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「令和」を誰が名付けたのかわからねど、誠にこの令和の時代に相応しい命名だと気が付いた。というのも、令の漢字を見ると、「今」という漢字から|(縦棒)が下がっているのがわかる。そこで、この令という漢字の由来を調べると、以下のようなサイトに出くわす。「令」は、上の三角形の屋根のようなピラミッドの下にひざまずく人の象形からできたらしい。「令」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習 (okjiten.jp)そして、この上の屋根のような三角形の由来を調べるために、「今」という漢字の由来をググると以下のような成り立ちがわかる。「今」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習 (okjiten.jp)今とは、漢字のなりたちからいえば、すっぽりと覆う形からきたらしい。この形どこか見覚えあるな?と思うオカルティストは多いだろう。なにやらフリーメーソンの万物を見通す目ではないのか?信じるも信じないも貴方次第?というわけではないが、この三角形は、人体のアストラル体、エーテル体、肉体、そして中央の目は、自我を表すのが、神秘学ではわかっている、つまり、人体の象徴図なんである。つまり、今という漢字のなりたちから、今という時間が、4つの人体の共存により創り出される、のがわかるわけなんである。だから、この三角形のバランスが崩れると、万物を見通す目が隠れて歪んでしまうわけなんである。つまり、今を生きていない、現を抜かすことになる。また、これは今を生きる、自我の「我(わたし)」から生まれるのがわかる。これがエヘイエ、アシェル、エヘイエである。これは短縮されて、YHVHの4文字になっているが、それぞれ、人体の自我、アストラル体、エーテル体、肉体を意味している。さて、「令」だが、令は、「今」の下に、跪く人を表している。4つの人体に対して、人間自身が、へりくだっているわけだが、これは三角形のバランスがとれた人体の状態について、へりくだる、尊敬しているわけで、上下関係をアベコベにしているわけで、最上のものが最下位になっているわけで、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という諺を思い出させる。つまり、人体のバランスをとるには、各々がへりくだって謙虚さを大切にし、思いやりをもちなさい、という意味が隠されているようにみえるわけなんである。そして、最後に、「和」の漢字の由来である。この和は、令を更に強調しているのがわかる。左側の、「のぎへん」は、垂れた稲穂を象形し、右側は、「口」なので、お互いに、謙遜しながら、思いやりで会話し、調和しなさいという、成り立ちをもつらしい。また「口」を食物を入れるところ、とすれば、食に対して思いやりを持って、バランスよくとりいれなさい、という意味にもなる。「和」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習 (okjiten.jp)だから、「令和」は、日本人が調和と共存、バランスを大切にすべき時代なのが、漢字の由来からわかるわけなんである。しかも、「れいわ」とは、霊和でもあり、零和でもあるから、これまでの過去を水に流して、調和、共存し、バランスを回復する時代、とも読めるわけなんである。このように言葉の、漢字の由来を調べると、それができた当時の哲学が隠されているのがよくわかる。前回、言葉を動物に語らせることで、漫画の世界では、哲学になるのを紹介した。ムツゴロウさんは、動物の言葉がわかる、といわれたが、いまのところ、漫画の世界でしか、動物が人間の言葉を話すのが実現していないし、鳥は鳴き声で会話しているという研究報告もあるが、動物の翻訳者は実現していない。動物の仕草を通して、何を考えているか、推測するしかない。世界初「鳥の言葉を証明」 注目の研究者に聞く、動物たちは何をしゃべってる? 「人間中心の先入観から脱却して世界を見直すべし」 | 国内 | ABEMA TIMES | アベマタイムズしかし、前回スヌーピーの名言を紹介したように、犬が言葉を話せると哲学になる。恐らく、動物は、与えられた生を実感し、幸せに暮らしているようにみえる。というのも、大自然と調和して、生きているようにみえるからである。というのも、動物には、人間のようなエゴがないからである。だから、スヌーピーが現実の犬だとしたら、人間が、調教でもしない限りは、自分が犬であることさえも自覚しないだろう。スヌーピに迫る認知度の犬といえば、大谷選手の飼い犬のデコピンだろう。デコピンが大谷選手の調教で、始球式を投げたのは犬と人との会話の可能性を感じさせるものだった。いずれ、人間が再び、霊能力を獲得したら、人間がルシファーからエゴを与えられたように、動物にエゴを与えて、会話できるようになるだろう。そのような現実が、動物の家畜化である程度可能になっているのがわかる。シマウマは調教の困難な動物なので、家畜化しないらしい。そういう意味では、完全に集団化した動物に、エゴを与えるのは困難なのがわかる。犬が家畜化され、愛玩動物となったのは、野生の狼などの犬科の動物から、人間に敵対しない種族を交配させて、人間と仲良くする自我を教えてきたからといえるだろう。ペットの代表格とも言える犬と猫 人間との関わりの歴史を知ろう | 住まいの本当と今を伝える情報サイト【LIFULL HOME'S PRESS】 (homes.co.jp)人智学では、動物は、人間のような個人的な自我のエゴをもたずに、集合自我しかもたないので、常に、集合自我の命令により生きているので、人間のような個人的なカルマをもたずに、個人的な自我の輪廻転生もないとされている。だから、霊魂が異なるので、人間が動物に転生することはありえない、とされている。勿論、動物も種全体で、宇宙の愛を学んでいるので、種全体で、霊魂のままで変容しているようである。だから、新種が生まれて、天然記念物に指定された古種が滅亡していくのが集団で行われるわけなんである。人間の場合は、それが個人で行われているから、新人類やニーチェの超人思想として語られたわけである。勿論、動物でも、UMAのような存在が話題にもなっている。もっとも、ニーチェが説いた超人とは、人智学でいうところの、霊能力を再獲得し、霊人に到達した未来の人間の、アートマンである。未確認動物 - Wikipedia超人 - Wikipediaとにもかくにも、将来動物が話す時代がくるかどうかは人間次第だが、これまでも、動物が話す世界は、様々な漫画の世界で表現されてきたし、有名なのはドリトル先生だろうか? 日本では夏目漱石の「吾輩は猫である」だろうか? あのように動物が将来話すことはなさそうでもある。ドリトル先生シリーズ - Wikipedia吾輩は猫である - Wikipediaこのように小説やドラマの世界では、動物が擬人化され、話せるように、物語が展開していくが、人智学によれば、動物には自意識と呼ばれる覚醒意識が発達していないために、「わたし」という感覚が、つまりエゴがないから、話せないという。勿論、人間のように集団意識から孤立化し、自意識が開発されれば、話せるようにはなる。人間の場合、個人的な肉体をもつことで可能になった。しかし、この肉体のなかにいる、霊魂の状態は、「前世からのメッセージ」のマスターたちが説いているように、異常な状態で、霊界との交信が途絶えたからこそ、出来る芸当でもある。本来、霊界との交信、つまり愛の交流の下でいるからこそ、高い次元の愛を受け、人間の霊魂は幸福なわけで、その状態が、肉体の中に入ってしまい、個性を持つにつれて、無限の愛が、個人的な有限に限定され、エゴに移り変わるわけで、このような肉体の有限性の自己については、以前紹介したように、マスターたちは次のように説いている。肉体のなかにいるのが、異常なのです。霊魂のままが本来の自然なのです。また肉体に入るのは、未知の世界に入るのと同じです。それには、時間がかかるので、霊界で待たないといけない。霊界で待つうちに、再生されます。再生の世界があり、地の破壊の世界とは、また別の次元です。我々は皆、霊魂の存在なのです。肉体のなかにいる者もいれば、再生の時期にいる者もいます。そしてまた、他の者は、守護霊となっています。しかし、私たちは皆、そこに行くのです。私たちもまた守護霊だったのです。私たちが霊魂の、不滅の存在で、愛の無限のエネルギーの広大な海に常に存在しているのを思い出すのが、喜びと幸せの鍵です。地球と呼んでいる、この学校のもつ問題の一つは、私たちが肉体の存在ではなく、霊魂の存在だと思いだすのが困難なことです。この三次元世界の幻想や錯覚に常に惑わされています。おカネ、権力、名声、モノの所有や蓄積、快楽などは、非常に大切で、時には人生の目的であるとさえ、教え込まれています。また、幸せになるためには、他の人々から好かれ、尊敬されなければいけない、と教育され、一人でいるのは惨めだと。教え込まれてもいます。自分たちは皆、霊魂の存在だという真実に気づくと、価値観が大きく変わり、幸福で平和になれます。だから、霊魂の能力のみが、永続します。だから、幸福は、権力や名声からは得られず、愛からのみ得られます。幸福は、内から来るものであって、外から、あなたをどう扱おうが、来るものではないのです。だから、嫉妬は、霊魂に憎しみを生む毒薬なのです。前世を自然に思いだす人がそれほど多くないのは、肉体のなかでの学びが、憎しみを手放す、実地試験の一種だからです。霊的な、永続性のある、学びや知識が、深く確実に、肉体を超えて、霊魂に浸透するために、念には念を入れる必要があるのです。残虐な前世を思い出して、現世で同じような残虐行為の結果を避けるために、暴力を回避するのでは、完全にレッスンを学んだことにはなりません。暴力は間違っていると身をもって体験し、心の底から完全に理解したときにはじめて、暴力を回避すれば、本当に愛のレッスンを学んだことになるでしょう。だから、人間の霊魂は、肉体を使って、愛を語るべきなんである。だから、肉体で暴力をなし、憎しみを増すよりも、言葉で愛を語らないといけない。人間は言葉で愛の関係を構築すべきために、肉体に宿ったわけでもある。人間は組織的ではなく、個人的に愛を語るために、わざわざ肉体をもったわけなんである。そのために、人間は、潜在意識の上に覚醒意識をつくりだした。その時代が、ポストアトランティス時代で、特に悟性魂を発達させたのが、古代ギリシア時代からの哲学だったわけである。【シュタイナー】魂の三位一体構造について~感覚魂・悟性魂・意識魂~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)この時代を経て、人間は肉体を感じる感受魂から、愛を語る悟性魂の覚醒意識が芽生え始めたと共に、霊魂が、次第に肉体に深く入りすぎるようになり、半神半人の状態が生まれ、肉体で愛を表現するやり方から、言葉で愛を表現するようになっていったと同時に、霊能力を失った。だから、いわば動物のように、以心伝心の身振り手振りで会話できたのが、言葉を必要とするようになってきたわけである。だから、古代ギリシア時代辺りから文字が生まれてきたわけである。勿論、動物も、鳥のオウムのように、人間が教えれば、鳥も人間が話すのを真似できるが、それは所詮、霊から、覚醒意識で話し鳴いているのではなく、一般的に動物の本能といわれている、潜在意識を表現しているにすぎない。だから、人間のような覚醒意識での記憶や知識ではなく、潜在意識から湧き上がるものを表現しているようである。だから、現代人も愛を語るのには、記憶と知識で語っているわけなんである。つまり、人間が愛を言葉で語る自由を得たと同時に、嘘をつけるようにもなった。そして、現代人には偽りの愛が話されるようになった。古代人は嘘がつけなかった。嘘や偽りを肉体で表現したら、肉体が、愛の偽りから、そのまま憎しみに変わり、破壊されるからである。だから、肉体には型が必要となったわけで、型に外れると、そのまま肉体を破壊することになるが、言葉では、嘘をついても、声が壊れるわけではない。音を伝える空気の振動が有限だからである。もし、エーテル体で、嘘を表現すると、忽ち、エーテル体が闇に染まり、流れが変わり、肉体が破壊されてしまう。それはいまでも、心のアストラル体が、ストレスを感じ、エーテルの流れを変えてしまうと、肉体に悪影響を及ぼし、間接的に病気になるのと同じである。だから、エーテル体が肉体を破壊する前に、肉体から霊魂が離れる必要がある。そして、いつまでも、過去に囚われたり、未来を充てにして、いまを生きないと、眠りが浅くなる。だから、いまを生きていないと、肉体を酷使して、始終痛めつけ、長生きできないのである。過去や未来に想いが偏ることなく、バランスよく、いまの現在を生きるのが、健康の秘訣で、仏教が説く中道でもある。「前世からのメッセージ」のマスターたちは次のように語っている。「いま」という、時を経験していないとき、つまり、過去に囚われ、未来を心配しているとき、あなたは、自分自身に、大きな心の痛みと悲しみをもたらしています。共存と調和―全てはバランスしないといけない。自然はバランスしている。動物たちは調和して暮らしている。人間だけがまだ平和に生きる事を学んでいない。人間は自らを滅ぼそうとし続けている。そこには調和もなければ、自らの行為に無責任で、何の配慮もない。人間の行為は、自然とはかけ離れてしまっている。自然はバランスしている。自然はエネルギーで生命を再生している。人間は自分だけでなく、他の人間をも破壊している。結局は、人間の破壊行為は、巡り巡って、自分や人類を破壊させてしまうだろう。人間がもし、嘘をつくことで、自分が破壊されるのを、理解できたなら、古代人のように嘘がつけなかっただろう。シュタイナーは、前世で嘘つきだった人が転生すると臆病者になると述べている。つまり、自分に自信がもてないので、始終、びくびくする人生を送るのだろう。すなわち、チキン野郎というわけなんである。嘘をつくと、自分が、破壊されるのを霊的に理解しているので、潜在意識のその想いが、覚醒意識には、恐怖感として現れて、弱虫になるのだろう。嘘をつく、といえば、先日、ネットフーテンをしていたら、以下のようなカウンセル動画に出くわした。非常に参考になるので紹介する。「縁を切った方がいい人、関わってはいけない人」のなかにも、嘘をつく人が入っていたので、人間として嘘をつく人とは付き合わない方がいいだろう。縁を切ったほうがいい人 関わってはいけない人 職場 友達 人間関係 テイカーに気を付けよう~臨床数15000回超の心理カウンセラー 竹内成彦 - YouTube上の動画をみればわかるのだが、要点を書くと、1.時間を奪う人、2.おカネを奪う人、3.すぐに怒る人、4.嘘をつく人(自分を守るために、他人を利用するために)、5.人の悪口ばかり言う人。とは、縁を切った方がいい、というわけなんである。いずれにしろ、この5点については、思いやりがない人と纏めることができる。思いやりがない人とは縁を切った方がよく、以前紹介した、お釈迦さんの付き合ってはいけない人とも共通している。ましてや高齢ともなると、人付き合いにはストレスが溜まるので、思いやりのない人とは付き合わないに越したことはない。鬼嫁などといったら、毎日地獄の日々であろう。思いやりのない人を、考えてみると、それはバランスの取れていない人ということがわかる。老子は、そのようなバランスのないのを戒めるために、「無為自然」が大切と説いたのは有名である。というのも、愛はバランス、調和、共存を成り立たせるエネルギーだからである。「無為自然」についてググると、以下のようなサイトに出くわすが、どれも唯物的に解釈しているきらいがあり、自然のバランスについては言及していない。無為自然の意味 (tao-academy.jp)roushi_soushi.pdf (pref.kanagawa.jp)オンラインジャーナル/投稿コーナー (pmaj.or.jp)3分でわかる!『老子』『荘子』 | 読破できない難解な本がわかる本 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)どれも、覚醒意識での知識で解釈しているから、老子の意味がわからないのである。そのなかでも「3分でわかる!…」は、有限の相対性までは言及しているが、潜在意識にまでは言及できていないから、カルマの法則や輪廻転生には至りもしない。老子はそもそも古代アトランティス時代の人で、エーテル世界での法則の話をしているのである。現代では気功の話で、「前世からのメッセージ」でも言及しているが、中国のチー、クィ、日本での気のことである。つまり、「無為自然」とは、物質界を超えたエーテルの世界の気の流れのバランスをみなさいという、霊能力のことなんである。物質だけをみていても、自然の営みはわからない。人間だって、肉体をみているだけでは、心がわからない。心だって、過去や未来に囚われていれば、そのバランスからなる、いまや現在を生きることはできないわけで、それでは、自分がなぜ今のような人生を生きているのか、さえもわからないままである、と説いているのである。唯物論で「自然のままに」と物質界の言葉で置き換えても、どの自然を指しているのか、第一原理と呼ばれる、素粒子の生成消滅のことなのか?はたまたその上の、化学的結合則なのか、動物界の動物の本能、天変地異の予知などを指すのか、はたまた人間が自然と親しむ関係のことなのか?の具体的な意味が通じていないのがわからないほど、現代人は無知なんである。だから、有り体にいえば、人間の潜在意識で感じる、自然霊のレベルでの営み、つまり愛のエネルギーによるバランス、調和や共存を目指しなさいと、つまり仏教の阿弥陀如来の他力本願や、カルマの法則や輪廻転生まで責任をもって熟考しなさい、と結局は同じなんである。人間だけが自然のバランスを考えずに、調和や共存を壊している、という批判なんである。それは人間関係も同じで、エーテルのバランスが大切なんだよと説いているわけなんである。よく勘違い解釈している唯物論者が、上のサイトの悪しき見本のようにいるが、老子も孔子も同じ人倫について大切だと説いているわけで、別に孔子の儒学と、老子の道教が対立しているわけではない。それこそ、バランスを失わせる見方である。何事も、バランス関係からなるわけで、簡単にいえばギブアンドテイクの関係を重視しなさいということなんである。叱れば褒めなさい、褒めたら叱りなさい、のバランスと同じである。そして、老子も孔子も、愛や慈悲を深め合いなさい、と説いている。というのも宇宙は、愛や慈悲を学ぶために、人間に与えられているわけだから、と説いているわけなんである。愛がなければ、調和や共存が成り立たないわけで、ただ無為自然などと難しくいわなくても、思いやりをもって接しなさい、というだけに尽きるのである。利害関係で自分だけ得をしようとか、自分だけ有利に立とうとか、そういう浅ましい、さかしらな欲望は、憎しみを蓄積するだけで、いずれその負債を返さないといけないので、そのような欲望や執着心を捨てなさい、というわけなんである。思いやりをもつために、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★潜在意識のなかの欲望特に満たされなかった情熱、抑圧された情熱が、覚醒意識下の、潜在意識をかき回している。その具体的な例を挙げる。30歳の女性で、16歳のときに恋愛し、性欲をもつに至ったと、精神分析された患者が、もし、この性欲の虜になり、その欲望に夢中になっていたら、人倫を踏み外していただろう。彼女は教育の影響と、両親の説教の影響で、その性欲を抑圧した。それから14年が過ぎても、その欲望は潜在意識のなかで生きている。彼女は身分相応な結婚をし、日常の生活から、かつての欲望を忘れていたが、潜在意識ではなくなってはいない。覚醒意識は、霊魂のいとなみ全てを把握しているわけではなく、下層の、潜在意識に追いやっているだけである。その抑圧された潜在意識の欲望が、覚醒意識の表に現れてしまうと、外的には満足な生活をしていても、よくわからない厭世的な発作に苦しむようになる。このような欲望がときたまに顔を出すと、人生に嫌気がさして、苦しむようになり、神経質や神経衰弱を起こすようになる。現代人は精神分析学を医療に持ち込んで、心を治療しようとする。「表層意識では忘れてしまった、深層意識のなかの体験を明るみにして、適切なカウンセリングをして治療しないといけない。」と考えて、様々な質問をする。このような精神分析法で、ある程度の治癒効果がみつけられるが、完治は見込めない。また別の例を挙げる。35、もしくは40歳の男性に多い、倦怠感、優柔不断の悩みの、原因不明の病気で、このような場合にも、精神分析学で、深層意識を探ろうとする。すると、このような男性が、15、16.17歳頃に抱いていた人生プランが破綻し、別のプランに向かわざるを得なくなったのがわかる。このような男性の潜在意識のなかにも、破綻した人生プランが生きている。このような患者を精神分析で診断して、深層意識から、破綻したプランを取り出して、色々議論すれば、治癒に向かうと考えている。表層には上らない深層意識が沢山あり、表層は小さな円で、意識全体は、大きな円と考えられている。そして、表層意識は、氷山の一角で、隠れている氷山の、深層意識に、唯物論を当てはめようとしている。最近(恐らく1910年代)、ある神学者が、悪趣味な表現で「霊魂のなかの動物本能」の精神分析を提唱している。動物的な生活のなかの、血や肉や獣性から来る本能は、表層の覚醒意識に到達せずに、覚醒意識は、そのような動物的な本能を自己防御する、としている。(動物には個人的なエゴがないので、自分が何者であるかを把握できないので、自己表現できない)
2024年09月26日
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元旦に震災が襲った能登半島にまた天災が襲ったが、巷の与党の自民は何もできずに、こんなときに総理が外遊にふけ込んで大顰蹙を買っているらしい。裏金議員も処罰できない、自民の総裁選などで「現を抜かしている」場合でないと、天が警告しているのかもしれない。どの輩を総裁選で選ぼうが、増税で、国民の生活を破壊するしか能がないので、堂々巡りの無駄である。現代のような政治をいくらしようが、国民の生活が幸せになることはないばかりか、全体として益々不幸になるだけである。というのも、物質界には、フェルミ統計という物質占有の法則があり、特定の物質状態は共有できずに、一人のみが占有するしかできないからである。つまり、物質界では平等所有の原則が成り立たないからである。だから、幸福を外に求めると、それは束の間の幻想でしかないので、仏教や、ヒンズー教では、外界からの離脱の出家が説かれたわけなんである。フェルミ統計 | 天文学辞典 (astro-dic.jp)フェルミ・ディラック統計 [JSME Mechanical Engineering Dictionary]フェルミ分布関数 - Wikipedia極論をいえば、このフェルミ統計のせいで、物質界の状態が、電子の状態一つで決まる限り、それを所有する者は一人しか許されずに、その状態を外に幸福と求める限りは、唯物論に染まらずを得なくなるわけなんである。しかも物質は、生命体とは異なり、酸化し、風化し、自然と崩壊し、結局は無に帰してしまう。これが悪魔の罠なんである。だから、唯物論で、人間の生活を形作ろうとするほど、物質的な富の独占が進み、格差社会が拡がって、物欲を増す少数派と物欲に満たされない多数派へと、格差社会を拡大していくだけだからである。シュタイナーは、少数派の占有のために、多数派を唯物論に洗脳し、犠牲にする、催眠術的な心理工作が、古代からオカルトの世界で行われてきたのを、黒魔術と呼んで警告しているが、実際にシュタイナーも、この黒魔術の秘密結社に肉体を奪われたわけだが、それはいまもディスインフォメーション工作として有名で、米国の大統領選が、このようなジレンマに陥っている、のが明らかだろう。現代では、認知戦とも呼ばれているらしい。IPA NEWS Vol.67(2024年7月号) | IPAについて | IPA 独立行政法人 情報処理推進機構軍事研究家・小泉悠氏が「人の脳が戦場になる」解説 「信じない人」が狙われる<認知戦インタビュー詳報>:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)バックミンスターフラーによれば、この米国でのディスインフォメーション工作は、旧ソ連のロシアの米国でのスパイ活動からはじまったようである。以下のようにググれば、怪しい情報も含んで色々出てくるが、恐らく、全てはグルジェフからはじまっているように個人的には解釈している。旧ソ連「黒魔術暗殺部隊」の存在がCIA機密文書で発覚! 頭蓋骨破壊、病気誘発、超能力コピー…!ーオカルトニュースメディア トカナ (tocana.jp)ゲオルギイ・グルジエフ - Wikipediaピョートル・ウスペンスキー - Wikipediaナチスとチベットとグルジェフ (client.jp)このような都市伝説みたいな話の、恐らく、認知戦の源流がグルジェフにあるのだろうから、グルジェフに回帰すれば、認知戦が無意味であり、悪魔による人類の軛にあるのに人類は遅かれ早かれ気づくだろう。それは以下のサイトが明らかにしているようにもみえる。誰もが思い込みで動いているという衝撃 | 涅槃の書 (nehan.xyz)このサイトの内容からわかるように、人間は多種多様の思い込み、物質界への期待と憧れで動き、動かされているのだが、それはその人が自分で気づいて、理解するまで続けられるもので、他者からみればどうでもいいことなのである。つまり、グルジェフに語らせるならば、例えば、巷の、総裁選などは、人生から学べない人間の権力闘争の遊具で、ネズミが回し車で遊ぶ、のとなんらかわりがない、と答えるだろう。つまり、ほとんどの地球人は、この地球上で、眠ったままに、「現を抜かしている」のである。それはフェルミ統計のなかで、物質的幸福を外に求める、椅子取りゲームでしかないのである。だから、せめて、この誰かが占有する、このフェルミ統計ゲームから抜け出て、ボーズ統計、身近な例でいうなら、光のように、どの物質も万遍なく、照らし出し、価値観を共有する状態にまで、自分を創造していく必要がある。シュタイナーは、電子は光が凝縮した状態だと述べているが、だから、電子の凝縮状態を解放し、光に昇華させるのが、現代人の課題なんである。ボース統計 | 天文学辞典 (astro-dic.jp)ボース分布関数 - Wikipediaさて、前回紹介したように、現代人は唯物論に染まり、破壊知識しか持ち合わせていないので、その知識でみえるもの、外見のみを重視して、選出してしまうので、美映えのする、カリスマ性の、詐術性の、嘘で散りばめられた、誇大広告の、中身が空っぽの最悪の人物を選び出してしまうわけなんである。自らを破壊する存在を、選んでしまうのは、自分のなかに破壊を正当化する何ものかが眠っているからである。政治なんて、利害調整の面倒くさいものは誰かに任せればいい、という考えそのものが、破壊を正当化するものともいえるかもしれない。この他力本願の考えが破壊を正当化している、ともいえる。というのも、逆説的に言えば、面倒くさいことを自分でやることで、自分の能力が向上するからである。他力本願 - Wikipedia他力本願 | 仏教語豆事典 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) (hongwanji.or.jp)いま他力本願という言葉を使ったが、上のサイトによれば、本来の意味は違うらしく、「仏の力、阿弥陀仏の慈悲のはたらき」を他力といい、その仏の力で行うことらしいので、少なくとも、自分の外にある力ではないから、本当の意味では、自分の内にある力で、自力ではないので、自分のなかに眠っている、慈悲の力であるのがわかる。だから、物理的にいえば、電子の力ではなく、光の力であるだろう。簡単に要約すると、つまり、自力とは、覚醒意識で解き明かした知識のことで、他力とは覚醒意識では解き明かせない、人間の内にある、心のなかの、仏の慈悲の力で、潜在意識のなかの叡智なのがわかる。早い話、他力本願とは、霊能力のことだろう。しかし、この霊能力は、霊能者でないと使えないので、目覚めていない一般人には何もできないので、他力とは、現代人には、何もできずに、他人任せにしてしまうので、本来の霊能力が、低俗化して、他人任せの意味になってしまったのだろう。しかし、いずれにしろ、現代人の大きな間違いは、そもそも幸福を外に求めてしまい、最悪の人物を選び出して、それに委ねてしまう選択が、低レベルな腐敗堕落の、政治を生み出しているわけなんである。政治家の中身ではなく、外見に囚われて選出してしまうから、最悪の人物を選び出して、天と地の間に境界をつくり、国境をつくり、同じ人類なのに、互いに論争、闘争、そして戦争をする羽目に陥ってしまうわけなんである。このような巷の混乱した出来事に付随して、末法の世特有の、仏教沙汰にしょっちゅう出くわす日々の海のなかで、ネットサーフィンはもはや死語となり、相変わらずの、ネットフーテンの寅さんの日々なのだが、棚からぼた餅というような、次のような面白い動画に出くわした。それは「仏教物語」や「ブッダの真実」という以下の動画である。仏教系の動画というと、創価が関わっているのではないかと一応心配にはなるが、「仏教ものがたり」は創価のようだが、こちらは表面上は違うみたいだが、どこでつながっているかは、自分で判断するしかなく、おカネをとられるかどうかが大体の目安なんだろうが、無料で、怪しい詐欺サイトでもないので、いまのところは問題ないようにみえる。仏教物語 - YouTubeブッダの真実 - YouTube日本では仏教のほとんどが、喜捨という形で、おカネをとっているので、お釈迦さんがそんなことを教えたはずはないので、末法の世でのニセモノである。だから、日本の仏教のほとんどはニセモノなので、ホンモノはほとんどないと思うしかないだろう。この点については、各自で判断するしかなく、それが修行の一環ともいえるかもしれない。そもそも、おカネがなくても、幸福な生活が送れるようになるのが、お釈迦さんの教えなので、坊主が信者からおカネをとって生活するのは堕落腐敗の末法なんである。坊主自らが、おカネがなくても暮らせる生活をしないと意味がない。というのも、おカネで生活をしても、霊能力を獲得できないからで、カネ頼みの生活では、誰しも、カネをこの世に残して死ぬわけで、カネがなくなって、あの世にいけば生活できなくなるからである。だから、逆説的にいえば、物質界に依存しない生き方をすれば、それがそのまま霊能力になるわけなんである。末法思想 - Wikipedia人智学からもわかるが、乞食のような外的に貧困な生活をしてはじめて、霊能力獲得修行の初歩段階の、根無し草の故郷喪失者となり、仏教では、托鉢という修行ともなっているが、昔の日本社会ならまだしも、現代社会ではカリユガの唯物論に洗脳されて、物質的生活が進んでしまったので、坊主だけで生計を立てるのは、あまりにも仏教徒には酷で、ひもじい生活もままならないので、何らかの仕事をしながら、質素倹約に努めることで、できるだけ、お釈迦さんの教えを守っていこうというのが、出家しない、乞食にならない、在家信者が生まれたというわけなんである。托鉢 - Wikipedia在家 - Wikipedia仏教は極論を廃し、常に中道を生きるのを説き、つまり、いまを生きるのを、大切にするので、霊能力がそれほど身につかない、在家信者も認められる現状ともなっているが、それではやはり本当の意味では修行にはならないので、できるだけ少しづつ、死に際しては、断捨離していくのが望ましいわけなんである。つまり、少しづつ、物質的生活を捨てて、精神的生活を完成していくわけで、あの世に旅立つ準備で、これが本当の終活といえるかもしれない。断捨離 - Wikipedia長々と余談を紹介してしまったが、先の動画「仏教物語」などをみて、改めて、お釈迦さんの教えが、「前世からのメッセージ」のマスターたちの教えと同じで、より詳しく説いているのが、わかったわけなんである。それは、幸福は内からくるのであって、外に求めても、一時的なもので、永遠ではない、ということと、いま生きているのを実感し、感謝するのが、幸福を感じる一歩である、ということである。そして、この、いま生きているという、感謝の力から、阿弥陀如来の、仏の慈悲の力が生じる、ということなのである。これが、現(うつつ)の正体で、現を抜かすとは、いまに生きずに、過去に囚われ、未来を充てにして生きることなんである。つまり、現を抜かすとは、いまを生きていない感覚、意識なのである。人間は日々に、理想や夢を求めがちだが、いまという現実を生きなくては、それらは幻想で、現実逃避でしかない。これらは結局は、執着心で、いまの自分の不満から出ていることで、自分を否定して、いまを生きていないせいにある。過去の成功や失敗が忘れられず、未来にそれを求めようとしても、いまを生きなければ、単なる執着心であって、自己を否定し続けるだけなんである。これは巷の総裁選の立候補者たちをみていてわかる。節制生活さえもできない面々が、指導者になっても、何が指導できるのか、果たして、聞いてみたいものである。口から出まかせで、理想論や夢を語っているが、現実は天変地異の連続で、その救済策さえも提案できずに、無責任に実行もしない。この国の現状すらも理解できていない。要するに、足るを知る、を知らないから、自分の能力を知らないから、いまを生きるのを怠り、執着心が生まれてしまうわけなんである。とりあえず、いまの自分の能力を認め、背伸びをしない堅実な、地道な生き方が、幸福への第一歩というわけなんである。孫子も兵法で語っているように、自分を知るのが大切なんである。彼を知り己を知れば百戦殆からず - Wikipediaいまの自分の現実を知る事からはじまるが、それはローマは一日にして成らず、という諺もあり、夢や理想を求めるには、まずは足元を見直し、毎日を感謝して生きる、その延長上にあるのを、自覚しないと、執着心に、誘惑に取り込まれてしまうわけなんである。お釈迦さんの仏教の教えでは、自分の日々の生活を見直すのがまずは、幸福への一歩というわけなのである。先に紹介した動画「仏教物語」では、いまの政治家を代表する人物を紹介していたので、以下に紹介する。「その人は性根が腐っています」ダヤーという人物の物語である。【激ヤバです】その人は性根が腐っています。ブッダの生き方 - YouTubeダヤーは、物質的な富を追求し、結局、その欲望に負け、欲望のために死んでしまう。まるで、現代の政治家そのものといえる。物質的な富を追求し、生命を失った元総理もいたよね。票稼ぎのために、統一教会と仲良くしていたようである。人生は、自分の学びのためにあるわけで、何を学んだのかも疑問だった人物である。さて、ダヤーのような不幸な人物を反面教師にして、自分の日々の生活を見直すのがまずは、幸福への一歩で、それは以前、スヌーピーの名言で紹介した、「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどうゆう意味であれ」というセリフを髣髴とさせるが、配られたカードが、正に自分の能力であって、自分なのだから、スヌーピは、こころないルーシーの差別発言の、「なんであなたは犬なのか?」の疑問に対して、犬である自分について、不満をもたない、自己否定しない、ウィットに富んだ返しをしているセリフなんである。人生がハッピーになる!スヌーピー名言集「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどうゆう意味であれ」|心に響く言葉・やる気が出る名言 (motivation-up.com)スヌーピ―の素晴らしいところは、他人と自分を比較しても、違うのは当たり前で、それが個性で、例えば、なぜ自分がドラマの主役ではないのか?という不満と同じで、この応えは、自己肯定をうまく表現している、更に、もっと良い答えは、「犬だってまんざらではないさ、素晴らしい匂いを嗅ぎ分け、生きられるからね」というセリフも考えられる。ともかくも、スヌーピは、主人公チャーリーブラウンの飼い犬の脇役でありながら、主人公を超える世界的人気を獲得している点で、スヌーピーがもし犬でなければ、多くの人に幸福を与えていなかったかもしれない。だから、「ねぇ、ルーシー? 僕が犬でなければ、この連載も終わってたかもしれないよ。チャーリーブラウンとルーシーだけの世界じゃ読者は満足しないよ」というセリフを続けて、返すべきだったのかもしれない。実際に、スヌーピの登場からピーナッツという漫画は人気になったようで、言葉をしゃべる犬は漫画の世界だが、スヌーピに限らず、ルーシーも時と場合により、次のような名言を残している。「わたしの人生よ、それを生きなきゃならないのはわたしよ!」「あなたのいけない所はね、自分を信じないことよ!自分の能力を信じてないのよ!」このように、ルーシーも名言を残しているのだが、ルーシーが語ると、キャラの性質上、読者には、あまり響いてこない。このルーシーのセリフを、スヌーピ―に語らせると、哲学的に聞こえるから不思議でもある。「自分は犬だ、犬として生きなければならない!」「君という人間のいけないところはね、自分を信じないで、自分の能力を信じないところだよ! 犬は犬の能力で生きるだけだからね」とスヌーピーの言葉に変換すれば、なぜか、犬に話されるほうが、言葉に説得力が増す感じがする。このピーナッツのなかの、スヌーピーというキャラは、ドラえもんにも通じるところがあるが、ドラえもんは、言葉ではなく、道具で叶えてしまうところがコメディなので、大きく異なる。このスヌーピーのような哲学を語る犬のモデルは、もしや、犬と呼ばれた古代ギリシアのディオゲネスではないか?と想ってもいる。このディオゲネスは、お笑い芸人の元祖とでもいえる存在で、とにかく、自らの境遇に不満など一切もたずに、幸福に暮らしている逸話が残っていて、あのプラトンと度々哲学的問答をして、「狂ったソクラテス」と評されているのが、非常に面白い。ディオゲネス (犬儒学派) - Wikipediaかつて犬のような哲学者がいて、いまのスヌーピーになったと、個人的には信じているのだが、どんなに苦しい境遇でも、笑い飛ばして生きる、強い精神力は、以前紹介した、NHK朝ドラの、「おしん」にも通じる生き方でもある。まるで、前世からの自分の因縁を知っていたかのようでもある。カルマの法則と輪廻転生では、前世の自分の振る舞いが、現世の自分をつくるのだから、現在の境遇をつくったのは、正しく自分なんである。だから、文句を言ったり、過去に囚われ、未来を充てにして、いまを生きないのは、自分を生きないことで、自分への罰当たりでもある。自己否定を続けて、いまを生きないと、またいまの自分に将来も出くわし、更に自己否定を続けて、最後は、自分を失ってしまうわけなんである。ついには自分がわからなくなり、自分とは何だろうか? 自分は死んで無になったはずなので、無なのではないか? しかし、無なのに無でない感覚は何だろうか?と無の堂々巡りに陥るわけなんである。無の堂々巡りに陥らないように、というのも、地球人は、悪魔に支配されているからだが、だから、前回から続けて、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★ゲーテのファウストから現代人は、唯物論という悪魔が与えた知識に従って、実際には、悪魔を地に招来しかねない最も重要な地位に、最悪の人間を選ぶ、という傾向に支配されている、というのは、現代にとって、苦い真実だが、現代の著しい権威信仰と朦朧とした日和見主義に陥らず、世論に左右されないなら、この苦い真実は、現代人にも認識されるだろう。19世紀の哲学者の見解によれば、世論は、私利私欲による排泄行為にすぎない。汚物まみれの下水源から吐き出された世論の影響を受けなければ、何が問題なのか洞察できるはずである。最悪の人物が、いわゆる世論によって崇拝の対象にされている。最悪の人物が選ばれている、のを洞察し、もっと徹底した人生観を育成しなければならない、のを明らかにしなくてはいけない。公職は、悪魔アーリマン、ゲーテのファウストから引用するなら、メフィストフェレスにより占められている。「ファウスト」のなかに、メフィストフェレスの職務の代行ぶりが描かれている。ファウストは、生涯の終わりになって、ようやくメフィストフェレスから解放される。ファウストは皇帝の宮殿にきて、以後の時代にとって、非常に重要な発明をする。彼は紙幣を発明する。それから、人工知能ホムンクルスにより、古代世界へと導かれる。ホムンクルスは、メフィストフェレスの支援により、出来上がったものである。それから、ファウストは軍司令官になり、戦争をする。その戦争を指導しているのはメフィストフェレスである。ファウストは最後になって、だんだんとメフィストフェレスから解放されていくのが、描かれている。ファウストは教授職をやめた後、官職に就かずに、世界を彷徨う。「メフィストフェレスが彼のそばにいて、悪の力を送り、今日の、人類の生活のなかに、作用させている」と言わねばならない。これが第1に注意すべき霊的な真実である。第2に注意すべき霊的な真実は、「カルマの法則から、人類の生活のなかに、作用するものを、人間の潜在意識のなかで、正しく認識するのは、非常に困難である」ということである。この潜在意識=無意識の、領域にも、自然科学は、発展して、「科学的」な精神分析を駆使して、到達しようとしている。しかし、自然科学の唯物的方法で、心魂のいとなみを考察するほど、著しい誤謬が生じる。学問の方向性が間違っているので、人間の心魂のいとなみを、唯物的に考察しようとするからである。人間の心魂のいとなみは、上層の、覚醒意識に現れるだけでなく、その下層の、潜在意識でも多く活動しており、その活動が、覚醒意識にも、波のように打ち寄せるのを、いまの学問も認めている。以前の霊的な考察で、潜在意識に存在する具体的な活動を挙げた。紙切れを燃やせば、煙が排気孔に押し寄せる。この紙切れのようなものが、覚醒意識の下の、奥底の潜在意識のなかに、多く沈んでいる。「心理学に取り組んでいる人のなかには、暗い潜在意識のなかの心魂の能力や、その能力の不足を、心魂のいとなみを説明するのに、持ち出して、用いないといけないと予感している」ともいえる。ただ、このような見解は、霊界を想定していないので、霊的な真実とは、アベコベの誤謬を主張することになるだろう。確かに、自然科学的な心理学の観点から、人間生活の発展を眺めることができる。心魂が、幸せ、不幸せ、嬉しい、苦しいと感じるのを、覚醒意識から無理に説明しようとしなくなっている。代わりに、心魂を、教育的に解明しようとしている。たとえば、日常の表象では、忘れられている、かつて体験した喜び、苦しみ、失望を、心魂のなかに探求しようとしている。忘れられているのは、消え去ったのではなく、潜在意識のなかで、グルグルとめぐっていると考えている。(現代人は、脳を電気回路として考え、感情が、この電気回路から起こるものと考えている)
2024年09月24日
