若松コロニーとシュネル(2

若松コロニーとシュネルSERIES_No.2,幕末_WITH_LOVE(若松コロニーとシュネル特集),死の商人と伝わるシュネルの素顔,カトリックと隣人愛,会津藩士のカリフォルニア,幕末,戊辰戦争,箱館戦争,WAKAMATSU COLONY&Jhon Henry Schnell_No.2

シュネルと若松コロニー:アカバネシュネルの謎



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シュネルと若松コロニーSERIES詳細編_No.2
青い目の騎士道!Schnellに導かれて・・会津人の大渡航:悲しみを乗り越えて
The Wakamatsu Colony: Gold Hill (会津人のカリフォルニア)

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ABOUT-WAKAMATSU COLONY & Jhon Henry Schnell-SERIES
No.0:このシリーズ目次 No.1 No.2 現在頁< No.3
◇大脱走計画に及ぶ迄、
◇大脱走とシュネルについて◇青い目の騎士道:アカバネ・シュネル、


資料頁へ ◇シュネルの本質を理解できる人々とは、◇簡単経緯、◇各人物追求、
◇アカバネと名乗った訳、◇開墾と理想郷,◇若松コロニーの概要、
■後半に別途「資料編」と、関連リンク編をご用意致します。

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No.0:目次 Sec.1 Sec.2_シュネル達一行の大脱走(現在頁) No.3 No.4
10_アカバネ・シュネルの大爆発!

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「神よ!彼ら善民の魂を、救いたまえ。」
  ・・・ついに、シュネルは猛然と立ち上がった。

シュネルの仮面は「死の商人(※)」。武器を売りさばいては、巨額の富を得る。
東のシュネル、西のグラバー。彼らは日本人同士の血の争いを貪り食って、私腹を肥やすと言われた。
確かに、会津藩主、松平容保は、彼にとって、VIPクラスの顧客。「おとくいさん」。

シュネルは確かに 、商売センス抜群。十代から色んな商売をやっている。
手腕的にはやればできるが、経営者として立つには若すぎる頃、15歳前後、彼は、横浜在住の
外国人相手に、牛乳を搾って売って(▼注を必読)、せっせと貯金しては、次なる商売の資金に当てた。
その後も幾多の商売をやっている。

死の商人 とは:a merchant of death :銃、砲弾、砲など武器を売る商人。武器(ARMS)イコール
殺戮の道具であることから、死の商人と呼ばれた。
■ 注■:シュネルとは謎多き男。シュネル兄弟と呼ばれており、二人居るとされる。この本人は、
ジョン、ヘンリー、シュネルで兄。弟側が、エドワードという。
((詳細は資料編【No.9から各項目】= No.0:目次からどうぞ に記載) )
厳密には、牛乳搾りを目撃されているのは、兄のヘンリー側でなく、 弟のエドワード です。
ところが後述場面で、やはり、ヘンリーも 牛乳商売に噛んでいたのが明確 となります。

だが、彼の本質は、敬謙なるキリスト者。いわば、「死の商人」は仮面だ。
黙して語らず、恐らく、
松平容保にも、それを語ってはいまい。
皆の目に映る己の姿は、
「死の商人」でかまわないのだ。

むしろ、そのほうが動きやすい。



その姿のまま貫くはずが、ついに本質が、彼の中で爆裂した。

爆裂した魂は・・・まさに、『隣人愛』だった!!

