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堀眞五郎敵への報恩長州編6,箱館戦犯実態
箱館戦争終了後戦犯処理の様子一望資料表,箱館戦争で捕虜になった男達,堀眞五郎,敵への報恩(長州編),福山藩の犠牲者達,哀れ、少年達の散華,幕軍に命を救われ治療された人々,
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幕末玄関
<箱館戦争の余波:捕虜達のその後<敵への報恩_長州編(現在の頁)
■1(捕虜第一号)_五稜郭や陣屋などに置き去りにされていた負傷者達7人組_
長州、堀眞五郎他
敵への報恩_長州編(6)
堀眞五郎、あの時、捕らえられた捕虜series_No.2
関連(あの時捉えられた捕虜Series_No.1):
敵への報恩(薩摩編)
敵への報恩_長州編:最初から読むには→
No.1
<
No.2
<
No.3
<
No.4
<
No.5
<※現在の頁は
No.6
<
No.7
「血に染まった陣旗」が紐解く「堀眞五郎、謎の空白場面」
堀眞五郎、不覚!!の五稜郭
◆堀眞五郎の謎の空白場面
堀は、暫し消えている。だから、よく、清水谷と共に早々に青森に逃げたと錯覚されることもある。
しかし、ちゃんと逃げたりせず戦っている。
にもかかわらず、空白場面がある。
・・それは、つまり、なんと!高松凌雲による病院に入院していたのだった。
現在の頁No.6はSERIES_No.1~No.5の補足&考察など、各頁のおまとめコーナーです。
・・・明治の世になって、品川弥二郎氏から、人見勝太郎に
手渡された「彼自身の血に染まった陣旗」
キーマンは、どうやら、堀である。堀は、品川と共に、長州志士。
悔しいながら、七重の戦で負傷。生死の境界を彷徨う重症だった。
しかし、もっと悔しいことに・・・なんと、敵、榎本軍に救われ、
治療を施され、完治後の正月、帰された。
堀眞五郎、不覚!!
・・・なんと、目が覚めると五稜郭。
そして、高松凌雲による病院で、
敵味方の区別なく、徹底治療を施された。
皮肉なことに、共に治療を受けたのは、
「腰抜け共!それでも武士か!」散々に罵声を浴びせかけ
尻を叩き動かした「福山兵」の生き残りだった。
堀自身にとって、この事は、一生の不覚、「己の恥」。
ところが、高松先生にあっさり手記を残されてしまっている。
ここで世話になった事実は、残念ながら消えない!!
「敵への報恩SERIES」:
幕軍に命を救われた敵の人々が敵の立場で、後どう動いたか、どう悩んだかを追求しています。
命を救われた堀眞五郎・・・どう動いたか?
◆榎本は、この大物捕虜、堀眞五郎を捉えて捕虜にしたわけですが、人道的に治療を施し、
彼ら捕虜を無事送り届けてやります。その際、折角の大物ですから、新政府への交換条件に
もってこいの素材ながら、榎本はあくまでフェアに拘ったのか、
交渉や説得の様子内に、大物捕虜、
堀を交渉材料に使った様子
を伝える資料は見た事ありません。捕虜引渡時において、かけひきが
あった様子記載もなければ、堀自身の手記にももちろん無。
◆そもそも、堀氏とは、伝家禄を読む限り、あまり自身の格好悪い話しを書くタイプの人物では
なさそうだが、榎本軍に救われ治療された話を一切書いていない。
これは、なんとなく不自然な気がした。
文章に語らなかったのか、命を救われ、また敵味方区別なく人命を尊重して治療を施した幕軍の姿勢を
伝え、なんらかの幕軍寛大措置を提案したが故、ひとたび降格を享受するはめになったのか、
書いたが明治政府に抹消されたのか?残念!不明。現存する「伝家録」には、そうした話は見つからない。
◆
堀眞五郎
本人は、榎本軍に治療してもらい、完治後無事送還してもらった後、
箱館戦争討伐開始の明治2年初期期間=「殺戮を用務とする期間」、
彼は、青森で、ぐんと降格「事務係」に身を落とし、断固、箱館には寄り付きません。
<しかし、本来過激派の彼にしては、大人しく青森で事務やってる期間があること自体、不自然。>
資料によっては、「箱館の様子を報告した後、彼は降格」というものもありますから、
やはり、なんらかの平和的解決案を提じたか?と気になりますが、それについて
具体的な裏付け資料は発見されていません。
◆激動の人生を歩んだ堀眞五郎は、箱館以来、それまでの彼とは異なる人になり、
「公平な裁判」という言語に執着し始めた事は、何が要因だったことだろう。
★
考察を加味した「堀眞五郎略歴」
▲ここに、敵に救われ入院していた経緯を含めた形で、まとめ直した堀略歴を書きました。
一般的に言われてる事と、周知の史実に対して、さらに実際の経緯を加味してあります。
堀眞五郎の動き考察-【伝家禄を読むと・・・】
◆七飯の戦に及ぶまでの、ご自身の大活躍の場面など、実に活き活きと書かれています。