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「前世」からのメッセージのマスターたちは、幸せに暮らしたい、と願うなら、暴力を手放さない、といけない、と教えている。暴力を手放せない人は、競争原理などを持ち出すが、輪廻転生とカルマの法則を知れば、それが、現世しか、物質界しかみない、虚構でしかない、のがわかり、カルマの法則から、勝てば、次には負け、負ければ、次は勝てるわけで、単なる順番でしかない、のがわかる。誰がいったかわからないが、勝ち負けは時の運、とよくいわれるが、カルマの法則からすれば、単なる順番にすぎないので、結局、自分がいま、勝ち負けのどちらかにいるだけにすぎないから、時の配慮にすぎないというのは、正に言い得て妙である。前世からのメッセージのマスターの言葉をかりれば、全ては学び、なのだから、驕ることなく、勝ちに学び、負けたときには、より詳細に学ぶ必要がある。だから、勝てばよい、という考えは邪道といえるだろう。なぜ勝てたのか、改めて考えてみないといけない。「勝ちに不思議の勝ちあり」は、プロ野球の故野村監督で有名だが、原典は、平戸藩主の松浦静山という。この不思議とはどういうことか、以下のサイトが解説している。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」 | 独立メディア塾 (mediajuku.com)「私は、『勝つときには不思議の勝ちがある。しかし、負けるときには不思議の負けということはない』と客に言った。客は『なぜ不思議の勝ちと言うのか』と質問をしてきた。私は『本来の道を尊重し、武術を守って戦えば、たとえ気力が充実していなくても勝つことができる。このときの心の有り様を振り返ってみれば、不思議と考えずにはいられない』と返答した。そうすると客は、『どうして不思議の負けはないと言うのか』と質問してきた。私は『本来の道から外れ、武術を誤れば、負けるのは疑いのない事だから、そう言ったのだ』と答えた。客は恐れ入って平伏した」。この発言を要約すれば、道を尊重し、武術を守れば、勝つが、道から外れ、武術を誤れば、負ける、というようになるので、いかにも道理なのだが、更に、静山は、勝ったときの、心の有り様に言及し、それを不思議としているのが面白い。つまり、負けから学ぶのは当然で、その原因もわかるが、勝ちから学んでも、その原因がわからず、不思議としている。つまり、この不思議のなかにこそ、カルマの法則が隠されている。この発言を信じるなら、負けからは学べるが、勝ちから学ぶのが困難なのがわかる。そして、次のような疑問に出逢う。勝負から学ぶには、負けた方がいいのに、人が勝ちたいと思うのは、なぜなのか?勝負に勝てば嬉しいが、負けると悔しい、のはなぜなのか?負けるが勝ち、ともいわれるが、なぜ負けようとしないのか?このような疑問を考えてみる人が意外と少ないのに驚く。この世の価値観では、勝つことが尊い、とされ、当たり前とされている。それだけ暴力が正当化されているせいでもある。それでもググってみると、以下の理由を挙げているサイトがみつかった。競争の心理学(2)~「勝つ」と「負け」、「負け」が「勝つ」罪悪感の力学~ - カウンセリングサービス心理学講座 (counselingservice.jp)「なぜ勝ちたいのか」を分析する | 戯れ言 (ameblo.jp)負けると悔しいのはなぜ?将棋でその理由を4つ紹介!負けを認めることの利点も | なな夫のブログ (shogi-life.com)負けると悔しい理由1:想定した未来に裏切られるから負けると悔しい理由2:相手を責められないから負けると悔しい理由3:自分の弱さを認めることだから負けると悔しい理由4:人間は優越を求める生き物だから勝てば官軍負ければ賊軍、負ける悔しさを、心底味わったのは、この国の昭和世代の日本人だろう。いまだに、日本が米国の植民地と呼ばれるのは、太平洋戦争で負けて占領されたせい、ともいえるかもしれない。太平洋戦争では、国体護持のために、ポツダム宣言の無条件降伏を受け入れ、一時は占領され、連合国による、領土分割の危機もあったが、昭和天皇とマッカ―ザーの会談で、日本の要望は何とか受け入れられた形となって、後には、サンフランシスコ講和条約を、不参加の中国(国民党)、ソ連を除いた、連合国と締結している。その後に、二国間交渉などで、インド、台湾と講和し、またソ連と日ソ共同宣言、中国(共産党)と日中共同宣言を行って、現在の国際的な地位を獲得したのが、以下のサイトからわかる。終戦はどのように決まった?|NHK戦争を伝えるミュージアム 太平洋戦争をわかりやすく|NHK戦争証言アーカイブス日本国との平和条約 - Wikipediaいまだに、太平洋戦争は負けではないという人もいるが、いずれにしろ、学びを怠っているのは確かである。日清、日露でとにかく勝てたのに、2度の勝ちにも学ばなかったし、勝ちの後に負けがくるのは、勝負の時運なのに、学べなかったのは確かだろう。上に紹介したサイトの、負けると悔しい理由を、まさに地で言っているのがわかる。特に、自分の弱さ、欠点を認められないのが、いまの日本なのかもしれない。負けるが勝ち、という諺もある。この諺の意味をググると、「一時は相手に勝ちを譲り、しいて争わないのが、結局は勝利をもたらす」とあるが、意味になっていないのがわかる。この諺は、先の「勝ち負けは時運」の、恐らく、焼き増しだろう。つまり、カルマの法則をそのまま表現したもので、先に、負けて敗因を学べは、次に勝ったときに、より勝ちに学べる、という意味なのだろう。前世からのメッセージのマスターの説くように、全ては愛の学びのためなのだから、愛をより学ぼうとする精神が大切なのがわかる。負けたら悔しいのは、自分の奥底では、愛に乏しいと気づいたからである。愛の不足を感じたので、悔しいわけなんである。逆に、勝ったときに、学べないのは、謙虚に乏しく、愛に恵まれて、増長しているためだろう。だから、先の勝負師は、勝ちに不思議あり、と述べているのだろう。自分は愛に恵まれて、勝てたが、その愛が何なのか、わからないから、不思議なのである。静山は、「本来の道を尊重し、武術を守る」のが勝ちにつながると、述べているが、この道を尊重する心を見つけるのが困難だから、不思議なのである。シュタイナーの説く、カルマの法則と輪廻転生からみれば、この道を尊重する心こそ、前世から引き継がれた、霊魂の核となっている、自我を育成する、宇宙を巡る愛なのである。勝負の時運とは、この宇宙を巡る愛を尊重し、武術とは、自我の育成を、守ることなのである。負ければ、自我の育成に必要な、足らない要素がわかる。それは自分の弱点が明らかになるからである。しかし、勝った場合は、自分の弱点が現れないどころか、自我のどこか良かったのか、その成長を見究めるのが困難で、マザーテレサが説いたように、愛を込めたのはわかるが、あくまで無私の精神に則ったので、無私だから、私心がないので、自我の成長がわからないので、不思議なのである。有り体にいえば、神の愛に勝たせてもらったわけなんである。ここでも、勝利の、幸運の女神には後ろ髪がない、という諺が生きてくる。「通り過ぎてから慌てて捕まえようとしても、後ろ髪がないのでつかむことが出来ない。」というのは、勝利は時運で、勝った要因を掴むのは困難なのである。だから、勝利の法則などなく、勝った後は負ける宿命がついてまわる。だから、勝者も敗者も時の運なので、たまたま勝たせて頂いたのだから、敗者を差別してはダメで、宇宙に愛を巡らす、神に感謝しなさい、というわけなんである。前世からのメッセージの、マスターの説くように、全ては、愛の学びの過程にすぎないので、愛の指導者に感謝しなさい、というわけなんである。「前世からのメッセージ」では、勝負についての教訓を、スコアを気にし過ぎるゴルファーのカウンセルの例で紹介している。そのゴルファーは、スコアを気にするほど、スコアは悪くなっていったので、カウンセルを受けにきたという。カウンセルにより、ゴルファーは、エゴを置き去って、ゴルフコースと一体となったという。そして、ゴルフを人生に置き換え、理解し始めた。どんなスコアを出そうが、どんなプレーをしようが、ゴルフコースは、気にもとめない。ただ、プレーヤーに、楽しんでもらいたい、美しさと素晴らしさを感じてほしい。愛を感じてほしいと、望んでいる。このゴルファーは、ゴルフコースをつくっている自然霊の意図が理解できたようなのである。宇宙は、人間個人の勝負事などよりも、常に、宇宙が巡らせている愛を学んでほしい、と願っているのである。このゴルファーの心境を表わす句がある。それは、山岡鉄舟の、「晴れてよし、曇りてよし、富士の山、元の姿はかわりざりけり」、である。この意味は、晴れた富士山は素敵だが、曇った富士山もまたそれで格別である。富士山は、いつも変わらずに、愛を送っている、というのである。富士山は、いつみても素晴らしい、というわけである。つまり、鉄舟は、富士が霊山で、その愛を感じて、神に感謝している、のである。実際に、鉄舟は、禅の師匠にいわれ、富士山に何度も登頂していたらしい。鉄舟にとって富士山は、ゴルファーのゴルフコースだった。恐らく、富士山のなかに自然霊をみていたのかもしれない。禅の言葉:晴れて良し曇りても良し富士の山、元の姿は変らざりけり - Megurecaのブログ (hatenablog.com) カウンセルを受ける前の、このゴルファーのように、競争原理から抜け出せないでいると、宇宙を巡る愛を学べないので、人生の大半を無駄に過ごして、更なる憎しみを貯め込んでしまう。確かに、物質世界で永遠に生きようとするのなら、尾崎豊の歌詞のように、勝ち続けなければならないだろうが、きっと、いつかくる負けを認めないと、死を恐れ、死が無になる救いだと、歪んだ過ちに取り込まれてしまうかもしれない。そして、なによりも、宇宙を巡る愛について不感症になり果てて、キリストが近くを通り過ぎるのを、招き入れることなく、黙認する、永遠に彷徨えるユダヤ人のように、何度も同じ民族に転生しては同じ過ちを繰り返す人生を送るようになるだろう。永遠の彷徨えるユダヤ人をやめるためには、目に見える競争原理を捨て去る必要がある。そこで、前世からのメッセージの、マスターの言葉をかりる。「いま」という、時を経験していないとき、つまり、過去に囚われ、未来を心配しているとき、あなたは、自分自身に、大きな心の痛みと悲しみをもたらしています。かなり前に、塾講師の林先生で有名な、いつ学ぶのか、「いまでしょ」が、巷で流行った。過去や未来に思い悩んでいると、いま生きている、いま愛を学ぶのを怠ってしまう。「いま」この瞬間は、現世での人生の連続のなかにあるが、それは、前世で学びを怠って、持ち越した、自分の欠点で、自分が抱えた憎しみの負債でもある。いま、その憎しみを返さないで、いつ返せるのか? それが、「いまでしょ」の答えなんである。競争原理からくるプライドは置いておいて、とりあえず、いま、自分の欠点をみつめ、愛せるかどうかなんである。自分が抱えてきた憎しみを解放しなくてはいけない。それには、自分の欠点を生んでいる、暴力や憎しみを捨て去らないといけない。そこで、またマスターの言葉をかりる。カルマを返す前に、人の生命を取り上げる権利は、与えられていない。何人も生命を取り扱う権利はない。殺人者は、その罪を逃れ、生きながらえたとしても、必ず報いを受ける。死んで、次の転生のときに、その人生で苦しむことになる。殺人者は、次の転生で、不安に襲われ、永遠に、その罪が重いのを悟るまで、不安に襲われる。だから、殺人者に、平穏、平安が訪れることはない。殺人者の次の転生は、殺人が悪いものと身をもって体験するために、非常に苦難に満ちたものとなるだろう。自分が傷つけた全ての人々に対して、不正行為の償いをしなければならない。神のみが、殺人者を罰せられる。殺人者の人生を変えられるのは、神のみで、あなたたちは、神の愛から与えられた、いま自分の人生を、神の愛によって変えられるだけなのである。神の愛から、人生を変えるのは、あなた次第なのである。あなたが人生をどうするかは、あなたが、愛を学べるかどうかにかかっている。だから、生命の尊さを学ぶべきなのである。競争原理に翻弄されるのを、暴力や憎しみに身を委ねるのから、あなたの人生を、解放しなさい。このように、個人の人生においても、競争原理から、自らを解放し、前世まで探求しないと、現人生の幸福が実感できないのが明らかになる。前世からのメッセージのマスターたちが説く、幸福は内からくる、というのは、現人生から抜け出し、前世からの憎しみを、愛の行為で、「いま」という現世で、永遠に解消することだからである。個人の幸福でも困難なのに、ましてや集団となると更に困難なのを、そして、現在の民主主義の方向性が間違いなのを、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★公職、官職人生の職業について、霊的に考察すると、職業を霊的に説明するのが困難なのがわかる。膨大な霊的背景の説明を要するからである。カルマの法則からくる運命の多くが、生活のなかに散りばめられているからである。そのような多くの要因を、探求し、人生の多様さを理解しなければ、霊的な考察がなりたたないからである。公職や官職といわれるものを、職業と取り違えてはならない。官職を職業とすると、混乱に陥るからである。官公庁で働く人間から、多様な外的の、物質的要因が、生活のなかに作用し、浸透してくる。そうすると、その悪影響を受けた、他の職業のカルマも影響を被るようになる。我々の時代は、ゆっくりと改革されているが、生活のなかの、ある社会的地位に就くのに、職業のカルマだけで決まるのではなく、今日多くの点で、身分、階級などのカルマが、職業のカルマに干渉しているのを、御存じだろう。あるグループのなかで、誰がどんな地位につくか、功名心、虚栄心、偏見その他の悪因が作用するのを御存じだろう。官職として、外から職業のカルマに作用する、これらの全ての悪因から、アーリマンの影響が、人間の生活の中に忍び寄ってきて、人間の活動のなかに、悪魔的要素の影響、憎しみを混ぜ込む。だから、大臣、議員などの地位についている人が、それを職業とする必要はなく、このような地位につくのに、何をしているかは、下世話な話なので、語る必要もない。とにかくも、そのような高い地位につくのは、融通が利かない官僚的人間でしかなく、多分に、融通自体も持ち合わせてはいない。確かに、物質界では、ダーウィン主義は正しいが、これを唯物的に解釈した、ヘッケルの弟子のオスカーヘルトヴィッヒが強く非難した、「最良のモノへの自然淘汰」のような生命の教えが現れたのが現代の特徴である。このような教えが現れた時代には、他の時代の生活に比べて、まさに最悪のモノが選び出される。厭世家のように、いまの時代を非難し、古き良き時代を引き合いに出すのは無意味で愚の骨頂である。「最良のモノへの自然淘汰という教え」を現代人は自慢している。しかし、この教えを自慢する現代人は、唯物論という悪魔が与えた知識に従って、実際には、悪魔を地に招来しかねない最も重要な地位に、最悪の人間を選ぶという傾向に支配されているのに、気づかないでいる。(高次の宇宙人によれば、高次になるほど官職や公職はなくなると述べている。必要がないからである)
2024年09月19日
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ここのところ、シュタイナーの人智学の勉強は小休止で、夏休みの気分転換から、「前世からのメッセージ」の紹介を続けているが、そのなかの、マスターたちの話によれば、宇宙は無限のエネルギーの愛の海からなっていて、我々地球人は、いわば愛の海の中を泳いでいるわけで、泳ぎ方により、愛を感じたり、逆に憎しみを感じたりして、泳ぎ方をマスターしながら、愛を深める深海へと、より密度の濃い愛へと泳ぎ、憎しみを愛へと転換し、昇華し、進化している、といえるかもしれない。幸せに暮らしたい、と誰もが願うものだが、幸福についての、日本の世界ランキングは、先進国G7のなかでは最下位となっている。その理由は、以下のサイトによると、幸福のランキングが、「なぜ日本がそれほど高くないのか、次の理由を指摘できる。低成長時代にいるので生活の豊かさが感じられない、社会保障に代表される社会的支援の低迷、官僚や政治の世界における腐敗などが原因である。」日本人が「幸せ」を感じていない納得の理由…日本の幸福度は「G7の中で最下位」という「意外な現実」(橘木 俊詔) | 現代新書 | 講談社(1/2) (gendai.media)上のサイトによると、幸福度ランキングの高い北欧の特徴は、福祉国家で、「多額の税・社会保険料の負担を強いるが、国民は負担はしてもそれへの見返りが大きいと、政府を信頼している」ことが挙げられている。このサイト曰く、ランキング上位の国をみると、経済的な豊かさと自由度、もしくは、社会的支援や非腐敗度の評価が高いのがわかる。要約すれば、経済活動と政治活動が高い国が幸福度が高いのがわかる。このサイトで、面白いのは、ブータンのランキング低下を、わかりやすい例として挙げているところで、「物質的なことよりも、人々の精神的な結び付きが幸福であると考えられた。しかし、グローバル化と他国の情報の流入により、ブータンの人々は他の国の豊かさを知るところとなり、自分たちの貧困を認識してこのような低い評価になったのである。」というように、この例からもわかるように、幸福は、内からやってくるのがわかる。ブータンの場合、幸福度先進国と比べると、経済活動が低いのがわかる。以前より、紹介してきた「前世」からのメッセージ、のマスターたちの言葉を借りれば、経済活動が、人間の外への愛の活動であり、政治活動が、内への愛の活動といえるかもしれない。単純にいえば、物質的活動と、精神的活動に還元できる。この両輪が高い水準で働くと、幸福度が増すのがわかる。そして、日本は、この経済活動と政治活動の、両活動において、低迷しているのがわかり、それが少子高齢化を招いていると考えられる。また、このサイトによると、日本の幸福度が低いのを、詳細に成績票のように分析している。一位のノルウェーに比べて、所得や教育は、日本の方がわずかに高いのに、他の項目全てにおいて、低いので、総合ランクが23位となっているのがわかる。なお、2017年のデータのようなので、日本のデータは、現在はもっと下がっているかもしれない。このデータをみて、気づくのは、日本には、1位の項目がないことにある。逆に最下位の項目は、住宅環境、雇用、コミュニティ、環境、政治への参加、健康、人生への満足度、ワークライフバランスの、計8項目にわたり、しかも、政治への参加が著しく低い、のがわかる。要するに、政治に無関心なので、内への愛の活動に乏しい、のがわかる。換言すれば、社会全体を底辺から良くしよう、という意識に乏しい、のがわかる。これはブータンの、「家族のメンバー間の絆が強いことや、信仰心の篤いことが高い幸福感の源泉であった」と比較してもよくわかる。ブータンとの比較から、日本の幸福度が低迷しているのは、人間関係の絆が希薄になり、信仰心がなくなったことにある、というわけなんである。それが、政治への参加を著しく低下させ、政治家の腐敗を生みやすくさせ、官僚の暴走を許してしまう環境をつくっている、といえるかもしれない。このような現状を回復させるには、若者の力が必要で、若者が積極的に政治に参加すべきなのに、「自分さえ良ければいい」、という風潮が蔓延しているのか、政治を深く学ぼうとする気概に乏しく、無関心なのが、非常に残念でもある。若者のこの風潮を要約すると、逆境に脆く、無責任、無関心な態度を生んでいる、といえるかもしれない。このような昨今の風潮が、22年から、コロナの影響による不況もあって、これまで減少化傾向だった若者の犯罪率が増加に転じているのが、象徴的でもある。少年の刑法犯19年ぶり増加 2022年、窃盗や特殊詐欺 - 日本経済新聞 (nikkei.com)勿論、若者だけでなく、そのような環境をつくってきた、大人たちの無責任、無関心な態度にも問題があり、だからこそ、幸福度の低さを身をもって実感しているわけなんである。石川啄木ではないが、「働けどはたらけどなお、わがくらし楽にならざり」の原因は、政治への参加に乏しい、のが、挙げられるわけなんである。とどのつまり、政治に無関心なせいで、政治家のレベルが低く、公的な意識の低い、政治家が汚職し、官僚が自分勝手に暴走するから、働いても、税金で掠め搾り取られ、生活が一向によくならないわけなんである。「働けどはたらけどなお、わがくらし楽にならざり」…労働者の苦悩を感動的に歌った石川啄木。その生活は放蕩三昧、超自分勝手だった! | Precious.jp(プレシャス)幸福になりたければ、政治を良くしない、とダメなことが、先のサイトのデータからもわかり、裏金議員を処罰できない現在の政党に、何を期待しようが口から出まかせで、ポンコツに権力という刃物を持たせ、益々増税されるだけで、無駄というのがわかる。若者が政治に無関心なのと、そのような無責任な環境をつくってきた主に政治家を中心にした大人の責任は大で、そういうわけで、現状のままでいると、日本の幸福度ランキングが益々下降して、亡国論が持ち上がってくるのが馬鹿でもわかる。この現状について、インバウンドが好調ではないか、という反論があるかもしれないが、所詮、長期滞在ではなく、移住ではないので、特に税金徴収という意味で、現在の政治の弊害を感じないからといえる。もし、日本人並に税金を徴収されたら、インバウンド需要も低下するだろう。確かに、先のベターライフインデックスの表によると、所得の数値は、米国の約半分だが、他国と比べて、低いわけでもないのに、健康が著しく低く、しかもワークライフバランスが最下位なのが、幸福度を下げている要因といえる。また、この表から、日本は、豪州やオランダとほぼ似たような数値なのだが、大きな違いを比べると、豪州とは、環境、健康、政治への参加で著しく劣り、オランダとは、健康、ワークライフバランス、政治への参加で著しく劣り、幸福度を下げている、のがわかる。だから、この幸福度の項目別の数値からわかるのは、日本は、健康、政治への参加、ワークライフバランスが著しく低く、豪州は環境、政治への参加が高いために、幸福度が高く、オランダは、政治への参加はそこそこだが、ワークライフバランスが高いために、幸福度が高いのがわかる。つまり、幸福への特性を国別にまとめると、1位のノルウェーは、所得、政治への参加はそこそこだが、他の項目全てが高レベルなために、幸福度が高いのがわかる。3位の豪州は、環境と健康と政治への参加が高いため、幸福度が高く、8位の米国は、所得と健康が高いために、10位のオランダは、健康とワークライフバランスが高いために、幸福度がそこそこなのがわかり、日本は、どの数値も標準レベルでしかなく、特に健康と、ワークライフバランス、そして、政治への参加が著しく低いのが、幸福度が低い要因となっている。日本の健康とワークライフバランスが低いのは、恐らく、過労死という世界語にもなった、ブラック職場の弊害と考えられる。端的にいえば、日本の企業のほとんどが労働基準法違反であるのが、このデータからわかる。自分の働いた経験からもわかるが、定時であがれる職場はほとんどなく、しかも、定時であがるには、朝早い出勤や、事前の準備に追われ、家まで仕事を持ち越すのが大半なのが、日本のワークライフバランスの数値の低さを表している。なかには残業代を確保するために仕事を持ち越す人もいる。そのような人に全体が引きづられると、付き合い残業もでてきて、全体として定時ではあがれなくなる。このような傾向を、外国人からみれば、非効率といわれるわけで、しかも仕事が終わっても、帰宅せずに、飲み会などの付き合いがあるので、昭和世代はノミ二ケーションと呼んでいるが、ワークライフバランスが曖昧で、公私混同が生じやすい環境にある。それが、幸福度につながればまだしも、実際は、幸福度の低下になっているので、改善しないといけない。ワーク・ライフ・バランス - Wikipediaワークシェアリング - Wikipedia不幸で劣悪な職場環境の、日本とは対照的に、ワークライフバランスが進んでいるのは北欧で、ワークシェアリングが、オランダから生まれたことからもわかるが、そもそもは雇用の安定化から生まれた雇用形態だが、近年では、ワークライフバランスが幸福度に寄与していることからも、ワークシェアリングの導入が、ワークライフバランスを進ませるカギとなりつつあるだろう。ワークシェアリングとは?メリット・デメリットと国内外事例を紹介 | クイックの採用サロン (saiyo-salon.jp)日本の企業は、この面においても、北欧からは遥かに遅れているといえる。企業は生産能力を高めるだけではなく、幸福度も同時に高めないと、ブラック企業のような奴隷組織を生む、単なる虐待組織と化すだけなんである。エコノミックアニマルを世に生み出した、昭和の悪しき競争原理に基づいた利益追従だけの、ブラック企業からの脱皮が重要となるだろう。幸福を社員に与えられない企業は存在意義がない。輪廻転生から考えても、不幸を与えている経営者は死後にその分だけ地獄に堕ちて、来世は不幸な国に産まれ、奴隷のような労働をする宿命を背負うからである。このデータを重視して、日本の企業が、北欧のように、ワークライフバランスを高めれば、日本の健康の数値も向上するだろうが、健康について、更に、日本の医療を、北欧と比べると、世界ランキング12位にある。その詳細については、以下のサイトが参考になるので紹介する。《海外レポート》福祉先進国、北欧の医療と健康政策の実態 | 株式会社Sanko IB (sanko-ib.co.jp)まとめ1.日本と北欧諸国は異なった医療システムを採用しており、日本では気軽に専門医にかかることができ、医療機関の選択も自由だが、北欧諸国では気軽に専門医にかかることは難しい2.北欧諸国では気軽に専門医にかかれないが、病気を未然に防ぐための仕組みが充実しており、健康への意識が高く保たれている3.医療従事者の不足は日本と北欧諸国の共通の問題だが、AIの活用による医療行為の効率化や、労働環境の改善には期待が集まっている北欧と日本の医療の大きな違いは、日本では、コンビニのように、自由に、専門医にかかれる反面、軽症の場合、専門医の診察費のコスト高を招き、医療費の高騰につながる。極端な例を挙げるなら、救急車をタクシー代わりに使う、のもありえる。北欧ではトリアージされているので、あり得ない。ビジネスに応用したい「トリアージ」という考え方|ビジネスコラム | NTTファシリティーズ (ntt-f.co.jp)このような医療のコンビニ化、薬価コスト増大のために実際は、厚労官僚の苦肉の策で、薬局がコンビニ化しているわけだが、日本では社会保険料の高騰が問題になっているが、この主な問題が、医療費高騰で、医療行政の優先順位などが加味されていない冗長性にあるといえるかもしれない。軽症か重症かではなく、病院に来た順から診ていくために、結果的に非効率化を生んでしまう。しかも、北欧と比べて、予防医学が発達せずに、健康意識に乏しいために、ある程度の代替医療知識で、軽症なら自分で治してしまう姿勢がほぼ皆無と考えられ、自身がもつ生体防御で治そうとするのではなく、他力本願で、薬の処方を求めがちの傾向をもつので、医療費が高騰する傾向を生んでいるといえる。このような医療機関への過度の依存性とは逆に、行政をより効率的に、税金を少なくしていこうという、政治への参加意識に乏しい点が、先の幸福度の指標の、政治への参加の低さから伺える。政治に参加しようという意識が低いから、他力本願で、人任せにして、税金も高くなってしまうわけで、国民の監視が届かずに、政治家の汚職や、官僚の暴走を生みやすくしてしまうわけなんである。政治に無関心で、参加しないために、憲法の国民主権を利用できていないわけなんである。汚職政治家や官僚に騙されて、高い税金を振り込め詐欺されているのと同じ構図といえる。そして、詐欺にひっかかった、自分の不幸を嘆いているので、幸福度が低いわけなんである。そして一番の問題は、日本人のほとんどは、不幸なのに、政治に対して、幸福不感症になっているのに、自覚症状が全くない点なのである。現状を変えようと努力しないで、ただ無責任になっている。そして、政治に参加せずに、○○候補者に一択とか、自分で選択する権利も奪うような、余計なお世話で捲し立てる、怪しい団体の組織票に、監視すらせずに、無責任、無関心に、政治を委ねてしまっている。社会に生きているはずなのに、社会に参加せずに死んでいる。またまた愚痴になってしまったので、話を変えたい。さて、先日、TVで、前世を記憶している子どもの話をやっていたが、既にアクエリアスの水星紀になりつつあるのに、巷の世間は、なんと悠長で遅れているのだろうか、と少し呆れてしまったが、政治の低レベルさよりは遥かにマシかもしれない。前世を記憶する子どもについては、シュタイナーは約100年前に既に預言しているが、それは主に、前世で不慮の事故などで亡くなると、予定していたエーテル体の生命力が使われずに、余剰能力として、次の転生に持ち越され、そのエーテルの生命力をして、前世からの問題解決能力を継承するという。簡単に言えば、前世で不慮の事故死で、亡くなると、転生では、生命力が数倍に強化されるという。これは骨折した部位が、治癒すると、更に強化されるのと同じで、また、右利きのテニスプレーヤーの右手が太く強化されるのと同じ道理だという。TVで紹介された子どもの前世は、911テロの犠牲者で、そのエーテル体が強化されて転生に現れ、前世を思い出せるほど、潜在意識での感情記憶が強烈に残っていたためと考えられる。そのような前世を記憶する子どもが生まれてくることで、人類へのテロ行為の無意味さを伝えるためであるらしい。もし、このような子どもが、前世療法を知っていたら、機械的な効率を重視した現代社会では、不要な存在というか、足手まといの存在として、隠されながら生きている、他にも多くの前世を記憶する子どもたちが救われ、この世に過去の過ちの多くを伝えるために、広範囲に現れていただろう。その子どもは、スーパーなどに行ったときに、建物のどこに非常口と非常ベル、非常階段があるのか、必ず探し、まるで神経質かのように、母親に報告していたらしい。つまり、前世の911テロの教訓から、閉じ込められたビルからの避難を、常に想定していたわけである。また、前世からのメッセージの前世療法により、前世で窒息死で亡くなった場合、現世では、喘息の症状としてよく現れるという。恐らく、気管についての気道確保の、過度な神経質的な症状として現れるのかもしれない。これらは、前世でのトラウマによる、過度なエーテルの能力を持ち越しているわけで、このように前世でのトラウマに対する教訓から、現世への警告として、暴力や破壊、差別などの無意味さを世に伝えようとしているのがわかる。そこで、このテロ行為や、暴力や破壊、差別の無意味さを、前世からのメッセージの、マスターの言葉を借りて、紹介したい。この世に生まれる前に、あなたたちは、自分の欠点に気づく必要があります。もし、それを怠ると、次の人生に、その欠点を持ち越すことになります。自分で貯め込んだ悪癖は、肉体をもっているときにだけ、取り除けるのです。マスターたちが、代わりにやってくれるわけではありません。もし、あなたたちが、争いを選び、しかも、その癖を取り除こうとしなければ、それは次の転生に持ち越されます。しかし、自分で、その悪癖を取り除こうと決め、克服できれば、次の人生に持ち越されることはありません。換言すれば、人間は攻撃性を手放すために、肉体をもって、その痛みから学ぶために、この世に生まれてくるわけなんである。そして、あらゆる、差別、憎しみ、怒りなどの破壊行為や暴力を実地体験し、そのような悪癖を手放し、取り除く決意をするのである。再びマスターの言葉を借りる。肉体のなかにいるのが、異常なのです。霊魂のままが本来の自然なのです。また肉体に入るのは、未知の世界に入るのと同じです。それには、時間がかかるので、霊界で待たないといけない。霊界で待つうちに、再生されます。再生の世界があり、地の破壊の世界とは、また別の次元です。我々は皆、霊魂の存在なのです。肉体のなかにいる者もいれば、再生の時期にいる者もいます。そしてまた、他の者は、守護霊となっています。しかし、私たちは皆、そこに行くのです。私たちもまた守護霊だったのです。私たちが霊魂の、不滅の存在で、愛の無限のエネルギーの広大な海に常に存在しているのを思い出すのが、喜びと幸せの鍵です。地球と呼んでいる、この学校のもつ問題の一つは、私たちが肉体の存在ではなく、霊魂の存在だと思いだすのが困難なことです。この三次元世界の幻想や錯覚に常に惑わされています。そこでは、おカネ、権力、名声、モノの所有や蓄積、快楽などは、非常に大切で、時には人生の目的であるとさえ、教え込まれています。また、幸せになるためには、他の人々から好かれ、尊敬されなければいけない、と教育され、一人でいるのは惨めだと。教え込まれてもいます。自分たちは皆、霊魂の存在だという真実に気づくと、このような価値観が大きく変わり、幸福で平和になれます。だから、霊魂の能力のみが、永続します。だから、幸福は、権力や名声からは得られず、愛からのみ得られます。幸福は、内から来るものであって、外から、あなたをどう扱おうが、来るものではないのです。だから、嫉妬は、霊魂に憎しみを生む毒薬なのです。前世を自然に思いだす人がそれほど多くないのは、肉体のなかでの学びが、憎しみを手放す、実地試験の一種だからです。霊的な、永続性のある、学びや知識が、深く確実に、肉体を超えて、霊魂に浸透するために、念には念を入れる必要があるのです。残虐な前世を思い出して、現世で同じような残虐行為の結果を避けるために、暴力を回避するのでは、完全にレッスンを学んだことにはなりません。暴力は間違っていると身をもって体験し、心の底から完全に理解したときにはじめて、暴力を回避すれば、本当にレッスンを学んだことになるでしょう。つまり、前世がみれないのは、同じ過ちを繰り返さないためなんである。答えを知って問題を解くのと、答えを知らずに問題を解くのでは、霊魂の意味で、大きく異なるからである。今回はここまでにしたい。
2024年09月17日
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最近は、安いのもあるが、冷凍餃子と電子レンジ用のライスの、合計400円ぐらいの夕食で済ませている毎日から気づいたのだが、毎日食べても飽きない最強飯は、焼き餃子ではないか、と思う。お蔭で数年前はストレス太りの肥満ブタが、若い時のようになり、約10キロのダイエットにもなり、いいことづくめの日々なんである。これで、巷の、煩いハエのような総裁選の、不祥事を人気で誤魔化す、脱税私利私欲自民党が滅亡してくれれば最高である。ポエムだか、ヘナチョコ構文だか、知らねど、日本人なんだから、日本語くらいマトモに話せよ、と思うばかりである。日本もそろそろ真剣に亡国論を論じるべきである。餃子を食べて、日本人で良かったと思い、TVをつければ、国民生活を破壊した連中が騒いでいて、日本人でいるのが恥ずかしくなる。馬鹿な切り返しを絶賛するタレントは日本人を裏切り、いくらもらっているのかな?とか思うな。毎度紹介している「前世」からのメッセージにも、次のような教訓を載せている。一見、素晴らしく見える人には気をつけなさい。危険な人物は魅力的な装いをまとっているからです。ワクワクする、楽しい、刺激的な、危険な香りがする、劇的な人生を送っているような人たちです。こうした外見は、あなたの心の目を曇らせて、危険をみえなくし、カモフラージュしているのです。誘惑に負けずに、心の目で、相手を見据え、騙されないように、学ぶべきなのです。餃子にも劣る詐欺メールのような連中がこの国には盛り沢山だ!毎週欠かさずにみるBS番組、「ケンコバのほろ酔いビジホ泊」で、ケンコバ氏が、やっぱり餃子なんだよなぁ、と呟きながら食べていたのに、半端ない説得力を感じてしまった。禁酒しているので、ビールは飲まないが、餃子に白飯とビールは黄金のトリオの三角形というか、最強タッグだと思う。餃子の王将の餃子定食では、そこに中華スープとサラダが加わるので、完璧である。西洋には、赤ワインに、フォアグラ、フィレステーキのトリュフのせ、のロッシーニセットがあり、これも最強の組み合わせだが、特別な日にしか食べられないという贅沢な点で、庶民的ではなく、多くの日本人に幸せ感を与えてきた点で、やはり、餃子定食に軍配を上げたい。ロッシーニセット 2人前 【牧草牛フィレステーキとフォアグラのセット】 (themeatguy.jp)経済的にも、餃子定食はビールを頼んでも千円前後だろうし、ロッシーニセットは軽く6千円は超えてしまうし、ワインのチョイスによって、数万円にもなってしまう。贅沢な食事と言わざるを得ない。このような食事は格差社会の為せる業だろうし、最大多数の最大幸福を実現するには、やはり餃子定食が近道だろう。日本にくる外国人のほとんどが、和食を安くて美味いと感じているようだが、私は米国西海岸しか行ったことがないが、米国では美味い食事を食べたければ、カネを出すしかなく、カネを出せば、いくらでも美味しい食事が食べられるようである。その代わり、カネがないと、美味しくはないが、量は多いので、腹を満たすことはできる。ヨーロッパには行ったことがないが、旅行者に聞くと、あまり外食は発達していないらしく、冷たい食事が多く、とにかくポテトが多いという印象が残るという。シュタイナーは、欧州が第一次世界大戦に陥ったのは、ポテトばかりを食べ過ぎて、愚かになったせいだと、ジャガイモのせいにしている。シュタイナーによると、ジャガイモは炭水化物で、食べれば食べるほど食べたくなる麻薬のような食べ物で、ポテトばかり食べ過ぎて、バランスがとれなくなって、愚かになるというようなことを述べている。そのような話として、カウチポテト族が知られている。カウチポテト族 - Wikipediaさて、話は変わるが、以前、保江方程式で有名な保江氏を紹介したが、火星紀から水星紀に移り替わるにつれて、もともとは唯物論者だった人が、あの世や死後の世界や、宇宙人や天使のような霊界を認めるようになってきている。何より面白いのは、「前世」からのメッセージにも書かれているが、相対論で有名なアインシュタインが次のような発言をしていることである。人間は、宇宙全体の一部、それも時空に制限された一部にすぎない。人間は、自分と自分の考えや感情を、宇宙から切り離して、体験している。これは意識による、視覚を経た一種の錯覚である。この錯覚は、人間にとって牢獄であり、自分の欲望や、近親者だけの愛情へと制限してしまう。人間の任務は、思いやりの輪を広げ、この牢獄から自らを解放し、宇宙全ての生命体、全ての自然を抱擁することなのである。このような発言から、アインシュタインが、量子論に対して、神はサイコロを振り給わず、と言った意味が明らかになる。光量子説を提唱したのもアインシュタインで、時空と、質量をもつ粒子が同等だと、一般相対論の、時空による宇宙方程式を編み出したが、後に、考えを改めて、時空と粒子は同等でないと、叫んだという逸話も残っている。粒子を霊魂と考えれば、時空は、その入れ物にすぎず、粒子が時空を体験することが、時空から、粒子を解放し、粒子が宇宙へと拡大し、宇宙全てを抱擁していく、自我による自我のプロセス、回帰といえるかもしれない。本来、地球には国境がないのに、国境をつくるのは、人間の錯覚のせいなのである。外に向かって、宇宙の果てに到達すると、それを見ている自分の内に返ってくると、いわれている。だから、幸福は外に求めるのではなく、内からくるといわれている。だから、幸運の女神には前髪しかない、と言われる。先に挙げた保江氏の話によると、バチカンには、奇跡を判定する科学部門があり、科学者が雇われているという。その科学部門が、唯一の奇跡と判定したのが、マザーテレサだったという。「前世」からのメッセージによると、マザーテレサは次のように述べているという。もし、私たちが皆、黄金のルール、神は愛であり、神は、我々を、より偉大な行為の、愛し愛されるために、おつくりになった、のを理解できれば、神が我々一人一人を愛するように、我々も互いに愛するようになるでしょう。真の愛は、苦をも厭わない、無償の愛、愛を与えることなのです。大切なのは、愛をどれだけ与えるかではなく、与えるべきときに、どれだけ込めるか、なのです。ですから、祈りが必要なのです。祈りが実れば、信仰が深まり、信仰が成就すれば、愛となり、愛の行為は、奉仕となり、平和の行為となります。そして、この無償の愛、平和の行為が、黄金のルールを成就させるのです。神が我々一人一人のなかに幸運をもたらすように、我々も互いのなかに、幸運をもたらすように、愛し合いなさい。このマザーテレサの言葉から、幸運の女神には前髪しかない、の意味がわかる。愛を与えるべきときに、どれだけ込めるか、幸運とは、自分の内からやってくるので、前を向いて、相手を見つめ合い、愛するしかないのである。「前世」からのメッセージの、マスターの言葉を借りれば、次のようになる。誰か他の人の目をみつめるとき、そして、あなたを見つめ返している、その目を通じて、あなたの霊魂を見るとき、あなたの意識が、1つの上のレベルに達している、のがわかるだろう。このように、「前世」からのメッセージは、現代の聖書ともいえるべき内容が書かれている。シュタイナーは、火星紀から、水星紀の、まさに現代の移行期に、これまでとは異なる人類の愛が、霊的に深まり、霊魂は決して死なず、その証拠に、霊的な修行を通じて、過去世を思い出す人や、前世を忘れずに生まれてくる子どもが次第に増加していく、のを預言している。シュタイナーはまた、大天使ガブリエルの時代は、人間の脳を育成し、悟性から知性、現世の記憶を導く時代だったが、それが主に肉体の、他の3つの体(自我、アストラル体、エーテル体)との関わり方からくる気質を生み出し、そのため、その気質は、精神界から切り離され、ルシファーに依存するために、主に権威主義で、地上に固執しがちな、物質性に偏りがちな、男性的な傾向を帯びてきたが、現代の移行期により、ガブリエルと交代したミカエルの霊性の時代に次第に移り変わっていくことで、霊的で、直感的な、女性的で、中性的な、これまでとは異なる一段上の愛の時代へと転換していく、と述べている。このようなシュタイナーのメッセージを、「前世」からのメッセージのマスターの言葉を借りて示すと、以下のようになる。古来からの、多くの文化、仕来り、現代では、書籍、映画やTV番組が、男女間の越えがたい違いを強調しています。そのために両者の間には、深い溝があり、男女の考え方や行動の仕方も異なるものとなっています。そのため、男女は同じ世界で暮らしながらも、全く別々に世界をみています。各々の世界の見方に応じて、男性は、世界を愛するために、強く競争的に、攻撃的になろうと、男性ホルモンのテストステロンを分泌し、協調性を失わせ、自分のテリトリーと家族を、「所有」へと向かわせる傾向を帯びてきます。対照的に、女性は、世界から愛されたいために、感受性とコミュニケーションの能力を育てようと、女性ホルモンのエストロゲンやプロゲステロンを分泌し、攻撃ではなく、防御の方向へと向かわせる傾向を帯びてきます。 そのために、少年少女の、古来からの育成法や教育法が、その違いを強調化し、増幅させてしまい、男女を分離する生物学的な壁を益々分厚いものにしていきます。男の子は、社会でより競争的に攻撃的に自己主張するように奨励され、女の子は、受け身で、話し上手で協力的でありなさいと教えられます。社会のありとあらゆる組織や団体から、同じ人間に、男女異なる価値観が教え込まれるのです。同じ人間に、肉体の違いからくる違いを強調して、異なる価値観が、その障害として教え込まれるのです。肉体の違いを強調する時代は過ぎ去りつつあります。肉体から生じる、男らしく、女らしくの時代は過ぎ去りつつあり、男女を超えた、再び自然な、人間らしさに回帰する移行期にあるわけです。というのも霊魂に男女差はなく、両性具有なので、男にうまれるときもあれば、女に生まれるときもあるからです。それらは、多種多様の愛を、肉体から学ぶための、いわばツールにすぎないのです。それは男女の性 器の違いでしかありません。だから、全体として論争、闘争、戦争を生んでいる現代の攻撃的な風潮や傾向を変えていくなら、現代の男の子の教育を、受け身で、話し上手で協力的でありなさい、というような、女性らしさに変えていく必要があるでしょう。というのも、今日の世界は、大部分、男性によって引き起こされている暴力に呑み込まれているからです。つまり、独裁的な思考をもつ男性を若干去勢すべきなのです。独裁者は暴力に訴えないように、思想上、去勢の刑に処すべきでしょう。従来のヒーロー像は、現代の価値観では、野蛮で愚かなパワハラの悪役なのです。私たちは学び、成長するために、肉体をもつ時空にいます。愛、非暴力、慈愛、思いやり、信仰、希望、許し、理解、気づきなどの資質を学ぶために、肉体による制限を受けるのです。そして、その肉体による有限性による、恐怖、怒り、憎しみ、暴力、貧欲、プライド、欲望、利己主義、差別などの否定的な資質を捨てることを学ばなければなりません。私たちは、こうした課題を、人間関係を通じて学んでいくのです。障害が多いほど、多くを学べるのです。困難な人間関係や、多くの障害や、悲しみに満ちた人生ほど、霊魂の成長にとっては、大きなチャンスなのです。霊的な成長の促進のために、あなたは困難な人生を選択したのかもしれません。この世界には苦難と困難に加えて、愛と喜びとエクスタシーもあります。愛は知的なものではありません。私たちが気づかなくても、愛は絶えず私たちのなかに流れ込み、通り過ぎていくダイナミックなエネルギーです。私たちは、人生において、愛を与え、受け取るのを学ばないといけません。人との関わり合いのなかで、人々への奉仕のなかにこそ、全てを超えた愛のエネルギーを、本当に理解できるのです。自分の人生で、明らかにされることは、自分に関係する、重要な愛の学びです。人はそれぞれ、自分に関心をもち、自分を完全な存在、愛の理解者へと導いていく必要があります。私たち誰もが、学ぶべき課題を背負っています。そして、それを一つずつ、順番に学んでいく必要があります。その学びのなかで、完全になるために、何が必要で、何が不足しているのか、徐々に理解していくのです。自分自身を知りなさい。そうすれば、覚醒意識と潜在意識の間にある歪みに惑わされずに、はっきりと物事がみえてきます。瞑想と内観、囚われの無い観察、平穏な感覚、執着のない愛に満ちたやさしさ、愛に満ちた公平さに達するように、練習し、育成しなさい。自分の考え方や思い込みに気づきなさい。そして、それを鵜呑みにしているのに気づきなさい。誰かを型にはめたり、一般化して個性を失わせるとき、あなたは、その人の本性である、愛を見ずに、失わせているのです。「男は無神経で残酷だ」「女は神経質で感情的だ」などといった、昔ながらの誤った先入観は、現実を歪めてしまいます。体験は思い込みよりも、真実に近づくのに遥かに強力で、自らで体験すべきなのです。真の幸福は自分の内からやってきます。幸福は、外側の物事や他の人々に左右されません。あなたの、安心と幸福の感覚が、他の誰かの行動や態度に左右されるなら、それは、あなたが脆く、傷つき易い、感覚の持ち主なのを意味し、あなたの霊魂のなかに眠る、愛の力を、絶対に、他者に明け渡してはなりません。モノに執着しないようになりましょう。三次元の物質界では、私たちは、モノではなく、人との関係を通じて、愛を学ぶからです。どんなにモノを愛しても、この世を去る時に、モノはおいていかなければならないのは周知の事実です。あなたは真の安全となる、叡智や愛ではなく、偽りの、安全の影絵、錯覚を求めている。それは肉体とともに失われてしまう。おカネは中立的なもので、善も悪もありません。おカネで何をするのかが、人生に与えられた課題なのです。おカネで貧しい人に食料や衣服を与えることもできますし、利己的に、無駄に使うこともできます。その選択は、各個人の自由に委ねられていますが、いつかは、おカネの正しい使い方を、身をもって体験し、学ばなければならないのです。一回の人生のなかでも、無駄使いがわかるのです。おカネと安心は全く違うものです。安心は内からしかやってきません。安心は霊魂の能力に由来し、地上には存在しないからです。おカネは地上のもので、この世を去る時に、地上にかえさなくてはいけません。もし、人生において必要な学びがあるなら、一夜にして、奪われることもありえます。ホンモノの安心を理解するには、ニセモノは取り払わなければならないからです。安心のニセモノのおカネで、ホンモノの安心を買えないので、お金持ちは、永遠に安心を得られないので、死を恐れる。肉体の死が、おカネと共に奪われるのを、恐れるからである。だから、キリストは、お金持ちは、天国にはいけないと、述べているのである。そしてカエサルのものは、カエサルに返せと、つまり、肉体の死は、死に返しなさい、と説いているわけなんである。というも、霊魂は死なず、ただ、この世を去り行くだけにすぎなく、永遠に不滅の存在だからである。おカネに魂を売っている者は、死を恐れる。その死の背後に悪魔が隠れて潜み待っているからである。この国では、餃子を食べる庶民生活のほうが、巷の騒音を考えずに改革、改革と連呼するポエム構文野郎の裏金税金での地獄の料亭通いよりは、遥かに幸せな生活を送っているようにみえる、と宇宙人ジョーンズは、レポートしているはずだろう。今回はここまでにしたい。
2024年09月12日