皆の者、いざ!立ち行かん!カリフォルニアの大地へ!
彼、シュネルは、滅多に本名とされるジョン・ヘンリー・シュネルを名乗らない。
平松武兵衛は、前述のとおり、会津藩主、松平容保に賜った名前だから、それは実に名誉な名前。
その上、和名だから、なにかと隠れ蓑で便利。

ところが、あんまり重要視されていないもうひとつの名前、
それが、『アカバネ・シュネル』(SCHNELL-AKABANE)

外人さんが、勝手に自分の感性で、勝手に作って名乗っただけの『和名』のつもりかな?
恐らく、当時の人達も、認識はそんな程度でしかなかったことだろう。

ところが、一部の人、何か臭う!とピーンとくる人は、やはり作動する。

アカバネとは赤い羽根。現代の感覚では、つい募金活動を思い浮かべてしまいますが、
由来の本当の姿は、勇気の証。正義の証。

037.jpg日本人の発想サイクルについて、多くは古来の仏教や神教だから、
「キリスト教と赤い羽」の関連性がピンとこないけれど、これは、
赤い羽根イコール勇気と正義の象徴です。
アカバネ(akabane)とは、『赤い羽根(Red Feather)
:真の騎士道精神を持った者』


西洋では、雄者の証に、自ら赤い羽を帽子に飾った例もある。

或る日、シュネルが自分で勝手に名乗り出した名前
「アカバネ(akabane)・Schnell」とは、
まさに爆裂した彼の騎士道。正義感。不義への戦い。
アカバネ(akabane)の名が、彼の熱い決意を万事物語る。


シュネルの活躍は会津だけではなく、かなり広範囲、奥州を駆け巡っている。
なかでも、庄内藩、及び米沢藩との結びつきは深い。また、武器の搬入には欠かせない港。新潟に彼の
テリトリーを築いています。但し、なんと、これは、港と一緒に武器弾薬の貯蓄も一緒に
一派一絡げ、全部官軍に接収されてしまいますが・・・。

アカバネ・シュネルの隣人愛を、後の章に、ひとつご紹介します。

まずは、シュネルが、騎士として立ち上がったもうひとつの訳から書きます。
ひとつめは、前述のとおり( No.1 より延々の推移のとおり)、隣人愛であり、惨忍な切支丹弾圧を行いつつ、
世直しを名乗る偽善ぶりに怒ったところに発したのだろうと想定されます。ところが、もうひとつ。
「過激派攘夷論者」の惨忍極まりない外人殺しに、爆発です。

誰でも「過激派攘夷論者」は嫌いですし、異人さんなれば尚の事なのは当然。
ところが、シュネルには、イヤな経験があります。
人一倍、『攘夷主義者』は絶対許せない!(後述)


シュネルの目からは、クレイジーな『攘夷気違い!無差別殺人犯』を一杯抱え込んでいるのは、
どうみても、いつも新政府。そして、それらの暴動を起こす不貞の輩をやっつけていたのが、
京都守護職として活躍していた松平容保。

シュネルは、会津藩主としての松平容保の姿以前に、恐らく京都時代の松平容保の姿に、
英雄の姿を見ていたかもしれない。

冷ややかに、したたかにビジネスオンリーに生きるはずが、ついに正義感が爆発してしまった
シュネルの姿が、目に浮かんできます。

12_シュネルの目に映し出された『松平容保』のもうひとつの姿


会津藩主『松平容保』は、海外でも紹介されるように、簡単に言えば確かに徳川の親戚筋。
外国では、容保は、親戚の肩を持って、負け戦に突入してしまったのだろうと思われてる事が
少なくないようです。

しかし、実際は、たとえ一滴の血さえ繋がってなかったとしても、あの時、京都守護職だった以上、
恐らく同じような結果になったのではないでしょうか。


_
念のため:京都守護職:超簡単略型解説すると、京都の治安防衛組織の一種ともいえる。
会津藩主の松平容保が、 京都守護職。実の弟、桑名藩主の松平敬定が京都所司代。

日本人の幕末ファンの中、会津の松平容保が、京都守護職だったことを知らない人は、
多分いないだろうと思えるくらいに、それは当然の常識。ところが、それは、あまりにも
当たり前すぎて、客観的に見ようとする習性が弱まって、ふと盲点が。
国内在住の異人さんにとって、それは、どのように目に映っていたか?を考察してみます。
次から次へと多発した外国人殺害事件。無差別殺人事件。罪もない異人さんが犠牲になってゆく日々。
異人さんにとっては恐怖の「攘夷気違い!」達の仕業。