本当によく、頑張って走り回っている。どの描写を読んでも大層勇敢。
◆また、吉田松陰先生が、「彼、堀君は、優れているが、真っ直ぐすぎて心配だ」の意で堀氏を
批評していますが、まさしくそのとおり。
◆箱館戦争終結処理段階では、再び活発に動きはじめますが、
折角波に乗ったのに、どうしても我慢できず、頭に来てしまいには辞表をつきます。
◆
薩摩人の何人かをがんがん摘発
。完全に薩摩の恨みを被ります。
薩摩の一人は摘発され、恥辱にたえられず自刃してしまいます。また、他に捕らえた何人かに
対して少しも処置を緩めたりせず、永牢と決定します。これにて薩長歪み致命的。己の地位不利へ。
◆また、ひとたびクビなった事実はありますが、箱館府廃止&開拓使開始の時期の
【清水谷もろともクビ=※】事件に係るものとは別に、彼自身経験による「幕軍に命を救われ、
敵味方の区別無く命を尊ぶ彼らの行いを評価して、寛大処置を主張したため、高官の怒りに触れてクビ」
という事実を掴みたいところですが、本人は一切、その点について表記していない。
【清水谷公考もろともクビ=※】
とは
◆突如、岩倉から「箱館府廃止、清水谷以下揃ってクビ!」と言われて仰天の清水谷。
しかし、彼も、素直だ。「ここまで、頑張った俺たちを嘗めるんか!」と開き直ることなく、
「確かにあんまり、役に立てなかった事は認めますが、そりゃ、あんまりでしょう」
・・・結局、妥協の適当なポジションで大人しくひっこんで収まった。
◆岩倉は、清水谷に関して降格でなく、この際、本当に箱館から抹消しようとしてたという
から、恐ろしい。「クビじゃ!全部止めじゃ!箱館府など、もうとっくにござらぬ!
・・・今後は万事、開拓使じゃ!早よう、消えうせぃ!清水谷、見苦しいぞ!消えんかい!」
「お前なんか、もとどおり、大人しくお習字の先生でもやって、細々食っとけ!」
と言ったかどうかは知らないが、実際公家といっても貧乏公家の清水谷は、学に秀でており、
早期に迫り来る諸外国の危機を建白するなど優れ者である。しかし、生活面では、お公家さんに
与えられるわずかな収益では食えず、書を書いて収益にしたりの日々。
彼らの中でも特に最下層の暮らしぶりだったといっても過言でない。
「公平な裁判」この言語に執着し始めた堀眞五郎
そこに、堀眞五郎流_敵への報恩の証・・・ともいうべく行動は見えないか?考察
◆辞表を叩き付けた後、最終的には、
「公平な裁判を目指して」裁判官として生きてゆき
ますが、
その訳は、自己経験による由来とは何だったのでしょうか?
高松凌雲が寝る間も惜しんで、懸命に治療をしてくれたから、命が救われた堀真五郎。
しかし、品川弥二郎が、人見に「彼の陣旗」を手渡します。
品川は堀と古くからの友、共に長州志士であったばかりでなく、そんな堀の経緯を
すべて見て知っている人物でした。
強硬派が多い中、確かに
誰かが、人命尊重の見解で、動いている気配
がある。
田島敬蔵が包み隠さず、ひたすら頑張ったのは明確
ですし、また黒田自身が頭を丸めて
頑張った等は有名。但し、残念ながら、堀氏に関して、その動き立証材が存在しない。
【堀眞五郎による箱館方面取り締まりの様子・・・】から考える
「公平な裁判に執着し始めた堀眞五郎の動き考察-その1
◆1薩摩人の摘発行為
◆2_箱館及び、江差近郊に発生した状態
に対する堀氏の監視姿勢
私情や過去の怨念で、正しくない取締りや処刑が発生しないように、もし、彼がしっかり
強烈に発言して戦ったり、監視していたとすれば、こんな事は起きなかったはずだ。
これは、いまいち、堀氏の活躍成果が見えない。非人道的処置を食い止めた実績が見えない。
謎に包まれた_堀眞五郎流_敵への報恩
参考:檜山方面に於ける戦後処理の様子
(1)檜山での惨殺続出、(2)高松凌雲の激怒:戦後、松前預かりとなった者の「水牢事件」、
(3)
松前江差方面:戦後処理の様子と悲惨「一望おまとめ表」
(1)檜山での惨殺続出
薩摩の黒田は、檜山:江差方面に関して、幕軍に加担した一般民の処置に対して、
市民による自発的な処刑を黙認した。要するに、散々な目にあったと激怒している彼らに対して、
気の済むままにやらせてやった。
(注)一応、外賊、内賊の定義有、外賊百数十名は送還されたはずだが、やはり、混入された。
内賊とは地元侍&松前藩士などのうち、徳川応援した者、及び加担した一般人
そのため、幕兵に頼まれて雑用を手伝った15歳位の子が引き回されて斬首。
親方に言われたとおり、意味も解らず幕軍兵になっていた地元少年(17歳位)斬首。
この子は斬首の直前、大声で泣いていたという。僕は何も知らなかった。言われただけだ。
家に残ったお婆さんが心配だ。お婆ちゃ~ん・・・いつまでも泣き続けていた。
なぜ、こんな子供に惨忍な処刑を?願わくは嘘か?と信じたいが、調べたところ、
「らしき当該」判明!
