若松コロニーとシュネル資料編_No.9

若松コロニーとシュネルSERIES_No.9,幕末_WITH_LOVE(若松コロニーとシュネル特集),死の商人と伝わるシュネルの素顔,カトリックと隣人愛,会津藩士のカリフォルニア,幕末,戊辰戦争,WAKAMATSU COLONY&Jhon Henry Schnell_No.9

シュネルと若松コロニー:アカバネシュネルの謎

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シュネルと若松コロニーSERIES詳細編_No.9
Sec.1 <・・・< Sec.8 Sec.9:各人物、資料編_No.1(現在頁) Sec.10 ・・・
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■各人物、資料編_No.1(=若松コロニーSERIES_No.9)
The Wakamatsu Colony: Gold Hill (会津人のカリフォルニア)
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■現在頁から、各人物、資料編です。流れ&解説は Sec.1 から順番にどうぞ。
■桜井松之助 の懊悩については、 Sec.8 の67_土に還る時:『心に会津が見える丘』の上及び、
_68_桜井松之助の脳裏、巡り巡る走馬燈
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■No.69:侍「桜井松之助」がアメリカの土に眠る迄
■No.70:絶望の経緯
■No.71:◇日本国内会津藩のその後と、◇若松コロニーの動き(略型比較表)
・補足リンク:松平容保の懊悩:犠牲首への抵抗
■No.72:力強く生き抜いた人_「増水国之助」
■No.73_二人のマツ:無念!絡んで不明確な「MATSU」と「MASU」
・◇1_収穫物保存倉庫の建造について、◇2_おけいを最後まで看病した人物はどちら?

資料編次頁:Sec.10:若松コロニー概要、各人物【資料編_No.2】

アメリカの土に眠る彼の複雑な胸の内


■侍、桜井松之助は、老いて就労不可能になるまで、生涯をビアカンプ家の執事として捧げました。
なぜか、詳しい事は不明ながら、独身のようです。何かあったかもしれませんが、不明です。
  • 日本国内に妻子を置いてきてそのままになったのか?或いは渡米の段階で既に死別だったのか?
  • おけいさんとは身分が異なりますから、本来平和裏に日本に居れば、ありえない事ながら、
    哀れみから誓いに転じていたかなど、多少気になりますが、なんら手掛かりはありません。
    最終的に墓をあの丘に建ててあげた人物は、確かに桜井松之助。
    尚、この話については、現在頁の下側、 桜井氏ミステリー浪漫 もご覧下さい。
■渡米の段階で30歳。後から密航してきたメンバーには侍も居ますが、当初の脱走メンバー内では、
唯一生粋の侍。

■生没:桜井松之助(1834-1901)は1901年、67歳で死亡。コルマのヤード墓地に墓有。
尚、生年については、アメリカの国勢調査内表記年齢から考察される数値であって、日本国内の
彼の実績資料は存じません。

■前歴や、系譜、親族など、なぜか判然としていません。会津藩内の桜井家と恐らく親族なのでしょうが、
アメリカの土に眠る彼の情報は孤立状態で、憶測しかできません。ご親族が書いたものがあれば
嬉しいところです。

■シリーズ内の物語風に書かせて頂いた各枠内(特に、 No.65 近辺記載内容)のとおり、
桜井氏は、農場運営に係る優秀な能力を発揮。
一代目のビアカンプさんから、二代目の当主への引継ぎの間、二代目が若かったことから、
一代目ビアカンプさんは、経営の主導権を、彼に移行しようとしたほどです。
それほど、桜井氏は深く信用されていました。
しかし、彼は、あくまで補佐、執事の地位を保ち、二代目にも仕えて、生涯を捧げました。

