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数年前に、会社の同僚から、聞きました。チェーンメールで、私の所在はすぐわかるようになっていると馬鹿にした、久慈、なる男の話。 私がどこで働いている。どこで買い物をしている。誰からもすぐ連絡が入り、すべてに連絡が行くようになっている。と笑っていたらしい。 と、いうことは、少し遠方の職場で働いているのに、その場所へ姿を現す馬鹿女が、時々いるが、デマ男と、色関係にあると、公然と知らしているようなものと、本人は気づかないらしい。 私の方では、「この女もか。」とチェックをしています。 あまり、軽はずみな行動を取らないように、奥様方へ注意された方がよろしいでしょう。阿見町在住のご主人方。他人の話と取り違わないでくださいね。あなたの奥様のことですよ。
2009年12月13日
デマの中に、失業保険をもらう目的で、頻繁に会社を変えいる。とか、倒産しそうな会社に潜り込んで、たくさん金をせしめている、というものもあった。 しかし、高校を卒業してから30数年、働き続けましたが、失業保険を受け取ったことは、1度だけ、盛岡市に在住していた時、司法書士事務所の求人に出会うまで、半年間、無職だった時だけです。 このデマも、実際は、デマ男自身のことであって、私に関することでは、ありません。 盛岡市で、私は最初の就職先で働いていた時。まだ、仕事をやめたことがなかった時に、私の母親から聞いた話があった。 近所の私と同級の人が、半年だけ働けば、失業保険がもらえるから、半年働いて、失業保険をもらい、また半年働いて、失業保険をもらう生活をしている。それが、賢い生き方だと自慢していたということだった。私は、何を言っているのかと、母親の話を聞き流していたが、その生き方を私がやっていることにされていた。 さらに、数年前に、会社の同僚からの情報で知ったことでは、この男、阿見町の倒産したスーパーマーケットで働いていたらしい。 山口ストア。湯原ストア。現在働いているところも、倒産すると見越して、働いているらしい。 デマは、事実に基づかずに、他人を陥れる目的で為されるものですから、結局、デマの話のねたは、デマを流す人間自身のこと。あるいは、関係をもった女たちの性癖についてのことらしい。 デマを聞いた人たちは、わからないでしょうが、事実無根のデマを流され続けている、私はよくわかるのです。デマの話の中身で、このデマ男がどのように生きてきたのか、どのような色狂いの女たちと、関係してきたのかが、わかります。
2009年12月13日
ブログを書くときは、いつも、性的被害が、ひどく続く時です。性犯罪者 Kは、デマ男で、事実無根のデマを流し、多くの人間から、侮蔑的扱いを私にさせるだけではなく、犯罪と立証のできない、性的いたずらを毎日、続けている。 誰に訴えたところで、信じてもらえない。 耐え難い、屈辱の毎日。激しく憤ったところで、加害者や、この夫婦に両親の所在がつかめない状況では、改善の余地もないまま、このブログに被害を訴え続けてきた。
2009年12月13日
4年ほど前に、M星大大学院の臨床心理学を受験した。働きながら、家事をしながら、年取ったポンコツ頭では、記憶していくことが簡単ではないし、なかなか勉強の時間も取れない。 事実無根の馬鹿、あばずれ、このあなどりに40年苦しめられて、いいかげん、うんざり、終止符を何とか打ちたいと、もがいての受験です。 英語の試験の最中、途中から、試験官のひとりが、私の横に立ち、試験の最後まで監督していました。普通は、数人の監督官が巡回する。私は、試験の最中に、また、カンニングを疑われたとわかった。頭が逆上した。冷静にしようと思うものの、辞書をめくる手が震えて思うように、英語を訳せなかった。もともと英語が不得意だったので、この仕打ちに腹が立った。 私はこの試験の前に、K先生のゼミに、2度程参加させてもらっていたので、デマ男が、また、かかわったのだと思った。 その後、職場内で、私の英語の解答のなかの、青年期だけは、調べずにわかったのは、自分がやりたいところは、わかるのだなとの先生の言葉が、話題になっていました。さらに、テスト後の面接でのやりとりまで、話題になっていました。 さらに、誰の言葉か知りませんが、「あんな、わけのわからないのを、入れたのは誰だと言われたくないから。」と言っていたと笑いものにされていました。社内で噂話されているのが、聞こえたので、デマ男が、いつもどおり、女を介在して、話を伝えたのだなと確信しました。 なんとか、逆境から抜け出そうともがいている人間を、どのような人間も、加害者と連合する、この集団力のすごさ。たいしたものです。 私の学力が及ばないだけなら、納得がいきますが、カンニングをしない人間を、カンニングすると決めてかかる態度は許せませんし、試験の情報を流すのは、どうかと思いますが…。 デマ男の一貫性のない、デマを聞いて、この男に対して、おかしいとまったく考えないとは、ちょっと、…。と思うのは、私だけでしょうか?
2009年11月27日
10年ほど前、M星大の通信教育で学んだ。その中で、心理検査法のスクーリングは女の先生だった。90分1コマ、2コマ連続で、月曜日から土曜までで、一教科の勉強、1時間ぐらいをテストにあてていた。テスト後、不正があったかもしれないとの話だった。 その先生は、毎年、同じテスト問題を出していたから、あらかじめ、誰からか、聞き出してテストを受けたから、成績が良かったと思われるとのことだった。 その先生は、その話をする間、教室の真ん中のあたりにいた、私を見続けて話していた。私が疑われたとわかった。腹立たしかった。子供のときの、他人のカンニングを私のせいにされてからは、いつものことだった。デマを流す男のために、成績がどんなに良い時でも、カンニングしたくせにと、力を認めてもらえない。またかと、思いながらも、なぜこんな離れたところでも?と疑問ではあった。その後、数年たった、とある会社で、大学で、カンニングを疑われたことを言われて、? なんでも、カンニングを疑ったが、あの様子ではカンニングしていなかったようだとの先生の話を、まったく心理学と関係ない生活をしている人たちが話していた。 さらに、私の解答が、減点できないくらい完璧だったと言っていたらしい。さらに、怖いと評判が立っている、この先生のテストの最中に、居眠りをした生徒は初めてで、厚かましいとの話をされていた。 試験の3分の1の時間で解答を終えてしまい、さらに、毎日片道3.5時間かけて、程久保まで通うのは大変で、くたくただったので、テスト中に爆睡したのは事実です。 さらに、その先生は、現在は、テスターをしているとまで、話していました。デマ男との関係を疑うのは、私だけでしょうか?
2009年11月27日
安眠妨害!生霊退散!生霊退散!大迷惑!
