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サラリーマンの息子なので、生まれは名古屋だが、いわゆる"田舎"は東京。小学生の頃は夏休みになると東京の親戚で過ごしていた。
父親は全国を渡り歩いての標準語、母親は東京弁、友達は名古屋弁の中で過ごして、日本語バイリンガルとして育つと、微妙な表現やイントネーションの違いに敏感になるようだ。
まずは、TVのインタビューなどに標準語で答えている方のちょっとしたイントネーションの違いで"中京圏"出身者を判別できる。(役者さんなどのプロの言葉ではわからないが。)
名古屋出身でない方の名古屋弁の芝居は、聞き苦しい
また、その他の地方の言葉、例えば大阪の人と神戸の人、も何となくニュアンスの違いを感じることが多い。
恐らく、標準語のみで育った人には判りにくい感覚だろうと推測する。
そんな中で、もっとも端的には"ら抜き言葉"は私の中では標準語ではなく田舎弁。標準語の中で使われるととても耳触りが悪い。
更に、会社で英語をやらざるを得なくなり、少し出来るようになると、"これ英訳して"みたいな依頼が来るようになり、日本語が如何にいい加減で、事情が分かっている人以外には"主語が判らない""単複が判らない""時世が判らない"... 都度々々原作者に尋ねながら翻訳しないと英語にならないが、毎度々々だと面倒になり、まずは自分で想定して、更に続くと"適当"に翻訳していた。
ある外部国際組織(ISO)の国際会議(at英国)に業界代表として出席する際、多忙の為、資料の英訳を翻訳業者に任せてしまった。その中で"ISO導入に対する日本の姿勢"と云う日本語の"対する"が"against"と訳されていて、会議で物議をかもした。我々の"対する"は"関する=regarding""に向けての=toward"と云った程度のつもりだったものが、"対抗する"と云うニュアンスになったわけだ。
地方弁と標準語と英語のトリリンガルになって、更に、ロジカルでない、文法的に疑問を感じる日本語が、耳についてしょうがなくなってしまったんじゃないだろうか。
言語は変化し続けるものではあるけれど、その中で、自分の身の回りだけに通じればいいという言葉だけでなく、例えば現在の標準語、例えば外国語をそこそこ自分のものにすると、ものの考え方、言葉の聞こえ方も変わってくるのではないかと思う。