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人智学では、現在の、宇宙の進化の、地球紀を、前半と後半に分け、それぞれ火星紀、水星紀と呼んでいる。そこで、火星紀と水星紀の転換期がいつなのか考えてみると、恐らく、宇宙人に対してのイメージが180度変わった、未知との遭遇か、ETが流行った頃と考えられる。未知との遭遇 - WikipediaE.T. - Wikipedia勿論、その後も宇宙人侵略モノはつくられるが、それまでのほとんどの作品がその類で、友好的な宇宙人モノは、このスピルバーグの2作品が代表で、それ以前は、宇宙人というより、「奥様は魔女」のように、魔女や黒魔術師や悪魔が、人間に敵対する非人間の、お馴染みの悪役になっていたようにみえる。ただし、「奥様は魔女」のサマンサは悪役ではないが。奥さまは魔女 (テレビドラマ) - Wikipedia人智学からいえば、悪魔は堕天使なので、いわば地球人の心を侵略する、魂を奪う、悪い宇宙人で、黒魔術師は、悪魔に魂を奪われた人間なので、友好的な宇宙人が描かれる作品は、キリストをどうとらえるかで異なるが、キリストを除いて、友好的な宇宙人の話は、ほとんどなかったわけなんである。このような宇宙人を悪のイメージで捉える、いわば戦いの火星紀を、地球人に与えたのは、神智学によると、第10番惑星人エックスジアンによる地球侵略によるもの、と考えられる。トートのエメラルドタブレットによれば、暗黒同胞団によるエックスジアンは、都市伝説では爬虫類型で、地球を現在の独裁者のように支配したが、シリウス、プレアデス、アンタレスの聖白色同胞団が、救世主を地球に遣わして、エックスジアンを、地球の核に閉じ込め、封印し、青色人に監視させた、という伝説が残っているという。シリウス アンタレス 金星 プレアデス星団 | お志事の備忘録とひとりごと (ameblo.jp)青色人から、ブルーブラッドのブリテン人が生まれたらしい。このブリテン人の伝説から、アーサー王伝説が生まれ、古代日本では、古事記のスサノオによるヤマタノオロチ伝説につながっているかもしれない。ヤマタノオロチとは、爬虫類型エックスジアンと考えられるからである。ブルー・ブラッド - Wikipediaブリトン人 - Wikipediaアーサー王伝説(アーサーオウデンセツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)ヤマタノオロチ<ヤマタノオロチ伝説> - 編纂1300年を迎えた【古事記の神話】 (kankou-shimane.com)このような地球侵略の歴史から、当時はまだ現在の地球ではなく、人智学でいえば、地球と月が一緒になっていた月紀の地球だったが、聖白色同胞団の、地球人の救済により、エックスジアンは地中の核に封じ込められて、地球は月と分離したわけである。その月の分離の名残が、太平洋の海底に残っているという。奇想天外な都市伝説のような話なんで、ほとんど信じられないだろうが、いずれ人類が再び霊能力を獲得し、アカシャ(虚空)記録を読めるようになれば、明らかとなるだろう。というのも、そのような伝説が、地球に残っていることから、地球でのヒーロー像が生まれているからでもある。高次の宇宙人は、地球のこの従来のヒーロー像を改めるべき時に来ていると警告している。というのも、悪い宇宙人が、人間と同じ、物質体でいるならまだしも、人類同士で闘う意味がなく、ますます憎しみを増加させて、悪い宇宙人の罠にはまるだけだからである。悪い宇宙人は、人類に唯物論を与えて、悪い宇宙人が受肉できる物質体をつくらせようとしているからでもある。核兵器がそれである。悪い宇宙人は人間の憎しみに受肉し、支配するのである。それは従来のヒーロー像からもわかる。このヒーロー像は、人間の怒りを正当化し、人間に恐怖感を植え付け、罪悪感に誘導する。「前世」からのメッセージは、このヒーロー像が間違いだと指摘しているので、以下に抜粋紹介する。「メディアも、怒れる人々をヒーローとして映し出しています。ランボーはいつも怒り狂っています。彼が笑ったのを見たことがありません。ダーティハリーをはじめとして、警官、軍人他のアクションスターのほとんどが、怒りの泥沼にハマっています。「スタートレック」のカーク船長でさえ、四六時中怒っています。」自分たちの過ちから生まれた憎しみを、無責任に転嫁するため、仮想敵をつくりだし、憎しみの標的にして、悪役に仕立てあげ、レッテル貼りをして、同じ人類なのに、愛し合うことなく、怒りを正当化して、復讐心を受け付けるわけなんである。だから、支配欲旺盛な独裁者は、自分の失敗を棚にあげて、無関係な仮想敵に責任転嫁し、大衆に攻撃心を扇動し、怒り狂うヒーローを正当化し、恐怖心を大衆に植え付け、救世主を求める雰囲気を作り出すのである。そのようなつくられた救世主像が、偶像のニセモノであり、これが悪魔の策略であるのは、明らかだろう。従来の、この男性優位の戦いの時代の傾向、火星紀の特徴から、怒りのヒーロー像が正当化されたが、それらは人類のなかに憎しみを増やし、悪魔の支配を拡げるだけなんである。しかし、先の友好的な、高次の宇宙人の、スクリーンへの登場により、いまや火星紀の転換となる、水星紀がやってきている。従来の、怒りの火星のヒーロー像に代わり、怒りを手放す、水星のヒロイン像が求められるのではないだろうか? そのヒロイン像とは、例えば、「私、絶対失敗しないから」の女性外科医師のような強い女性では全くなく、その正反対の、常に弱者側にいて、ひたすら、虐めを耐え忍び、人間本来がもつ、愛の助け合いに希望を見い出す、おしんのような強かに生きるヒロイン像であるように思える。おしん - Wikipediaだからして、「前世」からのメッセージを読んでいて、水星紀のヒロインが、おしん、なのではないか?と思ったわけなんである。このように吾輩の日常は、「前世」からのメッセージを読みとくか、ネット界隈のフーテンの寅さんをやっている日々なのだが、シンクロ二シティというか、次のような面白い記事をみつけたので紹介する。人の意識は「死んだら終わり」じゃない…!? 最新研究でわかった「死後の感覚」「前世の記憶」をもつ人々の「驚くべき共通点」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュースもし人間も「波動」の一種なら…ある科学者が「死は終わりではない」と考える「最新科学にもとづく根拠」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュースある夏の日、「死んだはずの母」から着信が…肉親を失った人々に訪れる「あの世からのメッセージ」の正体(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース人の意識は「死んだら終わり」じゃない…!? 最新研究でわかった「死後の感覚」「前世の記憶」をもつ人々の「驚くべき共通点」(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/3) (gendai.media)シュタイナーは、約100年前に既に、カリユガの時代が終わると、次第に前世を覚えている子どもが生まれてくると、預言している。「前世」からのメッセージという本も、約20年前に出ているし、著書のブライアンワイスは、精神医学の医者で、元々は唯物論者だったのだが、催眠カウンセル中に、患者を通じて、マスターと呼んでいる、高次の知的生命体との交信に成功し、宇宙の仕組みについて、まとめたのが、この本である。この「前世」からのメッセージから、マスター、つまり高次の宇宙人、人智学でいう、天使たちの、人類への愛の指導が明らかになってくる。そこで、前回に続けて、マスターの愛の指導を抜粋し紹介する。前回は、カルマについてのマスターの愛の指導を紹介した。支払わなければいけない、憎しみの負債が、カルマで、だから、愛の使い方を間違えて、憎しみを増やさないように、自分の行動に責任をもたないといけない。カルマにより、憎しみを増やすのが悪い行為だと認識できるまで、自分が与えた憎しみを味わう人生を何度も送ることになる。だから、自分が与えた憎しみは必ず自分が味わうように返ってくる。カルマは、愛の償いである。自分が過去世で与えた憎しみを、現世の今生で味わい、怒らずに赦し、手放せるかどうかが、各個人の人生の課題なのである。だから、怒りに身を委ねてはならない。怒りを抑え、そのなかにかつての自分の行為をみれば、相手の気持ちが理解でき、自分の過去世が明らかになり、自分が何者なのかがわかる。だから、特定の宗教や人種に、次の転生で生まれてくるのに確実な方法は、その特定の宗教や人種を公然と差別し、憎しみを与えることなのである。憎しみは、差別した宗教や人種へと、未来へのタイムマシンとして、憎しみを手放すために、当人を運ぶ。時には、霊魂は、自分が最も忌み嫌う人物になることで、愛を学ぶ。このカルマの法則から、シュタイナーは、自分が前世で最も忌み嫌った憎しみの対象へと生まれ変わるので、「いかにして前世を認識するか」を書いて、自分が現世で最も忌み嫌う憎しみの対象が、自分の前世であるのを解き明かした。だから、端的にいえば、自分が嫌う人物が、自分の前世だったのである。だから、憎しみをもつのは、お門違いで、愛をもって赦さなければおかしいのである。だから、神様からすれば、「おいおい、冗談じゃないよ。お前がいま嫌って、怨んでいるのは、前世のお前だよ。」というわけなんである。嫌ったり、怨むのではなく、理解し、赦すことが、愛の学びで、いまの人生の自分に課された課題なんである。憎しみは心への暴行からはじまる。マスターと呼ばれる天使たちによると、実は、心への暴行は、幼い時からはじまっている。両親、社会、文化、宗教などの価値観を教え込まれ、天国から携えてきた叡智が抑圧されてしまう。無限大の可能性が、この世の教育により、有限なものへと抑圧されてしまう。三つ子の魂百まで、だったのが、現世の価値観から、半分の五十、もしくは三十へと抑圧されていく。この大人たちの価値観の押し付けや暴行に反抗すると、寄ってたかって、非難、侮辱などで脅かされ、仲間はずれ、無関心、身体的、精神的な虐待などが、容赦なく待ち受ける。独裁者が支配する社会では、独裁を認めさせるために、このような心への暴行が平然と行われている。この国では、令和になってようやく、コンプラが浸透し、独裁制に疑問が投げ掛かられてきた。地球人が支配欲を捨て去れば、再び自然は自然に循環するようになり、無限に創造する自然へと回帰するようになるだろう。老子は、この自然回帰を、無為自然と説いている。口がきけない赤ん坊は天使たちと交信している。やがて、言葉がわかるようになると、無限の能力を失って、前世の記憶も失われ、物質界へと適用するようになっていき、目に見える物質を求め、有限の能力へと抑圧されていく。「前世」からのメッセージの著者による催眠カウンセルで、赤ん坊のときへと誘導されると、赤ん坊が周囲の状況を超感覚的に捉えているのが明らかになるという。それは主に愛の強弱で捉えているという。人智学では、この赤ん坊の超感覚は、古代アトランティス人が持っていた霊能力に近いもので、いまの動物の直感と同じものと解き明かしている。「前世」からのメッセージでは、ユダヤ人の三歳の幼児が、古代エジプト人の前世を記憶していて、愛犬の死に際して、当時の犬のミイラの作り方、犬の死体に油のバターを塗って包帯でくるむ埋葬法、を行ったのを紹介している。恐らくこの幼児は、古代エジプト人のときに、ユダヤ人を差別したのかもしれないが、この書ではそこまで言及してないが、現世でユダヤ人になって生まれてきたのは、人種や宗教は、この世での偏った価値観からくるものだとわかる。人種や宗教だけでなく、外見などでも差別すると、差別した外見で、生まれてくるわけなんである。人種や宗教は、この世のなかでの、有限性のなかでのみ、成り立つ欠陥なのである。愛の欠陥故の差別なので、輪廻転生のカルマの法則で不足した愛の欠片の憎しみから、本来の、無限の愛を学ぶのである。あの世では、人種も宗教もなく、ただ愛の再生しかない。大抵の人間は、この世での偏った価値観で、優位に立った強者の論理で、判断し差別するから、次の転生では、劣等な弱者の立場で生まれてくるわけなんである。愛が不足するので、愛を再び補完するために、生まれ治す。だから、絶えず、自分を愛で満たすべきなのである。現世で生きると、常に愛は不足しがちなのである。だから、現世で、一番やりがちなのが金持ち目線で、貧困を差別することである。つまり貧困に生まれることは、前世で金持ちで、貧困を差別した可能性が高いわけなんである。だから、なぜ自分は金持ちに生まれなかったのかと問うなら、それは貧困を差別して、貧困を救わずに、いい気になっていた前世を送ったからである。現世で貧困をつくった原因は金持ちにあるので、来世で、自分がつくった貧困を味わう宿命の羽目になるのは、あくまで自己責任というわけなんである。だから、キリストは、金持ちは天国にはいけないよ、と述べたわけなんである。このように、本当の幸福とは、物質的富によるものではなく、つまり、外からくるものではなく、内から生まれるものであると、「前世」からのメッセージのマスターたちは説いている。そこで、マスターの教えの抜粋紹介を続ける。愛の学びには、いろいろなレベル、次元がある。肉体をもつことで学べる愛がある。痛みを感じないと学べない愛がある。肉体をもたなければ痛みはない。心の痛み、というが、それは肉体を持つが故の苦悩である。肉体をもたず、霊魂のままでいるときは、創造に限界がなく、再生しかない。肉体をもつとき、人間は痛みを感じ、傷つくのが可能となる。霊魂のときは、その感覚はなく、幸福感と安らぎの感覚しかない。だから、霊魂は再生のときで、そのときの交流は、この世とは全く異なる。肉体をもったときだけ、痛みを感じ、傷ついたり、失望したり、失恋したり、という愛のレッスンを受けるための、人間関係が体験できる。この貴重な愛の体験は、この世でしかできないものなのである。このように、宇宙はありとあらゆる存在が互いに愛しあえるように、時空や、あらゆる次元から、時間を進めている、といえるかもしれない。神から生まれて、神に回帰するように、キリストと共に、この世で死んで、生まれ変わり、聖霊の導きにより、神の子が神になるように、人類は祈るべきなのである。今回はここまでにしたい。
2024年09月10日
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フーテンの寅さんにどことなく憧れていたせいかもしれないが、いまはネット渡世の人生を送っているのだが、次のような「これが何にみえる?」という類の心理テストが、よく当たっているような気がするのは気のせいなのか、面白いので紹介したい。これが何に見える?あなたの「要領の良さ」がわかる心理テスト | TRILL【トリル】 (trilltrill.jp)この何にみえる?の心理テストは、自分のもつ心のなかの表象を、上手く描き出す自己暗示を利用しているようにもみえる。心のなかの表象とは、真言宗のマントラの梵語で、霊言といわれるものである。人智学でいえば、潜在意識の記憶で、感覚記憶、もしくは感受記憶と呼ばれている。信仰は、この感受記憶による。また、この世での経験からくる通常の覚醒意識での記憶は、悟性記憶、もしくは知識記憶と呼んでいる。だから、通常の、知識の記憶を学習しても、信仰心は生まれないから、唯物論は無神論なのである。サンスクリット - Wikipedia梵字とは?お墓で見かける理由 | お墓きわめびとの会 (ohakakiwame.jp)アーリア人 - Wikipedia人智学では、現代はアーリア文化期といわれ、アーリアの源流は、古代インド文化を意味する。古代インド人はヴァーダンダや、サンキヤ、ヨーガなどで、あの世と交信し、霊能力を身に着けていたが、やがて、古代ペルシャ、古代エジプト、古代ギリシアと人間が、夜から昼へと覚醒意識から外界への認識を獲得していくにつれて、潜在意識中での交信の霊能力を失い、霊語の梵語を読めなくなって、一部の秘儀参入者や霊能者だけしか読めず、使われなくなって、いわゆる専門用語となってしまい、それも完全に読み解けなくなって、古代ローマの暗黒時代に、太陽霊キリストが、直に人類に教えを説くために、降臨し、当時の世俗語で、聖書を書き換えたが、それもルシファーのカトリック教会によって唯物化されてしまい、中世のカリユガを得て、それを再び読み解く準備がはじまるのが、現代のアーリア文化期の課題なのであるらしい。早い話、古代インドには、古代アトランティス時代に読み解かれていた、宇宙の仕組みを説いたエーテル文化を記録した古代文書というか、いまでいう先の3つの古代インドの哲学があったのだが、それは聖書に記されたノアに引き継がれ、ノアは、寡婦の子マヌでもあり、ノアの箱舟とは、その哲学のことで、形として外に現れたものが、人間の肉体を意味するらしい。聖書に記されたキュビット云々の寸法は、人体の大きさを示したものらしい。このノアの箱舟は、ダビンチの人体図としても有名である。ウィトルウィウス的人体図 - Wikipediaだからして、古代インド文化は、内の心の文化で、次の古代ペルシャ文化は、外の肉体への文化、また次の古代エジプト文化は、内の心の文化で、また次の古代ギリシア文化は、外の肉体への文化、そして、我々の現代のアーリア文化では再び、古代インド文化と回帰するための、内の心の文化へと転換すべきなのだが、ようやくカリユガの時代が終わり、その浮上期に向かっているといえるのかもしれない。人智学の、この文化期の名付け方は、人類の精神の進化を基に、つまり霊魂の発展段階について、命名しているようで、だから、古代ギリシア時代の終わりから、現代までは、ほとんど完全に霊能力が失われ、人類の進化がほとんど停滞し、堕天使の配下にあるのを意味しているようである。端的にいえば、人類は堕天使によって、欲望につられて、地上へと誘拐されている状態にあるわけで、堕天使の配下にあるので、唯一神に従わなくてもよい、自由な時代ともいわれる。【シュタイナー】魂の三位一体構造について~感覚魂・悟性魂・意識魂~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)しかし、霊魂の進化からいえば、古代インドから古代エジプトまでが感受魂(感覚魂)の開発期、古代ギリシアが、悟性魂の開発期、そして、我々のアーリア文化期が、意識魂の開発期と、宇宙の進化計画から預言されている。上に紹介した、ヌーソロジーは、上手く人智学を読み解いているので、参考になるので、抜粋して紹介する。 ☆ ☆ ☆霊的世界は、言葉にできない世界です。その言葉にできない世界を、何とか言葉で表現しようとしたのが「哲学」です。シュタイナー宇宙論では、紀元前8世紀(B.C.747)以降から西暦15世紀までを「悟性魂の時代」と呼んでいます。西暦15世紀に悟性魂は成熟をみせ、その後「意識魂」と呼ばれる魂が成長をはじめます。意識魂は霊的世界から直感を受けとり、悟性魂によって思考してきた記憶とともに、永遠の真理を形成します。悟性魂は、まだ直感的に霊的世界とのつながりを持っている状態でしたが、この意識魂はダイレクトに霊的世界と接触しはじめます。さらに意識魂は、自我の成熟をもたらす役割を持っているため、悟性魂とタッグを組んで真の自我性を作り上げていきます。ヌーソロジーやシュタイナー思想で「霊性回帰には思考することが大切だよ」と学んできましたが、その理由も、悟性魂によって思考することで真の自我性が形成されるからなんですね。悟性魂によって記憶されてきた過去の輪廻における学びを、この意識魂によって本格的に霊性回帰へつなげていくという感じなのでしょう。意識魂は15世紀から成長をはじめ、西暦3,573年まで続くようです。この時代は第五(アーリア)文化期にあたり、この時代のことを「意識魂の時代」と呼びます。今まさに、私たちが生きている時代がこの「意識魂の時代」になります。そして15世紀からはじまった意識魂の時代は、三つの魂のうち、もっとも霊的進化に直結する「最後の魂」「魂の核」を育てる大切な時代となります。 ☆ ☆ ☆上述の解説のほうがわかりやすいので、上に紹介したサイトはおススメである。人智学をわかりやすく現代語に翻訳できている。この解説のように、最後の魂、魂の核が、人間の自我で、キリストが説いた神の子なのである。我々は、いま自分のなかの、この神の子を育てるために、自分の人生を生きて自分をつくりかえて、地球に生きながら、地球をつくりかえているわけなんである。だから、いま自分が何をするかで、明日の自分と、将来の地球の運命が決まり、つくられるのである。神の子を大切に育てないと、悪魔の子にもなってしまうわけなんである。人智学は、この神の子の育てかたを、カルマの法則と、輪廻転生から、解き明かしている。さて、人智学から解き明かされる、あの世には、国境など人種などもない。ただ愛をどれだけ学んでいるかの違いしかない。この世に転生したときだけ、多様な愛を学ぶために、ある国のある人種の肉体をもって生まれてくるだけである。だから、秘教では、肉体は、愛の教科書と説いている。愛の教科書を通じて、愛を深めないと、逆の憎しみに変わり、論争、闘争、戦争になってしまう。また愛の教科書を使って、人を差別したり、裁こうとすると、自分が憎しみにより裁かれる。だから、お釈迦さんは、肉体への執着心を解き放て、と説いている。肉体を比較したり、見せびらかすな、と説いてもいる。だから、出家とは、国や民族に拘るな、ということである。慈愛が足りているかどうかである。というのも、あの世には、国境や人種や民族などないからである。ただ、愛の強弱と、愛を深く学んでいるか、まだまだ浅いのか、の違いでしかない。愛の巡り合わせというか、先日、掃除をしていると、「前世」からのメッセージ、という本が出てきた。人智学を学び始めた前に出逢った本である。この本を読み返してみると、自我の内外の二元性を成立させるために輪廻転生がある、のに気づかされる。「前世」からのメッセージ | ブライアン・L・ワイス著 山川紘矢訳 山川亜希子訳 | 書籍 | PHP研究所人智学では、輪廻転生を、おおまかに次のように解き明かしている。現世での外界での自我の経験が、次の転生のアストラル体=こころをつくり、アストラル体がこの人生で獲得したものが、次の転生で、エーテル体に表現され、エーテル体の傾向になり、次の転生で、この傾向から、物質体に現れ、物質体での行為が、次の転生で、自分の人生として、自分に帰ってくる。まとめると、現世での外界での自我=霊の経験 ↓ 次の転生でのアストラル体=魂 ↓ 次の次の転生でのエーテル体=幽体 ↓ 次の次の次の転生での物質体=肉体 ↓ 次の次の次の次の転生での自我への宿命⇒霊の経験だから、今生での自我の経験は、4回目の転生で、自分の人生となり、自我を発展させる課題として、宿命となって戻ってくる。いわば4年生の学校ともいえるので、地球大学というべきかもしれない。この4回の転生を繰り返し、自分をつくりかえ、自我を、宇宙の進化にあわせて発展させていく。だから、カルマの業は、巡り巡る輪廻転生なので、マニ車とも呼ばれている。このマニ車がいわばノアの箱舟である。そして、このノアの箱舟が、人智学でいう、人体の4つの体、肉体、エーテル体、アストラル体、自我のことでもある。マニ車は、その4つの体が、カルマの法則で、輪廻転生していくのを意味している。マニ車 - Wikipediaこのように人智学は、カルマの法則と輪廻転生を、概略的に解き明かしているが、先に紹介した「前世」からのメッセージ、という本には、肉体を持つ必要がないマスターと呼んでいる天使たちによる、具体的な教えが説かれている。非常に興味深いので、以下に抜粋し紹介する。 ☆ ☆ ☆(この世での)我々の使命は学ぶことである。知ることによって、神に近づく。我々はほとんど何も知らない。知ることによって、我々は神に近づき、その後に、(あの世で)休息できる。それから、我々は人々を教え、助けるために、(この世に)戻ってくるこれはソクラテスの無知の知である。我々はこの地上にいる間に多くの段階を通過する。赤ん坊から、子ども、子どもから成人へ、そして成人から老人と、人体をつくりかえていく。そして、老人からもう一歩進んで、肉体を脱ぎ捨てて、霊界へと旅立つ。我々は、このような道を歩み、霊魂の成長を止めることはなく、成長し続ける。霊界に行っても成長や発展を続け、多様な段階を通過していく。霊界に行くとき、肉体は燃え尽きる。そして、再生(死後の人生の振り返り)の段階、学び(人生で自分が他者にした行為の反省)の段階、決断(欲界で欲望全てを捨てる)の段階を通過していく。そして、いつどこにどんな理由で、またこの世に転生するのか、あの世で、決断する(最後の審判)。ある者は、もうこの世には戻らないのを選択する。すなわち、他の霊魂の発展を助ける段階に進む。それらの霊(自我)は霊体のままである。ある者は他の者よりも生まれ変わるまでの期間が長い。これは全て、愛の学びと、不断の、奥深い、永遠の愛への成長のためである。我々の肉体は、この地上にいる間の乗り物なのである。永久に存在し続けるのは、我々の霊魂(自我)で、神から授かった生命、愛の灯、炎なのである。人間はこの三次元の世界にやってきて、いつそこを離れるのか、自分で選択する。この世に送られてきた目的を果たしたとき、我々は、自分を知る。そして、あの世で、霊魂を休息させ、活力を取り戻したあと、再び肉体に戻るかどうか、の選択が許される。霊界には7段階の世界がある(これについては以下のサイトを参照、分類は諸説ある。人智学では便宜上、天体の、月、水、金、火、木、土、太陽で示している)。我々は、この世に戻ってくる前に、この7つの階層を通過しないといけない。7つの階層の1つは次の転生を決める世界(最後の審判)である。そこで自分に相応しい転生の時が充ちるまで、待機し、休息する。その天国で、次の転生にどの資質をもっていくか、決定される。霊格の段階(魂のレベル・階層)一覧と霊格を上げるための公式とは? | ネオ仏法 (neo-buddhism.com)カルマと学び我々は、自分の間違えた愛の表現や不正の行為により、支払わねばならない、憎しみの負債を負っている。もし今生で、支払えない場合は、次の転生に持ち越していく。しかし、いつか支払わねばならないのは、それが憎しみだからである。憎しみを支払うことで、霊魂は愛に目覚め、我々は成長する。だから間違えや不正に伴った憎しみは、愛への糧となる。ある霊魂は、他の霊魂よりも成長が早い。もし堕天使に誘惑され、その負債を返すのを拒否すると、堕天使とともに、内省の世界(独房=地獄)に送られる。そこで、負債返却の相手が会いにくるまで、暮らすことになる。そして、負債相手と共に、同時期に物質界に戻れるときに、戻るのが許される。しかし、戻る時間は、自分たちで決めないといけない。また、負債を返すために何をすべきかも自分で決めないといけない。全ての約束を果たし、全ての負債を返すために、宇宙には、多種多様の人生が用意されている。今回はここまでにしたい。
2024年09月05日
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いまや死語となっているネットサーフィンをしていて、面白い記事をみつけた。それは、以下の、「生きているうちに一度は経験したほうがいいこと7選」である。生きているうちに一度は経験したほうがいいこと7選(えらせん) - エキスパート - Yahoo!ニュース1.海外旅行言葉も文化も違う場所に行くことは、自分の価値観を広げてくれます。地図で見ていた場所を実際に歩き、現地の人と交流することで、世界の広さを実感できますよね。また、日本の良さを再認識する機会にも。初めは不安かもしれませんが、その不安を乗り越えた先にある発見や感動は、きっと一生の思い出になります。2.大恋愛からの大失恋「恋は盲目」という言葉がありますが、周りが見えなくなるほどの恋愛したことありますか?恋に夢中になり、そして大きな失恋を経験することは、人間として成長する大切な経験です。立ち直れないほど辛いかもしれませんが、自分自身をより理解し、他人の気持ちに寄り添う力が養われます。この経験は、将来一生添い遂げたいと思う人との関係を築くために必要不可欠です。3.夢への無謀な挑戦「無理だ」と周りに言われるような大きな夢に挑戦することは、とてもワクワクすること。たとえ結果が思うようにならなくても、その過程で得られる経験、知識、人との出会いは、かけがえのないものになります。また、自分の限界を超えようとする中で、思わぬ才能を発見するかもしれません。限界を勝手に決めてやる前から諦めると、死ぬ前に後悔しますよ。4.感情が爆発する大喧嘩普段は抑えている感情を、一度くらい全て吐き出す経験もしておきましょう。本音をぶつけ合うことで、お互いをより深く理解し合えるかも。また、自分の本当の気持ちに気づくきっかけにもなります。ただし、相手を傷つけすぎないよう注意です。5.言い訳しようのない大失敗誰にも言い訳できないような大きな失敗をすることは、とても辛い経験です。でも、自分の非認め、謝罪し、そこから立ち直る過程は、人間としての深みを増してくれます。謙虚さや責任感を学び、また周りの人の温かさを感じることもあるはず。失敗から学ぶことで、より賢明な判断ができるようになります。6.心が震えるほどの真剣勝負スポーツの試合や仕事のプレゼンなど…。全力を尽くして何かに挑む経験は、一生ものです。勝っても負けても、その過程で得られる達成感や充実感は何物にも代えがたい。また、極限状態で発揮される自分の力を知ることで、自信にもつながります。7.目の前が真っ暗になる大挫折大きな挫折を経験すると、希望を失い絶望を味わうかもしれません。しかし、そこから立ち直る過程で成長できるもの。周りの人のサポートの大切さを知ったり、自分の新たな可能性に気づいたりすることもありますよね。挫折を乗り越えた経験は、今後困難に直面したときの大きな支えになります。 ☆ ☆ ☆自分の半世紀を越える人生を振り返ると、このサイトの7選は、ほぼ経験できた。海外旅行は米国西海岸旅行をしたし、大失恋といえるほどのものではないが、それなりの失恋は経験し、夢への無謀な挑戦は、いまも続けているし、大喧嘩は、職場のパワハラ上司としたこともあり、大失敗も、仕事でしたことがあり、左遷されたし、真剣勝負はギャンブルとして行っているし、大挫折は、人並みの左遷で味わった。これら7選をまとめると、いわば価値観を転換させ、生を実感させる経験といえるかもしれない。換言すれば、自己の成長の糧となる経験といえるだろう。死の一歩手前というか、従来の自己のなかの価値観に転換を迫る出来事といえるだろう。自分はモノではなく、生物なんだ、いま自分は生きているんだと、実感させてくれる体験でもある。この7選サイトはまだ他にもあり、面白いので、紹介したい。ネットサーフィンしていると、よく仕事に悩んでいる人のコメントに遭遇するが、以下の「仕事がデキる人から辞めていくヤバい職場7選」は参考になるかもしれない。仕事がデキる人から辞めていくヤバい職場7選(えらせん) - エキスパート - Yahoo!ニュース1.ムダな会議が多すぎる長時間の会議で疲れ果てて、肝心の仕事ができない...なんて経験ありませんか?デキる人ほど、時間の無駄遣いに敏感です。会議の目的を明確にして、効率的に進める工夫が必要かもしれません。2.どうでもいい派閥がある仕事の能力よりもどの派閥に属しているかで評価が変わるなんて、モチベーション下がりますよね。デキる人ほど、公平な評価を求めます。能力や成果で評価される環境じゃないと、優秀な人材はどんどん離れていってしまうんです。3.ポンコツから出世するコネや年功序列で昇進が決まるのは、デキる人にとっては耐えられません。「仕事ができるから」ってどんどん仕事を押し付けられるのに、努力が認められない環境ではモチベーションを保つのが難しいです。公平な評価システムがあることが大切です。4.給料は変わらず責任だけ増える責任が増えるのはキャリアアップの証。でも、それに見合った待遇がないのは問題です。デキる人ほど、自分の価値をよく理解しています。適切な評価と報酬がないと、より良い環境を求めて転職してしまうかもしれません。5.ミスに対して異常にうるさいもちろん、ミスは減らすべきです。でも、ミスを過度に責めると、チャレンジする気持ちがなくなってしまいます。デキる人ほど、新しいことに挑戦したいと思っています。ミスを恐れずチャレンジできる環境が大切です。6.プライベートにシワが寄りがち仕事とプライベートのバランスって大切ですよね。常に仕事のことで頭がいっぱいだと、新しいアイデアも生まれません。デキる人ほど、オフの時間を大切にします。ワークライフバランスが取れる環境が必要です。7.遅刻は許されないのに残業は当たり前これって、なんだか矛盾してませんか?時間にシビアなのはいいことですが、それなら定時で帰ることにも理解を示すべきです。デキる人ほど、効率よく仕事をこなします。残業が当たり前の環境では、その能力を十分に発揮できません。このような職場、特にポンコツがトップの部署も経験したが、このような職場の一番の問題は、自分が常に正しいというポンコツ独裁者が至る所にいるのが挙げられる。自分の発言が周囲にどう影響するのかさえも、考えられない馬鹿なんで、このような独裁者が権力を握ると、周囲の調整能力が問われ、お馬鹿な独裁者は、調整能力についても自分の意向がわずかに抑制されるので、邪魔なものと否定し、全体として調整能力が欠けてしまい、独裁者の独断で決まってしまうので、無駄な会議が増えて、独裁者の我儘に振り回されて、ブルシットジョブが蔓延し、仕事のデキる人は、馬鹿馬鹿しくて、職場を辞めてしまう。一番の問題は、ポンコツは自分をデキると思い込んでいるので、つまり周囲の環境が見渡せてないから、周囲の人間の長所と短所すら把握できないから、ポンコツなんである。私見だが、仕事がデキる人とは周囲の環境の細やかな違いが瞬時に把握デキる人で、なぜそうなったかが、理論的に探求できる人で、自分の欠点と、自分ができない部分をしっかりと把握している人のことなのである。常に問題点を把握して、どのような経緯で、どの人が対処するのか、常に観察できる人なのである。だから、予め問題点への先見力が磨かれるので、大事になる前に、小事で処理できる。問題が明るみになる前に事前に処理するので、後で騒いだりは決してしない。大事になって騒いで説教沙汰にするのがポンコツの為せる業で、このようなポンコツは無責任なので、他者に責任を擦り付けるのを得意とし、だから常に権力者の太鼓持ちをしているのだが、周囲はそのゴマすりを知っているので、嫌われ者なのである。逆に、この7選の反面をみれば、例えば、必要な会議しかやらない、派閥がない、ポンコツは干される、給料は成果や責任に見合い増える、ミスは指摘されるが、次の教訓として対処される、プライベートは尊重される、遅刻は予め理由を連絡し、残業は理由がない限り、できない、という感じになるかもしれないが、理想的な職場であるのがわかるだろう。このような職場について、前回、ブルシットジョブを紹介したが、このような無駄な仕事を行う職場をなくしていかないと、人類は人間関係を破壊して戦争に向かい、人災を多発させ、地球の環境を破壊して、天災を多発させていくのは自明の理だろう。現世で生きるためには、ある程度の経済力が必要で、生活を安定させるには仕事をしなければならないが、仕事は、自己開発や、自己発見の場も兼ねていることを教えてくれる記事でもある。つまり、これら2つの7選から、生きるとは、生物の使命といえるものかもしれない。生物の生きる目的とは何なのか?改めて考えさせる記事でもある。生物は生物から発生する、と生物の原則を示したのは、フランチェスコ・レディだが、現代の物質科学は、唯物論に洗脳されているために、物質から生物を生み出すために、自然発生説を実験により検証しようとしているのだから、もはや宗教よりも宗教らしい物質教といえる。フランチェスコ・レディ - Wikipedia物質科学ではアリストテレスの自然発生説を唯物論で曲解し、否定していながら、リン酸の物資から、生命を生み出そうと物質と格闘する姿は悪魔に唆され、哀れと言うほかはない。それもこれも、生命が、誕生から、死までの一回きりの存在と思い込んでいるからにすぎない。死んだら無になる、という思い込みの為せる業である。では物質的に、無とは何なのか、生命の研究のために、物質科学は答えを出さないとおかしい。生命の起源 - Wikipediaつまり、物質的に無とは、物質そのものの否定であり、物質科学による物質科学の否定で、それが物質科学の、死が無である、という見解にあるから、自己矛盾なんである。それゆえに、物質科学は、非物質なる物質を、例えば、物質波などを考案しようとしているのだから、非常に滑稽なんである。では、時空間は物質なのだろうか?という、これまた、死が無である、問題に遭遇する。時空間が物質でない、無なので、真空のエネルギーという概念を持ち出す。そうすると、死が無なために、無の真空のエネルギーから、生命が生まれると、物質的に考えるしかなくなる。要するに、物質とは正反対の、非物質性を物質で検証しようとしているわけで、死が無である、論理の堂々巡りをしているわけなんである。ダークエネルギー - Wikipedia真空のエネルギー | 天文学辞典 (astro-dic.jp)だから、物質科学は、悪魔により、地上の物質界を堂々巡りさせられている論理に、自ら陥っているわけなんである。というのも、物質科学では、エネルギーを物質に変換しないと検証できないからである。目にみえないもの、観測できないものは、無とするしかないからである。数学的には、無限大の、特異点を扱う羽目に陥るので、論理の堂々巡りに陥らないように、予め、観測データから、物質性を見積もり、担保しておく手法が、場の量子論の繰り込み理論である。繰り込み - Wikipedia繰り込み理論を、生命論に発展させると、リン酸物質の、DNAの遺伝子情報理論になるわけで、遺伝子という情報学を持ち出して、死が無になるのを回避して、親から子へと物質性がDNAにより受け継がれることで、無限大の死を回避しているわけなんである。そして、生命がエネルギーから生まれるのではなく、DNAによる遺伝性に帰して、巧みに非物質性に言及せずに誤魔化し、還元しているわけなんである。このように、物質科学では、死の無の論理の堂々巡り、いわゆる将棋の千日手にならないように、無に言及せずに、無を回避し、無をなきものにするわけなんである。このような死の無からもわかるが、物質科学からも、DNAを持ち出さずに、また別の事実、つまり生命が霊という無限大のエネルギーから生まれる、のが想定できるわけで、一回の誕生から死までの生命環に拘らなければ、生命が霊から無限大に生まれ、カルマと輪廻転生を繰り返すことが考えられるわけなんである。つまり、このような知性の行きつく先が、人智学が説いている、仏教でも説かれているが、霊的な真実なんである。DNAは、一回の生に拘るあまりに、親から子への遺伝として、死の無を回避するが、そのDNAの存在自体が、何世代もの生命が生まれては死んでまた生まれては死んでの繰り返しを、物質的に肯定し、つまり、カルマと輪廻転生を物証する、非物質的存在なのである。そして、その観測が、量子力学により補完されるわけなんである。恐らく、量子コンピュータが発展すれば、カルマと輪廻転生が、DNA変異により証明されるかもしれない。さて、現代科学が否定している、アリストテレスの自然発生説を、人智学により解き明かすと、それは、自我発生説なのがわかる。簡単にいえば、生命体は、自我により生まれるというもので、現代科学的にいうなら、「我ある」という自意識により、生命は生まれ、変化する、という意味になるだろう。この「我ある」から、エヘイエ、アシェル、エヘイエが、「我は我から生まれる」、という意味で、霊的真実を説いているのがわかる。つまり、我とは、神の意識であり、人間は、この神の、「我ある」意識から生まれたわけなんである。高次の宇宙人が、地球人に教えたいのが、この神の「我ある」意識で、この意識が無限大で、あらゆる能力をもち、不可能を可能にする自由を秘めている、最高位の生命体の徳目なのである。そして、地球人は、この最高位の徳目を、つまり、愛を用いて、地球を作り変える使命を帯びている、ということなんである。そして、この徳目は、お釈迦様がこの地に生まれた時に唱えた、「天上天下唯我独尊」でもある。宇宙は「我ある」意識の集合体からなっている、という真実なのである。我ある、というのを肯定するのが善意識で、我ある、のを否定するのが、悪意識である。悪魔は、人間に、肉体を与え、この「我ある」、意識を囲い込んで、制限している、のが、キリスト教が説く、原罪なんである。本来は、肉体がなくても、「我ある」意識は存在するのに、肉体しかみえないことで、「我ある」意識をなきものと、自らで否定しているわけなんである。死を無だと思い込んでいるので、太陽霊キリストが降臨して、「死は無」ではないと、死んで、弟子たちに、肉体を失ったが、「我ある」意識を通じて、再生してみせたわけなんである。そして、「我ある」意識を説きなさいと、弟子たちに命じて、新訳聖書が生まれたわけなんである。このように、人智学は、人生の謎への答えを解き明かしている。「我ある」の自意識を発展させ、互いの自意識を多様的に組み合わせ、バランスをとりながら、発展させるのが、人生の課題である。DNAは、我ある意識を記述し、いわば自分史を記録した媒体でしかない。自意識をどのように発展し、どのような能力を獲得するのかは、当人に委ねられている。善に活用すること、あるいはまた悪に陥ることも、当人の自由の意志に帰するのが、「我ある」意識の特徴でもある。だから、我々は皆、キリストが言ったように、神の子なのである。人間が神の子であるのは、今日、自分が為したことが、明日の自分をつくることからもわかる。なぜ、金持ちに生まれなかったのか、こんな親の子に生まれたくなかったとか、自分の親は選べないと、人生について、文句を言うのが、現代人には、もはや権利や言論の自由での習わしみたいになっているが、それらは、唯物論で人生を捉えてきたせいなのが、人智学の、人生への正答から明らかになる。人智学によれば、いまの自分の行為が、次の自分をつくるように、前世での自分の自由な選択が、現世での自分を巡る人間関係や環境をつくっている、というのである。つまり、なぜ、今の自分は自分なのか?という答えは、前世で、自分が、自分を選んだからである、というわけなんである。なぜ、自分は金持ちでないのか、それは前世で金持ちでないのを選択したからであり、つまり、前世で金持ちが嫌になったか、金銭に恵まれる生活に飽きた可能性が高いわけなんである。同様に、なぜ、いまの親が、親なのかは、前世で自分が、親友のなかから、来世で自分の親となるのを望み、選択したからなのである。前世がみえなくなったので、前世で自分が選択したのを忘れてしまい、文句をいっているだけなんである。だから、神様にしたら、お前が選んだくせに文句をいうのはお門違いで、自分に文句をいいなさい、というわけなんである。要するに、いまの自分の人生は、全て前世で自分で選択した結果なのである。だから、自分の人生に文句を言う奴は、自分がわかっていないポンコツなんである。俗にいう、自意識過剰のエゴイストなんである。日本語は、霊能者がつくったのかわからないが、非常にわかりやすくできているが、特に自業自得という、日本語は、カルマの法則の自業と、輪廻転生の自得を上手く表現している。つまり、自業自得の人生なんである。ということは、現世での選択と振る舞いの生き方が、来世の自分の人生をつくるわけなんである。だから、仏教では、善人になりたいなら、善行しなさい、と説くわけなんである。ただし口だけで唱えていても、来世では、善人にはなれない。言葉は、現世での一回の人生でしか通用しないからである。しかも、現世の言葉は、物質界を表現するのに適したものなので、言葉遣いから、来世の人生をつくることはできないが、その点で、日本語は、仏教の経典の、古代インドの霊的なサンスクリッド語などから派生しているようで、自業自得などが、霊的真実を加味されてつくられているようでもある。真言宗では、梵語のマントラがあり、日本語には、霊言として知られているが、それは霊言を話すことで、善行の代わりをなし、来世の善人に転生するのを願った言葉なのかもしれない。だから、京都のような仏教都市では、京言葉として、相手を建てることで、来世で自分を建てる、霊言による、建前が発達したのかもしれない。だから京言葉を使うには、ちょっとした心遣いの、相手の気持ちを察する霊能力を要するわけなんである。現代人は唯物論に洗脳されているので、この心遣いを嫌味と捉えてしまうのも致し方ないのかもしれない。実際に腹黒い俗物のような京都人もいるからかもね。仏教用語 (sanjobetsuin.or.jp)だから、仏教都市の京都人の模範となっているのが、善因善果、悪因悪果であるのが、人智学からも読み解けるわけなんである。ちなみに、東京は何の都市なのか、といえば、どうやら、明治神道都市であるようだ。東京の元は、厭離穢土の、徳川幕府の江戸城にあり、天海の道教由来の古神道にあるようで、京都から遷都して、実際は、帝の行幸という形だが、徳川政権の白の薬師寺系仏教から、道教の古神道からの明治帝による明治神道に代わったようである。明治帝が霊能者であったかどうかは定かではないが、宮内庁の一派から、そのような話が民間にも伝え漏れている。大正帝では、霊的に狂人の霊媒体質が生まれたので、同族婚をやめて、異族婚になったという噂もあるが、都市伝説の類であるようだ。この幕末の混乱の時代には、明治帝替え玉説もあり、フルベッキの写真なども、以前紹介したが、日ユ同祖論などと相まって、日本の国体を南北朝の古代から世界史的に研究しないとわからない。一説によれば、神道も仏教も、太陽信仰からきていて、太陽霊を日本語では、八百万の八幡と表現したようである。スペイン語で、八幡は、ヤハンとなり、ジャパンとなったようである。日本という国名は、陰陽師由来の道教の、陰と陽の二本(にほん)ともとれるし、日の本の、聖徳太子で有名な、太陽信仰にもとれるし、大和のやまとのヤハンが訛って、二ホンにあるとも多様な説があるが、前回紹介した、奈良タイムの、千年先を見通す、千里眼による政治を模範としていた事情や、神道の巫女からもわかるが、霊能力の養成国だったのがわかる。なによりも、帝をミカドと呼び、イスラエルの東征した十民族のガド族に由来するという都市伝説もあり、三種の神器説とともに有名だが、人智学によれば、現世での信仰心から、霊界を研究することが、次の転生で、霊能力を獲得する糧となると説いているので、この日本という国は、古来から霊能研究国家であったのは、疑いの余地もないだろう。千里眼 - Wikipediaだから、西郷南洲などは、大久保一蔵を、欧州病に罹った患者と呼んでいたようで、欧州洋行組がいないうちに、明治帝に奏上し共に国体を決めてしまおうと取り図ったが、大隈が告げ口して、慌てて帰国した大久保に権力を握られて、島津斉彬が掲げていたアジア連合構想が阻止されてしまい、ついには大久保‐伊藤に強請られ、明治帝にも裏切られ、下野してしまう構図は、アジア連合を阻む西洋の唯物論による軍事的な軛という、仲間を裏切り、西欧に自分を売り込む毒饅頭野郎がいる、現代の政局の構図にも反映しているといえるかもしれない。このようなユダのような、裏切り者は、キリストの最後の晩餐において、赦されて明らかになっているが、その名の通りの、彷徨えるユダヤ人としても有名で、仲間を裏切った罪から、永遠に逃れられないのは、明らかである。というのも、キリストは、ユダ当人の自由な意志を認め、赦したわけで、つまり悪魔に加担するのを赦したのだが、裏切りを赦したわけではないから、ユダは、永遠に転生し続けても天国にはいけない悪魔の手下になりさがるわけなんである。神を背くことは赦されるが、背いた罪からは、永遠に逃れられないのは、なによりも、自分をつくるのが、自分の選択であるのだから、自業自得なんである。裏切り者は罰せられはしないが、その罪から永遠に逃れることはできず、自分を永遠と裏切り続ける、天邪鬼となるわけである。だから、ユダはキリストを裏切り、後の転生でも、アウグスティヌスとなって、ローマ帝国を裏切り、常に裏切り続ける人生を送るわけなんである。人生をキリストを模範に生きるか、ユダのような裏切り者として生きるかは、あなた次第なのである。