2009年09月26日
IQなんて、あてにならないだろうけど、母親は、IQ 110の私を、虐待の言い訳に、知的障害者だと言いふらした。そして、私は高卒。頭がいいと自慢の息子の弟は大学院修士卒で年収1千万円以上。対して私は、自腹で通信の大学を出たものの、年収200万円もおぼつかない。 数年前に、他人の話から弟のIQが119だと知った。ということは、IQは、10ずつ分かれているので、110~119の同じ枠の中に、私も弟も所属するのに、この扱いの違い。 延々と続く、事情を知らない他人からの侮蔑に、いい加減に終わりにして欲しいですよ。ホントに。
2009年09月21日
慰謝料も払うことなく離婚したうえに、私のお店の処分で得たお金をを持ち逃げしたのだから、せめて、子どもの学資保険の満期受取額を、子どもの大学の授業料に! 子どもは、理系大学を2年在学し、中退。そして文系大学に入学しなおして、現在2年在学中。まだまだ、学費がかかります。 子どもの学資保険は、子どものためのもの。明治生命の学資保険です。そちらの家族の無駄遣いにしないでください。 このブログを見た、カスミの方、元夫に伝えてください。
2009年09月13日
私が、薬漬けにされ、神経の病気にされていたとき、母親と関係していた、あ、くじ、な男と夫は、私の店の処分をしたお金を手に入れたらしかった。5年ほど前の職場の女性数人がひそひそ話をしているのを漏れ聞いた。 私は自分の店を持つのが夢で、独身の間、無駄遣いせずに、こつこつと貯めたお金で、結婚後、店を持った。夫婦関係が結婚当初から思わしくなく、離婚後、独立できるようにと考えてのことだった。結婚していることから、夫の許可を得なければならない。夫が許可したのは、人も車も通らない、商売には不向きなところだったが、夫に従い、その場所で洋服の店を3年ほど営業していた。一輪車操業で3年続けたものの、これ以上は無理と、閉店の準備を始めていた矢先に、取り押さえられて入院させられた。 退院すると、洋服も棚(100万円以上した)も処分されていた。「処分料がとられたから、まったく金にならなかった。」と、夫は言った。私が処分していたら、いくらかのお金が残せたはずなのに、しょうがない人だと私は怒ったが、まさか、お金を懐に入れて、知らぬふりをしていたとは、思いもよらなかった。 ところが、このとき、処分したお金を頭金にして、あ,くじ、な男は、平成5年ごろ、土浦市にマンションを購入し、妻子と暮らしていると、ひそひそ話が漏れ聞こえて知った。元夫は、離婚後、銚子市にすぐ再婚した相手と生活しているらしい。あ、くじ、な男と夫は、いくら、山分けしたのだ?私からお金を横取りする目的で、私を障害がある人間にしたのか? だいたいに、まったく関係のないあかの他人が、何の権利があるのか? あ、くじ、な男に、多くの人間が加担するのか? 理解に苦しむ。犯罪だよ。
2009年09月13日
入院する必要のない私は、10種類ぐらいの薬づけにされた結果、運動神経と記憶に、障害が出た。 退院の半年後、事務員として働き始めた。事務所前の泥除けに、靴のかかとがひっかかり、前のめりになったとき、私は、そのまま、倒れて、顔をぶつけてしまった。鼻に少しの傷跡がついた。普通、運動神経が良くない人間でさえ、倒れそうになる際には、手で支えるために、顔から落ちることがない。高校生のとき、体育の5段階評価が5だった私は、常識の範囲内でさえ、運動神経の系列が悪くなったことに、私は、ショックを覚えた。 そして、パソコンに文字入力しようと、原稿を見て、パソコンに目を移すと、頭の中はまっしろで、入力しようとした言葉がまったくわからないほど、ひどかった。普通、人間の記憶は、5文字から9文字を、短期記憶で記憶できる。私は、退院後、5、6年ぐらいまで、この状態だった。わずか、2文字の熟語を入力するために、原稿を見て、パソコンを見て、これを、数回繰り返さなければならなかった。このとき、30代後半であったことから、老化現象には、まだ早く、記憶の神経経路がいくつか破壊されたのだろうと思った。 そのほか、入院前ではなかった、もろもろの、悪い症状のために、日常生活、仕事上、20年苦しめられてきた。
2009年09月13日
半ば強引に車に乗せられた。すると、阿見町の東京医大、霞ヶ浦病院の駐車場に入って行った。「どういうこと?」私には、まったく意味がわからなかった。「診察してもらうんだ。」 前もって打ち合わせ済みだという、医者の診察を時間外で見てもらい、医者は入院が必要だと言った。 確かに、仕事と、保育園の子どもの育児やお金のやり繰りに疲れて果てていた。しかし、入院するほどひどくはなかったはずである。以前に、新聞の記事で、不登校の女の子が精神科に入院した所、薬漬けにされ、よだれが出て、本当におかしくなり、親の助けで退院したという記事を読んだことがあった。私は、精神科への入院など恐ろしくて絶対に嫌だと思っていた。「入院は勘弁してください。通院しますから。」と何度も医者に頼んだが、「絶対、入院。」と言うだけで、私の希望に耳を貸さなかった。そして入院しなければならない理由として、「食欲もなく、眠れないということでは、通院では無理です。入院しかありません。」とのことだった。私は、医者の前で、眠れないとか、食欲がないとは何も話してはいなかった。医者は何を言うのかと思った。「食欲もありますし、寝ています。」と言っても、医者は、「食欲もなく、眠れないということでは、通院では無理なので、今から入院してください。」と、同じ言葉を繰り返すだけだった。仕事と育児、お金のやりくりと疲れていたことから、すぐ眠くなる方だった。電車に乗るとすぐに眠ってしまい、乗り過ごすことが多かったので、眠れない事実はなかった。それでも医者は、「ご家族が眠れないと言っていますから。ご家族は食欲がないと言っていますから。」と医者は繰り返すのみだった。「ですから、食欲はあります。寝てもいます。」私がどんなに、訴えても、取り合ってくれなかった。家族がおかしいからと医者へ連れて行けば、医者はこの人間はおかしいからと、本人の話を一切聞かないのかと、腹が立った。なぜ、本人の話す真実を無視し、家族の嘘を真に受けるのかと、どうして聞いてくれないのかと、必死に訴えた。入院させられたら、薬づけにされて、殺されてしまうと本当に怖かった。死にたくはないから、必死だった。私は聞き入れようとしない、医者の態度に、だんだん語気強く訴えた。誰でも事実を事実として聞き入れてもらえない状況では、声高になるはずであるが、この私の態度もおかしいからそのような態度なのだと診断される結果となった。 長い間のやり取りの中、医者の話では、昼のうちに、家族が相談に来たのに対し、「簡単に入院をさせるわけに行かないですよ。食欲がないとか、眠れないとかの症状がないと。」と言ったところ、「眠れないですし、食欲もないですから、ぜひ、入院させてください。」と、家族と称した人物、あ、くじ、な男が、頼み込んだというのだった。なぜ、医者のほうから、入院にさせる基準を教えるのだろうか、家族と称した人物が、それに合わせて、食欲がなく、眠れないということにしたと気づかなかったのか。悪意で入院させようと考えていれば誰にでも出来ることだ。悪意のある人間は存在するのだから、医者は言動に注意をする必要がある。 幾度も、食慾はあるし、眠っていると訴えた私の言葉を、医者がまったく無視し続けて話していた、『家族』とは誰を指すのかと、必死なやり取りの間中、頭の隅で気になり続けていた。『家族』とは誰なのか、不思議だ。ただそのことに触れているうちに、私に入院の意志がないという話を、うやむやにされたくなかったことから、疑問に感じながらも、そのことには触れずに、入院だけは勘弁して欲しいと訴えて続けていた。『家族』とは誰のことか、夫であれば、普通、『ご主人』を使うだろうし、親であれば、『親御さん』との言葉を使うはずである。家族を装って、私を入院させる算段をし、家族へ手筈を整えたのは、いったい誰なのだろうか。その時の突然の状況下では、何もわからなかった。 それにしても医者は、当事者とは赤の他人の嘘の言葉をもとに、薬を処方したことになる。こんな最低なことはない。私は、入院後、本当に神経がおかしくなって、それが戻るのに10数年も要した。