若松コロニーとシュネル資料編_No.14

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シュネルと若松コロニー:アカバネシュネルの謎



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シュネルと若松コロニーSERIES詳細編_No.14
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■各人物、資料編_No.5(=若松コロニーSERIES_No.14)
The Wakamatsu Colony: Gold Hill (会津人のカリフォルニア)

Sec.1 <・・・< Sec.12 Sec.13 Sec.14:各人物【資料編_No.6】(現在頁) Sec.15 ・・
86_売却打診とバタビア軌跡 からシュネル紐解くカードを拾う!
バタビア時代のインドネシアに於けるシュネルの軌跡と、
おっと!会津藩主:松平容保の「対プロシア、蝦夷地売却打診!」
  • サンフランシスコが、イエナ・ブエナだった頃のプロシア人とスイス人考察序章
  • ビアカンプ家メンバー :カリフォルニア三代家族詳細
  • ビアカンプ家の子孫の手紙から蘇った世界
    ■82_1:ビアカンプ家:プロシア系の人々とカリフォルニア開拓時代
    ■82_2:手紙の発信者と受領者の関係と、veerkamp家の先祖
    ■82_3:手紙を鍵に、発掘したVeerkamp家の「そのまた昔世代」
    ■82_4:【注】複数のデータを並行考慮材料に
    ・プロシア系の人々とカリフォルニア開拓時代

    前々頁
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  1. サンフランシスコが、イエナ・ブエナだった頃のプロシア人とスイス人
    _サクラメント:カリフォルニアのプロシア人とスイス人
    • サクラメント:カリフォルニアのプロシア人とスイス人
    • サクラメント創始者:ジョン・オーガスト・サッターの軌跡から、
      シュネルの父世代を追う鍵
  2. もうひとつの史実「涙のネイディブアメリカン」
  3. ジョンサッターがくれた「シュネル謎解きの鍵」

    ▼現在頁
  4. 売却打診とバタビア軌跡 からシュネル紐解くカードを拾う!
    バタビア時代のインドネシアに於けるシュネルの軌跡と、おっと!会津藩主:松平容保の
    「対プロシア、蝦夷地売却打診!」

86_1_会津、米沢両藩に於ける「対プロシア、蝦夷地売却打診」概要

幕末時、蝦夷地は松前藩だけではなく、幕命で、奥州の諸藩に分割されて各諸領地を治めるべき、
指示が出されていました。それらのひとつとして、会津、庄内の両藩も分領地を持つ当該藩。
両藩は当時、北方警備の為、幕府から根室(会津)や留萌(庄内)などに領地を得ていた。
  • 参考:会津が根室方面を治めていた痕跡が解る関連SERIES:
    (表示画面下側枠:雑賀孫六郎枠近辺表記有)
    立待岬、二人の会津の男
  • 参考:庄内が留萌方面を治めていた痕跡が解る関連人としては、「松本十郎(1839~1916)」他。
    松本は道内知識を評価され、明治の世、開拓使で活躍しますが、ついに辞表叩いて消え去ります。
    この人物の少年時(十代半ば)の関連文書で、当時の蝦夷留萌方面の様子が解りやすいと思います。
    この頃、彼は父について蝦夷在住。

戊辰突入にあたって、資金策として、会津、庄内の両藩は、この分領地を、プロシアに対して、
売却打診した動きがあったことが判明しています。尚、これらの内容は、日本には一切記録が
存在しなかったことから、研究者の発見は画期的。

これは、スイス在住の「Yuriko Wild Kawara」さんの研究によって記載された内容が発端。それは、
ドイツの文書館で確認されたこと。またそれらに対して研究発表は、東大史料編纂所の箱石大准教授他。

ここで裏で動いたのは、当然のごとく、シュネル。
シュネルは、まずプロシアから両藩が売却資金を得て、活性化させ、その上、サイゴンの外人部隊を
呼び寄せ、奥羽越列藩同盟軍を応援しようと奔走しています。

結果としては、プロシアが拒否。この案は没に終わりますが、これは、画期的な動きとして
注目すべき事柄であることと、付随情報から、シュネルの情報幅が広がります。
シュネル紐解くお材料として使える欠片にはなりそうです。