2024年09月03日
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先日、TVで、「奈良タイム」なるものを紹介していた。最近、巷では、大河ドラマの影響もあり、奈良ブームが起こっているようである。その番組では「奈良タイム」を、千年の悠久の時間までを見通す先見力として紹介していた。国家100年の大計といわれるが、奈良時代では、千年の大計で仕事をしていたというのだから驚きである。奈良タイムとは、時間のスパンが、現代の都会とは違い、千年先までを見通して、なんか面白そうとか、儲かりそうとかの、一時的な欲望から突き動かされるのではなく、千年のなかで、本当に重要な意味をもつ仕事なのか、色々多角的に吟味して、皆が納得するまで、話し合って進む、合議制のようである。現代人のような数時間後や、数年後しか見通さずに、すぐに結果を求め、判断しがちな、日々時間に追われて暮らす、都会型の、せっかちな体質には、全く合わない、悠長な感覚といえるかもしれない。さて、前回はハンマーシュタインの軍隊の組織論から、資本主義のブルシットジョブ(牛糞仕事)の弊害を経て、お釈迦さんの8種類の友人像を紹介したが、今回は、利口と愚かさの違いについて、改めて考えてみる。利口と愚かさの違いを簡単にいえば、無駄な事をしない、つまり、ブルシットジョブをつくらないし、しないといえるだろう。ハンマーの組織論で、問題とされた、愚かな働き者とは、無駄なブルシットジョブをつくる人といえる。そもそも無駄なものとは何か? 老子の説く無為自然から考えてみる。小さな無理や無駄を積み重ねてはいませんか?(『老子』二十四章)|凪平コウ@古典・歴史愛好家 (note.com)変なプライドは捨てて、素朴な気持ちで自分らしさを大事にしよう(『老子』二十四章)|凪平コウ@古典・歴史愛好家 (note.com)老子第二十四章 : 前崎鼎之 (exblog.jp)老子 (coocan.jp)https://blog.mage8.com/roushi-24(注意;釣り広告が出る場合もある。出たら、タスクマネージャーで、タスク=ブラウザを終了させる。こういう無駄な広告も資本主義の欠点)以下は上記のサイトからの抜粋 ☆ ☆ ☆企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。自ら見るものは明らかならず、自ら是とする者は彰われず。自ら伐(ほこ)る者は功無く、自ら矜(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。其の道に在る也、余食、贅行と曰う。物或いは之を悪(にく)む。故に有道者は処(お)らず。 つま先で立つ者はずっと立っては居られず、大股で歩く者は遠くまで行けない。自ら見識有るものとする者がものごとがよく見えず、みずから正しいとする者は是非が彰らかにできない。みずから功を誇る者は功がなくなり、みずから才知を誇る者は長つづきしない。 これらは、道の観点からいうと、余った食べもの、よけいな降るまいという。人々はだれでもそれらが嫌いだ。だから、道を身につけた者は、そんなことはしないのだ。 背伸びをしようと爪先立ちをしている者は長く立っていられない。早く歩こうと大股で歩く者は長く歩いていられない。自分が目立とうとする者は誰からも注目されないし、自分の意見を押し付ける様な者は人から認められない。自分の功績を自慢する様な者は人から称えられないし、この様な者は長続きしない。こういう人間の行為を「道」の観点から言うと「余計な食べ物、余計な振る舞い」と言うのである。誰もがお腹一杯食べた後にさらに食べたいと思わない様に、「道」を知った人間はそんな事はしないものだ。 ☆ ☆ ☆以上のサイトから、要約すると、長い目でみれば、自分らしく生きるのが、もっとも無為自然の、輪廻転生の、カルマの法則に叶う、と老子は説いているようである。だから、利口な人は、自分を知っているのである。自分を知っているとは、人智学でいえば、自分の前世の行為を知っていることで、自分がなぜ生まれ、どのような課題を前世から持ち越して、その課題を克服するべきか、を理解しているから、自分の人生を真剣に生き、精進するので、余計な、無駄なことはしないわけなんである。だから、愚かな人とは、一言でいえば、自分を知らない、といえるかもしれない。自分を知らないからといって、自分ばかりをみていても、自分はかえってわからなくなる。周囲がみえ、周囲との人間関係やつながりがみえるから、そのつながりを通じて、自分がそのなかから、浮かび上がってくる。例えば、勝海舟が米国視察後に、幕府の上司に、米国との違いを聞かれ、ほとんど国としての違いはないが、唯一の違いは、米国では、利口な人が要職に就いている、といって、日本の縁故主義を暗に否定したので、「控えよ」、と怒られたエピソードを披露している。幕府が腐敗したのは縁故主義だからである。古き縁故主義に固執していれば、新しい自分が開拓できないばかりか、旧来の仕来りに束縛されてしまい、新しい関係がつくれずに、身動きがとれなくなる。だから、メリケンのペルリに開港しろ、と迫られ、国内の身内ばかりで固まらずに、新しく西洋とつながれ、といわれ、西洋の当時の象徴の、黒船を見せびらかせられ、田舎者扱いされる。勝海舟は、幕閣にいてその事情をよく知り、蘭学者として、西洋の事情を薩摩の島津斉彬から聞き知っていたから、日本の分裂を免れるために、大政奉還などを画策し、幕府を無血開城で野党にして、薩長に味方したわけである。しかし、ただの野党ではなく、いつでも薩長政権に代われる野党にしたわけで、大局がみえているからでき、伊藤博文と政局を巡って、大隈重信を陰で支援し、よく対立したようだった。古来の日本が縁故主義だったのは、霊能力のお蔭である。霊能力が国の先見力を保障したので、高次の宇宙人の神の命に従い、国家をつくったので、神国ニッポンといわれたわけで、陰陽師も霊能力を駆使して、天体の配置に従って、政治を主導してきたわけで、聖徳太子らにより仏教を霊能力養成の学校としたわけだが、段々と衰退してきて、形骸化して、カリユガの時代になって、唯物化し、権威化して、ついには江戸幕末には、勝海舟が嘆くような腐敗堕落した縁故主義の政治体制になってしまった。そして、現代の日本人といえば、過労死という言葉が、日本人の不名誉として、エコノミックアニマルと同じように、世界にも悪徳として知られているのだが、日本人のなかには勘違いして、この二語を長所かのように錯覚している輩がいる。「死ぬまで働く経済動物」とは、欧米人の観点からすれば、ゾンビのような危険な存在で、愚かな働き者なのである。このような日本人の悪徳が、米国をして、原爆を二発落とさしめるのを正当化させている反面を見逃してはならない。日本人は本来の日本人らしさを忘れて、欧米化し過ぎて、欧米人よりも欧米化しようと猛進しすぎて、まるで機械のような、ゾンビと化してしまったようである。それは、このブログのコメントでお馴染みな、毛利夢海さんに紹介された付喪神のようである。付喪神 - Wikipedia付喪神とは、もともとは、物質だったものが、人間に使われることで、魂を得て、幽霊や妖怪になることである。現代的にいえば、ロボットや人工知能のAIであろう。これら無駄なものをつくり、人間を過労死に導き、エコノミックアニマルにするのは、悪魔たちの誘惑にあるのがわかる。物欲という一時の餌に釣られて、無駄なことをしてしまうのが、人間のエゴである。エゴは、誇大宣伝のようなもので、前回で、お釈迦さんの8種類の人物像でも紹介したが、悪友の4種類に分類される。すなわち、自分ばかり取っていく人。口先だけの人。甘言を語る人。遊蕩の人である。いわば無用の人ともいえるわけなのだが、では、このような悪人には救いがないのか、といえば、老子の無用の用や、親鸞の悪人正機説でもわかるように、このような悪人が自覚し、自ら善導すれば善人になれるわけである。老子『無用の用』原文・書き下し文・現代語訳 - フロンティア古典教室 (frkoten.jp)老子 第十一章 有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり | ちょんまげ英語日誌 (mage8.com)悪人正機 - Wikipedia現代語訳車輪というものは三十本の輻(や)が真ん中の轂(こしき)に集まって出来ている。その轂に車軸を通す穴があいているからこそ車輪としての用を為すのだ。器を作るときには粘土をこねて作る。その器に何もない空間があってこそ器としての用を為すのだ。戸や窓をくりぬいて家は出来ている。その家の何もない空間こそが家としての用を為しているのだ。だから何かが「有る」という事で利益が得られるのは、「無い」という事が影でその効用を発揮しているからなのだ。 ☆ ☆ ☆このような老子の不用の用と、悪人正機を要約すれば、無駄を無駄とわかれば無駄でないことになり、悪を悪とわかれば、悪ではないことになる。なんだか、言葉遊びにみえるが、老子の言いたいことを要約すれば、陰と陽の二元性を説いている。二元性を物理的にいえば、時間と空間で、無も有も、時間と空間の、目には見えない陰の働きにより、目に見える陽の、現象や出来事が起こるわけなんである。だから、この二元性の働きを理解して、自分を精神的に高めるのが、自分らしく生きることで、真の善導なのである。自分に無いものをやろうとしても無駄だが、その無駄から、本当の自分がわかる。自分がやりたい仕事がないというのは、自分がみつかっていないからで、自分に向いた仕事がないのは、自分をみつける鏡がないからである。自分がどういう人物になりたいのか、自分を映す鏡をみつけることが肝要である。その自分とは、単なる自己満足や、自己顕示欲ではダメで、自分に常に向いたエゴの我儘で、内向きのものでは自意識過剰な天狗なわけで、外に向いた自分と、内外のバランスがとれていないと、自分らしい自分の、純粋な無為自然にならない。自惚れの無い自分の姿をみつけるのが、ありのままの自分の人生のわけなんだが、これがなかなか困難な道なわけなんだよね。一度や二度の人生ではわからない。シュタイナーによると、現代人のほとんどが、キリスト降臨から、3、4回の転生を経て、現世に至っている、というのだから、キリストと出逢うには、自分の前世から、3、4回の前世まで霊視できないといけないわけで、今生だけでなく、後、3,4回の人生を生きて、キリストのように善行し、自分を純化する経験を積まないといけない、と見積もれるわけなんである。キリスト降臨が約2千年前だから、奈良タイムの丁度2倍の先見力=霊視力が必要となるわけなんだよなぁ。非常に難儀な話だよね。
2024年08月29日
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目に見えない事ばかり書いていると、目に見えるモノしか信じない唯物論洗脳者にキ印扱いされるので、たまには、俗世間の物質界の、目にみえることを愚痴紛いも含めて書くことにする。ちっちゃなときから、TVっ子で、時間さえあれば、録画番組をみる日々だが、自分の好きな番組を改めて考えてみると、番組をみるというよりも、芸人をみているような気がする。毎回欠かさず、よくみる番組は、「ケンコバのほろ酔いビジホ泊」と、「にけつッ!!」のツートップである。ケンコバのほろ酔いビジホ泊 全国版 | BS朝日 (bs-asahi.co.jp)にけつッ!!|読売テレビ (ytv.co.jp)ケンコバ氏の哀愁漂う日常ライフに令和のハードボイルドを感じさせ、その哀愁感はどことなく昭和のノスタルジー、松田優作の探偵物語の、工藤探偵のハードボイルドを想い出させる。にけつッは、千原ジュニア氏の日常ライフの価値観と話芸に、ケンコバ氏の探偵みたいな事情調書風の絡み方や間(ま)が相まって、相乗効果で、究極の、お笑いの芸術劇場を堪能させる。探偵物語 - Wikipedia漫才のような対談バラエティ番組では、「マツコ&有吉のかりそめ天国」も面白いが、お二人とも成功者というイメージが強く、庶民に寄せにいっているような、ややセレブ感があり、関西風の、お笑い価値観が入った「にけつッ」の方が、日常ライフの庶民感が満載で、千原ジュニア氏の兄せいじネタが、そのほとんどを占めているのだが、あとから、想い出し笑いをしてしまう点で、にけつッの方が、グリコのおまけのように、二度愉しめる。マツコ&有吉 かりそめ天国 - Wikipediaかりそめ天国は、みている最中が一番面白いが、見終わってしまうと、あまり印象に残らない点で、夏目漱石の小説のようでもある。漱石の小説のような、厭世感が残らないだけまだ良いかもしれない。このような対談式のバラエティではないが、プレゼン式の秀逸なバラエティで、「私のバカせまい史」も面白く、よく見る番組である。目から鱗のような内容が、日常ライフの定説的な価値観から解放してくれる。私のバカせまい史 - Wikipedia先日、このバカせまい史で、名言「世の中には2種類の人間がいる」をテーマにやっていたのだが、ハンマーシュタインというドイツの軍人が、人間を4種類に分けて、軍隊を評価し、無能な働き者が、危険と述べているという。クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト - Wikipedia「私が考えるに将校には4つの特性がある。利口、愚鈍、勤勉、怠慢である。多くの将校はそのうち2つを併せ持つ。 まずは利口で勤勉なもので、これは参謀将校にするべきだ。次は愚鈍で怠慢なもので、これは軍人の9割にあてはまり、日常業務をこなすことに向いている。利口で怠慢なものは高級指揮官に向いている。なぜなら確信と決断の際の図太さを持ち合わせているからだ。もっとも注意すべきは愚かで勤勉なもので、このような者は害を及ぼすのみであるので、いかなる責任ある立場も与えてはならない」“あるとき、どのような視点で部下の将校を判断するのか、と聞かれた時、ハマーシュタインはこう言った。「私はね、部下を4つのタイプに分けるんだ。利口な将校、勤勉な将校、馬鹿な将校、怠け者の将校、にね。たいていの場合、ふたつのタイプが組み合わさっている。 まず、利口で勤勉なやつ。これは参謀本部に必要だ。 次は、馬鹿で怠け者。こいつがどんな軍隊にも9割いて、決まりきった仕事に向いている。 利口で怠け者というのが、トップのリーダーとして仕事をする資格がある。難しい決定をするとき、クリアな精神と強い神経をもっているからね。 用心しなきゃならんのが、馬鹿で勤勉なやつだ。責任のある仕事を任せてはならない。どう転んでも災いしか引き起こさないだろうから」以上をまとめると、利口で勤勉なのは参謀、馬鹿で怠け者は兵卒、利口で怠け者は将軍、馬鹿で勤勉なやつは除隊。このハンマーシュタインの4分類は、ゼークトの組織論で広まっているらしい。無能な働き者は処刑せよ|マッコイ (note.com)勤勉で頭の良い軍人=参謀なまけ者で頭の良い軍人=前線指揮官なまけ者で頭の悪い軍人=一般兵勤勉で頭の悪い軍人=除籍、処刑会社組織に当てはめてみると、下記になるかと思います。働き者で頭の良い社員=執行役員なまけ者で頭の良い社員=中間管理職なまけ者で頭の悪い社員=一般社員勤勉で頭の悪い社員=リストラ対象社員ハンマーシュタインの4分類と、ゼークトの組織論で異なるのは、利口な怠け者をハンマーは司令官にしているのに、ゼークトでは、前線指揮官にしている点にある。つまり、ハンマーでは最上位なのに、ゼークトでは中間にしているところにある。そこで、ゼークトをググると、日本に紹介した翻訳のときに、どうもジョーク交じりで、入れ替わったようである。ハンス・フォン・ゼークト - Wikipediaハンマーの文脈から考えれば、「確信と決断の際の図太さ」が怠け者の素養とみなしているので、つまり怠け者を、要点を絞れ、大要をつかめる長所と捉えているわけで、最上位の指揮官が妥当に思える。だから、利口な怠け者は、的確な判断を下せる司令官に相応しく、会社組織では役員となり、利口な働き者は、中間管理職ということになるだろう。そして、ハンマーは、馬鹿な働き者は、責任ある仕事につけるな、と言っているだけなんで、人間の生死を扱うので、軍隊全てが責任ある仕事とみなせば、除隊だが、軍隊ではない一般組織なら、金銭の利害だけを扱うので、責任のない仕事はいくらでもあるので、俗に閑職と呼ばれる仕事につければいいだろう。広報とか、研修、教育などである。自分でいうのもなんだが、自分は怠け者なんで、怠けた分は、要点を掴む利口さに真剣に取り組んだので、自分では馬鹿ではない自負はある。自分の経験からもいうと、この組織論のように、90%は「愚かな怠け者」で、自分がいた職場は、軍隊ではないので、この組織論通りではないが、特に、「愚かな働き者」が要職につくと、馬鹿に刃物を持たせるのと同じで、権限を過剰に振り回しがちで、やらなくてもいい仕事をとってきたりして、現場が混乱し、このような馬鹿者に振り回される経験を頻繁にした痛恨の想いが今でも酷く残っている。結果が全く出ずに、やり損で、損害ばかりである。無責任にも、そ奴らの口癖が、言われた事だけやっていたらダメなんだ、と説教ばかりして、その説教の時間が無駄なのに、自分が正しい、と思っている、その愚かさに気づいていない。自己の価値観こそ全てで、他者の価値観など見向きもしない。だから自分とは違う価値観の他者にも説教ができるのだろう。説教には価値観をすり合わせる前提が必要なのもわかっていないから、昨今のような昭和の老害が盛り沢山になる。説教する暇があるなら、その暇を仕事上の価値観のすり合わせに充てればいいだけの話なんだが、自分で要点を絞れないので、誰かにやらせてから結果が出ないとわからない馬鹿なんである。実際に目でみないと現実がわからないおバカさんなんである。やる前に気づけよ、と何度思ったか、まぁ、当時は給料に見合う労働力しか提供しなかったので、建前で済ませたが、そもそも、価値観の共有がないのに、結果を評価できるのだろうかも疑問だった。予め結果を見積もれない先見力を欠いているから、やってから中途半端に結果が出るから、ある程度の損失を出して、自分の見積もりの甘さ、無能さを、説教して見繕う。だからいつまでたっても、重要な仕事の取捨選択ができないでいる。つまり、無駄な仕事を振るのが仕事なんだから、始末に負えない。振り回される方がたまったものではない。忽ち、人手不足に陥る。しかも、こちら側のアドバイスには聞く耳をもたないから、常にパワハラで、ほとんどが辞めていった。新人なんて口先だけでほとんどが愚かな怠け者なんだから。この組織論のように、重要な仕事を価値観で共有し、命じられた仕事を確実にやればいい話なんである。90%は愚かな怠け者なんだから。このような不必要な仕事をとってくる愚かな働き者には、勿論、仕事のみの付き合いで、日常の飲み会など交際は絶交を通告したのだが、馬鹿だから、こちらの事情など全く考慮せずに、あちらから仕事を振ってきて閉口した怨みが今でも残っている。色々な部署を回ったが、尿路結石で出勤できないのに、電話をかけて来られたブラックな部署には閉口した。これも前世からの因縁なんだと思って今では諦めているが、とにかく、現世だけの感覚では不条理感満載で、だからこそ、いま前世の因縁や輪廻転生とカルマの法則を、人智学で学んでいるわけなんである。色々愚痴を書き込んでしまったが、要するに、この組織論でいえば、利口な働き者が、中間管理職に不足しているのが、現代組織の問題点に思われる。利口な働き者を増やすには、待遇を上げるしかないが、ポストが増やせずに、上で紹介した、愚かな働き者ばかりが中間管理職になる。縁故採用や太鼓持ちの手前で、口先だけの仕事の演技で、ほとんどが大根役者なので、無駄な仕事をする、愚かな働き者とわかるが、そんなのが責任ある仕事にいるからまた問題なんである。本来、中間管理職は利口でないと就けないはずなのに、就いてしまうから、特に愚かな働き者が就くから、不必要な仕事を増やして、人手不足に陥り、おかしくなる。面白いことに、経済評論家の森永卓郎氏が、新NISAと絡めて、資本主義の盲点について述べている。森永卓郎氏、新NISAには指一本触れるな!「株価が暴落したあとは二度と戻らない」と持論(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース「私はマルクス派に近くて。マルクスはなんて言ったかというと“資本主義は必ず行き詰まる”と。理由は4つあって、まず許容し難いほどの格差が生まれると。この3年間で世界のトップ5の富裕層は資産を倍増させましたが、50億人はより貧乏になっているんですね。そして2つ目は地球環境の破壊、3つ目は少子化が止まらなくなる」と説明。 「そして4つ目、これが一番大きいんですが『ブルシット・ジョブ』というクソどうでもいい仕事がまん延して、そうすると資本主義が持たなくなるんですよ。今までは株価が暴落した後、必ず戻ってきたんですけど、二度と戻らないと思う」ブルシット・ジョブ - Wikipediaマルクスの話だと、このブルシットジョブが増えるのは、資本主義の特徴で、先のハンマーの組織論でもわかるが、愚かな働き者が、馬鹿に刃物を持たせるのと同じように、責任ある職に就いてしまい、この無駄な仕事を増やして、目に見える形にしないと、無駄と気づかないせいだからである。このような無駄な仕事に、一応は成果は中途半端だが、目に見える形なので、物質的に投資をして、見せかけのバブルを演出してしまうと、いずれは実体経済のモノ化が追い付かなくなり、というのも、無駄な仕事をするのは、人間の倫理上害悪だから、人手不足で、破綻するわけなんである。例えば、宇宙ビジネスなどは、宇宙に出れば出るほど、地球を物質化しなくてはいけないジレンマに陥り、永遠に宇宙には到達できないで、地上を這いずり回る、矛盾の循環性を利用して投資しているわけなんである。だからして、高次の宇宙人たちは、地球人に、この無意味さをメッセージとして、宇宙に出るよりも、むしろ、地球の環境問題を解決するのが先決で、目に見える事よりも、目にみえない真実を求めなさいと強調しているわけなんである。つまり、唯物論が、目に見えるモノ化の資本主義を地球人に与えたわけで、それがルシファーから、アーリマンへの人類への悪魔の贈り物だったわけなんである。さて、このような低俗な悪魔から自らを解放するには、先に紹介したバカせまい史では、お釈迦さんが、つきあうべき友人を8種類に分けているのを、紹介している。そして、お釈迦さんは、人生は誰と共に道を歩むべきかが重要と、述べているようである。そして、悪友とつきあうなら、むしろ、一人できっぱりと道を進みなさい、とも推奨しているようである。お釈迦さんの説く悪友とは、以下の4種類である。自分ばかり取っていく人口先だけの人甘言を語る人遊蕩の人そして、つきあうべき友人とは、以下の4種類である。助けてくれる人苦楽を共にしてくれる人自分のためを思ってくれる人同情してくれる人このお釈迦さんの8種類の人物像に、先のハンマーの組織論を加味すると、以下のようになるかもしれない。自分ばかり取っていく人(無能な勤勉者)⇒不必要=閑職⇒ルシファーーアーリマン口先だけの人(無能な怠け者)⇒兵卒=平社員⇒ルシファー甘言を語る人(無能な勤勉者)⇒不必要=閑職⇒ルシファー遊蕩の人(無能な怠け者)⇒兵卒=平社員⇒ルシファー助けてくれる人(有能な勤勉者)⇒参謀=中間管理職⇒キリスト苦楽を共にしてくれる人(有能な勤勉者)⇒参謀=中間管理職⇒キリスト自分のためを思ってくれる人(有能な怠け者)⇒指揮官=役員⇒キリスト同情してくれる人(有能な怠け者)⇒指揮官=役員⇒キリストみえるものよりも、みえないものをみるのが、先見力や、友愛を育むものなんである。
2024年08月27日
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死者への弔いから、母方が真言宗、父方が日蓮宗の縁から、以前から、真言宗は空海さんについて、ある程度お馴染みなのに、日蓮宗の法華経は、南無妙法蓮華経のお題目しか知らないのは、少し気が引けたので、ユーチューブ動画をみるうちに、「よくわかる法華経」という本を読んでみたくなった。よくわかる法華経 - 明窓出版株式会社 平成元年創業 和のこころと健康を育む出版社 (meisou.com)お経は般若心経ぐらいしか知らないので、お経特有の漢文調がとにかく苦手で難儀なので、よくわかるように書いてあるのを期待しすぎたが、やはり仏教特有の表現がわかり難いので、著者の指示をなかば無視して、飛ばし読みで読んでいる。飛ばし読みで読んでいるので、著者にお叱りをうけるやもしれないが、人智学から解釈してみると、お釈迦さんの悟りを解き明かしたのが、法華経らしく、誰もが、お釈迦さんの悟りに到達できる、のを示した経典らしい。この法華経によれば、誰もが悟れるのを説いた経典を大乗仏教と呼び、仏教徒しか悟れないのを小乗仏教と区分けしているようである。つまり、平たくいえば、知識が必要で、方便で、この世を説くのが小乗で、知識は必要なく、信仰のみに帰依するのが、大乗といえるかもしれない。ありていにいえば、唯物論に染まったのが、小乗で、唯識論に近いのが、大乗といえるかもしれない。だから、この世の感覚では捉えられない超感覚を示すのが、大乗なんである。唯識 - Wikipediaそして、重要なのは、お釈迦さんの悟りで、それは潜在意識を、覚醒意識でみるから、業が生じ、この世の知識で、あの世を理屈づけようとするから、信仰に至れない、という人智学の輪廻転生とカルマの法則につながるところで、あの世とこの世をつなぐのは自分で、自分がこの世で為す行いが、あの世から、来世の自分をつくる、という、輪廻転生とカルマの法則の理解、悟りであるのがわかる。自分のいまの行為が、将来の自分をつくる。それは人生だけでなく、前世もそうだったし、更には来世も、自分をつくる。ただ、自分がつくったことを、それが能力となっているので、忘れていて、みえないだけである。現在の自分とその境遇をつくったのは、過去の、前世の自分の行為なんであり、その自分が、いま何をするかで、また未来の、来世の自分と、その境遇をつくる、だから、今の人生だけではないわけなんである。そして、天国というのは、この世を越えた果てにあるわけではなく、いま、この世で自分が為した行為により、明日の、未来の、来世の、自分の能力のなかにあり、だから、天国に行くには、いま自分が善を成すことにある、というわけなんである。善の積み重ねから、天国が生まれる。これを善因善果、そして、その逆を、悪因悪果と呼び、なにより、今何をするかが、なにより大切で、それを一々、理屈で、知識で解き明かしても、無に帰するわけなんである。なにより、人間は一回の生で、つまり生まれて死んでで、終わりではないからで、永遠と自分の行為から、自分の能力で、自分をつくりあげていく存在である。キリストが、何事も愛なくしては存立しえない、と言ったのと同じである。ただし、仏教では、慈悲と呼んでいるが、これはキリストが、愛を外に示したのに対し、釈迦は、慈悲を内に秘めた違いにある。だから、慈悲は、心深く内に秘めた愛である。善の行為となる心の源である。内の慈悲が外に行為として示されると愛になる。だから、人間は、日々慈悲をもって、愛を外に示すことで、誰もが、愛と一つになり、宇宙を巡る愛の感受から、霊能力が獲得できるわけなんである。このように人智学で補完して解釈すると、法華経は、輪廻転生とカルマの法則と、潜在意識の祈りと、覚醒意識の知識の違いを説いているようである。この本にはまた、様々な現代科学の知識も出てくるが、そもそも、このブログでも紹介しているように、ニュートンが、数式を用いずに、プリンキピアという、天体の運動の原理を示したように、天体の運動こそ、輪廻転生とカルマの法則の産物であるのが、シュタイナーの人智学で解き明かされる。ニュートン力学は、大きな宇宙の、輪廻転生とカルマの法則の、小さな一部の物質界だけを、数値化して、力学に換算し、置き換えただけにすぎない。この法華経の本では、ニュートンよりも、現代的な思考形態の、アインシュタインの相対論や量子力学に拘っているが、そもそも、人間の科学は、人間の心から生まれているので、人間の心をつくる宇宙体系の一部の反映にすぎないのは当たり前なんである。大は小を兼ねるわけで、小が大を見渡せないのは当たり前の道理なんである。だから、ニュートン力学は、ニュートンの心の一部でしかなく、簡単にいえば、この世の物質界しかみえていない法則なんである。人智学的に、法華経的にいえば、単なる知識に堕しているので、とても潜在意識の、信仰には至れないわけなんである。愛への、慈悲への心の信仰が、全てをつくるといえば、般若心経が思い浮かぶ。般若心経 - Wikipediaそこで、法華経の輪廻転生とカルマの法則から、般若心経を再要約してみる。誰もが悟れるお釈迦さんは、心の奥深い「慈悲の完成」のために、修行をしていたら、五感を超え出た。そして、五感の本体が、心を無にすれば、空であると見抜かれた。わが弟子シャーリプトラよ、この世の物質=時空は、心を無にすれば、空になり、空のなかでの心の運動で、意識により、無から物質が生じる(量子力学)。物質と、心の空は、別々のものではなく、空のなかでの心の運動から、物質が生まれ、だから、この世とあの世は別々のものではなく、いわば相補の対極の関係にある。物質のポジとは、いわば心の空のネガであり、空のネガは、物質のポジでもある。だから、五感も同様である。覚醒意識の五感で捉えるとき、潜在意識の心は無なのである。この世の、あらゆる現象は、心の運動、意識から特徴づけられ、心さえ、不滅なら、生ずることも、滅することもない(=不生不滅)。心は、汚れることもなく、洗う必要もなければ、欠けることもなく、溢れ、迷うこともない。だから、心さえ、慈悲で満ち足りると、もはや物質は必要なく、五感も必要はない。五感から派生する幻に迷う必要もない。眼に映る世界は、光があってこそ意味がある。心に火を灯し、光を映せば、どんな世界にも、闇はなくなる。だから、知識ではなく、心に信仰を灯し、光を発しなさい、さすれば、迷いや煩悩もない。光から善の行為をなせば、知識は信仰となり、闇を照らし、消滅することはなく、迷いや煩悩は忽ちに、消え、業も、悪因悪実もなくなる。だから、自分が授かった道の、信仰に目覚め、老、死、四苦八苦を受け入れて、それを乗り越えていけ。信仰は、この世の覚醒意識の感覚では掴めないので、知るのでなく、獲得するのでもない。信仰は、獲得するものではないので、師(お釈迦さん)の「慈悲の完成」を信じて、心を安楽にするように努めなさい。心を満たし、無にすれば、何も欲がないので、失う恐れもない。執着を忘れ、涅槃に至っている。前世・現世・来世の三世を合一する覚者(仏)たちは、現世での「慈悲の完成」から善の行為をなして、来世への、完全な仏となる、成仏の無上正覚の悟りを得ようとする。それゆえに、成仏を信仰しなさい。現世での「慈悲の完成」は大いなる霊言で、真言(マントラ)の宇宙の法であり、大いなる明らかな慈悲の真言であり、この上ない真言であり、全ての苦悩から自らを解放する。それは、現世でいかなる善の行為をなすかが、最も大切な使命で、最も大切な人間への真言であり、今なすことが、明日をつくるのは、善因善果、悪因悪果なるゆえに真実である。「慈悲の完成」において、次の真言に秘される。すなわち(tadyathā)、gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā!(善行を成そう、善行こそが、天国に通じる道である、内なる慈悲を、外なる愛へとつなげ、天国に至ろう。さすれば、この世とあの世が、自分を通じてつながり、キリストのように、死から甦る!)と。このように自分は要約してみたが、各人独自で、自由に、お経は要約すべきであろう。信仰さえあれば、誰でも要約できるものである。そして、自分独自の自由な宗教をつくるべきである。自分の慈悲から、愛を紡ぐことで、自分の自由な宗教となるのだから。
2024年08月22日
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いつの間にか、このブログも広告が蔓延り、商業主義に侵食され、書く気が失せるが、この世では、非営利で為さない限り、天に富を積むことができないので、つまり、ボランティアでない限りは、自らの進化を高められないので、あらゆる広告を廃したいのだが、当面は、楽天ブログしかみつからずに、無料無利益でブログを書き続けるのも、世間では難儀な話なのかもしれない。というわけで、広告が煩わしいのを、御勘弁してください。お盆休みに、ユーチューブにハマってしまい、日本人についての都市伝説みたいな動画をみているうちに、シュタイナーが、日本人と中国人の源流が、古代アトランティス時代の、老子のタオにある、といっていたのを思い出し、そのシュタイナーの老子の話を色々と探したのだが、見つからないので、ググったら、以下のサイトに出くわした。以下のサイトから、抜粋し、人智学的解釈を加味して要約し紹介する。 ☆ ☆ ☆ タオとシュタイナー。Vril=TAO、来るべき時代に人類が使うようになる古くて新しい「植物の力」。その2パクスルーナ PAXLUNA 星読み風水中国人は古代アトランティス人のモンゴル人種の末裔です。中国人の言うタオ(TAO)という言葉は、我々(西洋人)にとっては少し理解が難しいと感じます。当時のモンゴル人は、一神教を作り上げており、この「神」は、超感覚な認識力、それどころか霊的存在=精神の存在で、霊視できたほどでした。そして、古代の中国人、つまり古代のモンゴル人がTAOという言葉を発するとき、この「神」を感じたのです。TAOは、いま翻訳されているような、「方法」という意味の「道」ではなく、古代アトランティス人が植物を変化させ、創造する際に用いたエーテルの生命力のことであり、また、古代アトランティス人が、現代人には想像つかない空中を浮遊する船の動力でした。この生命力は、いまではエーテル(東洋では気功)と呼ばれていますが、古代アトランティス人たちは、この力をあらゆるところで利用し、その力を自分たちの「神」と呼んだのです。だから、古代アトランティス人は、この力を自分の内側に感じ、この力は、古代アトランティス人にとっては、「道であり目的」だったのです。アジアに目を向けると、超古代の宗教の残滓を見つけることができます。もっとも、この場合の「宗教」とは、今日の現代人の宗教観では推し量れないものです。この宗教は、いまでも中華文化圏の中に見出すことができます。[…]いま話題にしている、超古代の宗教の残滓、つまりTAO(タオ)教(道教)は、古代アトランティスの人々、特にモンゴル人種が、信仰していたタオに依拠していた宗教なのです。タオは、ゴールまたは道と呼ばれます。しかし、この翻訳の意味に固執すると、タオ教として呼ばれる、この宗教を正しくイメージできません。タオとは、数千年前の、人類の大半にとって、最高次の霊的な存在を示す言葉でした。そして、今でもなお、そのような言葉として解釈可能です。この最高次の存在とは、人類が、いまでも心の中から仰ぎ見れるものであり、この物質界と全人類が、かつてそこから生まれてきた、と考えられていた創造主の存在です。そして、この最高次の存在は、人間が、いま霊我の萌芽として内側に備え、いつの日か成熟した花として、人間の内奥から咲き誇るようになるものです。いまは深く隠された霊魂の底にあり、同時に崇高な未来に開花する生命力、それがタオなのです。タオが何を意味しているのか、を知る者は、畏敬の念をもって、タオという言葉を口にするだけではなく、タオについて祈ります。タオ教は、人類の進化の法則に依拠し、次のように語ります:今日、カルマの業により、私の周りに存在する宿命は、いずれは、私が克服すべきステージ(段階)=能力である。だから、私は次のことを正確に認識しなければならない。目下の、私の自我が身を置いている、この進化段階の途上に、目指すべきゴールがある。そして私は、この崇高なゴールに向けて進化していかなければならない。私の内側にある、このエーテル力が、私を生かし、その愛の生命力が、私を鼓舞し、大きなゴールであるタオへと至らしめる養分となる。この大いなる力を自分の中に感じ、宇宙全ての存在たちが、私と共に、この大いなるゴールへ向けて進化し、邁進している、と感じるとき、私にとって、この力は道を示す力(操舵力)となる。つまり、このエーテルの力は、私のなかから、私に向けて、風の中で、吹き返す力であり、石の中で、こだまを返す力であり、雷の中で、照らし返す力で、反響する力であり、太陽から、私に、光を送り返す、内と外とを結びつける、愛の力なのである。植物では、この道を示す力は、生長力として現れ、動物では、直感力と認識力として現れる。この力は、次々と形を変えながら、崇高なゴールへ向けて常に高みへと上り詰めよう、とする愛の向上力である。この力によって、人間は神羅万象の愛と一つになれる。この力は、吸う息ごとに、私に流れ込み、吐く息ごとに、私から流れ出る。この愛の力は、進化し続ける最高次の霊魂のシンボルであり、私は、この力を生命と感じる。この力を、私はタオと感じる。・・・このタオ教では、いまの仏教のような、この世とは別の彼岸にいる神や仏は全く話題にもなりませんでした。この世の外側にいる何らかの存在について語ることはなかったのです。そうではなく、このタオ教では、人類を進歩させる力、人間の内側の霊的な存在について語っていたのです。人間がまだ神的な存在とつながっていた時代、特に古代アトランティス人の間で、タオは正しく感じられていました。こうした我々の先祖たちは、高度に発展した現代人の悟性をまだ有しておらず、現代人のような知性も持っていませんでした。しかしその代わりに、こうした先祖たちは、夢のなかで、神的存在をみれる潜在意識状態と、霊的な超感覚的に高められた表象=イメージ生活と、主観的な思考生活を有していました。現代人もみる夢が、明確な意味をもち、曖昧ではなく、感覚が高められた透視力である、と想像してください。そして、人の霊魂から、こうした夢のイメージが立ち上ってきて、そのイメージが、超感覚から、告知します。この超感覚とは、自分の霊魂の中にあって、身の回りを取り囲んでいるものすべてを映し出しているという感覚です(ホログラム理論を参考にすれば想像できる)。こうした古代人の心魂の世界(エーテル界)は、今日の我々の心魂の世界(物質界)とは全く異なるものとイメージしなければなりません。今日の人間は、環境(外界)を可能な限り正確に思考しイメージしようとします。これに対して、古代人は、シンボル的な、象徴的な思考(漢字が象形文字なのがわかる)をします。そしてこの思考は、古代人にとっては、自分の中で、完全に生きたものとして現れてくるものなのです。今日、現代人は、人と対峙し、その人を、理解するとき、つまり、その人が良い人間か、悪い人間か、賢い人間か、愚かな人間か、を把握しようとするとき、その人間の、外見の、外的な部分について、可能な限り対外的な、表面的なやり方で対応するような、概念を獲得しようとするでしょう。しかし、古代アトランティス人の場合は、全く異なっていたのです。古代人は、現代人の悟性による概念ではなく、心のなかから、イメージが湧き上がってきたのです。もし、悪しき人間と対峙するなら、古代人の心には、暗く曇るモヤモヤしたイメージが、天候のように湧き上がってきたのです。しかしながら、こうした認識が、現代のように概念になることもなかった。いずれにせよ、古代人は、このイメージに従って、その都度、ふるまいを決めたのです。もし、夢を見ている潜在意識状態のときに、自分の霊魂の前に、明るくて美しい、天候の晴れのイメージが湧き上がれば、こうした存在に対して信頼を寄せてもいいのがわかったのです。そして、黒かったり、赤かったり、茶色い色のどんよりしたイメージが湧き上がるような場合には、そのイメージに恐れを抱いた。現代人のように、真理を、悟性を用いた、知性で把握し、理解するものではなく、インスピレーションのような、閃きの、いわば霊視の形でもたらされた(発明家や発見者が、閃きで発明、発見するのと同じ)。古代人は、こうしたイメージの中に働いている神性を、まるで自分の内側に存在しているように感じたのです。古代人は、風のそよぎの中に、風のささやきの中に、神性さが現れる、と感じていました。そしてまた、古代人は、自分の内なる心魂の生活の中にも、もし、その崇高な人類の未来を垣間見るようにと、自分を促せば、そうした神性を感じていた。そして、まさにそうした神性を、古代人はタオと呼んだのです。GA265より引用・拙訳を要約。 ☆ ☆ ☆ このように、シュタイナーは虚空(アカシャ)記録から、霊視して、古代アトランティス時代を解き明かし、この霊能力を、第6(スラヴ)文化期に、人類が再獲得するのを、預言している。ユーチューブの動画などをみていると、その前に、これまで嘘や偽りの情報を流し、人類を奴隷化し、支配していた宗教教団を全て解散に追い込む、天の浄化作戦が発動していくようである。いま地で起こっている戦争の背後に、それら宗教教団が暗躍しているのを、宇宙の叡智である、聖白色同胞団が見逃すはずもない。人類の悪の教育のために、いわば悪をわざと泳がせ野放しにしていただけにすぎない。聖書でも預言されている悪の稲穂の刈り取りが、最後の審判がいよいよ発動しているようである。悪に染まった悪人は、今からでも遅くないので、宗教教団から独立し、自身の心の自由な意志により、神への信念に立ち返り、自分のなかに主への愛を取り戻すために、改心すべき時代なんである。神は主として、誰の中にも、自分の深い愛のなかに存在するからである。外に愛を表現することで、人間は内なる愛に目覚めるのである。それが真の愛への神への信仰なんである。それがいま現状を取り巻いている第5のアーリア文化期なのである。現世の宗教教団は互いに争い戦いあって滅亡していくだろう。だからあらゆる教団から独立し、自分のなかのキリストをみて、従うのが、現代人の課題なのである。教団をつくって、金儲けに走る輩は改心しない限りは、神を信じていない証なので、一人たりとも救われずに、地獄に堕ちていくだろう。今回は休み明けということで短めなのでご容赦ください。
2024年08月20日
