1

(二) 二十日の暁方、普照は夢とも現実ともなく、業行の叫びを耳にして目覚めた。それは業行の叫びであるというなんの証もなかったが、いささかの疑いもなく、普照には業行の叫びとして聞こえた。波浪は高く船は相変わらず木の葉のように揺れていた。船は波濤の頂に持って行かれては、波濤の谷へ落とされていたが、船が谷に落ち込む度に、普照の眼には不思議に青く澄んだ海面が覗かれた。潮は青く透き徹っており、碧色の長い藻が何条も海底に揺れ動いているのが見えた。そしてその潮の中を何十巻かの経巻が次々に沈んで行くのを普照は見た。巻物は一巻ずつ、あとからあとから身震いでもするかのような感じで潮の中を落下して行き、碧の藻のゆらめいている海底へと消えて行った。その短い間隔を置いて一巻一巻海底へと沈んで行く行き方には、いつ果てるともなき無限の印象と、もう決して取り返すことのできないある確実な喪失感があった。そしてそうした海面が普照の目に映る度にどこからともなく業行の悲痛な絶叫が聞こえた。 船は何回も波濤の山に上がり波濤の谷へ落ち込んだ。普照の眼には何回も夥しい経巻が次々に透き徹った潮の中へ転がり落ちて行くのが見えた。『天平の甍』井上靖 新潮文庫 p156 業行は、唐に渡って後は、持てる力のすべてを写経に注ぎ込み、写し終えた膨大な量の経巻とともに船に乗り込んで日本を目指した僧である。 日本に戒律を伝える資格を備えた高僧を招くという使命を帯びて唐に渡った普照は、鑑真にめぐり合い、その後は行動を共にし、日本に渡るべく別の船に乗り込む。 そして普照は、業行が彼の努力の結晶、ある意味で彼そのものと言っていい経巻とともに海に沈むのをまざまざと見てしまう。 この本を最初に読んだのはかなり昔の事で、だからこそこの場面が強く印象に残ったのだと思う。一生をかけて行った何物かが、一瞬の内に無に帰してしまうという事があるという事を若い内に知るのはかなりのショックである。 生徒たちはなぜか鑑真をよく知っている。中学校で印象深く教わっているのだろうか。 そういえば、フランシスコ・ザビエルもよく知られている。 関連があるといえばあるのだけれど、面白い。 唐招提寺金堂、早く青空の下で観たいものだ。 サハラのバラです。
2007.11.08
閲覧総数 81
2

『日本の青空』という映画を観てきました。自主上映です。 日本国憲法の制定過程を追ったNHKの特集で大きく取り上げられた鈴木安蔵という憲法学者を軸として映画は進行します。 鈴木の履歴。戦中の生活。そして敗戦直後からの憲法研究会を中心とした憲法制定の動き、政府の動き、GHQ内部の動きなどの複雑な縦糸と横糸とが巧みに映像化されています。 鈴木に高橋和也、妻に藤谷美紀、白州次郎に宍戸開、高野岩三郎に加藤剛、そしてベアテ・シロタにデルチャ・ガブリエラ(知らない女優さんでしたが良い演技でした)。 監督の大澤豊氏は、山本薩夫監督の助監督を務めたこともあり、「憲法制定」という複雑な事柄を分かり易く映像化してくれています。 GHQの「押し付け憲法」と一部の人々から罵られてきた現憲法の制定過程に日本人の草案作りの努力があり、その草案の中に生かされているのは明治期自由民権運動の中で生み出された民間で作成された「私擬憲法」であったという事実が見事に描かれています。 今回の自主上映の主体は地域の「九条の会」でした。ホームページを見ると、各都道府県ごとの上映の日程が載っています。まだ見ていない方は足を運ばれてはどうかと思います。 憲法が制定された時代の「初心」が描かれています。たとえば、鈴木の妻の言葉、「女性が参政権を得て投票ができるような国になれば、軍隊を持たない国が出来るようになる」という言葉は、この当時の実感であっただろうと思います。しかし、事はそう簡単には行きませんでした。 その事を悲しむのではなく、憲法制定時の「初心」はなんであったか、憲法には当時の人達のどんな願いが託されていたか、それを振り返る事は大切であると思います。 ましてや自国の憲法に向かって唾を吐くような手合いが堂々と発言するような現状に対して慨嘆するだけではなく、憲法を見直すためにも、学びなおすためにも必要なことではないでしょうか。 ちょっとタイプの違った猫人形です。
2007.09.01
閲覧総数 3
3

思い立って一家で岩座神へ。途中、富久蔵で食事をし、盲学校の生徒たちの粘土細工を拝見させてもらって後、一路北へ。 ついて見ると、観光バス二台で先客が。 六月に来た時は、以下のようでした。 夏の岩座神です。 稲の穂も稔り、そして垂れています。 鶏頭の向こうに棚田が見えます。 こうなると、秋の収穫期にも来ようかな・・という気になります。 途中、うさちゃんさんから紹介していただいた足立醸造に立ち寄り、二本購入。先日、吐夢さんから焼き鮎醤油をお贈りいただいたので、我家は一挙に「醤油長者」となっておりますよ。 自然。人間が自分たちの為にも守らねばならないものがそこにある、としみじみ思いました。
2006.08.21
閲覧総数 2
4

せしるんさんと同じく私も「きっこのブログ」のファンなのですが、そのために、とんでもない文章を読むハメになってしまいました。 坂東真砂子さんという小説家が、「日経」に載せた一文。 生まれたばかりの猫を捨てて殺すという自分の行いを大仰に肯定した文章を読んで、私も、せしるんさんと同様、日経、よくも載せたな・・と思いました。 言論の自由がある事は誰でも知っていますが、同時に新聞、雑誌には「編集権」というものがあります。つまり、日経はこの文章が、紙面を飾る事にオッケーを出したという事です。 こういう文章を眼にした後では、やはり、以下のような映像を見ないとおさまりません。 これこれ、なんというはしたない・・。 仲が良いんだか悪いんだか・・。 こういう場所がすきなんですね。 猫好き、猫馬鹿の皆さん、みなさんの猫ちゃんの可愛い写真をアップして、お口直しをされてはいかがでしょうか。 ああいう下劣な文章を読んだあとでは、必要な事でありますよ。
2006.08.21
閲覧総数 4
5

私の家には、CDとカセットテープを聞く事ができるCD・ラジカセがあるのですが、ついにぶっ壊れてします、買い換えることに。 お店に行ってみると、棚の上のほうにはCDとMDが聞ける機械が並んでいて、2万円とか4万円とか。 下のほうの段には、CDとカセットと両方聞ける機械があって、これは1万円以下。数も少ない。 テープが結構あるんですよね。落語のテープも多数。桂米朝師匠の名演も多数テープであります。 結局、下の段のCD・ラジカセを8000円ほどで買って来て、米朝師匠の「地獄八景・骨つり」を聞き、円生師匠の「文七元結」を聞いています。 「骨つり」、関東では「野ざらし」という題で演じられています。魚釣りに行ったら骨を釣り上げ、何かの縁・・と供養してやったら、夜になって、丁寧に供養していただきありがとうございます・・と美女が訪ねてきます。それを知った隣の男は船を仕立てて骨を釣りに行く・・というお噺です。 カセットテープは消えていく運命なのでしょうか。ビデオテープも積まれて安売りの商品となっていました。時代の変化ですね。i-podみたいなものがでてくると変化は加速されるようですね。 花梨です。実の大きさに驚きますね。
2006.09.02
閲覧総数 5
6

晩御飯を食べている時に妻が教えてくれた噺です。 デパートやおもちゃ屋さんで売っている、「ウルトラマン変身セット」て、あるやん。マントとお面が入っている奴。 あれの袋に、なんて書いてあるか知ってる? 「実際は変身できません」とか? 当り!なんか、「変身セット」って書いてあるのに変身出来ないんですけど!って抗議の電話があるんやて。 そんなんやったら、「あのー、変身セット使っていたら変身してしまって、三分間たっても元に戻らないんですが、どうしたらいいんですか?」って電話する方がオモロイと思うけどなぁ。 なんか、馬鹿が増殖しているのかな・・。オムツの宣伝で、これだけたくさんのオシッコでも大丈夫・・というCMで、ブルーの液体が使われたとき、「うちの赤ちゃんのオシッコはブルーじゃないんですが大丈夫でしょうか?」という問い合わせがあったというけれど、大丈夫なのは貴女の頭ではないか・・・と、担当者は言いたかったでしょうね。 ノウゼンカズラです。
2006.08.24
閲覧総数 4
7

