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もっちん4476さんComments
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1月25日には武田軍は二俣城を陥落させ、遠州平野内を西に進軍したが、家康の本拠である浜松城ではなく、浜名湖に突き出た半島の先端に位置する堀江城を目的地とし、三方ケ原台地を通過した。ここでついに、篭城策から方針を転換した徳川家康は、三方ケ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から攻撃する作戦を立て出撃した。しかし、この戦いで家康は討ち死に寸前まで追い詰められるが、追撃を振り切り浜松城に一騎で逃げ帰った。このあと全ての城門を開き、火を焚き「空城の計」を行う。これに対し、伏兵がいるのではないか、との疑念を持った信玄は城内突入をためらい、家康は九死に一生を得た。その夜家康は何とか一矢報いようと野営中の武田勢をを奇襲、犀ケ崖の絶壁につぎつぎと転落させている。この惨敗において家康は、夏目吉信、鈴木久三郎らを身代わりにの憤死により失い、途中恐怖のあまり馬上で脱糞したと言われている。また、この敗戦時に描かせた、苦渋の表情の肖像画が残されているが、これは家康にとって、軍略の重要性を自らの戒めにするため、と解釈されている。

三方ケ原の戦いいで勝利した信玄であったが、野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど、持病が悪化し武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決意する。4月12日、軍を甲斐に引き返す途上の信濃国駒場で病死した。享年53。辞世の句は、「大ていは地に任せて 肌骨好し、紅粉を塗らず 自ら風流」。
「甲陽軍艦」によれば、信玄は遺言で自身の死を三年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること。また、勝頼に対しては信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼ることを言い残し、重臣の山県昌景に対しては「源四郎、明日は瀬田に旗を立てよ」と言い残したと言われている。