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巷でいま流行の和食人気の記事をみて、懐石料理の、懐石に疑問を覚えたので、ググってみたら、老子の被褐懐玉に由来する説を知って、日本の古来からの詫び寂び文化が、あの世の、霊性の文化に由来するのを改めて感じた。詫び寂びの文化は、八切史観によれば、いま自分があるのは、先祖のお蔭という、先祖を思う、先祖崇拝の、先祖供養からきているという。つまり、先祖に詫びる、寂びる、である。懐石 - Wikipedia被褐懐玉(ひかつかいぎょく)とは? 意味・読み方・使い方 - 四字熟語一覧 - goo辞書人智学によれば、カリユガの時代がはじまる前までは、人間はまだ霊能力をもっていて、あの世の死者との交流が盛んだったという。いまでも、古代人のように、文明の利器を拒絶して、大自然の背後にある自然霊たちとエーテルで交流しながら、暮らせば、霊能力を失わずに済むらしく、その再獲得を目指す修行が、シュタイナーが書いた、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」、である。いま巷は、お盆休みなんで、人智学勉強を一旦休止して、様々なスピ系のユーチューブ動画を盛んに鑑賞しているのだが、古代アトランティス文化が老子の文化となり、日本にきて神道の源流になったのがよくわかってくる。というのも、日本文化の詫び寂びの懐石料理が、老子の被褐懐玉を原典にしていることからもわかる。人類は、太陽が東から昇ることで、日の出をみるために、朝に東に向かい、昼に活動し、そして、夕焼けの日暮れと共に、西に戻り、定住し、夜に眠る。この東の空と、西の空を仰ぎ見る繰り返しから、人類に、東の日の出から、宗教が生まれ、夕暮れの黄昏を快適に過ごすために、科学が生まれた。だから、東洋に宗教が生まれ、西洋に科学が生まれたといえるだろう。聖徳太子が、日出ずる国と、呼んだのは、小野妹子の隋への手紙「「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」からもわかるが、この書を人智学から解き明かすと、太陽霊キリストから、冥界の王の月霊堕天使ルシファーに命じる、という意味になるだろう。古代人は、自分が師事している霊魂=神々を証して身元を保証するからである。現代では、霊能力が失われたので、身元保証人は形骸化して、現世の人間でも可能になっている。つまり、この時代までは霊能力が使えていたわけなんである。これはプラトンが、恋愛をするに際し、どの神々に師事しているのかを明確にしないと、精神的な愛にならないというような、後にプラトニックラヴで有名になった発言からもわかるだろう。だから、渡された煬帝は、勿論、烈火の如く激怒したのは史実でも明らかになっているが、当時、隋は朝鮮の高句麗と戦争中だったため、皇帝は怒りをこらえ、日本を敵に回すことはしなかった、とググるとわかる。第5回 隋の煬帝はなぜ怒ったのか? | 法政大学国際文化学部鈴木靖研究室 (xsrv.jp)隋 (y-history.net)【中学歴史】「聖徳太子、小野妹子を隋へ派遣」 | 映像授業のTry IT (トライイット) (try-it.jp)この書簡が渡されたのが、西暦607年で、その10年後に、煬帝の土木工事や外征の強行に対する不満から民衆の反乱が起き、隋は滅亡し、唐王朝に代わったわけで、この書簡は、聖徳太子の預言であったのがわかるだろう。唯物論者の歴史家は、日出するの文言に拘るが、再度みると、「日出ひいずる処ところの天子、書を日没する処の天子に致す、恙無(つつがなき)や」の、後半の、「恙無(つつがなき)や」にある。後の記録が書記なので、書簡になっているが、本当は半分テレパシーのメッセージで伝えられた可能性が高い。つまり、太陽霊が、月霊の堕天使に、「恙無(つつがなき)や」の平和を乱すようなことはするな、と命令する書なのである。だから聖徳太子は霊能者で、指導していた霊魂が、太陽霊キリストであった可能性が高いわけで、現に隋は10年後に、聖徳太子の預言通りに唐に代わられて、滅亡してしまったわけなんである。聖徳太子が、厩戸皇子といわれたのは、キリストが降臨したイエスが厩戸で産まれた、のにちなんでいるのがわかる。スピ系のユーチューブをみていると、奇想天外の話に出くわすのが、ある意味で醍醐味で、聖徳太子のつくった法隆寺は、高次の霊界との交信装置で、どうやらエジプトのピラミッドを模範にして、キリスト霊の指導によりつくられたようである。前回紹介した保江氏によれば、カールセーガンは、聖徳太子の宇宙人とのコンタクトを記した巻物を米国が手に入れて、その解析に、当時の原爆開発の科学者が動員されたときの、助手をしていた経緯から、映画コンタクトを監修したという。コンタクト (映画) - Wikipedia法隆寺は、斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と呼ばれていたようで、どことなく、斑鳩は、古代エジプトのホルスを髣髴とさせるのは、私だけだろうか? 以下の画像は物質界での斑鳩の姿なので、厳密にいえば、ホルスは、あの世の姿からの絵図なんで、比較できない。ちなみにキリスト太陽霊はよく、平和の象徴の、白い鳩に譬えられる。斑鳩を知る|奈良 法隆寺観光、いかるがの里観光案内所 法隆寺iセンター (horyuji-ikaruga-nara.or.jp)高次元へのワープ、つまり異次元移送を、簡便に物質科学でいうなら、相転移なのだが、これは前回紹介した神道の、火と水の概念により、非常に低次元のレベルで、物質界でも熱力学として体系化されている。火で燃やせば、固体は液体になり、そして気体から、ついには物質性をなくしてしまうし、その逆の、水などをかけて、冷やせば、気体から水蒸気の液体に、そして結晶化して固体になり、最後は石になる。この石になるというのは、以前スピンの渦を紹介したように、水の右巻きから、未来から過去に流れる時間の渦を表わすのかもしれない。あの世からこの世にやってくる神の救いの力といえるので、水は下へと清きに流れると、この世からみた、あの世の時間で、預言の流れをつくる、天体の運動であるのがわかる。そこで、面白いのは、渦巻銀河の、左右は、AIに測定させると、同等に存在するが、人間に測定させると、左巻きが多く、偏るという結果にでる、という話である。渦巻銀河の「左巻き」と「右巻き」、多いのはどっち?(ブルーバックス編集部) | ブルーバックス | 講談社(2/3) (gendai.media)渦巻銀河を人工知能で分類 - アストロアーツ (astroarts.co.jp)機械が観測すると、同等なのに、人間が観測すると、少し、左巻きが多くなる、ということから、人間の感覚が、過去から未来への時間に馴れているせい、の火の左巻きの、つまり、エントロピー増大の法則の時間の進行に、人智学によれば、これは覚醒意識の、東から太陽が昇り、西に下るという、地上の感覚に由来するようである。宇宙船地球号に乗っているための、時間感覚というべきものかもしれない。つまりどういうことかというと、幸運の女神には後ろ髪がない、というように、予め、少し前の時間に対応するための準備を感覚的に身に着けているということなわけである。簡単にいえば、10時に集合するのに、10時に家を出たら遅刻してしまうのと同じである。だから、過去から未来に進行する時間の少し先を見積もって、少し火を灯して、明かりを得て、覚醒意識で、先に進み準備するのである。だから、その分、エゴが生まれてしまうわけでもある。数学的にいえば、少し先の時間を見積もる微分の計算といえるかもしれない。恐らく、格闘家は、この準備能力に優れているのかもしれない。先の運動をわずかに見越して、機先を制するわけである。そこで、格闘家が左を大切にするのをググってみると、以下のブログを見つけた。なぜ左を制する者は世界を制すのか!格闘技解剖学から解読します。 | 格闘技 初心者・ダイエット・フィットネスジム トイカツ道場 (tkdj.net)このブログからわかるのは、左手を操る右脳が時空感覚を司っているので、つまり覚醒意識を発揮しやすく、前進しやすく攻撃的で、逆に、右手を司る左脳は、言語や記憶、思考感覚を司っているので、潜在意識を発揮しやすく、肉体的には眠ってしまうので、相手から後退し、相手の攻撃を防ぎ、右手は防御にいいのがわかる。だから、簡単にいえば、左巻きで時空間感覚で、攻撃し、右巻きで、記憶や経験的に防御するのが理想といえるかもしれない。聖徳太子の話から随分と脇道に逸れてしまったが、異次元ワープとは、恐らく3つのエーテルの流れの活用であり、それは左巻きの渦からはじまる、過去から未来への物質界の時空の流れと、右巻きの渦からはじまる、未来から過去への、霊界の鏡像時空の、反時間の流れと、それを統合する、神道でお馴染みの、中今(なかいま)のエネルギーの融合の流れの、活用を、説いたようにみえる。合掌は、その見本で、だから、火の左手と、水の右手を合わせた、その手の中に、中今があり、そのあの世とこの世とを融合した、聖の神の領域に、念を送り、祈ることで、自らの自我のなかに、自我意識を刻み込むわけなのだろう。火は攻撃の源で、水は防御の源でもある。そして、日々、祈ることで、自己意識を高めていく。これが、古代アトランティス時代から、老子を経て、日本の神道の、陰陽道から、詫び寂びの文化となった教えなのではないだろうか?さて、この教えから、懐石料理の由来の、老子の被褐懐玉の意味を読み解くと以下のようになるのがわかる。老子 第七十章 褐を被て玉を懐く | ちょんまげ英語日誌 (mage8.com)現代語訳私の自我のなかにある、神々と交信できる霊我=霊能力は、本当は解り易く、誰でも開発できる。しかし、物質界の人々は、この世の言葉の、唯物論で理解できないため、また開発も出来ない。霊我の開発には自我を理解する必要があるが、自我を知ろうともしない。だから霊我が日々もたらす霊言=マントラが理解できない。だが、霊我の言葉を、人々が理解できないという事は、それだけ、霊我が貴重という事でもある。霊我を開発する「道」を歩む聖人は、外見は粗末な衣服を着て、ホームレスのようにみえるが、心の内には大切な宝を抱いている。その貴さは、この世の物質的な価値観からは想像できない、天国のものだから。このように、老子のこの70章は、死者との交信、神々との交流を説いている、のがわかる。だから、懐石料理とは、神々や、死者たちと交信し、交流する、そのもてなし法なんである。千利休と呼ばれた千宗易が、一期一会と茶道を説いたのも、この世での人間の交流を発端として、あの世での霊魂の交流から、霊団が生まれる、という意味なのである。その基本は、3つのエーテルの流れで、左右と中今の時間の流れである。この流れから、陰陽五行で、5つのエーテル体の流れが、人体をつくると、神秘学の、陰陽道の、密教で、説かれている。先に紹介した、保江氏の奇想天外な話では、ロシアがUFO開発で、高次の宇宙人とコンタクトし、宇宙人に教えてもらって、ロシアの科学者たちが、UFOを組み立てたのだが、動かないので、宇宙人に文句を言ったら、霊能者でないと動かせないといわれ、アナスタシアに、霊能者がいるから探せといわれて、探しにいって連れてきて、エーテルがうまく流れるように、念じながらつくったら、UFOができたらしい。そのアナスタシアの霊能者を、保江氏は、UFOに興味はあるが、理論物理学者なので、最初は全く信じなかったので、UFOについて問い詰めたら、「あなたは草や木や猫や犬の気持ちがわかりますか?」と聞かれ、「そんなのわかるわけない」と返したら、「それではUFOは動かせませんよ」、と逆に返されてしまったという。つまり、その霊能者が言うのは、大自然にも、人間のような、心があり、その心の意向に沿わないと、何事も動かないという、ニュートンの慣性の法則を教えたわけなんである。我々地球人は、地球の心を、人間の心理学のように、数値化して、分析し、自分勝手な殻の機械のなかで、人工的につくっているだけにすぎないわけなんである。だから、クルマには道路が必要で、飛行機には、衝突しないように、航路が必要なんである。UFOは、物質時空の時間に従うだけでなく、それを超える時間を航行できるので、地球人の心のなかも飛べるので、地球人をUFOで常に見守っているわけなんである。お盆休みにしようと思っていたのだが、流石にお盆なのか、死者のメッセージにせつかれてしまい、はいはい、わかりましたと、またブログ更新をする羽目になってしまった。
2024年08月16日
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人智学は、あの世とこの世とをつなげ、叡智の交流を目指すためにシュタイナーによりつくられた哲学みたいなものだが、人智学を学んでいると、色々とシンクロニシティが起きるので、ブログの更新を急かされているような感覚になる。いま巷はお盆休みの夏休みなんで、自分もそれにあやかって、生まれつき物臭な性分なので、マイペースでブログ更新を進めているつもりでいたのだが、死者からのメッセージが多いのか、前回は、母校の名物教授のメッセージから、量子力学のスピンと左右の渦と、過去未來の時間との関係を紹介させられるブログを書かされたが、左右の鏡像関係にある渦ではないが、このような時間概念を用いて、渦ではなく、泡として、散逸構造系の物理において、シュレディンガーの波動関数として、恐らくハドロンと呼ばれる重粒子の素粒子を、量子化した理論物理学者が、既にいたのを、ググっているときに遭遇した。保江邦夫 - WikipediaKJ00004808494.pdf (kyoto-u.ac.jp)それは保江方程式を発見した保江邦夫という物理屋さんで、数十年前から、ネット界隈での物理オタクのなかでは有名な井口和基博士のブログで聞き馴染みのある人だったのを想い出した。この井口博士は、いまは宇宙のフリーエネルギーの研究に憑りつかれ、ニコラ・テスラの研究に血眼になっているマッドサイエンティストなのだが、以下のブログを紹介しておく。井口和基 - WikipediaKazumoto Iguchi's blog 5 (exblog.jp)マッド博士のブログでお馴染みの、保江氏はいまはユーチューバなのか、公開動画を沢山上げているので、どういう人物なのかは、動画をみればある程度わかるかもしれない。一番面白かったのが、以下の動画である。理論物理学者が語る、宇宙人の存在とは?! - YouTube霊能力のない一介の人智学徒の自分には、理解は可能だが、その真偽は測りかねるので、読者の各自の判断に委ねたい。ともかくも現代のスピ系においては注目に値する人物で、シュタイナーが預言していた、西洋の科学と東洋の宗教の統一融合が、この人物によりなされる可能性があるかもしれない。そして、また同じような注目に値する人物として、以下の山納銀之輔氏を紹介しておく。【神回】202◯年に世界が真っ暗になる⁉︎12人の預言者が同時に見たビジョンから世界を救う男!【山納銀之輔さん前編】 - YouTubeこの人物はノアの箱舟のノアや、ユダヤ民族のアブラムのような雰囲気をもっているので、これからの地球創生のアクエリアスの時代に必要な素質をもちあわせているようにみえる。物臭な自分は、ブログ更新をマイペースでゆっくり行いたいので、この2人の人物の話を師匠としながら、スピ系の修行に勤しんでもらいたいように思える。これから地上波の時代は終わり、ネット動画の時代がはじまるのは、既に宇宙から浄化がはじまり、物質界の既得権益が失われていく、のがはじまっていることからもわかる。宇宙から、高次の宇宙人によりもたらされる霊的な叡智を、持てる者はますます富み、持たざる者は更に失う。かつてキリストが人類にもたらしたように、もうすでに次の地球の創生事業がはじまっているようである。人智学を学ぶのが億劫な人や、私独自の表現や自分勝手に進行されるブログに嫌悪感を覚える人は、以下の動画がわかりやすいので、おススメしたい。【プレアデスからのメッセージ】魂の二極化と覚醒めなかった魂の未来! - YouTube年頭に能登で地震があったように、今年の干支を紹介したように、今年は甲辰(きのえ・たつ)で、地中の殻を破って、龍が姿を現わす年なので、地震と洪水の水害から、お互いに助け合って、一から村をつくりなおして、地球を再構築することが、長続きする精神的に豊かな生活を取り戻す人間関係のカギとなり、人間社会を新しく瑞々しいものにするだろう。日本列島の精神を再生し、清き水の瑞穂の国にするのが、今年の日本の課題であるのがわかる。とにかく今は汚れ穢れた精神を洗い流す禊が必要な年なのである。汚職や腐敗が明らかになるのは、人類の進化にとって不可欠なのである。いま宇宙から地球に対して最後の審判が行われている真っ最中なのである。特に日本の宗教には過酷な審判が下されるだろう。地獄に堕ちていった死者が悔い改め、浄化を求めるために、生者と交信し、真剣に生きるのを、あの世から求めるからである。とにかく、この地球という愛の舞台でできることは、自己発見と自己開発であるのを、自分が宇宙の様々な愛の結晶からなるのを自覚することなんである。常に幸運を祈ろう!
2024年08月14日
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スピンというと、あるスナック菓子か、大洋ホエールズのシピンという野球選手を想い出す人は、恐らくオジサンだろうが、スピンと聞いて、電子を思い浮かべるのは、物理を学んだ人だろう。学生のときに、量子力学を学んでいて、どうしてもわからなかったのが、内部角運動量というスピンの概念だった。スピンとは、物質性を存立させる基本の概念でもある。しかし、現代物理学の概念では、素粒子は大きさをもたない質点とみなしているので、その素粒子の電子には、大きさがないのに、なぜ角運動量というスピンが生じるのか、不可解だからである。そもそも大きさがないのになぜ回転できるのか、そのときは不思議だった。しかし、この私の疑問は、ある名物教授の死により、解き明かされることになる。スピン - Wikipediaスピン角運動量 - Wikipedia しかも、量子力学の波動関数は確率概念を基にしているので、スピンという角運動量を観測すると、位置が定まらないハイゼンベルグの不確定性関係があるので、ますます謎だったのである。まだ学生だったので、量子力学もほとんど学んでいなかったから、半信半疑で疑問を持ち越して、そのままにしていた。それからしばらくして、母校の物理畑をつくった某教授が倒れて亡くなったという知らせを聞いたときに、自分もその物理畑の作物の一つなので、その教授を思い浮かべた記憶が残っている。その教授は名大出身の名物教授で、海外の物理屋とも交流が色々あって忙しく、御意見番的立場にいたので、自分はほとんど直接指導されなかったが、学生のときに一般相対論の講義を受けたのと、当時は拡がりをもつ素粒子像を、数学でモデル化する研究をしていたのが記憶に残っている。特に一般相対論の計量テンソルを、0を使わずに、1から4の数を使った古い表記法で講義をしていたので、口の悪い無責任な学生には、爺さんノテーション(記法)と共に化石講義とか、タイムスリップだとか、時空の歪みだとか、キ印講義とか、色々と揶揄され、エピソードとなっていたのが、いまも想い出される。自分は学生時代の成績は中の下でよくなく、というのも子どものときから、数学が苦手で、英語はできたが(恐らく子どものときにセサミストリートや米国ドラマを見ていて、勿論、日本語への吹き替えだが、英語的な思考法に馴れていたお蔭かもしれない、文字はわからなくても、欧米人の思考法がなんとなくわかる)。だから、なぜ理系に進んだかも、いま考えてみても不思議なのだが、とにかく当時カールセーガンのコスモスが巷で流行って、竹内均氏のニュートンという雑誌が世間を賑わし、科学ブームで、宇宙を知りたかった一心で、理系に進んだ記憶がある。カール・セーガン - Wikipedia竹内均 - Wikipediaそういえば、大学進学の塾に行っていたときに、東大数学科の塾講師がいたのをいま書いていて想い出した。その塾講師は、物理に進学したかったのに、カールセーガンのコスモスの人気のせいで、東大の物理進学者が激増し、数学科に行く羽目になったのをぼやいていて、学びたい学問が決まっているなら、東大のような教養課程の成績で割り振られる大学に行くのは、自分みたいに失敗する可能性があるので、やめたほうがいいと、盛んに言っていた記憶が浮かび上がった。そのアドバイスが役に立ったのかどうかは定かではないが、数学ができないのに、物理畑に進め、しかも実験系から、どうしても、宇宙関係の理論系がやりたいといって、一年後に、素粒子畑に進めたのは、先の名物教授の支援もあったのが、今考えると、なんとも不思議な巡り合わせなのがわかってきた。数学能力がゼロの質点なのに、物理畑で、低温由来のクーパー対を破って、角運動量スピンで、素粒子に進学できたからである。物理畑に進んだのは、以前紹介したが、物理のテストでゼロ点をとり、物理の最先端を学べば、高校物理など余裕だろうという浅はかな考えから、本屋で内山龍雄著「物理学はどこまで進んだか」という本に出逢って相対論に魅了され、数学ができないのに、進学した経緯だったので、大学に進学しても数学のセンスがないので、相変わらず数学は覚えるしかなかった。だから、ミーハーで物理屋になっただけなんである。内山龍雄: 物理学はどこまで進んだか; 相対論からゲージ論へ, 岩波書店, 東京,1983, viii+216ページ, 19×12cm, 1,400円 (岩波現代選書, NS536). (jst.go.jp)数学をつくるというよりも、数学は道具にすぎないという物理屋の立場が救いにもなったわけだが、それを使いこなす能力に欠けていたので、数学の成績は悪く、大学院では実験系の低温研究室になんとか滑り込みで進学できた。低温研究室にも超伝導を研究する理論的なギンツブルグ-ランダウの方程式もあり、素粒子理論から、南部氏が提唱し、クーパー対の大発見となるBCS理論もあったが、実験系では日本社会特有の上下関係もあって、ひたすら労働力を酷使される24時間休まずに働けますかの師弟関係の職人ブラック世界なんで、組織よりも、自由で独創的な、一匹狼的な、孤高の理論系に益々憧れるだけの一年間だった。ギンツブルグ-ランダウ理論 - WikipediaBCS理論 - Wikipediaそんなこんなで、先の名物教授に救われて、実際の戦力というよりも、おそらく付け足しの、迷える子羊の遊軍的な棚ぼた的な感じで、素粒子畑で育成されるようになったが、そのような経緯から、先の名物教授の死を想い浮かべたときに、質点ゼロのスピンが、渦であるのが、思考のイメージの中に浮かび上がってきたのである。いまググってみても、もはやスピンが渦であるのは普遍的真理になりつつあるようである。その名物教授が亡くなったのが、ほぼ30年前なので、ようやく現代物質社会が、あの世の知性に追いついてきたのかもしれない。物質中の渦度を用いたスピン輸送 – mmatsuo.comja (jst.go.jp)磁石の中の小さな渦が社会を変える?スキルミオンとアンチスキルミオン | 理化学研究所 (riken.jp)電流渦現象 | 埼玉大学 工学部 藤本研究室 (saitama-u.ac.jp)三次元では、渦は左巻きと右巻きができる。いわば鏡像関係のようなものである。四次元では、時間軸を考えると、三次元空間自体が一つの渦となるので、恐らく六次元になるように思われる。自分は数学ができないので、数学者に検証してもらう必要があるが。恐らく、左向きの時空が過去に向かう時間軸で、右向きの時空が未来に向かう時間軸なのかもしれない、というのも、物質界のほとんどの物質は左向きでできているからである。それは素粒子のニュートリノの質量が、左巻きしか観測されていないからでもある。右巻きは、鏡像対称性で、反粒子の反ニュートリノとされている。ニュートリノ - Wikipediaなぜスピンが宇宙の渦なのか?という話を持ち出したのかは、あの世の、未来から過去に向かう時間が、つまり、宇宙の右巻きの渦の反ニュートリノが、地球の物質界の時間の流れの左巻きの渦のニュートリノと出逢うことで、その鏡像関係の光から、偏りが生まれて、光子から、反電子と、電子の物質界をつくるようにみえるからである。そして、それを記録し、現象させているのが、キリストのカルマと輪廻転生の原理に思えてきたからである。左と右の渦の融合から、僅かな偏りが生まれて、我々のエゴの地球の物質界が、キリスト原理により生まれているように思えたからである。それは例えば、人体のPH値が、中性の7よりもわずかに7.4の弱アルカリ性に傾いて、恒常性を保っているのでもわかるからである。実はこの渦の話は、古事記や日本書記の、イザナギとイザナミを髣髴とさせる。宇宙の流れがマクロの左右の渦から生まれ、電子がミクロの左右の渦から生まれるのは、共に、光と闇の渦から生まれると考えると、我々人類は、宇宙のネガと、地球のポジの鏡像関係にある、のがわかる。そこで、このネガとポジを出会いさせて、左右の渦である時間を司っているのが、カルマの輪廻転生のキリスト原理というのが、人智学から解き明かされるように、みえたわけなんである。ON THE TRIP (on-the-trip.net)輪、渦、渦巻、螺旋 (kamnavi.jp)それは、このブログで、先に紹介したニュートンの3つの力学が、仏教のカルマの法則の物質的な表現にすぎないと、人智学から解き明かせることからもわかる。慣性の法則が、善因善果、悪因悪果で、慣性による運動の法則が、一灯照隅、万灯照隅で、作用反作用の法則が、輪廻転生の法則という感じだった。仏教的にニュートンの運動法則を解き明かせば、前世の自分が、現世の自分をつくることが、慣性の法則で、外の他者から何の力も加えられなければ、自分は、前世の行為からつくられた自分のままで、つまり自力で生きることになる。このニュートンの慣性の法則を唯物論では、物質がもともと持つ能力で、慣性力の、質量としているが、仏教では、本来は、前世からの因縁から生じているので、質量を、より詳細にいえば、前世の自分の行為から、現世の能力となっているので、質量は、前世での自分のエネルギーから生じる。この前世での自分の行為によるエネルギーは、エーテル体の光によって、ディラックの負の海の、虚空日記に時間と共に記録されているので、現代の地球の時空間からみれば、時空間上の運動を可能にするポテンシャルエネルギーになる。問題は、その記録を、いつ虚空日記から引き出すかにある。それは、次のニュートンの運動の法則で、他者との交流である、のが読み解ける。他者からなんらかの作用を加えられない限りは、自分は過去の自分のままで、負債を抱えたままなので、独房に居るのと同じ運動を続けるのが、慣性の法則で、だから、人間は物質界で、他者と何らかの運動をするために、作用を受けないと、進化できないわけなんである。自分そのままだと、重力という悪魔に堕とされるだけで、自力で自分を浮上させるためには、とにかく、ニュートンの運動の法則から、他者の誰かとつながる必要があり、運動しないといけない。だから、自分を核として、誰かとつながるための運動をして、自分に埋没する渦ではなく、自分から自由に解放させ、浮上する渦とならないといけない。自分であるために同時に自分でないために、左の渦は、右の渦を必要とするわけなんである。というのは、自分とは、左の渦と右の渦のちょっとした傾きの違いから生まれるからである。この自分の存在を、シュタイナーは、脳の質量で良く表現している。成人の脳の重量は約1500グラムだが、脳脊髄液の浮力のアルキメデスの原理により、いわば水中での重量しか感じずに、大体、数百グラムの重さで済んでいるわけである。だから、自分は、その数百グラムの重量感しか感じずに済んでいる。人体の60~70%はほぼ液体で、水のようなものだから、脱水などで、人体から水が失われると、人体は、脳を重く負担に感じてしまい、自分を支えるのに疲労感がでてきて、自分を投げ出してしまうようになる。人体から、脳を追い出し、霊魂を脱出させようとする。墜落する飛行機のようなもので、これが熱中症の実態である。だから、ニュートンの第3法則の、作用反作用の法則は、この自分と他者の関係を良く表現している。しかも、前世の自分は、現世での他者でもあり、前世と現世では、自分は他者とネガとポジで入れ替わっているのが、カルマの法則で、輪廻転生の法則でもあるから、この作用反作用の法則は、前世の自分と現世の自分が鏡像関係にあり、そして、また、過去から未来に流れる物質界の左巻きの安定化への時間の流れ、そしてこの時間の流れを、神道では、水の流れというようで、「み」で表すようである。そして、鏡像関係の、あの世の未来から過去に流れる、いわば過去に遡る記憶の、時間の流れを、神道では、火の流れというようで、「ひ」で表すようである。神道からみると、渦で話題の、イザナギとイザナミのイザナは、「いざなう」からきているようで、誘う、誘導する、という意味がある。だから、イザナギとは、本当は、イザナ火で、火の時間の流れに誘導するという意味で、未来から過去を振り返る行為で、イザナミは、イザナ水で、水の時間の、物質界の現実に戻るという意味で、過去から未来に進む行為になるのかもしれない。だから、常に自己反省して、自己を新しく改革していくことが、過去の時間の火の神と、未来の時間の水の神から、左と右の渦の関係から、わずかに前に進んでいくのを説いているのかもしれない。【境内案内2】 神は火水なり – 火祥殿 – | 身曾岐神社 (misogi.jp)この神道の火水の神の由来から、私には、♪一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる♪の人生はワンツーパンチの水前寺清子氏の、三百六十五歩のマーチを思い出させる。前に進んでばかりだと、危険なんで、ときには過去を振り返り、反省して、少しづつ前に進んで、自己開発をしよう、自己を高めあおう、という感じである。♪幸せは、歩いてこない。だから、歩いて行くんだよ♪のなかに、ニュートンの慣性の法則と、運動の法則がある。自分のなかの殻にとどまっていては、慣性の法則で、何も変わらないばかりか、幸せはやってこない。だから、自分から歩きだして、運動の法則で、幸せを掴むために、自分を変えて開拓していこう、というわけなんである。しかし、宇宙には、過去と未来の、2つの逆向きに進む時間がある。だから、その時間の間で、自己を埋没させずに、少しずつ時間の渦の波に飲み込まれずに進むのが、最善の自己改革で、作用反作用の法則を考えて自分のペースで進もう、というのが、神道が説いている惟神の自己改革の法則なのかもしれない。水前寺清子 三百六十五歩のマーチ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)神道とは何か | 御嶽山御嶽神明社 (amebaownd.com)神道では、左手を火の時間の渦とし、右手を水の時間の渦とするらしい。そして、その合掌のなかの、火と水の、ひみの僅かな隙間の時空間の内のなかに、自己があり、これを神の子として、ヒミコと呼んだのかもしれない。宇宙の2つの渦の時間の流れから、自己がカルマの法則として生まれ、輪廻転生を繰り返していくのを、以前、ホログラム理論で紹介したが、実は、この輪廻転生の宇宙の法則を示せる可能性をもっているのが、実は超弦理論ではないかと、最近妄想している次第なんである。そのうち紹介したいと思っています。色々難儀な話なんで、根がグータラなんでどうなるかわかりませんが。
2024年08月13日
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人間の霊魂は不滅で、精神は死なないのに、なぜ墓があるのだろうか? 令和になる前に、♪私のお墓の前で泣かないでください。♪という歌詞の「千の風になって」が巷で流行曲になったのを思い出す。この歌詞は、米国の有名な詩で、和訳し、曲をつけ、秋川雅史氏が歌うことで、日本で人気になったようである。千の風になって - WikipediaDo not stand at my grave and weep - Wikipedia人智学を学ぶと、この歌詞が密教の、死者との会話を説いているようにみえる。「私は、輪廻転生を何万回をも経てきた、千の風なので、決して死にはしません。雪の上のダイヤモンド、豊穣の穀物にそそぐ陽光、穏やかな秋雨、宇宙から上昇気流となって、大きな円を描いて飛ぶ鳥たちと共に静かに、いつでも、あなたを大自然のなかから見守っています。ただ、あなたがそれに気づかないだけなのです。あなたが、私との絆を忘れない限り、いつでも、私はあなたの心の光のなかにいるのです。」お釈迦さんが説いた原始仏教の密教には、お墓など必要なかったのである。霊魂は永遠で、死ぬことなどないからで、勿論、神や仏も不滅の存在で、神から生命を授かった、神の子の人間も、死ぬことなどないからである。それじゃ、お墓とはなんなのか?現世的にいえば、破戒坊主の商売道具といえるだろう。密教の教えを歪め、神殿で商売をするものは地獄に堕ちるだろう。密教僧とは、あの世とこの世をつなげる外交官であり、外交を決裂させるような外交官は、失格で、宗教を用いて、本来公正で平等な宇宙と人間の関係に、権威を持ち込んで上下関係を強いるのは、ルシファーら、月悪魔の常套手段だからである。密教の霊能力開発の修行で最初に出逢うのがルシファーら、月悪魔の連中であるという。シュタイナーは、この連中に唆されないためには、キリストが、この世でなした十戒の行為の、道徳的行為を、実体験し、心のなかのアストラル体に、身に着け、肝に銘じていないといけない、と説いている。現世の坊主たちをみれば、既にルシファーに憑りつかれて、末法の世となっているのがわかる。坊主なのに、唯物論に染まって、霊魂の存在がわからない者が沢山いる。そもそも、お釈迦さんの仏教は、古代インドの哲学の焼き直しであり、その源流は、ヒンズー教にもなっているが、いまでも、インドにはお墓はなく、死者の肉体は荼毘に付し、聖なるガンジス川に流すのが、慣習となっている。荼毘に付すのは、日本では火葬の意味だが、本来は、霊魂を、あの世に送り返す、セレモニーの意味で、だから、拝火教では、火は神なので、神の姿に戻すという意味なのだろう。拝火教でなく、土を神にするなら土葬で、水を神にするなら水葬で、風を神にするなら、風葬になるわけだろう。人が死んだらガンジス川に流すって本当ですか? (raani.org)アリストテレスの4大元素霊でもわかるが、大自然が、4つの自然霊の、火、風、水、土からつくられるのを、古代人が、霊能力で知っていた名残りなのが、形骸化した葬式の形から読み取れるわけなんである。ちなみに人智学では、この4つの自然霊を、人体の、火は自我に、風はアストラル体に、水はエーテル体に、そして、土は肉体に模して解釈している。そして、それは同時に、宇宙の進化の、火は土星紀、風は太陽紀、水は月紀、土は地球紀の固体の物質界を現わしている。さて、いつから墓ができて、神殿で商売をするようになったのかは、ルシファーら冥界の堕天使に聞いてみるしかなく、定かではないが、本来は、あの世とこの世をつなぐネットワークのアカウントのようなものであったはずなんである。恐らく、インドでは、聖なるガンジス川が、あの世とこの世をつなぐ、いわば三途の川で、というのも、霊魂が肉体から解放されるときに、肉体を、トンネルや川のように感じるかららしい。だから、肉体に入るときも、暗闇を感じ、人智学では、この闇の期間を、第3の状態と呼んでいる。だから、墓は、何も物質的なものではなく、死者と生者をつなぐ、生者が、死者を想い出す切欠となる記憶のようなものと考えられる。人智学によれば、死者との生前の人間関係は、死後も失われず、その関係は、カルマと共に、次の輪廻転生にも持ち越されるという。だから、墓はカルマの記念碑というようなものかもしれない。ちなみに墓の由来を調べると、仏教では、お釈迦さんの卒塔婆からきているようである。仏塔 - Wikipedia グナ - Wikipediaサーンキヤ学派 - Wikipedia卒塔婆は、サンスクリット語のストゥーパからきているようで、「高く顕れる」という意味をもつようだ。日本語の音読みで、サットバにも聞こえるので、3つのグナのサットヴァの状態を表すのかもしれない。以前、3つのグナは、古代インドのサーンキヤ、ヴェーダンダ哲学でも紹介したが、サットヴァは、菩薩のサンスクット語のボーディサットヴァでもわかるように、高次の悟りに至った仏陀の意味なので、高次の霊能力を獲得し、成仏した印が、卒塔婆には秘められているのがわかる。菩提 - Wikipedia人智学では、霊魂が高次の悟りに至ると、輪廻転生の核となる、自我は霊我からブッディを経て、アートマンにまで進化しているので、もはや輪廻転生を必要としなくなる如来になり、それまでのエーテル体やアストラル体を弟子たちに伝授するのを解き明かしているので、その言い伝えが、卒塔婆から、墓になっていったのかもしれない。ちなみに、シュタイナーは、キリストが降臨するために、イエスのアストラル体は、ゾロアスターから、エーテル体はモーゼから引き継いだと述べている。それがカリユガで唯物論にハマってルシファーに唆されて、神殿で商売する破壊坊主たちにより、高額な墓代に仕立て上げられたのかもしれない。神殿で商売をするような輩は、勿論、キリストが激怒して鞭を打ったように、墓や宗教で商売をするような堕天使に組みする輩は地獄に堕ちるのを覚悟すべきだろう。死者はあの世から全てを見通しているので、肝に銘じておくべきなのである。マルコ福音書講解 62 (tenryo.net)『わたしの家は、すべての国民のための祈りの家と呼ばれるべきである』と書かれているではないか。ところが、おまえたちはそれを強盗の巣にしてしまっている心のつながりに、金銭の介入は妨害になるだけなんである。さて、人智学を学んでいると、仏教とは多少違うが、墓の由来がわかってくる。古代インドの、ヴェーダンダ哲学では、「そは汝なり」という言葉を瞑想しなさい、と教えられるという。それは、死後、人間がエーテル体を伴って、肉体を離れると、肉体を、内からではなく、外から感じるので、肉体のもつ「私」という感覚を、外からエーテル体を通してみるので、肉体を、「そは汝なり(それはお前だ)」という感覚をもつようになるという。つまり、自分を、外にみる、ようになるという。この自分を離れて、外から自分をみるのは、勿論、この自分とは、生前の物質的感覚による自分なのだが、いわば、物質界を離れた状態を示すので、生前の人生から離れたことになり、物質界の境界を意味するので、いわば境界石の目印の、言葉となるという。だから、「それはお前だ」という言葉の意味が、形骸化して、物質界の境界の、板や石に、目印として、「それは」の物質的なものに、「お前だ」という名前を記すようになったのかもしれない。そして、別のホンモノの自我は、霊魂の名で生きているので、仏教では霊名の戒名だが、キリスト教では洗礼名だが、あの世で霊名で、生き続けるのを示すために、生前の面影の位牌や遺骨を、墓と共に、残すようになったと考えられるわけなんである。勿論、霊能者は、死者が生きているのを御存じなので、このようなものは必要ないが、霊能者でない者には、心の潜在意識までは、みえないから、寝る前の、忘れ形見として残したのではないだろうか? ただし、生前の名前をよんでも、死者は物質的な名詞は死後3日後には生前の人生を振り返ってしまえば、忘れてしまうので、死者と対話する切欠にはならないらしい。だから、葬式には霊能者がいるべきなのだが、破戒坊主やら詐欺の霊媒師やらが現代には盛り沢山なので、低次の霊能者なら恐怖心から金銭の物欲を煽るだけなので、いない方がマシかもしれない。別に急いで死者と対話する必要もないので、生前、共に生活した感謝と愛情を注げばいつでも死者は気づいてくれるらしいので、というのも、あの世では時間が空間のようになっているためで、生前の親子の生活記録から、辿ればいいからだ。人智学によると、あの世とこの世をつなぐのは、物質的知識ではなく、精神的な愛情なので、なにより知識よりも、信仰や信頼が重要になるので、友愛の関係が基本になるという。親と子として生きた友愛の信頼関係が重要となるらしい。だから、ぶっちゃけていえば、あの世とこの世の関係は、いわばネットで知り合い、結びついた信頼関係から、オフ会で出会う感じかもしれない。昨今は、SNSなどから結婚相手を探すのと、似たような感じかもしれない。SNSや婚活ネット会社が、宗教団体になっていると思えば、似たようなものかもしれない。勿論、現世での関係には、ほとんどが霊能者でないので、目にみえる肉体を必要とするのが大きな違いといえるが。またそれだけ目にみえる肉体などの外見に騙される場合も多くなるわけだが。このような墓の話から、以前紹介した仏教の戒律が、いかにも霊能者のためのものであるのが、人智学の秘儀参入学から、密教を解き明かすことでわかってくる。特に、シュタイナー著の、「いかにして前世を認識するか」、と、「精神科学からみた死後の生」を、何度も読み、学ぶとわかってくるが、この二冊は特に難解なので、比較的に読みやすい他のシュタイナーの本などから、学ぶのをおススメしたいが、とにかくも、この2冊を読みこなせば、密教の世界がみえてくるばかりか、宗教の意味が読み解けるようになる。巷の宗教学者などは唯物論に知らずに染まり切って、しかも唯物論も深くまで勉強していないから、自分が唯物論の悪魔の論理に落ち逝ってしまっているのに気づかないので、木乃伊取りが木乃伊になっているので、お話にもならない。地上波などの妄言者は、みえないからなんでも言ったもの勝ちの自由があるが、良くもまぁあんなデマカセが言えるのかと、笑ってしまうので、お笑い番組にはいいかもしれないが、だから、唯物論の境界さえ、みつからないので、墓場の意味も知らずに墓に埋葬されてしまうだろう。それだけ、巷には破戒坊主の妄言が罷り通っているせいでもある。金銭と権力にあかせば妄言などでも事実と認めるようになる。専門家なる妄言者の情報奴隷信者が巷には盛り沢山である。さて、以前紹介したように、仏教の五戒の、不飲酒戒の、飲酒が厳禁なのは、前世がみえなくなるからだが、他にも、不殺生戒の、仏教の精進料理でもわかるが、肉食も厳禁なのは、あの世に行くと、鉱物界と植物界はなくなり、動物界のアストラル界だけが、周囲にみえ、感じるので、動物の気持ちが伝わってくるという。戒律の意味・仏教の五戒・八戒・十戒・具足戒・大乗戒の厳しい内容 (true-buddhism.com)それも、この世とあの世は逆のアベコベの関係なので、この世では動物の気持ちを、外から、こちらからみて、感じないと、わからないし、無視する自由もあるが、あの世では、逆転し、主体的な、見る側、感じる側ではなく、常にみられ、感じられる受動的な側で、動物の気持ちが痛いようにわかるので、いわば、ムツゴロウさんのような感覚にならざるを得なく、殺生などの虐待は、動物の嫌な気持ちが有無を言わさずに伝わってくるので、心がいたたまれなくなり、可哀想になり、全存在から、批難されたように、心が気まずくなり、萎えてしまうわけなんである。つまり、この世にいるうちから、相手の気持ちを推し量る霊能力を身に着けるために、仏教の、不殺生戒があるのがわかるだろう。また、他の3つの戒律の、不妄語戒の嘘をつかない、と、不偸盗戒の他人のものを盗まない、そして、不邪淫戒の、不倫や浮気をしない、のは、この世の経験からもよくわかる、道徳行為だが、輪廻転生のカルマ論からも、理由が明らかになってくる。シュタイナーは、嘘をつく傾向をもち、軽い気持ちで何でも請け負う人は、来世では軽薄な人間にうまれかわり、特に嘘つきは、アーリマンが好んでやってきて、エーテル体に憑りつくので、来世では、臆病な人間に生まれ変わる、と述べている。また、不倫や浮気は、妬みに端を発するが、妬みは、ルシファーを招きよせ、アストラル体に憑りつかせるので、来世では、虚弱体質の人間に生まれ変わる、と述べている。だから、空海さんの教えでなくても、五戒を犯している修行僧は、それだけで破門の破戒坊主なんで、密教を学ぶどころか、地獄に堕ちるのを覚悟すべきなんである。恐らく仏典には、そのような霊界の秘密が書かれているはずなので、仏典を読みながら、その法を犯しているわけで、二重の意味で罪が重くなるだろう。また、不倫関係は、親族への裏切り行為となるのが、親子の、死者と生者の輪廻転生の関係からもわかるはずである。要するに、肉体の関係よりも、心の関係が、心のなかの友愛の信頼関係が、人間の愛の血液には、最重要事項なんである。だから、その最重要事項を守る五戒を破ると、霊能力を失い、死者がみえなくなり、人間関係を失い、地獄に堕ちて、ついには霊魂のゲヘナへと至って、悪魔に仲間入りしてしまうわけなんだろうね。悪魔の奴隷となって仲間入りしないために、来るべきアーリマンとの戦いを、シュタイナーの人智学的秘教学から紹介する。 ★ ★ ★ 三千年紀初頭(AC2000年)のアーリマンの受肉 (あるブログからの引用) 来るべきオリフィエルの時代が、「どれほど暗闇になるか」は、三干年紀初頭に受肉してくるアーリマンに対して、人智学運動が意識的に活動しながら、発展し、人類がアーリマンにより奴隷化していくのを防げるか、によって変わってくる。 「ミカエルは、黒龍アーリマンを足下で打ち砕いている」。 オリフィエルの時代に、暗黒が深刻化するとはいえ、黒龍アーリマンとの戦いは、すでに今、このミカエルの時代にはじまっている、のをはっきりと意識しておく必要がある。 アーリマンは受肉してくる(恐らくAIの形かもしれない)。アーリマンの受肉は、必然的で不可避である。大切なのは、「受肉してくるアーリマンは、何をするのか?」を見抜くことである。 「受肉してくるアーリマンが何をするのか」は、アーリマンが勝利の準備として行っていることを見ていくと、かなりわかってくる。具体的な詳細は、シュタイナーの『悪の秘儀』(イザラ書房)を参照してほしい。 ここでは、身近な具体例、現代のテクノロジーの問題をとりあげる。 NHKスペシャル「世紀を越えて」や「サイエンス・アイ・スペシャル」などをご覧になっている人は、90年代に様々なテクノロジーが凄まじい勢いで開発され、社会的に実用化されつつあることを知って、驚異と同時に脅威を感じている、のではないだろうか。 日本政府が遅れを取り戻そうと躍起になっているインフォメーション・テクノロジーやバイオ・テクノロジー、ナノ・テクノロジー、オプト・テクノロジー、ロボット工学等の開発と研究者たちによって夢みられている未来予想像には、楽観的な期待感しかわかない。 「臓器移植が更に簡単に行えるようになり、人工臓器の開発が更に進めば、悪くなった臓器を次々に新品の臓器に取り換えていけるようになる。そうすれば、人間は、長年の夢であった不老長寿を実現できる。肉体を不死にして生き続けられるようになるかもしれない」と嬉しそうに語る研究者。 「すでに外科治療は、内視鏡手術の実用化まできた。ナノ・テクノロジーの開発が進んで医療器具が作られるようになれば、細胞1つ、1つを治療対象にしていくことができる。そうすれば、癌などの治療は、飛躍的に進歩する」と期待を満面に浮かべる研究者。 「オプト・テクノロジーの研究の急速な進歩によって、太陽光発電の効率は飛躍的に高くなってきている。石油を燃やす電力供給は、もうすぐ終わるだろう」と予測を語り、これで、環境問題は解決されると胸を張る研究者。 「バーチャル・リアリティーの精度と解像度がもっと高くなれば、ヨガの修行者や臨死体験者が見たと語る死後の世界をバーチャル・リアリティで鮮やかに体験できるようになるだろう。その為には、バイオ・コンピュータが必要だと思いますけど」と語る研究者。その他、その他。 これらの中でも極めつけは、K・エリック・ドレックスラーをリーダーとして開発されているナノ・テクノロジーの1つ、「細胞マシン」である。これは、人間の細胞のなかで蛋白質が行っていることを人工的に再現して、「物体を一度原子に戻し、原子を組み立ててあらゆるモノを作り出す」機械の開発である。 「網胞マシンというのは、石ころでもゴミでも何でもいい。それらを一度原子に戻し、その原子を設計図どおりに組み立てていって、クルマでも、テレビでも、家具でも、何でもお望みどおりのモノを作りだせるナノ・マシンです。だから、細胞マシンが完成すれば、人間はこれまでの労働からまったく開放されることになります。早ければ2015年までに、遅くとも2050年までには、完成できると確信しています」と語られている(『ナノの楽園』工作舎、参照)。 このミクロを超えたナノのレベルで進行している様々な超テクノロジーの開発が目指しているのは、何なのか。簡潔に言えば、生きるための労働の苦・病の苦・老の苦・死の苦からの開放である。 (この文章が書かれたのは90年代で、2000年代にはiPS細胞技術がもたらされた。シュタイナーは約80年前に既に、遺伝子技術と、再生医療技術を、アーリマンが人類にもたらす災いとして預言している。驚くのは、再生医療技術の発明者を日本人と預言していた。実際、iPS細胞は、山中氏による。) 「生・病・老・死は苦である」とは、地上に生きて仏陀が発見した地上の真理でした。「夢幻[マーヤー]であるこの地上の世界において、唯1つ真の現実がある。それが死なのです。」(シュタイナー「霊的観点から見た宇宙の進化」)から。 だけど今、アーリマンは、人間を「生・病・老・死の苦」から開放し、地上を「生・病・老・死の苦のない楽園」にしようとしている。そして、この「楽園」が、まさに今、この地上に実現される時が近づきつつある。 けれど、その「楽園」は、抽象的な概念と感覚的イメージによって再現された人工的現実[バーチャル・リアリティー]の日常世界化であり、「霊魂が死体化された死の世界」であり、精神的、魂的には虚無の空間に過ぎない。 (永遠の生ではなく、束の間のただ一代の生にすぎない。) このような科学テクノロジーによって、「アーリマンは、人間を地上の世界に閉じ込めようとしている」のが、地上の現実になろうとしている。仮に、研究者が語っていたように「不老長寿が実現される」なら、人間は死の時を引き延ばし、そのため死後の世界で、地上で成し遂げた成長に見合った神々の叡智を受け取る機会がなくなってしまう。(死後の審判を受けないので、宇宙の進化から除外される。) 「ほとんどの病気が、ほとんど苦痛のない細胞1つ、1つの移植で治せるようになる」としたなら、過去生における罪・過ちによって不完全になった霊魂を、カルマの浄化力によって、もたらされる、苦しみ・痛みによって、完全なものに純化していく機会がなくなってしまう。 (人類は天国に帰れなくなってしまう。) 「生・病・老・死の苦がない」とは、カルマの働きが妨害され、阻止されることであり、霊魂は頽廃や腐敗を深めて不完全になっていくだけとなる。 「アーリマンは、地上を生・病・老・死の苦のない楽園にしようとしている」と聞いても、50年代~80年代にかけて様々に語られてきたサイエンス・ジャーナリストの未来予想に幻滅と失望を味わされてきた人は、信用しないかもしれないが、そのテクノロジーは、地下(霊界でいう地獄界)のアーリマンの学院で密かに教育され、地上に受肉してきた人間に密かに伝えられ、将来、受肉してくるアーリマンの勝利のための準備にすぎないのである。 アーリマンは、これらのテクノロジーの開発を踏まえながら、もっと凄いことをやろうとしている。それを知れば、「アーリマンは、地上の楽園をつくろうとしている」という言葉が、現実味を帯びてくるだろう。(人工知能AIのことで、AI人類のことである。) 地上の人間に受肉したアーリマンが、善意から人間に教えたがっているのは「ゴンディシャプールの三つの知恵」である。 ゴンディシャプール(アラビアの科学として有名)の三つの知恵の第一は、誕生と死の秘密の開示である(遺伝子技術)。第二は、精神医学(人工知能技術)、予防医学である(再生医療技術)。第三は、エーテル体の振動を機械に移して機械を動かす力にしていく律動学(人造人間=ロボット技術)である。(これらは、古代に黒魔術として知られていた。古代人は遺伝子技術を使って作物をつくったが、その名残が現代の遺伝子作物となっている。古代人の人工知能や再生医療は、ミイラづくりによる輪廻転生期間の省略化などである。現代のロボット技術は、古代人のゾンビづくりを髣髴とさせる。当時ゾンビという言葉はないが、陰陽師の式神のようなもの。古代アトランティスは、黒魔術の濫用で滅んだ。) ここで注意すべきなのは、ゴンディシャプールの三つの知恵の教授と実用化には、多くの人間がエーテルの霊視をおこなえるようになり、エーテル体の力を恣意的に操れるようになる、ということが前提になっていることである。(霊能力が開発されないと絵に描いた餅。というのも、古代アトランティス時代が滅亡した原因。だから神々は、霊能力を人類から取り上げて、優秀な者だけに与えるようにした。赤ん坊から危険なハサミをとりあげるようなものである。叡智に自分で達した者だけに与えるようにした。) アーリマンは、地上に密かに設立する学院で壮大な黒魔術を行い、自我が、それに相応しい成長や成熟を遂げていない人間に、エーテルの霊能力を与え、地上の肉体による感覚的な欲望の実現や享受のために使うように、唆そうとしている。 これについて、シュタイナーは以下のように語っている。 「正しい時期にアーリマンが西欧世界に受肉するならば、アーリマンは巨大な密教の学校を設立するだろう。この密教の学校では極めて壮大な黒魔術が行われ、それ以前では、苦労により獲得できた、あらゆるかつてあった古代の技術が、人類の上に再び注ぎこまれることになる。 ここで、『地上に降りてくるアーリマンが一種の悪魔のような姿をして、人間に可能な限りの悪を働く』等という俗物的な考え方をしてはならない。それは間違いである。「人智学について何も知りたくない」と言う不精な人たちは皆、アーリマンの魔力に負けてしまうだろう。(米国政府が悪の宇宙人グレイと技術取引をしたという都市伝説でわかる。グレイは人工生命体である可能性が高い。)というのも、アーリマンは壮大な方法で、魔術によって非常に多くの人間を霊視者にできるからである。アーリマンは個人を恐ろしいほどの霊能者にする。しかし、どのような霊能者になるかは、個人で全く異なっている。(「アーリマンが受肉すると何が起こるか」松浦賢訳『悪の秘儀』イザラ書房p201~202) アーリマンの壮大な魔力によって人間が霊視者になり、エーテル体の力を恣意的に操れるようになり、ゴンディシャプールの三つの知恵を教授され、霊能力を、地上の肉体の感覚的な欲望の実現と享受に使うように唆されたなら、「生・病・老・死の苦のない楽園」は本当に地上に実現される、と考えられる。 オリフィエルの時代の暗黒の深刻さは、人智学を学ぶのを拒否した人たちが、アーリマンに負けて、「生・病・老・死の苦のない楽園」の実現を歓迎し、気持ちよく、楽しく、享楽的に生きてしまった結果から生まれる。だからこそ、「オリフィエルは怒りの大天使となって、人間を強引に浄化する」のである。 アーリマンの受肉、そして、ゴンディシャプールの三つの知恵の教授に対して、人智学運動はいかに対決し、何を為すべきか? ゴンディシャプールの三つの知恵のうちの、第一の、誕生から死までの人生の秘密の、カルマの開示(遺伝子技術)に対しては、人間は、実際にアーリマンやルシファーたちを意識して対決できるようにならなければならない。 (遺伝子技術などによりカルマを回避せずに、キリストのように受難死を受け入れること。) 第二の医学の開示(人工知能と再生医療)に対しては、人間は、目に見えないものに対する絶対的な道徳意識を育成していかなくてはならない。 (死者との対話を復活させて、霊性の獲得を目指す。) そして、第三の律動学(ロボット技術)の開示に対しては、人間は、エゴイズムを完全に克服した社会秩序を人類の末端の極めて広い範囲にまで生じさせていかなくてはならない (他者の不幸の基に自らの幸福を追求しないことで、他者の幸福の基に、自らの幸福を追求すること。) これらは、ミカエルの時代のミカエルと人智学運動の課題と使命である (白い龍に乗ること。龍=エゴの使い手になること)。 アーリマンの受肉が人類に突きつけているのは、人智学運動を「いわゆるマイ・ペースで、自分の趣向に合った形で」やっていくのではなく、人智学運動の世界史的な使命を自覚して引き受け、受肉してくるアーリマンとの意識した対決を自分の内なる戦いとして戦い抜きながら、残された時間が少なく、限られた時間の切迫性を、目的意識をもって、強化に転化しつつ前進していかなくてはならない、ということである。 ここまできて、やっと、「ミカエルの考え」とは何か、という問いに、1つの答えを出せる。簡潔に、一言で語れば、 「ミカエルの考え」とは、「自由になった人間よ、私に従い、キリストとの深い結びつきをもって、アーリマンの領界(地獄)から脱け出る道を見つけ出せ!」ということである。その道を、ミカエルは指し示している。