『毎日』夕刊に、という見出しの記事が載っていました。 妻の津村節子さんは、「家にいたから、自分の死を決する事ができてよかった。ただ、私はその姿を目の前で見てしまった」と語っておられます。 「死の前日、点滴の管と首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートを自らの意思で引き抜いたという。吉村さんは『延命治療をしない』意向だったため、家族は治療を断念した。 吉村さんは遺作となった小説『死顔』の推敲を繰り返していたという。 津村さんは『新作の推敲があったから闘病に耐えられたと思う。書斎に入っているときが一番幸せそうだった』と語った」と記事の後半にありました。 夫の意思を尊重なさった津村さんは辛かったことでしょう。ただ、人生の終末をどう迎えるかについて、おそらく津村さんは、吉村さんの生き方と、全作品から理解されていたと思います。そのことと感情のレベルで納得できるかどうかは別問題ですが、津村さんは、理性で感情を押さえ込まれたのではないでしょう。 その事は、夫に対する最高の敬意の表し方だったのではないかと推測します。 死にたくないと、生に執着するのも、従容として死を受け入れるのも、すべて個人の生き方の問題でしょう。その意思を最大限尊重する事。辛くとも個人の意思を受け入れる事。その事の大切さを教えていただきました。 蛇足では有りますが。『毎日』の見出しの下には、とありますが、「自決」という事と、「自分で死を決する」という事とは意味が違います。残念な、なくもがなの小見出しでした。 夏のこの花を吉村さんの霊前に手向けたいと思います。
2006.08.25
閲覧総数 2
8

散歩していたら会えた猫です。 近くによってパチリとやることを許してくれました。 首輪がついていないから野良かなぁ。 キミも中々良い顔してるよ。ま、うちの二匹には負けるけどね。 かなり目つきが鋭いというか・・「こいつ何してんねん・・」と疑ってるな・・。
2006.09.02
閲覧総数 4
9

人間魚雷・回天は全長14,75m。この自爆兵器と初めて対面したときの事を、体験者は以下のように語っている。 「我々はついに自らの乗るべき兵器を見た。もはや、われわれは人間であり続ける事はできないのだという感覚が、その時以来の思想、行動のすべてを支配した」 「この巨大な物体を眼にしたときの衝撃をなんと表現すべきか。自分が死刑囚だと知っていても、と見せられたら、やはりこんなショックを受けるだろう。俺はこの中に入って死ぬんだ、これが俺の棺桶なんだ。みんな黙りこくって、の状態だった」『戦争で死ぬ、という事』 この特攻自爆兵器に搭乗する事になるのが、甲子園の優勝投手であった並木浩二。肩の故障で剛速球を投げる事ができなくなった彼は、「魔球」に活路を求めようとするが、戦局の切迫は彼に、それを許さなかった。 野球、そして恋人に心を残しつつも彼は回天の搭乗訓練に励む。 いよいよ出撃の日。ここから先は書けない。 この本の帯には以下のように書いてある。 「9月16日、映画公開!出演 市川海老蔵 上野樹里 脚本 山田洋次 最終兵器「回天」が意味すること。戦争とは、青春とは。 作品は「出口のない海」 横山秀夫 講談社文庫 「明日はないかもしれない」という状況に直面させられた若者たちの群像は、胸に迫ってくる。一人一人がかけがえのない夢を持っている。その夢を途中で断ち切られる。その事を自分にどう納得させるか。そのことのなんという切なさ。 並木の最期の描き方に、作者の思いがこもる作品だ。
2006.09.03
閲覧総数 2
10

とうとう最終日、イスタンブール観光です。 まず、ドルマバフチェ宮殿。もう豪華絢爛なヨーロッパ風の宮殿です。 部屋も豪華、ついでに下のようなどでかいものが天井から吊り下げてあります。この宮殿最大のシャンデリアです。 床には特別製の絨毯が敷き詰めてあり、「贅を尽くした」という表現がピッタリ。 こういうカットグラスもあるのです。薩摩切子のような感じもするのですが。確証はありません。 そしてトプカプ宮殿へ。 ここが幸せの門です。ここから、宝物館、東洋陶磁器の展示などを見て廻りました。 日本の陶磁器です。良いものが残っているのは嬉しいことです。 宝物館では、でかいダイヤモンドが展示してあります。妻がうっとりと見入っていると、警備員の人が、「このダイヤも美しいけれど、あなたも美しいですよ」と日本語で言ってくれたそうです。 妻は大喜び。最初は、「あなたはこのダイヤより美しい」と言ってくれたと言うものですから、「そんな馬鹿なことをいうものではない、精々、『同じくらい美しい』が関の山だ。トルコの名宝を馬鹿にするようなことを公務員が言うはずはない」とたしなめておきました。 しかしすごいですね。言うだけはタダとはいえ、なんと言う歯の浮くようなことを。歯槽膿漏になりそうだ。 ここで、あのご夫婦と、可愛い猫ちゃんとの出逢いがありました。 その後、ボスフォラスクルーズ。 最後はグランドバザールでお買い物。 内部です。貴金属の店がずらりと並んでいます。 少しだけ横丁に入ると、スカーフの店がありました。一枚2500円!妻が2000円まで値切りました。向こうの持っている電卓に、1800円!と打ち込むと、それじゃ商売にならないよ・・と、1900円。わざわざ日本から来たんだから・・と1800円。あ、そうだ、2枚買うから、3600円で良いじゃない・・と言うと、取引成立。 近くに絨毯の店もあるから寄っていかないか? あ、それは昨日買った。もういらない。それに買った絨毯に乗って帰るからもう荷物は増やせない。 大きな絨毯を買えば大丈夫だよ。 またトルコに来たときに寄るよ、と握手して別れました。楽しいやり取りでした。 夕食は、オケアノスという店で、魚。まず魚のスープ、そして、白身魚の煮たの。トルコに来て初めての本格的な魚料理でした。なんと美味しかった事か! 空港で、ガイドさんとサヨナラ。本当に博識で、サービス精神旺盛なガイドさんでした。住所を聞いたので、早く手紙を出さないといけません。 飛び立つ飛行機の窓から写したイスタンブールです。 渋滞する車の間を縫うようにして水を売っていた少年。一個百円ほどの独楽を売っていた少年。炎天下、羊を追っていた少年。夕方、家の前でみんなで語り合っていた家族の姿。数人で楽しそうに遊んでいた子どもたち。表面をさらりと撫でただけの旅行でしたが、トルコ、眼が離せない、平和が続いて欲しいと心の底から願う国となりました。
2007.08.15
閲覧総数 6
11

二人羽織という芸がございます。羽織を着た男の背中にもう一人の男が入って、顔を曝している男を後ろから操る・・という芸ですが。 安倍晋三という男の後ろにいるのは、誰あろう、岸信介なのですよ。 岸は、安倍に乗り移って自分がやろうとしてやれなかったことをやろうとしているわけです。 戦争責任の否定、侵略の否定、「復古憲法」の制定。靖国参拝、対米従属。 同じです。 小泉よりも分かり易い。憲法を大切にし、生活の中に活かしていこうと努力している国民との対立軸はハッキリしたわけです。 亡霊に私たちの国を乗っ取られてはなりません。 洋種ヤマゴボウ。「洋酒ヤマゴボウ」と思ってました。色がつくと落ちないんですよね。 安倍君、キミについた色もそんなに簡単には落ちないんだよ・・。
2006.09.02
閲覧総数 4
12

以下は、『毎日インタラクティブ』の記事。 安倍晋三官房長官は1日夕、広島市内のホテルで記者会見し、9月の自民党総裁選への出馬を正式に表明、「新憲法を制定するために自民党総裁としてのリーダーシップを発揮したい」と述べ、憲法の全面改正への強い意欲を示した。 安倍氏は「まじめに額に汗している未来を信じる普通の人の政治を行いたい。世界の国に尊敬される美しい国、日本を作っていきたい」と強調した。 そのうえで(1)首相官邸主導の政治リーダーシップを明確にし、筋肉質の政府にする(2)再チャレンジ可能な社会を作る(3)日米同盟はアジアのための日米同盟であることを確立する(4)中国、韓国、ロシアといった近隣諸国との信頼関係を向上させる--などと表明した。 以下は、私が加筆訂正したものです。 安倍晋三官房長官は1日夕、広島市内のホテルで記者会見し、9月の自民党総裁選への出馬を正式に表明、「現憲法を踏みにじって、普通に戦争可能な憲法を制定するために自民党総裁としてのリーダーシップを発揮したい」と述べ、憲法の全面改正への強い執着を示した。 安倍氏は「額に汗して靖国神社に参拝している日本の無謬を信じる一部の人のための政治を行いたい。世界の国に軽蔑されても美国(アメリカ)についていく美しい国、日本を作っていきたい」と強調した。 そのうえで(1)首相官邸主導の政治リーダーシップを明確にし、頭が筋肉質の政府にする(2)薬害エイズなどで責任を問われた官僚が再チャレンジ可能な社会を作る(3)日米同盟はアメリカのための日米同盟であることをますます確立する(4)中国、韓国、ロシアといった近隣諸国との信頼関係を向上させる(笑)--などと表明した。 『平気で嘘をつく人たち』というタイトルの本があったな・・。 「千日紅」・・だと思います・・。
2006.09.01
閲覧総数 4
13

