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1月13日に最後の授業が終了、二年前に続いて二度目の「引退」ということとなり、「授業の為の読書」から解き放たれて、乱読を楽しんでいます。 トランプ当選以来、「アメリカ」、「宗教」、「イスラエル」をキーワードにして、『アメリカと宗教』(返却したしまったので、著者、出版社名失念)『アメリカとは何か』(渡辺靖 岩波新書)、『イスラエル』(臼杵陽 岩波新書)、『アメリカ消滅』(増田悦佐 ビジネス社)、『アメリカの悪夢』(デイヴィッド・フィンケル 亜紀書房)と読んできました。 また知人から薦められて、『西洋の敗北』(エマニュエル・トッド 文藝春秋)を読みました。その国の幼児死亡率から、社会の安定性を測ったりする独特の手法で、説得力十分。制裁を受けながら持ちこたえているロシアをソ連崩壊から立ち直らせたプーチンの功績を評価するなど、「好き」「嫌い」という判断基準では測れない「国力」の分析には興味を惹かれました。 小説では、『神と黒蟹県』、『沖で待つ』(共に絲山秋子)が面白かったです。『黒蟹県』は、人を食ったような書きっぷりで、楽しめました。 二月に入ってからは、『ともぐい』(河崎秋子 新潮社)。以前から、ぽつりぽつりと、読んだ本の中から心に残った文章をノートに書き写しているのですが、この本からは、久しぶりに何カ所か書写しました。北海道、白糠近くの山の中で一匹の犬と共に生活する熊爪という名の猟師の生活を硬質の文章で描いた作品です。 彼は毛皮や肉、山菜などを持って白糠に行き、そこで食糧やら弾丸を買うための金を得るのですが、様々な事件に遭遇し、そのたびに私は彼の独特の考え方に触れてぎょっとすることに何度もなりました。期間が来たので返却はしたのですが、再度予約、もう一度読んでみたい本です。 共に落語を聞きに行っている二人の知人から、寄席の近くの喫茶店で会食した時、飯嶋和一さんをすすめられ、『神無き月十番目の夜』、『出星前夜』を図書館に予約、あと河崎さんの『愚か者の石』が机の前に並んでいます。『神無き月』は、120ページまで読んだのですが、戦国乱世が徳川の世となり、独特の生活形態を保持していた土豪を中心とした村落の人々がたどらねばならなかった運命を細かく描写した作品です。 書名を羅列するだけで終わりましたが、次回から少しづつ紹介したいと思っています。2
2025.02.15
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芦屋市立美術館に行ってきました。「浮世絵の名品に見る『青』の変遷」というテーマに惹かれての事でした。 墨一色刷りから始まった浮世絵は、徐々に多色刷りへと変化を遂げていきますが、「青」が困難であったようです。当初は「露草青」とよばれる顔料が使われますが、退色しやすいという欠点がありました。 のちに、藍色が登場します。しかし藍は不溶性で扱いが難しく、大量に刷る浮世絵には向かず、ぼかしにもなじまなかったようです。 そこへ、1704年、ベルリンで発見された合成顔料のベルリンブルーが輸入されるに至って、初めて多様多彩な、そしてもちろん退色しない「青」が登場します。その名品の頂点が北斎の「神奈川沖浪裏」であることはかなり知られていると言っていいでしょう。「日曜美術館」、或いは北斎関連の番組でもよく紹介されていましたので。 ここまでは、驚かなかったのです。 ところが、最初の展示室から次の展示室へと入ったところに、「礫川(こいしかわ)浮世絵美術館」の紹介と同時に、聞き捨てならぬことが書いてありました。 浮世絵で国宝に指定されているものは一点もありません。国宝の90%までは仏教美術です。この仏教美術を欧米の人たちに、日本文化の代表ですと紹介しても納得してもらえません。それらはシルクロード経由の末流美術であり、欧米の人たちはガンダーラ、中国、そしてその源流としてのギリシア彫刻をよく知っているからです。 それに対して浮世絵は、日本の文化的伝統と高い技術、芸術性を持ち、成熟した江戸庶民文化を代表するものと言えましょう。 以上は、会場で急いでメモしたもので、自分ですでに判読できなくなっていますから、あくまで概要です。 しかし、驚きました。 ウィキペディアには以下のように書いてあります。 国宝(こくほう、英語:National treasures)とは日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである(文化財保護法第27条第2項)。