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林忠崇,幕末戊辰,脱藩大名_林忠崇(2編
幕末,戊辰戦争,箱館戦争,脱藩大名_上総請西藩主_林忠崇,若き純情:青いりんごとフランス人形_No.2,林忠崇の参戦前の流れ~参戦までの経緯,「徳川幕府終焉」と「請西藩主_林忠崇」参戦から降伏,遊撃隊、人見勝太郎と伊庭八郎と共に参戦,随従の請西藩士の宿命,ブラックリストに挙がり、自刃&首犠牲の生じた小さい藩と代官所等,大政奉還の段階で明らかに反発を示した藩と人,遊撃隊、岡田斧吉の銘スピーチ,【楽天市場】
_林忠崇,脱藩大名_上総請西藩主_林忠崇
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幕末_WITH_LOVE玄関
_函館戦争の余波<箱館戦争脇役者達SERIES
<脱藩大名_上総請西藩主_林忠崇(若き純情、青いりんごとフランス人形)<
No.1
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No.2
(現在の頁)<
No.3
・・・
幕末の・・・若き純情_上総請西藩主_
林忠崇
_No.2
箱館戦争脇役者達SERIES
脱藩大名の青いりんごとフランス人形
脱藩大名、いざ出陣!
林忠崇
SEIRES:
No.1
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No.2
(現在の頁)<
No.3
<
No.4
<
No.5
脱藩大名、
林忠崇
の出陣の時が来た。
自ら、藩主の座を捨てた。全て、徳川報恩、林家の誠心だった。
慶応4年(1868)閏4月3日、明け6つ時、
午前6時過ぎ、請西藩主_
林忠崇
は
59人の藩士を連れて、
堂々と城門を後にした。
出陣は、伊庭八郎、人見勝太郎の
遊撃隊と合体の上である。
途中で聞きつけた11名の
藩士が加わり、行列は計70人となった。
林は、己の隊に厳格な心得十項目を発布した。
中でも際立つのが禁酒令である。
他隊がいかにあろうと、けっして、この隊だけは、
一滴の酒も許されない。それが掟なのだ。
シナリオでは、藩主は病気で倒れた。家臣の一部が、撤兵隊に拉致されたことになっている。
・・・・・
しかし、どうしたものだろうか。早朝だというのに、多くの領民達が、沿道に駆け参じては、
土下座して待っている。己を犠牲にしてまで、不義への戦いに挑もうとする殊勝な若い青年藩主の姿。
領民達は皆、涙ながらに、その凛々しい姿を見送っていた。
上総請西藩主_林忠崇に係る「おまとめ年表、関連資料」を作りました。■
参戦経緯他
、■
林家及び林忠崇人物について
_
ああ!!運命よ!誰か、時を止めてくれ!!
林忠崇は、剣道に秀で、皆に有望視されただけあって、藩主様とはいえど、いわゆる床の間の置物
タイプではない。腕には、いささか自身があった。半端な連中なれば、自ら斬り伏せるも容易い。
つまり、この点も災いした!
たとえ、大柄で強い男とて、海千山千、下層を蠢いてきた者のような独特の感はもちろんのこと、
事態に柔軟に対応する狡猾な器用さも備わっていない。
なかなかの外交戦術シナリオを考案したわりには、疑う事も知らなければ、咬ます事も知らない。
勇敢かつ、正直。これぞ、最も危険要素だったとは、知るよしもなかった。
青年藩主、炎の参戦、犠牲の血
1_
伊庭八郎
の大奮闘・・信じて一任、林忠崇の姿
戦闘ルートは、経験豊かな伊庭八郎と人見勝太郎の
遊撃隊を信じ、全て任せた。
忠崇は、伊庭達にこう言った。
「己は不義と戦うのみだ。依存は無い。」
伊庭達にしてみても、実に頼もしい青年藩主だった。
手勢を二手に分けて戦闘に挑む際にも、林の隊は命を
惜しまずよく戦う。その為、何度も自隊は命拾いをした。
「殿特有」の習性、お荷物になるどころか、勇ましい。
それに、なんといっても、余計な口出しをしてこない男らしさが、気に入った。
地位は異なれど、徳川報恩、この気持ちに変わりはない。一晩中、語り合った若者同士なのだ。
窮地に及んでも、コミュニケーションは抜群だった。
総体的には、最終、伊豆、相模に航海し、小田原藩(韮山代官所)に助力を
得ようというルートだった。道々仲間が多ければ多い程良い。
たかが薩長ごときに屈して如何とする!
