コシャマインの乱

,北海道の歴史,武田信広に鎮圧されたコシャマイン親子の悲劇,コシャマインの乱,渡島半島にあった12個の館,松前えとせとら,幕末WITH LOVE内頁

コシャマインの乱
コシャマインの乱、武田信広が鎮圧
炎に散った
「コシャマイン親子」
北海道、蝦夷のその昔

長禄元 (1457)年5月、コシャマインの乱の勃発。

アイヌ民族は破竹の勢い。民族の為に、戦士全員、命を投げ
出す覚悟で襲い来た。一方、命が惜しい和人。
このままだと、蝦夷の和人は滅びた。

当時、蝦夷の渡島には「館」が全部で12個もあった。
ところが、一気に潰され潰され、なんと、2館しかなくなった。
あわや蝦夷の和人社会滅亡の危機!

導火線はこれだった。

あるアイヌが和人の鍛冶屋に小刀の手直しを注文。口論となる。
「これは切れが悪いぞ、そのわりに値段ばかり高いぞ!」
「なんだと!これでもか!」
鍛冶屋がその小刀でアイヌを刺した 。

これを皮切りに、アイヌの人々は永年の累積した不信と反感。
それが一気に大爆発 。長い間、和人はアイヌの人との 交易で
「騙し!」ばかりやっていた。


コシャマインの乱



長禄元(1457)年5月、コシャマインの乱

アイヌ民族の士気は高かった。なんといっても率いるは英雄コシャマイン。
若い倅も勇敢だ。民族のために奮起した彼らは、己の命など、少しも惜しくない。
それはそれは勇敢だった。

「ならぬ!この屈辱を許してなるものか!」

皆が呼応した。

全部で12個もあった「館」がことごとく潰され、全て燃え落ちた。( 「館」とは?
おかげで、この段階、残った「館」は、
下国家政の茂別館、 上ノ国の蠣崎季繁の花沢館の2館のみとなってしまった。

こうなれば、時間の問題だ。あわや蝦夷の和人社会滅亡の危機!


死角の男、客将武田信広の登場


ところが、ここに、彼らにとって死角が生じる。それは謎の客将「武田信広」という男の存在。
上ノ国の蠣崎季繁が「客将武田信広」を呼び寄せた。この男、武田信広の戦略は巧妙。

結果として、彼の功績により、蝦夷の和人は滅亡の崖っぷちから脱して今日があるともいえよう。
ちなみに、この人物が、松前藩になる以前の蝦夷の蠣崎。(武田はこの後蠣崎に婿養子。政権掌握)
これが、松前藩の礎石 。詳しくは( MORE:「松前、国獲り興亡物語」頁


無論、コシャマイン親子は、その事実を知る由もない。


客将、武田信広の巧妙戦術
炎の大行列


アイヌの戦士達は、実に強い。
・・・しかし、・・・彼らは、飲まず食わず、戦い続けているのだった。

・・・・・すっかり、薄暗くなってきた。
その時だった。突如、はるか向こうの山並みから、松明の大行列が、こちらに向かってくるではないか!

アイヌの戦士達は歓喜した。 「あっ、あれは、援軍じゃ!」


倅が答えて曰く。 「おお、まさしく、あの炎は我らが民族の証。」

コシャマインは
兵達に
一喝入れた。

皆の者、走れ!我が援軍ぞ!

「皆の者、あれは、
山の民にちがいない。
彼らが応援に駆けつけたのじゃ!
我ら民族は不滅ぞ!!」

走った。走った。皆走った。
我を忘れて、死に物狂いで、
炎の行列目指し、ひたすら駆けた。

「援軍じゃ!これは大群じゃ!」皆が走った!!


2053.gif 「罠!」だった!その時!!
炎に消えたコシャマイン親子


アイヌの人々は、勇ましく頑張ってたが、実のところ、それはそれは苦しかった。
民族を守る為に、水さえ飲んでいない。
仲間が応援に馳せ参じたと喜び、いち早く仲間と軍議を持つべく、その場を去り、その方向へ走った。

戦士達は、仲間と思いこみ、皆喜び勇んで、炎の行列に飛び込んだ。

その時、一斉に、御取りの隊列から離れ、草むらに身を潜めた刺殺隊が躍り出た。

実はこれが、百戦錬磨の武田信広の巧妙戦術。アイヌ民族の風習を見抜いて、
彼らになりすまして、わざわざ松明の大行列を演じていたのだ。

忽ち、大勢の戦士が刺し殺された。
それでも、彼らは屈しない。コシャマイン自ら、槍を振り翳して勇敢に闘った。

背後から、再び、別の潜伏刺殺団が!!

