思わず口にします

これまで何度も煮え湯を飲まされた
この様な大人達との無為なやり取りが

ここに来てまたもや繰り返された事に幻滅した恵は

「結局は大人のやる事は同じだ」と答えて
再び誰も信じられないという態度に戻ります

恵達が信じたのは「すず」だけという事を忘れた
大人の使命感からの介入が裏目となり

すずが「U」で素顔を晒した行為は
全て水泡に帰す事になってしまいます

するとここで 激昂する父親がやって来る訳です


ここでもこの大人達は大人の責任を果たそうとして
束になってこの父親に言い寄り
害が及ばない所まで子供達を下がらせます

そうして大人達の怒鳴り合う声で通りは大騒ぎになります

これまで関わりあいたく無くて無視を決め込んできた近隣の住民達も
さすがにもう無視する事は出来なくなり

住民の誰かの通報で警察が駆けつけると
大人達はDVがあった事を訴えて
恵の父親は事情聴取で連行され
恵達兄弟は警察が保護する事になります

大人達はこれまでの経緯と父親によるDVの証拠の動画や
息子への暴力行為で付いたアザなどの事を警察に訴え

恵の父親は2日間の取り調べの後
正式に起訴に持ち込まれる事になります

恵達兄弟は児童相談所に送られて保護され
然るべき対応が約束されて

それを確認したすず達は東京を後にします

そうして父親の実刑が確定して
一見全てが終わった様に見えました


その一方で
社会的地位も名誉も財産もある
優秀な人間を自負してこれまでやってきた恵の父親は

すず達の関与で全てを失った事を悟り
無駄な控訴は断念し刑に服しようとします


しかし拘置所で何日にも渡る適正を調べられる質問とテストで
精神状況を事細かに診断され
子供時代の背景や育ってきた経緯や
犯罪を犯す様な性質なのかどうかの確認に加え

家庭内暴力のに於いては結婚生活や暴力性の診断に精神鑑定
イデオロギーの傾向や反社会的行動の傾向など

時として異常者として扱われる
長期間に渡るこれらの事細かな適正判断を受けている内

神妙な気持ちは消え去り

エリートとして順風満帆に社会的ステータスを勝ち取って来た自分に取って
これらの検査は 屈辱 以外の何ものでも無いと思いはじめ

この茶番を早く終わらせ
刑期を少しでも短くしようと

社会適正試験を高得点でパスする為のあらゆる算段を駆使して
比較的監視の厳しくない機関での受刑をものにして

そこでも 模範囚 に成り切って最短の出所を目指しながら

平素は 神妙 に刑に服す受刑者を 演じ つつ
心の奥底で自分を陥れた者達への復讐心をたぎらせながら

受刑中知り合った「その筋」の人間とのネットワークを
確立させながら 協力者を募りつつ

資金源となる資産の運用を信頼できる人物に任せ

誰にも毛取られない様出所後の計画を 用意周到 に立て
出所の日を息を潜めて待つのでした

そうして長い年月が過ぎた頃には
狭量で叩かれると弱い、尊大で心の弱かった
以前の恵の父親の姿は消え去り

代わりに失うものは何も無い無敵な人となり
「報復」のみを目的に生きる
この上ない 危険な人物の誕生 となるのでした


何だか「梨○院クラス」の見過ぎという感じもしますが・・・w


そもそも実の息子に向かって「価値がない」などと言いながら
暴力行為を行う様な人間は「異常者」としか言えませんので

その様な人物が刑務所の中で心を入れ替えずにいるとしたら

やがて出所して野に放たれた時に

恵達兄弟はもとより、すずとその周りの大人も
命の危険に晒される事になるのは

可能性は低くいとは言えません


これはつまり、
あの坂の場面で 恵の父親の本性が晒され
すずの決意に圧倒された事で観念させた事で

結果的に必要以上に追い詰めないで自滅させた事が
解決へ導く事に繋がったのに対して

「なぜ大人が付いていかない?」という声に応えて
本当に大人達が付いていく事になれば

結果としてすずの代わりに大人達が恵の父親と対峠する事になり
寄ってたかって追い詰める様に
恵の父親を力付くで警察の逮捕まで持って行く事になるので

この人物の持ち前の尊大さは崩れないまま
刑務所に入る事になります

そうなると服役中に改心する可能性は消えて代わりに
「クズ共に破滅させられた」という 反社会的感情 をたぎらせて
出所後には
失うものが何も無い恐れるものが無い
誰も止められない復讐心の塊となって