■シリーズ内、 No.60 及び、 No.58 :フルーツ格納倉庫の設計について
これは史実です。実際現在も、当時の面影を残した古い小屋が残っています。
設計建設に関して能力を発揮した人物名については、なんといっても後々代の末裔の方のご記憶に
よるため、断言できる程の自信ではない様子ですが、記憶は、Matsunosukeか、Matsu。
ことによると、Matsuと呼ばれるほかの人物も存在したか、または、増水国之助のMasuの可能性も、
否定できないのですが、基本的に、増水国之助はKUNIと呼ばれていたようですから、
設計技能者として、確立は、桜井松之助が一番高いようです。
(【注】後述、増水国之助枠にも記載しますが、増水も一般的には大工と呼ばれますが、
現場施工以外、なんらかの技術知識を持つ人物と感じられる要素有り。)

■というわけで、桜井松之助は、アメリカの土に眠る人となりました。
ビアカンプ家では実に彼を尊重して、彼も安定した人生には至っています。
我慢できずに飛び出していった者達の消息は、極めて少なく、時代背景はシリーズ内各所に記載させて
頂きましたとおり、極めて存命は困難です。
それを思うと、 彼の心境は、さぞ複雑であり、かつ犠牲的 な人生だったことでしょう。

■ここでふと、思います。
後からやってきた侍達は、大工の若い衆達と異なり、なんとか日本へ帰国できる財力を持っていた
者も居ました。 帰国してゆく彼らの姿を見つつ、桜井松之助だけは、踏みとどまったのです。
これは、 侍の意地なのやら、『侍の掟』による『禄を食んだら、永久の報恩』の観念なのやら、
実に胸が痛いところです。さぞ、複雑な思いだったことでしょう。


船が転覆した時、船員を幾人か死なせておきながら、船長である己がぬけぬけと脱出してはなるまいと、
自ら生死を船と共にするような・・・自己犠牲も感じられます。その実、大勢の民を引き連れて、
アメリカの地に渡っておきながら、若松コロニーは崩壊したわけですから、船が転覆したのと同じ事。
自国へ帰れる資金を持たぬ民を、アメリカの大地に漂流させてしまった。その内、幾人かは、アメリカ
という名の大海原の波に流されて溺死させてしまったことでしょう。桜井氏は、リーダーでは、
ないですが、やはり侍として、指導格として、責任を被ったのではないでしょうか。
  • まず、会津コロニー運営に係る主導的地位に居たことから、情報不明のままに放棄できない
    宿命ですから、皆と異なり、一種運命の捕われ人状態であったことは否定できません。
    会津藩主、松平容保に使え、彼の為に、カリフォルニアに会津藩の新天地を切り開くべく、
    危険を冒して、ここまで来たのです。
  • また、予想外のアクシデント続きの中で、藩命によりここに来て、この地に於ける
    リーダーがシュネルですから、シュネルはいわば直属の上司と捉えて接したことでしょう。
  • そのシュネルが絶望状態ながら、藩からは、なんら連絡が得られぬまま放置されてしまいます。
  • シュネル絶望状態に至った段階で、隣家ディアカンプさんが救世主になってくれました。
    となると、借金の責任もありますが、武士の観念からすれば、これは、やはり、
    ビアカンプさんへの永久の報恩 を誓ったことでしょう。
    • 報恩といっても、桜井氏が自分の判断で勝手に動いた結果のミステイクで救われたの
      なれば解りますが、この場合は、桜井氏こそ被害者。にも関わらず、永久の報恩に身を
      捧げています。現代の世のような個人主義時代に於いてはピンときませんが、
      これが、まさに武士時代の観念。殿の恩は臣の恩。永久の恩。
臣の務めは、たとえ己が死んでも、主を裏切ってはならぬのが掟。
悪く言えば、古臭い日本の武士の仕来りではありますが、ここに美学を感じます。

一方、明治の世は、手探りで漕ぎ出してゆきますから、暫しの間は、むしろ江戸時代のほうがマシ
な状態を経過します。無論、幾つも変遷を得て、今日の平等がまずは得られたことになるのですが。
ところが、明治政府の残念なところは、上記、桜井氏の『古臭い日本の武士の仕来り』が、
闇雲にぶっとんでしまいますから、武士の情けも契りも、永久の報恩も、主と臣の掟も、
断トツに低下してしまった点は否定できません。