誤診により処方された場合、正常である人間に、抑制する薬を処方されるということは、運動神経が機能しなくなり、神経が滞ることになる。神経科の薬の処方は、二人以上の医者が処方すべきとしない限りは、処方できないようにすべきだ。そうでもしない限りは、誤診による薬の処方違いによる弊害が在る場合もあるだろうし、悪意ある家族に陥れられる人間もあるだろう。被害者の訴えは、おかしいのだからと相手にされなかった。病気を心配する家族を装う人間の嘘に基づいて、薬を処方された場合の恐ろしさを考えて欲しい。 入院の準備の間、待つようにと指示があったが、私は納得がいかなかった。病院で薬漬けにされて殺されたくないと、すきを見て、逃げ出した。夫と実父が追いかけてきて、私の手を掴んだ。私は必死だった。入院をさせられてしまえば、生きて帰れないと、恐怖のあまりに、掴んでいる手を振りほどいては逃げ、またつかまり、また振りほどいて逃げるということを病院の駐車場で、繰り返した。男二人と女である私一人では、結局逃げ切られずに、医者の前に連れ戻された。「このような凶暴な行動を取るようでは、入院しかありませんね。」こんなことが、あるのだろうか。誰しも死の恐怖から逃げ出そうとするはずである。それを、凶暴とされるとは何事であろうか、何を訴えても、気狂いだからと、私の話すことに、耳を貸しはしなかった。入院の前に、入院の同意書が必要とのことだったが、私はサインを拒んだ。入院をしたくない私は、入院の同意書にサインをする気になれず、断り続けた。医者は怒った。医者は、私が従わないことに苛立ったのか、ヒステリックにサインを指示した。そのとき、一番、神経が異常な状況だったのは、神経科の医者だったと私は思っている。腹立ち紛れに、入院する気のない私は同意書を破いた。すぐ、新しいのを用意されたが、それも続けて破いた。生きたいがための私の行動は、精神錯乱をしていると判断されたらしい。私は大勢の看護師に押さえ込まれていた。医者は特別室の用意の指示を出していた。結局、本人に判断能力がないからとのことで、夫が同意書にサインをした。私は叫び続けたし、逃げようともがき続けた。この私の行動は、精神異常だろうか。入院をしたくないという本人の意思を無視して、強引に入院をする人間達から、逃れようとしただけのことだった。入院をしたくないとの明晰な動機に基づいた行動が、異常な行動として扱われた。「注射を用意しろ。」と医者が叫び、看護師が注射をもってきた。何を注射されるかわからない私は、抵抗し、注射を取り返して、トイレに投げこんだ。結局、注射はまた用意され、何人もの人間に押さえ込まれ、注射された。注射の薬剤のために、一瞬のうちに意識が無くなった。こうして私は、凶暴な要注意患者として入院させられたのだった。 病室は廊下と同じ床材で、部屋の半分ぐらいに畳を何枚か並べて置いている所に、布団を敷いているだけだった。部屋には、トイレもついているが、ドアがない。監視カメラが部屋にいくつも設置してあり、こともあろうかトイレにも向いていた。用を足すたびに、下半身を誰ともわからない人間たちに見られていることが、屈辱で耐えられなかった。
2009年09月01日
《モラルのない最低な出来事》 10年近く前、同僚から乳がんの検診を受けた方がいいと、何度も言われ、いつもは気にかけていないことだったのに、乳がんの検診を受けてしまった。 近くの、東京医大霞ヶ浦病院で。看護婦から、ブラジャーをはずすように言われた。スカートもはずすように言われ「?」と思ったが、たいていの人は、看護婦の指示に従うと思う。ショーツ1枚で、ベッドで横になっていた。すると、白衣を着た医師と思しき男が、にやにやしながら入ってきた。その時点で、ぞっとしたが、我慢した。さらに、乳がんとは関係のない、下半身へ目線がいっているのがはっきりして、不快だった。 にやつきながら、胸を触るのが、おぞましく、私は、目線を避けた。その後、この男は、ベッドに上向きに横たわっている私の上に、重なって寝そべってきた。(何。これ!)と思ったが、検診を受けたことがなかったので、こんなものなのかと我慢した。すると、看護婦は、その上から、バスタオルをかけてきた。(これが、検診?いやらしい) 私は、こんな耐えられないことなら、二度と受けないと誓った。 ところが、ところが、である。その後、4年ほどして、転職先の職場の同僚から、そのときの話を向けられた。誰にも話していないのに、なぜ? と思った。 私が医師の格好をした男から、胸を触られたとき、私が感じていたと、ありえない話に作り替えられていた。 誰が、検診で体に触れられて、感じるなどという人間がいるのか? 私は、そのときの耐え難い状況を思い出すだけでも、腹立たしく、さらに、まるで、私が喜んだ、いかがわしい女であるかのように、おもしろおかしく噂をされていると知って、屈辱に耐えられなく、今だに、怒りは収まらない。 その女性から聞いたことでは、その病院では、医師資格も、看護師資格もない人間が、「やらせてほしい」と頼むと、医師の代わりに患者の体を触ることが出来るというのだ。 医学的知識もなく、モラルについて学んできていない人間が、公然と女の体を触りたいために、白衣を着て医師のふりをしていることを、あ、くじ、を平然と行っているところが、病院なのでしょうか。 訴えたいけどね~。
2009年08月31日
「睡眠薬依存になれば、薬ほしさに、言いなりに出来ると思ったけど…。」 はっきりいって、この言葉に、「何!」と腹立った。 5年ほど前に、ひそひそ話で、漏れ聞いたのだった。病気でもない人間を、何人もで、連合して、無理やり入院させて、眠れる人間に、毎日睡眠薬を処方していたのは、そのせいだったのかと、怒りが吹き上がった。 あ、くじな男の最低な策略に腹が立った。 毎日、退院後も親の監督の下、眠れるのにもかかわらず、睡眠薬を2,3ヶ月飲み続けさせられた。あいにく私は眠れなかったわけではなかったから、睡眠薬依存症にはならなかった。 ふと、マイケルジャクソンの死で、ふと、依存症の怖さを知り、さらに、腹を立てている。
2009年08月26日
1枚、2枚…。で有名な怪談。筋はいろいろあるようですが、私が若い頃に読んだものは、若い女が出来た夫が、、妻のお菊に難癖をつけては、家宝の皿をなくしていないか、うるさく言った。お菊さんは、毎日、皿の数を確かめて皿をなくさないように、気を使っていた。 夫は、お菊に毎日、毒を飲ませたことから、お菊の顔は、青く醜い様になった。 醜くなったお菊を離縁し、若い女と暮らし始めた男。 お菊さんは、お皿がきちんと揃っているのかが、気になって、家の中で皿を数えていた。醜い顔のお菊さんに驚いた若い女が騒いだことで、男は逆上して、お菊さんを殺してしまった。 殺されたお菊さんは、お皿がきちんと揃っているのか気になるので、死んでからも、お皿を数えるために夜な夜な現われて、「1枚、2枚…。」と数えた。錯乱した男が、お菊と若い娘を取り違えて、若い娘まで殺してしまうという筋でした。女が怖い。というのがほとんどでしょうが、男が怖いお話ですよね。お菊さんは、仕事をまっっとうするだけのまじめな性格で、脅かそうとして出ているわけではないと思います。男は、自分のわがままを押し通すためには、どんなひどいことでもするということです。被害者の会、会員より。
2009年08月14日
数ヶ月前、以前より、無言電話や、セールスを装う電話に、我慢できなく、電話番号を変えた。 それなのに、電話番号を変えて、1週間しないうちに、無言電話があった。際限なく、意地悪を続ける、加害者が、「逃げても無駄だ。」との、アピールのつもりだったのでしょうが、親にも、会社にも、電話番号を知らせていなかった。子どもは「なぜ変えたんだ。」と番号を見ようともしていなかった。 ということで、新しい電話番号を知っているのは、私と、n社、つくば、の116担当者だけ、ということになる。 世の中は、冷たいものです。被害に、耐え難い思いをしている人間に、加害者と関係して、ともに、加害を加えてくる。そんなに、逆境にある人間を、痛めつけて、楽しいですか? 何よりも、情報を扱う人間として許せないと、憤っています。信用なんてものは、存在しないのでしょうか?