17歳位と人々の目に映った子は、見た目長身で実はもう少し低年齢かも
しれない。坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い現象か?
土方歳三直属「お抱え地元採用少年」が居る!
この子の処刑と同じ頃、次から次に「若侍」が斬首された。
年頃は同じ程度でも、やはり侍らしく、泣かず、堂々と「死杯」をぐいっと見事に飲み干した者
もいるという。(実は、一連隊長の松岡四郎次郎は、撤退の段階で、再び他の隊に「どうして
手放したんだ!」と責められないように(実際、かつて、そうゆうことがあった。)、
幾人かをここに死守隊として残して去った。ここに外賊ながら混入されてない保証はない。)
▲内賊捕縛者の内、重犯罪者と見なされた人数24人(or22説有)。そのうち8名は松前方面で処刑
すべく引渡し、残り16名が江差方面で斬首・・・なのだが、泣いてばかりいる子や、たった1回
お手伝いをしてご褒美を貰った(米1俵も貰った※▼)子供が斬首すべき重犯罪者と定義つけられる
わけはない。
・・・※恐らく榎本軍イメージアップの意を含め充分すぎる大ご褒美を与えたのだろう。
当時一般民は誰でも白米食べれる身じゃない。妬み。
そうした目撃情報は、やはり別途暴走&無秩序な惨殺による処刑=乱殺も発生した証だ。
髷を反対とは:正式な切腹の儀礼では髷を逆さに下に折り下げ結い上げる。
しかし引き回しにして嗤い者に仕立て連れ回すこの混乱の描写と、堂々武士の切腹に
尊厳の意を以って為す古風かつ正式な扱いは、どうもミスマッチ。目撃者とは、
親の背に背負われていた当時幼児もしくは今日でいえば小学生低学年程度の人物。幼児が普段と違う
状態と気がついた以上、やはり、顔側に髷があった状態と考えられる。
▼
髷を反対に結われて(顔に髷が結われてる状態か?▲)、
反対向きに裸馬に乗せられ屈辱の引き回しの後斬首された侍もいた。群集の野次飛び交う中、
彼は半狂乱状態だったとある。目撃者資料がある以上、これは悲しいけれど事実だろう。
こんな屈辱に耐えるぐらいなら舌を噛み切って死んだほうが楽なのだが、舌を噛み切る行為自体、
主に忍びの者などの世界で行われる行為であるため、「武士」なれば、それを行うは卑しいとされ
ていた。きっと、それゆえ、この若侍は耐えるしかなかったのだろう。実に可愛そうだ。
やられた側の復讐とは、いつの時代も同じだが、強烈な残忍性を帯びる。
つまり、黒田は、幕軍に加担した地元人に対する処刑のみを黙認したはずなのだが、
「黙認」なんぞするものだから、そのへんの解釈は結局、「わやくちゃ」になった。
この近郊で捕らえられた幕軍の者は、中央政府に送還されることなく(※上記のとおり返された
者もいるが混入された者がいる)、連続雨天の中、曝しっぱなしで飢死した者もあれば、
ストレートに斬首ならまだしも、ひどい恥を曝させる形で引き回しにして惨殺、など、これは
戊辰に於いて、数値の上では会津に全く及ばぬことだから一般に知られていないが、
「無秩序な惨忍性」という点では、会津を上回る。
というのは「侵略軍」と「奪還」、「群集心理」がキーワードである。
屈辱からの解放。人々は奮起している。鬱憤が溜まった市民感情はおのずと爆発&暴走となる。
滅びた者には容赦なくその復讐が行われる。
実際、北欧のノルウェーでも、ナチス占領下から解放された段階で
同じようなことが発生している。市民がドイツに協力した者を殺害し、
ドイツ人の妻や妾になった女性の髪を切り、丸坊主にして、
その姿で通りを引き廻し笑いものにした。 丸坊主の女性が
泣きじゃくる。胸には既に生まれてしまった赤ん坊(ドイツ兵との間
にできた子)を抱いている。・・・そんな光景が展開された。
ご存知の
画家ムンクの作品「叫び」
あの絵を見て、ただならなぬ
気配感じた皆様もいらっしゃることと存知ますが、
多分、この事を物語っていると思います。
しかし、問題は上記3つのキーワードそのものではなく、
最大の問題は
際限なく広がる暴走によって生じる「無秩序な裁き」
という事柄です。
つまり、捕縛、引き回しの段階では、カッ!となった市民も勢いで一部それに加担している。
「こいつ、敵に加担するとは許せない。この際、百叩きの刑にでもあって泣け!」
「二度とその面見せんなよ。村八分じゃ!どこへでも消えうせんかい!