呼びかければ、皆、奮起するであろう。若者達の情熱はけっして屈することがなかった。
順次小藩を経て動いた。伊庭道場の主というだけあって、
やはり、土壇場の伊庭の迫力は壮烈だった。
黙っていれば、伊庭八郎は、色白でほっそりとした体系の男。
しかし、どうして、どうして。いたるところで、
泣く子も黙る伊庭の強さを見せ付けた。
相手が年上だろうが、誰であろうが関係ない。各藩の老中達が、もたもたしてると、
たちまち怒鳴りつけられる。
「この腰抜け共が!なんちゅう様じゃ!徳川の御為、よくも恥ずかしくもなく!」
強烈な罵倒で相手をねじふせる。
この近郊は、前述のとおり、小さな譜代が、処狭しとひしめいている地域なのだ。
本音は、誰とて、薩長ごときに押し潰されるのはご免だ。
しかし、正念場はたとえ謗られようが、根本は藩の相続。己がたとえ滅びようとも、
藩だけは生き延びねばならぬ。このまま恭順か、徹底抗戦に出るのか、
どの藩にしても、藩論は割れている。
呼びかけられたなら、それまで抑えてきた血が、たちまち騒ぐ。
どの藩にせよ、一部の青年藩士達は、たちまち脱藩しては、群れに加わった。
伊庭は凄みがあるだけでなく、己は知らずとして、何やら先天的な影響力が強い節もある。
あくまで清く、勇ましいこの男に、やはり男惚れさせられるのだろうか。
またしても、伊庭八郎の罵声がぶっ飛んだ。
「やるのか、やらぬのか!態度を明確にせぬか!
徳川の御為とこれほど申しても、腰抜け共め!
これだけ、大層に面を並べ、この中に、一人たりとも、誠の男はおらぬのか!
・・・されば、早うせぬか!軍資金の助力さえできぬと申す気か!!」
台風の目をとっとと追い払う為に、一種、泥棒に追い銭的、しぶしぶ金を出したり、
申し訳程度の兵を手渡した藩もある。
しかし、皆そうだったわけではない。藩論はすでに、恭順と決まっていた藩で
あろうが、藩内には、必ず絶対抗戦主義の重臣が居る。
彼らは、命がけの苦策をもって、金や兵力の提供に走った。
また、ひとたび、燃え盛り、手を結んだものの、
体勢が不利とわかるや否や、踵を返した藩もある。しかしながら、
それらを単純に卑怯者、腰抜けと言うには思慮が欠ける。
大抵の場合、藩内で論争が起きて、抗戦派の要が、
内部に責め滅ぼされ、血が流された。
例)小田原藩_藩主_大久保忠礼
・・・僅かな間だが、遊撃隊と手を結んだ為処罰。
◇藩主大久保忠礼は永蟄居。◇石の11万3千29石から、75000石。
◇家老の
岩瀬大江進
は自ら謝罪切腹。
◇
小泉彦蔵、山田龍兵衛
は新政府と戦ったため、
斬首の上、屈辱の曝し首にされた。
関与した藩、地域、及び、兵や供出金等、詳細については、
資料編
にまとめました。
幾つもの藩が、必死の供出金を捧げ、兵も送り込んだ。
勝山藩、近江三上藩、駿府藩、前橋藩
、等の他、
駿府藩、岡崎藩、館山藩、飯野藩、左貫藩
、などから参加した小隊は、
皆、
遊撃隊同盟
といって共に戦った。左貫藩では、フランス式調練を
受けたアスリートを送り込んだのである。
