「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
000000
HOME
|
DIARY
|
PROFILE
【フォローする】
【ログイン】
箱館戦争,閉幕後のきな臭い戦犯処理2
箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』,裁きの実情考察おまとめ表,きな臭い!拘留後の始末,弾正台と刑部省、そして、司法省,江藤新平,横倉甚五郎の獄死,大石鍬次郎,土佐藩の谷干城,御稜衛士(高円寺党),松岡磐吉の獄死,近藤勇の指名手配写真,近藤勇の肩の傷
幕末_WITH_LOVE玄関
<箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』_拘留後の始末_
No.1
<
No.2
(現在の頁)
箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』_拘留後の始末_No.2
過去の怨念、嬲り殺しか、謎の獄中死
きな臭い!胡散臭い!処刑か私刑かナンセンス
明治2年5月18日(1869):ついに戊辰の閉幕、箱館戦争終焉、そして裁き
されど、お粗末!無秩序!
・・・新政府、維新・明治_後始末
堂々と処刑というカタチでなく、謎の獄死
少なくとも、
新撰組の横倉甚五郎の獄死と、
特赦目前にしてなぜか獄死した『蟠龍』艦長、松岡磐吉の件については解せない。
下行の表は、この頁を先に見た場合、
箱館戦争に関係なさそうな明治の行政のことやら、関係なさそうな人物の名前が出ていて
ピンとこない場合があるかと思います。その場合、
こちら_No.1
からご覧下さい。
箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』を考察おまとめ表
それぞれが、それぞれの過去の怨恨。それぞれの思惑。疑問符の裁き。
きな臭い!胡散臭い!箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』
もしも、字が小さすぎてバンザイ!の方いらっしゃいましたら・・
◆(Ctrl)+(+)=文字サイズ拡大。◆元のサイズに戻すには(Ctrl)+(-)
一見関係なさそうに見える事件の記載についてのPOINT
■薩摩の不穏な動き&姿勢、■新撰組怨念派1_谷干城(土佐藩)、■新撰組怨念派2_御稜衛士、
■司法の姿_個々ばらばらで統率が効かない模索中のお粗末状態(■弾正台■刑部省・・・■司法省へ、しかし!)
■榎本達の助命嘆願の主幹_黒田清隆の不在期(怨念派野放し期)
■慶応3/10/14(1867)大政奉還、■慶応3/12/9:王政復古の大号令、
■慶応4/1/3(1868):鳥羽伏見の戦い、■慶応4/3/13:江戸城無血開城
慶応4年は7月18日に江戸は東京に。
9月8日に、年号は慶応から明治に。
■慶応4/3/3日(1868)。赤報隊長_相楽総三、突如、偽官軍汚名を
被され処刑される。
▼
・・・中略・・・御維新、即ち首。首。首!_・
首の犠牲_譜代小藩&代官所
、夥しい悲惨の連発。首。首。首!
▲経緯を含めて読むには、
林忠崇,幕末,戊辰,脱藩大名_林忠崇SERIES
のTOPから。(ほんの氷山の一角。全国中で犠牲首発生)
・・・中略:そして戊辰の終焉箱館戦争幕閉
▼
箱館戦争終焉後の犠牲と謎の死_MEMO
.
年
/
月
年月日
人名他
備考・責任戦犯切腹
備考
他枠解説含む
岩
倉
使
節
弾
正台
刑
部省
黒
田
不
在
明治2年(1869/5:箱館戦争終焉
.
2/4
4/9
仙台藩
抗戦派処刑
和田織部、遠藤吉郎左衛門(主税)、玉虫左太夫、若生文十郎、安田竹之助、 粟村五郎七郎、斉藤安右衛門
.
.
.
.
2/5
5/9
但木土佐、坂英力
5/18
会津藩
萱野権兵衛
会津の抗戦首謀者扱いにて
藩主になりかわり切腹申付にて死
2/6
.
2/7~2/10
.
2/7
~
2/11
2/11/5
長州__大村益次郎暗殺死.
?月
上記事件始末に絡む
▼
粟田口止事件
大村殺害犯(神代直人ら)の処刑に際し、弾正台から
監視役として派遣された海江田信義(薩摩)が妨害を
企て、政府取調べを受け謹慎処分。
2/11/9
(大鳥獄中日記)
今井、横倉、箱館より着り。今井は我の房へ。
2/11/13
桑名藩
森陳明弥一左衛門
(森常吉こと)桑名の抗戦首謀者扱いにて
藩主になりかわり切腹申付にて死
2/12
.
