村橋久成,箱館戦争_薩摩の死角_No.1

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薩摩の「死角」に填め込まれた二人の男達

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薩摩の「死角」に填め込まれた二人の男達_No.1:薩摩「 村橋久成 (=直衛)」



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薩摩の「死角」に填め込まれた二人の男達
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薩摩の「死角」に填め込まれた二人の男達&因縁の男達_No.1
「池田次郎兵衛」「 村橋久成 (=直衛)」


明治二十五年十月、新聞「日本」掲載
村橋久成 」・・英士の末路


人々の目は、この記事に釘付けになった。

・・・・ただならぬ気配である。
  • 調所広丈、堀基、小牧昌業諸氏と肩を比べて、奉任官たりしが、
    氏は其後何事に感じてや

    不図遁世の志を抱き朋友親族の切に留むるをも聴かで
    官を捨てて飄然行脚の身となり、千山万水を跋渉し・・・
    行方も知れずなりしとのことなりしが・・・


英士の末路

富国強兵、立身出世・・・突き進む明治。

幕府時代、薩摩藩は、国禁を犯し
密かに留学生を送った。
彼はその薩摩に選び抜かれた
人も羨む「典型的なエリート」である。

官に奉職。目覚しい功績を収め
絶対的な地位が確立されていた。

その彼がなぜ?

突如、官を脱した。
・・愛する家族も捨て、
行脚の旅に
旅路の果ては、恐るべく結末。
明治25年9月28日
雑踏に汚れた神戸の街角、
・・それは、あまりにも、無残な姿だった。

謎が謎を呼んだ・・・事件の経緯


実は、この記事、ここ数ヶ月、各新聞社において、数回に渡り掲載された記事のクライマックスだった。

■経緯1_発端_明治25年9月25日

神戸士葺合村六軒道、偶然巡回中の巡査が奇妙な光景に遭遇した。
町は、残暑厳しい折、夕方だった。
道の片隅に、シャツ一枚の異様な姿の男性が倒れている。追剥の輩の仕業か?
声をかけても返答はない。脱水症状で、もはやだめか?
しかし、額に手を当てると相当な高熱である。まだ命は大丈夫だ。

思い切って、大声で呼びかけ、抱き起こした。「名は何と?何れのものか?」
途切れ途切れながら、どうにか名乗った。
はじめ、別の名を答えた。しかし、観念したように回答し直すと同時に、本籍と共に、
妻と息子の名を語った。

病院に運ばれたが、手遅れだった。それ以上、何も語ることなく、三日後一人の男は世を去った。

■経緯2_明治25年10月12日

神戸又新日報に尋ね人、死亡広告が載った。
男の語った鹿児島には、当該人物が見つからなかったのだ。

行き倒れの男の身内探しか・・・人々の反応はその程度であった。

■経緯3_明治25年10月18日
上記、英士の末路と題して、謎の死を遂げたこの人物について、大々的に報道された。


人々は驚愕した。只者ではない。この人物。

死を悼み寄せられる弔文の主は、政府の大物である。
黒田清隆も慌て、仮埋葬された遺体を引取り、要人を集め、葬儀を行った。

村橋久成とは・・・


村橋久成 (=直衛)_1840‐1892 (天保11年~明治25年)享年53歳

薩摩(さつま)藩士。薩摩藩加治木島津一門の「村橋」家の長男として生まれる。
薩摩藩が国禁を犯してイギリスへ派遣した留学生19人の一人。
帰国後、時は戊辰戦争末期、箱館戦争に際し、青森口総督府参謀、黒田の配下、軍監の地位。
田島圭蔵と同格。相当な上級各である。功績も目覚しい。

函館戦争終結交渉に際し、会津遊撃隊長諏訪常吉の置手紙を手に、
高松凌雲の病院へ赴き、降伏を受託させた。
箱館戦争のみならず、つまり戊辰戦争自体を完全に終結させたのは、まさしく彼の実績である。