すずや恵達だけで無く仲間の大人達にも
牙を剥く 事になるのかもしれません

言わば本当の 「怪物」 を生み出す事に繋がる可能性が
非常に高くなってしまうという訳です


目先の「危険」に目を奪われる余り
後の「危険」を生む可能性が見えないという

危険人物の「犯罪者真理」を理解していない
「普通の人々」の発想こそ

「真の危険」が潜んでいると言えるかもしれません



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■10. ジャスティンは恵の父親?■

という仮説がネットでも話題になりました


先にも書いた様にジャスティンと恵の父親との類似点は多く
これが同一人物である大きな証拠の一つではないかという訳です

それは言ってみれば
すずと対峙した場面で すずを見て怯えた態度を取った訳が

「お前はベルっつ?!!」という驚きと

それがどういう訳か現実でも目の前に居るという衝撃で
我を忘れた事があの態度に現れた となり

恵の父親のアノ腰砕けの理由も納得が行く訳です


しかし疑問も残ります


知っての通り「U」では
自分のパーソナルなものがアバターとして投影され
自分の理想の姿が具現化するのが

「設定」なのですが

唯一声だけは「地声」となるのが「仕様」でした

ジャスティン の声はトム・クルーズの吹き替えで知られ
スタトレファン的にはスタートレックの第4のシリーズ
『スタートレックボイジャー』のトム・パリス役としても有名な

「帝王」の異名を持つベテラン声優 森川智之 が努めており

一方の恵の父親役は 日本のドラマで見ない日は無いと言われるほどの
今や日本を代表する俳優の一人となった名優 石黒賢 が努めているので

そう言う意味では二人は 「別人である」 と言えます


又 同一人物疑惑のある「U」での歌姫 「ペギー・スー」
すずの母が助けた子供がオリジン という があり

アンベイルしたすずを見た「ペギー・スー」の
「私と一緒じゃん」という言及が

すずと同世代 であるという一つの 布石 から

その様なリンクを張ったという事であれば
非常に興味深いものがあります


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■10. ジャスティンは恵の父親?■​
■a. 「ペギー・スー」という名前に潜んだ意味
   バディー・ホリーと「音楽の死んだ日」


「ペギー・スー」 という名前で思い当たるのは
音楽に精通している人なら バディー・ホリー の楽曲のタイトルを
連想すると思います

それは同時に 「音楽の死んだ日」 というワードが
頭に浮かぶ言葉でもあります

△▼ △▼ △▼

Buddy Holly & The Crickets - Peggy Sue (1957)
バディー・ホリー - ペギー・スー
(The Ed Sullivan Show, 1957)


Buddy Holly cropped
​Buddy Holly​ (画像参照: wikimedia)

バディー・ホリーの 「ペギー・スー」 は1957年のアメリカの大ヒット曲で
ローリングストーン誌が選ぶ「オールタイムグレイテストソング500」の
194位に選ばれる国民的なヒット曲として知られるナンバーで

ペギースーという女の子が大好きな男子が主人公の
大好き女子の名前を連呼する50年代に流行ったタイプの曲で
至ってシンプルなロックンロールナンバーです

その続編となる 「ペギー・スーの結婚」

この男子がペギー・スーが結婚したという噂を聞いて
「ペギー・スーが結婚したのは嘘だろ」を連呼する

これも50年代に流行ったタイプのヒット曲でした

この曲を発表直後 バディー・ホリーは飛行機事故で
22歳の若さでこの世を去ります

バディー・ホリーの音楽スタイルは
ロックンロールに「ヒーカップ唱法」を呼ばれる
独特の裏声を加えたシンプルなものでしたが

何十人もの演奏者による「ビッグバンド」が主流だった時代に
ギター、ベース、ドラムという現在のバンドスタイルを確立させて
歌を際立たせる為ボーカルを二度重ねる「ダブルトラック」や
ストリングスを導入するポップなサウンド作りなど