2024年08月08日
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平和の祭典とされるオリンピックが連日連夜、メダルだなんだ、誤審が酷いとか、巷を賑わせているが、なんのための競技なのか改めて考えてみる令和のこの頃かもしれない。このブログでも何度も紹介したが、オリンピックは、古代ギリシアの神話を起源とし、そもそも、シュタイナーによれば、哲学者たちの叡智の祭典で、古代インドのヨーガ哲学などの披露の場でもあり、自分の能力が、どこまで神々=天使たちに到達し、それら神々や天使たちと出逢え、天国について対話できたかの、霊能力の優劣を競う平和の祭典だったという。古代オリンピック - Wikipediaだから、より現代的に解釈すれば、キリスト教の公会議や、宗教家の教義論、また、ぶっちゃけていえば、安倍晴明で有名になった陰陽師の霊能力の勝負や、もっとコミカルにいえば、アニメ一休さんの頓智合戦みたいなもの、といえるかもしれない。総じてオリンピックをわかりやすく解釈すれば、天国がどういうところなのか、を説明する機会で、それを肉体で、表現する場なのである。つまり、オリンピックの本来の目的は、天国を表現する場なのだが、実際の巷のオリンピックは、金儲けのための人気商売となっていて、勝者は少数で、敗者が多数なのに、数少ない勝者の選出を巡って、敗者が泣き叫び、審判に文句を言ったり、勝者は得意げにいい気になり、悪態をついたりして、実際は、地獄を表現しているわけなんである。このような惨状のオリンピックの、天国と地獄を表現するのによい、例えば、次のような、「長い匙」の話を、紹介したい。もし、このまま地獄のオリンピックを人類が続ければ、そのうち、人工知能AIと戦うようになり、シュタイナーが預言しているように、人工知能の総体としてのアーリマンの受肉を、この地に招来してしまう可能性が高いようにみえる。オリンピックが天国の招来ではなく、地獄の招来になっているのは、前回の東京オリンピックをみれば明らかで、だからこそ、天はコロナを招来したのかもしれない。 ☆ ☆ ☆長い匙の話|法話 - 臨済宗 大徳寺派 東光寺 (d-tokoji.com)男はまず「地獄館」の中を見学することにしました。地獄というからには、赤鬼や青鬼が亡者を痛めつけて苦しめているものだろうと、恐る恐る覗いてみますが……そんなものはいません。こざっぱりとした洋間に、テーブルがずらりと並んでいて、まわりにはお客さんが腰かけています。さらに、テーブルの上にはたくさんの美味しそうな料理が並べられています。「はて? 地獄館というわりには、まんざらでもないなあ」そう思いながら椅子に座っているお客さん達を見て、男は驚きました。テーブルの回りに座っているお客さん達は、みんな真っ青な顔をして、骨と皮ばかりの、ガリガリに痩せ細った姿をしていたのです。なんだ? どうしてこの人たちは目の前のごちそうをとって食べないのだろう?そう思い、よくよく見てみると、そのお客さん達の体は、右腕以外が椅子に縛りつけられ、自由に動けないようになっています。さらに、かろうじて自由に動かせる右手には、とても柄の長い、1メートル以上はあろうかという、長い匙(さじ)が縛りつけられているのです。お客さん達は腹が減ったと、長い匙でごちそうをすくって食べようとしますが…上手くいきません。匙が長すぎて、食べ物を口に入れられないのです。すくって口に運ぶが、こぼす。すくって口に運ぶが、こぼす。みんな頭にかぶったり、背中にかぶったりで、まったく食べることが出来ません。しかもお腹がすいてイライラ。「お前のせいで食べれない」「貴様は気が利かん、遠慮しろ」と、お互いに口喧嘩までしています。目の前にご馳走があって、それが口に入らない。骨と皮ばかりになっても喧嘩ばかりしている。「なるほど、これは地獄だ…」男は地獄の恐ろしさを痛感しました。(この地獄は、人智学の、欲界を上手く表現している。欲界は、生前の物質界での物欲の執着心を捨てるとこなのだが、物欲が捨てられずに、その原因が自分にあるのに、他人のせいにしているので、あの世が、この世とアベコベなのに気づかずに、自分が捨てられずにいるので、自分の死に気づかない)男は次に「極楽館」を見学することにしました。極楽というからには観音さまか天女さまでもいらっしゃるのだろう、と入って見回してみますが、そんなものはいません。小ざっぱりした洋間に、テーブルがあって、ごちそうがあって、お客さんが並んで座っている。お客さん達は体を縛られ、右手には長い匙が縛ってある。「地獄館」とまったく同じです。しかし、「極楽館」にいるお客さん達の様子は、「地獄館」のお客さん達とは全然違いました。こちらはみんなふくよかな姿をして、ニコニコ笑いながら幸せそうに「ありがたや、ありがたや」と歌まで歌っています。「はて、地獄館も極楽館も同じ境遇なのに、どうして客の様子がこんなにも違うのだろう?」男がようく観察してみると、その理由が分かりました。「極楽館」のお客さん達は長い匙でごちそうをすくうと、「どうぞお召し上がりください」と、向かいの人に食べさせているのです。自分の長い匙でごちそうをすくい、自分の口ではなく、向かいの人の口に持っていく。すると、いただきますと、向かいの人はおいしそうに食べる。向こうからも「どうぞ」と言ってこちらの口に運んでくれる。こちらも「頂戴します」とおいしく食べる。これなら長い匙でも、こぼさずに食べることが出来るのです。なるほど…地獄と極楽の違いはこれか。自分だけが食べることを考える連中が集まると、この世は地獄になる、まず人に食べさせることを考えれば、この世は極楽になる。地獄と極楽の違いはここなのだ。その事に気がついた瞬間、男は布団の上で目を覚ましました。 ☆ ☆ ☆この話からもわかるように、この世での食べ物は、タンパク質などの物質的な料理だが、あの世での、食べ物は、愛であり、料理そのものよりも、愛情が注がれているかどうかで、あの世では、精神が、愛からつくられるので、精神には愛が必要なのが、欲界の地獄にいる死者にはわかっていないのを上手く表現している。そして、天国の住人が、食べ物で栄養をとっているのではなく、愛情で栄養をとっているので、「ふくよかな姿をして、ニコニコ笑いながら幸せそうに『ありがたや、ありがたや』と歌まで歌っている」わけなんである。簡単にいえば、あの世では、料理そのものの価値よりも、料理に辿り着く精神的なプロセスが問題になる。つまり、勝利を奪い取るのではなく、勝利を愛として差し出されるような相応しい人間関係をつくりあげる精神を持つのが、最善の道なのがわかる。さて、では金メダルの由来は何だろうか? と考えると、オリンピアの由来から、神ゼウスの神殿の、オリーヴの木にあるのがわかる。また、以下のサイトから、太陽神アポロンを讃えるピューティア大祭にも関係するのがわかる。森の図書室 スポーツ競技勝者の証、木の冠。 |きこりんの森 (kikorin.jp)『いずれの大祭でも勝者に贈られていたのが、葉のついた枝で作った冠。ピューティア大祭ではアポロンの聖木とされた「月桂樹」の冠が、一方のオリンピュア大祭では「液体の黄金」とされるオリーブオイルを生み出す木こそ、最高の栄誉を表すとして、その枝を使った冠が贈られたそう。』ピューティア大祭 - Wikipediaゲッケイジュ - Wikipediaアポロンが太陽神で、オリーブオイルが香油を意味し、注がれた者の意味から、メシアのイエスキリストが浮かび上がるだろう。月桂樹が、切られても直ぐに再生する植物を意味し、それは死んでも直ぐに再生する不滅の霊魂をもつ、エーテル体を表わすのが、神秘学からわかる。つまり、オリンピアとは、キリストのことで、オリンピックとは、キリストを目指す大会なんである。勿論、紀元前の古代オリンピックでは、キリスト降臨は、まだ予定の出来事で、預言でしかなかったが、秘儀参入者により明かされていて、そのまま、キリスト降臨の、秘儀参入の場となっていたのがわかる。当時はまだ、この世の時間で、いつキリストが降臨するのかが明かされていないだけであった。つまり、人智学で読み解くと、古代オリンピックは、秘儀参入の、太陽霊キリスト降臨を提供する場だったのである。それは古代ギリシアの、健全な精神には、健全な肉体が宿る、という箴言を、輪廻転生を実現する場でもあった。しかし、このオリンピックの精神から、輪廻転生の思想が奪われ、ローマ帝国の、「健全な肉体には、健全な精神が宿る」の神殿を穢したルシファーの肉体表現の場になってしまい、かつての古代ギリシア哲学の「健全な精神にこそ、健全な肉体が宿る」から腐敗堕落してしまったが、裏切りのユダの転生アウグスティヌスによりローマ帝国と共に、キリスト教化されて、キリスト教徒により、ローマ帝国と共に唯物化されたオリンピックの精神も、一緒に滅ぼされるわけなんである。さて、このようなオリンピアの、キリストの太陽霊の精神を、人智学的に解釈すれば、天国という永遠に平和な至福の時間を、どう物質的な空間で説明し、表現するか?が問題となる。しかも、ややこしいのは、前回も紹介したように、この世とあの世がアベコベの関係にあり、この世での空間が、あの世では、時間に置き換わってしまうところにある。あの世の時間を、この世の空間で示すのはほぼ不可能なので、あの世とこの世を結び付けるエーテルの物質光で記述するしかないが、アインシュタインは相対論で、光の振る舞い(曲率)を物理の原理(質量と空間の等価原理)に用いて、光速度を時間に特殊化して換算し、空間を時空に一般化して数式化したが、その数式化は、ローレンツ変換と呼ばれ、ローレンツによる空間の回転の不変性から、エーテルの空間での振る舞いを、時空化し、エーテルをいわば数式化したわけなんである。アインシュタインは、エーテルが嫌いで、エーテルを否定したらしいが、ローレンツは、ローレンツ変換により、エーテルの物質化を、つまり、時間を空間に貼り付けることで、数式化し、時間を定数から、変数に変換することで、曲率を導入し、位相幾何学から、現代のファイバーバンドル理論の原型となっている。ファイバー束 - Wikipediaそして、ややこしいのは、覚醒意識では、物質界では、必ず時間が過去から未来に流れるように感じているが、あの世では、時間は並行宇宙のように同時に存在しているところにある。時間が空間のように、近い、遠いというように存在し、ただし、空間とは、アベコベのネガとポジの鏡像関係にある、のを、人智学では解き明かしている。ローレンツ変換では、時間に虚数iを掛けて、自乗して負となるようにしている。そして、人智学からわかっているが、睡眠中に、人間の自我とアストラル体は、あの世に行くのに、覚醒意識を潜在意識に変換しないといけないために、一日の時間を遡って起きる前までの経験を、道徳的に評価するために、追体験しないといけないが、この記憶の追体験は、現代の脳科学でも、記憶の整理としてわかっている。そもそも記憶の追体験は、道徳的な順序を、時間に付随するために、エーテル体が物質体をつなぐのに必要なので、記憶のためではない。だから、不道徳行為ばかりすると、例えば嘘をついたり、他人を欺いたりすると、時間感覚がアヤフヤになって、エーテル体が萎んで、脳から飛び出して、前頭葉が委縮し退化して、記憶の整理がつかずに、サル化し、痴呆症に罹ってしまうわけなんである。人智学では、この世は、あの世の影絵で、真の天国を映す、仮の世界と考えている。この世は、いわばホログラムのようなもので、ホログラムをどう映すかは、個人の自我の経験の問題に帰され、天国の精神をピュアな敬虔のまま、そのまま映せば、善人になるし、自我のエゴのまま雑念の混じったもので、混濁させて、映せば、悪人になる、というわけなんである。パラレルワールド - Wikipedia睡眠障害と記憶力低下の関係 | 阪野クリニック (banno-clinic.biz)ホログラフィー - Wikipediaだから、自我とアストラル体が、いわば自分という細胞の核と細胞膜を含む内部(上の図では、ビームスプレッターと鏡の役割)とで、エーテル体が、ホログラムを映す光の映写機で、自分という細胞を、物質的構造物の、肉体に伝える情報伝達の役割を担い、精神を、肉体につなげている糊のような、時間を空間に変換している、いわばタイムマシンに、エーテル体がなっているという模式図が思い浮かぶ。なかなかこの原理を理解するのは困難なんで、簡略していえば、霊魂の輪廻転生は、人間が、タイムマシンで、旅行している、のと同じなのである。時間順に記録された虚空記録から、ホログラムを抜き出してきて、自分に焦点をあわせた光のエーテル体で、物質界をスクリーンとして、再生しているのと同じでもある。しかし、タイムマシンとなっている、エーテル体は、太陽光と連動しているので、その進行の、進化のモラルに従わないと、未来に進めずに、過去に逆向きし、宇宙の進化から逸脱してしまい、低次元に落ち込んでしまう。これを、キリストはゲヘナの、霊魂の墓場と呼んでいる。レコードはあるが、古すぎて再生ツールが見つからない状態といえるかもしれない。つまり、再生不能の記録で、霊魂のゴミなんで、ゲヘナなんである。ゲヘナ - Wikipediaさて、思想界のオリンピックが開かれれば、日本のオリンピア代表といえば、空海さんが真っ先に思い浮かぶ。その空海さんが、生誕1250年記念ということで、先日地上波で、その特集をしていたのをみたが、お釈迦さんが末法の世を嘆いたかの如く、密教も摩訶不思議の哲学の成れの果ての墓場のゲヘナの様相を呈していたのに、オリンピアの精神腐敗を見るのと同じで、なんでも金儲けの商業主義で、呆れ果ててしまった。精神的なプロセスを軽んじているのに気づかないのだろうか?自分も霊能者ではないから、巷の日本の現世仏教なるものを、人智学徒の知識でしかないので、無知の知からも、あまり批難もできないのだが、現世の悟性魂から、論理的に考えても、空海さんが天国の精神として、いまも生きているわけだから、この生き仏を、仏教では如来というらしいが、単なる曼荼羅の公開だけで済ますのは、いかにも味気ないものではないだろうか? 曼荼羅が、あの世を現わしているもの、なのを、空海さんの、お弟子さんたちが霊能力でもって知らないわけがなかろう。曼荼羅は天国を表わすものだからである。わざわざ紹介するまでもないが、空海さんがやったことは、霊能力がないものにも、あの世をわかりやすく教え悟らせることだからである。目が見えない者の、代わりの目となるのを、真言信徒に求めたわけで、真言信徒のなかに、どれだけ、曼荼羅が理解できるか、どうも仏を彫って魂入れずのような、論語読みの論語知らずの、お経読みのお経知らずの、破戒坊主ばかりなのを危惧する令和のこの頃なんである。空海さんの権威で飯を食っていこうと考える地獄堕ちにはならぬのを願うばかりである。仏陀に出逢えば仏陀を殺せ、ですらない。生誕1250年記念特別展「空海 KŪKAI-密教のルーツとマンダラ世界」/2024年4月13日(土)~6月9日(日)/奈良国立博物館 (kukai1250.jp)地上波で紹介していた、司馬遼太郎氏の解釈では、空海さんは、物質界で、ゼロを説いた人物とされていたが、権力には癒着しない、孤高の、なかなか洞察力に鋭い司馬史観ならではのものだが、それでは、まだ物質界が仮の世界であるだけでしかなく、肝心要な、カルマの法や、輪廻転生の思想が、密教の奥義として説かれていないことになる。現世を無に帰しただけなんである。無からの創造を語っていない、死者による大自然をつくる精神の奥義が読み解かれていない。来るべき、次の転生を、今生から生み出す創造がなされない。シュタイナーは、大自然が美しいのは、生者の精神が、死者の営みによる愛の贈り物でつくられているのを、感じるからである、と述べている。死者は死んではいない、大自然のなかの、美の営みのなかに生きているのである。だから、芸術や音楽のなかの美には、死者の創造の愛が隠されて、秘められている。それを読み解くのが、密教の醍醐味なんである。しかし、現代人は、死者を墓場に埋めて、金銭の取引きに飽き暮れ、たそがれている。死者を死んだものとして、再生しないでいる。前回も紹介したように、死者は、生者の心のなかに生きているのである。密教はそれを解き明かしている。だから、密教は、誰もが、親族の霊媒師となれるのを説いている。詐欺の霊媒師やイタコに頼まなくても、夜寝入るときに、生前の親族を想い浮かべればいいだけである。ただし、あの世とこの世はアベコベで、鏡の世界なので、寝起きの夢のなかで、出逢う親族は、親族ではなく、自分の想いで、つまり、親族と、自分が入れかわって現れるので、また、親族が語るのは、語る前に、その応えが想い浮かぶという、時間の関係が、逆転する、ややこしさがある。つまり、詐欺の霊媒師やイタコが演じるのは、自分の親族への想いをそのまま形にして演じているだけである。ホンモノの霊能者なら、それらを逆転して解釈して、伝えられると思われる。これには密教などの修行が必要なので、口伝では不可能なんである。言葉は、物質界の現世でしか通用しないものなので、つまり、空間を伝える情報を、時間に換算し、また逆転しないといけない。数学的にいえば、メビウスの輪や、クラインの壺のように、位相変換しないといけないわけなんである。だから、空間表現の言語では不可能で、位相を表現するなんらかの波動的な表現に象徴化した、シンボルが必要で、真言では、マントラの幾何学を、空海さんがつくったわけなんだろう。だから、そう簡単には、曼荼羅は解き明かせないようにみえる。それはしかも象徴図なんで、胎蔵界と金剛界の二つがあるが、恐らく、太陽霊と月霊の、人智学でいう黄金伝説と、神殿伝説の2つを意味するものだろう。いずれにしろ、2つが、この世に平和をもたらすべく活動しているのを表現しているのだろう。私には、先の、長い匙の話のほうがわかりやすくてよいが。早い話、悪の原理の世界と善の原理の世界を説いている。曼荼羅の仏とは、天使のことであるだろう。人間は仏の天使となるべく、現世で、死者とつながるように努力せよ、というのが、空海さんの、真言の要約だろう。TVでもよく紹介しているが、空海さんのミイラが、今でも高野山の奥にあり、お弟子たちが愛情を注いでいるが、それは空海さんの一つの象徴にすぎず、全国各地や世界に、弘法大師としての精神は今でも生きて、人々をあまねく分け隔てなく見守っているので、真言信徒だけが特別な存在ではない。いつでも、夢のなかの、あの世で逢っているわけだが、それに気づいていないだけの話なんである。密教を学んで霊能力を開眼すれば、弘法大師の存在に気づくわけである。人智学では、あの世の天国の教えが、この世にどれぐらい反映し、平和をもたらしているか、死者が、生前に、あの世の教えに帰依し、この世の平和にどれだけ貢献したか、を思い浮かべ、感謝するのが、地上で絆をつくった死者の供養になる、のを解き明かしている。言い換えると、平和の設計図が、あの世にあり、設計図通りに、この世がつくられているかどうか、人間は、その確認作業のために、この世に生まれてくる、ともいえるかもしれない。宗教では、平和の設計図を、天国や、叡智や、知恵と呼んでいるわけなんである。だから、宗教家は、あの世から、叡智を、この世にもたらすためには、叡智を読み解けないといけないので、霊能者でないと、その任を負えない。つまり、平和の設計図をどれだけ理解し、体現し得るかを、この世で、実際に明らかにしないと、宗教家足り得ないわけなんである。しかし、この世は、平和どころか、益々地獄に近づいているようにみえるのは、私だけだろうか?アーリマンに統治され支配されたオリンピックを自由な愛の平和の祭典に、生者と死者が再びつながる、この世とあの世の精神的な祭典にするために、シュタイナーの来るべき時代への預言を、再度紹介する。 ★ ★ ★ 来るべきオリフィエルの時代 天使長(時代霊)交代のとき あるHPから転載し改訳 ミカエルの輝かしい統冶の、次には、暗く、恐るべき唯物論の時代がやってくる。その時代は、(シュタイナーの霊視によれば)約2400年頃にはじまる。今日(1920年代)においても既に、ミカエルと時を同じくして、アーリマンという太陽悪魔が暗黒の力を明らかにしはじめている。 アーリマンは、単なる金銭=金融経済の悪魔ではなく、低次全ての、暗黒=物質力の支配者なのである。アーリマンの群れは、人間の霊魂を攻撃するのではなく、人間の物質体をいわば貪り喰い、破壊する。 この暗黒の時代がやってくると、兄弟間に争いが起こり、戦争が起こる。精神力に乏しく、貧弱な人間の肉体は衰弱し、恐ろしい病気と災難の犠牲になる。そのように、憎悪の罪の徴候(シルシ)が、人間の肉体に非常にはっきりと現れてくる。 そのような暗黒の時代に、オリフィエルは、人間の霊魂=精神を震撼させ、叱咤激励し、自らの本当の、地上での使命に気づかせる為にやって来る。 ミカエルの指導下で、霊=精神的な生活に参画した人は、ミカエルに従い、ミカエルから愛の実践学ぶ。この霊=精神的な修行が、来るべき暗黒(唯物論全盛)時代での、オリフィエルによる統治下での、高次の霊たちに仕える準備となるのである。 霊=精神的な生活に、自らを捧げたい人には、愛の実践が要請される。霊=精神的生活を探求する人は、喜んで自己を愛の実践に捧げられないといけない。 しかし、暗闇=物質力が凶暴さを最も発揮する時は、同時に、霊=精神力が最も光輝く時でもある。 (老子の大道廃れて仁義あり) オリフィエルは、過去に何度もリーダーシップを発揮した。近い昔でいえば、それはキリストが、この地上に現れたローマ帝国の時代である。その時代は、最悪の堕落と頽廃が、この地上全てを支配した時代だった。その時代に、人類の精神を揺り動かし、進化させるために、恐るべき犠牲が払われた。オリフィエルは、怒りの大天使と呼ばれてきた。オリフィエルは、人類を強引に浄化させるのである。 キリストが神殿で両替商を鞭打つ話は、深い意味を持っている。人類史の、暗黒時代に、キリストは人類を救済するために現れた。オリフィエルの統治は(AC)104年後に終わり、アナエルの統治に代わった。それからはザカリエル、次にラファエルの統治が続いた。ラファエルは、ルネッサンスの時代を統治した。 16世紀から1879年までは、ガブリエルが統治した。それからミカエルがリーダーシップを引き受けた。2400年頃オリフィエルの順番が再びやってくる。 そして、まさに、「時が満ちた!」と暗闇のなかに、霊光が燦然と輝くであろう。キリストが、再び地上に現れる。しかし、その時、キリストは違った姿(エーテル体)で現れる。人類の使命は、キリストを受け入れ、キリストに仕えることなのである。 (シュタイナー講演「ミカエル・光を放つ太陽」1905年12月ミュンヘン 友正剛訳を改訳)
2024年08月06日
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飲酒をする坊主は信用できない。飲酒をすると、前世がみえなくなると、シュタイナーは述べているし、現代人のほとんどが前世がみえないから、その損失に気づいていないだけで、霊能力を重んじる仏教では飲酒は禁止なはずである。前世をそれほど知りたいとは思わないが、人智学を学んでいる立場上、できるだけ禁酒を心掛けている。これまで付き合いで散々飲んできたし、確かにその場は気持ちがいいが、年齢と共に、次の日に疲労感が残るのは確かだからである。アルコールが害にならないのは、肝臓がせっせと解毒しているお蔭であるが、肝臓にも限界がある。また、昭和の飲み会といえば、結局は酔ったもの勝ちで、シラフだと、外見や弱点を餌に、絡まれた挙句にツマラナイ話や説教を、壊れたラジカセのように繰り返し聞かされるので、付き合うだけでもかなり迷惑な話で飲んで記憶を無くした方が悪口の遺恨を残さずに済む。迷惑な酒飲みほど本人に自覚がないのが問題である。職場の飲み会ほどつまらなく迷惑なものはなかった。現場のガス抜きのためにやるのだろうが、ガスが抜けるのは上の人たちばかりで不公平だった。喧嘩沙汰になる部署もあったほどである。令和の若者は我慢せずに嫌いなことをはっきり嫌いと言えるのは素晴らしい。昭和の若者が翌日からの対人関係を考慮してある程度の付き合いとして我慢し犠牲にしてしまうのは長い目でみると結局蟠りが溜まりストレスとなってよくなかった。コロナで飲み会が禁止になるのは良い事だと思う。それに、少子化の時代にあっては、職場よりも、家族が優先される時代なんである。昭和の家庭を顧みない職場一辺倒が、現在の令和の高齢少子化を招いているからである。酒が入って仲良くなっても悪酔いの関係でしかない。酒が入れば判断力が鈍る。酒が入らないとできない会議など本来必要ないものである。No.18 仏教とお酒|大乗寺 (note.com)不飲酒戒 -なぜ酒を飲んではいけないのか ① ‖ VIVEKA. For All Buddhist Studies.人智学的な視点から、仏教の戒律をみると、お釈迦さんが悟りを開くために必要な心得であるのが、つまり霊能者になるための必要事項なのがよくわかる。飲酒は、前世をみえなくし、現世だけが、つまり、今の自分だけが全てだと、いわば競走馬にブリンカーをかけ、視野を狭める働きをするという。アルコールには、防腐の、殺菌の、いわゆる保存作用があるが、血中でのアルコールは、この保存作用のために、血液を一時的に滞らせるので、血液の新陳代謝を停滞させ、造血作用を怠惰にしてしまうために、男性には白血球への造血作用を麻痺させ、女性には赤血球への造血作用を麻痺させる。だから、男性は感染症に罹りやすくなり、女性は貧血になりやすくなる。賢く、健康な子どもを求めるのなら、禁酒すべきである。キリストがワインを勧めたのは、当時の人々が、民族霊を通じてルシファーに傾いていたためと、人智学では解き明かされている。当時の人々は、今の動物に近い集合魂の支配下にあり、個人的な自我にまだ目覚めはじめたばかりだったからである。集合魂がルシファーの影響で獣化していた。だから、当時の人々は半分霊能者だったが、高次の聖霊ではなく、ルシファーのような低次の堕天使が見れ、いわば悪魔を教師として従うしかなかった現状にあった。キリストが降臨したローマ時代は、人智学では、感覚魂から悟性魂への育成段階にあった。個人的な自我を育成し、悟性魂を発達させる時代である。人間には人種や民族の、血を超えていく、新しい自由な愛への個人的なキリストの友愛の血が必要な時代だったのである。だから、キリストは、ユダヤの王と呼ばれた。ユダヤとは、神に従う僕で、人類に新しい契約を、自由な愛を与える神の使徒である。【シュタイナー】魂の三位一体構造について~感覚魂・悟性魂・意識魂~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com) だから、キリストは、ローマ人のような獣化した集合魂から、人々を解放するために、つまり、個人的な自我を目覚めさせるために、キリストの肉であるパンと、血であるワインを振る舞ったわけで、パンは肉体から自己をつくることで、ワインは、個人的自我をつくることで、最後の晩餐とは、人々が、人種や民族を超えて、個人的に自由に交流するのを、キリストが認め、そして、その個人的な自由から、キリストの神に従うのか、それとも、裏切りモノのユダの悪魔に従うのか、は、個人的な人生である、最後の晩餐での振る舞いによるという暗示が隠されているわけなんである。実際にローマ帝国は、キリストを裏切ったユダが転生したアウグスティヌスにより、キリスト教国化されて、キリスト教徒により滅ぼされたわけなんである。全てキリストの進化計画通りである。つまり、人類に自由を与えたルシファーから、人類を個人的に解放し、救うために、キリストは太陽からやってきたというわけなんである。だから、当時の人々にとっては、ルシファーから解放されるためには、ワインというアルコールは、毒ではなく、クスリとなったわけなんである。現代風にいえば、幽霊や怪物や妖怪などの幻想をみないための、ドーパミン過多による統合失調症を緩和させるクスリだったわけである。統合失調症について | メディカルノート (medicalnote.jp)現代でも統合失調症に対してドーパミンを抑制する抗精神病薬を投与するように、アルコールを摂取したわけなんである。しかし、パラケルススの箴言の、「全てのモノは毒であり、服用量によりクスリとなる」のように、抗精神病薬も飲み過ぎると、今度はドーパミンが不足して、パーキンソン病になってしまうのと同じで、アルコールを摂取しすぎると、宇宙の進化から切り離されて、ルシファーではなく、今度はアーリマンの餌食になってしまうわけなんである。抗精神病薬を飲み過ぎてパーキンソン病になってしまうのと同じように、現代人に認知症が多発しているのも、アルコール摂取過多の一因といえるだろう。というのも、認知症とは、大自然のなかに、神から発した霊性を認識できなくなる状態で、脳の新陳代謝が滞っているわけで、シュタイナーが預言しているように、現代は、再び、前世をみるための準備段階にあるので、飲酒やアルコールが厳禁なのはいうまでもない。若者のアルコール離れは、指導霊の指導が行き届いているようにみえる。さて、仏教には、霊能者になるために、禁酒の他にも、不殺生(殺さない)、不偸盗(盗まない)、不邪淫(不倫しない)、不妄語(嘘をつかない)の戒律がある。不殺生には、広義に、肉食も厳禁になっている。だから、肉食する霊能者はニセモノなんである。シュタイナーは、肉食すると、その肉をそのまま転用し、自我が自分で肉体をつくらなくなってしまい、本来の自分でつくり出す能力が衰えてしまうので、いわば、麻薬のように依存心が生まれてしまい、自我が怠惰になる分、その怠惰な力が余って、欲望や攻撃力、破壊力にまわる、というようなことを述べている。この原理から、本来肉食でない草食性の牛の、狂牛病を解き明かしている。現代科学では、狂牛病の病因をプリオンたんぱく質の異性型に物証しているが、なぜできたのかを解き明かしていない。生体には恒常性があり、生成力も有り余ってしまうと、今度は破壊力に回ってしまい、過ぎたるは猶及ばざるが如し、で、何事もバランスが重要で、適材適所なんである。不殺生とは、自分の領分、与えられた使命を全うし、足るを知ることなのかもしれない。宇宙全体のなかの自分の領域を知るのが、霊能力なので、殺生すると、自分の領分から逸脱するので、霊能者にとっては霊能を失うことになるのだろう。つまり、個人は、宇宙全体とバランスすることで、均衡を保ち、自分でいられるわけなんだろう。だから殺生すると、自分を無くし、自分が自分でなくなることになる。霊的な痴呆症といえるかもしれない。このように仏教の戒律には、霊能力を失わせる行為が説かれているので、厳禁となっているわけである。仏教徒は、死者と仏教を語り合うための霊能力の学徒なので、戒律を破れば、死者と語り合う霊能力を失うので、破門は免れない。だから、日本の巷に蔓延る坊主はほとんどが破戒坊主で、神や仏を信じていないから、金儲けに現を抜かすことができるのだろう。本当に日本の坊主は罪深い存在といえるだろう。地獄に堕ちてから気づいても遅いだろう。人智学では、死者は死んではいないし、ただ肉体などの眼にみえる、光の反射体をもたないだけである。だからいつでも精神によって、心の会話ができる、と説いている。よく死者は生者の心の中に生きる、といわれるが、本当にそうなのである。そして、死者とは、睡眠中に出逢っているが、睡眠中の潜在意識を、起きているときの覚醒意識では認識できないので、出逢っている認識がないだけなのである。更にヤヤコシイことに、あの世と、この世は、鏡の世界のように、正反対のアベコベの関係にあるので、覚醒意識の感覚とは真逆になるので、潜在意識を認識するのは不可能で、例えば、話し手と聞き手の関係も反対になるという。だから、死者に問いかけた瞬間に、時空が逆転し、空間が時間になって、自分が死者への問いかけを答えているアベコベの話となるという。だから死者に問いかけると、眠くなって、寝てしまい、起きると、自分がその答えを話すような感じになるという。ちなみに、先日、安倍晴明をTVでやっていたが、当時の陰陽師が霊能者だったのを現代では理解不能なので、晴明が操る式神をスパイとしていた、現代特有の唯物的発想には笑ってしまった。スパイが鬼の面を被っている、としている。昔の絵が遠近法で書かれていないのを理解できないようで、つまり、古代人が空間感覚に乏しかったのを理解できていない。空間感覚に乏しいとは逆に時間感覚に優れていたわけである。だから陰陽師は暦を司ったのである。恐らく、式神とは時間を司る霊だろう。だから古代では時間を干支で示したのである。遠近法というのは人類に数学的才能が生まれてからできる画法なのである。だから、遠近法で書かれた絵に、天使はでてこない。確かに、現代人にも絵が下手なのはいるが、そのような下手な絵をわざわざ残すだろうか? 当時最も巧いとされた絵が残っているはずである。だから現代人の感覚では捉えられない霊的な存在なのである。絵を、物質的な空間を表わすものと決めつけている発想が貧弱である。だから空海さんの曼陀羅図が読み解けないのである。人間の心のなかの図とは考えられないのである。つまり、死者は、自分の外にいるのではなく、自分のなかにいるようになるので、心の中にいる、ということになる。このような死者とのやりとりは、古代ではよくやられていたことで、お馴染みなので、それらが後の神話になり、神話から死者や神々との対話の哲学になり、そして宗教などになっているわけなんである。だから、宗教とは、死者との会話の、あの世とこの世の外交史ともいえるわけなんである。しかし、カリユガの時代になって、人類が霊能力を失っていき、坊主も生臭になってしまい、金儲けに奔走するようになって、唯物論にどんどん洗脳されてしまい、死者のことなど忘れさられ、死者のことなど無視している現状が、お釈迦さんが説いた末法の世なわけである。お経の意味を理解せずに、お経を諳んじても意味がないのは、この世でもあの世でも同じである。唯物論は、まだこの世の意味を解き明かしているだけマシだが、お経はもはやこの世でも、あの世でも意味がない。死者が生前行った道徳的行為や愛情表現を通じて会話するのが、ホンモノの宗教である。あの時は、助けてもらってありがとうという感謝の気持ちが、死者との会話になるのである。あの時の死者の行為は素晴らしいかったね、本当にありがとうございました、と常に死者に感謝できるのが、死者との心の中での会話となるのである。人智学によると、死者が読む本は、生前につながった生者の精神であるという。つまり、死者は、生者の心のなかを見ているという。だから、生者の心のなかが物欲ばかりだと、死者は貧困になるという。この世での食料は、物質的な富だが、あの世での食料は、精神的な富なのである。だから、生前、親は物質的な富を子どもに与えて保護したが、死者になると、今度は、子から、精神的な富を与えてもらわないと、物欲のままで、いつまでも欲界にいることになり、成仏できないわけなんである。だから、親孝行は、死んでからでは遅いということはなく、死んでからでもできる親孝行があり、むしろこの世とあの世を超えた自由な愛の交流といえるかもしれない。人智学は、死者と生者との交流を図る翻訳書といえるかもしれない。人智学により、この世とあの世の均衡を図るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★東欧のように、死んだ集合魂の生に執着したり、古き慣習の単なる残存である血縁関係からなる共同体に依存するのは、我々人智学徒の道ではない。人智学徒は、個人的な自我にとって、リアルな生による人間関係の絆を、幼子を抱きしめ、友愛によって育成するように努力すべきである。人智学グループの共同体は、かくあるべきである。血縁関係を探しだし、人種や民族を同じくする人々のみを呼び集め、共同体をつくり、集合魂を育成するのは、人智学のやり方ではない。((ちなみに、シュタイナーは、人智学とは真逆の発想の、シオニズムに大反対したために、シオニストに生命を狙われ、殺された。殺されたといっても、肉体を失っただけなので、真の神秘学者は、肉体を失ってからが、本番といえる。宗教家も、死んでからが本番である。キリストも死んでからキリスト教を布教したわけである。ミカドのスパイべラスコによると、シオニズムはナチスに利用されたという。元MI6のジョンコールマンの偽ユダヤ人による陰謀論の、三百人委員会で、この話は有名である。三百人委員会とは、オカルトでいう、月に基地をもつ黒色同胞団である。月に基地といっても、物質界の話ではないから、衛星の月ではなく、黄泉の月領域で、陰謀論にならざるを得ない。悪の宇宙人の地獄の話である。))人智学の目標は、兄弟姉妹になるのを決意する、アカの他人同士を呼び集めることにある。それら、何の血縁関係もない人たちの頭上に、人智学の霊的な精神を育成し、個人的な自我の発達に努め、霊我を天使のように羽ばたかせることである。そして、友愛の善良な霊性の聖霊たちが、人智学グループの頭上を羽ばたいている、のが感じられるようになるだろう。我々人智学グループの幕開けに際し、この目標は、我々自身の、個人的な自我のなかに受け入れるべき、聖霊たちの思考の賜物である。この目的によって、人智学徒は、創設に際し、このグループを聖別する。霊我とは、純粋な精神による霊的な共同体と共に芽生える生命なのである! 我々人智学徒は、頭上に、霊的な共同体を追い求める。そして我々人智学徒は、人間の内に生きるキリストを追い求める。このキリストはいかなる文書も必要とせず、まず証明される必要もない。というのも、我々は遅かれ早かれ、いずれにしろ、自身の善意を発達させて、内面でキリストを経験するからである。グループの創設に際し、次のことを、聖別式の紋章=モットーとみなしたい。「我々人類の上なる共同体の王冠に、内なるキリストを掲げよ!」もし数人、いや多くの人々が、この紋章において、キリストの名のもとに統合するなら、キリストが正しく、リアルに、その人たちの自我の内に生きているのを、実体験するだろう。この意味において、キリストを兄弟姉妹と認識できる者全てが、キリストの血を分かち合う兄弟姉妹なのである。キリストが、裏切り者ユダを弟子と認め、赦したように、キリストの名の下に集う人々を、キリストは、最後の晩餐のように、キリストの兄弟姉妹の弟子と認めるだろう。もし、この聖別の言葉を受け取り、互いに調和して、この世での仕事を遂行できたなら、人智学運動による、ホンモノの霊性が、この地を遍く進化させるだろう。このような困難な時期にも関わらず、遠方から来た友人たちが、当地にグループを創設した人々と交流している。このような地での交流は、常態化すべき良い習慣である。というのも、他のグループで働く人々のために、聖別の言葉を運び、伝承できるからである。この聖別の言葉から、人智学運動による、真の霊性に調和して共働するグループに参画する末端の人々までに絶えず思いやりをもって働くように誓い合おう。そうすれば、不可視の、霊的な共同体は、この聖別の言葉通りに、キリストの王国を築くために、成長し繁栄するだろう。この地での、天国建国の姿勢が、我々人智学の仕事と結び付き、益々広まるなら、人類の進化のために、人智学から解き明かされる霊的な課題を、人類は克服できるだろう。そのとき、我々人類は、人間の進化と人間の知識を導く叡智である、偉大な師たちの、聖白色同胞団が、我々人類と共にあると、信じられるだろう。この当地の人々が、人智学の目標のために、どれほど働くか、その度合に応じて、霊界から、我々人智学の仕事を導く偉大な師たちが、この地での労働の真っ只中に、協働している、ということを、その叡智を通して、十分よく知るようになる。このグループの協働に、このグループ内部で、友愛によって遂行される仕事を導き指示する、叡智の師たちの力と恩寵と愛を降臨させ、地に巡らせ、高次のヒエラルキーに直接師事する叡智の師たちの恩寵と力と愛を結集し、地に天国を降臨させよう!人々の中にある善の霊性が、叡智の偉大な師たちが、この人智学グループと共にあるように。人智学運動の真の霊性が、地に巡り、働き、キリストの天国を招来しますように!