いっそ、このまま野垂れ死にしてしまえ!」・・・ざっとこんなところだろうか。
ところが、いざ処刑になってくると、一般市民にとっては、予期せざる恐ろしい事態に発展して
おり、恐怖のあまり、皆立ち去るのだった。「百叩きの刑」かなんかでどうせ終わるであろうと
思っていた者にも容赦なく、天誅が加えられる。惨殺。斬首。
ふと目が覚めても、手のつけようが無い。
「誰も、何も・・・そこまでやるとは知らなかった!惨すぎる。まさか殺すとは思わなかった・・・」
やんややんやと野次馬根性で参加した程度の者は皆、覚めて脅え、乱れ散った。
そこには、強烈な一部の過激団体、利害の恨みつらみを蒙った一部の組織の暴走が生じているのだ。
上記北欧の例でも、実はレジスタンスというバックヤードがあった。
一般の町人は、物陰に隠れて、目を覆うようにして恐々見ていた。
つまり、これは「市民感情」ではなく、一部の人、一部の組織の爆走である。
確かに、
江差方面では、非常に幕軍到来を迷惑していた
のだが、普通の人は皆、
こんな惨殺やって欲しいなど、誰一人望んでいなかった。可愛そうでも手出しできなかった。
斬首された首は曝された。胴体は獣の遺骸のように投げ出された。
家族が泣く泣く払い下げ依頼しても回答は無論ダメ。父なれば己も死ぬ気で闇に紛れて
変わり果てた我が子の遺骸を拾いに行った。しかし、これはそ知らぬふりで、見逃がされた。
追
記:上記檜山での惨殺続出の項について別説:
資料によってがらりと異なる。惨の幕は松前であって、加担した檜山方面の一部の民を
過激処罰説。道外から見れば、松前も江差も松前藩。しかし、昔ここに微妙な体温差
(
関連1
、
関連2
)。病身の藩主徳広が館城から逃れた時、冬の津軽海峡を渡らせずに
守るべきところ、対処が悪いが故死に至らしめたとして怒り、檜山方面の小加担者を過
激に絞上げた。幕が松前なのか檜山方面なのか別として、惨殺多発は事実だから悲しい。
黒田は事前に「時限爆弾」になりそうな要素を察知して、そうならないように不満分子をさっさと
取り除いてゆく知恵がある。大人しく恭順した者や藩に寛大措置を取って協力を得たり、
黒田本人が諮った事でなくても、新政府として幕軍撲滅の為に政府が借りを作ってしまった者にも
「爆弾」にならないように、こうして黙認とか一任という形を示した。
このちょっと後の時代、「なんだ、新政府の大嘘つき!」とばかり、あっちこっちで一揆が起こる
が、なんとこの江差方面の首謀者について、黒田は「超寛大=全員許した!!」
(2)高松凌雲の激怒
戦後、松前預かりとなった者の「水牢事件」
高松先生には珍しく、松前だけは、名指しでかんかんに怒っている。
箱館戦争終了後、幕軍の者は、ご存知のとおり、青森を初め、各地に色々分散されて謹慎&預かりと
なった。先生は、幾人かが重罪とされて死刑になったことを怒っているのではない。
ある日のこと、(6月位)戦後も立場はあくまで捕虜に身をおきながらも
病院で一生懸命治療をしていた先生のもとに、「とんでもない状態の患者」がどっさり
運び込まれてきた。皆、目も鼻も口もわからない位、ぶくぶくに腫れあがって、
肉体はぐしゃぐしゃ状態。なんと、運悪く、「松前預かり」になっていた捕虜達は水牢に
この時期まで入れられていたのだ。
先生は怒り書いている。
「皆、生きながらにして土左衛門に也しかば・・・。惨忍邪悪の極み・・・」
この中で結局回復できた者は、はたして何人いたのやら。専門家の目から、一目瞭然、彼らの絶望を
瞬時に予測している。脈を取ろうにも、軽く腕に触れただけで、ずるりと皮膚と肉が崩れ落ちる。
そのうちの一人の絶命時の状況を手記に書いている。目も鼻も解らぬぐらい土座衛門そのもの
状態の男が死の瞬間呻くように漏らした言語を先生は、ようやく聞き取った。
「我死して、邪鬼となりて、松前を呪い殺してやる・・・」
先生は斬られてずたずたになった人も診てる。砲撃を受け、肉体の一部が欠け飛んで