存命していれば60年代にビートルズが確立させたサウンドを
10年も前に確立させていたとも言われる程の

当時の音楽シーンにとってバディー・ホリーは
アメリカの音楽発展を期待できるパイオニア的な存在だと言えました

この若き才能を失った音楽界の計り知れない損失を称して
1959年2月3日を「音楽の死んだ日」とされ

1971年に ドン・マクリーン が唄った 「アメリカン・パイ」 の中で
「音楽の死んだ日」 という歌詞が

この時代の出来事を良く表現したワードとして定着し
今日知られるまでになったという訳です

△▼ △▼ △▼

Don McLean - American Pie (1971)
ドン・マクリーン - アメリカン・パイ


Don McLean 1976
Don McLean (画像参照: wikimedia)

このアメリカンパイの歌詞の内容は
ボブ・ディラン ビートルズ ジャニス・ジョプリン などの
60年代以降活躍したアーティストを彷彿とさせるワードを入れて

50年代音楽のシンプルさに親しんで来た人々に取って
50年代音楽は死んでしまった過去のものとされていて

今流行の60年代以降の先進的でサイケで歌詞が難しい音楽は
馴染まないという

若者音楽が好きになれないシニア世代の嘆きが描かれた楽曲となっています

現代でもヒップホップ全盛に馴染めない世代が
80年代ポップは良かったと回顧する流れから
世界的な80年代J-popリバイバルブームが起こる様に

いつの時代もシニア世代の考える事は同じだと言えます


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■10. ジャスティンは恵の父親?■
​■a. 「ペギー・スー」という名前に潜んだ意味​

●「ペギー・スー」はすずの母が救った子?

「ペギー・スー」のネーミングの話に戻りますが

この様に「音楽が死んだ日」を意味する様な 曰く付きの名前 を選ぶのは
この名前は誰かの 死を偲んだ ネーミングで

その死が その人物を指すだけではなく
何か「時代」の様なものが死んだという

今の時代に「称える様な生き様」は存在しない過去のものとして
現代は群像となるべき存在は「死んでいる」という意味から

命がけで赤の他人の子供を救おうとする
尊い行動をする様な「ヒーロー」は居ないという

すずの母親を彷彿とさせるものがある所に

「ペギー・スー」が すずの母親に救われた少女である可能性を
感じさせるものがあります


所で、これは当然

命がけで行動することを推奨する一環では無く
あくまで「時代」というスパンで人間社会を鳥観する視点で捉えた
歴史的「群像」を崇拝する画一的な印象を
映画に落とし込んだ演出を解説したものに過ぎないので

誤解なきよう・・・


これは 多分ですが
子供の声は泣いていただけなので確認は出来ませんが

きっと細田守は ペギー・スーの人に当てさせているだろう という様な
そんな匂いは 確かに感じられます



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■10. ジャスティンは恵の父親?■
​■b. 恵の父がジャスティンだった場合の坂の場面の解釈​

