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もっちん4476さんComments
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2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることがあらためて裏付けられた。問題は、金堂の部材が、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採と見られることである。伐採年(668年)が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する。
なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって最も外側の年輪が591年のものとされており、他の部材に比べてなぜ心柱のみが特に古いのかという疑問が残った。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。

1972年に梅原猛が発表した論考「隠された十字架」は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じる為の寺なのではないかとの説を主張した。この説は大論争を巻き起こしたが、歴史学の研究者は、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。
とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、山岸涼子は本書に直接のインスピレーションを得て「日出処の天子」を発表した。また建築家の武澤秀一は、中門の中心にある柱が怨霊封じの為であるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、イーフー・トウアンなど現象学的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげる為に考案されたものであり、先行する百済大寺や川原寺で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている。

近代以降
・1878年(明治11年)300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これがいわゆる「法隆寺献納宝物」で、第二次大戦後は大部分が東京国立博物館の所蔵となり、ごく一部が皇室御物および宮内庁保管となっている。
・1882年(明治15年)法相宗に転じる。
・1884年(明治17年)フェロノサ、岡倉天心らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像がこの時数百年ぶりに開扉されたという(異説もある)。
・1903年(明治36年)佐伯定胤が管主となり、廃仏毀釈で衰微していた唯識の教えを復興する。
・1943年(昭和9年)「昭和の大修理」が開始。
・1939年(昭和14年)「若草伽藍」発掘・
・1949年(昭和24年)金堂壁画を火災で焼損。
・1950年(昭和25年)法相宗を離脱し、聖徳宗を開く。
・1985年(昭和60年)昭和の大修理完成。
・1993年(平成5年)12月9日ユネスコの世界文化遺産に登録。