一目瞭然存命不可の患者も診てる。また怪我が原因で破傷風になり、狂ったように暴れ苦しんで
壮烈な死を遂げた瞬間も見ている。拷問された者も診ている。先生はいつも冷静に治療した。
しかし、その先生が、これだけは、絶対に許さないと怒った。
しかし、この一件、松前が悪いとだけは言えない。
松前はいわば侵略被害者、張本人なのだから、当然、他藩以上に憎悪は深いはずだ。
立場変われば、当然とは言わないが、悲しいけれど、きっと誰しもそうだと思う。
悲惨な経緯からすれば、感情抜きで冷静に人道的に扱えるはずがないのは、
普通で考えてもわかることなのに、「松前預かり」を認めた新政府が悪い。
(3)松前江差方面:戦後処理の様子と悲惨
残党狩り&検挙&処刑(明治2年5&6月が最も多数処理決行された)
◆函箱館戦争後の処刑者対象
・・{◇松前家臣中の戦争非協力者。◇徳川脱走軍へ協力した民。◇徳川脱走軍の潜伏者。}
以下データは主に明治2年(1869)5月&6月
1
5月、6月に逮捕された者
(松前城下:118名)
+(江差:140名)=計258名。
◆この内に「徳川脱走軍の潜伏者144名」
◆上記全258名の結果:109名が過料以上の刑(=各種死罪多い)
【ここで注目】脱走軍将兵といえど、特別悪質な者を除外の上、それ以外の者は
箱館に送られ、内地送還。
「特別悪質な者と判断された者」の定義とその処刑の詳細不明。
2
彼らの内訳特徴
◇松前藩の士分で榎本軍に靡いた者、◇町年寄や、◇江差年寄、◇名主等
◇医者として、人道上から戦傷者の手当をしたにすぎないが、金銭を得た者
◇榎本軍の「めあかし(=おかっぴきのような)」になった者
▲「めあかし掛」になった者は、特に民の恨みをかった。
「得意になって町内を乗馬姿で巡視し、 潜伏家臣を摘発した者」の描写有り。
3
悲惨の状況
非人道的処置による犠牲者有り
が明確な描写
◆検挙された者の人数が多く、揚屋&牢屋は満員。その為、奉行所前から
牢屋前の路上に座らされ、 手足を縄で縛られたままに、風雨に曝され、
10日以上も、繋がれていた。 当然、死亡者発生。(この頃特に悪天候)
▼
横死&飢死&飼い殺し状態に近い死様になった犠牲者=判決以前の変死
・・・「下枠【5枠】の松平と、もう一名は明確」
◆非人道的処置:上欄「
水牢犠牲者の土座衛門状態
もご参照」
4
存命が気になる逮捕者の行く末
捕縛された第1チーム3人組
『松前藩福山日記』
■福島村にて:潜伏脱走軍3名逮捕。
◇遊撃隊二番:尾州 榮蔵:23歳 、◇正(彰)義隊: 松平賢次郎:20歳 、
◇陸軍隊:島田★彌吉:22歳
(★とは:?文字有)
▼この3名は、まずは名主が指揮した捕縛隊に逮捕されて、縄をかけられ、
その姿で村小役が引き連れ、松前の藩庁に引き渡。(尚、隊名は先方の表記
5
死亡明確逮捕者の犠牲
=
拘留中の横死&飢死&変死
松前城回復時に捕えられ、
処分のないまま松前で死亡
■
松前方面にて:潜伏脱走軍?名逮捕後、処分待ち段階の変死。
上記枠【3枠】の
横死&飢死・・・
の欄ご参照。
<なんらかの古資料に表記あるらしく、町史には、下記のとおり記載されて
いるが、堀は明治に存命明確の為、別人のこととと判断される。定かでないが、
忠内次郎は江差方面にて、明らかに行方不明になっていることから、
忠内次郎(蔵)の間違いではないかと思われるが
。>
▼【記】
◇軍監:堀覚之助
、
(△これ、多分
忠内次郎(蔵)の間違い
:堀は存命:ご子孫びっくりするネ!)
◇彰義隊嚮導:松平乾次郎
(上欄4の松平と恐らく同一人物。となると、
上記4枠の二人の結末も、かなり怪しい。
<尚現在:忠内次郎蔵(陸軍奉行添役)の追悼碑は、法華寺に有>
補足
取り残され、五稜郭方面へ
移動できずに死亡に至った
榎本軍犠牲者:一例
会津藩士の松前の墓
【松前町:法華寺墓地】
・◇元会津藩士:大庭久輔(25歳:7石3人扶養)、
・◇元水戸藩士:関清輔(享年?)