さてここで「ジャスティンが恵の父親の可能性」に
話を戻しますが

例えば竜の声は 恵と同じ 佐藤建が演じてはいますが
声は加工されており 佐藤健 の声には聞こえません

オリジンがアバターに影響する「U」の仕様にしては変ですが
それは竜が「怪物」という形態だからという異型による「変声」
が理由という事なのかもしれませんし

これがオリジンと声の異なるアバターの存在を証明する証拠
という事なのかもしれません

ともかく 証拠にしては とても薄い線だと言うことです

それだけに ジャスティンが恵の父親の可能性がゼロでは無い事を示しており
これは細田守が鑑賞者をその様に解釈する様に誘導する

ある種の「意図」を感じる事が出来ます


つまり その様に当てはめる事が出来る知的好奇心を満足させる為の
「布石」としての意図です

理由は、真の理由を悟られない為のカモフラージュだと
思われます


ともあれ、この意図からしますと、
あの坂での恵の父親と対峙する場面は
ネットの解釈よりも、 もう一歩深く 踏み込む事が出来ます

まず
「しのぶくん」も すず の「音楽仲間のおばさんたち」も
「すず」が「ベル」だと分かっていました

いくら「U」の中でとりわけ目立つ存在の「ベル」ではあっても
50億人ものユーザーが存在する「U」で その様に感じるのは

余りにもおかしいので

これは肉親や身内それに近しい者にはオリジンが誰か分かる様な
それこそ 「アバター」 を見るだけで 本人に見える 位の
本人の 特徴を際立たせる 様な 何か
「U」のアバターを作る「仕様」の中に存在している

