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前回、 風に乗る条件、灰になる
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
(ルカ9:23)
日々、自分の十字架を負い、とは、
「 既に死んでいることを日々確認せよ、 」と言うことだろう、
しかし、この解釈は多分、間違いだろう、(と思う、)
昨日の反省から、
今日は最初から、意識が違っていた、
自分で泳がない、
なせるまま、手/足には力を配分しない、
基本は”浮き”と”コア”のみ、
これで自分のがんばりどころが排除できる、
これだけで、今日はもうお釣りが来るほどの楽さだったが、
これで終わらなかった、
ナント、 泳いでいる最中に、 又、父母が現れ、
2人して、昨日と同じことを言った、父 :「XX、十字架だ、」 (XXはオレの名前)
母 :「 XX、十字架よ、」この瞬間、
自分に十字架が浮かび上がってきて、
何か、それを背負って、泳いでいる感覚になった、

その時のスイムの軽いこと、
一気に、余計なものが削がれてしまった感じ、
1k泳いで、疲れ方が昨日とは違った、
ゼンゼンまだいけそうだったが、人が来たので終了、
これで、開眼、日々、自分の十字架を負い、とは、
「既に死んでいることを日々確認せよ、」と言うことだろう、ではない、
日々、自分の十字架を負い、とは、
日々、自分の十字架を負い 、だ、そのままだ、
一見、重そうに見える十字架だが、
負ってみて分かるのは、スゲー軽い、いや、軽いどころではない、
自分を引き上げて、軽くさえしてくれる、
そもそも、この箇所の聖句 「自分の十字架 を負う」の、
一般的な解釈をいくつかネットで見ると、+この御言葉は、私たちが 信仰によって 、主イエスと共なる十字架において、主の死と同一化することにより、アダムの命に対して死に、その古き命の死の上に働くキリストのよみがえりの命によって、神に対して生かされる者となることを告げているのです。
+「日々負うべき十字架」とは、一生に一度、ヒロイックな行動を起こすことではなく、私にとっては、地味な日常の中での、堕落に向かいたがる自分との戦いかもしれません。
+また、十字架とはすぐには納得のできない重荷である。イエスも十字架の直前にはそれを受け入れかねて、苦しみもだえて祈ったとされている。受けとめるには時間のかかる問題、心の葛藤が伴う問題がいろいろあるものだ。なぜこんな苦しみを自分が味わわねばならないんだ、なぜこんな困難に遭遇しなければならないんだという経験が誰にもあると思う。そういうことをキリストの苦しみにあずかる道として信仰をもって受けとめることも、日々の十字架を負うことだと思う。
+「自分の十字架を負う」とは、キリストを信じた後に、新たに負わせられるものではなく、人生の最初から人がだれでもそれぞれの事情の中で当然として負っている重荷のことです。
+ 私は「自分が負うべき十字架」というのは、神さまが自分に与えてくださる使命のことだと思っています。
一般的な「十字架を負う」イメージはこんな感じ、

大抵、重荷だとか、苦しみだとか、使命だとか、
死を信仰で確認すること、とかの「重たい」表現が多い、ザッと見ても、「自分の十字架」の解釈に、
「十字架そのもの」をもってきているものは見当たらない、
これは、一大発見かもしれん、(イヤ、マジで、)*父母が2日続けて、同じことを言ってきたのはさもありなんか、
今日の今日のできごとなんで、ここまでにしておくが、
これが事実とすると、スゲー発見したことになる、スイムだけではない、
当然あらゆるスポーツに応用が効くだろう、いや、スポーツどころではない、
生活、仕事、交際、受験、等々、
全分野に適用できるのではないか、自分の一挙一動一言から、
自我/頑張り/欲が削がれるなら、
一体どんな人生となるのだろう、WKTK!
ちなみに、さっき、これをヨメさんに話したら、
「アラ、まだ知らなかったの?」と軽くいなされた、が、自分の感じるところ、 (ヨメさんには悪いが、)
ヨメさんは多分、全く理解していない、 (と思う、)イエスがここで言っていることがあまりに単純明快すぎて、
追いついていけてないと思う、 (これは内緒だが、)
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