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小笠原長行、夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!(七重戦


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<慟哭の小笠原長行、夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!(七重戦、針の止まった金時計)
夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!_No.1B
慟哭の小笠原長行:嗚呼、我がいろとよ!七重戦、針の止まった金時計
緊迫の徳川終焉時。一刻一秒を急ぐべき時にありながら、彼の世界は欲望と陰謀が絡み合う泥の世界だった。
駆け引きも裏細工も日常茶飯事。その中で、徳川の泥も被った。火中の栗を拾うも一度のことでない。
しかし、人知れずして、人一倍純粋な男だったのだ。その男が、たったひとつの心の安らぎ、胖之助を失った。
小笠原長行、追憶の我がいろと


この前の部分から読む=No.1A


小笠原長行にとって、ここ七重村の宝林庵 は特別な場所だった。
我がいろと(=弟)胖之助の若い霊がここに眠る。

血筋からいえば、甥にはなるものの、実質心の中で、真の弟と思って
長年可愛がってきた胖之助が天に飛び去ったのは、まさにこの地、七重だったのだ。


先だって、榎本に嘆願を出した尾崎俊蔵が、帰り道にここ七重の地に立ち寄ったのは、
去る11/8のこと。この時、彼はこの寺、寶林院で、胖之助と、その彼に最期まで献身的に
付き従い、共に散った小久保清吉の墓参りを為した。

賊軍の霊を手厚く葬ってくれた同寺に、
尾崎は香料百匹を置いた。三殿族などと影で呼ばれている
ことぐらい知っていた尾崎が、
何が何でも急げとしつこく、
榎本に迫った理由は、実はここにあった。

11月14日、今日は胖之助の二十一目の命日である。

死に顔さえ見てやれなかった長行には、
完全昇天の四十九日前に遭わせてやりたかった。
それが、尾崎の榎本に対する
過激な運動となって現れたのだ。


聾唖の廃人と、隠居の妾腹の子


小笠原長行は、奥州棚倉藩に於いて、
小笠原家最期の藩主、兼、新規移転先の
唐津藩小笠原家創始者、長昌の子である。

それでいながら、藩の複雑な事情から、
聾唖の廃人 として出生届けが出されず、
別途養子が迎え入れられて、彼らが藩主となされた。
父が死んだ時、長行は2歳。

跡継ぎが幼いと、実質政治手腕が
当然不足になることから、
彼ら転勤族である小藩の藩主
の宿命、またしてもお国替えさせられる。

その度に金が懸かり、藩の財政赤字は火の車。

一回ならずや、早死に藩主が連続したこの藩は
特にそれに懲りていた。 詳しくは小笠原家資料
そのため、そこそこの年齢に到達した跡取を養子で迎え入れて藩は窮地を凌ぐその作戦だった。

尾崎からすれば、不遇の日陰暮らし、それが我が殿、小笠原長行の姿だった。

長行の父、長昌もまた不遇の若死にをした殿様だった。長昌の父:長堯が時の権力負け。
隠居させられて、当時16歳の長昌が継いだが、そこには死角が待ち受けていた。
たちまち、移封。唐津へと移され、苦労の連続。この人物は28歳で死んだ。

その頃、長行は2歳。父の顔も知らぬ子なのだ。しかも妾腹の子。
尾崎家も、歴代この家に仕える以上、それらの詳しい事情は先代から聞かされている。
長行の育て役だった小川正直 は、こんな事情から、いつも隠れ泣いていたという。
優秀な少年でありながら、埋もれた存在のままだったからだ。

心の中では自分は初代藩主の子なのにと思っている長行にとっては、
自分より少しだけ 年上の他所から連れてこられた人達が、自分を通過して、
順次藩主になってゆく。 そのわりには皆若死にばかりで長国が来るまで、全く安定しなかった。

21歳で江戸に出た長行はひたすら学問に専念していた。


長行にとっての甥子、『胖之助』の誕生


その彼にとって、可愛い胖之助の誕生はまさに夢のようだった。
胖之助は嘉永5年11月(1852)、江戸で生まれた。

父は_長泰。唐津藩2代目藩主。羽国庄内藩主・酒井忠徳の子で養子に入ってきた。
この人物は、56歳まで生きたものの、病弱の為、政治手腕不足で早めに隠居させられた。
胖之助は、父46歳の時の子。隠居の子だ。しかも、4男で末っ子。おまけに母は妾どころか、
武家ではなく、商家である。9歳の時、父が死亡した。
胖之助は、病弱な隠居である父の姿しか知らない少年だった。