建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料および歴史資料が指定されている。 なお2012年(平成24年)現在、浮世絵の国宝指定物件はない。 「世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝」という規定になぜ浮世絵はあてはまらないのでしょうか? ゴッホやゴーギャン、ルノアールなどへの影響は言うまでもありません。北斎の「富嶽三十六景」、広重の「東海道五十三次」の中のいくつかの作品を見たことがない人は少ないのではないでしょうか。これほどの作品がなぜ国宝に指定されていないのか。理解できません。 たしかに、仏教美術に対して、「シルクロードの末流美術」といういい方は穏やかならぬものを感じます。浮世絵に対する扱いの不当さを難じる気持ちの現われでしょう。 しかし、ホントに私は驚いたのです。浮世絵で国宝に指定されている作品が一点もない!! 「別に指定されようがされまいが、私は浮世絵が好きだよ」というご意見があるかもしれません。 ただ、国宝に指定しない理由が、「たかが浮世絵」「たかが庶民文化。消耗品だったんじゃないか」という事であるのなら、指定する側(文科相)の見識を疑いたい。 気になって、「国法絵画の一覧」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%9D%E7%B5%B5%E7%94%BB%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7)を見てみました。明治以降の作品は一点もありません。一番新しいのが、崋山の「鷹見泉石像」ぐらい。つまり、油絵で国宝になっているものも一点もないということです。明治以降の作品が国宝となり、浮世絵が国宝となるのに後一世紀はかかりそうです。 以上のことは美術愛好家の方にとっては常識と言っていいことかもしれませんが、あまりに驚いたので書きつけました。
2013.04.16
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だから、おまえさんは、むく犬のケツにノミの入ったようだってそういうんだよ。 ちくま文庫で、『古典落語 志ん生集』が出ているが、この中に収録されている「火焔太鼓」には、出てこない。 LPレコードで聞いた「火焔太鼓」の中には、コレが出てくる。 意味が分からない。でもとてつもなくおかしい。これを聞いていると、「志ん生を聞いてるんだなぁ」としみじみ思えてくる。 こんな志ん生を父に持ち、歌舞伎役者になりたい、新国劇の役者になりたいという夢を持っていたのに、父にくどかれて噺家にされてしまったのが、志ん朝。 『世の中ついでに生きてたい』河出書房新社 は、志ん朝と様々な人たちとの対談集だけれど、勘九郎、こぶ平との対談が面白い。そして、落語の魅力に取りつかれている江国滋はさすがに話の引き出し方がうまい。 文楽に傾倒したこと、円生から多くを学んだこと、そして、志ん生という大看板を父に持ったことの複雑さ。 「お客さんに『この間、テレビでお父さんの高座を見たよ。懐かしかったな。聞きたいな、お父さんのあれを』って言われてね。それは、その時に、こっちの虫の居所が悪ければ、『お亡くなりになるといいですよ』なんて言い返したり。」 01年に63で亡くなった事が、なんとも惜しい。 12チャンネルの、は、異例の再放送。 最終回は、山本監督と娘さんの対談だった。 身体のことを気遣って、酒に水を混ぜて飲ませていたけれど、ふと、思うところあって、水を混ぜないで酒を飲ませたら、「酒はうめえなぁ」と言って、そのまま寝てしまい、朝になったら死んでいた、という話が心に残った。 死ぬ間際には、好きなことをさせてやりたい。たとえ、それで死期が早まるようなことがあっても。これは、体験したものにはよく分かる。
2005.11.08