これが、英雄コシャマインの最期だった。倅も死んだ。戦士も皆死んだ。

長禄元(1457)年5月、英雄コシャマイン父子は、一斉射撃を受け、無残にも、ここに倒れ死んだ。

客将武田信広の巧妙戦術。軍配が挙がった。
こうして、 コシャマインの乱 は、花沢館の蠣崎季繁の客将武田信広によって、
コシャマイン父子を射殺の上、鎮定された。

聖なるこの地は、和人の手に落ちた。

キレ者、客将武田信広


信広は、夜援軍がやって来る際に、わざと「松明の灯り大行列」を指示した。
本来なら、夜は闇に紛れて、コソコソ来るに限る。
「松明で灯りの大パレード」作戦は、アイヌの人々の習慣を見知って諮った
「名戦略家ならではの策謀」だった。効果は抜群だった。


彼らは仲間と思い、近づいたところ一斉に撃たれ、殺された。

ここで考察「武田の血について」

武田信広については、実に謎のミステリーBOY。出元については多説多様。
本人はそうだと言い伝えているのに、周囲は、どうも怪しいとの色々物議。
しかしながら、訳有りの悲劇の御曹司かどうかは別として、
私的には、なんらかの形で「武田」の血をひいているとする説を推したい。

コシャマインの乱、鎮圧成功の原因については、一般に言われているのが、上記の
「松明の灯り大行列」。彼らの習慣をよく観察して、裏をかいた点。

ところが、私的には、その点も勿論ながら、「よく調練された隊士分業」が気になる。
やられっぱなしで、それまでどんどん潰されていた10個の館について、武器は何を主力に
、隊の構成はどのように闘っていたのか、残念ながらよく解らない。当時、
銃はまだ無いが、調練を徹した強い隊は武田ならではと、ふと感じる。

武田は、古くから、戦士主力となる兵の他、土工職人をセットにして動いていた。
彼らは土塁工事や、敵を陥れる堀を掘ったり。これに限らず、計画的な各隊の分業を
徹していたという。
暗闇に塗れて、軍の脇には、よく調練した優秀な槍兵を潜伏配置していたのだろう。
その点、この時代、武田なら、なるほど。

松前と切支丹

それから、本件から離れますが、武田の臭いは、もうひとつある。松前には切支丹が
隠れ絡む。墓地には、仏式ながら、それらしき隠れ切支丹が今日判然としている幾つかの
墓がある。また、結局幕府の圧力に屈して、藩は最終的に弾圧に踏み切るが、
隠れ切支丹の保護痕跡がある。

有力者の中、それが誰だ!という点は、不思議なくらいに今日でも判明していない。
ご子孫による「うちのご先祖さんは実は・・・」という本も残念ながら存じません。
臭うな!の人物は複数いますが、何年待っても、いくら調べても浮上してこないのは
なぜでしょう?お姫様とか、医者だとか、ライン的に第二ポジションの人物は
判然としてますが、ど偉いクラスの人に限って、ちっとも証拠が出てきません。

これについては、絶対、この「武田」の血が原因だと定義つける根拠はありませんが、
もともとの武田の地と、「武田」の血は、確かに隠れ切支丹が絡んでいる。


◆大手柄のこの人物、「客将_武田信広」は、ご褒美に、蠣崎季繁の養嗣子(逆タマの輿)
となり、蠣崎姓を名乗る。各地の館主も統合配下へ。松前藩の礎石となる。
やがて、松前藩へと移行してゆく。
長年、どんなに足掻いても結局稲作が不可能だった蝦夷の治世は独特。年貢システムが
組めない。そこで、アイヌの人々を使い、独特の商法で儲けた。渡島半島を拠点に、
家臣を道内各地に派遣して利益を得た。やがて、場所請負制度を敷く。
武士の商法。損金発生、何回も頭打つ。そこで、商人に任せ、リベート制のほうが、
効率が良い為。ところが、これが、アイヌの人々にとって、ますます受難の
根源となってゆく。
尚、武田信広についても、
hata MORE:「松前、国獲り興亡物語」頁へGO!


Q、「ところで、蝦夷って、いつから、和人がいたの?」
A、「実は、ずっと昔。 なんと、600年代のハナシ!! なのだ。
上記ストーリー、コシャマイン親子どころか、それより、もっともっと前に、
すでに蝦夷は蹂躙されていた!」

アイヌの人々の住む国が、和人に侵略されたのは・・ずっと昔。
大化の改進(645、だの阿倍仲麻呂だの・・の頃:7世紀の中葉頃!!であります。


◆『日本書記』の斉明天皇5(659)年、阿倍の臣の遠征が記録されている。
hata MORE:「松前、国獲り興亡物語」頁へGO!

しかし、蝦夷は広かった。全アイヌの人々が不幸になったわけではなかった。海の民、川の民、
漁場近辺は早くから蹂躙されていたが和人が踏み込めない深い山々。山の民には、まだ昔ながらの
暮らしを継続できる世界も残っていた・・・のだが。
◆松前よりも、幕府よりも、「桁違いの悪さ!」をやらかしたのは、結果として、THE_明治だった。
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文章解説(c)by rankten_@piyo、
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