.
.
明治3年(1870
.
3/1
.
.
.
.
.
.
3/2
3/2/22
(大鳥獄中日記)
相馬、大石、横倉、+ 今井信郎は刑部省へ引き渡さる。
3/4~3/6.
.
3/7
.
黒田清隆、樺太へ行く。(黒田不在期間ここに発生)
3年
7月
~
10月
樺太
視察
3/8
横倉甚五郎
8月15日獄死。享年37
■谷干城(土佐藩)に
とっての新撰組
■御稜衛士にとっての
新撰組:伊東甲子太郎
を殺害された「油小
路事件」怨念 は半端で
ない。彼らはあの後、
薩摩の配下で活躍。弾
正台に席がある。
■新撰組古参隊士:坂本竜馬殺害は新撰組だと思い込
んでいる土佐の谷干城にとっては八つ裂きにしたい程
憎かった土方歳三のスペアに値する。
■伊東甲子太郎殺害油小路事件関与している。
しかし罪状としてこの段階で伊東甲子太郎殺害油小路
事件関与=死罪は成立しなかったのではないか?
京都見廻隊の今井信郎が自白して、横倉処刑の理由が
成り立たない。・・・案の定、詳細不明の獄死。
3/9
.
.
.
3/10
10/10
大石鍬次郎
斬首
潜伏していたが
捕縛され斬首
■御稜衛士に
とっての新撰組
伊藤甲子太郎殺害油小路事件関与この段階では
「伊東甲子太郎殺害」罪が処刑理由=罪状として成立した。
潜伏していた大石が百姓姿で突如、阿部十郎の前出現。
新政府に採用してくれと言った。そのまま捕らえた。
との話は、後世阿部の武勇談。
3/11
11/18斬首
吉岡勇平
■薩摩海軍にとっ
ての幕軍海軍、
しかも江川の韮山
清水の咸臨丸悲劇時より潜伏してたが捕縛斬首。
罪状不明。この人物は朝陽轟沈の蟠龍艦長_松岡磐吉と
同じ江川の韮山。海軍人。しかも彼を吉岡家の養子に
入れ江川塾に入塾させたのは松岡正平(松岡磐吉の父、
韮山代官所の抗戦派筆頭手代)
下欄の松岡磐吉も特赦目前、謎の獄死。
.
3/12
.
.
.
明治4年(1871
.
4/1~4/5.
?月松岡磐吉、謎の獄中死
松岡磐吉:
・朝陽轟沈の蟠龍艦長。・韮山の男。
・宮古湾海戦にも関与。官軍にとっての主犯甲賀は
当日現場死亡している。
4年1~5月_黒田は
米&ヨーロッパ
.
.
.
4年
1~5
4/6
.
.
4/7~4/9
4年
の
7/9
統合
司
法
省
と
改
名
明
治
五
年
初
代
司
法
卿
は
江
藤
新
平
4/10~4/12.
4/10
~
6/6
迄
岩
倉
使
節
団
明治5年(1872
.
5/1
榎本他幹部特赦。
.
5/2
市村辰之助(2月7日死
新撰組市村鉄之助の兄。新撰組を途中離脱、故郷で
商売を開始していたが、突如謎の死。
5/3
榎本第一号で出仕。
他メンバーも順に出仕。
5/4
5/4/25日
江藤 新平、初代司法卿着任
5/5~5/12
.
明治6年
.
6/1~6/4
.
6/5
6/5/28
安富才助
(才輔・才介)
■御稜衛士に
とっての新撰組
殺害による変死なのか病死なのか不明。謹慎赦免後、
足守藩に帰っている。新撰組元新選組隊士の阿部十郎
に殺害された説もあるが、真相不明。確かに、阿部十
郎は赤報隊後、後開拓使で北海道へ行く前の時期、弾
正台に在籍。弾正台という名の組織自体は刑部省、追
って、司法省に吸収されるが、捕縛に直接関与する末端
職員の業務は継続的。事実かもしれない。
6/6~6/12
江藤 新平:10/24下野。
(岩倉が帰ってきた途端早速、下記事件)
岩倉具視帰日(6月)
明治7年
.
