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もっちん4476さんComments
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秀長は温厚な人柄で兄を立て、兄を助ける補佐役に徹し後には各大名からも頼りにされる人格者であったという。大友宗麟は秀長のことを、「内々の儀は宗易(利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたと記述されている(「大友家文書録」)。
その人格と手腕で織田家臣の時代より内政や折衝に特に大きな力を発揮し、不協和音の多い豊臣政権の要石の役割を果たした。秀吉の天下統一後も支配が難しいとされた神社仏閣が勢力を張る大和、雑賀衆の本拠である紀伊、さらに和泉までを平和裏のうちに治めたのも秀長の功績である。
兄の行おうととした朝鮮出兵には反対していたとされるが、出典が「武功夜話」のみのため疑問の声も多い。
秀長が進めようとした体制整備も秀長の死で不十分に終わり、文治派官僚と武功派武将との対立の温床になってしまった。
天正15年(1587年)の九州征伐の最中、秀長の陣に島津家久が訪れ単独講和が成立した。その直後の6月5日(7月10日)に島津家久が急逝し秀長による暗殺という憶測があるが、家久を殺しても豊臣方が得るものはほとんど無く5月13日(6月18日)付けの書状で家久の体調不良が記されていることから病死と見られる。
天正16年(1588年)、紀伊の雑賀において代官に命じて木材2万本を売らせ、その資金を着服するなど蓄財にうるさい一面があったという(「多聞院日記」)。また島津攻めに参加した大名に割高な兵糧を売り付けようとして秀吉に止められている。
大和の陶器・赤膚焼を開窯した人物である。
有力な家臣に藤堂高虎とともに島清興がいる。両者は養嗣子・秀保の死後、関ヶ原合戦で東軍・西軍に分かれて戦うことになる。

天正11年(1583年)、従五位下美濃守(この時期、木下小一郎から羽柴長秀に改苗字か)
天正12年(1584年)6月、名を長秀から秀長に改める。
天正13年(1585年11月27日)、従四位上に昇叙し、参議に補任。右近衛権中将を兼任。
天正14年10月4日(1586年11月14日)、従三位に昇叙し、権中納言に転任。11月5日(12月15日)、正三位に昇叙。権中納言如元。
天正15年8月8日(1587年9月10日)、従二位に昇叙し、権大納言に転任。

父母 父:竹阿弥。 母:大政所
兄弟 日秀、秀吉、秀長、朝日姫(佐治日向守室~副田吉成室~徳川家康継室)
子 おきく(豊臣秀保室)、大善院(毛利秀元室)
養子:秀保、仙丸(藤堂高吉)