■そして、桜井氏は、長くビアカンプ家に仕えたわけですから、ついに本格的な絶望の時を
経験しています。帰りたいが、曖昧にして帰れない使命感から、
やがて本格的な絶望感へ転じ、屈折を感じずにはいられません。
恨んではならない!物事を曲解してはならない!と己を叱咤激励しつつ、ひたすら信じて待ち、
やがて、現実は、トカゲの尻尾。

晩年に至れば、帰る資金力はおそらくあったことでしょうが、それでも帰ろうとしなかったのは、
実に複雑なものを感じます。彼の立場になれば、誰しも、きっとそうだったことでしょう。

人一倍、会津を愛して焦れるが故、これ以上、傷つきたくなかった。
せめて、心の中に偶像を保っていたかった・・・
愛するが故、帰ってたまるものか!・・・そんな気がします。

下記詩は、上記に無関係であり、明治22年生まれの『室生犀星』ですが、恐らく桜井松之助の
心境は、これに似た要素もあったことだろうと思われるため、参考までに記載してみます。

【ふるさと】:室生犀星

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの

70_絶望の経緯について


結論からすると、桜井達が、ここまで耐えてここまで信じて、待っていたのに、
なんと!松平容保は、神主になってしまいました!!状態。

【松平容保の代弁】:詳しくは後日別シリーズに譲り、ここに書ききれません。
詳しくは、 松平容保の懊悩:犠牲首への抵抗 SERIESへどうぞ。またリンクバナーは現在頁の こちら
が、臣の命を守ろうと
必死で最後まで足掻いた様子が解ります。冷たい藩主ではなく、身動きできなくなってしまった。
死罪は私に。臣をお許しください意の嘆願書を送っていたことが後日明かされる。

これは、実に単純明快であり、即ち全てをたった一言で代弁してるようなかんじです。
アメリカでの捉え方の多くは、おそらく、これが圧倒的に多いと思います。
キリスト教徒の博愛精神、隣人愛、自己犠牲で、ここまで耐えてきたというのに、神主!は
実にショッキング。しかも、官軍=ミカド軍=皇国=日本の神式系と連想されることから、
尚、このショックは絶大です。

厳密にいえば、 神主になったのは明治13年であり、若松コロニー崩壊後の随分後 ですが、
救いの手が差し伸べられなかったという点で、大意はまさに、象徴されていると思います。
ところが、 松平容保は養子 です。徹底抗戦に漕ぎ出した段階でも、養子の容保が、よくぞ、
そこまで頑張ったものです。

いいからやめとけ。京都守護職なんか断れ!とばかり、真っ先に、 西郷頼母 達は、
容保に異論を唱えていました。

また、会津戦争に突入する前、鳥羽伏見の戦犯責任者として家老の首で許してもらえる選択肢は
ありました。しかし、断固拒絶。京都守護職であった経緯から、絶対に許せなかったのも、
ありますが、この段階では、家老の首を守ったのも事実。(この時代の首とは、本物の生首です。)

【補足】:臣の首:実際、幕府側について戦い、鳥羽伏見で敗れた側の藩は、皆、大慌てで臣の首を
捧げて、藩を守っています。この後、戊辰の展開上、さらにそれは倍増。最終的には、会津も結局
そうなりますが、この段階では、容保は臣の首を守り通した。

会津戦争の時、容保は30歳過ぎてますから、それを純情というのは、変ですが、やはり『純』の
要素は漂っています。少々脱線しますが、この時、同じ運命に突入した実弟の桑名藩主、松平定敬は、
将軍慶喜に手を引っ張られて、藩士を戦わせてる真っ最中、敵前逃走の経緯を、上記、容保と同時に
やってしまったわけですが、江戸藩邸で、藩士達に、言い訳ひとつせず、涙ながらに、両手をついて、
謝罪しようとして、藩士達に抑えられています。「殿!なりませぬ!それだけは!」
この場合こそ、純情と言っていいかもしれません。
彼は当時21歳。この姿に、思わず藩士達は、この人の為なれば、本当に死んでもいい!ますます決心が
堅くなりました。その為、 桑名は最後の最後まで粘ります。故に、このとおり、さらに悲しい結果