維新成立後、新政府官吏として、開拓使在籍。北海道開拓事業の指導にあたる。
函館七飯のガルトネル租借問題解決 の上、農業試験場に切り替え稼動させる。
札幌では屯田兵入植システム確立。おなじみの札幌ビールの原型「官営のビール工場」
を我が国に初にスタートさせた。


国内初の試みにて、苦労は並大抵ではなかった。しかし、幸い、英国留学経験のある彼、
深い知性と教養が役立った。研究に研究を重ね、ついに、夢は形となって実現した。
彼の提案したこの官営工場のシンボルマークは、「五稜の星」である。

認可された。星型、なるほど悪くない。栄光のイメージだ。黒田達は皆、すっかり気に入り、
GO!サインを出した。

実のところ、村橋には、彼らに対しては黙して、語らず・・・特有の思惑があったのだ。
「五稜の星」とは・・・
五稜郭の形をちょっとだけ・・・思い出して頂きたく・・・
goryou.jpg

なんとも、不思議なことに、
函館戦争終結後、最大の功績を収めた彼・・・であるにもかかわらず、

維新後、彼の任務は地元鹿児島の会計局。いうなれば、ごく平凡な出納係である。
別に、彼ほどの人物がそこに居なければならぬ理由はどこにもない。

そもそも・・・このへんから既に、話は「不自然」だったのだ。

北海道開拓使、着任

しかし、やっと声がかかった。
北海道開拓使の仕事である。といっても、責任が重い重労働なわりに
地位はというと、なんと皮肉なことに榎本、荒井達より低かった。

しかし、或る意味で面白いことに、愚痴もこぼさず、
この人物は、はつらつと、その任務を消化した。

なぜだろうか?その姿はまさに、輝いている。黒田にとっては、多少不気味でもあった。

函館七飯の榎本時代の汚点ともいうべくガルトネル租借問題を解決
農業試験場に切り替え稼動させ、札幌では屯田兵入植システムを確立させた。


■余談ですが、生真面目な彼はどうも妬みを食らいやすいようだ。この屯田兵村設立に於いても
下らぬ横槍を、思わぬ角度から入れられた形跡有。
「村橋は旧幕府の足軽共を集めて、なにやら企んでいる!」・・・と足を引っ張られた。
実に下らない。恐怖の寒冷地、屯田兵と聞こえがよくとも、早い話、貧困覚悟の土百姓。
当然、足軽ラインが出揃う、ただそれだけのことなのに、実際、このポジション、それで失う。


しかし、それでも額に汗して、コツコツ頑張った。

屯田兵志願者達とは、禄を失った下級武士も、もちろんだが、
多くは、あの時、賊軍の汚名を着せられ、苦渋の日々を送り続けた彼らである。

彼らが、新たな人生をこの地に架けて入植しているのだ。


村橋は、めぐりあった。
心の中の深い傷。償いの架け橋に手が届く。
可能性を発掘しよう。彼らの為に・・・ではない。
自分自身の悲しみのために・・・。

可能性を喜びに変えるまで、絶対に屈しない。
それは、まさしくバイタリティーになって輝いた。

突如滾らせた「燃える闘志」・・・ビール工場スタート

今度は、国内初の試み、ビールの醸造所設立せよという命が下った。

当初、このプランは試験的に東京近郊で全て行い、最終的に工場を
設立する段階で北海道に・・・という話だった。

黙々と大人しく命に従ってきたこの男が、めずらしくガルガル!相当な剣幕で反対案を提じた。
この勢いには、皆引いた。

「北海道で稼動する内容を東京でやってどうする。はじめから
北海道でやらなくては意味がないではないか。
環境がちがいすぎる、気候も何もかも異なる。予想外のマイナス要因も否めない。」