2024年08月01日
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ようやく巷の雑用にも収拾がついてきた。親戚づきあいほど煩わしいものはない。葬式は何度か経験しているが、死者に死をわからせるよりも、死者が生きているうちに、死者に言っておくべき、やっておくべきだった想いのほうが、生者に多く残っているのに改めて気づかされた。亡くなってから、気が付くという不思議さである。いなくなってみて、はじめて死者の存在感がわかる。霊能者なら話は別なのかもしれない。人智学の輪廻転生論でも、家族や親戚は、同じ人間関係のグループとして、何度も転生しているのがわかっている。以前紹介したペスタロッチの輪廻転生でもわかるだろう。それだけ身近な関係なので、自分がしてきた行為を次の転生で、される身近な存在といえるわけで、いわばブーメランを投げやすく受けやすい相手といえるかもしれない。例えば、前世の人生の半ば35歳辺りで出会う親しく良い関係にあった相手が、次の転生で親になり、はじめに出逢う人間関係と、シュタイナーは述べている。この輪廻転生の法則からすれば、人生の半ばが最も自分という存在の、いわば自我の完成期であり、自分という山の頂上で出会った人が、自分を最もよく知り、より親しい人物となるわけで、だからこそ、次の転生では、その自分を改めて新しくつくる土台の人間関係となるわけなんである。だから、端的にいえば、前世で自分を良く知っていた人物が親となるわけなんである。だから、最も自分というカルマを背負ってくれた相手ともいえるかもしれない。だから、親がいなければ、自分という存在もいないわけで、それが現代物質科学では錯誤されて遺伝として捉えられているが、正確にいえば、自分の良き理解者なのである。だから、性格もある程度似て来るし、特に仕草などが前世から持ち越されるのである。現世で自分となるために、前世で親を選んでいる、といえるかもしれない。カルマを金銭で譬えるのは邪道だが、わかりやすくいえば、人生半ばで、自分という大きな金銭を与えた相手が、今度は、その金銭を返すために、親になって、自分という負債を返す、というようなものかもしれない。また以前に紹介したぺスタロッチの転生でもわかるが、前世の奴隷へのパワハラのカルマを解消するために、パワハラ上司が親ではなく、配偶者になることもある。だから、簡単にいえば、カルマの負債を返しやすい関係が、親戚といえるかもしれない。いずれにしろ、家族や親戚はカルマの負債を愛で返済する人間関係の基本といえるだろう。だから、家族は愛を育成する土台的な舞台といえるかもしれない。シンクロニシティというか、丁度、放送大学で民法から家族関係を考える授業を放送していたので、少し紹介してみる。平均寿命の変化から、家族関係を知るために、昭和22年が例として出され、比べると、当時は平均寿命が男女とも50歳代で、人生50年といわれた時代なのがわかる。令和では30年も延びて、80歳代になって、もはや人生100年時代といわれていることになる。それだけ霊魂が、覚醒意識での人生に馴れて、物質界に適合してきたともいえるかもしれない。家族政策研究(’21)|放送大学 (ouj.ac.jp)放送大学「人生100年時代の家族と法('23)」(テレビ授業科目案内) (youtube.com)家族のモデルケースを探るために、漫画アニメのサザエさんが昭和44年からの放送なので、当時の平均寿命を調べると、69歳になっている。昭和22年から、20年経って、20歳も寿命が延びているので、1年に1歳寿命が延びてきたといえる。人智学的にいえば、エーテル体が、物質体によく浸透できるようになったといえるかもしれない。エーテル体の肉体の制御が進化してきたといえる。そしてまた、自我が自由な愛へと個性的になってきた、といえるかもしれない。サザエさん (テレビアニメ) - Wikipedia第2表 平均寿命の推移 (mhlw.go.jp)キャラクター紹介【サザエさん一家】 | サザエさん - 公式ホームページ (sazaesan.jp)サザエさんの家族をモデルに考えてみると、勿論、放送大学の授業では取り上げていないが、昭和44年当時の平均寿命が約70歳なので、磯野波平は禿げているが、白髪ではないので、当時の54歳のルックス代表といえるだろう。令和でいうなら、平均寿命80歳代で、10歳寿命が延びているので、64歳辺りかもしれない。ちなみにサザエが、24歳の設定なので、あの髪形もあるが、幾分老けてみえるので、現代でいえば、10歳増しで、34歳辺りのルックスといえるかもしれない。しかし、カツオやワカメ、タラちゃんの、子どもたちは、カツオが11歳で、ワカメが9歳で、タラちゃんが3歳の設定なので、現代と比較すると、全般的に少し幼くみえるかもしれない。サザエさんのほのぼのとしたエピソードのせいかもしれないが、家族モデルでよく比較される、クレヨンしんちゃんの、ませた幼稚園児の設定と比べると、しんちゃんのほうが、裸芸を除けば、カツオよりもませてみえ、年上にみえてしまう。ちなみに、しんちゃんの父の野原ひろしは、35歳で、母のみさえは、29歳で、長男がしんちゃんで、5歳なので、24歳に初産という設定になる。クレヨンしんちゃん (アニメ) - Wikipediaクレヨンしんちゃん登場人物の年齢設定まとめ | 漫画とアニメ情報局 (manga-manga.site)クレヨンしんちゃんは、1990年の平成2年からの漫画アニメなので、サザエさんが昭和の二世帯家族のモデルケースで、しんちゃんは、平成の核家族のモデルケースなのがわかる。サザエさんは、昭和の二世帯家族にしては、平均寿命から考えると、波平―フグが、54歳-50歳で、子ども3人で、ワカメが9歳で、フグが41歳の高齢出産で産まれたケースで、すでにやや高齢少子化気味の設定なのがわかる。もうすでに昭和44年の漫画アニメから高齢少子化の未来が暗示されているのに驚かされる。漫画アニメの世界は、将来の予言でもあり、これは驚くべきことで、年齢をとらないアニメなのに、波平―フグが、二世帯家族という割と子育てに恵まれた環境にありながら、子どもが少ないのは作者の画力不足やキャラ設定の怠慢だけでないのがわかる。もしかすると、サザエさんの作者長谷川町子氏が子どもを描きたくなかったのか、同時代の漫画アニメの、巨人の星の貧困父子家庭でさえ、明子と飛雄馬の2人を産んでいる設定で、ましてや左門豊作の6人兄弟設定から考えると、サザエさんはあまりにも、そのルックスさながら、高齢少子化漫画アニメになってしまうわけなんである。スポコン漫画の設定に子沢山環境はドラマ性を生むのも確かだが、子沢山イメージの昭和なのに子どもが少ない磯野家に比べて、クレヨンしんちゃんの野原家は、ひまわりという2人目が産まれて平成の核家族としては何とか少子化は免れたといえるかもしれない。実際、少子化は平成になってなんとか踏みとどまってもいる。漫画アニメなのに、高齢少子化という設定がもしかすると、リアルな高齢少子化を招いているのかもしれないと、漫画アニメに家族モデルを求めながら浮かび上がってきた、リアル日本の家族形態なんである。おそ松くんのような、子沢山設定も漫画ではいくらでも可能なのに、なぜそのような家族モデルが、生まれなかったのか、不思議でもある。人間のリアルな世界ではないが、ウルトラ6兄弟や戦隊モノは5人以上で、サイボーグ009などロボットの世界では、多産兄弟なのに、9人兄弟や11人兄弟で1チームをつくるスポ魂アニメだってつくれたはずなのだが、それではあまりにファンタジーすぎるのか、高齢少子化を脱するには、まずは漫画アニメのなかでの家族形態から変化しないといけないのではないか、と思ったわけなんである。北斗の拳だって一子相伝といいながら、3~5人兄弟の設定だから、そもそも2人以上でないとドラマ性もないのだが、10人兄弟でもいいのに、なぜ中途半端な人数なんだろう。子育てが大変な世界を描きたかったのか? そういえば一時期、子沢山家族が地上波で持て囃されたこともあった。漫画なら100人だって可能なのに、キャラ設定が大変なのだろうか? 大変でも5人くらいは欲しいものである。おそ松さん - Wikipedia北斗の拳 - Wikipedia放送大学の番組から、話がかなり逸れてしまったが、「人生100年時代を乗り切るための標語」として、自助(自分と家族)、共助(地域社会)、公助(国や自治体)が挙げられている。これら3つの標語が高齢少子化のカギとなるだろう。キリストは、特に、自助の、天は、自ら助ける者を助ける、を強調しているが、それは、自我をどれだけ自由な愛へと進化させたか、が問われるわけで、その舞台が、家族となるのがわかる。その番組でも、「幸福な家族には法律は不要、不幸な家族には法律が必要」と紹介していたが、何が幸福かといえば、結局のところ、自分という存在が、自由な愛を行うことで、万人に認められることではないかと思われる。それはつまり、宇宙の、自由な愛への進化と連動し、絶えず変化し続けることではないか、と思われる。自分を愛で形作りながら、常に愛を自由へと解消していく、生と死の繰り返し、のように思われる。所詮、法律とは、自分と他者とに境界を設けるものにすぎない。法律は最低限度の物質的な視野にすぎない。自分という枠を当てはめる肉体であって、地上の土地なのである。自分という枠の法律の設定よりも、自分から生まれる行為の、幸福な道を探るべきである。自分の生き方が万人に認められるのが幸福の道である。それにはまず自分の生き方を真剣に考える必要がある。自分を良く知る必要がある。古代ギリシア時代での哲学は、汝自身を知れ、だった。汝の自身の生き方を通じて、宇宙の進化を知れだった。というのも、人間は、宇宙の大宇宙に対して、照応する小宇宙だからである。孔子は、「まだ生を知らない、ましてや死を知り得ようか」という名言を残しているが、それはまだ、孔子の時代には、現代のように、個人の自我がなく、動物のような集合自我の、民族のなかでの死しかなかったためである。現代人のように、エーテルが肉体のなかにあまり浸透していなかったから、個人という意識も希薄だったので、いわば自己犠牲という概念もなく、それは当たり前だった。動物の世界では、種の存続のために、弱者がその手足となって犠牲となる。動物の擬態は、エーテルの肉体からの撤収ともいえる。エーテルが撤収した部位は単なる物質と化し、腫瘍となるように、動物種の一部は、化石となる。だから、動物には、種が存続する限り、死がない。現代の特に、仏教の葬式の概念も、この集合自我を基にした、死の概念しかないのに、気づかされた。先祖の墓に入ることに、その名残りを感じた。そこに個人的な死はなく、動物種のような祖先の繁栄と寺の維持しかない。勿論、故人を偲んで親族が集会を開くのは遺族にとって、現世を生きる糧となるので、大変意味をもつ。しかし、いつまでも、親族のなかの一員という意識では、個人的な生に目覚めることはないだろう。動物と人間は進化目的が異なるからである。人間には、個人的に生きる権利の、基本的人権がある。象や馬を、人間は個体のようにみているが、勿論、群れから切り離されて、人間に家畜化された動物には、人間により個人的な自我が教化されるので、個人的な意識により死が生まれるが、群れのなかの動物は、種という大きなエーテル体のなかの一部が肉体となっているので、エーテルが撤収し、肉体が切り離されて、物質化され、それが固体の死のような自己犠牲にみえるだけである。いわば、人間の手足の爪を切るのと同じである。だから、動物には、人間のような、個人的な生もない。人間だけが、個人的に生きれるわけで、その個人も、現世の物質界で、物質体という肉体を制御しながら生きる間だけなんである。家族から与えられた愛を基盤に、愛から自己をつくり、そしてその自己から周囲を幸せにするのが、現世での個人の人生なのである。個人として生きれるのは、この人生のこの瞬間の生でしかない。これら周囲から与えられた愛からなる自己の存在は、この人生でのみ意味をもち、この人生でしか働き得ない自己なのである。だから、自分を生き切るのが、現世での自分の役割である。カルマとして与えられた自分の役割を全うして、自分に徹するのが、現世での最高の自分に与えられた幸福なのである。自分で居られるのは、この人生でしかない。この人生を終えた時に、自分はもはや自分ではなくなるからで、自分を超える新しい自分を次の転生につなげていくには、死後に、どれだけ自分を捨て去れるか、自分を諦められるか、にある。それには今一生懸命に自分に正直に自分を生きるしかない。自分とは何か旅に出る必要はなく、既に自分の人生そのものがその旅なのである。自分の人生は楽しかったなと思えるかどうか、それは死後の自分を捨てたときの、楽しみだからである。自分の生と死をみつけるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ソロヴィヨフのような人物からわかるように、東欧は、西欧や中欧とは、全く異なっている!では、人智学の目的とは何か? 人智学により育成すべきものを振り返り、比べてみる。その目的と方向性とは何か。人智学的な知識から、この世界には、意味と目的があるのを認識し、そしてまた、この世界は悪と退廃のみに満たされているのではない、と認識することこそ、我々人智学徒の望みであり、目標である。つまり、霊的な直感的知識を通じて、この世界には意味がある、のを実感するのが、人智学の目的である。このような実感により、我々人智学徒は、キリストを実体験するための準備をしている。これら全てを、勿論、贈り物として、恩寵として、受容し、生きているキリストを包括的に理解するのを望んでいる。人智学徒は、キリストの、「私はいつも、世の終わりに至るまで、貴方がたと共にいる。」という言葉の重さを実感している。キリストは、実際に休む事なく、我々人類への約束全てを遂行している。キリストは、福音書を通じてのみ語っているわけではない。キリストは、いまも、我々人類の魂の内側から、善への意志として、語りかけている。この事実こそが、キリストが「私はいつも、世の終わりに至るまでも、貴方がたと共にいる。」という言葉の意味である。実際、キリストは、いまも生き、常に人類の善の意志として見出せる。我々人類の進化は、キリストの使徒として生き、キリストを、我々の心の中に受け入れることにある。「私ではなく、私の中のキリスト!」聖パウロの言葉のなかでも、この言葉が、最も意味深い。「私ではなく、私の中のキリスト。」 この言葉から、人類は、善の意志を実体験する。人類がどこに向かうとも、常に善は、この世の意味と目的を啓示する。ファウストは、次のような言葉を、自らの哲学で翻訳し、同じ真理を表出した。崇高な霊よ、汝は、私が祈り望んだものすべてを与えてくれた。汝が火中において、汝の相貌を、私に見せてくれたのも、無駄ではなかった。汝は、私に大自然を大いなる世界として与え、それを感じ楽しむ力をも授けてくれた。汝は、ただ冷たく困惑した知を産むばかりでなく、素晴らしいことに、自然の最も深い胸に抱かれて、私を、友人の胸のうちにあるかのように、眺める。汝は、生きたものたちの序列を導いて、私の前を通らせ、風と水と静かな森の中にいる、私の兄弟たちを私に教えてくれる。森に嵐が咆吼し逆巻くとき、樅の巨木は隣の大枝を押し倒し、隣の幹たちをうちひしぎ砕き倒れるとき、うつろな雷鳴が丘に満ちる。そのとき、汝は私を安全な洞窟に導いて、私に私自身の自己を見せてくれる、そして私の胸の中で深い神秘の奇蹟が展開する。これらの言葉は、霊的な、外界と内界についての理解や、霊的な、宇宙の目的への理解や、霊的な、死の意味の理解を、暗示している。死が、ある生から、また別の生への通路にすぎない、のを実体験するのを、示唆している。いまも生きるキリストを実感したいために、我々人智学徒は、死や復活を通して、キリストを追いかける。そして、東欧の知識人が考える、民族的な、集合魂による再生を、我々人類の出発点とは見なさない。西欧や中欧の人々は、キリストに従い、キリストの霊感を、各個人に流れ込ませ、キリストを個人の自由な愛への想像力のなかに招き入れる。そして、各個人が、死に至るまで、キリストを追いかける。Ex Deo Nascimur 「神から生まれた」と唱えるだけでなく、In Christo Morimur 「キリストのなかで死ぬ」と唱え、キリストの善意に従う。この世界をくまなく調べ、この世界そのものが聖書であり、この世界を通じて、神が、自我のなかから神性を表出するのを知る。神の自我の、霊性の織り成す力を経験し、それを理解しようとする。だから、西欧の人々は、東欧の知識人の、「もし、神がこの世界に生まれるなら、神の自己同一性を確立する文書を必要とする」には賛同できない。そうではなく、むしろ、神を、自然の至るところに、そして人々の魂の中に、善意として、自由な愛として、見つけるべきなのである。だから、このポスト・アトランティス時代の第5文化期は、人智学グループのなかで発達育成すべき、友愛からなる善意を必要とする。それは、いま、我々人類の頭上で、まだ羽ばたいている、高次のヒエラルキーの天使たちにより、卵のように大切に育成されている。地上へと降臨させるために、霊的オーラを意識的に、地上で育成する必要がある。それは、来るべき、第6文化期に転生し、生きるとき、人々の魂に流れ込むものだからである。
2024年07月30日
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寝たきり介護の父親がいよいよこの世界を旅立っていく日がきたので、喪主として巷の簡素な葬式をすることになったので、その巷の煩わしい手続きのために、あの世へのパスポートの発行というか、色々な雑事のために、ブログの更新が滞りがちになるのでお許しくだされ。葬式一つをとっても、日本の文化は非常に遅れているようにみえるのは、私だけかもしれない。幸福の国ブータンでは、もはや墓など存在しないというし、だからこそ、霊能者でもない如何わしい生臭坊主に、大金を吹っ掛けられ、時代遅れの訳のわからない念仏を唱えるのに、大金を払ったりして、詐欺メールまがいの地獄堕ちの連中の罠にハマることなどは、幸福の国では、ないのかもしれない。ツァツァ お墓のない国ブータン tsatsa-a mini stupa | ヤクランド (yakland.jp)人智学からもわかるように、葬式というのは、当人の霊魂に、亡くなった事を教える、一種のカウンセルである。死の概念は、生前の生き方や、信仰した宗教に依存し、いわば洗脳されているので、例えば、祖先の供養などで、死の儀式を執り行った記憶、墓参りから連想して、今度は自分がその番になったのだな、とわからせるために、行うわけなんである。だから、生前に信仰していた宗教が、死をわからせる一種のコミュニケーションツールになるわけなんである。霊能者が執り行うのが適格だが、霊能者には限りがあるし、また当の霊魂の死の概念に対する執着心が高い場合は、死を、死と捉えないために、何をいおうが無駄な場合もあり、自らで死を悟らない限りは、成仏はできないわけなんである。いずれにしろ、当の霊魂に、あなたは死んだのだよと、自覚させるために、浮遊霊や地縛霊にならないために、必要なものといえるだろう。確かに葬式は不可欠なのだが、金銭をかければ成仏できるというものではないのは、自らで死を悟るかどうかは、当の霊魂の生前の死の概念によるからである。しかし、この国では、葬式に金銭をかけすぎているのは、それだけ生臭坊主が多い、ということがわかるかもしれない。世界一高い「葬儀費用」が完全無料で、手間もゼロ…直葬よりずっと安い「献体」という終活の奥の手 団体に登録すれば、すべてタダで面倒を見てくれる (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)上の記事でも、「日本の葬儀費用は世界一高い 葬儀費用の全国平均は、208万円(2020年)で、これは世界一高いと言われている。韓国は37万円、アメリカは44万円、イギリスは12万円というから、日本とはケタがちがう。葬儀のために貯金をしている人もいるだろう。」とあるが、これもまた、現世の唯物的価値観から判断している記事なので、霊魂に死を自覚させることを忘れて、論点が外れている。カネをかけて葬式をした挙句に、死を悟れずに、地獄に堕ちては元も子もないわけなんである。というよりもはじめは皆が欲界という地獄に堕ちるから、本当は、地獄から抜け出すために、本人への自覚を促すために、この世からの見送り作業といえるかもしれない。重要なのは、生前に葬式を行い、先祖を供養した経験があるかどうかにある。勿論、金額の問題ではないのはいうまでもない。死者を送った経験があれば、送った死者があの世からやってきて、見送ってくれてありがとう、と今度は自分が送られる番だったのか、と悟る機会が得られるからである。だから喪主になるほど、死を悟る機会が得られるといえるかもしれない。坊主がお経を唱えるのも、その経験が多いだけにすぎないし、外科医の術数と同じようなもんである。さて、墓についてだが、地獄の沙汰も金次第という諺があるが、この諺も現代では曲解されているが、ある坊さんが、生前金持ちだった霊魂が金銭の施しが足りなかったので、このままでは地獄に堕ちてしまうので、慌てて、遺産をみんなのためにばら蒔いたという逸話から生まれたものである。つまり、金銭は墓場までもっていけない、という意味なんである。金持ちのままだと、キリストが言ったように、金持ちは天国にはいけない、と同じ意味なんである。だから、亡くなる前に、恵まれない人々や福祉のために、寄付しなさいという意味なんである。キリストの、金銭を捨てて、私についてきなさい、と金持ちの若者に言ったことと同じなのである。だから、本来は、墓は、みんなのための集会場や、美術館や図書館、芸術や音楽の公共福祉の場となるべきなんである。霊魂は天国に還り、肉体は地球の自然に還るのが、なにより死者に死を自覚させるもの、といえるだろう。キリストは、金銭のコインをみて、カエサルのモノはカエサルに返せ、と言ったように、金銭は、この世のものなので、この世に返せといったわけで、肉体や物質的なものはすべて、あの世にはもっていけないので、それを持ち込もうとすると地獄に堕ちるので、皆の為に、集会場となる、お墓でも立てて、霊魂の裸一貫になりなさい、という意味に、神秘学から解き明かされる。海外の葬儀と埋葬方法 | アメリカ・中国・インド|樹木葬辞典 (xn--i6qp24cjfctz3bpyl.com)【葬儀の世界】環境に配慮した葬儀スタイルが魅力のノルウェー (tomuravi-sougi.jp)多種多様な生き方があるように、多種多様な死に方があるわけである。しかしそれはあくまで、この世での個人としての死にすぎない。人間は皆、霊魂として、永遠に生き続ける。
2024年07月19日
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我が物顔の独裁者は困った存在である。巷で就職していたときは、数多くのプチ独裁者に出くわしたが、現場の状況などお構いなしに机上の空論を振りかざし、自分の思い通りにいかないとヒステリーを起こすような子どものような大人を見てきて閉口したものである。こういう人物がいると、振り回されて、現場が疲労疲弊するだけで、有用な人物が辞めていってしまう。当人は辞めた奴が悪いといい、全くの反省がないからいい気なモノである。独裁者の愚かさの特徴は自分が正しいと思っている独善にあり、同じ人間なのに、他の人間を自分よりも下にみているところがある。高次の宇宙人からすれば、地球人の知性など似たり寄ったりなのに、地球人は自分たちのことを知的生命体と呼んでいる自惚れさをもっている。知性がどこからくるのか、知性そのものの存在すらもわかっていないのに、地球人は、知性の代表と勝手に判断しているわけなんである。だから、ソクラテスから言わせれば、人間は、知的生命体ではなく、無知的生命体というべきかもしれない。だから、独裁者とは、無知的生命体の代表で、高次の知性の、神を知らない愚か者ということになるだろう。神を知らないから、天国には行けずに地獄に堕ちるわけなんである。以前、教育者ペスタロッチの輪廻転生を紹介したが、それはぺスタロッチの2つ前の前世が奴隷監督人で、上司のパワハラのいいなりになって、奴隷を虐めていたので、1つ前の前世で、そのパワハラ上司の妻になって、かつての奴隷たちが上司の上役になり、カルマにより、パワハラを仕返し、虐められている上司の愚痴の聞き役になって、カルマを半分解消し、そして今度は、その半分を、ペスタロッチとなって、同じ地域の村民に転生した奴隷たちの子どもを預かり、教育し、解消したものだった。つまり、教育者ペスタロッチは、2つ前の前世の奴隷監督人のときに背負ったパワハラの罪を解消するためのものでもあったわけである。このペスタロッチという偉人の功績の裏には、カルマの解消が隠されていたわけで、この輪廻転生からも、人の上に立つ責任が重いのがわかる。上司の命令とはいえ、パワハラの罪は拭えないわけで、ペスタロッチのなかで、前世のパワハラの罪が、現世で、パワハラをしない教育に変わったわけである。ペスタロッチ~近代教育の父~ - 保育タイムズ (hoikushisupport.com)ペスタロッチとは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)このペスタロッチの奴隷監督時代のパワハラ上司はいわばプチ独裁者といえるだろう。この上司は、前世のパワハラのカルマを背負ったために、次の転生では、前世でパワハラをした奴隷が上役になり、パワハラをされる立場に陥ったわけである。多くの人にパワハラをすれば、より多くの人からパワハラを受ける、いわば、ニュートンの作用反作用の法則のように、カルマの法則を背負うことになる。独裁者は、このカルマの法則を知らないから、愚か者といえるわけなんである。簡単にいえば、上に立つ者は下に立つ者の気持ちを理解できないとダメなんである。神秘学の原則の、上にあるものは下にもある、というのは、水が低きに流れる、のと同じように、神は下々を通じて、人の良心を推し量る、という意味をもつ。仏陀やキリストがホームレスになったのも、神が下々を通じて、人間の道徳性を高め、良心を育成するためである。宇宙では上に立っているので、地球では、下から眺めないと、悪を善導し、地獄を改めないと、天国の領域が拡げられないからである。水を下(ひく)きに流さない〜治療効果を「目視」せよ〜:Cadetto.jp (nikkeibp.co.jp)現代人は愚かなんで、孟子が性善説の例えで言った、水は低きに流れ、人は易きに流れる、という格言を、人は楽な生活をやめられないと他愛もない諺に曲解しているが、そんな解釈では、現代人のほとんどが地獄に堕ちてしまうように、これは完全な誤解釈で、本当は、お釈迦さんの善因善果を言っているわけで、水が万物に水分を与え、瑞々しくさせ、生命に潤いを与え、加水分解で、酵素反応を高め、再生させるように、善導できなければ神の使徒ではなく、人間ではないという、人間の性善説、道徳性を説いたものなんである。簡単にいえば、下々を救えないものは人間をやめるべきである、という厳しい格言なんである。水がなんのために、下へ下へと流れているのか、人間も、水に肖り、下へ下へと善を施し、養うべきである、と説いたわけである。つまり、水が下へと流れるように、人間も善を施すのが、自然の、カルマの、宇宙の法則というわけなんである。楽な方向に流れるのは、いかにも安易な解釈で、恐らく、「易き」を安易と捉えた誤訳だろう。ソクラテスの無知の知もそうだが、現代人の愚かな解釈が、ソクラテスと孟子が、せっかく神から降ろした言葉を人間の低レベルな解釈で、陳腐化してしまっている。「易き」には、他に、安定した状態という意味があり、それは平和や、天国の、秩序だった公正の世界という理想郷や、楽園を指す。前半で、水という、人体に不可欠な成分が低きに流れると言っているのだから、後半で、人が、高きに浮上しないと、起承転結の文体にならないわけで、水は低きに流れるが、人は高きに浮上する、という高揚感がないわけで、それだけで、誤訳の俗世的解釈の低俗の屁理屈なのがわかる。人は楽な方向に生きる、では、背後に隠れている神の摂理、天の理が全く隠れてしまう。水を低きに流すのも、人を道徳や倫理に高めるのも、神の摂理で、天の理なのを、説くのが、孟子の性善説だから、人は道徳によって、高めあわないといけない、と孔子の道徳を継いで、孟子は述べているわけなんである。孔孟、老荘を、唯物論で解釈してしまうから、偉大な賢者の格言が、陳腐な俗物になってしまい、独裁者のような地獄行きの天狗たちを生み出してしまうわけなんである。ペスタロッチの輪廻転生でもわかるように、過去の非道徳的行為を、未来の道徳的行為へと転換していくのが、人間に与えられた人生の宿命なんである。ペスタロッチのように、水が低きに流れるように、人間は道徳的行為によって高きに浮上し、天国に行くべきである、と孟子は説いたわけなんである。教育が水のように下々に行き渡り、そして、その教育から道徳的行為が生まれて、より多くの人間が天国に行けることが、孟子が説いた性善説という学問体系なんである。現代人は、過去の学問体系を馬鹿にしすぎて、プチ独裁者になって、金持ちなどの地獄行きに憧れるから、独裁者の顔色を窺い、独裁者の暗殺などに一喜一憂するわけなんである。そこで、人生において、なんの道徳的行為を行わずに、破壊行為ばかりを行う不真面目な666の肉食獣のような、独裁者の顛末を知るために、シュタイナーの輪廻転生の本から、独裁者ネロの輪廻転生を紹介する。ペスタロッチのパワハラ上司の転生でもある程度わかるが、自分がしたパワハラは、ブーメランとして、今度は自分に返ってくるのを、人の上に立つ責任者は、是非良く知るべきである。シュタイナーははっきりと、ネロのような如何わしい人物が皇帝の座についたのは軽蔑すべき、人間の悪しき行為と述べている。もし、人間に自由が与えられていなかったら、ネロが皇帝になりえなかったかもしれない。「全世界を侮辱する心の持ち主で、人間の生命を軽視する霊魂」とシュタイナーは、ネロの霊性を読み解いている。この愚か者は、「私の死と共に、一人の芸術家が失われる」とほざいたようで、この言葉から、ネロという霊魂の、自己認識の不真面目さ、自我探求への無知さを、シュタイナーは指摘している。この霊魂は、破壊欲や破壊衝動のみを追求したらしい。人生で行った行為全ては、死後にそのまま自分に返ってくる。破壊行為や破壊衝動は、自分に返ってくるわけで、それは被害者の恨みや怨念としてそのまま返ってくるというわけなんである。ネロ - Wikipedia先のパワハラ上司のように、パワハラをした相手に今度はパワハラを仕返しされるようなものである。少し前に、ドラマの半沢直樹の、倍返しが巷で話題になったが、皇帝ネロは倍返しどころでは済まないだろう。半沢直樹のドラマは現世だけの話だが、実際は、輪廻転生を通じてカルマにより、水が下に流れるように、自然の法則のように、人生の法則として行われるわけである。だからといって、現在の不幸を前世に求めるのは間違いである。というのも、報復されることで、カルマが解消されるからで、報復を避けていたら、人の痛みがわからない、人間失格の落第者となって、悪魔になってしまうからである。悪魔は人の痛みがわからないので、互いに痛め合い続けるしかない。人の痛みがわからないから、虐めが際限なく行われ、地獄となるわけなんである。人の痛みがわかることが、人生の学びだからでもある。かといって、報復を肯定するわけではない。際限を越えて報復が行われないように、人間には死がある。半沢直樹 - Wikipediaいずれにしろ、ネロの破壊的人生が凄まじかったのか、ネロの次の転生については、シュタイナーは、2、3世紀後に転生したが、重要な人生ではなく、破壊行為に対しての、カルマの均衡がとられた、としか記していない。恐らく、先のパワハラ上司のように、あらゆる人々からパワハラを受けるような立場の人間に転生したのかもしれない。生まれてから死ぬまで不幸続きだった人の話が残っていないのは当然かもしれないし、そんな人生を語っても無意味だろう。「全世界を侮辱する心の持ち主で、人間の生命を軽んじる霊魂」が逆の立場を経験するわけで、それは全世界から侮辱され、自分の生命が軽んじられる人生を経験することになるのだろう。その転生の話は、置いておいて、シュタイナーは、次の転生を述べている。ネロは、破壊者の人生と、次の転生で、破壊の被害者の人生を経験したらしい。そして、次の転生では、今度は、命令により破壊に従う立場の人生を経験することになったという。そして、その立場というのは、オーストリア皇太子ルドルフとして転生したという。ルドルフ (オーストリア皇太子) - Wikipedia皇太子ルドルフは、皇位継承という輝かしい未來よりも、自殺を選んだのである。ネロという破壊者の人生と、その均衡をとるための転生の人生とを天秤にかけてみて、皇帝となった人生を破棄したのである。それだけ、均衡をとるための転生の人生が過酷だったのかもしれない。人の痛みを知った存在は、皇帝になるよりも自殺を選んだわけなんである。そもそもネロのような人物が皇帝になったのが間違いで、それはルドルフ皇太子の自殺により、人間の、独裁者の、愚かさが証明され、人間の無知さが、カルマにより解き明かされたともいえるかもしれない。現代の独裁者は、ネロの輪廻転生の顛末をよくよく考えるべきである。水が低きに流れるように、人は天国を求めるのだから。キリストは、金持ちが天国に行くのは困難である、と言ったのを、はっきりと理解すべきである。というのも、金持ちは既にカネの奴隷だからである。キリストは、私に従うのなら、金銭を売り払ってついてきなさいと、金持ちの若者に言ったように、富を積むのなら、現人生において、人として道徳的行為をして、天に積むべきなんである。道徳的行為を天に積むことで、未来の人類の、天国での遺産になるからである。さて、シュタイナーは、次の第6文化期に鍵となる人物を挙げている。それはソロヴィヨフである。そこで、ソロヴィヨフの輪廻転生を紹介する。シュタイナーによると、ソロヴィヨフの前世は、有名な、キリスト教がルシファーーアーリマン化する切欠となった4世紀のニカエア公会議に関わる重要な人物だったという。ウラジーミル・ソロヴィヨフ (哲学者) - Wikipedia第1ニカイア公会議 - Wikipediaニカエア公会議で、アタナシオス派が主張する人の子キリストが父である神と同一なのか、アリウス派が主張する、あくまで父に似た子なのか、議論されたなかに、ソロヴィヨフの前世となる人物が参加していたという。この人物は、この両者の主張を統合できる論拠をもっていたのだが、指導的役割ではなかったので、不首尾に終わり、エジプトに帰って隠棲し、禁欲的な生活をしながら、思考の源流となる霊的なイメージ、霊語を探求したという。思考のイメージとは、空海が説く真言であり、曼荼羅のことでもある。プラトンのイデアでもある。シュタイナーによると、ソロヴィヨフの前世こそ、キリストの真意、神意、天の理を知る人物だったという。しかし、彼は論争を好まずに、公会議で議論しなかった。シュタイナーによれば、アタナシオス派も、アリウス派も、キリストの真意には達せずに、どちらの主張も不十分で、アタナシオス派に沿うと、人間の内なる神は、宇宙の外なる神から切り離され、人間の内なる神の、霊我を語る者は異端とみなされるが、逆に、アリウス派に沿うと、人間の内なる神について語り、人間は神の受肉と考え、ついには全ての自然は、神の化身と考え、外なる神へと向上する、人間の認識への努力が無視されがちになるという。シュタイナーは、この2つの外なる神と内なる神の見方を、神の子の黄金伝説と、人の子の神殿伝説として語っているが、アタナシオス派は、神の子の黄金伝説寄りで、いわばルシファー的な偏りがあり、逆にアリウス派は、人の子の神殿伝説寄りで、いわばアーリマン的な偏りがあり、両者の統合を目指すために、キリストによる中庸の人智学を興したわけでもある。つまり、シュタイナーは、ソロヴィヨフの前世の人物を目指していたわけでもある。だから、シュタイナーは、ソロヴィヨフの前世を、外なる神と内なる神を統合する叡智をもった人物と霊視したわけなんである。これまで紹介してきた、輪廻転生での男女の役割からいえば、黄金伝説は、女性的な働きを、神殿伝説は、男性的な働きを、象徴化しているともいえるかもしれない。というのも、黄金伝説は、外なる宇宙神を、内なる人間の自我につなげる役割で、神殿伝説は、内なる人間の自我を、道徳的行為で努力で高めて、神にして、外なる宇宙神につなげる役割と考えられるからである。つまり、ソロヴィヨフのこの2つ前の前世は、外なる宇宙神と、内なる人間の自我神の霊我をつなげる人物だったわけなんである。さて、この人物はエジプトで隠棲し、禁欲的な生活を送りながら、ついには秘儀に参入し、古代叡智まで至り、思考のイメージの源流にある、宇宙神の叡智に達したらしい。そして、死後に、その叡智を外から見て検証し、次の転生では、中世に女性に生まれ、自らの前世のなかで、統合したキリスト教を尼僧として布教活動したという。女性として生まれ活動することで、古代叡智をキリスト教としていわば巫女のように柔軟に地にもたらしたが、それは地上のどのキリスト教よりも、柔軟で中庸的なので、個人的に自由なキリスト教として乗り越え克服していったという。そして、地上に全ての集団的なキリスト教がなくなるのを霊視できたという。そして、この女性だった前世が、あくまで個人的に自由なキリスト教徒として、転生し、生まれたのが、ソロヴィヨフなのだという。ソロヴィヨフの思想のなかには、第6文化期のキリスト教が隠されているわけなんである。それはいわば、人類全体の波動関数としての、人類の神人化といえるべきものかもしれない。しかし、独裁者のような愚かな輩が跋扈しているので、神人というよりも、悪魔化、堕天使化して、悪性腫瘍化しているのが、現状といえるかもしれない。