話を容保に戻しますと、容保は、
結果としては犠牲値を大きくしてしまった上、悲しきかな、最後に 萱野権兵衛 が犠牲首。
結局、藩と家名の存続の為に雁字搦め。身動きできなくなってしまった。


しかし、ここまでは、何があろうと、桜井松之助達に、絶望も幻滅もありません。
ひたすら、藩主様を御労しいと感じています。
藩主様は、捕われの身。謹慎の身。身動きできない。

ところが、事態がこんがらがってきます。シュネルのいよいよ絶望状態に至り、
完全に孤立。情報も皆無同然。なぜかパイプラインが遮断されたまま。
コロニー崩壊&皆の離散、借金地獄。食い詰めてボロボロ。
それでも、頑張って、会津藩の旗と、殿から賜った刀だけは、殿の為に守り通していた姿が、
痛々しくてなりません。


ところが、それだけなら、まだ、あまり可愛そうではありません。
明治5年(1872)、松平容保は許されて、謹慎を解かれます。どんなに期待したことでしょうか。

それが、だんだん、異郷にあって、事態をどう判断したら良いのか、困惑状態。
流刑同然の哀れ斗南送りにされた者達も、やがて、会津に帰参。
明治の世に仕える者も多々発生。容保はやがて華族に取り立てられ、会津に戻れる身に至る。

ここに居よう。ここでいい。ここのほうがましだ。
否、ここがいい。誠の隣人愛を見た。
理屈でなくて、本当の隣人愛を。
だから、ここに眠ろう。私は、ただ、黙って、この地に眠ろう。

桜井松之助の長い長い文章が、どこかで見つかってもよさそうなところ、発見されていません。
もしかすると、途中で、彼自身の判断で、全て燃やしてしまったかもしれません。

黙って、ただ静かに眠る為に。


月日
松平容保、及び、日本国内会津藩からみのMEMO
若松コロニーに係るMEMO
■日本国内会津藩のその後と、■若松コロニーの動き(略型比較表)
容保
明1(1868

