HANNAのファンタジー気分

HANNAのファンタジー気分

September 20, 2021
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「もののけ姫」 は公開当時(1997年)観ていなくて、先日TVで観ました(2度目です)。
 問題作などと言われて、解釈や解説や、宮崎駿さん自身のコメントがすでにあり、どうしても色々考えながら観てしまいますね。
 女性から見てすばらしいヒロインを生み出すのが得意な宮崎駿さんですが、今回主人公はアシタカなのに、もののけ姫サンやタタラ場の烏帽子御前などやっぱり女性たちが印象的です。

 最初に出てきたエミシの村の娘たちや巫女は、古典的な女性像だけれど、舞台が西国になると、サン、烏帽子御前、タタラ場の女性たち、みんな躍動的で力にあふれ、猛々しく戦っています。
 乱世を生き抜く彼女らは、奔放で気兼ねなく言いたいことを言い、やりたいことをやって自立していて、一見とてもすがすがしくカッコいい・・・まるで古典的な男性のように。
 もちろん、生け贄として捨てられた赤子だったサンや、過去に訳ありの烏帽子御前と女性たちは(ハンセン氏病の人々も含めて)当時の社会からはじかれた者たちで、カッコ良さの裏にはよほどの苦労があったはず。戦わなければ生きられない、でも乱世=時代の変わり目なので、戦えば居場所を作れる、そんな時代。

 ただし彼女たちの生き方は、本来女性が持っている、生み育てる、いたわり看取る、などではなく、男性と同じ仕事をし武器をとって戦うというもの。

 その象徴が、烏帽子御前による、自然神シシ神の首の切断でしょう。

 文明史的に見ると、こんな生き方が本格的に始まったのが、この物語の舞台となる室町後期の戦国時代。乱世が終わり江戸幕府がいくら鎖国して農業基盤の社会に戻そうとしてもうまくいかず、明治以降の富国強兵から戦争そして高度成長まで、がむしゃらに生き抜こうと頑張るあまり、思えば私たちは直線的(男性的)に大量の収奪と廃棄と破壊を行ってきたわけです。
 そんなことを思うと、子どもも老人もおらず家庭的な生活感のないタタラ場(まったくの「職場」ですね)や、死に絶えていく自然神の怒りと無念を背負ったサンの姿は、何だか張り詰めすぎて痛々しい。

 そこへ登場する主人公のアシタカは、古典的な男性ヒーローとは反対に、張り詰めた緊張と一直線な暴走を止めようとします。
 故郷ではタタリ神を射殺して村を守るなど古典的男性ですが、呪いを受けたあとは、運命を受け入れて探求者となり、不要な殺生をせず、人々やもののけたちの両方を理解して両方の生命を救おうとする立ち位置。
 それは、西国の人々とも、もののけとも、タタラ場の女たちともちがう、よそ者だからこそ立てた立ち位置なのでしょう。エミシの老巫女の言葉:

  大和の王の力はなく将軍どもの牙も折れ・・・我が一族の血もまたおとろえたこの時に、一族の長となるべき若者が西へ旅立つのはさだめかもしれぬ ーー「もののけ姫」

 追放という形で送り出されたエミシ族代表アシタカの、最後の使命。それは、結局は切断されたシシ神の首を返すこと、すなわち、ナウシカ流に言うと「失われた大地との絆を結び」直すことでした。
 そこへ行き着くためには、白黒、生死、敵味方、はっきり決着をつけたい男性原理の追求ではなく、両方を受け入れて包みこむ、いわゆる母性的な立場に立つことが必要だったのでしょう。
 女性たちとアシタカと、古典的(生物的)な男性女性の生き方が逆転しているようにもとれ、そのジェンダーレスな感じが、今(近代以降の直線的発展の末にやっと「収奪・廃棄の場」以外の目で自然を見始めた現在)の私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。

 大団円で、シシ神(デイダラボッチ)が山野に破壊をもたらしたあと、森が再生の兆しをみせると同時に、サンとアシタカも再出発、烏帽子御前たちも「やり直そう」と言っています。物語全体を包括するとても大きな意味合いで、破壊やボーダーレスな試行錯誤のあと、ゆっくりとではあるが確かに再生への道を歩む、その生死のサイクルこそが生命だ、と思うと、私たちも未来に希望が持てるかもしれません。





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Last updated  October 5, 2021 12:04:28 AMコメント(0) | コメントを書く
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