また、遊撃隊が佐貫藩に在隊中、一部の撤兵隊も遊撃隊に合流した。
岡崎藩といえば、奥州で戦死した
和多田貢
隊長の組である。
また、館山藩から送り込まれた兵は、14名と少数ながら、
隊長_
山田市郎右衛門
他、皆、己の死の瞬間までよく頑張った。
このうち、
木下晦蔵
は箱館戦争終焉期まで、
生き延びたにもかかわらず、
「高龍寺分院の惨劇」時
に惨殺された。
木下晦蔵の悲壮なラストシーンはこうだった。翌年明治2年5月11日、
身動きできぬ病人達が詰めた高龍寺分院にも、官軍は容赦なく襲い掛かり、
やがて、火が放たれ、患者達は、生きながらにして、焼かれて死んだ。
木下晦蔵はこの病院掛だった。
「ならぬ、ならぬ!撃ってはならぬ!ここには病人しか、おらぬ!」
そう言って、生身で飛び出した彼に、
たちまち一斉射撃の嵐が火を吹いた。(
関連頁はこちら
)
話を元に戻し、現況の林忠崇が参戦しているこの近郊戦へ再び。
沼津藩では、追放しなかった罪で、
家老_吉田喜左衛門
が追放された。
追放はまだマシの内。彼ら遊撃隊一団が去った後、
大抵どの藩でも首を討ち取られた犠牲者がいる。
台風通過の後、新政府への償いとして、各藩それぞれ、
侘びの首を捧げる宿命となった。
勝山藩では、
福井小左衛門
、
楯石作之丞
が首を撃たれた。
飯野藩のケース
同様に、飯野藩では、
樋口弥一郎
、野間銀次郎
が切腹犠牲になった。
この藩も、軍用金の他、兵を送り出していたのである。
それでも、61歳の家老、
樋口弥一郎は、その最期に於いて、
見事、辞世の句に意地を全うした。
大幹や松の恵みの露受けて
死も草の木も育ちぬるかな
大幹とは徳川。松とは松平の意。
徳川報恩、それに一切悔いはないと言い切って切腹を為し遂げた。
2_混乱期の小藩、譜代、代官所の宿命
ただ、通過後のそうした悲惨なれば、若い青年藩主、林忠崇は、己も必死の戦闘の矢先、
情報を得ぬ限り、心の痛みには繋がらない。
ところが、この前橋藩を陣取った段階で、悲惨は目の前で発生したのだった。
遊撃隊に富津陣屋を皆で取り囲まれた同藩では、人見と伊庭が陣屋に入り、
前橋藩家老、小河原左宮
と交渉をした。しかし、回答はNOである。
悲劇はこの直後に発生した。この最中、一瞬席を外した
小河原左宮
が、
なんと!たちまち切腹してしまったのである。
腰抜けと罵られて、悔し塗れの自殺などではない。
皆、誰しも腹は薩長なわけがない。
NO!と答えた訳は、藩の持続を守る為であった。
己が被って死んで償い、口とは裏腹、兵と軍資金は
赤い血が搾り出した。
結局、軍資金と兵糧、歩兵を押収して去る事になった。
金も兵も、何もかも、赤い血の滲んだ供出品となった。
この時、林忠崇は、影響することの罪深さが、心に沁みた。
交差する思い、老家臣、北爪貢
たとえ、いかに若く青い藩主といえど、忠崇は藩主の立場。上に立つ者特有の皆に見えぬ
重みが解る。ベテランの家老の判断基準とは、そこに準拠する。
人事ではない。これが、もしも己の藩で、対処したのが、北爪貢であれば、
同じことになったのではあるまいか?!