<▲上記二人は、 松前脱出できず法華寺に逃れ、4/20境内切腹 >
6
裁判の様子
裁判と処刑は
6/25~9/16までの全7回
町奉行所にて、
責任者&上層部に名が見える者
総督:奥平肇、副:松崎多門
他:井本新
◆処刑は主に、判決当日または
翌日が大半。
◆処刑場所の主な例
:立石野首斬沢
◆参考に便利な資料例
:『松前藩御白洲日記』
◆何月何日のどの町に於ける検挙者当該かは不明だが、下記一部データ有。
<上から順番に重罪&重刑>
・◇町内引廻&胴斬&梟(さらし)首4人、(これは同一人物に2重3重に加える刑
・◇町内引廻&刎(ふん)首&梟首12人、・◇刎首8人、
<他:命だけは許された場合の軽刑の例>
【対士分の者】
・◇永押込、◇永之暇、◇永牢、◇押込、◇蟄居、◇身分剥奪、 ◇家名断絶
【体罰等の刑】
・◇百擲&渡海(蝦夷本土追放:島または他地方へ)、
・◇百擲の他類似のやや軽刑:◇七十擲、◇五十擲、◇三十擲
【追放等の刑】
・◇越山、◇所替、◇三所(松前、箱館、江差)追放、◇町内払、◇村替、
【名誉剥奪&金銭的ダメージを与える刑】
・◇戸締め、◇持家取上、◇過料(=罰金:10文、5文、・・他)、◇他
7
多額の献金にて減刑または、
許された例
桁の異なる多額の軍用金を献納することにより、免責となった商人等もある。
8
幕軍加担者として逮捕された民
命だけ許されたが結局
死に至った可愛そうな民の例
百姓頭:井越勝右衛門
この人物は拘留されたが斬首免れ、久々に村に戻ると、妻子は堀に入水自殺後。
本人も失意後死亡。彼は、1864年小黒部村に招かれ入植。稲作技術、水田に係る
灌漑知識等有能知識人。一聯隊長松岡四郎次郎と息統合。松岡も開拓精神旺盛。
幕軍加担者として見なされ悲劇に。尚、傍系ご子孫は彼の意向を継承開拓に貢献。
■
この表内登場する各人物に係る補足頁はこちら
他関連:◆
檜山方面戦後処理様子と高松凌雲の激怒
(現在頁内)、◆
箱館戦争謎の獄中死きな臭い!
(別頁)
幕軍に救われて治療してもらった人
◆この時の様子
「重症のため自害もできずにいるところ、銃で頭を叩かれ、
気を失った。目が覚めると五稜郭だった。」・・・天野利忠太
こちらの枠内は、助かった人達=重症を負い、陣屋などに置き去りにされたところ、
高松先生に助けられ治療してもらって完治。
▼
★堀真五郎(長州)、山田梅吉(長州、上記堀の家来、
(福山)
若江中平、中島忠三郎、田頃栄之助、天野利忠太、島田吉太郎
高松凌雲曰く。
「患者に敵も味方もござらぬ。患者なれば、皆、治癒すべきでござろう。」
福山藩は幕府に長州征伐を命じられた。(その背景)
しかし、相手は怪物、長州。勝ち目はない。また、長州と通じた自藩の
尊王派藩士の存在を幕府に指摘され、幕府への忠義を疑われた藩主は、取り急ぎ処分するなど、
長州から見ると玉虫カラーで様子を伺ってばかりの弱者と見なされた。しかも、暫し隠蔽していたが、
藩主は病に倒れ、途中で亡くなっている。悲劇の藩である。
※ところで、山田梅吉とは?長州奇兵隊に確かに居た。しかし、これより早く死亡していることに
なっている。にもかかわらず、ちゃんと高松先生の手記にある。同姓同名か?確かに大阪にも別途、
別の人物(同姓同名:立派な自営業を営み明治を生きた人物)が居たし、長州内にも同姓は居る。
幕末は謎だらけ!
哀れ、福山藩、少年達の散華
大政奉還、維新。散々な目にあった福山は、今や完全に長州に恭順しているのだが、
経緯が災いして一種、
「踏み絵」状態
なのである。
もはや幕府の手先などではありません。昔とはちがいます。根っから長州様です!
