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もっちん4476さんComments
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現在でも有明海は干潮時と満潮時の潮位差が平均5~6mと大きく、遠浅の干潟が広がっている。発掘された遺構から、すでに縄文時代にはこの地域に集落があったと考えられている。その時代に集落が形成された原因として現在推定されているのは、この地域が当時海に近かったことが大きく関係している。有明海の大きな干満差(これを利用して移動する航法が現在も残っている)や筑後川などの河川(縄文海進時には筑後川河口はもっと遺跡に近かったと推定されている)を利用して船の行き来が容易だったこと、貝類やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。

海面は時代が新しくなるにつれて低くなり、弥生時代には現在の神崎市千代田町や佐賀市諸富町付近が海岸線となると同時に多数の河川とつながる筑後川の河口があったと推定されており、この地域は船を通じた人や物の移動拠点として発達した(当時の遺構から、すでに弥生時代にはこの地域に港のようなものがあったと推定されている。この後奈良時代には、諸富津が現在の佐賀市大和町にあった肥前国府の国府津として機能したと推定されている)と考えられている。吉野ヶ里遺跡の東西両側には、現在も城原川と田手川が流れており、この川を通して吉野ヶ里丘陵にも人や物の交流があったと考えられている。
以上のような背景から、現在の吉野ヶ里遺跡の中核をなす弥生時代の集落ができ、紀元前4世紀(縄文時代晩期)~紀元3世紀(弥生時代後期)までの約700年間継続した。その後は、平野部に集落が移り、海面の低下によって広がった広大な平野が稲作の中心となる。