幼少の折より、爺や、爺や、と呼んでは己が懐いた老齢の家老北爪貢。
彼の顔が、意識の中、今ふと、折り重なった。
家老でありながら、己にとっては優しい爺ちゃん、北爪。
それが、瞬時に天に飛び去る。縁起でもない空想が、ふと心の中、湧き上がった。
思わず、忠崇は身震いをした。
たちまち頭を振って、縁起でもない思いを一気に吹き飛ばした。
断じて屈してはならぬ!心で己を叱りつけて、迷うまいと、たちまち体勢を立て直した。
何もかも、徳川報恩の為なれば、それは忠義であり、正義なのだ。
結末はたとえ哀れとて、それは男の勲章ではないか。あっぱれ、武士の魂ぞ。
心は密かに徳川への忠義を誓って、散った男に合掌した。
この藩の悲惨はまだ続いた。遊撃隊から離脱して帰藩した
白井宣左衛門
は突如責任を
押し付けられ、首を撃たれたのである。もはや弱者の立場、首を新政府へ提出する慙愧が
余儀なくされたのだった。
韮山代官所のケース
頼りの肝心要、韮山代官所はこうだった。
韮山代官所とは、この段階では既に他界しているものの、世直し代官、江川英龍の畑。
同所では、武蔵、相模、伊豆、駿河、甲斐の五各国幕領のうち、26万石を所有する。
徳川の頭脳畑、韮山は反射炉を有する。早期より農兵説を建白した英龍の力で、
優秀な農兵を有していた。農兵といっても、この時代、
最も近代的な銃術に秀でる特別な兵なのだ。
土方歳三の義兄、佐藤彦五郎は、江川の里に密接だ。即ち
土方ネットワークは江川畑とも言える。
今日、農兵と聞くと、どうもイメージが捕らえにくいのだが、
土方歳三の右腕達、八王子千人同心の姿を初めにイメージして頂くと、
少しわかり易いかもしれない。単なる農民ではない。
砲術に長ける完全に調練されたアスリート達である。鍛え上げられた逞しい腕には、
武器も持てば、鍬や鋤にも持ち換えれる屈強の男達なのだ。
また韮山代官所近郊には旧来よりの江川の特殊組織村がある。
江戸時代以前より伝説的な関係。家臣の末裔の村という。
平常は農民。しかし調練には苗字帯刀が許される。
たとえば、金谷村。特殊農兵の村であり、鉄砲組、洋式訓練を施されている。
伊庭八郎や人見勝太郎は、それを期待していたのであった。
土方歳三が死んだ明治2年5月11日、
同日に発生した
あの劇的なシーン、朝陽轟沈を成し遂げた男、
蟠龍艦長、松岡磐吉
は、まさにここ、韮山なのである。
同所に於ける徳川報恩、徹底抗戦派の頭といえば、
まさに、
松岡磐吉の父、松岡正平
である。また、正平の次男は盤吉だが、
長男は、
柴弘吉
(柴家へ養子)。彼は長崎丸の艦長で、この後のシーン、奥州行きの際、
彼らを拾って奥州へ運ぶことになる。
しかし、松岡正平はその後、謎のベールに包まれたままだ。存命説が幻のように、
沸くものの、今日、その後の詳細は埋もれたままだ。
伊庭八郎達が韮山に至った時、
この頃、既に勢力を持っていたのは恭順派の柏木総蔵。
答えはNOだった。にもかかわらず、領内には応援派がいた。それは八割方、
松岡正平と推定されるものの、なんら詳細が消えて見当たらない。
ただし、現実に、遊撃隊が受け取った応援資金は、1000両と極めて多額だった。
同時に砲術に優れた多くの兵が送り込まれたはずだ。
江川英龍の世界:韮山と浦賀
、
江川英龍関連2
3_魔の小田原戦
伊庭八郎
・・瞬時に片腕の剣士
小田原藩のケース
さて、最大のダメージは、恐らくこの藩ではなかろうか?