■清国の屈辱とは:英国進出、阿片戦争。アヘンの魔力に国民の多くが侵されて、伝統の国、清国、
眠れる獅子は、蹂躙されて、国民は泥沼に埋没。日本は古くから、儒教の影響で、清国の思想を
を敬う国民。とても人事でない。アジア諸国の植民地化もあいまって、攘夷思想に拍車がかかる。

これらの事件は、実際のところ、比較的単純発想者によるものと、実に老獪な戦術と双方あります。
前者は主に清国の屈辱(※▲)に爆裂して、一人でも多く異人さんをやっつけないと、日本を守れなく
なってうまう!といった単純タイプ。
ところが、後者は完全に老獪狸。実は幕府の権威失落を狙う腹黒い作戦。 民心離反 を仰ぐ為。
乱れる治安、幕府はもうだめだと人々に痛感させる。あっちもこっちも殺人事件。
これなら誰でもそう思う。その上、一石二鳥。犯人は見事な程に後の官軍側の者ばかりなのだが、
賠償責任を追及されるのは、いつも幕府。ただでさえぐらついてる幕府の屋台骨は、財布が傷んで
軌道修正に出費できる財力を失うから、ますますどん底。つまり『幕府苛め』の口実に、
尊い命を奪うというとんでもない卑劣。
賠償しないと、豆粒のような日本。たちまち力で威圧されれば最後。幕府は必死になって、必ず払う。

少し小難しい頁ですが、 「諸外国の威圧と賠償金」について解る関連頁はこちら▼
表示先頁の 「小笠原長行という男、開国派の男」の章 で、 生麦事件の『 独断賠償金支払い事件』
及び、『 奇行とされるクーデター事件』に係る内容をご参照頂きますと、当時の緊迫の様子が解ります。
リンク先頁には、資料編「小笠原長行の行動&歴史、藩の裏事情、血縁関係」もガイド有。

官軍は幕府の弱体化作戦として実に巧妙に「民心離反」と、「財政難」に拍車をかける技を
双方交互操作で展開させています。しかも、同時進行形で、相良総三達の赤報隊( 相楽総三1 , 相楽総三2
が全国周遊開始。ありとあらゆる手を使ってわけのわからぬ暴動を起こし、その反面で、
「新政府なれば、年貢は半分!民の苦しみは救われる!これぞ誠の世直し!」
と謳い、いうなれば、新政府イメージアップキャンペーン隊のような大行軍を行っています。

その頃、京都守護職の松平容保は、幕府の立場として、乱れた京都の治安活動に頑張っている。
新撰組の活躍も彼の傘下。当時京都の町は、狂気同然の『攘夷主義者達』の横行。天誅と称して、無差別殺人。

シュネルの目から、松平容保のその姿は、おそらく「過激派攘夷論者」=悪者退治に活躍している英雄に
見えたことでしょう。

しかし、松平容保に信任の厚かった孝明天皇が、謎の急死!慶応2年12月25日(1867/01/30)のこと。
間もなく、徳川の14代将軍「徳川家光」も僅か21歳だというのに急死!似たような謎の急死。
世の中がどんでん返し。急速に弱まる徳川の力。坂道を転げ落ちるように『大政奉還』へ。
威圧の威圧。度重なる陰謀。ついに徳川が政局を手放すといった非常事態。

その一方で、会津藩主『松平容保』も、一夜にして天下動転。
昨日まで天皇に厚い信任を賜った者が、なんと『 朝敵 』の汚名を蒙った。討伐の口実は『朝敵』
という言語さえあればオールマイティカード。

シュネルとしては、本来、冷静にビジネスに専念するはずが、ついに正義感が燃え上がる。
シュネルにとって、 「陰謀の生贄にされた悲劇のプリンス」 の姿が、松平容保だったのではなかろうか。

沢山の銃を購入して利益を生ませてくれたおとくいさんだから応援したのではなくて、
それ以前の、この段階で既に、シュネルの意識の中、松平容保への応援の意思は確固たるもの
だったと推定されます。

その訳は、前述の「イヤな過去の経験」に起因します。

攘夷気違い連中!と偽善者!

