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もっちん4476さんComments
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勝は日本海軍の生みの親とも言うべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には終始反対し続けた。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物であり、丁が敗戦後に責任をとって自害した際は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争そう相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。李鴻章とも知り合いであり、「政府のやることなんてえのは実に小さい話だ」と後述している。
晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過し、「吹塵録」(江戸時代の経済制度大綱)、「海軍歴史」、「陸軍歴史」、「開国起源」、「氷川清話」などの執筆・口述・編纂にあたったが、その独特な大風呂敷な記述を理解出来なかった読者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。
明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。
墓は勝の別邸千束軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。千束軒はのちの戦災で焼失し、現在は大田区大森六中学校が建っている。

右から三番目が勝海舟。他、大関増裕、松平太郎、稲葉正巳、石川重敬、ヴァン・ヴァルケンバーグ(アメリカ公使)、江連堯則(外国奉行)。
回想録として吉本みのるによる「氷川清話」や巌本善治による「海舟座談」がる。これは勝の談話を記者が速記したもので、勝の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来る。ただし古い判では、当時の政治を批判した部分に、編集に当たった記者により歪曲・改竄のあとが見られるという。
膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。勝は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。この筆力には父親の小吉の影響もある。一人称に「俺」を使う独特の言文一致体的な語りは、父・小吉の自伝「夢酔独語」と同じである。「清」という登場人物は夏目漱石の「坊ちゃん」の素材となったいる。
語録
・自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねえよ。
・オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった。
・やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末を等を心配している人たちに)
・文明、文明、というが、お前等自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかえ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。
・敵は多ければ多いほど面白い。
・我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はになその地位相応に賢うございます。(将軍家茂に拝謁した際、幕府の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われて)
・トウダイ、鉱毒はドウダイ。山を掘ることは旧幕時代からやって居たが、手の先でチョイチョイ掘って居れば毒は流れやしまい。海へ小便したって海の水は小便になるまい。今日は文明だそうだ。元が間違っているんだ。(足尾銅山の公害が明白になっても尚、採掘を止めない政府に対して)
・コレデオシマイ(亡くなった時の言葉)
・五尺に足らぬ四尺(子爵)なりけり。授爵したときの感想として。