しかし、前述のとおり、この藩も悲惨な目にあっている。
僅かな間だが、遊撃隊と手を結んだ為、抗戦派の要は皆、血の生き煮えとなった。
藩主大久保忠礼は永蟄居の上減石。家老の岩瀬大江進は自ら謝罪切腹。
当初遊撃隊と共に、新政府と戦ったた男、小泉彦蔵、山田龍兵衛は斬首の上、屈辱の曝し首にされた。
さりとて、当初援軍だったにもかかわらず、形勢不利と解するなり、
たちまち踵を返し、官軍に寝返った。このダメージは伊庭、人見、林達幕軍によって強烈すぎた。
これには、流石の遊撃隊同盟も総崩れ寸前まで、追い込まれ、大苦戦を強いられたのであった。
かつて、4月17日に初に請西藩に現れた伊庭八郎には、ちゃんと両手があった。
それが、この箱根戦の大苦戦のおかげで、片腕の男になってしまったのである。
小田原から三枚橋付近で、伊庭は左手を切断される大惨事に遭遇した。
(その時の様子:
林忠崇が教えてくれた遊撃隊の事&追記
)
しかし、伊庭の大爆裂はこの瞬間に起きた!
負傷した隙に寄って集る敵兵。それに怯むどころか、片腕のまま、彼は仁王立ち。
たちまち、たった一人で多勢を木っ端微塵。まさに、阿修羅状態だった。
これが後に、伊庭の百人斬り、しかも、ものの見事に一太刀で斬る・・・と
当時の江戸っ子も魅了された由縁である。
▼
▲ここに、小田原の二転三転混乱様子も解ります。
藩の方針にキレて、そのまま遊撃隊に
参加して、自藩を捨てて箱館戦争まで行動した者も居れば、咸臨丸座礁チームにも、小田原藩士が居ます。
こうして見ると、小田原も可愛そうな藩。
4_集団自決を食い止めた男
遊撃隊頭取改役_岡田斧吉の銘スピーチ
蟻の大群のごとく溢れ出る官軍の群。
おかげで箱根戦は、結局襤褸負け状態に陥り、ひとたび皆、死を決心したのだった。
この時、若い林忠崇を奮い起こさせたのは、伊庭八郎の猛奮闘もさることながら、
もう一人、影の英雄、岡田斧吉の語った衝撃的な発言だった。
累々と連なる味方兵の屍。傷ついて呻き苦しむ兵達。
もはや、絶望だった。絶望の境地、そんな中、声高らかに、岡田斧吉は、こう言った。
「我らの志は、徳川の回復のみ。
悪戯に憤死するは愚か。
海に出て再挙を諮るべき。
房総に敗れんか、奥州に敗れんか、
蝦夷に往いかん。」
岡田斧吉:(遊撃隊頭取改役)=明治2/4/17箱館戦争:折戸で死亡
_
尚、岡田斧吉の首を敵に取られまいと運び持ち帰ったのは、「
柴田真一郎
・・(=
柴田伸助
倅)」
この言葉が、どれほど、皆を支えただろうか。
林忠崇
も、その一人である。
皆の切腹を阻止したのは、まさにこの岡田斧吉の銘スピーチだった。
林忠崇は自藩を出発した際、随従の家臣達は全70名居たのだ。
それが、度重なる戦死。しかし、この小田原戦で、たちまち半減した。
一部の脱落、不明を除外するなれば、後は足出纏いを懸念して自ら、隊を離れた負傷兵達。
除隊は、いいが、彼らの生死は不明である。
林忠崇としても、もはや引くに引けない狭間に居た。
箱根在陣の時、予期せざる最悪の情報が齎されたのだった。
5月17日、沼津藩から箱根へ進撃する2日前に、請西藩は、全領地没収されたのである。
その事実が、耳に入った。全身身の毛がよだつ最悪の苦汁を嘗めた。
忠崇が病気の為に、忠弘が家督継承とは、真っ赤な嘘であり、
賊軍に藩主自ら参戦している・・・その真実がバレたのだ。
自藩、請西藩は、全領土を剥奪された!!