実は、シュネル、イヤな過去があります。
彼は、あやうく「前科一犯外国人」になされてしまうところでした。


前科一犯外人の汚名
慶応3年(1867)7/15:ヘンリー・スネル襲撃事件

弟のエドワードと馬車で江戸へ。突然、沼田藩士三橋昌が抜刀天誅未遂。
未遂で済んだのは兄ヘンリーが勇敢に拳銃で反撃。寸時のことで弟エドワードは斬り殺される
ところだった。ところが、銃弾は、誤って無関係の民に当たり、下駄商:幸次郎の雇人:
淺次郎が怪我。正当防衛といえど、事件始末にいわば前科一犯的苦渋を嘗めた。

前科一犯的苦渋とは :日本としては、攘夷主義者に限らず、本音は異人さんに国内から出て行って欲しい状態。
その為、待ってましたとばかり、上記一件は大袈裟に衣くっつけられて大事にされた。当時シュネルは若いから
自国の上層部からかなり突き上げられた。

上記経緯もあり、シュネルは「過激派攘夷論者」が大嫌い。

それらの経緯を全て見ていたシュネルとしては、不義への怒りが大爆裂。
ここに、アカバネ・シュネルが立ち上がる。彼はまさに全力投球だった。


アカバネ・シュネルの隣人愛_牛乳事件

彼が活発に動いた地域は、会津に限らず、奥州のもっと広域。
その範囲は偶然か否か、皆、徳川初期に遡れば、殉教の地。隠れキリシタンの痕跡も多い。
カトリックのシュネルとしては、日本人よりも、その件はよく把握している。

砲術知識のあるシュネルは砲術師範として、戦闘部門で活躍しますが、
人民救済、隣人愛の習性は、よくよく見ると、いたるところで発揮しています。

たとえば、庄内の酒田には、シュネルを応援してくれた豪商(豪家)が居ます。
庄内藩、酒田の「本間光美」です。当時、酒田といえば、重要な交通網最上川の出口。
その時、彼は体調思わしくなく、臥せっていました。
なんとシュネルは駆け参じて、「牛乳」を飲ませます。
牛乳くらい誰でもできそうに聞こえますが、東北です。当時の日本です。牛は農耕牛くらいしか
見つけられません。それでも走り回って対処。

どうにか、牝牛発見情報キャッチ。ところが、牛の乳搾りの技術がある者なんて居ません。
多忙のシュネルが自分で対処。 上記牛乳商売の話 から、やはり繋がるヒトコマです。

効果抜群。本間光美は回復しました。
というわけで、シュネルは「隣人愛」の精神を見せてくれています。

因みに、当時牛乳というと、在日外国人の他は、一部の大名や、都心のインテリクラス、富豪が
たまたま知識としてその効能を知っている故、薬として乾燥粉末「酪」として飲用する、及び長崎
のような地域で、カステラ焼材料として用いる他は、誰も滅多に口にしません。多分、この人も
相当抵抗があったことでしょうが、シュネルを信じて飲用したのでしょう。

日本人の牛乳飲用にかかる抵抗感の小話:犠牲者は仙台藩のお毒見掛。水戸から倅の嫁に姫を貰ったら、
グルメ&健康食品知識満載の徳川斉昭が、娘にもれなく、乳牛と専用搾乳士をセットで添付。
送り込んできた。「お毒見係」の者にとって、これは毒より辛かった。鼻摘んで、嘔吐感
堪えて一気に飲み干し!いやでも栄養満点牛乳パワー。職業のわりには、多分長生きしたでしょうね。
関連: 江戸人と牛乳話