・・・という姿を見せているというのに、これでもか、これでもかと
幕軍征伐の任務をもって立証せねばならない窮地におかれていた。今回はまさに
「踏み絵」
である。
早速、第一線に押し出され、「死なされ専門掛」を食らったような形となった。
(鷲の木に10/16到着した榎本軍より、一日早く、同じ鷲の木に到着)
どんなに無理をしてでも、新政府、特に、睨まれてるところの長州に対して、しっかと忠誠の程を
態度で示さなければならなかった。
少年達の散華は実に痛々しい。
これは、一見、「随分勇敢な子が多いなあ」なんて見えてしまうのだが、そうではなくて、
立場上、相当無理をしている。
「死ぬ気で戦いました。福山は裏切りの意は毛頭ありません!」
を行動で実証している。
「無念、取り逃がしました故、死んでお詫びいたします。」
「負傷した以上、足手まといになって、ご迷惑になりませぬよう、自刃致します!」
・・・彼らの
不自然なほどに「強烈な死に様」
は、つまり、そうした意味合いを物語っている。
彼らは凍って食うに食えない「お握り」しか持参しておらず、寒さと飢えの極地で、
この戦いだった。年齢的に食べ盛りの子ばかりが皆空腹。
慣れぬ土地、蝦夷の深雪に足を取られながらも頑張って進んだ彼ら、
もともと寒冷地知識に疎い。装備服装全部怪しい。雪道に「わらじ」。これでは、
白刀戦では、たとえ剣に長けた子とて、土壇場で足が滑る。
彼らが持参していた「握り飯」だが、これは、雪降る蝦夷の地、完全に凍っていた。
凍った「お握り」食べた経験のある人少ないと思いますが、
これは、実に辛い。飢えているから食べるけど、とても食べ物とはいえない。
食べないと危ないという危機感がなければ、絶対、食べれません。胃腸が弱ければ、これも危ない。
対して、同じように若い年代が多い額兵隊は、「お握り」は
凍っているととても食べれないから、そのぶん体力を消耗する事実、
あらかじめ配慮がなされており、けっして美味しいものでは
ないけれど、ちゃんと「カンパン」が与えられていました。
カンパンは当時日本にまだ無い。しかし、通!の榎本がちゃんと入手していた。
(一応、江川の韮山では、カンパン試作実績あるが、生産する程のスケールではない。)
がっちり長州に睨まれている福山としては、さぞ、大人達がしっかと吹き込んだのであろう。
「藩の存亡が掛かっている。また、けっして、福山の恥無きように」
「ここで手柄をあげることによって、福山の立場を回復せねば・・・」
また、度重なる出兵で、主だった大人達の死が連発&減少しているから、
兵力として随分若い子も送り込まれた究極との見方もできる。
なぜ犠牲者にこんなに若い子ばかり多いのか・・
時間をかけて緻密な作戦を練り、そのとおり実行できるか
どうかもわからない異郷「蝦夷」の初戦
・・・
最も重要なポジションの要人を、こんな所で失うわけにはゆかない。捨て兵じゃないにせよ、
あんまり、いいかんじはしない。
プレッシャーされたら、純情な少年達は、また見事に素直に受け取るから悲しい。
「・・・とはいえ、死んだら終いだ。ようは、わかんないように、あたかも本気で戦ったふりをせい!」
・・・なんてことは、親でも兄でも、教えてはくれない。
福山、少年達の死に様&他
ここにあるリストは、1868の榎本軍蝦夷到来早々の「初戦犠牲者」のみ。翌年はもっともっと山盛犠牲。
見てくれ!この哀れな死に様を!!
・・20歳の人物の多くは、現代でいう19歳。少年である。大抵、記載歳マイナス1歳。
若い彼らが、どんだけ無理をしたか・・・
一見勇敢に見える、一見いかにも武士の子!・・・なんて見える
不自然な程に壮烈なこの死に様・・・・長州への建前、相当無理をした。
備後福山藩
・・・念のため、箱館にも福山という地名有。下記兵達は皆、備後福山
1◆内藤金三郎(16才)・・福山藩
・明治元年10月24日、突貫、突入。大野村にて死。
2◆梅田小太郎(22才)・・福山藩・・大野村にて死・・・明治元年10月24日
・この人はだいぶ活躍。深手を負いながらも勇敢に戦い続けていた。
しかし、ついに再起不能の重症を負う。
自刀したいが、右手も斬られているため、感覚を失って使えない。
うつ伏せ状態で上半身を頑張って起こす。刀の刃を上にして、それを地に突き立てるような
形で固定。その刃を喉にあて、いきなり全身の重みをそこに預けて突き刺し自刃して果てた。
3◆河合要之助(25才):福山藩:大野村にて負傷後直ぐ死:明治元年10月24日
4◆松本喜多治(19才):〃:大野村にて死:同上10/24
5◆柳沢友之助(20才):〃:大野村にて死:同上10/24