7/4
7/4/13
(1874年)
江藤新平_4/13処刑
江藤新平:初代司法卿
7年2/16_佐賀の乱勃発。
・高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛送検。
・7年4/13処刑死裁判同日処刑。
司法制度を整備して法を編纂。皆の認識が個々に
曖昧だったそれまでの官員の職務を明確化。警察制度
を設置した人物
現SERIES=きな臭い!箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』_拘留後の始末
現SERIES_No.1(前の頁)
の『★注1~注3』:人物に係る補足編
弾正台と刑部省、そして、司法省_(Series.No.1の注3)
初めに:弾正台と刑部省、そして、司法省。
・・・上記は何れも、司法、裁判、刑の実行に関与する組織なのだが、模索中システム。
これでは、いかん!と、明治4年に司法省に統合されて、前者2つの組織は吸収消滅。
江藤新平の活躍だった。(詳細:現在行の真下枠)
しかし、その
江藤新平
が、明治7年4月に無念の死を遂げ、発芽前の三権分立が泥沼。
■,弾正台とは、■,刑部省とは
慶応3(1867)/12/9:王政復古の大号令。このなりゆき上、蘇った律令制時代(7世紀~10世紀)
のシステムから登場。三職七科から、三職八局など暫定的に揺れ動く。
上には宮様の名が形式上並び、参与クラスになると土佐の後藤象二郎やら薩摩の西郷吉之助
やら出てくる。末端で動くは彼らの部下である武士。
弾正台:
明治2年(1869年)、それらのうちのひとつとして、
名目上、新政府の監察機関として京都に初に設置。各地には鎮台、裁判所。
しかし、弾正台には、重要な決定権を与えず。
明治2年7月に設立した刑部省が実権
。
捕縛やら軽なる分野の断行やら。末端者の活動に於ける幕軍の残党狩りには丁度もってこい
状態だったが、度々衝突したり面倒があった。
刑部省
が
弾正台を完全に抑圧のつもりが甘かった。2/11/5長州__大村益次郎暗殺死。
粟田口止事件へ繋がる。てんやわんやのごちゃつきから、
明治4年(1871)司法省に統合
。
司法省
_明治4(1871)~昭和23(1948)年(■刑務所管理、■司法行政
別途兵部省というものもあるのだが、これも5/2/28陸軍省と海軍省に分離した。
このわやくちゃなシステムの中で、裁かれていたのが、箱館戦争戦犯。
そして、全国に潜んでいた残党と呼ばれる幕軍生き残り。急ぎ届けるにも満たない末端身分の者が
捕縛時に、刃向かった場合は、一体どんな扱いになっていたのだろうか。
大者なれば慎重を要するが、小者なれば、「業務上の正当防衛」の一言で万事まかりたつ。
おそらく「業務上過失致死」は存在しまい。後ろ盾と絡みの危険度さえ踏まえておけば、
あとは、大者か、小者か、身分が高いか低いか・・・それだけでしかない。
この杜撰さを改善すべく、明治5年(1872年)4月25日、江藤新平が初代司法卿として立つが、
幕軍、即ち賊軍達の囚われ人にとっては、既に、もう遅い。
しかし、皮肉なことに、その江藤自身、なんと、わずか2年後の明治7年、衝撃的な死に至る。
初代司法卿_江藤新平の活躍
江藤新平の活躍
彼は、明治5年(1872年)に、初代司法卿。
業績と思想
■司法制度整備(*司法職務制定*裁判所建設*民法編纂*国法編纂)
■学制設置、■警察制度整備、■四民平等を説く
江藤新平は、四民平等を説き、個々ばらばらに動くぐちゃぐちゃの裁判、刑の実行を大分整備した。
警察制度に漕ぎ着けた。明治の警察制度ほど危険なものは無く、職権乱用、謎の獄中死は、
昭和の各当該事件まで引き擦ることになるのだが、これでもだいぶマシになった。
言い換えれば、弾正台と刑部省とは、これどころか、相当ひどかった。
他には、江藤自身が貧困の窮地で苦学した経験から、真っ先に学制を整えるなど、彼の貢献は幅広い。
警察制度整備の中、効率化も促進。
犯人の使命手配には写真を使え!