周囲は驚いたが、彼の頭脳ならではの筋が通っている。

建白の訂正案とは、本来他に聞いたことのない話ではあるが、実際、
この場合、ついに異例的に「建白の訂正建白」が成り立ち

無事、この一件、
「全て最初から、最期まで、北海道で行う」
という形に・・・どうにか、漕ぎ着けた


笑った。笑った。ずっと笑わなかったこの男が、
・・・ついに、笑った。微笑んだ。


幾人かの影の男達は、その傍らで、嬉し泣きの涙に濡れていた。






村橋は・・・
頑張った。とにかく頑張った。

なんといっても国内で初の試みである。
技術者、中川清兵衛他も呼び寄せてはいるものの、
次から次へとアクシデントが続き、事ははかどらないものである。

しかし、この一件任されるにあたって、
彼自身がメンバーを決定し、引き連れてきていた。
ビールの他、■葡萄酒、■養蚕&製糸、■鮭鱒孵化など、
国を富まし、北の地を豊かに・・・
多角的な視野で、ユニークなメンバーを引っ張ってきた。

彼の構想の中、
マネジメントサイクルは既に、歯車が動き始めていた。

メンバーの中、元新撰組隊士もいる。
安部十郎は葡萄酒担当。足立林太郎(民治)は養蚕の指導。
加納鷲雄(通広)には勧業会計を仕切らせる。
(上記3名について追記)

といっても、やはりメインはこのビール工場。
ビールの成功、その可否で万事は決まる。


頑張った。頑張った。寝ても覚めても頑張った。
転んでも起きた。
・・・ついに、苦労が実を結び、大成功!
1876年(明治9年)9月23日開業

本場ドイツ産となんら変らぬ絶妙な味と、絶賛のスタートとなった。

いける、いける、これで・・・いける!
「五稜星マーク」 のシンボル提示に関しては、既に黒田達に、GO!サインをもらっている。

寝る間も惜しみ、愚痴ひとつこぼさず、身体を張ってついてきてくれた部下達、

手に手を取り合って・・大の男達が、嬉々として少年のように、はしゃぎあった。

五稜郭に泣いた男達よ、
・・しかし、今度は「五稜の星」に輝こうではないか!


・・・村橋の心の傷は、やっと、これで、消えた。


上記3名 (安部十郎、足立林太郎、加納鷲雄)について追記

村橋から見ると、彼らは「もと新撰組」に他ならず、「苦しい過去に苛まれた人々にも幸有れ!」の意もあって引っ張って
きたわけですが、新撰組ファンから見ると、彼らは新撰組というよりも、憎い裏切り者と感じるブレーン。

あの「高円寺党」出身者。党首、伊東甲子太郎暗殺の件以来、新撰組に恨みを持って、復讐に燃えている彼らは、
早々に新政府に仕えているわけですが、箱館戦争終結後にも、潜伏していた大石鍬次郎を捕縛して
斬首に持ち込んだり、他にも各所で、密かに残党狩に燃えた。

確かに、釈放後、早々に謎の死を遂げた元新撰組隊士は多い。また、折角弁天台場で降伏して
生き残った横倉甚五郎の処刑にも、彼らの意思が強く介入したと見られている。

上記3人は、伊東甲子太郎が暗殺された後、早々に薩長に駆け込み、一種「飼い犬」。
偽官軍の濡れ衣被されて抹殺された 赤報隊 の犠牲者「相楽総三」同様、彼らもその赤報隊の別の
ブレーンとして走らされていたわけだが、際どいところだった。

彼ら3人も「相楽総三」同様に、突如捕縛され、抹殺されるところ、加納鷲雄が猛烈に暴れ
「裏切り者!騙したな!」と抵抗しているところ、「何者かの力」で救済が入り、救われた。
すれすれのところで、命拾いした。

上記、「何者かの力」とは薩摩の有力者の誰かであるのは勿論なのだが、それが村橋本人であったか
どうかは不明だが、ここに、わざわざ彼らを引っ張り込んできたことから、無関係ではなさそうだ。

心の傷・・・「秘めたる胸の内」


ずっと、心の中で、己を悔いても悔いても、やまぬ苦渋の思い。

あの時、箱館戦争終結交渉の際、赴いた高松凌雲の病院
交渉に赴いた時、すでに瀕死の床にあった「諏訪」の哀れな姿、

そして、一日ちがいで食い止めることができなかった「高龍寺分院」の惨劇。
傷を負い逃げるに逃げれぬ哀れな患者達は、官軍が放った炎の中、皆、生きながらにして、焼かれて死んだ。