6◆中村辰(親・峯)之助(20才):〃:大野村にて死:同上10/24
7◆古川善左衛門(25才):〃:七飯村にて死:明治元年10月25日
8◆真野録三(24才):〃:?村(多分大野村)にて死:明治元年10月24日
9◆千賀猪三郎(21才):〃:?村(多分大野村)にて死:同上10/24
10◆河村秀三郎(20才):〃:七飯村にて死:同上10/24負傷後10/26日死亡
11◆橘高助五郎(24才):〃:七飯村にて死:同上10/24
12◆赤松岩太郎(20才):〃:七飯村にて死:同上10/24
13◆丸内九(久)蔵(34才):〃:七飯村にて死:同上10/24
14◆橘高助五郎(22才):〃:七飯村にて死:同上10/24
15◆赤松岩太郎(20才):〃:七飯村にて死:同上10/24
16◆大島岩太郎():〃:七飯村にて死・・・多分同上10/24
他にもきっと居ると思います。
また、もう少し調べないといけない状態ですが、上記のうち、斬られて撃たれて死んだ人
だけでなく、絶対絶望段階で、自ら迷惑をかけまいと切腹しているパターンがあるのが辛い。
松前藩
:犬上謙次郎、菊地多作、高畑喜六、山崎才治、日角収三
◆もうひとり全く不明の可愛そうな犠牲者:大野町の沢村家の敷地内畑の中、情報不明。恐らく官軍側。
回収されず、葬られず。沢村家が、自然石を置いて弔ってくれている。
◆別場所:川汲戦死者について(幕軍側の星恂太郎日記には、官軍7名死亡、手負10余名。しかし、官軍
側資料に詳細不明。慰霊碑有。誰かが亡くなっているというのに・・・。哀れ地元府兵子息か。)
▼初戦時他にも
越前大野藩
◆三宅友七(17才)・・越前大野藩
・・・銃剣を構え、臆することなく、大鳥軍に単騎、敵中に突入。ふいを付かれた兵が
刺殺された。しかし、この直後、彼は銃弾を受け死亡。仲間の苦戦に奮起突入とも聞く。
◆金子庫次郎(42才)・・越前大野藩・・大野村にて死
大野藩とは越前大野、蝦夷の箱館近郊の村=彼らが戦った地も大野村というが、
地元の大野村の子かな?とよく錯覚されますが、別。越前大野藩の人)
他にもきっと居ると思います。
津軽藩
1◆長之助():津軽藩:七飯村にて死:明治元年10月23日
2◆石岡孫弥(22歳):〃:七飯村にて死:同上10/24
3◆金寅太郎(18歳):〃:峠下村にて死:同上10/23
4◆葛西文三郎(24歳):〃:七飯村にて死:同上10/24
他にもきっと居ると思います。
津軽は新政府軍が駐屯、早くから農民が駆り出され気の毒です。
翌年の津軽農兵の死者は、いきなり増加します。しかも自藩の長に率いられるならまだしも、
たいてい薩長など、別の藩に差し出されました。聞き取れない方言で指示され狼狽、その上、
やはり、捨て兵係で犠牲になります。
幼くても、若くても、武士の子に生まれた宿命で散華した子と、
武士どうしの喧嘩に巻き沿いを食らって死んだ農民、どっちが可愛そうか・・・難しいです。
フェードアウトの悲話
■荒井信五郎
榎本到着の時、いちはやく新政府に伝えたのは、鷲の木在住、
御雇い「荒井信五郎」
。
これは大手柄である。しかし、この優秀かつ勇敢な男は、そのすぐ後、あっけなく散っていた。
秋山幸太郎達の墓がある七飯町の宝琳寺に、屍となり葬られている。
手柄を収めた者も、前途多望な者も関係ない。粗末にされない保証など何処にも無かった。
烈死、壮絶なる殉死でない限り、手柄どころか、その話さえ残らない。
なんだか知らないけど、死んじゃった男・・・の一人になって、歴史の狭間に埋もれて消えた。
■巻き込まれて斬首されたアイヌの青年
上記、荒井氏は自ら、まさか冬の急峻な山道を風のごとく箱館まで駆け抜けたのではない。
アイヌの青年を使った。この青年はなんと、どうやらダブルスパイとなり斬首された人物と
合致するようだ。褒美といっても一体どの程度貰えたのか知らないけど、貧困の日々、僅かばかり
の小遣、小銭だろう。アイヌの人まで犠牲になってしまった。
■上記、
荒井信五郎
も
アイヌの青年
も、なんのために頑張ったのやら、可愛そう。
英人:
ブランキストン
(箱館在住で商売を経営している。動植物の分布境界線=ブランキストン線
で有名、学者としても知られる人)の所有する船が鷲の木近郊を
走行。船だから早い。翌朝迄には、清水谷に通報らしい。「怪しい船来たぞ!」
この人、残念ながら、完全に官軍の味方。
関連:榎本軍側の犠牲は、こちらの頁:
榎本軍側初期犠牲者
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