小泉氏のときも安倍氏の時もそうだったが、最初の段階での支持はびっくりするくらいの高率だった。 支持する理由として「支持している政党だから」というのがある。まぁ、そういうもんだろうな・・と思う。 だが、どうしても解せない項目がある。それは、「人柄が良さそうだから」という一項だ。「人柄が良い」という事を、私たちはどうやって知ることが出来るのか?テレビに出てきてしゃべる時の顔つきか。喋り方か。喋る内容か。 第一、総理の「人柄がいいか悪いか」判断できるほどの距離で私たちは生活しているのか?朝、ドアを開けたら、晋ちゃんが両手にゴミの袋を持ってゴミステーションに行こうとしている姿を見ることが出来るのか? バス停でバスを待ちながら、世間話の一つもした事があるのか? 飲み屋に行ったら、管を巻いている晋ちゃんがいて、「どうした?」と声をかけると、「みんながいじめるんだ・・・」と涙眼で訴えられた経験でもあるのか? テレビの画像が、その人物の「人柄」まで映し出すと思うのは、少数の例外を除いて、間違っていると思う。通販の「ぶら下がり健康機」を買うのとはわけが違う。 一国の総理が「人柄の良さ」だけでつとまると思っているのなら、角の八百屋のオッサンの方が人柄は良いと思う。昨日散髪してくれたオヤジの方が、絶対に上だと思う。 総理になった、或いは、総理になろうとしている男がこれまで何をしてきたか、何を言ってきたか、その事が「支持」「不支持」の唯一のポイントではないのか?いま、立会演説会で彼らが語っている高邁な理想論、抽象論と、彼らの過去の言動との整合性を「思い出して」「つき合わせてみる」事が大切ではないのか? 「そんな昔の事は憶えていない」というセリフが似合うのは、リックだけである。
2007.09.17
閲覧総数 2
14

ニュース番組に竹中平蔵が出てきて、汚染米の件についてコメントしていた。どの面下げて出てこれるのかと思った。 今回の件で私が驚いたのは、米の流通ルートの複雑さ。調べてみると、小泉のときに行われた食糧法の改悪がその出発点。誰でも米の流通に参加できるようになった(許認可制から届出制に。取扱量が20万トン以下は届出も不要)結果として投機を目的とするような業者も参入し、結果として農水省は流通管理を放棄する事になった。 辞任した事務方のトップの白須事務次官は、「今回の件について私どもに一義的に責任があるとは思っていない」というのなら、つぎにこう言うべきであった。 「私たちが流通ルートを管理できないくらい『自由化』してしまった小泉・竹中両氏に責任があると言わざるを得ない」と。 農水省に監督官庁としての責任を求めるのなら、監督できるようなサイズの流通ルートに戻すか、農水省の役人の数を増やし、無理なく監督できるようにすべきであろう。 到底監督できないような状態をそのままにしておいて、「監督しろ!」というのは、おかしいということに気付かねばならない。立ち入り検査の方式の変更とかは技術的な問題だ。 今回の「戦犯」竹中、そして小泉の責任を追及しないというのは、どう考えてもおかしい。そして、のこのこ出てくる竹中の無責任さと厚顔無恥、さらにそういう人間を出演させてコメントさせるテレビ局の見識のなさにもあきれ果てる。 太田と白須が辞めて幕引きするのなら、また同じことが起きる。 今直ちにやらねばならないことは、小泉と竹中がアメリカの要求に沿って行った「規制緩和」の結果の検証ではないか。
2008.09.20
閲覧総数 2
15

東京・荒川区は19日、野良猫やカラス、ハトなどにエサを与えて集めることを禁止する条例案を、11月の定例区議会に提出すると発表した。来年度からの施行を目指す。区は罰則付きでエサやりを禁ずる条例は全国で初めてとしている。 同区内では数年前から、エサを目当てに集まるカラスや猫の鳴き声、ふん尿の被害に住民の苦情が相次いでおり、今年は8月末までにカラスで98件、猫で72件の相談があった。エサやりを強制的にやめさせようとしても根拠法令がなかったことから、条例で規制することを決めた。 禁止されるのは、動物にエサを与えて集め、鳴き声やふん尿などの被害を生じさせる行為。飼い犬や飼い猫など人が所有する動物は除外される。複数の住民が苦情を申し立てるような事態で適用されるという。 違反があった場合、区は立ち入り調査を行い、弁護士などによる審査会の決定を経て中止命令を出す。従わない場合には警察に告発する。調査拒否には10万円以下、命令に従わない場合は5万円以下の罰金が科せられる。(2008年9月19日20時04分 読売新聞) 「禁止されるのは、動物にエサを与えて集め、鳴き声やふん尿などの被害を生じさせる行為。飼い犬や飼い猫など人が所有する動物は除外される。複数の住民が苦情を申し立てるような事態で適用されるという。」という部分は具体的にはどういうことだろう? 道を歩いていたら野良君にばったり出会ったので、ほんの挨拶代わりにと隠し持っていたカリカリ餌をポケットから出してきて与える、という行為は罰せられる事はなさそうだ。 自分の家の一角に常時餌場を設置し、来る猫拒まず、去る猫追わず・・・という姿勢を貫いていると、ご近所から「猫屋敷」と指弾されて罰金を食らう、ということになるのだろうか。 猫の可愛さは飼ってみないと分からない。この可愛さがあるから、ウンチの世話もオシッコの世話も出来る。部屋の隅に、或いはソファーにオシッコをされても(昨日は学校に持っていっているバッグに引っ掛けられた)、ぶつぶつ言いながらでも片付ける事が出来るのは可愛い仔であるからに他ならない。 逆に言うと、猫を飼ったことがない人にとったら猫のウンチ、オシッコなるものは悪臭の代名詞である(ホントに臭いから)。自分の住んでいるエリアから野良猫、野良犬を駆除したいという気持も分からないではない。 しかし、と思う。「野良猫が住める地域」作り、というのは無理な考え方なのだろうか?猫は野生動物ではなくて家畜であり、人に優しくされる(猫は嫌がるかもしれないけれど)ことが必要な生き物だ。○猫を捨てない。○捨てられて野良になった猫には避妊・去勢手術を施す。○餌を食べる事が出来る場所を数箇所設ける。○ウンチやオシッコの掃除、悪臭の除去は愛猫家(猫馬鹿)が率先して行う。○「避妊・去勢手術」「餌代」をまかなうために、「地域猫基金」を設ける。この基金に対しては、「猫馬鹿」はやはり率先して協力する事。企業・自治体に対しても働きかけていく事。 私は鯨を守る活動に金を出そうとは思わない。しかし、地域の猫を守るためならいくばくかの金を出す用意はある。賢い鯨を守ってくれる奇特な人は多いだろう。だけど、馬鹿な猫を守りたいと思うものがいてもいいはずだ。 全国に多数の愛猫家(猫馬鹿)がいると思う。猫馬鹿にとって、「自分の猫が一番可愛い」というのはアタリマエである。しかし、散歩の途中にふと野良君に逢う楽しみは捨てがたいものがある。野良君が駆除された街。そんなところには私は住みたくない。 猫が嫌いな人に、「猫が好きになれ!」と強要する気はない。猫のウンチは、オシッコは迷惑であるというのは当然だ。猫馬鹿はそこは理解しないといけないと思う。その上で、「自分たちが出来る事」を引き受けるという覚悟をして「人間と猫とが一緒に暮らせる町」がつくれないかを探らねばならない、そう思う。 近くの駅にいるチビさんです。
2008.09.20
閲覧総数 4
16