2009年07月20日
ほうまたか 軽侮(けいぶ)な噂 んぬがこと 弛緩(しかん)の口は つつしみ知らず
2009年06月06日
世の中には、理解の出来ないことが多いものです。が、その経験のない方には、取り違えた解釈をされるようです。 霊現象だけではなく、生きている人間により、憎しみや、そのほかのことが起きることもあるのですが、霊現象に関してはいくらか認知されている部分もあり、すべて、霊現象で、被害者が悪いと決めてかかるようです。 こちら側に、相手から恨まれることはまったくなく、相手側が、勝手にターゲットに狙ったというだけのことです。ストーカー被害者が、加害者を誘いこんでいないことと同じです。追い掛け回されている事に気付かずに、被害を受けていだけです。 結局、どんなに被害を訴えて、被害を打ち止めにしようとしても、被害者が悪いと見られているのですね。 虐待を続けた母親と共に、優秀を装いたい人間とが、ひとりの人間の存在を全面否定し続けてきた実態の一部を表明し続けていたが、私が最低と思われてるのだとわかりました。私は虚言癖があるのでもなく、どれだけ耐え難い目に合わされ続けたか、全てを表示するにはあまりにもひどいことばかりです。 高校を卒業しているのに、卒業していない馬鹿と侮られることが、私のほうに何の非があるのでしょうか。実際に高校を卒業しなかった人間の逆恨みで、事実と異なる噂を流され続けていた。…気付くのに、20年近くもかかりましたが…。 所詮、…、ですね。 これ以上、無駄なことは、やめにします。が、ほんのわずかの希望を持って、表示は続けます。
2009年03月28日
私の母親は、高校を出ていなかった。当時の女性はほとんど出ていなかったらしいが、どうしても高校に行きたいと、私が中学3年生から高校3年まで、杜陵の通信高校で勉強し、高校の卒業は私と同じ年度だった。 この時、一高卒業を装いたい、と考えた人間が、夜間高校に入学し、同じ教室で勉強していたらしい。噂の端々が聞こえたことによるとですが。この男の策略に反し、一高夜間部は、杜陵高校の通信教育と一緒になり、いうなれば、母親とその男は杜陵高校の同級生である。「同級生の○○さんは、高校卒業資格を取っていない。」と、茨城県に移住してから、事実無根の噂が流されていた。まさか、レベルの高い高校を卒業した私が高校を卒業していない扱いをされているとは、20年近く気づかずにいた。露骨に馬鹿にする会社の同僚の態度を不思議だとは思っていたが、茨城の田舎の県民性なのだろうと思っていた。 こうして、馬鹿だ、売春婦だと、会社を替わるごとに、噂を流されていたらしく、それぞれの同僚達から意地悪を数限りなくやられてきた。会社で働き続けることが出来ないほど、ひどいものだった。男は、私の働く会社の女性のほとんどと、関係し、嘘の情報を流し、意地悪を勧めていたらしい。私が経歴詐称していると言っていたらしい。
2009年03月11日
母親が何をやってきていたかについて、私自身が50歳近くなるまで気づかずにいた。会社の同僚からの身に覚えのない蔑みを数多く受けていく中で、母親の男関係が見えてきた。特にひどいのが、中学の同級になったことのある男が長く、母親と関係し、結託して私を陥れてきていたことに気づかされた。それも、私が同じクラスになり、その人間の存在を知る前からだった。 母親はいつも、「男と関係をしてはいけない。」が口癖で、会社で残業しただけでも、「男遊びしてきたな。」と怒る人間だった。まさか、母親自身が、見境なく、男と関係をしていたと考えてもみなかった。 母親は、私を虐待し、虐待の言い訳に、知的障害者だと言いふらしただけではなかった。私は、男女交際をほとんどしたこともないのに、「誰とでも寝る女。」「売春婦。」と陰口を叩かれている事は、うすうす知っていた。そのために、対等な人間関係は、ほとんどなく、くやしさで、何百回、何千回、唇をかみ締めてきた。 それが、母親がやっていたことを、私がやっている事として、さらに、尾ひれを付けられて、噂にされて、蔑まされてきたと知った。腹立たしく、くやしい。そして、当の母親は、男達と一緒になって、私を「売春婦。」「くず。」と侮り続けている。 私のほうでは、母親の行状に気づいているが、母親のほうは以前のまま、おおいばりな態度をしている。 なんて、理不尽なことだ。最低な人間が、そうではない人間を、大勢を味方につけて、侮っている。 たぶん、私は、母親を許すことはないと思う。この、どうしようもない、腹立ちは、どこへも向けることは出来ない。 こうして、暖簾に腕押し、なのに、ブログに、つぶやくしか出来ない。
2009年02月27日
薬の説明もなく、薬の量が増えていく。話を聞いてくれない。診断を的確に行うことが難しい。薬の為に、病気がひどくなる場合など、さまざまな、うつ病の問題があった。 私が神経科と関わることになったのは、他人による悪意により、無理やり入院、何のための薬かわからないままに、たくさんの薬の処方をいきなり受けてからだった。 医者は、薬を処方してから、いきなり薬をやめると、大変なことになると、脅迫まがいのことをいうだけだった。病気ではない人間に対し、入院中の10種類ぐらいの薬は何だったのかと、退院後、医者に質問すると、馬鹿が何を言うのかという、見下した高飛車な態度で、侮り、患者である私を精神不安を起こす言葉を、ぶつけてきた。その言葉に、私の精神状態が不安定になったのを見て、ほら、おかしいじゃないかと侮る姿に、その部長先生へ、憎しみを抱いた。その後、数年間、何のための薬かわからないまま、この薬の為に、病気ではなかった者が、本当の病気にされてしまっているという、不信感の中で、飲んだり、飲まなかったりを、10年ぐらい続けた。薬を飲み続けたことで、薬をやめると、精神が不安定になってしまうことの繰り返しで、苦しんだ。 家の近くの、霞ヶ浦病院では、神経科を閉鎖するということで、その後、薬を飲んでいない。薬を飲まなくなってしばらくは、神経バランスが悪くなり、苦しんだが、5年以上も飲まなくなって、病院に入院する前のようではないにしろ、ごく普通に近くなってきた。 通院していたとき、医者は、カルテから目を離さずに、「どうでしたか?」と聞くだけで、こちらは、「変わりありません。」、そして医者は、「いつもの薬を処方しますね。」と、5分もかからずに終わっていた。 イギリスが国によって、認知療法を取り入れて、薬を処方しない方法を取っているらしいが、病気の診断が的確とはいえない状況では、薬をすぐに処方するやり方は改善していってもらいたい。