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夏休み、日本史の補習のテーマは、「明治の文化」。一緒に日本史を教えている同僚に頼み込んで、最終日に、「明治の文学」をやらせてもらうことになりました。 初めて『金色夜叉』を読み、「言文一致体」がなぜ生まれたのかを調べ、小説家たちが、新しい日本の文学、文体を生み出す過程をすこしだけ齧ってみました。これは、国文出身者、国語の先生には絶対にできない暴挙です。「私は専門じゃないので」という遁辞を懐に入れて50分。準備するのに約10日ほどかかりましたが、本当に楽しい体験でした。 その中から、いくつか紹介したいと思います。 まず、漱石。準備した資料には加筆していますから、生徒諸君に配布したものとは異なっている部分があります。 夏目漱石1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日) 漱石という人は、ホントにアタマがいい人だなと感じたのは、彼が、「文明開化」について行った講演の速記録を読んだ時です。彼は、日本の開化は上滑りである、と云っています。しかし次にこう言うのです。「私たちは涙をのんでうわ滑っていかなければならないのです」 と。 イギリスに留学した漱石は、産業革命を体験し、煤煙で覆われた空気を体験します。(『世界史A』P82)半分ノイローゼになって帰ってきた彼は、東京帝国大学で英文学を講義し始めるのですが、前任者の①小泉八雲を慕う生徒達から排斥運動を受け、講義中に叱責した生徒が華厳の滝に投身自殺をするという目にあい(漱石に叱られたからではなく、失恋の果ての自殺だったとのちに判明)再びノイローゼに。で、見舞いに来た友人から、「気持ちを晴らすために小説でも書いたら」とすすめられて②雑誌『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を連載開始、『坊ちゃん』などを書いた後、朝日新聞社に、「小説を書く」という条件で入社、『三四郎』『こころ』などの小説を執筆、胃潰瘍を患って亡くなります。『明暗』が最後の作品(未完)となります。 ① 小泉八雲の本名と、その作品を書きなさい。 ② この雑誌の創刊者は? 『三四郎』(1908明治41)年の中に以下のような対話(地方から上京する三四郎と一緒に乗り合わせたひげの男)があります。 「まだ富士山を見たことがないでしょう。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものはなにもない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方ない。我々が拵えたものじゃない」 三四郎は(A)戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。③どうも日本人じゃない様な気がする。 「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、 「亡びるね」と云った。熊本でこんなことを口に出せば、すぐ殴られる。わるくすると、国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中の何処の隅にもこう云う思想を入れる余裕はないような空気の裡(うち)で生長した。 ③ 三四郎は、なぜ、この髭の男の事を「日本人じゃない気がする」と思ったのだろう? 漱石は髭の男に、日本は今に「亡びるね」と語らせています。この「亡びるね」という一言、漱石は、何を見ていたのでしょうか。推察されるのは、(A)戦争に勝った後の日本の状態です。政府は、戦争を遂行するために、外国から多額の借金をし、国民には「戦争に勝つため」といって重税を課します。新聞は、国の財政が借金だらけということは報じず、戦場に特派員を派遣して盛んに「日本軍の大勝利」を報じます。二百三高地、日本海海戦、奉天会戦で確かに日本は勝利しました。しかし日本は財政的事情によってこれ以上戦争を継続できない状態に陥っていたのです。そのことは一言も報じられず、もちろん政府も隠し通していました。 結局、(B)講和条約では、皇帝ニコライ2世の意向で「賠償金は払わない」という形で決着、日清戦争の際の巨額の賠償金の再現を期待していた庶民は、「講和反対集会」を開催し、その後(C)事件を引き起こします。 庶民の知らないところで戦争が始まる。マスコミ(新聞)はそれを煽る(新聞はそのことによって発行部数を伸ばしています)、政府は戦争の実態を国民には知らせようとしないし、国民はそれを知ろうともしない。漱石は、英字新聞にも、雑誌にも目を通していたのでしょう。そして彼は、「日本で報道されないこと」を知っていたのでしょう。 日本は、1945年8月15日に敗戦を迎えて「亡びる」事になるのですが、漱石は一体何処までの射程でものを見ていたのか。 日本人が、戦前と戦中のことをきちんと学んでいない今、「亡び」は、私たちの将来にあるのかもしれません。
2020.08.12