10/19
:容保・喜徳、随従の藩士と共に東京へ護送される。(東京着は10/30)
期日不明
この段階で既に何か起きている。なぜならば、容保・喜徳は死一等を減じられる。
12/7
容保・喜徳は死一等を減じられ(≒死刑だけは免れるの意)、存命は確定。
容保は池田慶徳(鳥取藩主) に、喜徳は有馬慶頼(久留米藩主,諱は慶頼)に
各々、永預けとなる(≒終身刑)。
■その一方で、追従の家老、 萱野権兵衛 は喜徳側の久留米藩江戸藩邸に居る。
期日不明
■松平容保は、罪は臣に非ず。罰されるべきは己のみにて臣をお許し下さい。意味の
嘆願書を送っている。後日談になるが、つまり新政府は臣側からの嘆願書と、藩主
側からと二つ受けている。真下枠の保科家の動きご参照。
明2(1869
1/24
飯野藩保科家は、会津藩の反逆首謀者を「田中土佐・神保内蔵助・萱野権兵衛」と届出。
  • 田中土佐・神保内蔵助は既に死亡済み。しかし、萱野権兵衛だけ生きている。
  • つまり、萱野に犠牲切腹を納得させている。
コロニ
推定3月
シュネル軍団、密かに複数班に別れ、各渡米の為、脱日本。
4/16
1869年5月27日:サンフランシスコに到着
4/29
1869年6月9日に若松コロニー到着&開始
容保
5/18
萱野権兵衛、犠牲切腹、飯野藩広尾別邸において自刃。
  • この直前の段階で、萱野権兵衛は久留米藩江戸藩邸に居たが、切腹の為に
    飯野藩保科邸から迎えが来て移動している。
  • 保科邸は、容保の義姉、照姫の生家。照姫から直筆書状が萱野に送られている。
コロニ
通年的に
日本の植物は、水不足気味。しかし、どうにか凌ぐ
容保
11/4
慶三郎(容大)による家名再興許可される。彼は華族に列っするを同時に許される。
陸奥3万石:斗南の藩主となる。
12/7~
容保、和歌山藩に預け替えとなる。
明治2年当初鳥取藩禁固の松平容保を和歌山藩に移置。
明3(1870
コロニ
1~3月
干ばつ、水不足、水争い等農場低迷の限界の兆し。その上、資金的トラブル発生。
一般的には、日本側の資金援助生命線が切断されたと言われている。
但し、キーマンについては定かでない。
明4(1871
5月
1871年05月19日、 シュネル金策の為、日本へ。子と妻のみ同伴。他は現地コロニーに
残したまま。このまま不帰。連絡皆無。やがて殺害説浮上。
容保
7月
容保・喜徳、斗南藩へ預け替え。早速、廃藩置県にて、再び移動▼
8/25
容保・喜徳・容大、東京へ移動。といっても禁固。自由ではない。
コロニ
期日不明
倒産。皆の離散。放浪。桜井のみビアカンプ家に長く仕える。
おけいは養女になったが間もなく死亡。
若松コロニー崩壊
容保
明5(1872
容保・喜徳の永預け処分免除。許される。
明13(1880
容保、東照宮宮司就任。上野東照宮の祠官兼務。土津(はにつ)神社祠官兼務。
土津神社とは、福島県耶麻郡猪苗代町にある神社。会津藩初代藩主・保科正之が
祀られている。即ち、容保は会津に足を踏み入れる。
明26(1893
この頃、容保は二荒山神社宮司兼務だが病気の為辞退。同年死亡。
享年59歳:1836/2/15(天保6/12/29)~1893/(明治26)12/5)
コロニ
明34(1901
桜井松之助死亡。67歳。(1834-1901)67歳。
大正4(1915
増水国之助死亡。(1849-1915)66歳。
■若松コロニーのメンバー離散は、ことによるとシュネル在段階の明治3(1870)年 、ばらばらと
歯抜け状態が始まっていたかもしれません。その理由として
  • 下行、増水国之助の長男をおけいさんが見た可能性大。その情報は、下枠「増水国之助表」内の研究者達が、
    ご子孫の記憶から一部聞き取っています。
    長男が生まれた時、おけいさんが出産祝いにベビー服を持って駆けつけ、その数日後、発熱または肺炎を
    悪化させて死亡したとの話を聞いたことがあるとのご子孫の記憶話有り。


松平容保 の懊悩の様子考察

松平容保の懊悩:犠牲首への抵抗

素晴らしい増水ファミリー

真意の愛。感動の結婚と、彼亡き後の人々。
増水国之助は、裸一貫、コロニーの枠外へ流浪を余儀なくされる運命に至ります。
しかし、彼は、食いつなぐ為なれば、抗夫、人夫などかなり危険度の高い、尚かつ重労働な分野から、
ありとあらゆる仕事をこなして、強くたくましく生きてゆきます。
世は、目下人種差別の嵐。時には、過激派による殺害事件も発生する時代のこと。
その嵐の中をみごと掻い潜って生き延びます。

そして、感動の結婚。自分が日本人であることだけで、充分に余計な苦労を背負っているにもかかわらず、
愛した人は、下枠のとおり。差別も非難も実力でくぐりぬけてゆきます。
85歳に至った妻(この段階で、増水本人は他界してますから、彼女は未亡人)が、FBIに召喚された時、
堂々と、「私の亡き夫は日本人でした。」そう語った彼女の姿は、感動的です。
世は時代を経て、日系人の強制収容所送還という恐ろしい実態の中。


