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もっちん4476さんComments
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こうして西軍首脳の一人となった吉継は、敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため、越前・加賀における諸大名の調略を行った。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して、軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという)。
9月、吉継は三成の要請を受けて、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃に進出する。そして9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。このとき、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田・平塚為広の諸隊、あわせて6600人で布陣する。そして吉継は輿に乗って軍を指揮し、東軍の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦した(大谷勢全軍の指揮は身体の不自由な吉継に代わり平塚為広が揮ったとの説あり)。

その後、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5千人が裏切り大谷隊に突撃したが、予め小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し、2、3回と繰り返し山へ追い返した(「関原軍記大成」)。
更に、吉継が小早川秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4290人が東軍に寝返り、大谷隊の側面に総攻撃を仕掛けた為、支えきれず大谷軍は瓦解、吉継も自害した。享年42。吉継は業病(ハンセン病と云われて居る)故に、輿に乗って指揮したと云われるが、関ヶ原に「西軍が先に着陣」した時に秀秋の裏切りを見抜いて居て史実の小早川軍の進軍経路の要所に「馬防柵」を築いたと云われる。左記は戦前の参謀本部の記録に拠る。
自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。
辞世の句
契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも

吉継が生まれる前、両親は子供が出来ないことに嘆き悲しんでたところに、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。そこで、神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という。
吉継は、当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていたライ病を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていた。また失明していたとも言われており、そのために政治の表舞台で活躍する機会が無かったとされる。
豊臣政権の五奉行で、関ヶ原の戦いの際には共に挙兵した石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している。(「校合雑記」)
有る時開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めた。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原におぴて共に決起する決意をしたとされる。ただし、これは秀吉との話であったという説もある。(神谷宗湛日記)
関ヶ原では三成との友情に殉じたとされるが吉継自身は家康とも親しく、実は当初は家康派だったが家康に取り入る他大名との駆け引きの中で次第に立場を失い結果として三成側に寝返ったという説もある。徳川家康は吉継の才能を高く評価し、慶長5年(1600年)7月、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われる。このため、吉継が西軍に与したことを知ったとき家康は非常に狼狽したという逸話がある。