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『歎異抄』第十三条に以下のような親鸞の言葉が記されている。 なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり、わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし 訳 どんなことでも思う存分にできるものなら、浄土へ往生するために千人殺せといわれたら、そのとおり千人殺しうるであろう。けれども、一人でも殺せる業縁のないときには殺せないものである。殺さないからといってもそれは自分の心が善いから殺さないのではないのである。またその反対に、殺すまいと思っていても百人も千人も殺す事があるかも知れぬ 『歎異抄』でもっとも有名(?)な箇所は、第三条の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という部分だと思うのだが、最初に通読した時から頭の片隅に引っかかっているのは、「わがこころの・・」である。 親鸞は、「前世からの業縁」という文脈の中でこの言葉を語っている。 善い心のおこるのも前生の善業から催すのであり、悪い事を企んだり、行ったにするのも前世の悪業のはからう仕業である。 私たちは、いつ、どこに、そしてどんな家庭に生まれるかを選択はできない。それは、あらかじめ与えられたものとして私たちの前にある。 飢餓地獄に生まれて、一週間でこの世を去る子どももいる。戦争の真っ只中に生まれ、父も母も失う子どももいる。 それは、昔も今も変わらない。 親鸞はそれを前世からの宿縁、業縁と表現した。それは、私たちが受け入れなければならない宿命、運命なのだ。 難病に罹っていて、二歳までしか生きられなかった我が子を持った親は、「なぜよりによって我が子が」という事態を受け入れねばならない。 九十になった父が、未だに私の兄が三歳で世を去った時の事を嘆く事があるが、親にとって子どもの死はもっとも受け入れがたいものの一つかもしれない。 それを受け入れるために「宿縁」「業縁」という言葉があり、「あの子は運がなかった」という自分を納得させるための言葉がある。 私と兄は同じ時に同じ病気に罹り、私は助かり、兄は死んだ。 死ぬ直前に、兄は「お父ちゃん!」と一言叫んだと父は言う。言って必ず涙ぐむ。 家に放火して母と兄弟たちを焼き殺してしまった奈良の少年のニュースを目にして私が、他人事と思えない、うちの家でもひょっとして・・とつい思ってしまうのは、私が、自分の子育てを振り返って後悔する所が山のようにあるからであり(よくもこんないい加減な親の元で比較的マトモに育ってくれたもんだ)、人間はまったく自分の自由意志に従ってすべての事が行なえているわけではない、と思っているからでもある。 人間はどこで生まれるかも、どの時代に生まれるかも、どの家庭に生まれるかも選択はできない。そして選択できない環境の中で人間の土台が作られるのだ。 劣悪な環境で育った子ども、親子関係がうまく行っていない子ども、信頼できる大人にめぐり合えなかった子どもがすべて犯罪者になるわけではない。 このことは私は驚くべき事だと思っている。 しかし、残念ながらそのような環境で生育し、障害を乗り越える事ができずに道を踏みはずしてしまう者もいる。 問題は、今の日本社会がそのような者を構造的に生み出すような社会に傾斜しつつあるという点ではないか。そのような社会に必要な視点は、「犯罪を犯すような社会のクズは我々良民とは関係ない」「そのような犯罪者は即刻厳罰に処すべし」「犯罪を犯すような者を育てた親もしかるべき責任を取るべきである」といったものである。 政府与党は社会保障費を削り、公務員を削る、と言っている。当然児童福祉、社会福祉に携わる人員も削られるわけで、増員などありえないだろう。それを「改革」と言うわけだ。生活保護も「見直す」そうだ。 安全の危機が叫ばれる社会では、「危機管理」という新しいビジネスチャンスが生まれる。そのようなビジネスを進める人たちにとって、私たちが常に危険に晒されているほうが好都合という事になる。 なぜ安全ではなくなったのか、安全を取り戻すためにはどうしたらいいのかという問いに対しての解決の道筋の立て方を間違えてはいけないと思う。 全ての物事の基礎には「政治」と言うものが厳然として存在するというごくごく当たり前のことをもう一度考えてみよう。 そして、「政権与党である」という事は、この国で起こっていることについて本質的な責任があるという事だ。その責任を取りたくないというなら、バッジもついでに外していただきたい。 料亭に行くことを目指して政治家になった人も居るようだけれど。 「悪い奴ほどよく眠る」という映画がありましたね。私が言いたいことはこれに尽きます。 目の前にいる「凶悪犯」にのみ目をむけていれば、「悪政」は免罪される。 人間を幼少期から支配する「運命」は、本人には責任がないことが多い。それを「環境」と言う事ができるなら、その「環境」を整備する事は私たちができる事ではないか。それを故意にやらないのであれば、確信犯である。 ハート型のアジサイです。