この発想は、まさに彼、
江藤新平のアイディア。幕末から写真は国内に登場していたが、維新後も、誰も
そこに頭が回らなかった。江藤が確立させた。
西洋に見習い、三権分立の導入を進める方針を提唱していたが、保守派から抑圧されていた。
しかしながら、運命とは恐ろしい。その張本人が、指名手配写真活用術にて、真っ先に検挙され処刑と
なった第一号となる。
江藤新平が死んだことによって、やっと整い始めた警察制度が、勝手に妖怪変化!爆走時代へ突入。
彼が死んだため、三権分立は夢幻。行政権と司法権がごっちゃになって明治の腐敗に加速度。
その被害者第一号も、いうなれば江藤新平本人といってもいいかもしれない。
彼の処刑は、今や明治7年。時代は急旋回している。皆の頭から、江戸時代のやり方は
完全に抹消されて、置換されていなければならない頃だというのに、馬鹿げたことになった。
明治7年4月13日。斬首刑に処せられた彼の首は、なんと「曝し首」にされた!
度々繰り返しますが、これは明治7年のこと。
おかげで、全世界に、江藤の首写真が飛び散った。
なんちゅう原始的野蛮、所詮低脳の国。JAPAN。
後、福沢諭吉が蜂の一刺し入れた。「今の時代にして、いつまでも馬鹿な真似やりなさんな!」(
MEMO
)
江藤新平
について
■詳細は、辞典サイトなどで簡単に検索できます。略。
今回のSERIES絡みの見解と、個人的こだわりで下記。
(少々キツイ!目な表現出てきますが、現代の批判ではないので、軽く読み流して下さいね。
■なぜ処刑になった?
・・・明治7/2/16_佐賀の乱勃発。その首謀者として。
■なぜ、そうなった。・・・下級武士の不満爆裂。栄転街道にあった彼も、前年6/10/24下野。
■下野(明治6年10月)直前にあったこと・・・6月に、岩倉使節団、岩倉具視帰国。
留学したい江藤は、番犬として留守番。見張る相手は薩摩。勝手に動かしてはならぬ。
法は変えるな。動かすな。何も進めるな。但し、しっかと守れ。手落ちは許さぬ。
ざっとこんなところだろうか。餌を与えず過酷な労働番犬仕事。
ところが、この間に、江藤は、逆に西郷隆盛に接触を受け、むしろ傾倒。
明治5年山城屋事件では、公金を融通して関わった 長州の山縣有朋を、陸軍中将・近衛都督
の地位から辞任へ追い込む。ここで、征韓論に敗れ薩摩に帰国下野していた西郷隆盛が
陸軍元帥と近衛都督になりかわってしまった。
尾去沢銅山事件に関わった 井上馨も辞職に追い込む。こちらも長州。
薩摩を見張るどころか、長州を連発摘発。岩倉は長州寄り。
明治6年6月:岩倉帰国。同6年10月江藤、下野。翌7年2月_佐賀の乱勃発。同7/4/13処刑死。
・・・▲凄いスピード
処刑そのものよりも、そこに至る逃走ルートの心情を思うと、そのほうが余程気の毒だ。
同志と思っていた者皆に門前払い。明治の絆は、軽い。ついそこ江戸時代と背中合わせだと
いうのに、契りも絆も飛んで消えている。(皆に担がれ早まったのもあるが)
流れ流れて、逮捕されたのは高知県。
皆はまだ良いとして、命からがら真っ先に鹿児島へ。そこで西郷の面談ならず、
完全門前払いを食らっている。
江藤も下級武士の上、幼少時代、父が解職。貧困のどん底。西郷も下級。
ここまで江藤の心を掴んだ西郷。目に見えないドラマがどこかにあったのかもしれない。
西郷は切り離すべき時来たれば、いつも切り捨てる。それまでにも少なくない。見えないはず
はない事。それでも惚れてしまう何か不思議な魅力が潜んでいたかもしれない。
江藤新平の口癖「人智は空腹よりいずる」について
上記のとおり、江藤は下級武士の上、幼少時代、父が解職。貧困のどん底。
それでも気丈な母は、女手で、塾を始めるなどして必死で子を育てた。
いつも空腹。空腹をぼやくと、母にきつく叱られた。
「腹が減るなれば、勉強せよ!勉強するに、空腹が何の関係があるのじゃ。
腹が減るのは、真剣に勉強に集中してない証拠じゃ!」
叱られて驚いて、幼いから素直に、言われたとおり勉強した。すると、不思議なことに、
母の言うのは嘘ではなかった。夢中になると、その間、確かに空腹など忘れている。
人にとって、幼少体験とは絶大な存在。幼くして、血肉に沁み込んだのだろう。
学ぶことによって得た己の知は全て、その発端が、あの頃、幼少だった折の空腹によって得られた賜物。
