アニメフィスト 0
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「維新の暗号」という本に出会い、そのなかで、フリーメーソンについて書かれていたので、同作家が、フリーメーソンのことを書いている「石の扉」という本を知り、興味本位に読んでみた。 残念ながら、フリーメーソンを上辺だけでしか捉えてない、まるっきりの消化不良書であった。しかし、メーソンについての言及は不満足なのだが、メーソンの世間的な会員が起こした出来事、主に不祥事に近いものについては、楽しく読まさせて頂いた。 唯物的史料とそこからくる唯物的思想では、ここまでが限界といえるのだろう。この本では、せいぜい33位階の人物しか言及されていないが、しかも、その内容ではなく、人物名のみにとどめるものであるが、メーソンは、その由来から96位階まであるのである。 位階が全てではないが、位階は、その叡智の称号を表しているようである。その内容は、霊能力者でなければ、シュタイナーの書籍で知ることができ、メーソンに関しては、特に「神殿伝説と黄金伝説」という、いまでは、絶版になっている書籍により知ることができる。 そこでは、メーソンは、マニ教の霊統から派生した太古の叡智の一種の秘儀伝承の場であったという。勿論、いまでは形骸化し、堕落したものになっていることはいうまでもない。 いまでは、メーソン誕生当時の秘儀伝承のほとんどが失われ、メーソンが残した唯一の人類への功績といえば、慈善事業のみであるという。 あまりにも、この本が陳腐だったので、そこで、メーソンの秘密をここに端的に書くことにする。 メーソンとは「石工」の意味だが、本来それは、男性を意味するものであったという。男性である石工は、言葉を美に表現する建築師の意味だったという。これは太古では、アダムの子、カインの系統であり、神殿伝説を人類に語り継いできた、生命のない無性的叡智のことを表す。 対して、カインに殺されたアダムの子、アベルの系統、後にセトが継ぐものは、黄金伝説といわれ、聖書を読み解くオカルト的叡智、つまり、霊的叡智で、女性の直観、祭司の系統で、これは唯物論の勃興で、失われ、隠されて(オカルト)しまった。 太古、人類は、両性具有であり、男女の性は存在しなかったのである、なぜなら、エデンの園という霊的世界(あの世)に住んでいたからである。だから魂には性がない。魂が肉体に受肉した度合いにより、性をもつのである。 人類が両性具有から、受肉し、男女に分かれて、人類は、神から離れて、自由(フリー)を行う選択を得た。自由になった男性のこと、つまり、言葉(魂)を美に表現する建築師(受肉)のことを、フリーメーソンというのである。つまり、転生により、地を開発するものは、フリーメーソンであり、男性は皆、生まれながらフリーメーソンの資格を有するのである。 カインの系統は、皆、フリーメーソンなのである。だから、誰それがメーソンだというのは俗世間の噂話に等しい。人類の男性は、皆、元々メーソンなのであるから。アダムも、ワシントンも、男性は皆、メーソンなのである。 しかし、人類においては、男女の間に愛が成立してはじめて、宇宙に愛がもたらされる。そのために、神は、十戒を人類に与えた。十戒とは、宇宙的道徳律、秩序の法則であり、愛の存在である。両性具有から男女に分かれ対立した人類に、再び愛の目覚めと、融合を説く言葉なのである。 同性間の愛も友愛に違いはないが、どちらかといえば、偏った愛といえるだろう。なぜなら、大きな対立を解消し、和解するのが真の友愛であるからである。戦いより平和をもたらすのは、真の友愛である。 カインの男の流れの渦と、アベル-セトの女の流れの渦が、再びめぐり合い、2つの渦が、渦巻きとなり、進化の目となることを意味するのである。 この進化の渦巻きが、メーソンの象徴の、全能の神の目を意味する。メーソンの象徴のコンパスは、男の神殿伝説、つまり、カインの建築師(科学、芸術者等も含む)系統を示し、三角定規は、女の黄金伝説、つまり失われたアベル-セトの祭司(霊能者、秘儀参入者)系統を示すのである。 いまでは、三角定規は隠されて(オカルト)しまったので、メーソンの秘密は、語ることができないのである。つまり、言葉を語ることが、そのまま創造する力をもっていないのである。 もはや、現代のフリーメーソンには、女の流れがないので、語るべき言葉である、秘密さえもないのである。