2006.06.27
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1月23日 1902年 - 八甲田山山中にて遭難事故(八甲田雪中行軍遭難事件) 日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難する。訓練への参加者210名中199名が死亡するという日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生した。 背景にあるのは、日本政府が政府内部での日露開戦か日露協商かの議論にけりをつけて対露開戦を決定したことにあった。(日英同盟は1902年1月30日調印発効) この演習の目的は、ロシア海軍の艦隊が津軽海峡に入り、青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、日本海側と太平洋側から、それぞれ移動するための演習であった。そのルートは「弘前~十和田湖畔~三本木~田代~青森」と「青森~田代~三本木~八戸」の2ルートが考えられ、弘前ルートは弘前歩兵第31連隊が、八戸ルートは青森5連隊がそれぞれ受持つ形となった。このような形になったのは全くの偶然であり、弘前第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究が目的だったのに対し、青森第5連隊は「雪中における軍の展開、物資の輸送の可否」が目的だったとされている。 遭難したのは、青森を衛戍地とする歩兵第5連隊第2大隊である。部隊の指揮を執っていたのは、中隊長で陸軍歩兵大尉の神成文吉である。但し、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口(金偏に辰)が指揮に関与したとされている。神成文吉大尉は、秋田県の出身で、陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物である。 雪中行軍が行われたのは、冬季によく見られる典型的な西高東低の気圧配置で、未曾有の寒気団が日本列島を襲っていた時で、日本各地で観測史上における最低気温を更新した日でもある(旭川で1月25日、日本最低記録である-41.0℃を記録した)。青森の気温にしても例年より8~10℃程低かった。行軍隊の遭難した山中の気温は、観測係であった看護兵が記録も残せず死亡したため定かでないが、-20℃以下だったとの推測を青森5連隊が報告書の中で残している。この過酷な気象条件が遭難の一大要因と考えられる。 雪中行軍時、将兵の装備は、特務曹長(准士官)以上が「毛糸の外套1着」「毛糸の軍帽」「ネル生地の冬軍服」「軍手1足」「長脚型軍靴」「長靴型雪沓」、下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1足」「短脚型軍靴」と、冬山登山の防寒に対応しているとは言い難い装備であった。とくに下士官兵卒の防寒装備に至っては、毛糸の外套2枚を渡されただけである。倉石大尉はゴム靴を持っていたことが結果として凍傷を防いだと言われるが、これは正月に東京に行った際にたまたま土産物として買っていたものであった。当時はまだ日本においてはゴム靴というのはハイカラな靴として扱われていたにすぎず、倉石大尉が本行軍で履いていたのは単なる偶然である。 兵卒の生存者は全員山間部の出身で、普段はマタギの手伝いや炭焼きに従事している者達だった。彼等は冬山での行動にある程度習熟しており、「足に唐辛子を擦り付けて、足温を安定させる」「足に油紙を巻いて水分の浸入を防ぐ」「肌着と衣服の間に新聞紙を仕込んで、体温の安定化、寒気の遮断をする」「食料(握り飯)に油紙を巻いた上、背嚢ではなく服の中に入れ凍結を防ぐ」等の独自の耐寒装備をしていた。将校の生存確率が高いのも、兵卒より防寒機能が高い装備が一因と言われている。雪中行軍参加者のほとんどは岩手県、宮城県の農家の出身者であった。