増水国之助
名前について
KUNINOSUKE.MASUMIZUとされるが漢字は確定ではない。
選択肢としては【苗字】:増水、桝水、枡水、升水、舛水、益水等;
【名前】:国之助、那之助,郁之助,邦之助他
尚、『之助』部分についても、乃なのか、輔なのか、助なのか、介なのか
・・・まだまだ色々考えられる。御子孫は大活躍ファミリーですが、残念ながら、漢字確約でない。
恐らく、漢字で書かれた資料が残っていなかったのでしょう。
〔現在シリーズでは、とりあえず、一貫統一して増水国之助と書いています。〕
その為、日本に在住していた頃の資料を発見できません。
生没、
(1849-1915)
生年については、上記の桜井松之助同様に、アメリカでの国勢調査に記載された年齢から
想定され、また墓もその数値。但し、日本在住時代の情報は発見されていない為照合されていない。
人物
大工、特に 宮大工の技術を保有 していたとされる。建築学に匹敵する知識有。 築城技術&知識保持
上記のとおり、日本国内に居た頃の内容と照合できませんが、後にアメリカで大掛かりな建築に
着手して功績を認められています。(下枠ご参照。)
愛称
「Kuni」クニノスケだから。
結婚
妻は「キャリーウィルソン」。
当時のアメリカは移民排斥気風。故に差別は露骨で、恐ろしい事件も多発。
■増水国之助本人も、日本人であることから、もう少し後の国名名指しの「日本排斥」を蒙る
以前のこの時代から辛苦を嘗めています。
■ところが、妻側もかなり大変、当時としては実に不幸な出生&立場といえます。
  • 妻の父:ミズーリ州からの解放奴隷
  • 妻の母:ブラックフットインディアン
死亡
1915年死亡。埋葬は、コルサの墓地。
生活&居住
コロニー脱出後の
生計維持と職業
総体的には職を求め放浪同然、アルバイト短気雇用などで食いつなぐところからスタート。
中身は、実に多種。抗夫、農夫、人夫、料理人、漁師、魚屋さん、大工、など。
やがて、コルサに住んで、自営業としての魚屋さん開店。
建築実績

活躍した宮大工
の手腕
■フレズノ市にある仏教大会堂
■コロマ・ホテル
  • カリフォルニア最古二階建木造建築物。歴史的建造物として州が指定保護。現存。
  • この建造の際、彼と同時に着手した者として、大藤松五郎の名有。大藤は、宮大工であり、
    増水の師匠。実際、国勢調査を調べてみると、
    Daid_Jiro(46歳)、妻(42歳)、子(2歳)情報有。この人物、もしくはその兄弟では
    ないかと思う。Daidに値する日本の苗字と大藤(オオフジと読まず、ダイドーと読めば)。
    妻帯で渡航の上、メンバーの中、年齢が高いことから、大工の棟梁の可能性大。
    物語風に書かせて頂いた本文側に登場する棟梁とは、この人物を想定して書きました。
    ストーリー内の、ピストルの話は創作ですが、人物像はここから発しています。
  • 研究者の表現で宮大工ですが、厳密に言う宮大工とは別に、大掛かりな建造物に係る
    特別な知識を持ち合わせていた可能性有り。シュネルは、若松コロニーに城を建てるも
    可能な腕の者、つまり城郭建造経験者を連れ込んできていたのだろう。
彼の語学知識
英語、フランス語、スペイン語等
■裁判の通訳も行った経緯有り。■日本人移民の通訳にも尽力。
▲それらの情報
を残した人物
(研究者他)
■木村毅(明治の文化研究家)、■ビル・ホソカワ(1915年ワシントン生まれ、日系人。強制収容の
体験者。差別を題材とした著作多数。
■John E. Van Sant (日本と合衆国の繋がり、日系人のルーツ等について研究論文有)
子供1941
子供は全部で9人生まれた。そのうち6名が乳幼児期の死亡。(貧困が影響してることでしょう。
生き残った子供3名の内訳【■グラント、■ハリー、■クララ】
このファミリーは頑張って、後時代に偉人を輩出しています。
人種差別に対する
不屈の精神
■3名の子供【グラント、ハリー、クララ】は、
*半日本人、1/4黒人という状態。
*1/4インディオについては、生々しい事件はアメリカ開拓期にほぼ終わっている。
そのため、この頃は、強烈な排斥はなかったにせよ、明らかに差別視の対象。
ところが、彼らは実力で堂々と、非難されることなく生きてゆきます。
(現在の世なれば当たり前かもしれませんが、当時の渡世術なれば、ひたすら隠すか、婚姻や、
養子縁組などで傘下に避難したり、先代の国籍が可愛い我が子の将来に影響しないように、
なんらかの対処をした人は少なくないようです。)
■FBI召喚事件
増水国之助は1915年に死亡しているが、妻のミセス・キャリー・ウィルソン・Masumizuは
長生きしました。ところが、1941年にFBIに召喚されます。
その際、国之助死亡から既に27年も経過しているにも関わらず、彼女は断固、
国籍を変更してしまうことなく、この段階で、夫の国籍「日本」を保持していました。
どんなに風当たりがきつく、苦労を抱えようが、夫が日本人であった事を誇りにしていた。
この時彼女は85歳(John E. Van Sant による)
他子孫情報
増水の孫 George Elebeckは、サクラメント市で床屋さん経営。
John E. Van Sant によると、外見は既に日本人の血を全く感じない容姿であり、彼に話を
聞かない限り、知らずに通過してしまいそうな顔立ちだったが、思い出話として、祖父と
一緒に川へ魚釣りへ行った話を聞かせてくれた・・・とのこと。
上記George Elebeckには、上枠の木村毅氏も会っている。
思い出話

