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もっちん4476さんComments
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大師像(地蔵寺)
延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。
最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになった。
弘法大師は「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージでもある。歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師と言えばほとんどの場合弘法大師を指す。空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多いと言えるだろう。
真言宗では、宗祖空海を「大師」と祟敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとする。高野山奥の院御廟で空海は今も行き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の呼称によって宗祖への祟敬を確認するのである。
故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、江戸初期の真念によって札番号を付けてまとめられ、俗に言う四国八十八箇所の寺寺他多くの霊跡として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。

高野山奥の院の霊廟には現在も空海が禅定を続けているとされる。奥の院の維邦(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維邦以外が窺う事はできず、維邦を務めた者も他言しないため一般には不明のままである。
現存する資料で空海の入定めに関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した「金剛峰寺建立修行縁起」で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。また、「今昔物語」には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ座っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。
このように一般には空海は肉身を留めて入定していると信じられているが、「続日本後紀」に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実彗が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、いくつかの根拠を示して火葬されたとする説もある。
このように空海に関しては、史実よりも伝承のほうが多く、この方面での研究が待たれている。