シナリオは崩れ去っていた。
もともと藩主の座は綺麗さっぱり、未練なく、忠弘に譲ってきたつもりだったのだ。
それが、今となれば後の祭り。忠弘にも、残してきた家臣一同、皆を路頭に迷わす罪を背負った。
5_狂い始めた時計の針
いざ!奥州へ!裸足の脱藩大名
若い青年藩主が、勇ましく脱藩。藩主の座を捨てた。
徳川報恩の為、脱藩大名となり、自ら戦場で戦う。なんと殊勝なことだろうか!
「勇ましい脱藩大名の実話」は、予期せざる形でも、おおいに皆に影響を与えていた。
林自身、宣伝した覚えはないにせよ、通過ルートの藩では、皆、藩主自ら脱藩参加
の事実を聞くなり、心打たれた。それ故の供出金であり、
また援兵の送り込みに繋がっていた。
知らずして、林忠崇の影響は多大だった!!
彼らに協力した藩、一部の藩士による加担、強引に追い出せなった
力不足の藩等、それらは皆ことごとく、ブラックとして責任を追及された。
責任とは、生易しいものでなく、必ず犠牲者の首が捧げられた。
もはや、引くに引けぬ土壇場に追い込まれた。
既に、時計の針は完全に狂い始めていたのである。
シナリオは暴かれた。
己は藩主の座どころか、全領地を剥奪された!
裸足の貧民に成り下がった。実の弟同然に大切に扱ってきた忠弘は、
新藩主として認められず、罪を背負わされ、一文無し。
己は、忠弘をどん底に叩き落したも同然のこと。
もはや、何一つ、残るものはない。
惨めな敗走劇の後、やっと、長崎丸に救援を得ることができた。
再起して、奥州へ向かう長崎丸乗船に乗船することになった。
家臣達の多くが死んだ。この頃、残る手勢は僅か29名。
それだというのに、船出の前夜、またしても、悲劇が起きたのである。
あの時、林忠崇が、脱藩決意を表明した時、持病の結核の為
3年間、寝たきりの男が跳ね起きた。
藩士、諏訪数馬である。杖をつきつつ城中に現れるなり、従軍を懇願した彼。
それまで腰が引けていた者、或いは困惑中の者、
諏訪の姿を見て、皆、即座に目が覚めた。
彼は、病を押して参戦である。幸い、今日という日迄生き延びてきた。
それがなんと!船出を前に、自刃して死んだ!!
病が原因での足手纏い、皆の迷惑を懸念した自刃であった。
誰もが泣けた。あまりにも辛すぎた。
老齢の北爪貢は、その哀れな亡骸に近寄ると、震える手で、見開いたままの目を
そっと閉じさせた。そして、ゆっくりと両の手を組み合わせてやったのだった。
「諏訪よ、諏訪、お前は誠、あっぱれな男じゃった。
・・・なんと、あっぱれな若者じゃろうか。」
辛すぎて、後半は声にならなかった。
享年30歳。北爪にしてみれば、己の人生の半分にも満たない。若者が逝った。
20歳の青年藩主、林忠崇は、必死で歯を食いしばった。
徳川報恩。徳川の為!