子孫の記憶
おけいについて
■安定期晩年と思われる話。上記の孫の話。国之助は安定した後は多少はギャンブルもやったらしい。
孫にとって、お婆さんがそれをとても嫌がっていた記憶有り。
■国之助はおけいさん生存中に既に自立。長男誕生の際、出産祝いにおけいさんが駆けつけた。
その数日後、彼女は死亡と聞いた。
写真の推測
写真を見て、彼を多分この人物と推測できる人物はあるが、はっきり特定できない。
対して、妻と子は、明らかにそれと解る写真有り。
立ち去った後も、ビアカンプ家の恩をを忘れず訪問していた可能性有り。
【増水国之助の情報が、他者に比べ、比較的多い理由】
・1969年、若松コロニー百年記念式典に係る新聞掲載の際、ご子孫が名乗り出た。ご子孫は、サクラメントで行われた
祝賀会などにもご出席。日本人の血を引くことを誇りに強くたくましく。素晴らしいファミリー。


73_二人のマツ:無念!絡んで不明確な「MATSU」と「MASU」
1_収穫物保存倉庫の建造について 、■2_おけいを最後まで看病した人物はどっち?


桜井松之助の愛称はMATSU。対して、増水国之助の愛称はKUNI。その為、本来MAがつく者としては、
増水ではなく、桜井を指す。ところが、なんといっても昔の話。その上、差別の嵐を蒙った在米日本人に、
つき、長らく埋もれていた為、ご子孫が語ってくれた話も、細い糸を手繰り寄せるようなもので、
判然としない要素は多々。その為、桜井のことを指すのか、それとも増水か、或るいは、もう一人別途、
マツがつく人物が居たのか誰も解らない点が幾つかある。残念だが仕方ない。
まずは、下記2点を整理してみました。