長行は、胖之助をとても放ってはおけない。いてもたってもいられず、兄上と呼ばせているものの、
父同然に必死で胖之助を育てた。目に入れても痛くないとは、まさにこのこと。

孤独だった長行にとって、胖之助だけは、他所で生まれた存在ではなく、久々に我が家に
生まれた子。当然愛着が沸く。「我がいろと=弟の意味」と言ったり、書いたりした本人の
気持ちは頷ける。

自分も多分大名になれない身。胖之助も、半ば浮いた存在=隠居の子。妾の子。
父に薄幸の子。なにもかも己とリンクする。ほっとけなかった。可愛かった。

江戸育ちの胖之助にとっても、 唐津の現況藩主長国よりも、物心ついた時から、ずっと側に居る
優しいお兄ちゃん、長行によく懐いた。9歳で実の父を失った彼は、30歳の年齢差がある長行は、
ある意味で、第二のお父さんだったのだろう。

ひねくれ者で変わり者の長行が、この子に対しては、
別人だった。生まれた時から、暇さえあれば、
赤ん坊の胖之助を抱いた。

物心ついて走り回る頃になれば、大切な打ち合わせの最中にも、
可愛い声で「兄上~っ!」そう叫びながら胖之助が長行に飛びついてくる。

さっきまで鬼面だった長行が豹変する。

この子を膝に挙げて、愛しくて愛しくてたまらない仕草そのもの。

呆れたことに、いつも懐には胖之助に与える菓子まで持参している。

話を中断してでも、この子を可愛がったのだった。
老齢の家臣達は、口では、「殿!なりませぬ!」と
叱りつつ、両者に共通した不遇が解るだけに、
思わず涙したものだという。


小笠原長行は名声と共に、国元、唐津の藩主の娘を妻に貰っています。妻はぐんと若く、胖之助と
同じような年齢。普通に考えると、中年叔父さんが若い娘を貰ってラッキー!ですが、これは、
考え方が根本的に異なり、血も遠い縁戚の藩主にとっては、仕事はできるが、一歩間違えば、目の上のタンコブ
になる危険性を帯びた長行との間、内部平和協定的要素もあってのこと。その為、そうした複雑な絡みを
一切持たぬ胖之助の存在こそ、長行にとって、この上なく愛しい。




可愛くて、可愛くてたまらない胖之助。
長行は己の漢学の師、林大学守に、この子も教示を仰がせ、武術も、一流の師を
掘り当てて習わせた。剣術、馬術、フルコース学ばせてやった。
また何れもよく上達。立派な若武者になった。

年齢のわりには、背が高い。言葉使いも正しい為、知らぬ者なれば
まさか十代半ばには見えない子だった。



長行が仕事でくたくたに疲れ、宅に戻ると、胖之助はいつも、きまって愛馬の厩舎に居た。

「困ったものじゃのう。下僕じゃあるまいし・・・」
長行は、いやみを言いつつ、やはり、胖之助の気持ちを思えば泣けた。

胖之助は、何よりも真っ先に馬術に秀でた。師匠は思わず溜息を漏らしたという。
「今だかつて、これ程優れた少年は見たことがない!」

9歳で父を失った胖之助は、孤独な少年。兄や姉の顔すら知らない。兄は他家へ養子。
二人の姉達、寿姫と歌姫は、本人が生まれた頃既に死んでいなかった。

◆孤独な胖之助と愛馬

胖之助は愛馬をこの上なく可愛がっていた。

uma.jpgその胖之助が愛しい長行もいわばよく似た者同士。
その為、いつも説教はとりやめ。己の不甲斐なさに呆れつつ、
叱る権利などない。

「胖之助、そろそろ、馬とて寝る時間じゃ。
ほれ、菓子を買ってきたぞ。」


・・・そう言って、やっとこすっとこ、馬から引き離すのだった。

▲胖之助は実に可愛そうですが、結果として最期の弁天台場の現場迄存命して
いなかったのはむしろ幸いかもしれない。榎本軍末期、弁天台場では、水が
枯渇。人の前に馬が呻き倒れた。人は愛馬の哀れな姿を見て耐え、人も食料
限界。愛馬の肉を食べる宿命を。胖之助なら、耐えられない。