・・・・何度も何度も、心の中、反復しては、己にそう言い聞かせた。
慶応4年5月25日、皆は、長崎丸に乗り込んだ。
諏訪数馬について
:(?=天保9(1838)年位~慶応4年(1868)4月9日)
上記本文ご参照:享年30歳と伝わることから、生年は考察数値。
泣かせる男「諏訪数馬」。この人物は実に清い。自刃の時、実は、介錯を林忠崇自ら引き受けた。本人に
懇願されて、涙の大決心。これは、林にとって永久に忘れることができず、明治後期、林は遺族に彼の絵を
描いて詩を添え贈った。(林は絵が上手。伊庭八郎が片手になった瞬間の絵も描いている。)
大病を押して従軍してくれた男。折角、館山まで連れてきたのに、自ら迷惑をかけまいと決断した姿が、
余程心に残っていたのだろう。
彼に限らず、この藩には純情派が多い。老獪度に欠く故、最悪の明治に突入した点は否定できないが・・。
この藩は、朝廷から呼び出しを受けた際、手紙で断った第一の軌跡を残した超徳川報恩派。手紙とは、
藩主の座も、領地も全て朝廷にお渡しします。但し、徳川の一家臣として、彼らと同じ罰に処して下さい・・の内容。
こんな正直な手紙を出しておきながら、藩主脱藩がバレないわけはない。
長崎丸、いざ!奥州へ
長崎丸艦長、柴弘吉
5/25長崎丸に乗った皆は、遊撃隊と共に、奥州へ向け、出帆した。
青年藩主、林忠崇は、忠義の男、諏訪数馬を失った。病身の彼は、皆の足手纏いを懸念して、
自ら自刃を遂げた。そして、さらに二人の家来、大野尚貞と木村隼人が留まることになり、
手勢は僅か28名である。70名が28名に激減。
忠崇は、歯を食いしばり、数々の試練に耐え続けていたのであった。
そんな中、長崎丸艦長、柴弘吉の言葉で救われた。
わざわざ彼らを拾いに来てくれたこの長崎丸。艦長の柴弘吉は小柄で痩身な男。
にもかかわらず、真っ黒に日に焼け、精悍な風貌。まさに海に命を懸ける海軍の男だった。
その彼が言った。
「殿、ご安堵下されたし。奥州は皆、徳川の再起を待ち望んでおります。
奥州列藩同盟が発足致しておりますぞ。航海中は、どうか、
お気を緩やかに、暫しご養生下され。そのかわり、船酔いだけはご容赦下され。
こればかりは、我々の手には負えませぬ。」
そう言って笑った時、日に焼けた彼の顔と対照的に、
真っ白な歯が鮮やかだった。
萎えてしまいそうな時、不思議と、
いつも誰かが励ましてくれる。
長崎丸、奥州小名浜(福島県いわき市)到着
箱根では、岡田斧吉の言葉に、無念の自刃を踏みとどまり、そして、今日は、柴に心救われた。
艦長:柴弘吉の父は、松岡正平。江川代官の畑では、徹底抗戦派の元筆頭手代である。
箱根戦の際には、実権が恭順派の柏木総蔵に移った後であり、遊撃隊は夢破れた。
しかし、水面下で、まちがいなく、松岡正平が動いた。
松岡正平は、江川の畑に於ける徹底抗戦派の元筆頭手代だった。優秀な砲兵や
多額の軍資金を得たのはそのためである。また、正平の次男は、
蟠龍艦長、松岡磐吉
だ。
この時、忠崇は、目に見えない絆をつくづく痛感したのであった。
心の中、己に次いで、きっと勇敢な脱藩大名が戦闘に躍り出ることだろうと
期待したのは、もはや夢。皆、腰抜けばかりだった。
しかし、こうして接してみて初めて解った。
藩主の立場にある以上、本来見えていなかった下層の人々が、実に勇敢であるか。
皆が必死で、徳川報恩の為に戦っているのだ。
伊庭八郎と人見勝太郎に会った時の印象も強烈だったが、柴はさらに上回る。
勇敢で清い若者達より、30代と見える柴には、上に立つもの特有の奥深さが
滲み出していた。
6月の空は青く澄み渡っていた。
北へ北へ、船が上昇するごとに、海の色が明らかに別物に変じてくる。
空の青さを映しこんだような水色は、北の地には似合わない。
切り立った断崖絶壁の海岸が続く。
今や、海面は深い群青色に一変した。
いよいよ、目的地、奥州、小名浜も、もうすぐだ。
柴が冗談めかして言った一言。船酔いもなんのその、若い忠崇は、新たなる夢を
胸に抱き、徳川政権奪還を心に誓った。
慶応4年6月3日、船は、
福島県小名浜に堂々、入港した。
林忠崇
SEIRES:
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榎本武挙に対面、そして、磐城平
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菖蒲と白い刀;
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