そう思うが故、本気で信念になったとしても、少しも可笑しい話ではない。
無残な姿が呼びかけたもの
江藤が死んだ後、借金が大変だった。生活も幼少時代の腹癒せに派手になるのが人の常。
ところが、当時の中では彼は質素の口。そもそもこの人物は、身なりは、一応きちんとするだけであって、
洒落っ気なんぞ具の骨頂主義。洒落っ気と知性と何の関連があるものか!タイプ。
飾れば、もう少し、現代の異性ファンも居そうなところだが。
借金の原因は全て、苦学生(当時の書生)だった。
己も貧乏で学ぶに不自由した身の上。惨めな恥も掻きっぱなし。それでも学に徹して、
学で屈辱を取替えした男。貧乏な書生を、てんこもり抱え込んでいた。
実は、他の事を調べている最中にも、どうゆうわけか、何度もいやというほど、江藤新平の首写真に
出合ってしまい、一時閉口しました。幕末を調べているのに遭う。初めて手に取った本を
嬉しそうに、無造作にバサッと開いた瞬間、偶然にもそれ。なぜか何回も何冊も。
さぞ、無念だったのだろう。
弁明のチャンスも、縛られた縄を引っ張られて転ばされて失った。
処刑はしかたないとして、この人物には、せめて身を糺し、死に向う時間猶予を与えて欲しかった。
ちゃらちゃらと着飾るタイプではないが、この人物らしく、きちんと髭を剃って旅立つ・・・
武士の情けは、この時代、人の心の中、早々に消えてなくなっていたのだろうか。
死刑決定当日のうちに、大慌てで断行。裁きを下したのはかつての部下だった。
上記
江藤の処刑に批判を入れた福沢諭吉について:淡々と矛盾を指摘しているが、彼も幼少で父を失い貧困苦学。
知らなければ吹き出すような江藤の口癖、「人智は空腹よりいずる」の奥意、この人物ならば解していたことだろう。
土佐藩の谷干城について_(Series.No.1の注1)
★注1_土佐藩の谷干城
・・・について
谷干城は、坂本竜馬を熱狂的に尊敬していた。
新撰組と聞けば、八つ裂きにしても、まだ気がおさまらぬ人物であるのは事実。
確かに、谷干城は、坂本竜馬暗殺は完全に新撰組の仕業だと思い込んでいるようだ。
死ぬまでそうだったかもしれない。人が何言おうと、どんな活字が明かされようが、信じて疑わない。
横倉甚五郎の獄死に加担または、なんらかの拘わりがあるかどうかについては、
近藤勇の無念の斬首、及び屈辱の曝し首の段階まで遡らないと、語れない要素がある人物。
近藤勇処刑確定時に本人が書いた文章(後述)が露骨極める為、大抵、近藤勇を斬首どころか、
屈辱の曝し首にまでしたナンセンスな男、その張本人と思ってしまう。
その為、横倉甚五郎の獄死に於いても、「またも、どうせ、お前だろう!」
・・・そう決め付けたくなってしまうが、ちょっと考察してみたい。
横倉甚五郎の獄死の頃、明治3年は自藩内の仕事に従事。新政府内の仕事で画期的に動き出したのは、
明治4年から。一方、藩内で谷の上に居る後藤象二郎は参与に席がある為、谷の出張糾問は可能であり、
絶対にノータッチで怪しくないとは断言できないが、確率たるや、どの程度だろうか。
明治後期、活字が飛び交い、坂本竜馬暗殺と、今井信郎と谷干城は、ワンセットで妙に有名になり、
両者は互いに迷惑したり、怒ったり。ややっこしいことになった。
平和な時代じゃないあるまし・・なのだが、やはり、スキャンダルライクはいつの時代も。
この頃に発生した話は、どれが本当やら少々怪しい。その為、彼らのエピソードの内、この頃に沸いた
ものなれば、それは、本を一冊だけ見て真に受けて思い込むと少々偏るかもしれない。
書いてあるのだから全部正解は正解なのだけど、あまりにも一杯多種あるということは、その時代に
於ける典型的な活字の一人歩き。何冊か色んな本のエピソード読み知ったものの、つまるところ解らない。
発端は、新撰組の結城無二三の息子、結城禮一郎氏の書いた文章 『お前たちのおじい様』であろう。
坂本竜馬暗殺に係る描写から、あっちの活字、こっちの活字、どんどん尾ひれがついて乱舞した。
斜に構えて読み流しても、ひとつ共通するのは、新撰組の仕業だと思い込んでいた事だけは、
この時代に至っても、ますますそうらしいという事。
その為、新撰組と聞けば、八つ裂きにしても、まだ気がおさまらぬ人物であるのは事実だが、
そこで、近藤勇の斬首及び、屈辱の曝し首断行が、はたして、本当に彼の仕業かどうか?