彼が15歳の時、時勢が大きく揺れた。慶応3年10月(1867)には、大政奉還。やっと16歳の
誕生日を迎えた途端、王政復古大号令が下った。

何もかも、長行の影響だ。長行は己が悔やまれてならない。

僅か16歳の少年が、輪王寺宮の護衛をして上野の彰義隊に参加した。そして間もなく、
彰義隊の内の純忠隊に客兵として編入されたのである。
(▼兄じゃなくて叔父だが、兄同然に思っている。
徳川のために、幾度も命を掛けて一大政略に奔走する兄(長行)の姿を見て育った胖之助。
早熟な少年は、彼なりの指針をたて、画期的に行動していた。

慶応4年(1868年)5月15日、上野山に彰義隊に唐津藩士9名と共に
合流し 戦ったが敗北。奥州へ向かった彼は、輪王寺宮を警護しながら岩城平、三春経由で
会津若松に入り、ここで長行と合ったのだった。

長行は胖之助を心配しつつ、いつも複数の唐津藩の家来が彼に同行している。
すっかり若武者らしくなった胖之助の姿。少年とはいえ、彼には彼の意思がある。
それに、従者に囲まれ、それまで無事にやってきた。長行は胖之助の自立を尊重した。

長行と別行動をとっていた胖之助は転戦を重ね、そうこうするうちに、若松城が落城。
奥羽越列藩同盟は無残崩壊。仙台に到着した彼らの隊は、榎本軍と合流し、
9/19仙台で新撰組に加入した。10/1頃に石巻へ移動してフランス式調練も受けたのである。


そして榎本艦隊の一員として、折浜沖の大江丸に乗り込み、蝦夷地へやってきたのだった。
10/22蝦夷、鷲の木到着し、同日進軍開始。

長行は家来達に頼み込んだ。
・「くれぐれも、胖之助を頼む。」


彼の軌跡は、万事、そこで途絶えた!!

十月二十四日、上陸早々の戦闘、
七重の戦で命絶えたのだという。


ぷつりと音をたてて、太い糸が突如切れた。
夢も恋もこれからだという少年が、天へ飛び去った。


皆が言う。誰よりも勇敢だったと・・。使者、人見勝太郎を無事五稜郭へ走らせる為に、
勇敢な若者達が自ら名乗り出て、突貫を繰り返した。
白刃を翳して、生身で敵のバリケードを突き破るのだ。
銃を構える敵兵を直近距離で斬り崩す。そこに、敵隊列に僅かな隙間が生じる。
その隙に、使者、人見勝太郎達を走らせる為だった。

勇敢な伝習隊士の山本康次郎(19歳)が初戦で戦死した。突貫を自ら名乗り出た英雄達が、皆散った。
遊撃隊の大岡甲次郎(25歳)、諏訪眞五郎(19歳)、杉田金太郎(25歳) 他の面々 だ。

大混乱の戦闘、その最中、よりにもよって、我が弟、可愛い胖之助がその一人になってしまった。
忠実な家来、小久保清吉も殉死した。

悲報を聞かされた時、小笠原の意識の中、それは全く受け入れ難いことだったのだ。
たった数日前には、あんなに元気だったあの子。
もはや、悪夢ではあるまいか?


藩士達は胖之助を守る為、極力彼を後列に下げていた。家来達も必死の応戦の最中のことだ。
しかし、若い正義感が爆発したのだろう。ほんの僅かな隙。彼は抜刀閃かせ、敵陣に突入した。

小笠原胖之助、時に16歳11ヶ月。 10/24七重村での戦闘において死亡。
17歳の誕生日が目前だった。


長行は、なにもかも信じられない気分で一杯だった。
ありし日の胖之助が瞼に浮かぶ。「兄上っ!」可愛い声を出しては、膝の上に飛び乗ってきた。
いきなり抱きついてきて、ふっくらとした頬で頬ずりをしてきた幼い頃の彼。
いつも孤独だった長行。腕に抱きとめた時、あの胖之助の温もりが昨日のことのように
思い出されてならない。