尚、シュネルは、ケースバイケースで、いろんな国籍を名乗っており、時に、プロシア、フランス、
オランダといった具合で、今日も混迷。その中の一事象として、
  • シュネル保持する港:奥州の武器&軍艦等の購入保管の要地
    • 新潟港の勝楽寺が根拠地
    • また、この港を利用して、サイゴンの外人部隊招聘計画が実行に移された場合、
      ここから彼らを奥州列藩側の強い味方として投入しようと考えました。
    • この要塞は、明治政府に取り上げられてしまいますが、ここには、相当数の武器弾薬
      が収容されていました。この時、奪われまいと戦い、命を落とした米沢藩の色部長久の
      件は、こちらのバナーからどうぞ。
      米沢藩:甘糟継成とシュネル
      また、庄内藩関係の参考はこちら▼

      シュネルと庄内藩『本間光美&本間耕曹』
    • この武器弾薬販売額は、おおよそ 総額は14万ドル超 と言われています。

まずは、その概要。
86_2_ドイツの国立軍事文書館にあった「プロシア書簡」の証拠
ドイツの国立軍事文書館に関連文書が 3通あった。
★宰相ビスマルク、★ロイセン駐日代理公使フォン・ブラント、★海相(=アルブレヒト・フォン・ローン )
1.
1868/07/31
駐日代理公使がプロイセン宰相に書簡。
  • 手紙の内容概略:
    「会津、庄内両藩から北海道の領地を売却したいとの相談を受けてます。
    ご検討の上、ご返信下さい。交渉は長引かせるは可能です。どの当事者も困窮状況。
    優位な条件を引き出せることでしょう。」
  • 【この手紙は船便】:宰相ビスマルクの返答は、下枠3番の10月に書かれていることから、
    手紙到着まで 約2ヶ月 かかった様子
2.
1868/10/08
新政府軍、会津若松城の攻撃開始  
3.
宰相(=オットー・フォン・ビスマルク) が海相に通知。
・手紙の内容概略:「軍港の候補になるが、断るつもりだ」
2と3
考察
●皮肉にも、会津若松城が敵に突入された日と、宰相ビスマルクが返信を書いた日は同じ日。
困窮状況にある両藩のニーズスピードに全然追いついていない。
●宰相ビスマルクは、旧幕府側の応援となる危険性を回避。欧米列強間の協調と戦争への中立姿勢。
4.
1868/10/18
海相(=アルブレヒト・フォン・ローン ) が宰相に返信。
・手紙の内容概略:
「日本の混迷が続けば領地獲得を考慮すべきだ。その上、軍港確保は重要だ。」
4の
考察
●戦争の展開がこんなに悲壮に早いとは、プロシアは予測していなかった様子明確。
●海相としては、幕軍応援したいわけではないが、まずは軍港と、領地獲得は善策と考えていた
ことも解る。
5.
1868/11/06
会津藩降伏
6.
1868/11/10
庄内藩降伏
スイス在住の ユリコ・ビルト・カワラ:Yuriko Wild Kawara さんとは・・・
  • 86歳:2011/02/07時点:朝日新聞掲載:86歳ということは1925年生まれ位
  • 曽祖父は、会津藩の奉行。戊辰戦争で戦死
  • その曽祖父は、シュネルと親交があったという。
カワラさん(ユリコ・ビルト・カワラ:Yuriko Wild Kawara)
の曽祖父を探してみました。
会津戦争で落命した家老の内、KAWARA当該とは、恐らくこの人物間違いないと思います。


河原善左衛門政良 :(1827~1868/10/08) 名:政良。会津藩国産奉行。会津戦争で戦死。

(▲発音はカワハラでなく、カワラ=KAWARA)
  • 河原善左衛門政良 について:初めに:
    • 国産奉行は確実だが、家老か否かについて
      • Yuriko Wild Kawaraさんは家老と認識しており、また、奥州各藩の連絡協議に係る
        旧資料などに於いても、家老と記載されているものは多い。
      • ところが、旧来会津では家老になれる家を硬く限定。しかし幕末混乱時に多少旧規則
        に乱れが生じているようだ。実力能力は会津に限らず。正式な家老一覧として河原は探し難いが、上記のとおり資料としては、各所に家老として残る。これは、幕末混乱緩和
        の角度も考えられるが、河原善左衛門政良は、ひとたび恭順説を提唱した際、干されて
        いる期間があり、藩内の反対分子に命を狙われたこともある。その為、徹底抗戦として藩論が確定された段階で一覧から抜かれたままだったかもしれない。
      • 勤務場所:人参役場(国産奉行の詰所)
        • 人参役場 :収益に結びつく薬草園などの開発を手掛ける施設:
          この人参は主に薬としての高麗人参。門田地区を中心に「御薬園」栽培。
          長崎から清国に輸出。利益は莫大。会津藩財政を支えた産物。
          ■国産奉行:現代でいえば、 農林部門の管理業務のような要素有り。その上、
          会津の大財布=重要職。
          【以下▼後年の倅: 勝治の文章
          ・・戦時用に供する金、銀、銅、鉄、山塩の採掘を奨励し、 スネル等と 数々
          御蔵入、山三郷、石ヶ森辺を巡廻せり。又家に在りし魚網の鉛、銅壷、錫の
          徳利、銅の薬缶茶釜の如きは弾丸鋳造の為め尽く上納せりとぞ。
      • 自宅の所在:本一之丁