最後にシュネル一行が新潟港から、カリフォルニアへ向けて密かに出航する際、民家らしきに匿われて、
何者かの協力を得て、事を運んでいます。新潟の港は、このちょっと前まではシュネルのテリトリー
でしたが、官軍に接収された為、シュネル一人では動けません。
史実として、この大脱走劇に本間家が助力したことを裏付けるものはありませんが、
恐らく一枚咬んでいることと思われます。結びつきが非常に深いのが解ります。


慶応4年(1868年=明治元年)、当時、庄内藩は、蝦夷に分領地を持っていました。
ところが、幕府が政権を手放し、鳥羽伏見の惨敗情報。その為、同年5月、蝦夷に派遣されて
いた藩士は皆、やむをえず、蝦夷から船で帰藩します。その人数は約700人。
その際、使用した船はというと、実は、シュネルの蒸気船『ロバ号』です。

この時、 本間耕曹 (天保13/6月~明治42)は、
函館商人・ 柳田藤吉 の仲介を経て、シュネルから銃器弾薬を買い入れています。
そして、その銃器弾薬は、同年、慶応4年(1868年=明治元年)の7月には無事酒田港に到着。
その金額、総額3万4533両。

庄内藩といえば、慶応3年12月の 江戸薩屋敷の焼き討ち事件 の導火線といわれる藩。
実は、本間耕曹はこの頃、江戸勤で、この一件直接関与しています。江戸で砲術を学び、
フランス士官にも面識が有り、訓練を受けて、藩から砲術方の地位を授かっている人物。

シュネルとの接点はいつ発生したか不明ですが、上記経緯からすると、江戸である可能性も
多分に考えられます。

上記、 本間光美 にシュネルが会ったのは、従兄弟である本間耕曹の紹介でした。

どうゆうわけかは存じませんが、 本間耕曹 本間光美 も非常に外人さんぽい容姿。(クォーターのような
また、この家系の名前は、代々皆必ず「光」という文字がついてます。 本間耕曹 の兄は、光貞。
4人の宣教師が酒田に来たのは1626年。酒田から最上川を遡って、沿線各地、
大勢の信者を生み出しましたが、その後、たちまち殉教の歴史と化しています。

本間光美は酒田の本間家の6代目。1代目は原光(1674-1740)。酒田の本間家ルーツは佐渡本間家と
いわれています。宣教師が酒田に来たのは1626年ですから、咬みあわせる為には、随分遡らねば
辻褄があわず、あまり関係なさそうですが、本間家に、なぜか西洋人の血混入?を感じさせる人物が
かつて、存在した事について、無性に気になっている人は、どうやら私だけではないようです。謎!
そもそも、一代目の名前、原光とは、初に光を得た・・・とも解することも可能。
1代目は江戸時代で、それ以前の代の経緯を是非知りたいところですが不明。佐渡の本間家概略は、
あれど、この直系に係るスポット情報は存じません。

本間家は大金持ちで有名。されど歴代、慈善事業、寄付など活躍している。
気のせいか、「光」の文字と絡まぬでもない。慈愛の光か否かは永久の謎!( 本間家考察特設頁


【酒田(庄内藩内)のキリシタン:江戸時代初期の布教と殉教痕跡】
1626年(寛永3)年6月、フランシスコ会のパァデレ・ディエゴ・サンフランシスコ管区長が、
酒田に入港伝道。 信者数参考: 鶴岡約50人、酒田に約30人 いたらしい。尚、これらのアバウト手掛かり
情報は、『日本殉教録』という資料等に由来する。著者は、 ペドロ=モレホン。
【ペドロ=モレホンとは】
イスパニア人。イエズス会。日本へ伝道。オルガンティ-ノ神父の後、イエズス会日本管区担当人物。
当時の京都の下京教会の院長兼、本州全域に於いても主要地位に昇格。滞在は、約9年間京都他。