、
1_近藤勇の斬首を独断決行したのは、彼だとする説について
本当に
谷干城
かどうかは、少し慎重を要する。薩摩も、かなりグレーだ。薩摩の配下、
御稜衛士の生き残り
が、新撰組への怨念に燃えて、飼い犬状態で奔走している。
関連コーナー(
近藤勇処刑に絡む黒幕検討
その御稜衛士らの明治開拓使:こんなところにお揃いでご登場
大久保大和こと近藤勇の正体を暴露、首がつながっているうちに、それを証言したのは
加納鷲雄(道之助、通広(維新後))。彼らが、ただそれだけで、大人しく引っ込むわけはない。
末端だから独断権限はないが、嘆願して漕ぎ着けることはできる。薩摩内も、分派割れしている。
近藤勇の斬首を独断決行
は、坂本龍馬暗殺に手を下した実の本人、または、情報を見廻り組に
わざと漏らして、糸を垂らして彼らを見事動かして成功した、その張本人だろうとする説、
合点ならぬ話ではない。それが、長州なのか、薩摩なのか、土佐なのか、岩倉なのかは、存じませんが、
(色んな本があって各々面白いですが、本件ズレるので割愛!)、
皆が、張本人は谷干城だと確信して
しまう理由は、実は、本人が自分で作ったも同然。
彼は、こんな派手な文章を残している。
近藤処刑を、今風に言えば、まさに「ざまあ見ろ!」に該当するような派手な文章。
これでは、誰しもそう思う。
・・・(前略)
縛之、亦、愉快と至ふべきなり。猾賊多年悪を為す。有志の徒を殺害すること不勝数。
一日、命尽き縛に付。其様を見るに三尺自とも、雖も、猶可弁を頑然首を差伸び来る。
古狸巧に人を誑し、基極終に、昼出て、児の捕獲と成れること。古今の笑談なり。
誠に名高き近藤勇、寸兵を不労、縛に就れしも亦、古狸の数の尽ると一轍なり。
かなり派手。このハイテンションは一体なんなんだ。思い込みの激しさにも呆れるが、
余程憎かったのだろう。近藤ファンとしては、憎らしいが、
やはり、白か黒の『黒』とはいいがたい。一応各藩代表が相談した後のようだ。数名の名があった。
その後、率先して引き受けた側ではなかろうと感じるのは気のせいだろうか?
だからといって、そうではないと断言できる証拠も無いが、ふと思う。
「ざまあ見ろ!」と大人気なく下劣な喜びに浸る時とは、自ら手を下してる時だろうか?
率先して、部下を動かす時、もっといきり立って刺々しく、血腥くはないか?
妙に己を正当化して英雄気取りに陶酔。角々しい文章になりそうな気がする。
この浮かれたハイテンション。
大嫌いな人物が勝手に転んだ時、第三者にやっつけられた時に発生する感情じゃないかなァ?
谷干城について、別件、こんな場面
明治中期のことだが戦死した兵の遺体取り扱いが杜撰だ!なぜ改善しない!
