☆わたぼうmama☆ROOM

フジ子へミングのお部屋




♪フジ子へミング♪のお部屋


イングリット・フジコ・へミング



娘が大好きなピアニスト フジ子へミングのことを綴りました

小学校5年生の作文







フジ子はベルリンで生まれた。

5歳のときに、東京にもっどって来た。
フジ子はお母さん一人に育てられ6歳の時お母さんからピアノを教えてもらう。
練習はとても厳しかった。何度やってもお母さんに怒られすごく大変で辛かった。
弱くするところ、強くするところ、ゆっくりするところを何度やってもうまくいかない。
それでも、お母さんは出来るまで何回も何回もやらせた。

10歳の時にロシア人のピアニストに教えてもらうことになる。
最初は子どもに教える気はないと断られる。
フジ子の演奏を聴き教えさせてくれとロシア人のほうから頼まれる。
その時弾いた曲は、ショパンのエチュード第5番変ト長調「黒鍵」作品10の5。

でも、16歳の時に、右耳が中耳炎で聞こえなくなる。
そんな状態で17歳の時にコンサートデビューを果した。
お母さんと同じ東京芸術大学の時には
いろんなコンクールに出てたくさんの賞をもらう。

30歳でドイツに留学をしてベルリン国立音楽学校を卒業。
ピアニストになりたくて
ヨーロッパでいろんなピアニストに自分の演奏を聞いてもらう。
最初は緊張して、うまく弾かれず失敗に終わった。
でも、あるピアニストに「ラ・カンパネラ」を聞いてもらえて気にいってもらえて
リサイタルを開いてもらうことになったのに・・・・
ヨーロッパでの生活は厳しくお金もなかった。
そのため、砂糖、水だけで生活を送って栄養不足だったため
風邪から両方の耳が全然聞こえなくなる。
ちょうどそのリサイタルの直前だった。
フジ子はヨーロッパの病院に行く。
女の先生がやさしく動きをつけて対応してくれた。
フジ子は女の先生にリサイタルまでに治るか?と尋ねた。
1年はかかると告げられた。
耳が聞こえないままリサイタルを始めたが、演奏を途中でやめてしまう。

耳の治療をしながら絵を描く。
2年経って、片方の耳が少し聞こえるようになった。
それから、音楽学校の教師の資格を取りピアノの先生になり生活をしていく。
ピアノのレッスンの途中に一本の電話が・・・
その電話は、お母さんが死んだという知らせだった。

それをきっかけに日本に帰る。
母校の東京芸術大学で公演を開きカムバックを果たす。
デビューCDが「奇跡のカンパネラ」だった。
クラシックで90万枚も売れたのはとてもめずらしいこと。
フジ子は耳が聞こえなくなっても夢を現実にし、現在も活躍している。


わたしは、フジ子へミングの弾く曲はすべて心がこもっていて
他のピアニストとは比べものにならないほど
きれいな音色ですばらしい!!!と思います。
大好きです!







フジ子・へミング


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