患者を救いたい一心で、門前まで飛び出し、両手を広げ、
扉前に立ちはだかって、大声で叫んだ病院掛の青年。
「撃ってはならぬ。ここは病院だ。ここには、傷を負った患者しかおらぬ。」

館山藩士、木下晦蔵は武士にありながら、あえて丸腰だった。無抵抗の意思を表明していた。

にもかかわらず、官軍の一斉射撃は容赦なく、一人の若者の命を奪った。
やがて、寺は炎に包まれた。呻き苦しむ断末魔の患者達の声。それは、市民の耳にも聞こえていた。


蝦夷梅雨_開拓使は・・・

明治14年の4月

この北国にも、梅雨らしき時期とは・・・
はて?もともとあったのだろうか?
一般常識的には、これを梅雨と呼ぶには早すぎる時期だが、
寝ても覚めても、晴れないうっとうしい毎日が続いていた。

例年ならば、この時期、やっと雪解け時期の
泥道から解放されて、
通勤時間帯の苦痛がやわらぐ頃なのだ。
この国の春実感は、4月からである。
ところが、今年の春は、さっぱり、
陽光にはお目見え叶わず仕舞いになりそうだ。

なぜだか毎日、じとじと、鬱陶しい雨ばかり。
3月の雨雪が、4月には、ただそのまま溶けて、
薄ら寒い雨になって、
じわじわと、いつまでも「冬の余韻」を引きずっている。


開拓使出仕以来、毎日休む間もなく、
馬車馬のごとく働き続けた村橋。
しかし、彼は今、机上に頬杖をつき、
庁舎の一室、曇ガラスを見つめていた。

欲した覚えはないが、地位はいつの間にやら上昇。権少書記官である。
しかし、今の彼にとって、そんなことは全く、どうでもよかった。

新天地、北海道。明治早々、根腐れが発生していた。
そして今、それは蔓延状態だ。


激寒、重労働、食物不足・・・しかし、これらの苦渋を乗り越え、
血腥い争い、過去の日々に終止符を打つために、この地に架けてやってきた人々。

しかし、開墾のためにやってきた屯田兵も、九州方面などで順次発生する下級武士の氾濫鎮圧に
徴兵され、犠牲者が発生した。結局、もとの木阿弥、戦地に命を埋没するはめになった。

しかも、同じく下級武士の立場、同情すべき仲間を殺しにゆく・・・むしろ卑劣な兵にされてしまう。欲せざる任務。

時代が動いてしまっている。もはや武士の情けは許されない。家族の食い扶持の為、下賎に成り下がる
自己嫌悪の職務。・・・しかし、情に駆られ臆すれば、己が命を失う。

わざわざ、最果ての北国、開墾を志し、北海道にやってきた屯田兵が
哀れ、九州の地、自らを殺戮の人種に貶め、そして、戦場に命を落とした。


泥濘、泥炭地



明治は、ぐしゃぐしゃだった。

やみくもに猛進・・そこまでは、まずは片目瞑って許せた。
しかし、これは話がちがう。


それは、道なき道。鬱蒼とした原生林。開墾のため、
農耕馬に木を曳かせ、進もうとすれば、たちまち泥濘(ぬかるみ)
人も馬も、際限なく、足元が埋没してゆく。
農に恵みをもたらすことのない、農作不可能の異土の土。泥炭地。

明治7年「樺太千島交換条約」。政府は、樺太アイヌの対雁強制移住に 踏み切った。
てこでも動かぬ者には銃を押し当て強制した。

怒りに震えたアイヌの長老は怒りの余り心臓発作を起こし、喀血して倒れ死んだ。
何度、許して、何度、信じ直してあげても、またしても、こうして裏切られるからだ。

慣れぬ土地環境、慣れぬ農業に半強要されたアイヌの人々に、犠牲者の数は多大だった。

北海道の地が、華族を対象に、安く払い下げになった。
お金持ちにとっては、ただ同然の価格である。これは、地主と小作人の関係を強化させることとなり、
ロシアの農奴同然の事態を招く。