  • 善左衛門政良の戦死の様子
    • 1868/10/08:会津戦争中、滝沢村八幡山の戦闘中に戦死。 享年42歳。
      (上記10/8とは、新政府軍、会津若松城の攻撃開始の日。奮戦死。尚、この戦で同一日に、
      下記長男、勝太郎、及び、善左衛門政良の弟、岩次郎(39歳)も同様、及び大勢の部下も戦死。
      【この時犠牲になった実弟と部下】
      • 弟岩次郎、大野英馬、芥川大助、糸川庫次等
        この時の描写:輩の十字火を浴び飛弾雨の如く、皆な倒る。
      • 【存命者松田俊蔵と長男、勝太郎の最期】
        幸にして免がれし者は城を指て背進す。 時に勝太郎は負傷せしも未だ死せず、
        松田俊蔵は勝太郎を助けて其肩に掛け城に連れ行かんとせしも、
        退くとを欲せざれば中村迄連れ来り、此処にて其首を介錯せり。
        • この様子は、二男の勝治が、後に聞き知る。大人に比べると遥かに小さかった兄の最期を
          永らく気にしていた。 お兄ちゃんの思い出
          尚、上記の松田俊蔵は幸い生き延び、北斗南送り団の中、五戸村在住まで確認はできた。

    • この防戦隊は、はじめから防戦=殉死覚悟【その理由について:下項目の「思想枠」ご参照】
      • (残された話=決死の盃):夜、部下の将士を集め酒を振舞い、決死の覚悟を述べ、
        各人に対して、命を自分に預けてくれるよう依頼。皆が了解。
    • 墓:福島県会津若松市門田町大窪山墓地内の河原家墓地。霊号は政良神霊。

  • ■善左衛門政良の父:河原勘兵衛政明(130石)。善左衛門政良は、その長男。
    ■善左衛門政良の母:菊子(会津戦争時、篭城前に自刃。嫁のあさ子が介錯。場所は石塚観音。)
    ■善左衛門政良の弟: 岩次郎
    ■善左衛門政良の妻: 河原あさ子 (1835~1874/04/02:享年39歳)
    • 原源右衛門俊秀 (同じく会津藩士)の娘。入嫁は1853(嘉永6)年。
      • 原源右衛門俊秀は、鳥羽伏見にて落命。享年56歳。大阪の一心寺には、鳥羽伏見死亡
        会津藩士の墓があるが、情報が散在状態にあったそれらの墓を改め、碑の建立などの
        作業も会津出身者や幕臣出身者によって後年に行われているが、その中にも、
        源右衛門俊秀にとっての孫、河原勝治の名を見出せる。
    • あさ子は原家の娘であることと、姑と我が子の介錯を為していること:剣術可能の腕前。
      この人物は、この後、自分も戦死するつもりだったようだ。容保と照姫に止められた話
      が残る。(尚、原家の女性は、剣術に優れ実際戦死した者が居る。原五郎の母姉妹他)
      墓は若松大窪山(会津若松市門田町青木の善龍寺裏山)
    • 河原あさ子の名前について:情報は二種類有。あさ子(アサ)と、やす子。改名に係る資料は
      発見できてないが、嫁いだ先で名を改めた女性は、かなり多い為、双方留意。

    ■善左衛門政良の子:下記二男一女。
    勝太郎 (長男:父、叔父と同様会津戦争中に戦死)、
    勝治、(無事明治を生きる▼)
    国子 (会津戦争時、篭城前に自刃決意の姑、菊子と共に、あさ子が我が子国子を介錯。)
    • 生き残った子は勝治のみ。
      その為、 勝治は、ユリコ・ビルト・カワラ(Yuriko Wild Kawara)さんの祖父。
      ■勝治の残した文章の中にも、確かに、シュネルとの結びつきは記載されている。
      (上枠、人参役場、国産奉行に係る解説行ご参照。)
      尚、河原勝治は、「思い出」など、当時の事柄を文章に残している人物。
      河原勝治については、こちらの頁に詳細有