もう・・・ホントに嫌になるよなぁ。このメンツなら、オレか邦夫か昭一かって思ってたんだよ。・・同じ「中」でも、「川」が決壊するんじゃなくて「山」が崩れるとは思わなかったよ。 党の中でも擁護する声なんかねえんだろ?アイツとは関係ない、ワタクシ違いますのよ・・てな顔してさ。オレみたいに無理筋でも庇ってやろうって野郎はいないのかねぇ・・。 えっ、今の心境? バカヤロー!・・・解散・・・。 「政治経済」中間考査問題問(1)上記の言葉を語っているのは誰か? A吉田茂 B浅田次郎 C麻生太郎 D朝潮太郎問(2)「バカヤロー!」とは誰に向かって言った言葉か?選んだ理由も書きなさい。 A小泉純一郎 B中山国交相 C中山恭子前拉致担当相 D日本国民問(3)「解散」とは誰に向かって言った言葉か?選んだ理由も書きなさい。A新聞記者団 B国境なき医師団 C後援会の取り巻き連中 D日本国民
2008.09.26
閲覧総数 5
17

霞ヶ関周辺の心療内科が最近にぎわっている。 理由は、閣僚になってしまったためにホンネが言えなくなったストレスにあると言われていて、H山とかN川などの姿がよく見られるという。 A生氏は、祖父からの隔世遺伝で暴言の常習犯的なところがあるのだが、何しろ先を越された悔しさから日々悶え苦しみ、先日は医師の前で、涙を流して「N山が(あ、もういいんだ・・。中山ね)羨ましい・・・」と訴えたという。 各医師ともに購入しているのは水壺(これは天満天神繁盛亭で販売している)。この中に各人が大声でホンネを怒鳴る。外部に声が漏れないように壁を厚くしたりと何かと物入りで・・とこぼす医師も多いという。 解散・総選挙を控えて自民党は暴言対策にやっきとなっている。 赤城しのように、絆創膏を貼ったらどうだ・・口に、という案も浮上したが、やはり心療内科へ・・という線で落ち着いたようだ。 「読切新聞」9月28日 ☆まろの新しい首輪です。緑よりこっちの方がいい!という事でこうなりました。本人はどう思っているのかな?涼しくなったので寄って来てくれます。いい季節になりました。
2008.09.28
閲覧総数 12
18

NHK『知るを楽しむ』は、ということで、「日本刀」を取り上げていた。 日本刀といえば、衝撃的なシーンを「トリビアの泉」で見たことがある。 ピストル、ライフルの弾が日本刀で真っ二つになるシーン。これには仰天した。 もちろんスロー再生なのだが、銃口から飛び出した銃弾が、日本刀の刃先に当たると、バナナが切れていくみたいに真っ二つになっていく。 これには続篇があって、日本刀は重機関銃と対決させられて、最初の数発を真っ二つにしたものの、無残にも折れてしまった。観ていて、大変に気分が悪くなった。 前の学校で教えた生徒の中で、「刀鍛冶になりたい」と言った生徒がいた。あとにも先にも彼一人だけだが、奈良の刀鍛冶のところに弟子入りしたと聞いた。今でも頑張ってるかな。 最高の刀は「古刀」(平安・鎌倉)だそうで、製鉄技術が未熟であった時代に、かえっていいものができているという逆説が厳然として存在している。だから、「鉄と人とは時代が下るほど悪くなっている」という江戸時代の刀匠の言葉が残っているわけだ。 古美術商の方が登場して、「こちらのお店で一番高価なものは?」と言う問いに、「5000万円ほど」と答えていた。そのあとが面白い。200万とか500万出して日本刀を買っていく人は総じて服装を構わない人が多いらしくて、その店長さんは、「服装を構わないような方がこられたら丁重にお迎えするように」と店員に言っているという。私も構わないことでは人後に落ちないので行ってみようかしら。丁重に迎えてもらえるかもしれない。 新聞や雑誌に時々模造品の刀の広告が載っている。重さが1キロほどある。これを片手で振り回していたわけだから、宮本武蔵という人間は大変な膂力をもっていたという事になる。『五輪書』の中には、確か、「片手で使えるように修練すべし」という一言があったと思う。 最近は、「武士道」ばやりだが、『五輪書』を読むと、その徹底したリアリズムに驚く。要するに、どのように人を殺すか、いかに優位に立つかといったことが、縷々述べられている。身も蓋もないといっていい。こういった部分を排除して成立する「武士道」とは、何なのだろうか?都合が良いところだけのつまみ食いとしか思えない。 ちょっとした入門書を読んでみるだけでも日本刀の奥の深さには驚いてしまう。 また、「人を殺す武器としての鉄砲」の使用と技術を封印してしまい、「刀剣という古くさい武器に逆戻りする道」を選んだ日本人の歴史を、「武装権は本来人民の権利」として銃を決して減らそうとはしないアメリカの「今」と対比してみると、色んなことを考えさせられる。 「今日の日本で武器の保持・携行は、国家権力によって世界でもっとも厳しく取り締まられており、この政策は一般市民のコンセンサスに支持されている」。(村川堅太郎)『刀狩』藤木久志 岩波新書 ※何にも考えないで平和に寝ております。
2006.04.07
閲覧総数 460
19

麻生氏が三分の二の票を集めて自民党総裁に選任された。 彼は、「自民党は責任政党だ」と語っている。 自公が与党であった間に日本はどうなった? 素晴らしい国になったのか? 首相は二代続けて政権を投げ出して他国の笑いものとなり、隣国中国の農薬問題を笑えないような失態を犯し、「規制緩和」の名の下に国民生活を破壊し、格差を広げ、大企業を富ませてきた。 これらすべての事に責任があるのが「自公」である。 民主党の事をアレコレ揶揄している場合なのか? 責任政党とは、「責任を取らない政党」という意味なら分かるけれど。
2008.09.23
閲覧総数 8
20

1月29日 1866年 - フランスの小説家ロマン・ロラン誕生。 ロマン・ロランは、1903年、『ベートーヴェンの生涯』を発表。これが反響を呼び、翌1904年にソルボンヌで音楽史を担当し始めると共に、『ジャン・クリストフ』を『半月手帖』に掲載し始め1912年に脱稿。1913年には『ジャン・クリストフ』が『アカデミー・フランセーズ文学大賞』を受賞する。1916年にはこの作品によってノーベル文学賞を受賞する。 『ジャン・クリストフ』には思い出がある。三回挫折して、四回目にやっと読み終えたという事がそれである。最初に手に取ったのが中3の頃だったと思う。主人公が自分と同じ年頃になった途端になぜか先が読めなくなって挫折。次は高1。この時も同じ理由で挫折。三回目は高3。この時も同じ。で、大学に入学してから読み始めて、なぜかスルスル読み進めることができて読了した。 長い小説を読み通すのには体力がいる。高校生の頃と学生の時には、とにかく長い小説をひたすら読んでいた。 『ジャン・クリストフ』は、べートーヴェンをモデルとした大河小説であり、一人の少年が、成長していく過程を詳細に描いた作品である。 この作品、今ではほとんど読まれていないと思う。本屋でも見たことがない。一世を風靡したにも関わらず、全く手に取られなくなった小説は多々あるが、『ジャン・クリストフ』をはじめとするロランの作品群もそうなのかと思うと、ちょっとさびしい。 ロマン・ロランは、第一次世界大戦が勃発した時に、たまたまスイスに滞在していた。彼は、仏独両国へ戦闘中止を訴える。この行動は国際的に評価される一方で祖国への反抗と受け取られて、一時は帰国もできなくなる。 高校の時に読んだ大河小説『チボー家の人々』という作品の中で、第一次世界大戦が勃発し、大衆の熱狂に押されて各国の社会主義者たち、反戦を訴えていた人々が愛国心の波にのみこまれて転向していく中で、あくまで平和を訴えようとしたジャックが反戦ビラを飛行機に積んで最前線でばらまこうとするが飛行機が不時着、負傷し、スパイ扱いされてフランス兵に銃殺される・・・というシーンを思い出す。 『チボー家の人々』も今では読まれなくなった作品だけれど、高3の時に引き込まれるようにして読んだ。白水社版の第四巻を読んでいて、もう少し...というところまで来たとき、どうしても最後まで読みたくて、授業をさぼって読み終えたことを思い出す。担任の英語の授業で、授業の途中で教室に入って行ったのだが、何も言われなかった。思えばいい時代であったのだろう。 ※「黄色い本」という漫画があって、この『チボー家の人びと』が軸となっているそうだ。未読。 ロランは、ロシア革命に対してはいち早く支持を表明、ソ連を訪問している。彼が1934年に再婚したマリー・クーダチェヴァは、ロランがモスクワから招いた秘書であった。 アンドレ・ジイドが、1936年に発表した『ソヴィエト紀行』を、翌年に、『ソヴィエト紀行修正』として公表、スターリン体制を批判したとき、ロランはジイドに対して批判を加えている。 この時点で、ソ連を批判するという事は左派からの猛烈な抗議を受けるという事でもあったのだが、ロランもそれに連なっている。 今の時点でジイドのこの作品(岩波文庫で、復刻版が出た)を読むと、眼力の鋭さに舌を巻くのだが、当時、それは正当な評価がなされたとは言えない。 しかし、ロランもさすがに独ソ不可侵条約を機としてソ連支持の立場から転換する。 そののちは世界平和のために行動、1939年にドイツ軍がチェコスロバキアへ侵入すると英仏の弱腰を批判する。第二次世界大戦が勃発すると彼が生活していたヴェズレーは占領され、沈黙を強いられる。しかし、1944年にパリ解放を知るとソヴィエト大使館の革命祝賀会に出席、レジスタンス犠牲者追悼会にメッセージを送り、1944年12月30日に死去する。 あ、5年後の同じ日に私が生まれている。どうでもいいけれど。 振り返ってみると、今では読まれなくなった本を結構読んできた。ずいぶんと背伸びして難しい本にも手を出してきた。でも、心の中のどこかにそれらの本は住み着いていて、私の生き方と考え方とをどこかで支えてくれて来たと思う。何が書いてあったかはほとんど忘れたけれど、そんな気がする。
2012.01.29
閲覧総数 379
21