と「仮定」します


それを念頭に置いて坂で恵の父親と対峙する場面を
振り返ってみますと


恵の父親は すずの顔を見て ベル だと悟り動揺します
するともう一つの事実も悟り始めます

これまで 「U」の平和を脅かす「怪物」としてずっと追い続け
正義の為に素顔を晒す事に執着してきた「竜」とは

目の前に立つ少女が「ベル」で
その「ベル」が「ジャスティン」から守ってきたのが「竜」であった様に

「ベル」のオリジンの「すず」がここまではるばるやって来た理由が
「竜」のオリジンを守る為で

今 「ベル」である「すず」が 「ジャスティン」である「自分」から
同じ様に守っているのがその「竜」であるのならば

「竜」とは自分の息子の「恵」だった事を悟り

その事実に驚愕して腰が抜けた時に

「U」で「竜」を追い立てて来た事が「正義」では無かった事
ばかりでは無く
これまで恵に与えてきた「罰」が「教育」などでは無く

どちらも単なる「暴力」だった事をようやく理解し

まるで奇跡の様に仮想現実と現実を繋げて
自分の前に現れたすずを見上げて

「お前は何者だ?」 と いう眼で見ると

「私は「ベル」でも何でも無い只の少女、
あなたも「ジャスティン」でも立派な父親でも何でも無い
只の怯えた子供」と

全てを見通した様な眼で見つめ返し

恵の父親はまるで現実で「アンベイル」された様な
自分の真の姿を晒された恐怖 から 逃げ出した

という事だと言えます



仮に本当に「ジャスティン」が「恵の父親」ならば
「竜」が「恵」だと知った瞬間に「恵」を見るのが普通の反応なので

それが無い所が 疑惑は疑惑で終わる所では無いかと
思うわけです

つまり逆説的に取れば
状況的に鑑賞者がその様に解釈する可能性を考慮して

真実は一つしか無い事を知らせる「鍵」として

「ジャスティンであれば絶対にやる行動」を取らせない事で
同一人物では無いとした と言う事になります


結論 から言いますと ジャスティンと恵の父親は 別人 です
それがなぜ分かるかと言いますと

細田守は二人は別人だと分かる様に
しっかりと画面上でそれを示しているからです

ジャスティンがベルを捕らえた時 力付くでアンベイルしようとした場面で
殴りつけるように腕を構えた腕に付いたアンベイルする 緑の石

右手 にありました

それに対して
恵の父親が 坂の場面で 恵達の盾となって立ちはだかるすずを殴りつけ様と
腕を構えた手は 左手 でした

通常 人を殴ろうとする時に使う腕は 利き腕 を使うのが普通です

つまりジャスティンが 右利き に対して 恵の父親は 左利き なので
二人は別人 だと言う事がこれで分かります

これは そういう解釈でも構わないという
細田守の意図からそう取れるものがありますが

厳密には別人であるという証拠は示して
敢えて言及しないでどちらにも取れる様な演出を施したと言えます

例えば すずを殴りつけようとした腕に付けている 時計
ベルをアンベイルしようとした 緑の石の様に見える  と言った

ジャスティンと恵の父親が 同一人物 かの様に見える
一つの 「誘導」 がそれに当たります

なぜその様な事をするのかという理由は先にも述べた様に

恵の父親 ジャスティン のやっている事は
本質は同じ である事を印象付ける為に 同じ行為に見える様 に演出して

二人の行為は共に「支配」であり「虐待」であり「暴力」である事を
言葉では無く映像で伝えようとした所にあるからだと言えます


つまり その演出的手法が 分かりにくくて回りくどいのであれば
「同一人物」という形で受け取っても良い様に

別人である事を示す「鍵」は潜ませて
敢えて言及しなかったというのが真意で

それが本作の全編に渡る分かりにくさに繋がっているではないかと
思うのでした


▲目次へ▲
■11.すずにとってのしのぶくんの存在と
ラストの「ありがとう」の意味■


これは映画内でも描かれている様に「恋する存在」ですが

駅から出た時の交差点でしのぶくんと鉢合わせした場面で
突然ベルだという事を看破されてパニックになって逃げ出したりと