いかに寒冷地の出身者と言えども、普段冬山に接する機会などない者が多く、このような者は厳冬期の八甲田における防寒の知識など皆無に等しかった 弘前ルートで入山した弘前歩兵第31連隊38名も、激しい風雪に悩まされたが、見事に踏破を果たし、無事全員生還した。青森隊の遭難は知るすべもなく、悪天候の中で民家に到着するも十分な休息もとらずすぐに出発するなど、踏破するタイムを気にしての強行軍であった。弘前第31連隊が全員無事帰還できた理由は下記のようなものとされている。 1 .天候不良とみるや深さ4メートルに至る穴を掘りビバークし、途中で寝込んでしまう隊員がいると皆で踏みつけて起こすなど、冬山の怖さを熟知していた。 2.連隊を率いた指揮官・福島泰蔵大尉が、寒冷に対するさまざまな工夫を考案しており、周知徹底していた。(例;川を渡る際は裸足で渡川し、ぬれた足を完全に拭き取ってから靴下を履く等) 3.連隊が比較的少人数で、最後まで統率を失わなかったこと。 4.隊員に寒冷地出身者が多かったこと。 1月29日に、弘前歩兵第31連隊は青森に到着。地元の歓迎を受けるが、この日に至ってやっと青森隊の遭難を知ることになった。 この事件は、新田次郎によって『八甲田山死の彷徨』としてフィクションを交えて小説化され、のちに森谷司郎監督、橋本忍脚本で映画化される。 高倉健が弘前第31連隊・徳島大尉(モデルは福島泰蔵大尉))、北大路欣也が青森歩兵第5連隊・神田大尉(モデルは神成文吉大尉))を演じた。 映画は、組織のリーダーはいかにあるべきかを考える資料として企業での研修に使用されたという。 撮影では、実際に真冬の八甲田山でロケを敢行し、日本映画史上類を見ない過酷なロケとして有名になった。実際に数名の俳優がその過酷さに耐えられず脱走したという話も残っており、主役級も含めて俳優たちの出演料も決して高額ではなかった。この過酷な撮影は当時カメラマンだった木村大作にも大きな影響を与えたと言われている。また、高倉健もこの撮影で足が軽度の凍傷になってしまったという。 この映画の時のエピソードだったと記憶しているが、高倉健は、雪の中にじっと立っており、後ろに控えていた付け人に、時折、「おい」と声をかけた。付け人は高倉にチョコレートを一粒渡して高倉はそれを受け取り口に含んで、あとはまた無言で雪の中に立っていたという。かっこいいのである。
2012.01.23
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年末に、NHK教育テレビ「心の時代」の再放送を見た。「信教の自由」というシリーズで、アメリカを専門としておられる方から、「信仰の武器化」という言葉が出てきた。 例えば、「医師が、私は信仰上の理由から中絶手術は行わない」、或いは最高裁判決がひっくり返されて、「中絶手術を行うか行わないかは州が決定できる」といった点だ。やはりNHKの他の番組で、「アメリカにおける中絶手術の是非の現在」が取り上げられてきた。 どのような理由であれ、中絶は許さないというおよそ私などから考えたら人権というものを信教の名のもとに真っ向から否定する態度だ。 「政教分離」は、近現代の民主主義国家においては極めて重要な考え方だが、それを否定していることに等しい。 アフガニスタンは、女性の学ぶ権利を否定しているタリバンによって支配されているという事を理由として国際社会から制裁を受けている。 アメリカの現状と何が違うのか。自分と考え方、信仰の在り方が異なる人間に対するこれほどまでの不寛容は、「分断が進むアメリカ」というフレーズでマスコミに再三取り上げられている。 「神を背負った人間」がどれほど恐ろしいことをやってのけるかは、ヨーロッパにおける異端裁判、宗教戦争などで歴史の中に深く刻まれている。アメリカは、「中世を持たぬ国」として知られている。東海岸に辿り着いた移民たちは、先住民から土地を奪い、抵抗する者たちを容赦なく殺害し、南部では、アフリカから「輸入」された人びとが奴隷として酷使された。 「中世を持たぬ国」という意味は、宗教対立を徐々に緩和し、「人権」という概念を様々な制度を導入し、法に依ってそれらを確固たるものとしてきた西ヨーロッパのような過程をアメリカは持っていないということだ。 イギリスの植民地としてのアメリカの独立宣言は1776年、フランス革命が1789年であることを思い出していただきたい。 このような土地で誕生した「哲学」が、単純化して言えば「役に立つものこそ真理である」というプラグマティズムだ。同時に、労働を重視し、知識人を軽蔑する「反知識主義」だ。 経済状態が改善され、教育が普及すると人々の間における宗教、信仰の重要性は徐々に低下すると言われているが、アメリカはそれが俗説であることを示している。 トランプが乗っ取ってしまった共和党は、「役に立つ組織」としての福音派キリスト教会を重視している。それが「反・中絶」に繋がる。 25年1月、トランプは正式にアメリカ大統領となる。彼に「哲学」があるとすれば、「役に立つものこそ真理である」という事と、「ディール」だろう。 「信教の自由の武器化」について語られねばならないもう一つの点は、「シオニズム」なのだが、それについては、日を改めてお付き合いを願いたい。