NHKの「水爆実験 60年目の真実」を見ました。 第五福竜丸だけではなく、当時南太平洋で操業していた漁船員が多数被曝していたという事実を当時厚生省はつかみ、そして外務省を通じてアメリカに手渡しながら、船体と漁獲物の被曝量の測定値はあるけれど、個人の被曝量は記録がないと言い張っていた論拠が崩れたという番組でした。 きっかけになったのは、1989年、廃船になったマグロ漁船の被曝量を生徒とともに調査した高校教師の驚きでした。その当時で、自然界の37倍、毎時1,52マイクロシーベルトが観測されたのです。 そして、彼は、水爆実験の当時、南太平洋で操業していた漁船員を訪ね歩き、調査した204人のうち、30%の人たちががんで亡くなったこと、普通1万3000人に1人しか発病しない白血病を発症した人が3人もいることに驚きます。 しかし、この事実を被曝と結びつける調査資料は存在しないと政府(厚生省)は、答弁します。1986年の予算委員会では、「つかんでいない」「資料はない」「調査は困難」の一点張りでした。 ところが、2014年、アメリカの国立公文書館で、日本の厚生省が外務省を通じてアメリカに送った資料が発見されました。機密対象から外されていたのです。 日本でも、情報公開請求に応じて外務省が当時の記録を出してきました。そこには、船員一人一人の被曝線量が記されており、問診の記録も残っていました。 アメリカは当時、ソ連の水爆実験の成功に焦りを募らせており、日本で反核・反米の動きが拡大するのを恐れており、第五福竜丸の乗組員だけを「被爆者」と認定し、見舞金を払い、それ以外の船員たちに対しては調査をしながら「なかったこと」にしたのです。 室戸では、町を挙げて「なかったこと」にするという空気が作られます。マグロで生きている街にとって「放射能で汚染されたマグロ」は、町の人びとの生活を脅かすものであったからです。 アイゼンハワーは、OCBという機関を作り、「原子力の平和利用」を宣伝し、南太平洋において自国が行った地上核実験によってどれほどの人たちが被曝したかの実相の隠ぺいを図ります。OCBとは、「他国の世論に影響を与える活動を行う」機関であり、その目的は、「共産主義に対抗し、日本の核に対するパニックを鎮静化する」事でした。 日本政府はもろ手を挙げてその路線に追随し、民間では正力松太郎が読売新聞社を挙げて協力したのは周知の事実です。 民間人の犠牲に目をつぶり、パワーポリティックスに身を任せる。言論機関としては自殺行為ですが、読売はその路線を選択したのです。 その読売が、サンケイとつるんで、「自虐史観」批判を行い、「国益」を説く。 まず、正力のやったことを全社を挙げて検証したかどうなのか?朝日の従軍慰安婦問題に対してあれこれ言っている場合じゃない。 それにしても、驚いたのは、歯を調べて被曝線量を測定できる、血液検査を行って、遺伝子の変異から被曝線量を測定できるということでした。ものすごく地道な作業を通じて、事実を明らかにしようとしている科学者たちの姿勢に頭が下がりました。
2014.08.10
閲覧総数 6
22

3月20日 平清盛 死没 治承5年閏2月4日(1181年3月20日)享年64 市川雷蔵の『新平家物語』(監督・溝口健二 1955年9月21日公開)を観たことがある。清盛の青年期に焦点を絞ったこの作品は、歌舞伎界から複雑な事情によって映画界に転身せざるを得なかった雷蔵デビュー2年目の作品である。 旧来の伝統に縛られぬ清盛の姿勢は、あれ狂う僧兵たちが担ぐ神輿に向って矢を放ち、大陸の宋との貿易を積極的に築くというエピソードを前面に出すことで描かれる。それまで強調されがちだった権謀術数の塊、猜疑心の強い独裁者、反対勢力を片っ端から粛清する冷血漢・・・というイメージはどこにもない。清新闊達な清盛が市川雷蔵というスターによって見事に描かれていた。 ただ、清盛は、天皇に逆らい、時には幽閉した人物としてその最期は無残なものであったと描かれてきた。 なぜこんなものがあるのかよく判らなかいのだが、米子の家に、江戸時代の和綴じの本があり、そこには、熱病に苦しむ清盛の姿が挿絵として描かれていた。「平家物語」の該当部分を引いてみよう。 入道相国は病にかかられた日からして、水をさえのどにもお入れにならない。体内の熱いことは火をたいているようである。やすんでおられるところから四,五間以内へ入るものは熱くてたまらない。ただ、言われることといえば「あたあた」とだけである。比叡山から千手井の水を汲みおろし、石の浴槽にその水をいっぱいに満たし、それに下りてお冷えになると、水がたいそう湧き上がって、間もなく湯になってしまった。筧の水を引いて清盛公の身体に流しかけると石や鉄などの焼けたように水がほとばしって身体によりつかない。『平家物語』日本古典文学全集 (1)小学館 p449~450 「清盛の医者は裸で脈をとり」という江戸川柳の状態である。 清盛は、苦しい息の下から言い残す。 自分は保元・平治の乱以来、たびたび朝敵を平らげ、身に余るほどの論功行賞を受け、畏れ多くも帝の祖父、太政大臣にまでなり、栄華は子孫にまで及んでいる。現世での望みはすべて達せられ、一つも思い残すことはない。ただしかし、思い残すことといっては、伊豆の国の流人、前兵衛佐頼朝の首を見なかったことで、これこそ何よりも心外だ。自分が死んでしまった後には、仏堂や塔などをたてて仏事供養もしてはならぬ。すぐさま討手をつかわし、頼朝の首を切って私の墓の前にかけよ。それが何よりもの供養であろうぞ。(同 P452) そしてついに「もだえ苦しみ息が絶え地に倒れて、とうとうあっち死にをなさった」ということになる。 清盛亡き後の平氏は坂道を転がり落ちるようにして最後は壇ノ浦で亡びることになるのだが、「平氏政権」というものの性格をどう見るかが今揺れているように思う。従来までの定説は、貴族社会の一角に切り込み、日宋貿易などを握ることによって富を蓄積し、荘園領主ともなり権勢をふるったが、旧支配層と対立し、同時に平氏自身が貴族社会に取り込まれて軟弱化(富士川の合戦で水鳥の羽音に驚いて潰走したこととか)したために源氏に滅ぼされた。「武者の世」を開いた功績はあるが、あくまで本格的武家政権である鎌倉幕府への「つなぎ役」でしかなかったということである。 実はこういうパターンは教える側としたら大変に便利というか、教えやすい。各種のエピソードも配置しながら授業を展開しやすい。 少し、新しい説を見てみよう。 平氏は本格的武家政権の樹立を目指していた、とする説の中心となるのは、「福原幕府」構想である。清盛は高倉上皇と平氏一門の反対を押し切って福原への遷都を強行した。彼は宋との貿易による富を基盤として海に開かれた政権を構想していたのではないか。 治承4年6月2日(1180年6月26日)、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれた。そして平氏政権は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画した。和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域にあたる。 当初平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、なかなか条件に合う土地がなく、計画は行き詰まる。 結局福原に皇居を作りことになるのだが、源氏の挙兵に対抗するために12月11日に京都への還幸となる。 『方丈記』には以下のような部分がある。 毎日壊しては川も狭しと流して運んでいた家は、どこに建っているんだろう。移築された家よりもまだ空地のほうが多い。旧都は荒れて、新都はまだ建たず、あらゆる人がどっちつかずの落ち着かない気持ちだった。元からここにいた人たちは、住んでいた土地を奪われて困っている。新しくやってきた人は土地を求め、家を建てなければならないので、これもよわっている。道行く人を見ると、車に乗るべき人が馬に乗っている。衣冠布衣なるべくき公家が武家や庶民のように直垂を着ている。優雅な都の習俗がたちまちに変わって、なんのことはない、田舎の武士と同じだ。世の中の乱れる前兆とか聞いたが確かにそうで、日が経つにつれ、世の中が浮足だって人心が不穏になり、みんながぶつぶつ言ったことも無駄にはならず、同年冬、やはりこの平安京に陛下もお帰りになった。『方丈記』鴨長明 日本古典文学全集 小学館 p30~31 福原幕府構想は挫折、建物群は源義仲によってすべて焼き払われてしまった 結局、清盛には時間がなかったということになる。また、彼の構想が平氏一門によって共有されていなかったということもこの構想の実現を妨げた。 頼朝と清盛のリーダーとしての行動と決断の違いも見逃せない。清盛は一族、郎党に対する粛清をほとんど行っていない。頼朝は、自分自身の理念に反するもの、理解できないものを片っ端から切り捨てている。 その点が、武家政権を構想しつつも挫折した清盛と、本格的武家政権を樹立しえた頼朝との違いなのだろう。もっともその代償は大きいものであった思うが。源氏が三代で亡びたことにそれは現れている。 さて、今年の大河、どう描くのか?
2012.03.20
閲覧総数 236
23

