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もっちん4476さんComments
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佐賀県多久市多久聖廟
朝鮮出兵などで兵站業務を担当し、優れた軍監ぶりを発揮したことから、豊臣秀吉は、「吉継に100万の兵を与えて、自由に指揮させてみたい」と語ったと伝えられる。
三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜田秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したという。三成ははじょめのうちはこの諫言に従ったが、しかし西軍が編成されると次第に横柄さを取り戻したと言われている。(大道寺友山「落穂集」)
藤堂高虎の軍に従軍していた藤堂高刑(とうどうたかのり)が吉継の小姓の湯浅五助を発見した時、五助はうずくまっていたので勝負してみると五助は「待ってくれ。今ここに主君の首を埋めたが、主君の面容を敵に見せるのは恥辱となるので、私の首の代わりにここに埋めたことを秘して欲しい」と頼んだのを高刑は「武士の面目にかけて他弁は致すまいぞ」と誓い、五助の首を取った。高刑はこのことを伏せ、主君の高虎に同行して徳川家康に首を見せた。「五助ほどの者が主君の行方を知らぬはずがない。もしかしたら五助は首を隠したのではないのか?」と家康が聞くと、高刑は「知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったので、このことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ私を御処分くだされ」と言った。家康は「これほどの律儀者がいるとはな。首のありかを言えば高虎の手柄になる物を」と言って高刑に褒美を与えたという。

吉継は豊臣秀吉の隠し子であり、嫉妬した秀吉の正室高台院が吉継に毒を盛って顔が変形する程の後遺症が残ったという説がある。しかし吉継の生年はちょうど秀吉が当時自分より身分が上だったねね(高台院)と恋愛結婚した時期と重なっており、また吉継の実母東殿とねねの関係はいたって良好なことなどから、信憑性の点で疑問を呈されている。
相州正宗の作、敦賀正宗を召料としていたという。
吉継は智勇兼備・人望も厚かった名将として知られている。「名将言行録」でも、「吉継、汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人、称して賢人と言ひしとぞ」と高く評価されている。

子の大谷吉治は関ヶ原の戦いの後に浪人となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では義兄弟に当たる真田信繁(幸村)らとともに大坂城へ入城し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死した。
吉治系の子孫は帰農した。のち直系は絶え、石田家より養子を迎えて存続している。また、3男・大谷泰重の子で、吉継の孫にあたる重政が越前松平家に仕官している。
娘(妹、姪を養女としたという説もある)の竹林院は真田信繁の正室である。関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り、大坂の陣で信繁が死去すると、娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。慶安2年(1649年)に死去。信繁の子のうち幸昌、守信、あくり、阿昌蒲、おかねが竹林院の子とされている。
どの子の系統かは不明であるが、会津戦争に際して会津藩に組織された白虎隊士中2番隊の隊員で、飯盛山で自刃したとされる19名に含まれている津田捨蔵は、吉継の子孫と言われている。津田家には吉継の甲冑が伝来し、逸話を父から聞かされた捨蔵は鎧を着用すると三度宙に躍り上がり、敵の首を斬る動作をしたという。
主な家臣
湯浅隆貞-五助。湯浅十郎左衛門-五助の子。後高力家に仕官した。笠井慶秀-武田家旧臣笠井満秀の子。関ヶ原後、日頃目をかけられていた井伊直政に召しだされ仕官した。三位融盛。このほか、蜂屋頼隆旧臣で召抱えられた者も多いと思われる。