2025.01.01
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メタのCEOマーク・ザッカーバーグ氏が、フェイスブックとインスタグラムで、投稿内容の正確性を調べる独立したファクトチェッカーの使用を廃止すると声明を出した。 今後は、正確性のチェックは、ユーザーに任せる「コミュニティ・ノート」なるものを採用するということだ。 たまたま「情報が世界を滅ぼす?」という番組を見ていると、ノア・ハラリ氏が、トランプ・ハリスのテレビ討論でトランプが発した、「スプリングフィールドでは移民が猫や犬を食べている」という件について語っていた。「移民が・・」云々については、司会者が即座に、「スプリングフィールド市に確認したが、そのような事実はない」とコメントした。トランプは、「テレビで見た」と言い張った。 その後、スプリングフィールドは全米、全世界(大げさかな)で有名になり、「移民が犬や猫を食べている」という書き込みがどんどん拡散されているとハラリ氏は指摘している。 『差別はたいてい悪意のない人がする』キム・ジへ著、の中に以下のような文章がある。 1922年、アメリカのジャーナリストであるウォルター・リッブマンが自分の著書『世論』で「ステレオタイプ」という言葉を使って以来現在のような意味でつかわれるようになった。リップマンは、人々が頭の中に刻み込まれたイメージを用いて、現実には経験したことのない世界を描いていると考えた。人が外の世界を直接経験できる機会は少ない。それに対して、「ステレオタイプ」を用いると、効率的で何かを理解しているような感覚が得られる。人々はこのような方式で世界を理解し、世論を形成する。 問題は、このように単純化する過程の中で間違いが起きるという事である。一部の特徴を過剰に一般化した結果、すなわち偏見である。 「偏見」は、まず真実を消し去る。「いつ」「どこで」「誰が」「何をしたか」という最低限の4要素はどうでもよくなる。 フェイクニュースを流す人間にとって、「嘘か本当か分からないけれど、そういう事もあったかもね」というところまで持っていければ上々なのだ。 スプリングフィールドに居住する「移民は猫や犬を食べる」という書き込みは何万回も閲覧されているとハラリ氏は述べている。 特定の誰かではない。「移民」なのだ。どこの国からやってきた移民なのかは問われない。 「移民」という言葉で数万人、ひょっとすると数百万の人々が括られてしまう。 もうすぐ1月17日がやってくる。知人の在日の人が、「殺されるかと思った」とつぶやいた時に、私は、迂闊にも意味が分からなかった。彼は、関東大震災の時のデマによって在日の同胞が何人殺されたかを震災当日、瞬間的に思い浮かべ、私はそのことを想起もしなかっただけなのだ。 アメリカの移民問題について興味深いのは、移民としてアメリカにやって来て一定の成功を収めた人の中で、移民に対して激しい嫌悪感を示す人が一定数いるということだ。 芥川の「蜘蛛の糸」。下を見たカンダタが、自分の後から蜘蛛の糸を手繰りながら登ってくる亡者たちに向かって「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋て、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚いたとたんに糸がぷっつりと切れてしまうという場面を思い出す。 何のことは無い、アメリカ合衆国に居住している人々の中で、移民ではないのはヨーロッパからの移民たちが土地を奪った先住民だけではないか。 そういったファクトに関心も払わずに移民排斥を叫ぶ輩がこれ以上増えないように願うのだが、トランプ信者だけではなく民主党系にもそういった連中が多いときくと、新春早々暗い気持ちになってしまう。
2025.01.11
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