今、大山パーキングエリア。今日中には帰ります。
2014.08.15
閲覧総数 31
24

地区大会の為の演劇の練習中のオハナシ。 長女がキャバクラで働いているという設定。場面ごとの抜き稽古を終わってあとの休憩時間の会話。 ○ キャバクラって何の略なんだ? ☆ キャバレーとクラブをくっつけたんじゃないか。キャバレーって庶民的で、クラブって高級なんじゃない・・。先生!それで正しいんですか? 私 そんなもんじゃないか。(知らないので深入りできず) △ キャバクラのNO2が、月収100万という設定になっているけれど、これは正しいのか? □ 調べてみたら、それくらいは行ってるみたい。※どこで調べたんだよ! どうもワタクシ、この分野については不案内なので、自信がない。それにしても、劇のリアリティーを追求しようというのはいいけれど、細かいところに入るなぁ。 衛星放送で、演劇の全国大会の優秀作を放映します。確か月曜あたり。興味がある方はご覧になってください。 朝顔です。
2006.08.27
閲覧総数 4
25

イギリスには何でも賭けの対象にする会社(?)があるそうで、ワタクシの愚考いたしますところ、以下のような事柄も賭けになるのではないでしょうか? 「今度の内閣で誰が一番最初に失言・暴言を吐くか?」 鳩山、麻生、中川といるのですが、私としてはやはり「麻生太郎に雑巾十枚!」ってところですかね。 これで農水の石破あたりがポロリとやったら大穴ですが。
2008.09.25
閲覧総数 4
26