だから、秘密を語ることは許されないというより、できないといえる。 それはフリーメーソンのなかで、聖母マリアの霊的(オカルト)聖書認識をもたらさなければ、秘密を語る資格さえもないということなのである。 33位階を超え、オカルト(霊的)認識、これはマニの悪を救うために善があるというマニ霊統に回帰したとき、人間の声帯が、再び、両性具有のときの、霊的人類を創造したときに、人類は、神々(天使)の一員に加わるという太古からの伝説を意味する。 フリーメーソンは、その叡智度合いにより、徒弟、職人、親方の3つに大別されるが、徒弟では、男性的進化が求められ、つまり、極力、宗教的、オカルト的な俗世認識が排除される、これは依存的な思想に、盲信しないためである。物質世界では男性進化が求められる。 職人になると、物質世界において、弱者を救済する叡智の持ち主となる。これは悪を善に転じる力といえる。友愛の精神といえるだろう。 そして、親方(マスター)となると、人類の進化の導き手、担い手となる。太古で言う秘儀参入者といえるだろう。古代エジプトではファラオ、つまりピラミッドは秘儀参入の場であったと考えられるのである。女性的直観の叡智、両性具有の女性形態、つまり自然の女神ナチュラの叡智(進化)を表す。 古代遺跡の多くは、秘儀参入の場、つまりマスターの住む神殿だったのである。神殿は、聖杯を意味し、そこから聖堂騎士団も生まれた。聖杯につがれし血が、キリストの血、神々の叡智、つまり聖母マリアの処女性だと預言されてきた。 これが女にはオシリスのキリスト伝説を、男にはイシスの聖母マリア伝説を生ましめたといえる。
2007年06月07日
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最近、全くみなかったが、昨日、テレビをつけながら眠ってしまい、気がつくと、朝まで生テレビをやっていた。「相も変わらず不毛な言い争いを続けているな」と思った次第である。はっきりいって、主婦が行う井戸端会議の方が何倍かマシであろう。 サラリーマンの酒のない、素面の愚痴会議そのものである。会社の愚痴が、政治の愚痴にかわっているだけで、「俺のいうことが聞けんのか~」の連中の集いであろう。 不思議に思うのは、とにかく、この出演者たちは、自分の主張ばかりぶつけ、他の人の意見をまるで聞かないのである。司会者が、自分の意見を誘導するのに、最も作為的で、挙句の果てには、自分とは方向性が違う意見を差別し、まるで切り捨てるしか能のない様子である。そうして、一種の仮想の世論形成が、まさに統一され、存在するかのように演出される。 しかし、何時間も議論した挙句、常に結論は出ず、中身はお粗末の一言で片付けられる。ただただ平行線の議論が繰り返され、ストレスが蓄積される。ただ、行動もせず、口だけ喧しい議論好きにはもってこいの番組なのだろう。大半が寝静まった深夜に行うのが唯一の救いであろう。さながら、深夜に集う悪魔集会でもある。 エキセントリックにやり、話題性だけで視聴率を稼ごうという、どこか内乱誘発のスパイ工作に類似している。議題やタイトルは高尚だが、若者にみせたくない有害番組のように思われる。 喧しい議論をした割には、全てが先送りされ、いまの政治と酷似していることは確かであろう。この番組をみて思うのは、自己主張が先行し、その実、我儘な人間ばかりが増えたというのが、実感である。 挙句の果てが、国民投票という、国民への政治の丸投げなのだから、政治家たちは不毛な議論ばかりで、その実、遊んで暮らしているのと変わりがないのであろう。議論はいいから、国民全体の意に沿うように、社会改善や行動を行って欲しいものである。 社会や教育は荒廃し、米国への従属化は進み。自然環境はめまぐるしく変化し、感染病が多発し、安全神話は崩壊し、日本人の勤勉で実直な品性、他への親切さの美徳が失われていってしまった。 この番組をみて、これは日本人が口先だけの人間になったせいではないかと危惧する次第である。日本人は美しいどころか、いま醜悪になりつつある。
2007年05月26日