アイヌの人々をこよなく愛した開拓使の松本十郎は、再三政府に抗議。
しかし、敗れて明治9年、絶望して官を退いた。

一方、村橋にとっては祖国鹿児島。
明治10年、しまいに、西郷隆盛まで、西南の役で散っている。

様々な思いを振り切って、ひたすら、このビール工場の繁栄に全てを託した村橋だった。
心鬼にして、己を叱咤して、極力、雑念を払って自職に専念してきたのだ。


ここで稼動すれば、必ず、天は彼らを救うであろう。
思いは祈りに近かった。そう信じてきたのだった。
・・・
しかし、もはや限界だった。


蝦夷の「梅雨明け」が無かった・・・その年



明治14年、4月・・・

開拓使は明治15年で廃止予定の性質であり、それ以後には県庁設定するためのものだった。

しかし、この年、現職官に着座している皆の姿。見苦しい振る舞い。思わず時折、吐き気が
するほどだった。
暴利、私利、皆、眼中にはそれしか、ないのだろうか?

村橋達がコツコツ頑張って作りあげた官営の施設。工場も農場も全て。
それは、あくまで、不毛地帯と呼ばれたこの地に生命の息吹を与え、ここに生きる人々に、
生の歯車を与えるために。

開拓使とは、そもそも、何だったのだろうか?

官営設備は全て民間に払い下げになる。土地同様に、金持ちにとっては、破格の安値である。

開拓使の幹部は、暴利を貪る私生活を思い描き、辞職の準備をしている。
欲に目が眩んで、あっち、こっち、画策している。その姿は、見苦しい。実に不愉快だった。

官営ビール工場も、その対象になった。よりにもよって、むしゃぶりついた男達は、同郷人。
黒田清隆の手招きで、五代友厚他、元薩摩藩士の不穏な動きがまるわかりだった。

・・・・
つくづく嫌気がさした。もう懲り懲りである。

絶望と幻滅


なぜだ?
なぜ、また同じことを、しようとするのだろうか。



(追憶:かつてあの時、箱館戦争)


明治2年5月11日、敗色濃厚となった幕軍。
その時、 高松凌雲の病院に、突如現れた黒装束の男達
官軍の恩大将、薩摩の者だった。

そのうち、名乗った者は、この村橋と、 池田 だけだったのだ。

今思えば、確かにその時、この男は確実に、こう言った。

「我らは、 諏訪常吉 殿の見舞い に参った者じゃ。」
・・・・・(▲真下のバナーに特集有)

村橋は、彼らの命を救いたかった。諦め切れなかったのである。

もう一度、彼が登場した場面がある。偽名を使った。
中山良蔵と名乗り、黒田の書を持ち、大胆にも五稜郭に乗り込んだのである。
いくらすすめても、榎本達は断固、降伏を受け入れなかった。