日本史A その三 さて、今のところ、教科書ではP20の11行目まで行っているのですが、ここから、みんなに配布しています「日本史A」のプリントNO3にそって進めていきたいと思います。 「その二」の最後は、ペリーが「来年、また来るで~、それまでにちゃんと答え用意しときよ」と去っていったところなのですが、「来年また来るで~」と言われた幕府は、とにかく何とか対策を考えなければならなくなりました。それが、教科書ではP21の15行目からの<開国>というところになります。 この時点で老中首座であった阿部正弘は、幕府の方針の大転換を行います。 幕府は、外交の問題をはじめとして諸大名、特に外様大名(関ケ原の合戦以降に徳川に従った大名)が発言権を持ったり、朝廷が幕府に対して何かを主張するということを厳禁としてきました。「史料集成」P212に「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)という1615(慶長20)年に定められた文書が載っていますが、幕府は、朝廷を廃止することはしませんでしたが、常に警戒を怠らず、天皇は儀式を行い、学問だけをやっていればいいと定めて、厳しい統制のもとに置いていたのです。また「史料集成」P276「海国兵談」のように、「日本は四方海で囲まれていて、海はオランダまでつながっているのだから海防を強化しなければならない」という提案も、「奇怪な説を唱えて、幕府だけが論じていいことを勝手に論じた」と著者の林子平を処罰しています。 1837(天保8)年に日本人の漂流民を乗せて日本に近づき通商の開始を求めたアメリカ船のモリソン号が江戸湾に入港したときに「異国船打ち払い令」(1825(文政8)年)(「史料集成」P280)に基づいてこれを砲撃、このことを知った渡辺崋山が『慎機論』、高野長英が『戊戌夢物語』を書いて(出版はしていません。知人で回し読みしていました)幕府を批判したことに対して両名を逮捕し、死に追いやっています。 ところが、阿部正弘はこれを大転換、①朝廷に報告。②諸大名にこの事態(ペリーが来航し、開国を要求してきたこと)にどのように対処したらいいか、各自意見を述べよ。 とやったのです。阿部は、このピンチに、幕府だけでは対応できない、ここは挙国一致(今でいう「ワン・チーム」かな)でいかないといけないし、朝廷の権威を借りて幕府の力を示そう、という意図があったのでしょうが、そこには、「朝廷は幕府のやり方を絶対に支持してくれるはず」という思い込みがありました。また当時、「オランダ風説書」などを通じて、幕府は「世界の情勢に通じているのは幕府だけだ」という自信はあったものの、阿部は心底困っていたようです。 実際に、諸大名、幕臣からあがってきた意見は、どっちつかずのどうでもいいような意見が多かったのですが、すでに外国の力の強大さを知り、それに対抗するためには日本も開国をして貿易に積極的に乗りだし、資金を蓄えて武力を充実させるべし、といった意見(まだ幕臣としての身分が低かった勝義邦)もちらほら出てきたのです。 諸大名たちにとっては、譜代、外様の別なく「幕府に意見を言うことができるようになった」ということをチャンスととらえた者もいたのです。 NO3の(4)は、徳川斉昭(前水戸藩主)です。水戸は、(1 )、(2 )と並んで「御三家」(親藩中の最高位、将軍の後継ぎを出すことができる家柄。特に水戸家は江戸に常勤であった)の一員でした。 あれっ、なんでカッコがあるのかと戸惑っているかもしれませんが、プリント読んでるだけではダレてきますから、ちょこちょこ入れようと思っています。 何はともあれ、徳川斉昭なのですが、この人、何しろ「御三家」の一員である「水戸家」の前藩主ですから、阿部としても粗末には扱えません。ところがこの斉昭、ゴリゴリの「攘夷派」だったのです。「攘夷」とは、P25の24~25行目に書いてありますように、「外国人を夷狄(野蛮人)とする儒教的な考え方から、その脅威は武力で打ち払うべしとする考え方」です。これは、当時としては結構賛同する人たちも多く、かつ威勢がいいわけですから、どんどん広がっていくのですが、実はその「外国」=「夷狄」=「野蛮人」たちがどれほどの軍事力を持っていて、当時の日本の軍事力ではまったく太刀打ちできるようなものではないという事実を、斉昭も含めて全く知らなかったのです。後で斉昭および水戸藩の行動は幕府を苦しめ、水戸藩自身を大災難に陥れることになるのです。 さて、(6)に出てくる薩摩藩という藩は、「外様大名」。関ケ原の合戦では、西軍(石田三成方)。東軍(家康方)の中央を突破して多数の死者を出しながら戦場を離脱したというエピソードを持つ藩ですが、このころは、教科書P12に書いてありますように、藩が抱えていた莫大な借金を踏み倒し、奄美三島の黒砂糖を厳しく取り立て、かつ、琉球との密貿易でしこたま稼ぎ、9行目に書いてありますように、「反射炉」を作ったり、造船所、紡績工場を建てたりと、いわゆる「雄藩」(幕末に藩政改革に成功し、財政再建や軍事力の近代化を行って、政局を左右するまでになった大藩)となります。 幕臣の(8)(9)(!0)などは、家柄のみで取り立てられたのではありません。すべて実力。阿部はかなり人物を見る目を持っていたようです。 他には品川沖の台場(大砲を備え付けている砲台)を建造しています。 実は、3月25日の夜10時半から11時15分までNHK(地上波)で放映された「歴史探偵 黒船来航」という番組を録画してみたのです。「ペリーが来た時に幕府は何もできずにオタオタしていて、やりたい放題やられて不平等条約を結ばされた」というこれまでかなり信じられていた考え方に疑問を呈した番組で、なかなか面白かったのですが、そのなかでこの「台場」のことを取り上げているのでありますよ。 まず、基礎をしっかりさせるために、6mほどの杭を数千本海底に打ち込んでいます。それからその上に石を積んでいくのですが、東海道を止めて5000人の人間を使って石を運ばせています。一つの台場には、80ポンドカノン砲という当時最新の大砲が30門設置されていて、江戸湾の水深が一番深い場所、つまり、船が安全に進むことのできる西側に向けて砲火を集中できるようになっていたようです。1863年に発行された「イギリス海軍資料」には、「江戸湾の要塞である台場への攻撃は途方もない代償を払うことになり、極めて困難である」と評価をしているぐらいですから、なかなかの備えであったわけです。他に、長崎で海軍伝習をおこない、江戸には蕃書調所、講武所を設けています。 「蕃書調所」、もともとは、教科書P14に載っている「蛮書和解御用」でしたが、これを1855年に「洋学所」とし、56年に「蕃書調所」と改称しています。軍事科学の導入から始まり、英学、蘭学、科学技術を学ぶようになり、1862年には「洋学調所」、63年に「開成所」となり、のちに「大学南校」となり、東大医学部となります。 最初は、「蕃書」つまり、「野蛮人が書いた本」という扱いであったのです。 そして、「大船建造の禁」ですが、「史料集成」P210「武家諸法度(2)寛永令」を見ますと、⑰「五百石積以上の船、停止(ちょうじ)の事」とあります。1635(寛永12)年に出された法令なのですが、この意味は、五百石以上の船、つまりは50t以上の船を作ってはいけないということです。 それ以前の日本人は、遠く東南アジアまで出かけて貿易をしていたのですが、そんな船を作らせていたら、日本人は軽々とどこへでも行ってしまいます。「鎖国」というのは、日本に来る、貿易ができる国を限定し、日本人は海外へ出て行ってはならない、帰国してもいけない(キリスト教徒かもしれないから)という定めです。外洋まで出ていけて、荒海の中を長距離航海できる船は、竜骨(「キール」船の底の中心線にあって、船首と船尾をつなぐ重要な材。横波を受けても船がばらばらになるのを防ぐ役割を果たす)を持っています。 ただしその三年後の1640(寛永17)年、商船については例外として認めていますが、「鎖国」という大枠があったので、内海、沿岸航海用に船は発達します。 特に、教科書P12に書いてありますように各地で特産品が発達、江戸や大坂に物資が集中すると船も大型化、「弁才船(べざいせん)」と呼ばれる船は「千石船」と呼ばれるほど大型化しています。以前の竜骨に近いものも建造はされていますが、船荷を積むことが優先されたため難破、漂流はかなりの数に上ったようです。 ※ちょっと一言 西宮からは、特産品の酒が江戸に送られています。当時は、京都が都ですから、「江戸へ下る」と言っていたのですが、江戸の近辺でも酒は造られます。しかし、これが、「上方」から「下ってくる」酒には、かなわない。 「この酒うまいね。どこの酒だ?」 「西宮からの「下り酒」だよ」 「道理でうまいと思った。昨日飲んだ酒は江戸の酒だから、まずいのなんの」 「酒はやっぱり「下り酒」だね」 なんて会話があったのでしょうか。「つまらないもの」「質のおちるもの」を称して 「(上方から)下らない」→「くだらない」というようになったそうですよ。 さて、以上のような改革を「安政の改革」と呼んでいるのですが、いよいよ、ペリーの言い残した「来年」がやってきます。 1854(安政元)年1月16日、ポウハタン号を旗艦として来航したペリーは、軍艦をバックに強硬な姿勢で「江戸近郊を交渉地に」と主張。結局、「横浜」で交渉は行われ、3月3日に「日米和親条約」は締結されました。 その内容は、P21にまとめてありますが、この時点では、「アメリカ船が必要とする燃料や食料は「供与」」であって、貿易の開始は先送りされました。 下田、箱館の開港と、領事の駐在を認めること。 そして、アメリカに「最恵国待遇」を与えること。その意味については、4行目から8行目に書いてあります。「最恵国待遇」は、双方の国が持たねばならないものなのですが、この時は、「日本に対してアメリカはそのような義務を持たない」という「一方的」なものとなりました。 ロシアのプチャーチンも来航、下田で「日露和親条約」を締結、開港場に長崎を加え、国境については、択捉島以南を日本領、得撫島以北をロシア領とし、樺太はそれまで通り境界を定めないことで決着しています。 嘉永6年(1853年)7月ロシアの使節プチャーチン提督は、軍艦4隻を率いて長崎に来航し、国書を長崎奉行に提出し出航した後、再び、翌年10月ディアナ号単艦で下田に入港した。 ところが11月4日の朝9時ごろ大地震(安政の東南海地震)が起きます。下田港内に停泊していたプチャーチンの乗ったディアナ号は、高低差11mの津波のために船底を激しく破損してしまいます。当時、クリミア戦争で対立していたイギリスの目を避けるために戸田浦(へだうら)へむかおうとしますが、途中で大しけにあって沈没、それを見ていた日本人漁師たちの献身的な救助活動によって一名の死者もなく全員上陸できました。 だけど、帰国するための船がない。プチャーチンらは陸路で戸田(へだ)村に入ります。彼は、一方で日露交渉にあたり、一方で、造船の指揮にあたります。 設計はロシア人の技術将校が当たりますが、日本人の船大工も多数参加して西洋式の船の建造にあたっています。彼らにとっては全く初めての経験であり、ロシア人という異国の人との共同作業、それでもえらいもので、1854(安政元)年12月24日に建造をはじめ、翌1855(安政2)年3月15日には竣工しています。二本マストの帆船、87トン、50人乗りで建造費は三千両ほどかかっています。プチャーチンはこの船に「戸田(へだ)号」という名前を付け、部下47人とともに帰国、11月末に首都サンクトペテルブルグに帰還しています。部下のうち300人ほどは、ドイツ船で帰国しますが、途中でイギリス船につかまり、捕虜になっています。 そしてイギリス、オランダとも同様の条約を締結しました。 アメリカ、オランダ、イギリス、ロシアの最初の文字を取りだすと、ア・オ・イ・ロ。 「青色」と覚えておくと便利でしょう。 ここに、「鎖国」は崩れ去りましたが、あと、「貿易をどうするか」という課題が残ります。
2020.06.05
閲覧総数 38
27

トランプが、ローマ教皇に扮した映像を投稿した。「冗談だ」と言っているようだが、全世界のカトリック教徒、とりわけアメリカのカトリック教徒は、これを「冗談」ですますのだろうか。 私は、アメリカという国について、反感を抱いてきた。列挙すれば日が暮れるが、その一分だけを述べれば。以下の様である。 まず1929年の世界恐慌。慾にかられた人びとが「永遠の繁栄」を信じて、すでに実体経済と株価が乖離していたにもかかわらず株に投資。それが一気にはじけ飛び、その後、世界はブロック経済に移行、そのあおりを受けたドイツと日本はヒトラー独裁と、軍部独裁に走り、第二次世界大戦、アジア太平洋戦争に突き進んだ。 戦後、アメリカは年中行事のように戦争を遂行してきた。 朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン紛争、イラク戦争。他に「紛争」「侵攻」を挙げればもっと増える。 世界恐慌の教訓も忘れて始まったリーマンショック。 そしてトランプの当選。2017年に当選した彼は、2021年の大統領選で敗北したがそれを認めず、支持者を扇動して議会に突入させ、この時逮捕された人びとを2025年に大統領となった時に、恩赦で釈放させている。 2025年に大統領に当選したトランプは、この百日間で、何をしてきたか? 同盟国・非同盟国関係なしに、どういう根拠で算出されたか不明の「相互関税」なるものを発表、自動車、鉄鋼、アルミにも関税をかけるという措置に踏み切った。しかし「相互関税」については、即日、90日間の延期を発表。この間、特にアメリカの株価は乱高下している。 また隣国カナダを「51番目の州」とあざ笑い、毅然と対決姿勢を見せたカーニー氏が当選するにいたった。カナダ人の間では、アメリカ製品の不買運動が起きている。これには、当のカナダ人たちも驚いているようで、カナダ人の「反米・ナショナリズム」を刺激したようだ。 オーストラリアでも、トランプとの対決姿勢を示したアルバ二―ジ氏が当選している。保守連合のダットン氏陣営は、トランプよりの発言をする人も多く、ダットン氏自身がアメリカ寄りの発言をしているわけだから、勝負あったという感じである。 教育省を解体し、小・中から、聖書に基づく教育を行って宜しいという方に舵を切った。「進化論」を教えない。「神による世界と生命の創造説」。「ノアの箱舟は事実である」というキリスト教福音派の教えが幼い子どもたちに吹き込まれるわけだ。 一方、イスラエル政府のガザに対する虐殺行為を批判する学生(ユダヤ系学生含む)を処罰していないとして、ハーバード大学に対する補助金停止という措置に出ている。抗議活動に参加している留学生の本国送還までやろうとしている。これはもう明白な思想・信条の自由の侵害である。この事態に直面してアメリカを去るという決心をしている研究者も多数いるのではないかという観測もある。 これは「研究の自由」「実力主義」「潤沢な研究費」で日本をはじめとする世界の研究者が、惹きつけて来たアメリカの終焉ではないか。 私は、「アメリカに対して反感を抱いていた」と書いた。しかし一方で、アメリカ国民の持っている自由と平和を求める行動を「良きもの」として胸に刻んできた。アカデミー賞は、長編ドキュメンタリー賞をユダヤ人、パレスティナ人二人の監督による『ノーアザーランド 故郷は他にない』に送っている。 そして、数々の反戦運動、自由を求める様々な階層・人種・性別の人々による運動。 ただ、トランプ支持者と、反トランプの人たちの間の溝の深さにも驚く。 もしもトランプの支持層にひびが入るとすれば、実生活の経済的危機ではないか。今のところ、新規雇用者は増加しているという統計は出ているが、関税政策は、低所得者だけではなく、中間層の生活をも脅かす危険性を孕んでいる。当選以後、百日は経過した。では次の百日はどうなるか? トランプは、自らの過ちを絶対に認めず、責任を他者に転嫁する。「なぜアメ車が日本で売れないか?」について、それを「非関税障壁」とする。では、アメリカ人は国産車を買っているのか?なぜアメリカ国民は日本車を買うのか?という問題の立て方をトランプはしない。 IT、デジタルに特化した産業をここまで育てておいて、ラストベルトを造り出したアメリカには、おそらくもう「モノ造り」は、根付かないだろう。 地球温暖化は人間の手では止められないとして、地球の環境を調査してきた省庁を閉鎖し、「掘って掘って掘りまくれ!」政策によって温暖化を促進する二酸化炭素をこれまで以上に排出しようとするアメリカは、大恐慌、リーマンショック以上の災厄を世界に与える危険性がある。
2025.05.03
閲覧総数 121
28