しのぶくんという存在はすずの心の中に真っ直ぐ入って来る
まるで 肉親の様 にとても近しい存在の様でもあります

本編を見ていてもしのぶくんの行動は

すずの親友の「ヒロちゃん」が
思った事を思ったままに時には無責任に発言したりしながら
肝心な所はいつも保守的に行動するのとは異なり

誰よりも常に深い所を見て
何が本当にすずの為なのかを分かった上で発言し行動して

時にはまるで試練を与える様な行為をすずに取るので

「U」にのめり込み竜に惹かれる様に行動するすずに
いち早く異変を感じて心配する姿は

幼なじみの女子を想う男子というよりは
娘の成長を促し時には間違いを指摘して見守る
母親の様 でもあります

弟を守る為に身を犠牲にして盾となる恵も
まるで母親の様でもありましたし

親友のヒロちゃんや級友のユカちゃんにしても
同世代の友人と言うよりは すずを母親の様に見守る所がありました

子供の頃から母が大好きでいつも一緒に行動していたすずは
ある意味 母親に似た人に惹かれる とも言えます


ラストシーンでしのぶくんは 見守る事から開放されて
ようやく普通に付き合えると ほぼ告っている様な発言をしますが

赤くなったすずは空を見上げて 「ありがとう」 と言ったのは
しのぶくんに対してという意味と同時に

母に対しての言葉 だったのだと思います


すずは 幼い頃母を失い
母に見捨てられた様な想いのままで多感な少女時代を送り

そんなすずとの距離を今一つ掴めない父は
すず同様心が臆病なすずそっくりな人物で

周りにも心を開けないままのすずを理解しながらも
時間が解決するまで静かに見守る感じの人でした

すずの家は太陽を失った様に活気を失っていましたが

目の前で助けを求めている少年を救う為に
すずが閉ざした心で引きこもる様にのめり込んだ「U」からでは無く

すず自身が日差しになろうと自分の殻を破り踏み出した一歩は
世界の人々すら動かす程に大きな力となりました

母から影響を受けて音楽に興味を持ち
音楽を通して世界を知り 音楽で人の心を動かし

すずの音楽に心が動いた人々によって臆病だったすずの心は開放され

母から受けた影響は世界に波及する様な大切な財産となり
どんな時もすずを救い

そして「母の様な人達」から すず は見守られながら

助けを求めている声に応える勇気を持つ程の
母から授かった財産はすずの一部となっていました

それはつまりすずの母はこれまでもすずと共にあり
ずっとすずを見守ってきた証であり

亡くなっても尚、
親友の中に、友人達の中に、身内の人々の中に、
救いたい人の中に、愛しい人の中に、

いつも「母」の存在を感じながら

いろいろな形ですずを見守り
いつもすずと共にあった「母」へ

「ありがとう」と言ったのだと思われます

それによって途絶してきた世間を受け入れて
しのぶくんと向き合う事を決めた

すずにとってのしのぶくんとは

細い糸で結ばれた世間と繋がる為の
唯一の扉を開く「鍵」の様な存在であり

それは唯一しのぶくんだけがすずの気持ちを悟り
すずを世間と繋げようとしていたからだと言えます

そうしてすずが世間と向き合う事を決めたという事は
それは同時に しのぶくんと向き合う事も決めたという事でもあるので

しのぶくん は すず を包み込む様に理解してくれる存在となり
すずにとって「母」同様に大事な存在になったという意味から

その様な人物に巡り会えた事への全てに向けて感謝の
「ありがとう」という意味だったと言えます



▲目次へ▲
​■12.「まとめ」と「意味不明」の意味■​

さて、

冒頭でも書きました通り
本作は大ヒット作でありながら賛否両論で批判の声も大きい
異色作としてあらゆる意味での話題作でしたが

本作を批判するならするで 観念的な感情論では無く
映画の真意を知った後に正当に批判されるべき という

当サイト主の歪んだ映画愛から更新された映画記事でしたが
前編4万文字 後編10万文字 (!) 合計14万文字もの出版レベルの

楽天ブログ史上初となる
個人ブログとしては恐らく世界初の空前の更新となりました
(※あくまで個人の偏狭な印象ですw)