2009年02月22日
自我のある部分を対象(乳房)に投影させ、その部分と対象とを同一視して、対象を同一視して、対象を自分の一部であるかのように侵害し、所有し、支配しようとするような幻想として表現される規制である。 …【投影性同一視】 (精神分析の対象関係理論の考え) 私見)ストーカー行為を行う人間に、この傾向が多いのではないか。相手の女性と一言も言葉を交わすこともないのに、女性を自分の所有物視する。または、実態のある体という、衣を脱いだ状態で、女性の身体に触れたり、体の中に生霊として、侵食する。 被害側の女性は、皮膚がチクチク痛む、ヒリヒリする、あるいは、虫がモゾモゾな感覚を受ける。この状態は、身体表現性障害(ヒステリー)の転換性障害の症状と診断されるだろう。被害者は精神の障害があるかのように扱われているのではないかと考える。 被害の実態は、被害者にしかわからない。他の誰にも被害の状況は、わかってもらえない。加害者は、犯罪が立証されないことで、最低な行動をエスカレートしていく。
2009年02月20日
1)おにぎり3個分のご飯に白ゴマと黒ゴマを混ぜ合わせる。2)プロセスチーズを適宜な大きさに切って入れ、おにぎりにする。3)オーブントースターに、クッキングペーパーを敷いて、おにぎりを並べて、250度で6分焼く。4)裏返して、上のほうに、【みそ大匙1、しょうゆ小匙2、みりん大匙1、水大匙1】をまぜあわせたものを、塗り、5分焼く。5)また、裏返して、合わせ味噌を塗り、5、6分焼いて、出来上がり。
2009年01月12日
お芋のシーズン。油あまり使わずにつくる大学ポテトのおやつ。《2人用》1)大き目のサツマイモを、普通の大学ポテトより小さめに、乱切りにする。2)グラタン用の耐熱皿、2つに分けて入れる。電子レンジに、ラップをして、3分レンジをかける。(サツマイモの大きさにより、多少時間加減する)3)取り出して、均一に加熱されるようにするために、サツマイモの向きをかえる。 さらに、2分加熱。余熱で、1分蒸らす。3)ごま油小さじ1.5を、まんべんなく、まぶし、まぜあわせる。4)皮が下になる様に並べ(皿にくっつかないようにするため)、オーブントースター、250度の温度で、7分、加熱する。途中で、サツマイモの向きを変える。5)市販の大学ポテトのたれを、1皿に半分入れる。このとき、ザラメを、隠し味に15粒前後入れる。レンジで20秒かける。6)大学いものたれを十分にまぶし、黒ゴマを振りかけて、できあがり。少し時間を、おいて、たれが固まってから、召し上がれ。
2009年01月10日
「むかしは、ぼくも、きみたちのように、おかあさんがぼくのために、いつも窓を開いて待っていてくれると思っていた。だから、ぼくは何ヶ月も何ヶ月も、家をはなれて、くらしていたんだ。でも、とんで帰ってみると、なんと、窓は閉まっている。そして、ぼくのベッドには、べつの小さい男の子が眠っているじゃないか。」 ―『ピーター・パン』岩波少年文庫から弟妹(ていまい)が生まれて、親から拒絶されてしまうこともありますね。
2008年12月31日
同じ姓 母の行為を 噂され いわれなきまま 苦事に苦しむ いわれなき 噂の渦の 惨禍受け 閉ざされし道 これより進む
2008年12月21日
どのような事情であれ、子どもの命は尊重して欲しかった。私は、親元で、対等な人間としての扱いをされてこなかった経験から、親元で無理に子育てをする必要はないと考えている。身体的、精神的に、子育てが出来ない人や、ある特定の子どもにだけは、子育てを拒絶してしまう親もいると思う。 このような状況にある子どもの受け入れ施設を作り、数年、親と子が別々に暮らし、その後、同居するか別な家族となるかを決めるということも考えていいと思う。 親が必ず育てるものと決め付けるために、子どもの命を失ってしまう。子どもを社会が、大切に育てていけることを願う。
2008年09月25日
やっぱりね。…と、思いました。親を信じて、親の指示に従った、素直な子を…。容疑の母親は、嘘を嘘で塗り固めることは、やめるべきです。小さな子が悪いと、他人のせいにせずに、きちんと、罪に向き合ってもらいたい。 虐待をしていた私の母親は、嘘を嘘で塗り固め、子どもである私が悪く、母親は一切悪くないという態度を日々行なっていた。母親だけが、大事にされていたいあまりに、事実関係を変えてまでも、子どもの私が最低であると周りを信じ込ませていた。ひとえに、浮気の多い、夫の気を引くための行動だったのだろうと、解釈している。 この容疑の母親は、家庭での立場がどのようであったかは、報道だけではわからないが、母親自身だけが一番大事にされていたいと考えての結果、ではないかと考えられる。あくまで、私の勝手な見解ですが…。弘輝くん、次に生まれ変わったら、人生を全うできますように。合掌。
2008年09月24日
またしても、罪もない幼い子が被害にあった。被害者にも、将来があり、夢もあったはず。人間としての人権を、踏みにじられてしまった、被害者の声のない叫びが聞こえないのか?あまりに、自分本位の〔自分さえ良ければ〕の考え方が増えてしまい、被害者を、物以下と、捉えているとしか思えない。 被害者だけが泣き寝入りし、加害者が、のさばる社会、どうにか、ならないでしょうかね?