ちなみに、本人はそうだ!と全然言ってませんが、下枠、 本間家は酒田 なんです。なんといっても
徳川幕府は260余年。実に長い。関係あってもなくても、彼らにとってさえ、江戸時代初期の先祖は、
大昔の人。

hata.gif庄内の『本間家』:シュネルと『本間光美、本間耕曹』の結びつき考察略表
【6代目=本間光美と、彼の従兄弟=本間耕曹の2名にスポットしたPOINT表】
16_その昔、奥州の殉教と、カトリック


我々日本人とは、案外目出たい習性の人種・・・ともいえる。
三歩歩いて忽ち忘れるいわゆるトリアタマじゃないけれど、
現実主義の小国民。

現実に関係ないことは、案外早く、消え去ってしまう。

その昔、鎖国前後、会津、米沢、庄内に限らず、このあたり
奥州は殉教の地。宣教師も民も受難を受けて死んだ。
最上川に沿って目に見えない悲しみの歴史が埋もれている。



ところが、なんといっても徳川は260年続いたわけだから、すごく長い。
現代に限らず、当時の人々も、張本人の日本人が、意識の中でおぼろ。

だが、それは一般論。その一方で極限られた小数の人々、つまり過去の殉教の人々の末裔は、
隠れキリシタン。彼らの多くはいわゆる隠れキリシタンとして認識され難い。
完全に仮面を被っている。士族なれば、自家の破滅どころか、藩に迷惑をかける故、
完全にその姿を見せない。隠れ集まって行動することは一切ない。されど、心の中、その教えは、
代々密かに息づいてきている。地に於いては、不思議な馬頭観音などがその一例といわれる。
よく見ると、観音様でもなければ、お馬さんでもない。凝視するなれば、微かにマリア様の面影。

上記同様、昔の昔、処刑を免れた切支丹の一部は、津軽の突端に流刑。その時、わざわざ、
会津方面から、追ってその地へ移動した者も居る。身分も地位も全部捨てて、流人達の一人として、
手には鍬を持って、自ら貧民、農耕の人を選んだ。つまり、会津の血は戊辰の結末に於ける悲劇、
『斗南藩送り(=流罪同然状態)』事象のずっと前に、こうして津軽方面に混入していた。


張本人の日本人が、すっかりそんな事、記憶の彼方だという
のに、その点、当時、カトリックの者は、きっちり認識していた。
殉教の地を忘れる事程、愚かなことはない。



シュネルはカトリックだった。行動の根源は隣人愛と読める。

金は天下の回り物。どうにか凌いで繋げば、自ずと次なる命の泉は、ごく自然に湧き出る。
シュネルの頭脳をもってすれば、日本のシルク、日本のお茶、それが、
全世界のシェア独占するは、けっして夢じゃない。

ついに、アカバネ・シュネル、行動の時来る!

17_アカバネ・シュネルに導かれて、いざ大脱走!
ノアの箱舟、カリフォルニアを目指せ!

人々は、松平の藩旗と、名刀を大切に抱え、シュネルに導かれて海を渡ることになる。

準備周到。搬送可能な必要最小限のけやきと桑の幼木、お茶は種子を運び込む。
シュネル家族の他、優秀な建築技術を有する者も、腕利きの大工の棟梁、及びその家族も乗船した。
大工の棟梁には子分が従う。武士社会も報恩忠義なれど、民の世界も同じ。若者が付き従った。

生き残りの若い藩士と、子守役の少女、おけい。祖国と今生の別れ時。
スリルとサスペンス。大逃亡劇が開始された。

★ 主な関連人物(実在の人)、
★若松コロニーとは(詳細は資料編【No.9から各項目】= No.0:目次からどうぞ に記載)
  • ■ジョン・ヘンリー・シュネル
    会津の活路をカリフォルニアにと、藩主、松平容保に提案&自ら実行の雄者。■ヘンリー・ビアカンプ:
    (当時の人、コロニーの皆を救った隣人),■おけい,■桜井松之助,■増水国之助
    ■マルコム・ビアカンプ(父親の発言記憶から、先祖より伝わる若松コロニーに係る稀少な
    情報を現代に提供してくれた人物:現代の人:但し1989年に故人となる。)
彼らは、シュネルがチャーターした中国船に。この船に乗り太平洋を渡る。
当時、太平洋を渡る中国船というと、移民もあるが、悲しい歴史が生み出した苦人(クーリー:強制
労働者)の送り込みに使われることが多い。その為、不信な船とマークされる確率が非常に低い。
慎重派のシュネルの判断だろうと思われる。何が何でも無事脱出せねばならぬ。