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私の好きな動物は、馬とイルカである。いきなし小学生っぽい書き出しだが…。 イルカ(歌手ではない)をみると、何故だか癒される。 杏里のDVDをみていたら、イルカの目があまりに落ち着いた眼差しなのに驚いた。 イルカの目はなぜだか、何処か覚っているようでもある。 イルカが海を泳ぐ姿、海を飛び跳ねる姿、何故だかどこか美しい。 イルカは人のこころを見透かしているようにみえる。 イルカは人間の癒しの動物に違いない。 海の美の象徴がイルカだとすると、陸の美の象徴が馬だと思う。 馬の走る姿を見ていると、惚れ惚れとする。私が競馬が好きな理由の1つでもある。 馬の目は、どこか素直で忠実な眼差しを感じさせる。 馬が一生懸命に走る姿は、このうえなく美しい。 馬が走るとなぜだか、胸がワクワクする(馬券に限らず)。 神秘学では、馬は、人間の叡智の象徴でもあるという。 馬が走る姿は、どこか、人間に知性を感じさせる。 馬は、人間に知性を感じさせる生き物であろう。 イルカをみて、安らぎを感じ、馬をみて、知性を感じる この世に、イルカと馬があることを、地球に感謝しなければならない。
2006年04月12日
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仏教でいう色即是空、いわゆる中道とは、現代科学でいえば、双対性のことであり、神秘学でいえば、2という開示の数字で、2元性を意味し、ギリシャ哲学では、アリストテレスの中庸ということであるように思える。 ぶっちゃけ、「あんた」と「わたし」があるから、「わたし」という存在があるのだ。ここから、この世があるのは、あの世がある御蔭であるともいえるのである。そして、宇宙はそれらを統合し、一に帰するということで、中道、中庸が、宇宙の進化の法則となるわけである。 「あんた」と「わたし」が、この世で、出会い体験して、それが、次の宇宙をつくりだすといってよいだろう。 だから、この世で、数々の人と出会い、知り合い、そして友愛を深めることで、その絆は、死んでもなお、宇宙のなかで、魂の存在のなかで、生き続けることができると思われる。 あの世に行くには、この世で死んで、肉体を去らなければならない。肉体には、外見(物質)をみる感覚器がついているから、感覚器に頼って、この世で、物質的な交際(損得勘定)を行っていた人は、あの世で、精神的に盲目になるだろうし、逆に、この世で、物質的な感覚が不自由な人は、今度は逆に、そのハンデを負わなくてすむようになるだろう。 あの世では、人間の姿を、いわば、霊的に捉えられないと感じられないのである。その霊的な感覚器は、この世に生きているときにこそ、容易に開発できるのである。なぜなら、間違うことができるからである。間違いを正すことができるという点において、進歩、進化が存在する。悪を善に改善することで、はじめて善の意味をもつ。この世で友愛活動が推奨されるのは、そういうことだろう。 この世でのこのような不正を正す体験がないと、あの世では、ただただ盲目的な孤独の存在とならざるをえないだろう。だから、自殺は避けるべきものなのである。 この世をいわば、ネット世界として、人間を、ネットでしか感知できないネット人間の世界で捉えると、このことは容易にイメージできる。ネットでの交際がないネット人間は、オフ会をすることができない孤独のネット人間となってしまうだろう。しかも、自ら、ネットから去ることを決めた自殺者は、永遠に、その時点以前で、知り合った人間を、ネットという感覚ツールもなく、当てどもなく、探し様もなく、永遠と孤独のなか、オフ会をすることもなく、一人で反省の日々を送るしかないだろう。 まさしく独房状態と相違ないだろう。時間を潰す材料は何もないのである。ただただ、自分のなしたことを後悔するしかないのである。 だから、この世で生きている限り、友愛活動を行い、いろんな人と、魂のつながりを豊富にしておけば、死んでもなお、あの世で、その交際を続けることができるだろうし、更には、不正を正すことにより、いわゆる物質世界を克服し、霊的感覚器官を開発すれば、人間の上の神々の世界の霊たちとも、交際をすることもできるのである。 だから、あの世での生活の基盤は、この世で、友愛的な何を成したかなのである。 この世でお互いを愛し合いなさい。そうすれば死んでもなお、救われるだろう。
2006年03月02日
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