2008年09月22日
フリースクール内での虐待。虐待が日常化していた可能性も考えられるらしい。閉鎖的施設内で、虐待を恐れて、びくびく暮らしていたのかと思うと、わが身のようにつらい。 このフリースクールでは、不登校について、どの程度理解していたのだろうかと疑問を感じる。 情緒障害児に含まれる不登校の子どもたちを、さらに、精神的ストレスにさらし続けていた、この施設のあり方は、何であったのか? 数年前に、不登校のサポート校とホームヘルパー講座を運営している会社での勤務経験がある。教員免許がないために、サポート校の担当ではなかったが、その会社で働いていた、教員免許を持っていた大方の人たちは、不登校は勉学がついていけないからだ、という誤った認識を持っていて、あきれたことがあった。 フリースクールは、小さい規模で、行なっていることもあり、このような状況が他にも考えられる。関わっている職員が、不登校についての認識の誤りもあるに違いない。 公的機関で、このような施設の業務実態の把握や、不登校への認識を深める勉強会に参加させるなどの、指導的かかわりが必要と考える。
2008年09月10日
ネグレクトにより、次男死亡の母 島村容疑者は8月3日~13日ごろ、次男の健太くん(2)を、3日ごろまで住んでいた同市内にある島村容疑者の祖母(77)宅の一室に、満足に食事や入浴をさせず放置した疑い。 島村容疑者は、内縁の夫(43)が単身赴任中で、長男(6)と健太くん、双子の兄妹の女児(2)の3人の子供と4人家族。 残された二人の子どもたちは、保護施設に預けられていると、報じられたが、母親が出てきても、子どもたちを母親に引き渡すべきではない。同じことが繰り返されるだけだからだ。母親の行状から察するに、幼児性が強く、本人自身さえ、楽しければという生き様が見えてくる。二人の子どもは、まだ幼く、愛情で包んでくれる保護者を求めていることだろう。しかし、それは、実母ではない。私は、この子どもたちに、養子縁組で親となってくれる人が現れること望む。
2008年09月04日
悲惨。これまでにも、色々な本を読み、ドキュメンタリーも、見てきた。さらに、悲惨さが良く理解できた。食料も武器もない、若者たちを、戦地の中へ、…。そして、捕虜となることを許さない。まさに、地獄だ。絶対服従の図式が、陸軍トップを、さらに、暴君と化すことになったのだろう。二度と、同じ、過ちは繰り返しては、ならない。戦争の状況把握が出来ていない、トップの甘さと、計画性のなさ、あきれるばかりだ。戦争の異常性、暴走性、冷静な判断が出来ないままに、突き進んでしまう、危険性を、十分に肝に銘じて、生きていかなければならない。 人間は、ひとたび、暴走し始めると、歯止めがなくなる傾向になる。戦争に限らず、人に対してさえも…。 己の方が上だ、上だと思いたい、そんな、くだらないこだわりが、人を執拗に叩き潰すことをする。絶対服従を、しむける人間は、皆、暴力的、暴走行動に出る。 己が欲求を満たすためであれば、他者はどのような被害を受けても構わないのか?逆らうことを禁じられた人間は、地獄の中で生きなければならない。基本的人権は、どこに?
2008年08月16日
虐待に関わる方々は、虐待する親であっても、子どもは、親の元で育てる方がいいという考えがあるようです。 私は反対の意見です。虐待する親の元にいる、子どもは、他の人間たちからも、人間としての対等な扱いを受けないまま、不当な扱いを受け続けなければなりません。ただ、私の場合、運よく、命は落とさずに済みました。しかし、それはそれで、長く苦しみ続けなければならなかった。
2008年08月12日
他の人からすると、いまさら、そんな古いことを、と思うでしょうが、私にとっては今現在に継続中のことです。 母親や、母親と関係した男によって、昔から今現在までの事実を変えられ、誹謗中傷を流された。近所や、職を変える都度、都度、被害が延々と続けられて、終わりがない。 もう、いい加減にやめて欲しい。本当にそちらが優秀なら、私を潰す必要はないはず。世の中から、抹殺しなければ、気がすまないのか? そして、性の奴隷にしなければならないのか? 奥さんがいて、さらに、…であるのに。いつまで、しつこいのか。 私は、何十年も前から、関係なく、暮らしているだけ。幾度も、幾度も、潰されては、道を変え、道を変えして、生きてきた。私の人生を、私の納得の生き方をして、なぜ悪い。 こんなに長く、訴え続けているのに、なぜ、届かない。 繋がった大勢が、十分に潰し放題、潰して、楽しんだでしょう。いい加減にしたら。 こけさんご ; 花言葉は、 そっとしておいて
2008年08月11日
『“It"それと呼ばれた子』 ディブ・ペルザー著 私は、幼年期だけ、読んでいるが、虐待から生き延びた人間は、『生』に執着していたからこそ、生き延びられたと感じた。そして、実母の虐待がエスカレートしていったとき、教師が気づいて、実母から引き離し、養子縁組をすることで、虐待から逃れることが出来た。 私の場合、…、教師は実母の虐待の協力者でしかなかった。
2008年08月09日
祈り 二度と繰り返されることのないように。
2008年08月09日
小学五・六年生にもなると、母親が形相を変えて近づいてくると、とっさに逃げて、叩かれないようにしていた。古い家屋であったために、床が土間から、一メートルもあり、母親に捕まらないように、とっさに飛び出すので、靴を履いている時間がない。とりあえず、母親から離れて、後で、靴を履こうとすると、「靴はお前のものではないから、履くんじゃない。出て行けー。」私は、靴を履くわけにもいかずに、外に出た。小学生の私に行き先など、ない。しぶしぶ、近くの八幡宮をあてもなく歩いた。人と出会って、靴を履いていないのを見られたくなくて、草の生い茂っている所を選んで歩いた。靴を履かずに歩くことが、屈辱的であり、出て行けという母親を腹立たしく思った。小学生では働くことも出来ない。出て行けと言われても生活が出来ないことが悔しかった。一人で生活の出来ない小学生に対し、抑圧的に出て行けと言う母親が卑怯だと考えながら、行き先のないまま一・二時間歩いた。八幡宮と対面して、家が並んでいて、家から、八幡宮の境内が見えることから、長い間、私が、境内をうろついているのを、多くの人に見られ、誰かが母親を呼んできた。靴を履いていないのを見えないように注意していたが、「靴をなくしたようよ。見つけられなかったようね。」いつのまにか大勢の人たちが、私の周りを取り囲んでいた。私は、靴を履かずに歩いていることが恥ずかしくて、顔を上げられなかった。母親は、まわりの人たちが誤解したことに合わせてしまった。「まったく、靴も履かずに歩きまわって、人様に迷惑をかけるんじゃない。さっさと来なさい。」と頭を叩かれた。このようなことが、幾度もあったが、このことは、私が遊びに熱中したあまりに、靴を紛失し、見つけられないまま、靴を履かずに歩いていたことにされていた。母親発信の知的障害があると、誰もが信じ込んでいたことから、誰もが、どうしようもない馬鹿だね、と笑うだけだった。母親からの虐待を逃れるために靴を履く余裕もなく飛び出したとは、誰も気づいてはくれなかった。レベルの高い高校を卒業してからも、このことを持ち出されては、「馬鹿だったくせに。」と鼻先で笑われる結果となった。