■1:フルーツ小屋(収穫物保存倉庫)の建造について:
  • ディアカンプ家のご子孫が語るには、建築設計に優れた能力を発揮して、当時の先祖が、とても
    感心して、高く評価していた人物が居るという。それが、そのおぼろな記憶によると「MATSU」。
    桜井松之助なのか、マツのつく別人か、案外、後に実績立証して素晴らしい建造物を創った
    「増水」のMASUなのか、解らないと言う。だが、長らくビアカンプ家に居たのは、桜井。
    彼は士分だが、城郭建造に係る知識を保持していた可能性も否定できない。また、「増水」は、
    比較的早く、この家から出て、自立するが、縁は続いていた様子。その為、ますます判然としない。
    桜井、増水の双方が、それぞれ関連知識と技術を保有していたとも考えられる。
    • 士分の桜井が城郭建造知識を保有していた場合、一件不思議に思えるが、ちなみに、
      他藩出身者ながら、箱館戦争で有名な五稜郭は、 武田斐三郎 が着手。それを思うと、桜井も、
      建築に係る知識があったとしても不思議ではない。
■2_おけいを最後まで看病した人物はどっち?
  • 天涯ディアカンプ家に仕えたのは桜井松之助。そして、最後に「おけい」の墓を建てたのも彼。
  • 増水国之助は、おけいが生きているうちに、若松コロニーまたは、ビアカンプ家を去っている。
    その裏付は、上記内容と一部情報が重複しますが、このとおり。
    • 【ご子孫の記憶から】増水の長男が生まれた時、おけいさんが出産祝いにベビー服を持って
      駆けつけ、その数日後、発熱または肺炎を悪化させて死亡したとの話を聞いたことがある
      とのご子孫の記憶話有り。
  • となると、最後まで側に居たのは、桜井松之助なのだが、複数の資料に、よく世話をしたのは、
    KUNI(=増水国之助)とある。出産祝い後の危篤を聞きつけ、あわてて今度は増水が急ぎビアカンプ
    家を尋ねたのだろうか?そのへんはご子孫もご存知ない範囲。
  • その為、 Sec.1 から、 Sec.8 に於ける流れ物語風には、微かに増水側に恋心があったとしても
    不自然ではないため、漂わせてみました。桜井は士分の為、本来ならば、婚姻は有り得ない身分。

  • 注:【以下は単なるミステリーの領域】

    ただ、ひとつ疑うなれば、少々、桜井氏に気になる点がある。彼はなぜか天涯独身の状態で鬼籍。
    武士社会の掟として身分の差もさることながら、キリスト教の教えから、もしも桜井が日本側に
    妻子を残したままの宿命なれば、婚姻は成り立たない。
    武士社会では、身分が違う者を娶る時、色々柵が面倒な場合、実質妻であっても、ややっこしいから、
    妾にしてしまえば事片付く。ところが、彼らの置かれるこの世界はキリスト教だから、それは駄目。

    【気になる二人の新婚風男女写真】

    しかし、気になる写真がある。人物名は、
    判定されていないが、三十代と思える男性が若い日本女性と。他の夫婦はいかにも夫婦らしく、
    どっしりと両者に安定感の漂う風情だが、この人物だけは、カチンカチンに固まっている。
    おそらく写真師の指示でとったポーズなのだろうが、腕を組んでいる。それが、可笑しい程に緊張して
    カタマッている。新婚か?人それぞれだから、まあ、30だろうが、40だろうが緊張するタイプの人は
    確かにあるが、彼は別の単独写真もあり、一人で映っている写真は、洋装ながら、いかにも武士
    と一目瞭然の堂々姿。しかもこの写真は顔からして、新婚風の写真より数年若い頃。

    それにしても、この女性は誰だろうか?けっして病弱そうには見えないし、( ここに気なる情報有
    洋服を着ている。ビアカンプ家のご子孫の記憶発言から、おけいさんは、始終着物で、洋服を
    着なかったとある点から、矛盾する為、そう考えると、おけいさんの確率はほとんどない。
    だが、それが、おけいさんでなかったとしたら、誰か30代位の人物が、この地で日本の女性を妻として
    迎えたことになる。追って、女性がコロニー、またはビアカンプ家に日本からやって来た話は、
    残念ながら知らない。シュネルの長女が成長してから、密かにやってきた確率はゼロではないが、
    それもほとんど空想に近い程の微確率。しかも、長女が婚姻可能になる頃、もしも写真の主が
    桜井氏なれば、彼は40代後半になってしまう。その為、まずありえない。

    尚、この話については、現在頁のTOP側、 No.69;桜井氏枠 もご覧下さい。
    他写真に係る諸々のミステリーについては、現在シリーズ最後に補足しようと思っています。

NEXT頁は、浪漫は後回しにして、まずは、若松コロニー概要、各人物、各事象説明などです。


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写真等、素材については頁下表示





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