本作の特徴としての「意味不明」さは
映画の中に「布石」として散りばめられた

真意を解明する「鍵」の存在を示すものと断定して

それを一つ一つすくい取って解明して行ったものが
本記事となりますので

多分にウチの解釈が入った「妄想」に近い「想像」が加わった
性質のものでもあります

いわゆる「鍵」の存在にしても
「これは鍵に違いない」という「前提」で解説しているので

一応に説明が付てはいても「真意」という意味では
「想像」の域を出ない「仮説」ではあります


これらに付いては後に
製作者自ら映画の解説をしてくれる日を待つしかありませんが

であればもっと万人に分かりやすい
誰にでも理解できるような内容の映画にすれば済むことであると

思う所です


そもそも本作は「理解できない」という理由で
多くの鑑賞者に批判される程

実際に「理解出来ない内容」で作られているので

細田守はその様な映画を作った理由は何かと考えますと


まずこの映画は『美女と野獣』を現代に置き換えた
『現代版美女と野獣』である所に理由があると言えます


▲目次へ▲
■12.「まとめ」■
■a. 本作が「現代版美女と野獣」である理由

『美女と野獣』は 今日ではディズニー版が決定版として
知られるまでになりましたが

ディズニー版で描かれている事は
原作を大きく自己解釈した異なる作品と言っても良いものだと言えます

例えば原作のテーマは
「うわべが良いだけの尊大な人物が受ける迫害からの再生」

ジャン・コクトーが監督した版では
「両親が精霊の怒りを買い 親の因果が子に報う 怒りからの開放」

ディズニー版は
「見かけで人を判断した罰を受け見えない真実が何かを掴むまでの試練」


と、ディズニー版だけでは無くて映像化された全ての作品が
異なったテーマで描いており

これには原作の捉え方の違いに理由がある様に思えます

原作が出版された18世紀に於いても
ヴィルヌーブが執筆した長編のオリジナルを
ボーモンによって大幅に短縮されたものが

今日『美女と野獣』として知られる様になったという経緯があり

18世紀の当時ですらオリジナルの8割以上を助長として捉え
ボーモン版が出るまで存在を知られていなかったと言います

オリジナルを大きくカットして再構成したボーモン版は大ヒットし
後世に残る名著として世界中に愛読される様になりました

これはオリジナルで描かれた「テーマ」よりも
「美女」と「野獣」という相反する「要素」が

どの時代の時流にも当てはまる
魅力ある「プロット」として成り立ちながら

「美女と野獣」が持つ「見えない心を見る愛」という
いつの時代でも愛されるロマン溢れる物語が

それぞれの時流に合わせたテーマで描かれながら
時代を超えて受け継がれて来たと言えます


21世紀制作版では舞台を「ネット社会」に置き換え

「親への不信感」という呪いで「ベル」の仮面の主となり
「親からの虐待」という呪いで「野獣」の仮面の主となり

互いに何処に向けても救ってもらえない「SOS」に絶望し
互いに何処に向ければ良いか分からない「憤り」に捕われ

同じ「痛み」を知る者同士の仮想空間での出逢いを通して
「損失と再生」を経験する

紛れもない現代版『美女と野獣』としての
「見えない心を見る愛」が描かれております


本作に於ける「見えない心」とは
「迫害」を受ける「いわれのない」理由に対してのものであり

「いわれのない」事をされる「理由」は「誤情報」を真に受ける
「社会」にあるのであって

「迫害」をしている側も「真相」を分かっていない状態に
全ての問題があると言えます


ディズニー版『美女と野獣』の
「見かけで人を判断すると、心の奥底の真実が見えなくなってしまう」
というプロットを踏襲している本作も

普通に観ているだけでは
「意図的」に「真相」が分からない
「意味不明」な「誤情報」を演出して作られた

隠された真相は見えない本作が 「意味不明」 に見えるとしたら

それは私達が生きる社会も本当は何が起こっているのか
真相を知るまで分からないのと同じであり

それは 当たり前 の事だと言えます

つまり本作の意味不明の 「意味」 とは

表面上に見える事だけで判断した事が大多数を占めた時
それが 真相 とはまるで 異なった事 でも

それが 「真実」 となってしまう今の社会への
「警鐘」 が込められているのであり

「真実は目に見えない」 のが 「私達の社会である」 という
本作からの 「メッセージ」 だと言えます


▲目次へ▲
■12.「まとめ」■
●本作はなぜ意味が分からない映画なのか
そして本作の「隠されたメッセージ」


私達の世界は複雑な事情が絡むだけでなく
様々な物事が積み重なり
「真相」はそれらが折り重なった奥の奥の底にあり

目に見える事を頼りに物事を捉えようとしても
真実に辿り着く事は時として困難を極めるのが
今の社会だと言えます

その様に「世界」とは
本当の事を知る者の方が少ないのが「現実」であり

奇しくもこの映画の「真相」を知らずに
「見た目」の印象で本作を評価をする私達鑑賞者は

それを「体現」した訳であり

本作の製作者は
その様な「世界」を観客が「体現」する事で
「理解できない」と「批判」される事を知りながら

自虐的に表現 しようとしたという印象があります


思えば前作の 『未来のミライ』
意味不明な映画として批判されて叩かれた作品でした

しかし『未来のミライ』も 実は 数多くの布石が散りばめられた
見えないメッセージが潜んだ映画で

多くの人がその事を知らずに鑑賞した作品だと言えます

『未来のミライ』の見えないメッセージとは何か?ですが
それは次回の更新で解説するとして・・・w


メッセージが見えないタイプの映画では
大島渚監督の​ 『戦場のメリークリスマス』 ​や
庵野秀明監督の​ 『旧劇場版エヴァンゲリオン』

クリストファー・ノーラン監督の​ 『プレステージ』 ​などがあります

『プレステージ』に至っては
当サイトで前後編に分けて トータル20万文字相当の出版クラスの更新で
完全解説した事がありますので

興味のお有りの方は後ほど観覧していただくとして・・・w

それらの作品がなぜメッセージが見えないのかは

「見かけで判断すると奥底の真実が見えなくなってしまう」という
『美女と野獣』で描かれたテーマ同様

「社会はその様に万人に理解出来る様に出来てはいない」からであり

「地球」ひとつ取ってみても
美しい地表を支える地底では
溶岩やマグマがうごめく地質変動が常に起こっている事からも

言ってみればそういった決して表面に出てはならない物事を含めて
はじめて世界は「正常」で「健康的」だと言えるのかも知れません


つまりもし本当に誰にでも理解できる様な
「分かりやすい世界」 があるとしたらそれは

奥底で物事をある方向へと導こうとする事が表に出てきただけの
「作為」に満ちた「思惑」が潜む
「時流」を操ろうとする「暗躍」でしかなく

映画やドラマの世界の中でしか存在しない
「異常」 な事なのだと本作の製作者は捉えていて
この様な分かりにくい映画を作り続けているのかも

しれません☆




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最終更新日  2023年10月05日 14時08分36秒
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