この内第三次初期脱走隊には、たった一人純然たる会津藩士、士分の者が乗船している。
この頃、生き残りの藩士は皆謹慎と言う名のもと束縛されている。にもかかわらず、そこに居た
のはどのような経緯なのかは不明。名前は 桜井松之助
彼は、荒れ狂う太平洋の荒波。されど、松平の藩旗と、殿から授かった名刀を、しっかと抱え海を渡る。

渡航は一回によるものではなく、シュネルの段取りに基づいて、皆は幾つかのグループに分かれて行動を。
別日、別場所から、数回に及び、Wakamatsu-colonyに駆けつけた。

誰かの手記らしきものが、断片的に残っているようだ。具体的には、どこからどこまでが、
一人の人物によって書かれたものか解らないし、それが誰であるか、特定できない状態。
しかし、痕跡だけは残った。著名な日本の歴史作家でもなければ、とても思いつかない日本古来の
古典に纏わる言語が混入している。感情表現にも、余程古典を学んでないと書けない表現が散見される。

我々日本人ですら、現代の者なれば、調べないと解らない事柄が、彼らの心理描写の一部として、
登場する。その為、誰か日本人の歴史作家が書いたのでなければ、どう考えても、当時の当該者の誰かの
手記に基づくと思われる興味深い描写がみられます。

また、米国永住に至った誰か一人の人物が後に英文で発表したと思われる内容もある。
けやきの木材の価値を知った上でそれらを持ち込む計画班に便乗した様子。
アメリカへやってきた経緯と、恐ろしい内国戦争の様子を語っている。どうやら、彼の場合、
二度と日本に帰れないとは夢にも思わなかった様子。

調べ知った内容から、個々の「古典」に纏わるポイントを交えながら、以下、脱走場面を
書き進めようと思います。因みに私は、まだ小説を読んでいません。材料は複数の資料。
小説を読んだり、映像を見てしまうと、すっかり意識がそれに固定されて思い込んでしまう為、
推測枠が狭まり偏ることから、堪えて!読まずに、書いています。

写真も発見されていますが、人物を特定できず状態。また、個々の写真は、それぞれ、到着以来、
何年後に撮影されたかも解りません。中年の人物があっても、到着当時なのか、それとも後なのかも
判断できませんから、この人物と、こちらの人物は、どっちが若いか断言できない。
幾つかの推測はできてますが、それは混迷に繋がるので、断言せずに、以下書いてゆきます。

極数名だけは、若い頃と、少し年月経過した年齢と思える状態の写真と、双方写真を有してますが、
それはほんの僅かで、同行した若い大工達他、大勢の情報は、今日に及んでもまるで皆無。
この後の時代、アメリカ在住の日本人には、悲劇の 『日本人排斥』の嵐 が到来します。
帝国主義の日本、イコール、侵略してきた日本人の意識が重なり、排斥される宿命を負います。

若松コロニーが潰れる頃、皆は離散。大工は技術を活かして暫し食いつなぐことはできますが、
上記恐ろしい嵐を皆、無事掻い潜ることは、はたしてできたのでしょうか。

少しだけレイアウトが見えている人物については、現在シリーズ内、後半にまとめて準備します。

まずは、シュネル一行の大脱走の様子。

No.0:目次 Sec.1 Sec.2(現在頁) No.3 No.4
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示
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短生種の戯言 :十字架,銃写真

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