と言って、終いに抗議辞任を申し立てた。敵にはキツい男ながら、純な場面も見せている。
ちょっと寄り道
近藤贔屓の目で、ヒトコマ
関羽の酒宴と、肩の傷_引き潮の時
1_墓穴_指名手配の写真
流山で結局捕縛に繋がった近藤勇。あれこれエピソードは多いが、
近藤の肩の傷を思うと胸が痛い。この人物は、既に己の「引き潮」の期を自覚していたのだろうと思う。
流山に追っ手が出没した訳は、いわば己が作ったも同然。墓穴。
五兵衛新田の宿泊先、金子健重郎邸に入った際、礼と共に、自分の写真を渡してきている。
いうなれば、指名手配の元を自分でばら撒いてきてしまったことになる。
墓穴ながら、全く笑えない。実は・・
(下記、2と3も真上のNEXTボタンからどうぞ)
2_肩に致命傷の近藤勇と、彼が尊敬する歴史上の人物、関羽の極似運命
3_英雄が惚れた「そのまた、過去の英雄」の末路
■近藤勇編、■中島三郎助編、■榎本武揚編
大石鍬次郎_Series.No.1の注2
阿部十郎と、宿敵_大石鍬次郎
大石鍬次郎(守親):1838~1870年。新選組。父:大石捨次郎(御三卿一橋家の近習番衆)。
明治3年10月10日斬首(伊東甲子太郎殺害罪)。享年32。 槍術剣術共に秀でる。弟:造酒蔵
死者に口無し。勝てば官軍。負ければ賊軍!
・・・大石の死については、まるでそのまんま過ぎて、少々悔しい。
大石鍬次郎に関して、明治になってから、度々沸いて踊る面白冷やかし話。
皆の言い分が全部、いちいち異なる。
また、彼らの発言に尾ひれがついて、
当時の活字が
躍ったせい
も多少。本一冊だけ見て思い込むと、これも偏るかもしれない。すっかりそうだと思って
いたら、後で別の本見て、あれっ?ん?・・・随分色々、説多いなァ状態。)
参考までにその一例:
■潜伏していた大石が、惨めな百姓姿で突如、阿部十郎の前出現。新政府に採用してくれと
頼まれた。そのまま捕らえた。との話は、後世阿部の武勇談。
■伊地知正治の陣進軍中、加納道之助を頼り、新政府に採用希・・・以下上記類似。
詳細に至っては、見た本の資料によっても異なる。もっとたくさんの説がある。
つまるところ、とにかく捕縛された。きっと落ちぶれていたのだろう!(潜伏の身、当然ではないか!)
ことによると、まさかそこに彼らが居ると予測せず、本当に出仕しようと出てきたところ、
運悪く鉢合せ、苦し塗れに、作り笑い場繕いで、「頼む」ぐらい言ったかもしれない。
いずれにせよ、安部十郎、足立林太郎(民治)、加納鷲雄(通広)らは、薩摩の傘下に在籍。
明らかに弾正台に在籍する者と、咬んでるポジションに居た様子だ。証拠として、
ここに皆居る
。
・・・仇敵の捕縛に成功して嬉しかったのだろう。仇敵の転落の姿は確かに快感だったのだろう。
この投げやりな気分は、どこから生じたかと申しますと、
明治になって、彼らは、しまいに仲たがいをしてしまいます。
発端は、どうやら、伊東甲子太郎の仇討ちとして彼らが決行した「近藤勇襲撃事件」の供述の食い違い。
手柄自慢を争っているような。
絆ってそんなに脆いか?契りって、そんな程度だったのか!!