2008年08月06日
むなしくも 我、一分の 勝ち目なく 東風吹く時を 一心に待つ ※東風(こち;春風のこと)
2008年08月05日
小学三年生の遠足の、写真の注文を取っていた。母親はPTAの役員で注文の集計をしたときに写真を見たと、怒っていた。「何なのあの写真は。あの股を広げて写真に写って。」「え、それはないはず。」「何言ってる。トレパンをはいていたからといって、写真を写している人に、股を開いて写真を撮らせるなんて、ふしだらだ。」となじった。「え、でも、私はスカートだったはずだけど。」「わけわからずに、何を言うか。写真を見てきたんだから。確かだ。」 小学生の遠足は必ず、スカートで参加していたので、絶対ない。そして、小学生の頃は、一日中、座りだこが足にあったほどの、正座をする生活であったので、母親が言うところの、股を開いていたという、覚えもなかった。写真が届けば、母親からの疑いも晴れるだろうと、証拠のない状況では、何も言えないとその場はそのまま黙った。学校へ行くと、「きのう、お母さんが、注文を書き直していったようだけど、S子さんの写真の注文がたくさん入っていたようだから、それは消しておいたからね。」と、担任の先生から言われた。私はそのとき、意味がわからなかった。写真が届いて見ると、問題の写真は、昼食後、近くの何人かを集めて移したもので、私は、やはりスカートをはいていた。そして、後ろに立っていたのである。座っていたうちに一人は、トレパンをはき、股を開くと言うよりは、リラックスして、足を投げ出しているだけのものだった。それがS子さんだったのである。母親が私とS子さんを取り違えたからだとわかった。安心して、家に帰ると、母親に見せながら、「ほら、股を開いていたのは、私ではなかったよ。後ろにいるのが私。」すると、母親は信じられないことを言った。「そうでしょう。どんなに嘘を言っても、写真という、動かぬ証拠が残っているのだからね。素直に認めるんだよ。まったく、いい恥さらしだ。どんなに恥ずかしかったか、わかるか。」「え、だから、これは、私ではないから、見て、これは、S子さん、私は、スカートをはいているの。」「まったく、写真を撮ったのは、男だったのだろう。男の前で、股を開きやがって。今から色気づいて、恥さらしだ。」「これは、私ではないと言っているでしょう。」「どんなに騒いでも、証拠が残っているんだ。」うるさいと言わんばかりに、無視をして立ち去った。その後、何かにつけて、股を開く最低な行動をする子だということを、言われ続けた。他の人間にも話したのだろう。社会人になって、その話を知るはずのない人たちが、さげすみの笑いを浮かべながら、「カメラの前で、股を大開きで、ポーズを取るんだって。」と、ヌード写真を撮らせているのだろうという、侮りを数多く受けることとなった。
2008年08月04日
次々と 金ガチョウに つながりて 悪業連合 狂気の沙汰 ☆ 金メッキ はげて落ちても 金という 騒ぎ立てずば 気づかぬものを
2008年08月02日
同情するなら カネをくれ これ真実なり
2008年08月02日
止めどない 身の屈辱 堪えがたく 打ち止めすべく 思案余りて
2008年08月01日
形ない 同情より 連綿と 続く被害に 終止符打て
2008年07月30日
恐山 四国巡礼 永平寺 あくりき 母と闇蟲 悪力増して
2008年07月28日
小学一年ごろに、遠縁である海のそばにいる親戚の家に泊りがけで遊びに行ったことがあった。「水着に着替えて、海で遊ぼう。」と誘われたので、母親の所へ行き、「お母さん、水着は持ってきているの?」「持ってきている。」私は、母親の言葉に、浮き浮きとして、水着を出してもらうのを待った。母親は、荷物をしばらくごそごそとさせていた。「さ、行きましょう。」私は、一瞬、きょとんとした。母親が水着になっていたのである。「私の水着は?」「あんたのは、ない。」私は、子ども心にも、母親は自分のことばかりしか、考えていない人だと思った。「学校の水着があったじゃない。」私の抗議を無視して、母親は太った体で、すまして歩き出した。結局、母親一人水着になって、私たちは洋服のまま、砂浜を歩くだけだった。海辺でスイカ割り遊びをすることになって、私と弟が目隠しをして、スイカを割るための細長い棒を持った。「右と言っただろう。どっちへ行くんだ。」と遠縁の子達は笑っている。私は方向がまったくわからなくなって、目隠しをはずして、文句を言った。「どうして。さっき、右と言うから右に進んでいるのに、逆だなんて、おかしい。どっちの側から見て、右とか左と言っているの。私の側から右か左か言ってよ。」 ふと見ると、母親が、目隠しをした弟の後ろから抱えるように手を回し、棒を一緒に持ちながら、スイカの方へ走りよって、割ってしまった。私は唖然とした。「割った。割った。」「うん、僕が割った。」母親と弟が喜んでいた。私は少し離れたところから、喜ぶ二人を卑怯だと思って見ていた。スイカは持ち帰られたが、破片が少し砂浜に残されていた。私は、ごみは持ち帰るものと思い、そのスイカの破片を拾った。母親はすぐさま、「汚いから、捨てなさい。」と私の手を掴むと、激しく振り払った。「ごみを、あのままにしていていいの。」母親は無視をして、私の手を掴んだまま歩き出した。ごみの放置を気にしただけの行動が、ごみを拾って食べようとしてまるでこじきだ、と母親による馬鹿にした噂で、ひそひそと笑われていることを、大人になって知ることとなった。食べようとしたのではなかったことを、そのような話に変えられたことに愕然とした。遠縁の親戚の家に帰ってしばらくすると、その家族が、スイカを食べていた。「あれ、K子ちゃん。スイカ食べた?さっきスイカを部屋まで運んだけど。」「ううん。」「ここで一緒に食べなさい。」あまり食べたいと思わなかったので、断っていると、母親が遠くから声をかけてきた。「K子は、食べちゃ、だめ。服が汚れるでしょ。」「食べてない。そういえば、スイカ割りするといっていたよね。まだ、やらないの。」私は少し前に、スイカを冷やしていた所に見に行った。「あれ、ない。スイカ、どこにいったの。」「さっき、スイカ割りしたでしょ。」「え、やっていない。」私は、このときスイカ割りをしたことを、まったく忘れてしまっていた。たぶん、神経のおかしい子だと思われたに違いない。せっかく楽しみにしていたことを、十分に楽しむことなく、母親から奪われてしまったことが、一時的に忘却させてしまったらしい。「海で遊ぼう。」「でも、水着を持ってきていないから。」「いいよ。そのままで。」子供同士の元気さで、服を着たまま、波打ち際の水に入りながら、子ども三人でボール遊びをした。弟だけは、一人砂浜でしゃがんでいた。私は遊ぶことに熱中するあまり、弟のことを忘れていた。「うえーん。」どたどたと弟は走っていった。弟はどうやら、一人で勝手に転んだようだった。 すぐに母親が怒ってやってきた。「何をして、いじめた。」「え、何も。」「顔中、砂だらけで、帰ってきた。何もしないはずがないでしょう。」「ひとりで、勝手に転んだんだよ。」すると、母親は、服のままで、海の中で遊んでいた私を見咎めた。