他隊の者から、別途、こんな話を聞かされた。
鷲の木到着間際のことだ。疲労した兵達の為、即急に水樽が運ばれた。
柄杓で掬い、皆が、一口づつ喉を潤すためのものだ。

▼この姿は中島登の描いた戦友絵姿に残されています。
しかし、その時、胖之助は、水を掬った柄杓を手に取ると、そのまま場を離れた。
何をする気かとふと見ると、皆には背中を向けたまま、愛馬に近づくと、
たった一杯、小さな柄杓。それだというのに、己は飲まずに、愛馬に飲ませてやったという。

それはまさに、胖之助の真実に他ならない。この時、初めて、長行は涙が零れ落ちた。


胖之助は消えた!
突如、兄に何のことわりもなく、
天空の彼方に飛び去った!!



1.jpg
小笠原長行、胖之助の霊前で


二人の殿が先に五稜郭目指し発ってくれたのが、
長行にとって非常にありがたかった。
墓の前で、水入らず兄弟が再会できたからだ。

「小久保よ、小久保、
何から何まですまぬ。頼むぞ。
あやつは、まだ子供じゃ。
すまぬ。手を焼かせるのう・・・」


殉死した小久保清吉。彼の屍も並んでここに葬られている。

小笠原は素手で、墓に被った雪の綿帽子を、あたかも愛撫するがごとく、優しい手付きで、
丁寧に払い落としてやるのだった。 まだ仏は新しい。土中に眠る屍は、なんら朽ちていない
はずだった。お供えの団子は尾崎が用意してきた。しかし、長行は、先刻立ち寄った庄屋の三右衛門家、
そこで出された餅菓子をいつのまにやら、ことごとく懐紙に包んで持ってきているのだった。

食べ盛りの16歳11ヶ月の少年だ。墓に供えるなり、仲良く
二人で食べろといわんばかりに、手で分けて二人の霊前に供えた。

「胖之助よ、もうじき、誕生日だったのにのう・・
すまぬ。この兄を、許せ・・・」

立場わきまえて、彼は必死で涙を堪えている。だから、臣の尾崎も嗚咽を堪える。
尾崎にとって、霊前の餅菓子が、尚悲しい。耳裏に、昔、老臣達に聞かされた繰言が蘇る。殿の悪い癖。

「『胖之助』様が可愛いからといって、殿は悪い癖。いつでも菓子を懐に・・。」

霊前の餅は、長行が手で引き散切ったから、歪な形。親心が滲み出ている。
仲良く二人で食べれるように、数も種類も、平等になるように、散切っておいてある。
小久保は、幼い時から、『胖之助』の家来。一緒に育ったも同然だ。
雪が舞い降るこの墓地、菓子は、数も種類も同じく並んでいる。


だが、今主が堪える以上、尾崎も辛い。これでは泣くに泣けない。
隠れて袖で涙を拭っていた。
凍てついた北の大地。たちまち、その袖が凍った。

小雪が舞い落ちてきた。
僅か16歳の少年がこの地に散った。

胖之助は、地上に、もう居ない!!
斜陽、小笠原長行、西日の当たる冬の七重村


十月二十四日の血戦、この地、我がいろと(=弟)を思い、
昔が思い出される。名残惜しかった。
日が暮れて、五稜郭にたどりついた。」
・・・と記録ある。
多く語らずして、充分に泣けてくる。
「日が暮れて、五稜郭にたどりついた。」

これだけの短い語句に全てが現れている。二人の殿がこの地を去ったのは午後2時のこと。

それから、ずっと小笠原は、この丘に立ち尽くしていたのだ。
小笠原は最愛の胖之助を失った。彼は、早くも万事喪失した。

榎本の世界は始まったばかり。真冬の七重村、雪渓に西日が傾いていた。




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小笠原胖之助、七重戦、針の止まった金時計
10/20日から順次: 榎本軍、鷲の木上陸。五稜郭に向け進軍、戦闘開始。
~10/24 :峠下、七重、川汲峠各地戦闘。犠牲者発生。
10/26:五稜郭無血占拠
11/5:福山城(松前)落城
11/14:館城落城。(病弱な藩主は青森に逃走)
11/15:江差沖にてタバ風。軍艦「開陽」座礁&沈没
12/15:投票により榎本武揚総裁決定。他役員同時決定。政権=デファクト成立。
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示


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