明治を無事生き抜いて、金銭にも満たされて・・、そうなると人は皆、そうなのかもしれないし、
案外、戊辰で散った東軍側、及び新撰組の者同士も、仮に生きて豊かになっていたとしたら、
同じことになるのかもしれませんが、なんだか非常に残念に思えてなりません。
人斬り_大石鍬次郎
の悪いイメージばかり先行してしまうこの人物、大石の実像には、
なかなか巡りあえないのが、とても残念。
とっつきにくい、カッ!となったら手に負えない。わけわからんところがある。
仲間内でも、あまり評判が良くなかったのは、なにか、そうした『損な質』が災いして、
隊内で親友ができなかったからなのだろう。孤独な鍬次郎。先に過去を背負ってしまった人の典型か。
大石鍬次郎_兄としての側面
しかしながら、彼は絶対に裏切ったりしない男。よく耐えた。
実弟、大石造酒蔵
が、よりにもよって自隊の今井裕次郎によって殺害されてしまった。
今井は優秀な隊士だったために、大石は仇討ちを禁じられる。
鳥羽伏見の真っ最中、永倉新八が、「こら!どっち向いてるんじゃ!」とどっついた話も
どこかで読んだ。今井裕次郎は不幸にして、まさにこの鳥羽伏見の傷が原因で数日後落命するが、
このエピソードの段階では存命しており、大石鍬次郎が戦乱のどさくさに紛れて、今井裕次郎を
狙っていた様子だ。
それとなく、隊内で見張られる屈辱に耐えながらも近藤や土方に対する気持ちは恨みに転じなかった。
近藤は、造酒蔵が家督を継いでいたことから、鍬次郎に転ずるべく働きかけたり(結果=失敗だが)、
叱る抑えるだけでなく、やはり彼ならではの試みは見せている。
この人物は、近藤にも、土方家にも世話になっているが、元の身分(
▼
※)は、近藤や土方より当然上。
弟の一件があった後にも、よくぞ従った。
元の身分(※):一橋家の近習番衆大石捨次郎長男。原因は定かでないが、
家を去る(なんらかのトラブルまたは殺人起因)。身元を隠し武蔵で大工を。
家督は弟_造酒蔵だったが、殺害されてしまった。
転ばぬために、余計に傷つくまいと、お面被っているだけで、
本質的には、お人良しではないかと感じる。京都の女性問題とかは、あれはあくまで小説の世界。
しかしながら、キャラとして、一見乱暴者に見えるその男の実情は、人情脆くてお人良し。
かなり近いラインを描いているかもしれないとふと思う。
この人物のエピソードは、ちょろちょろ結構出てくるわりには、しゃーない位短くて尻切れトンボ。
彼という人の心が皆に捕らえ難かった事の証。どうしてそうしたのか気持ち的に仲間にも解せないから短い。
いつもオチはわけわからん輩のニュアンスで終わる。
そのうちの一つ。れいによって、新撰組特有の隊士厳正処分。誰かを斬首した後、直接手を下した
大石が居ない。急に消えた。どうしたと皆が騒いでいたら、八木家のチビさん相手に、力持ちで
頼もしいお兄ちゃんのごとく、ひょうきんに振る舞い、八木家の餅つきを率先して手伝っていた。
血を見た直後に、よくこんなことができるものだ。やっぱりわからん・・のオチ。
やはり、彼は、自分を隠している。沖田総司のように、根っからの子供好きかどうかは不明だが、
イヤな事の後に、無邪気な子供に対してだけは安心して優しいお兄ちゃんの姿を丸見えにしている。
元新撰組の者の内、ひとたび囚われて許された者、結城無ニ三達は、背に腹かえられず、
金の無心に勝海舟を訪問している。勝は日記に書き残した。対して、鍬次郎は潜伏の身。
彼はかつて、出元身分を隠して大工に丁稚奉公して、
大工として土方家の天井や壁など手掛けている。縁のあった土方家にも、迷惑を懸念してか、
また途中で脱走してしまったことから、行くに行けず懊悩していた姿を思うと胸が痛い。
この人物は槍も剣もかなりの使い手。優れているのに、惜しい。歯車が狂ってしまった。
誰なのか知らないが、ユージン、ビクター、デュ、メリックに尋ねられて、
「こやつらは、乱暴者と典型的な殺人凶悪犯でしかなく、異なる思想が故に、新政府に
楯突いた者ではない。」と教えた人物、少なくとも、その人物には是非、反省して頂きたいものだ。
血も涙もないただの悪漢が、可愛い弟を愛するだろうか。
鍬次郎には、名誉の戦死を遂げる最期を飾らせてやりたかった。
人に何言われようと、可愛い我弟思いの良い兄さんなのだから・・・。
幕末_WITH_LOVE玄関
<箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』_拘留後の始末
_
No.1
きな臭い!過去の怨念、嬲り殺しか、謎の獄中死<
No.2
(現在の頁)
関連:◆
箱館戦後処理の様子一望表
、◆
檜山方面戦後処理様子と高松凌雲の激怒
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示
薫風館
:上記除く和風イラスト
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
猫と犬との共同生活
ひさしぶりの姿
(2024-10-06 13:44:48)
チワワな生活☆
令和6年8月11日~11月15日 約3か月…
(2024-11-15 20:00:09)
ダックス・大好きな人!
1122はクッキーの命日でラテの3回目…
(2024-11-22 07:49:29)
© Rakuten Group, Inc.
X
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Design
a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: