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うさぎ仙人

うさぎ仙人

2006年01月27日
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・・・久々の冬晴れだ。

 冬の関東は素晴らしい冬晴れが多い。空気がキーンと透明に張詰めて、抜けるような青空は眺める人々のあらゆる呪縛から解放させえる何ものかを放射している。そしてあらゆるしがらみを飲み込んでくれそうな空。

 すべてをクレンズするかのような冬晴れの大空だ。


 生々流転、容のあるものは例外なく崩れゆくのが運命で、そのまま在るがままでいられるものは一つもない。変化し続けざるを得ない状況に生きている中で、変わりゆく根底に深々と横たわっていて人として道を踏み外さずに歩むことができるものは倫理観が在ってはじめて生き続けられる。

 文明も科学技術も高度に発達し、瞬時に地球の裏側でもコンタクトができて、孤島に住み人と交わらなくても科学の粋を集めた最先端の生活も可能だ。

 憲法、法律、システム、ルール、常識、あらゆる縛りが社会には存在するが、表裏一体ですべてのものが成り立っているこの世界ではこれらのものは表の対人問題解決方でしかない。

 対外的解決法はそのように体裁を整えられて現在に至るが、内面的で人として如何にすべきか、ということに関してはおざなり、お任せの域を出ずミーイズム全盛の現在は特に個人を尊重するあまり個に委ねたままだ。

 法体系全般も社会通念全般も存在する理由は、国家と集団と人と人が生き易く住み易くするための同じ土俵上で対等に暮らす為の最低限を定めたものだろうが、共通した倫理観が個人の根底に在って初めて意味を成すものだ。 
 共通概念ともいえる倫理観の暗黙の了解の箍が緩むことは、社会基盤を崩すことにつながり恥も外聞もなく、脱法も掟破りも、あらゆる枠を平気で何故それが存在するのかを、知ってか知らずか簡単に踏み越えることになる。




・・・失くしてはならないもの、それが何かを考えさせられた。

◆【正論】日本社会を蝕む倫理教育の欠如

忘れられた高度信頼社会の土台 中谷巌 平成18年1月26日(木) 産経新聞

≪日本人の美意識とは相反≫

 ライブドア・ショックと耐震強度偽装問題が日本社会を揺るがせている。関係者の犯罪の中身については厳密な検証が必要であるにしても、これほど堂々と人を欺き、裏切ることが日常化した日本という国の行く末に不安を抱いた人も多いのではないか。

 問題の根幹は少なくとも二つある。ひとつは、この十数年、様々な分野で規制緩和が推進されてきたが、それに伴う法体系の整備や企業の自由な行動を監視するためのインフラが不十分という問題だ。

 日本社会は規制による「事前チェック」の体制から、自由化と「事後チェック」の体制に移行する必要があるが、それがまだ不十分にとどまっている。これは所轄政府機関の怠慢であり、早急に「市場の番人」としての体制を創りあげる必要がある。

 もう一つのより重要な問題は日本人の倫理欠如だ。「悪いことをしても露見しないならやっても良い」とか、「隙(すき)あらば人を欺いても、うまい汁を吸おう」という考え方は、もとより伝統的日本人の美意識からすれば許容できないところである。

 『武士道』の著者、新渡戸稲造はこう書いている。

 「武士道の本性、すなわち算術で計算できない名誉を重んじるという特質は、近代の経済学以上に、はるかな真実の教えを人々に教えた」(原文は英文、奈良本辰也訳)

 ただし、倫理欠如は日本固有の問題というより、人類普遍の問題だ。プラトンの『国家』には自分を透明人間に変身させる不思議な指輪を拾った羊飼いギュゲスの話が出てくる。ギュゲスは透明人間に変身すれば悪事が露見しないことを良いことに、結局、国王の地位にまで上りつめてしまう。「悪いことをしても露見しない時に、人はいかに振る舞うべきか」。これこそプラトンが『国家』で展開した正義論の核心であった。



≪教養教育の欠如も一因か≫

 そのようなカリキュラムは意図的に切り捨てられたといってよい。この倫理教育の欠如こそ、日本社会をむしばみつつある病の温床であり、いま世間を騒がせているライブドア事件や耐震強度偽装問題の根本に横たわる問題ではないだろうか。

 明治維新を切り開いた先人たちは、今日の日本人とは違ったようである。西洋文明を吸収するため派遣された岩倉具視遣欧使節団の若き一行は、英語が流暢(りゅうちょう)に話せたわけでもなく西洋流のマナーを身につけていたわけでもなかった。しかし、彼らの多くは四書五経をはじめとする古典に親しみ、教養豊かであった。

 教養とは「人はいかに生きるべきか」といった人間存在の根元について思索することで培われるものである。彼らの立ち居振る舞いは西洋流のマナーにはそぐわなかったが、「教養が滲み出ていた」ため欧米各地で熱狂的に歓迎されたという(泉三郎著『堂々たる日本人』)。

 残念ながら、現代の日本人が立ち居振る舞いの優雅さによって、あるいはその教養の豊かさによって、外国の人たちに感銘を与えたという話は寡聞にして知らない。そういう人が皆無とは言わないが、戦後教育が知識詰め込み中心で、心や倫理の問題を教える教養教育が欠如したものであったことに責任の一端があるように思えてならない。



≪相互信頼欠けば発展なし≫

 互いの信頼を裏切らない誠実な精神風土があったから、身内でもない人に企業経営を任すことができた。それがファミリービジネスを専門経営者による大企業ビジネスにいち早く引き上げる重要な要素になったというのである。逆に、人々の間で相互信頼が欠如する場合には、取引コストがかかりすぎるために市場経済は発展しない。

 ライブドア事件や耐震強度偽装問題は、高度信頼社会の土台を揺るがしかねない危うさを秘めている。日本という国を礼節を弁(わきま)えた高度信頼社会にとどめておくには何が必要なのか。これこそ今、日本が取り組むべき最重要な政策課題なのではあるまいか。

(三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長、多摩大学学長 なかたに いわお)


 それぞれが倫理観を持ち合わせていると言う暗黙の了解がなくば信頼感などは醸成されようもなく、それが無くば疑心暗鬼での不信の日々を送ることになるが、それが安心安全で健全な社会を構築できることになるとは思えない。

 人と人が出会い関係を続けるならば己を磨き研鑽し合い、謙虚と謙譲を感謝と共に発揮せずば、動物の交わりと同様に力の優劣に終始することになる。

 優勝劣敗、弱肉強食、競争原理の過度の浸透から、人のもつ本来の優しさも思い遣りも、そして失くしてはならない倫理観までも失いつつあるのかもしれない。

 性急に結果を求める現在のこの社会、いかにしても人は促成栽培はできないし使い捨てでもない。熟成、醸成、貴腐、などと味わう為にはジッと待つ至福の時間が有るように、人にもそんな時間が必要なのだろう。

 混沌の加速するこの日本列島、さまざまな外圧を“臥薪嘗胆”し“蜀犬、日に吠ゆ”の心境で“汗牛充棟”で倫理観の涵養に勤めるときなのかも知れない。

 そして“端倪すべからず”と言われる、国家に成ればよいだろう。





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最終更新日  2006年01月27日 12時30分36秒
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