「服のままで、海に入ったら、服が汚れるでしょ。それぐらいわからないの。頭が悪いんだから。」そのまま、母親に無理やり引っ張られて、親戚の家に帰った。シャワー室に連れて行かれて、着ていたワンピースや下着を全部脱がされた。母親は激しく怒ったまま、服を持って出て行った。母親が服を持ってきてくれるのを待った。三十分以上待っても来てくれなかった。私は、母親が服を持ってくる気がないと気づいたが、裸で、親戚の家の中を歩くことが出来ずに、そのまま、シャワー室に籠もったまま、時間が過ぎていった。遠縁の子がシャワー室のドアの外側から、叩き、「いつまで入っているの。」とからかった。いつまでも、出ないままでいるわけにはいかないと、意を決して、裸のまま、家の中を必死で走った。出来るだけ早く走った。裸を人に見られないようにと思ってのことだったが、私たちが、泊まることになっていた部屋は、かなり遠く、たくさんの人に見られてしまった。「あら、服はどうしたの。」「やーい、やーい、まだ、蒙古斑がある。子どもだな。」「違う、お母さんに叩かれた、あざ。」わたしは、答えながら、部屋までたどり着いた。母親は不機嫌だった。「一枚しかない服を濡らしたから、着る服はないからね。」そのあとで、おじさんが、買ってくれたピンクのワンピースを着た。ピンクの服を買ってもらったことがないので、とてもうれしくて、はしゃいだことを覚えている。夕飯時になって、私たちの父親が仕事を終えて、到着した。食卓について、これから食べようとしたときに、母親が、私のことを報告すると、父親は体が汚れただろうから、洗わなければだめだと、食卓についていた私を無理やり、引き摺り上げた。「ちゃんと洗ったから。」「だめだ、だめだ。砂が入ったから、きれいに洗わなければだめだ。」力ずくで、お風呂場まで連れて行かれた。「自分で洗ったから、いやだ。」下半身だけ念入りに洗う、父親に対し、「いやだ、もうやめて。」と抵抗した。やっと、お風呂場から出てくると、皆は食事が終わっていた。母親は、私をにらむと、「なんて、大声張り上げているんだ。」と、頭を叩いた。親戚の家で、遠慮したのだろう。いつものような二時間に及ぶような虐待はしなかった。しかし、「反省しなさい。」と、部屋へ連れて行かれた。「ここで、正座して、反省しなさい。」「動いたら、許さないからね。」と念を押して、部屋を出ていった。しばらくすると、おじさんが入ってきた。「お腹すいたでしょ。おにぎり、作らせたから。食べて。」私は、おにぎりが好きではなかったので、「いらない。」「ここに、置いておくから、あとで食べてね。」私は、畳の上におにぎりを乗せた皿が置かれたのを見て、私はうなづいた。帰り際に、「お母さんから叩かれて、あざがあるんだって?」と言って、お尻にあざがあるのを確かめていった。母親がすぐに様子を見に来た。「反省をするんだから、おにぎりは、食べちゃだめだよ。」「うん、嫌いだから、いい。」母親は、皿に乗っていた、おにぎりを大急ぎで食べていた。そこへ父親が来ると、母親は、「お皿を返さなきゃいけないから。」と、食べ終わると、皿を返却しに、母親も父親も部屋を出ていった。廊下で、皿を返している母親の声がした。私のことを心配してくれた親戚には、私がおにぎりを食べたと嘘をついていた。食べたのは、母親で、夕飯を食べた他に、おにぎりを食べたのである。私は、まったく食事をしていない。朝になる前に、親に抱えられて、遠縁の家を出た。抱えられたときに少し目が覚めたが、そのまま寝ていていいということだったので、寝てしまった。目覚めたときは、家の布団の中だった。私は起きると、周りを捜し歩いた。おじさんからもらった、ピンクのワンピースがあったはずだからだ。「何探してる?」母親が聞いた。私は、「ピンクのワンピース。どこに、あるの?」「そんなのあるわけないでしょう。」「きのう、おじさんが買ってくれたのがあるでしょ。」「寝ぼけて、あると思い込んでいるだけでしょ。」「きのう、着たのがあるでしょ。どこ?」「ないといっているのがわからないのか。」母親の口調が、荒々しくなったので、それ以上は言うのをやめた。私は、思い違いなどしていないと心の中でつぶやいた。
2008年07月27日
悪魔蟲 連連日日 止めどない 被害の渦に ムンクの叫び
2008年07月27日
皆未熟 躾するなど おこがまし おのが自身を 正して生きよ
2008年07月26日
信長の母は、弟を溺愛し、弟を跡継ぎにするために、信長を亡き者にしようと策略をしたらしい。信長は弟のみを、切ることで罰したが、母に対しては、子どもの立場として、罰することが出来なかった。 私は、信長の失敗は、母親を処分することができなかったことにあると思う。子の側である信長は母親をたてたのにも拘らず、母親の方は、最後まで、信長を失脚させることに執着していたのだろうと思う。 …、あくまでも、私個人の見解ですが。 私は、同じ間違いはしない。
2008年07月23日
『二つの道』自由の道は、初めは、ごつごつとして抜け出るのもむずかしく、切り立って危険がいっぱいだが、最後には、うち開け、散歩道や森の木の実や湧き水にあふれ、辛酸の後の憩いにいたるようになっている。一方の奴隷の道は、初めは広く平坦で、花咲き乱れ、目や口を楽しませるものにあふれているが、最後には抜け出すのも難しい、険しい崖道になっている。 ―イソップ寓話から―人間に用意された、二つの道のどれを選ぶかは、人それぞれ。「男の世話になればいいものを。」と批判を受けることが、多かったですが、人それぞれです。
2008年07月21日
NHKで虐待について、教育テレビで放送していた。虐待をしている意識のある親は、改善する努力をしてるが、虐待の意識を持たない人もいます。 私の場合、50歳近くまで、親がしつけたことも理解できない馬鹿だから、虐待されたと勘違いしていると、笑いものにされていた。私が受けた虐待の苦しみを知らずに、母親と関係をした男により、親のありがたみを知らない私の方が最低だとされていた。 離婚後、通信の大学を出た後に、親から金を出してもらっておいて、感謝もしないと批判されていた。通信であったことで、学費は通学の半額以下で済んだので、自分で働いたお金で卒業した。すると、自動車学校の費用や車を買ってもらったくせに、親の世話になっておきながらと批判された。残念ながら、社会人になってから、自動車免許を取ったので、自分で働いたお金で、自動車免許を取ったし、最初に買った車も、自分の働いたお金で購入した。 一番辛いことは、虐待した親が、出来た人間で、虐待を受けた私が、最低だと、事実関係を知るはずのない人たちから、侮られることだった。 私には、小学生の頃の、身体的虐待より、社会人になってからの大勢から受ける精神的虐待の方がストレスで、いつまでも、いつまでも続けられることから、転職により逃げ出すしかなかった。
2008年07月20日
絶対に、あきらめずに戦う。誹謗中傷を流してまでも、潰して、外堀を埋めたつもりらしいが、これまで直接、関わることもなく、これからも、関わることはない。絶対に、あきらめずに戦う。
2008年07月20日
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