そのかわり彼は、五稜郭内に居た約2百名の傷病者を湯の川へ安全に移動させたのだった。




幕末のオーバーザレインボー



暴利を貪る一部のブルジョア。

地位も名誉も剥奪されて、裸一貫、命からがら、生きる術をこの地に託し入植してきた者達。
涙ぐましい努力。皆多くの犠牲を払っている。

皆、貧しく飢えと闘いながら生き、力弱き者は自然淘汰され、子供や年寄りは、
激寒のこの地、信じられぬほど高い確率で命を落としている。

せっかくこの地まで赴いていながらも、結局血腥い戦地に引きずり戻されて、
北とは正反対の南の国、異郷に命を落とした屯田兵。

寝る間も惜しんで、肉体の限界まで尽力して、やっと手に入れた彼ら自身の「可能性と喜び」。

村橋が引っ張り込んできた人々は、・・・皆、また、もとの木阿弥か。

そして屯田兵にもなれず、惨めな小作人として入植した人々はもっと最悪だ。

いくら努力して開墾に精を出しても、もともと泥炭地。農作物には制限がある。
想像を絶する冷害、川の氾濫。全て皆無。それでいて、容赦なく覆いかぶさる小作料。

燃え盛る炎の中、逃げたくても逃げられない。
手足に傷を負い不自由な身の上、傷病人と同じなのだ。


農民も、村橋が引っ張り込んできた人々も皆、悪徳暴利の者に生き血を吸い尽くされ、
ただ、死んでゆくだけだ。


後年の研究で、なんと、諏訪常吉の手紙「小子儀、 素より戦を好まずに候・・」
は、黒田が直接諏訪に会い、屈服させて書かせたものだ!といわんばかりの黒田
自己自慢の書状が大久保利通家から発見されている。大久保利通にあてられたも
のなのか、岩倉あたりになのかそのへんは不明ですが、

部下の手柄を横取りする者は、昔も今も、よく居るわけで・・・
おそらく、村橋氏達も、やがては憤りもおさまり、ひたすら呆れるばかりで、
そんな事は、終局的には、どうでもよくなったかもしれない。

たとえ、当初、閑職、出納係!!!だったとしても ・・・。
・・・しかし



開拓の地、見知らぬ他人の墓

大きく立派な墓が並ぶ。脇に小さな荒削り、お地蔵さんみたいな墓があった。

見ると、新生児の墓ではなく、一家五人、ぎゅうぎゅう詰めで入っていた。先に赤ん坊が
一人亡くなっている。そして家父長らしき男性の名、享年二十五才とあった。
赤ん坊が死に、妻が死に、五歳の子も死に果てるまで、ほんの一年数ヶ月だった。
若くして亭主を失うと一家は間違いなく破滅。

大きな墓の主の縁戚なのか、それとも、心優しい地主が、従者か、小作人の為に
建てた墓なのだろうか。

辞職、


なぜだ?どうして、また同じことを、しようとするのだ。

村橋の意識の中、それは、あの箱館戦争、
重傷を負い、逃げようにも逃げれぬ・・・あの哀れな患者達

官軍が放った炎の中、皆、生きながらにして、焼かれて死んでいった高龍寺分院の患者達。

凄惨なあの光景が蘇っていた。
・・・・全く同じだ。全く同じ者達が、
またしても、同じ罪を、犯そうとしている。

情熱は虚しく打ち砕かれた。順調にレールを引き込み
彼ら自身の業績の喜びと、「人らしく生きる」に値する日々の糧
それだけを、ひたすら祈った夢は跡形もなく消え去った。

明治14年5月、突如、辞職表が提出された。



行脚の道末に・・・


旅路の果ては、恐るべく結末。
明治25年9月28日、
雑踏に汚れた神戸の街角、

一人の修行僧が、不逞の輩に襲われた。



・・一人の男は、黙して語らず、世を去った。

人の心とは無常なものである。

謎が謎をよび、人々の心に衝撃を与えたこの事件も
やがて、風化。忘れ去られて、消え去った。

ましてや、明治も半ばを過ぎ、この時期に、
起因が箱館戦争に由来 しようとは、おそらくほとんどの人物が気付かぬまま、

歴史の狭間にぽっかり填まり込んで・・・いつしか、すっかり、消えてなくなった。

「清き者」は滅び、崩れ去る。
・・浮世に於ける必須の理也・・・




維新以来、めまぐるしく駆け抜ける
「明治の世」・・おかまいなしに駆け巡る。

実は・・・
「そんな男」は、もう一人いたのであった。

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尚、私は黒田を嫌っている者ではありません!非常に人間臭いのです。荒れて酒に溺れてぼろぼろになったり。
とんでもない醜聞事件やら疑惑やら。上に立てば、鬼に化けねば進めないし、色々頭に来るし・・・人間臭い。
軽~いお楽しみ系ですが

薩摩の男達と酒


箱館総攻撃

敵の報恩、薩摩の田島圭蔵


楽天市場ペットホットスクープ


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EyesPic :修行僧後姿,水,夕焼け写真;
SHW :時計台写真;


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