  • 河原善左衛門政良(本人)の役&任務
    • 【奥州戦争突入前の活躍の場は、主に 京都
      1862年(文久2年)松平容保が京都守護職就任時、公用方として上京。
      京都では学校奉行副官、 別戦隊副長 。その後、 公事奉行 に昇格。
      戊辰突入による会津帰国後は 国産奉行

  • 河原善左衛門政良(本人)の思想
    • 本来、本音は恭順派:(但し、薩摩寄りでもなく、尊王でもない。勝ち目のない争いに
      血を流すは懸命でないと判断していた。
    • 大政奉還後、鳥羽・伏見の抗戦を首謀者提示の上謝罪恭順説提唱。
      (徹底抗戦派に暗殺されそうになったこともある。)しかし、藩主は拒否。
    • 会津に帰藩後、他家老と会談の上、和平工作に動くが実らず、藩主の意向を汲んで
      参戦散華。

調べた結果
まとめ
(Yuriko Wild Kawara) さんの曽祖父= 河原善左衛門政良
(Yuriko Wild Kawara) さんの祖父= 河原勝治
カワラさんの調査で兄弟の出自が判明と表記された内容

【表記された内容】
  • カワラさんの調査で兄弟の出自が判明。
    プロイセンの生まれで、父の仕事の都合でオランダの植民地だったインドネシアの
    バタヴィアで育ち、開港直後に横浜にやってきていた。

上記内容は、幸い、国勢調査などから調べて得た当サイト情報( 詳しくは、こちらの頁 )と
合致しました。但し、願わくは、ついでにシュネルの父親の職業詳細と、生没や
バタヴィアでの父の行動も是非知りたいところでした!残念!

■実は、その理由はふたつあります。
  • シュネルが行方不明になった後、若松コロニーを買い上げ、職員を雇い救って
    くれた隣家ビアカンプ家のご先祖と、シュネル家のご先祖に、契り、または、繋がり
    があったかに思える節が多い。
  • シュネルを取り巻くスイス人との縁、これは、横浜に発端ではなく、それ以前、
    ヨーロッパ時代の先祖まで遡らなくとも、少なくとも、バタヴィア時代ではなかろうかと
    思える節も多い。
  • 関連頁1 関連頁2

専門家の視点は、「売却打診」にウェイトが高かったようです。残念!!

当初、恭順を適策と考えた家老達

会津容保使者:(梶原平馬、 伊藤左大夫 、河原善左衛門、土屋宗太郎、山田貞助

梶原平馬に随行して、仙台・米沢藩の家老らと会談


シュネルが会津の軍事顧問に抱えられて、藩主に優遇されたいきさつ

■シュネル(兄)ジョン・ヘンリー・シュネルをスカウトしてきて、藩主、松平容保に引き合わせたのは、
会津藩士:梶原平馬。上記のとおり、梶原平馬は隣接諸藩と頻繁に会談している。
長岡藩に取引の或るシュネル(弟)の存在を気にしていた。武器を売るだけでなく、
砲術指導もしてもらえている。

■その結果、弟側、エドワードの紹介で会津にやってきたのが、兄側:ジョン・ヘンリー・シュネル。
藩主、松平容保は、優遇。和名、「平松武兵衛」を与え、屋敷も与え、
妻(会津藩士の娘といわれる)を手配で夫婦段取り迄。

・・・
しかし、ここにいたる以前の軌跡として考えられるルートにこんなエピソード。
梶原平馬に対して、便宜をはからいシュネル弟に話を持ちかけたのは、いうまでもなく、
長岡藩「河井継之助」。ところが、その前の段階。

長岡藩士「鬼頭正路」が後に回想として語った内容のひとこま。
  • 長岡藩は武器弾薬に欠乏して、会津に相談に行こうと、鬼頭は会津の水原陣屋へ。
    ところが、会津も欠乏。それどころでなかった。むしろ懇願された。貴藩にシュネルという男が
    大層活躍しているそうな。紹介してもらえぬか?
その為、鬼頭が河井に報告して、段取りがまとまったと考えられる。

この時の鬼頭は他にも驚きの体験。初対面でアタックしたシュネルは、大量の武器を担保無しに、
即座に与えてくれた。鬼頭の発言「私は河井の知人だ。」たった一言で信じてもらえて驚愕した。
この後の話は、このへん からどうぞ。

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文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示
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