日本史A その四 さて、ペリーがやってきて日本の鎖国体制は崩れるのですが、本格的に交流が始まり、外国から様々な書物が流入するようになると、外国語を翻訳する必要が出てきます。前回の「その三」に書きましたように、「蕃書調所」から「洋学所」への歩みもそうなのですが、外国語の翻訳というのは、そんなに簡単にできるわけではありません。今なら辞書もあり、学校で英語の授業もあるわけですから、みんなは学習環境には恵まれているわけです。ところが、ほとんど何もないところから出発した時代というものがあるわけです。それが教科書P13の「蘭学」から「洋学」なのです。これから、学習プリントNO2を補足、説明する形で進めていきたいと思います。 発端は、徳川吉宗の「漢訳洋書の輸入制限の緩和」なのです。「緩和」というのは、「キリスト教関係の本はダメ。医学とかの実用書はオッケーだけど」という意味です。 本格的に「蘭学」が始まるのは、10行目に出てくる前野良沢と杉田玄白の『解体新書』の翻訳です。ふたりが、千住小塚原(せんじゅ こずかはら)で罪人の解剖を見たのが、「新詳」P360の年表を見ると、1771(安永1)年の3月。『解体新書』を刊行するのは1774(安永3)年8月。年表の左側に目を移すと、赤い字で「田沼時代」と書いてあります。 1772(安永2)年1月に老中に就任した田沼意次(おきつぐ)が1786(天明6)年に失脚するまでを「田沼時代」と呼んでいますが、意次は行き詰り始めた幕府財政をさらに年貢〔米中心〕取り立てを厳しくする方向ではなく、商人の活動を支援し、そこから税を取り立てようという画期的な方策へと転換した時代でもあります。下総の国の印旛沼、手賀沼の干拓工事を支援したり、工藤平助が献上した『赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)を読んで、「赤蝦夷」=「ロシア」への関心を示し、最上徳内を蝦夷地に派遣して交易の可能性を探っていきます。つまりこのままいっていたとするならば、鎖国体制が変化していた可能性もあったのです。このような政策の転換によって民間の学問、文化、芸術が多様な発展を遂げています。ただ、その副産物として、幕府役人の間で商人からの賄賂が横行したりという問題も起きてきて、田沼の次の松平定信などからは、「田沼の賄賂政治」と批判されたりするのですが・・・。 ※ちょっと一言 『蘭学事始』の中のエピソードを一つ。 カタツムリぐらいのスピードで翻訳を進めていると、「フルヘッヘンド」という単語が出てきた。これがわからない。「鼻は顔の中央にあって、フルヘッヘンドしている」という文章なのだが、どう訳していいかわからない。使用例を調べてみると、「庭の落ち葉をホウキで掃き集めるとフルヘッヘンドしてくる」とある。いろいろ考えて「高くなる」と訳したらどうだろうとなり、「そうだそうだ」とみんなで手を取り合ってよろこんだ、といいます。 蘭学から始まった学問は、徐々にオランダ語だけではなく英語にも広がり、やがては「洋学」と呼ばれるようになります。 さて、蘭学を学ぶ必要が高まってくると、必要になるのが、辞書です。 大槻玄沢(おおつきげんたく)門下の稲村三伯(いなむらさんぱく)、宇田川玄随(うだがわげんずい)などが、オランダ人のフランソワ・ハルマの『蘭仏辞典』を参考にして膨大な数のオランダ語をABC順に並べて事業に取り組み、1796〔寛政8〕年に完成、収録語数6万4035語、全13巻の『波留麻和解』が寛政10年から11年にかけて刊行されています。 ※ちょっと一言 「自然」という言葉は、元々「じねん」と読み、「万物は現在あるがままに存在しており、仏教のいうところの「因果」によって生ずるものではない、という考え方、あるいは「たまたま」「偶然」」という意味を持っていたのですが、このころから、今のような、人間を除いた自然界、山や川、動植物を指すようになります。 また北方のこと。蝦夷地、そして樺太のことは徐々にわかってきたのですが、樺太と大陸とがつながっているのか、それとも樺太は島なのかという問題がはっきりしていなかったのです。1808~9年にかけてここを探検した間宮林蔵によって「樺太は島である」ということがはっきりします。 後にこの発見を世界に紹介したのはシーボルトです。海峡については「タタール海峡」、そして海峡の最も狭い部分には「マミヤの瀬戸」という名前で紹介しています。 シーボルトは、間宮が蝦夷地で採集した押し花標本にも興味を持ち、間宮宛に丁重な手紙と布地を送っていますが、「外国人との私的な物のやりとりは国禁に触れる」と考えた間宮は、開封せずにそのまま上司に提出、これがきっかけとなって、シーボルト、そして彼と親しかった高橋景保(幕府天文方 P14)が取り調べを受け、高橋からシーボルトに、当時は極秘、海外持ち出し厳禁とされていた伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」(P14)の写しが渡されていたことが発覚、高橋は1828(文政11)年10月10日に伝馬町牢屋敷に投獄され、翌1829(文政12)年2月16日に獄死、その後、遺体は塩漬けにされて保存、1830〔文政13〕年3月26日に改めて引き出され、罪状申し渡しの上斬首刑に処せられています。 シーボルトはいったん国外追放になるのですが、1858(安政5)年の「日蘭修好条約」によって追放が解除され、1859(安政6)年に長男アレクサンダーを伴って来日、幕府の外交顧問となっています。 シーボルトは、最初の来日の際に日本女性楠本滝との間に、1827年に娘・イネをもうけていますが、このイネさん、日本初の女医となります。「オランダおいね」とよばれ、シーボルトの門人たちの助けを借りてオランダ語を学び、医術を学んでいます。 彼女の詳しい伝記としては、吉村昭『ふぉん・しぃほるとの娘』新潮文庫 があります。 ☆連絡です。プリントNO4の末尾が、「(74)論が急速に で終わっていたのですが、実は、その後の部分をつけるのを忘れていました。以下です。 広がり、水戸脱藩の志士たちは1860(75 元)年、(68)を(75 )で暗殺、幕府による支配体制は崩れ始めた。 それはどんな産業ですか?(1)その原因は何ですか?(2)幕府はそれに対してどんな方法をとりましたか?(3) (2)によってどんなことが起こりましたか? ③これは何という病気ですか? ごめんなさい。
2020.06.08
閲覧総数 37
![]()