自由と横暴をはき違え、人の痛みを知らない666の獣が闊歩する黙示論の世界が到来しているのが、その証である。同じ痛みを知る人間として生きるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 以前、公開講義で、偉大な哲学者ソロヴィヨフに触れた。ロシアで最重要な思想家の一人である。ソロヴィヨフは傑出した思想家だが、生粋のロシア思想家で、西欧の観点から極めて理解困難な精神の持ち主である。しかし、人智学徒は、彼の仕事を研究し、理解すべきである。そこで、ソロヴィヨフの主要な中心的理念について、霊的な観点から述べたい。 ソロヴィヨフは、個人的な自我について、集合魂による生命の原理を躊躇なく採用するには、あまりにも進歩的な哲学者である。彼は、現に、その採用について多くの困難に遭遇し、多くの点で同意しなかった。しかし、彼のなかでは、統一的な理念が支配的である。 確かに、彼は、あまり意識していなかったが、霊能者であったならわかっていたはずなのに、だから、彼の霊魂が、第6文化期に受肉し、地上での霊視を待つしかなく、そう願うしかない。西欧や中欧の人々に究めて理解困難な、次のような概念が、ソロヴィヨフの精神では主要の中心的な理念になった。 第6文化期の準備として、西欧の我々が追求すべき霊性は他にも色々あるが、彼のなかでは、死の意味、特に、生命にとって、死は何を意味するのか、その意味を把握するのに力を尽くしていた。死が、宇宙のなかの、いかなる存在の一形態の顕現なのか、また霊魂が、死に際して、別の存在形態に、どのように変化するのか、の理解に努めていた。 我々人智学徒は、霊視から、霊魂の霊的な生活、つまり死から新たな誕生までの間の生活様式を描きだし、人間の死を理解できる。死は、霊魂にとっては、衣服のような外見にすぎない。霊魂は死を通過した後も、生き続けるのを実感できるように、死の克服に努めている。このような霊的な理解を通じて、死を克服することが、現代において、切実に、重要な、人間の進化目的である。 しかし、この目的において、我々人智学徒は、ある別の観点に到達する。実際に、最も肝要な観点で、この観点から、人智学は、偉大なロシアの思想家ソロヴィヨフの保持した中心的理念から、完全に離れる。彼の理念は、次のものである。 「この世には、悪があり、愚かさがある。もし我々が、個人的な自我の感覚で、邪悪と愚劣を眺めるなら、この世が、この2つで満ちているのを否定できない。この2つが、この世の神性を否定する。」と、ソロヴィヨフは述べている。 「日常の感覚で、この世を眺めれば、一体、どこに、神の世界があり、神の存在がみつけられるのか? というのも、神が、悪を開示することは、断じてありえないからだ! しかし、我々人間の感覚から、悪が至るところに知覚され、その悪の極みが、死である。この世に、死がある限り、この世は、邪悪と愚劣の全てが開示される。死こそ、根本悪である!」 このようにソロヴィヨフは、この世界を特徴づけた。実際、彼は、次のように述べている。 「この世界を、日常の感覚で見よ。日常の精神で理解してみよ。そうすれば、この世界における、悪の存在を決して否定できない。そしてまた、死を、思考から理解しようとすれば愚かしいだけだ! 死は実存するからだ。日常の感覚を通して獲得された知識は、愚劣に満ちた、悪の世界を開示する。この世界が悪に満ちていること、そして、あらゆる場面に、死がやってくるとき、この世界が神のものだと、我々は信じられるだろうか?」 このように、ソロヴィヨフは投げかける。 「我々に、死を開示する、この世界が、神の世界であるとは、断じて信じられない。というのも、神は、悪でも愚でもないからだ。何より、根本悪の、死があるはずがない。神に、死はありえない。それゆえ、もし、神が、この世界に生まれるとしたら、もし神が、現れたら、神が、神であるのを、我々は、ただちに信じられるか? 否、信じられないはずだ! 神は、神であるという自己同一性を確立しなければならない。もし、神だと主張する存在が現れたら、その主張は通らないだろう。神は、我々人間が、神として認識できるような世俗の文書のようなものを提出し、自らの神性を証明しなければならない! そのようなものは、この世の中には存在していない。神は、この世界に存在するものを通じて、神の自己同一性を証明できない。というのも、この世界の全てが、神性に矛盾しているからである。それでは、どんな手段で神は自己同一性を証明できるのか。 それは、この世界に現れるとき、神が、死を克服したと、死が、神に対して何ら力をもちえないのを示すことしかない。キリストが自らの自己同一性を証明しなかったなら、我々は、キリストが神だとは決して信じないだろう。 しかし、キリストは、それを為した。キリストが復活した以上、根源悪の死が、キリストにはない、と示した限りにおいて、キリストは、神という自己同一性を示した。」 このようにソロヴィヨフは述べている。この自己同一性は、キリストの、歴史的な事実上の復活に基づく、潜在意識による神性の知覚である。このように、キリストは、神として、神の自己同一性を証明した。ソロヴィヨフは更に続ける。 「この世界の何物も、復活という唯一の例外を除けば、我々に神が存在する、と実感できるものはない。もしキリストが復活しなかったなら、我々の信仰は空しいものとなるだろう。そして我々が、この世界のなかの、神性について知覚できる全てもまた空しいものとなるだろう。」 ソロヴィヨフは、聖パウロの、この言葉を度々引用している。 以上が、ソロヴィヨフの根本的な見解である。もし、我々が、この世界を見れば、悪に満ち、愚劣に満ち、退廃に満ち、無意味さだけを見る。もし、キリストが復活しなかったなら、この世界は無意味そのものとなるだろう。それゆえに、キリストは復活した! この文によく注目すべきである。というのも、これは東欧の最も偉大な思想家の一人の根源的な言葉だからである。 「もしキリストが復活しなかったなら、この世界は無意味な墓場、地獄となっていただろう。この世界を救うために、キリストは復活したのだ!」 ソロヴィヨフは、次のように述べている。 「もしキリストが復活しなかったなら、この世界は無意味となっていただろう。それゆえにキリストは復活した、と私が述べるのを、非論理的に思う人がいるかもしれないが、そのような、私の発言を反証するために提示し得る、いかなる物証的な論理を、遥かに超えるのが、神性復活の論理なのである。」 このソロヴィヨフの、神の神性を証明する文書、このようなオカルトに独特な例を挙げて、これはソロヴィヨフの著作にしばしば見つけられるが、東欧における思考の不思議さの具体例として示した。いかなる手段によって、自らが神であるのを論駁の余地なく、神が啓示するのか、それを理解する努力から、オカルト的な独特の思考が体現し、叡智の金字塔となる。
2024年07月16日
コメント(3)
この国の少子化が叫ばれて30年以上経つが、国や民族の将来を憂うどころか、巷の政治家は己の利権確保に頭一杯で、全くの他人事で、悪魔に誑かされて、地獄に堕ちることばかりして、人間をやめて、666の獣に邁進している次第で、一体、政治家が少子化問題を解決せずして、他の誰が、どの職業がやると思っているのか、全くノー天気な、この国の現状である。考えている振りだけして中身空っぽである。この国の政治家はあまりに無責任すぎて馬鹿を通り越して人間をやめた方がいいと思う。自分の事しか考えられないからどんどん馬鹿になっていくわけなんだろう。そもそもヒト助けなどやったことがないボンボンばかりの人間が権力を持ったからと言って実績がないからできるわけがないのは当たり前である。政治家が何もせずに口先だけの評論家になっていたら、この国は終わりで、現に終わりに近づいているのはほぼ誰の目にも、天候の不順などから、明らかになってきている。七夕という777の神聖な行事でさえも、神殿を穢した商売人の詐欺師たちにより、獣化した悪魔の666の行事に成り下がってしまった。悪魔が来りて法螺を吹くではないが、立候補者の顔ぶれを紹介する掲示板が荒らされた無法地帯になってしまったわけで、この国の現状をそのまま示していた。まさに泣きっ面に蜂である。さて、前回は、先日の七夕選挙があまりに酷くて、七夕だったのも忘れて、思わず愚痴ってしまったが、本来の七夕は旧暦から換算すると8月10日辺りで、いまでいうお盆の季節なので、まだ一カ月余りある。七夕は織姫と彦星の話で有名だが、輪廻転生での男女の役割の違いを考えると、面白い事に気づく。織姫は、天の魂を織り込んでいく仕事の象徴で、彦星は、地の肉体を耕していく仕事の象徴と、神秘学で、考えられるからである。つまり、織姫は女性の霊能力や直観力の象徴で、彦星は男性の肉体力や合理力の象徴といえるかもしれない。伝統的七夕について教えて | 国立天文台(NAOJ)お盆 - Wikipedia2024年の七夕はいつ?7月7日だけじゃない伝統的七夕の意味やイベント情報まで紹介 | HugKum(はぐくむ) (sho.jp)だから、人智学でいえば、織姫は、睡眠中の潜在意識の活動で、彦星は、起きているときの、覚醒意識の活動を意味している、といえるかもしれない。ぶっちゃけていえば、天の活動と、地の活動で、精神の働きと、肉体の働きと分類できるわけなんである。だから、七夕とは、天と地が巡り合う、あの世とこの世がつながる、夜明けの晩といえるかもしれない。夜明けの晩といえば、かごめかごめの童謡を思い出す。かごめかごめ - Wikipedia「かごめかごめ」の意味とは Part I – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究 (historyjp.com)「君が代」「かごめかごめ」など 歌の中に隠されていた日本とユダヤの秘密|日出処の猫 (o-oi.net)かごめの唄は、都市伝説では交霊術ともいわれているが、上に紹介したヘブライ語で解読したサイトから、夜明けの晩とは、ヘブライ語のヨ(神)アケー(根絶する)バン(造る)と強引に解読されて、「神は根絶し、造る」という意味になるから、かごめの唄の前半と後半の意味の流れから、この「神は根絶し、造り給う」の夜明けの晩が、地球紀の、前半の火星紀と、後半の水星紀のちょうど中間の、転換期という意味をもつのがわかる。七夕の7月7日も、一年の中間期辺りで、その中間で、男女が出会う日というのは、両性具有の神の創造の日といえるわけである。このように、人智学の輪廻転生説から、七夕について、かごめの唄を解読すると、男女の天と地の働きが解き明かされる。かごめの唄は、大凡、次のような感じになるかもしれない。人間よ。男となって地(肉体)を支配せよ。そして、肉体のなかから、神となるべき道徳的行為をなせ。そして、神となるために、それまでの不道徳な行為を悔い改めて、女となって天に従い、天から地を救いなさい。そうすれば、永遠の生命を手に入れられるだろう。つまり、この唄は、第6文化期の霊能力再獲得の唄なのかもしれない。七夕は、東洋だけの行事にみえるかもしれないが、特に日本では、お盆と一緒になっているために、東洋の文化と思い込んでいるが、それは以前にも紹介した神秘学の進化数のラッキーセブンの777の象徴で、人間が、地球紀を卒業し、自由な愛の天使になったときの進化段階を意味している。人類の進化計画の最終形態で、救世主の数である。その前に、最悪の獣化した悪党の666の進化段階を迎えるわけで、シュタイナーは万人による万人の戦いの時代と預言している。そこで、西洋の七夕的な行事をググってみると、聖母の被昇天に辿り着く。以下のサイトによれば、聖母マリアの霊魂が天に召された日であるらしい。神秘学では、聖母マリアは、受肉しない純粋なアストラル体を意味し、六芒星の象徴でもあり、聖霊を意味する。聖母の被昇天 - Wikipedia聖母の被昇天とは? | カトリック中央協議会 (catholic.jp)聖母マリアには、人間が、地のこの世に生まれて、古き集合魂の民族魂から自由に独立し、新しき個人の自我による道徳的行為を打ち立てることで、自我を自由に浄化し、愛による救いの霊我へと努力し進んでいく輪廻転生の進化プロセスが秘められている。上の図をダビンチの最後の晩餐の絵画と比べてみる。地球紀の前半の、火星紀は、戦いの時代で、いわば火の、男性が優位な時代だった。しかし、女性の社会進出から、この国にも遅ればせながら、昭和のオヤジギャルが生まれ、平成から令和へと、リケジョ、レキジョ、ウマジョとか、男性優位が逆転し、女性の活動が目立ってきて、性に対しての差別意識の撤廃から、ジェンダーフリーも唱えられつつある。しかし、このジェンダーフリー論には、異性の違いによる社会的役割の違いがどのように生まれてきたのか、そして、それを物質的な肉体性において議論している点で、大きな錯誤に陥っているのがわかる。つまり早い話、輪廻転生での男女の役割の違いを抜きにして語るから、混乱して、地での活動の主権や権力を巡って、男女の利権の闘いになってしまうのである。ジェンダーフリー - Wikipedia男に生まれた後で女に生まれ、またその逆の、交互に生まれ変わると知るだけで、一方の性にだけに固執し、執着する意味がなくなる。輪廻転生のカルマの法則を知れば、性差だけでなく、民族や人種についても、以前紹介したように、特定の民族や人種に固執し、執着する意味がなくなる。単純にいえば、男性中心の社会に生まれて、女性を差別したら、今度は、差別された女性に生まれて、自分が男性となってやらかした差別を、身をもって体験するように、女性に生まれ変わるわけなんである。以前、これをニュートンの作用反作用の法則で紹介したが、自分がしたことがブーメランとして自分に返ってくるわけで、自業自得というわけなんである。だから、目には目を、歯には歯を、のハムラビ法典の戒めは、目を攻撃したら、目を攻撃されるし、歯を攻撃したら、歯を攻撃されるが、それは、加害者と被害者が入れ替わって、次の転生で遂行される、カルマの法則であり、だから、キリストは、他人の目になり、他人の歯になりなさいと、説いたわけである。それはつまり、自分の行いが、次の転生の自分に成り代わるからである。だから、道徳的行為をすれば、次の転生で善人に生まれ変わり、善因善果となるわけなんである。しかし、善人に成り代わるのを見込んで、道徳的行為をするのは偽善で、詐欺なので、詐欺に被害に遭う人間に生まれ変わるだろう。他人に騙されやすい、お人よしの人間というべきかもしれない。さて、地上での男女の役割の大まかな違いをわかりやすくするには、文系と理系分野の例えが面白いかもしれない。芸術や体育会系は、直感型か、理論型かで、分けるとわかりやすくなるかもしれない。だから、文系分野は、直感型が多く、理系分野は、理論型が多いと大別できるようにみえる。勿論、理系分野にも直感型がいないわけではなく、ただ少なく、少数派というだけにすぎない。自分は物理畑に進んだので、ほとんどが理論型ばかりで、それもほぼ男性の世界だった。だから理系の世界では、女性は希少価値があり、教員の最初の挨拶は、女性の数学者や物理学者の紹介が定番だった。逆に、文系の、国文学や英文学は、ほぼ女性の世界で、男性に希少価値があるので、恋人のいない男性はいないと、当時の友人に聞いたことがある。恋人探しなら、男性は文系にいき、女性は理系にいくのがよいかもしれないが、理系では、ある程度真面目にやらないと進級できないので、恋人をつくる余裕はないかもしれない。昨今は、リケジョと言われ持て囃されてもいるが、そもそも理系には女性が少ないので、少ない女性数学者の紹介で、定番なのが、コワレフスカヤである。ラジウムを発見したキュリー夫人はあまりにも有名すぎて、ニュートン力学の授業でニュートンを紹介しないのと同じかもしれない。相対論の授業でも、アインシュタインをわざわざ紹介しない。誰もが知っている人物は紹介されないが、割と知られていない人物が、特に女性の場合、紹介される傾向にあるのかもしれない。ともかく、物理畑に進んで最初に紹介された人物なので、覚えてしまったほどである。ソフィア・コワレフスカヤ - Wikipedia理系分野では、女性が少数なので、理系科目が不得意とみなされがちだが、人智学によれば、輪廻転生での役割の違いにあり、男性のほうが、目立ちがちで、自己主張が強いためである。というのも、女性は天から叡智を降ろす役割をもち、直感を得意とするので、地で、論理的に物証する機会を煩わしく感じるのかもしれない。地上での認識から、緻密な論理を構築していくのは、男性の、筋肉を構築し動かしていく経験が実を結んでいる。だから、筋肉から、物質的に、人工物をつくっていくのは、男性の得意技なのである。そこで、改めて、男性と女性の役割の違いを、輪廻転生から読み解いてみたい。前々回は、熱中症に罹ってしまい、輪廻転生での女性の働きを紹介する途中だったが、改めて代表的な人物をシュタイナーの輪廻転生の本から紹介する。コワレフスカヤの前世かもしれないが、女性数学者の代表的な人物であったヒュパティアである。ヒュパティア - Wikipediaオルペウス教 - Wikipediaシュタイナーによると、ヒュパティアの前世は、古代オルフェウス教徒で、当時の古代ギリシアの秘儀参入法により、霊的な叡智の、オルフェウスの神話に秘められた霊能力を獲得したという。巨人族に八つ裂きにされ、ゼウスにより高次の生命に導かれたデュオ二ソスの神話に秘められた古代の叡智を心魂に体験し、獲得したという。オルフェウス教徒は、秘儀参入すると、自我が八つ裂きにされ、ついには自分がみえなくなるという。現代人がもつ覚醒意識で、動物や植物、鉱物を認識するには、それらの外見から、物質的に構築した概念で、捉え、それ以上中身の精神や魂には入ってはいかない。これが唯物的な観点の限界で、境界である。現代物理学でいえば、波動を量子の場の境界や、時空間に置き換えて、いわば、量子化してモノ的に捉えているわけなんである。数学で言えば、ユークリッド幾何学から、せいぜいリーマン幾何学のミンコフスキー空間や、そのテンソル演算に置き換えているわけである。これは、自分と他人に境界を貼り巡らし、区別しているのと同じである。要するに、自分の空間と、自分以外の空間を外的に分類しているのである。数学というのは、分類に使う道具で、物理は、分類に意味づけ、重みづけする配分の割り当て表、計画表のようなものである。化学は進行過程表で、生物学は数学とはまた別の物質界での経験に基づいた分類表である。いずれにしろ、唯物科学では、物質界の境界を超えることはできない。ユークリッド幾何学 - Wikipediaリーマン幾何学 - Wikipediaミンコフスキー空間 - Wikipediaテンソル積 - Wikipedia 少々脱線してしまったが、オルフェウス教徒は、これら現代人の覚醒意識とは真逆の、現代人のこのハードウェア感覚に対して、自然界を動かす中身の、いわばソフトウェア感覚まで到達し、自然の表に現れる肉体だけでなく、中身の精神や心の中にまで到達し、一体化するための経験を獲得する修行を通して、宇宙の神々との対話を目指していたようである。自然界を形作る神々の心を読み解こうとしていたわけなんである。アリストテレスの4大元素霊とは、その神々の心のなかの残滓みたいなものだという。四元素 - Wikipediaシュタイナーによれば、ヒュパティアの前世の、古代オルフェウス教の師匠は、古代ギリシア哲学の前の、哲学史にも記されていない時代に活躍し、後のタレスやヘラクレイトスの哲学は、その余韻にすぎないという。ヒュパティアの前世は、古代オルフェウス教の秘儀参入者の弟子で、シロスのフェレキュデスだったという。そして、秘儀参入から得た古代叡智を、数学で表現するために、4世紀末に偉大な数学者テオンの娘として転生したという。タレス - Wikipediaヘラクレイトス - Wikipediaシュロスのペレキュデース - Wikipediaアレクサンドリアのテオン - Wikipediaヒュパティアは、古代オルフェウス教による古代叡智を、直感的に数学として体系化したという。ヒュパティアが教える当時の学問体系は、キリスト教が生まれる前の古代オルフェウス教の古代叡智に由来しているために、4世紀当時に支配的となっていったキリスト教の権力者から排斥され、異端とみなされるようになったという。この悪しきキリスト教の権力者が、テオフィロスとキュリロスだったという。エルサレムのキュリロス - Wikipedia教皇ベネディクト十六世の110回目の一般謁見演説 アレキサンドリアの聖チリロ | カトリック中央協議会 (catholic.jp)この悪徳司教たちは、愚かにも非キリスト教的、非教会的なモノを独断と偏見で憎み、私兵を指揮して、ヒュパティアを黒魔術師として糾弾し、民衆を扇動し、弾圧し、虐殺してしまったという。後の魔女狩りの悪しき先例といえるかもしれない。それだけ、この悪徳偏狭の、両司教にとっては、権力を揺るがす存在だったのかもしれない。というのも、ヒュパティアは、当時のアレキサンドリアの代表的人物で、シュネシオスも弟子だったからである。なぜ「女性哲学者」は非業の死をとげたか 『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』|じんぶん堂 (asahi.com)生きたまま皮膚と肉を削がれて息絶えた…最古の女性科学者が残酷な死を遂げた理由 | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる”魔女狩り - Wikipediaシュネシオス - Wikipediaシュタイナーによれば、古代オルフェウス教に秘儀参入して得られた霊的な知識を、いわば天から降ろして、地上の言語である数学に肉付け体系化するには、女性に生まれる必要があったために、女性数学者ヒュパティアとして、地に転生したわけで、いわば巫女的な役割を果たしたわけである。その巨大な叡智を、当時の悪魔的な権力者の、キリスト教支配者たちは恐れるあまりに、ヒュパティアを魔女として大衆を動員し、虐殺してしまったわけで、正にカリユガのなせる時代といえるかもしれない。ヒュパティアの人生は、まさに古代オルフェウスの秘儀参入の経験、つまり巨人族の悪魔に八つ裂きにされたデュオ二ソスの叡智の自我を、身をもって個人的に体験したものだったわけである。それは古代オルフェウス教の秘儀参入で、前もって見た、太陽から降臨し、地上で十字架に架かり、受難するキリストの太陽霊の自我の姿だったわけである。天の理の神意が、悉く人間の悪意により八つ裂きにされ、曲解され、道徳の欠片さえもなくなるほどの虐殺を、黒魔術師というレッテルを貼られ、衆目のなかで曝され、ユダヤの王として刑死したキリストの経験だったわけなんである。だからヒュパティアは、キリストが蘇り、弟子を通じてキリスト教を布教したように、甦るわけなんである。ぜウスにより、高次の生命への認識へと導かれたデュオ二ソスのように、輪廻転生から、再生されなければならない。そして、シュタイナーによると、ヒュパティアは今度は、男性として、前世とは逆の道を進み、地から天の神意に達するために、12、13世紀に、哲学と自然科学の、人間の認識の統合を担い、輪廻転生の思想を説くために、アルべルトゥスマグヌスとして生まれ変わったという。アルベルトゥス・マグヌス - Wikipedia大聖アルベルトゥス・マグヌス | ドミニコ会聖人カレンダー | 学校法人聖ドミニコ学園 (dominic.ed.jp) この古代オルフェウス教徒からヒュパティアへと、そしてアルベルトゥスマグヌスへと輪廻転生を、男女交互に転生することで、地から天へ、天から地へ、そしてまた地から天へと、叡智のフィードバックが輪廻転生を通じて、天と地と、男と女で、巡っているのがわかる。つまり、男と女は天に向かうか、地に向かうかの叡智の方向性の違いといえるかもしれない。神意の叡智の獲得のために、地球人は、地球で経験を積むために生きているわけなんだろう。地球人は、宇宙から叡智を獲得するには、地球で経験する他はないからで、地球はそのために、地球人に与えられたものだからで、地球で経験するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★子どもの成長に必要な血縁関係は、老年になっても保持されるが、歳をとるにつれて、新しい関係を受け入れていかなければならない。血縁関係が、未来の人間たちの偉大な共同体を統合することはない。血縁関係は、東から、今日の恐ろしい論争、闘争、戦争のような出来事を生み出している誤謬である。様々なスラブ民族の間で、共同体の支配を巡って戦火が広がりつつある。このような対立を生み出す運命の時代に、今耳にしたばかりの、霊的な自我が入り込んでくる。実は、この霊的な自我のなかには、正しい核心、すなわち、霊我は、友愛に満ち溢れた共同体のなかでしか開花しない、という基本的な霊的感覚がある。だからこそ、この共同体は、血縁関係の、物質的に依存した共同体であってはならない。それは、霊魂の友愛による、霊的に自由な共同体でなければならない。将来、霊魂の共同体として成長する、上空を羽ばたいている霊我は、いま我々の人智学グループを、幼児段階として見守り、発達(進化)させようとしている。東ヨーロッパを、獣のような集合魂の集合自我にかくもしっかりと捉える堕天使群、スラブの集合魂を捨てたくない、という欲望、それどころか、国家全体の発展原理と見なすようにさせている誤謬こそ、克服すべきものである。大いなる恐怖の象徴が、世界の目の前に立っている。戦争(第一次世界大戦)が開始された2国家を思い浮かべてみる。一方で、スラブ世界一般を率いたロシアは、この戦争が血縁関係からなる兄弟愛に基づいている、と宣言している。他方には、オーストリアがあり、オーストリアは、13のはっきりとした民族と13の異なる言語を統合している。オーストリアの動員令は、13の言語で発令する必要があった。なぜなら、オーストリアは13の民族を包括するからである。ドイツ人、チェコ人、ポーランド人、ルテニア人、マジャール人、スロヴァキア人、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人(また別の共通語から分離した方言もある)、ボスニア人、ダルマチア人、イタリア人である。13の異なる民族集団が、小さな差異は別にして、オーストリアにおいて結合されている。この意味を理解しようとしまいとも、オーストリアが、血縁関係に基づかない共同体の、人間たちの集合で組織されているのは明らかである。というのも、この不思議な境界線は、13の異なる系図につながる支脈を含むからである。ヨーロッパで、この最高度の統合国家は、集合魂による人生、すなわち同一の人種などの血縁関係を強力に求める国家とは正反対の位置にある。しかし、集合魂により統合された人生を目指す努力は、非常に多くの他の犠牲を強いることになるだろう。この現状は、我々を別の問題に導くが、その意味について、次に考えてみたい。(オーストリアの歴史 (austria.info))
2024年07月11日
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暑い毎日が続く巷の昨今、何とか熱中症も大谷選手だけのものになり、体調も安定化しつつある。巷は史上最低の醜悪不道徳な選挙が行われていたようだが、もし、少しでも道徳的理性があるのなら、あのような醜悪な選挙で都知事を決めるのはもはや民主主義ではなく、単なる騒々しい自己顕示欲満々の惰眠集会で、数合わせの茶番でしかないので、どことなく戦後の学生運動や極右翼の街宣活動を髣髴とさせて、選挙民には単なる迷惑でしかないので、選挙をやる前に、高校野球の宣誓ではないが、性善説に基づいて正々堂々と議論し、闘うことを誓わせ、少しでも他者に疑問が呈されたら、直ちに立候補を辞退させるような、立候補者に対しての、選挙よりも、選挙に際しての立候補者の人格についての審査や選挙準備が必要になってくるようにみえた。やればやるほどレベルが下がる選挙を考え直さないといけない。そもそも選挙とは、国民のなかでも優秀な人間性を備えた人物を推薦する制度なはずだが、実際はその逆で、もっとも醜悪な俗物の、地獄行きの連中を、票で買収する、いわば一種の賭博に成り下がってしまっている。組織票などが横行するのが、諸悪の根源なのは疑いの余地がなく、民主主義などは絵に描いた餅にすぎない。組織票などを必要としない、個人の思想の自由で選ぶのが、本来の思想の自由による選挙制度である。現代人には、民主主義という思想はあるが、ほとんどが相手を攻撃し、従来の制度を破壊するために使われ、現実の安定した生活や、平和をもたらすものではない。現代では、独裁者でさえも民主主義を叫ぶ。つまり、民主主義が実現するどころか、ますます遠のいて一部の権力者たちの独善独裁主義になってしまっている。税金に寄ってたかったハエやハイエナのような輩ばかりである。公的なポスター掲示板を売買に使うのは、公民権運動への侮辱でしかない。人種差別に対する不平等撤廃への、民主主義による人権運動の歴史を少しは勉強すべきである。大体なんで、本来は、最も優れた人物を選ぶ選挙なのに、最も愚劣で選びたくない奴ばかりが知名度だけで立候補できるのか、ただ、人の上に立って物質界での物質的恩恵に服したいだけの物欲塗れの現代人の浅はかさ、醜悪さが目立って、どんどん馬鹿になってしまっているようにみえる。とにかく、神殿を商売人で穢しているようなのが、現代の選挙制度で、金持ちは天国には行けない、と説いたキリストの言葉を再度、人間の善意に問うべき時代であるのがわかる。自分のためでなく、他人のためにどれだけ苦労した人間なのか、誰でも少しはヒトを判断する眼を養わないといけない。自分に厳しい人物なのか、物質界を経験すれば少しは判断力が磨かれ、心眼がついてくるはずで、外見に騙されてはいけない。だから、立候補の資格を肉体の年齢ではなく、精神の年齢で判断する必要が出てきたようにみえた。性善説で法律ができているから、法律が悪いとするような屁理屈バカが現代人に盛り沢山なのは、正に唯物論のなせる業と言う他はない。法律をどう精神的に解釈するかが人間の行為に求められているだけにすぎない。何度も言うが、人間は神により、高次の宇宙人により見守られ、天使に相応しいかどうか、堕天使に唆されないか、テストされているのである。人間が性悪説でいる限りは、神にはなれないというのを肝に銘じるべきである。性善説で出来ている法律が問題なのではなく、性善説に沿って行動できない人間が問題なんである。いかなる法律も性善説に基づいてつくられているのは、人間が集団として生活し自由に生きるために道徳が必須で、道徳の存在が、宇宙を統合している神の善なる存在の証だからである。勿論、人間だけではなく、人間も宇宙の一部でしかないわけで、全体の集合体のなかでの道徳に従う必要があり、だから、性悪説で、この世に生まれようとも、結局は性善説で、死んでいかなくては、地獄に堕ちてしまうわけなんである。N党のおバカさんはロシアの独裁者と同じように、地獄へと真っ逆さまに堕ちていくだけだろう。人間のつくった法は、人間の行為により破れるが、神のつくりし法は、人間の行為には破られず、その悪しき行為により、人間性を失っていくだけなんである。人間の自我性を失わせ、獣性の悪魔の奴隷へとゾンビ化し、地獄を徘徊する鬼へと堕落腐敗していくわけなんである。暑苦しい梅雨の季節に暑苦しい醜悪な地獄巡りの闘いをみせつけられて、熱中症から白け症に回復したのは良かったが、選挙を改めて考え直さないと地獄巡りの連中を増やすだけで、このような地獄行きの輩を大量量産する国に生まれるとほとんどが悪に染まってしまうので、霊魂がこの国に転生してこなくなって、少子化してしまうだろう。少子化の進行は、もはやすでに手遅れとなっていて、他者に無関心で、弱者にツケを責任転嫁し、厳しい社会となってきているのは、裏金議員やら単なる数合わせの中身空っぽの税金着服議員からなる独裁政権をみればわかるはずである。法律を自分の都合で解釈し、権力で合法化するものは、歪んだ解釈のために、嘘をつき、天から益々離れ、地獄へと下降し堕ちていくだろう。法律を性善説に基づいて解釈するのが、人間に与えられた使命なんで、それがカルマの法則であり、輪廻転生なんである。性善説に基づかなかった行為は、現世でも、罰として法で裁かれるが、いずれ訪れる死によって、性悪説による行為全てが、死後に、自己の内にある自我の神の、審判により裁かれ、地獄行きの地獄巡りの反省により、今度は、自分が苦しめた他人の人生を送るために、カルマの法則で、転生し、生まれ変わってくるわけなんである。暑苦しいなかの、胸糞悪い選挙のせいで、脱水症に罹り、冒頭から愚痴ってしまって申し訳ないが、物質界での運動についての、温度差の調節でもある、いわば民主主義の選挙に、熱を冷やす冷静な水分や塩分の、性善説が求められるように、人体の肉体の温度調節が、現代科学でも、キリストの神殿に近い、脳の視床下部で行われているのがわかってきているが、約37兆個もある細胞を温度調節し、それ以上の約1千兆個の細菌を腸内で地球のように住まわせているのが、人体で、このキリストの神殿の太陽光なんである。臓器はどうやってつくられる? | 理化学研究所 (riken.jp)腸内細菌叢(腸内フローラ)とは | 健康長寿ネット (tyojyu.or.jp)現代人は、人体を外的に、物質的に解釈し、宇宙を物質的に捉えているが、スウェデンボルグが説いているように、物質宇宙の他にも、思想の宇宙があり、それは霊的宇宙と呼ばれている。先の選挙のように、物質界での民主主義は、単なる幽霊のように、現実化されていない霊の思想の存在となっている。民主主義を物質界で現実化させるのは、人間の努力しかなく、それを実現させるのは、人間の道徳的行為しかないのである。ボルグは、道徳的行為は、天の理の神意から生じ、それを宇宙の霊的な太陽と呼んでいる。霊的な太陽は光であり、熱なのである。熱力学の第一法則、第2法則を発見したクラウジウスは、宇宙のエネルギーは一定で、そのエントロピーは最大に向かうと説いているが、それはボルグの霊的な太陽光を定式化したにすぎない。いわば善の道徳的行為を、叡智で表現したのが光で、物質界に転換し表現したのが、火であり、熱なのである。シュタイナーは、この火や、熱を、土星の熱として、座天使の犠牲の火で表現している。この道徳の火とは、生命の光ともいえるだろう。太陽から、この叡智の光が、地球の地上に射し込んで、道徳の火や熱として、地上で性善説として、道徳的行為を現実化させたとき、その行為は、天に召喚されて、次世代の道徳の火となる。道徳的行為がいつ天に召喚されるのかと疑問をもつかもしれない。それは実は人間が寝ているときなのである。人間が現世で行った道徳的行為のみが睡眠中に善天使に受け取られて天に召喚され、悪しき行為のみがカルマとして残され、次へと持ち越される。だから、キリストは、富を積むのなら、天に積みなさいと、地上の金銭的利害行為を戒めて、道徳的行為を推奨したのである。道徳の火だけが、次の宇宙の光となるから、クラウジウスは、宇宙の光は一定で、つまり秩序だって拡大する、と述べたのである。つまり、宇宙の光を受け入れるには、永遠に生きるには、宇宙の光から道徳の火をつくらないといけないわけで、常に道徳を学んでいく必要がある。道徳の火を消してはならないから、真言宗や天台宗などで、仏教の火として、永遠に消してはならないと説いているわけでもある。火は一種の譬えであって、本来は、人間の道徳的行為を絶やすなという意味である。さて、人体でも、宇宙の光を受け入れるには条件が必要で、人体の脳の視床下部が体温を調節するのは、現代科学でもわかっていて、触媒が酵素活性を高めるのに最適な環境を提供しているわけで、それが深部体温で約37度といわれている。シュタイナーは、土星紀の人類は、今の地球紀でいえば、蜜蜂のような存在で、蜜蜂は、土星紀の人間の現在の姿に近いと述べている。勿論、土星紀の人間は、現在の蜜蜂のような物質的な個々の肉体をもたなかったので、熱だけからなる肉体の集合魂をもっていたので、現在の人間の体温分布に近い存在だったので、人間の体温が、蜜蜂の巣の温度に近いのは、土星紀人間の名残りと述べている。蜜蜂の巣の温度は、大体34℃前後らしい。だから、蜜蜂が巣内を34℃で調節するのと、人体が、深部を37度で調節するのは、太陽光を受け取り道徳の火に変換するのに適した温度というわけなんである。深部体温と熱中症 | 熱中症ゼロへ - 日本気象協会推進 (netsuzero.jp)ルドルフ・クラウジウス - Wikipediaハウスで利用する場合の留意事項 « ポリネーション用ミツバチの管理マニュアル « 一般社団法人 日本養蜂協会 (beekeeping.or.jp)人体の恒常性を保つには、体温の他に、塩分とPHが必要で、それぞれ物質科学から、0.9%と、7.4の弱アルカリ性とわかっている。熱中症や食中毒などで点滴注射されるのは、この人体の恒常性を保ち、人体内にキリストの光を集め、道徳の火を灯すためである。人間は神ではないが、神の子なので、以前紹介したように、万物を見通す目のある脳室のなかの、神殿を清潔にして、神殿の火を消さないためなのがわかるだろう。またPH7.4を保つのは、人体内の酸素と二酸化炭素の比率を保つためで、二酸化炭素を排出し、酸素を吸収する呼吸の調整のためである。呼吸が細胞にまで行き届いているかの目安を、現代医学では、血液中の主に動脈内のガス濃度で測定し、血液ガス分析と呼んでいる。コロナ感染が流行った時に、血中酸素分圧を、サーチュレーションで、ヘモグロビンの鉄の酸素結合の赤色具合から、測るのが推奨されたが、いずれにしろ、人体内の呼吸具合を、血中のPHから調べるために行う検査である。福島県厚生農業協同組合連合会 (ja-fkosei.or.jp)おいしいと感じる塩加減とは? | おいしい塩のお取り寄せなら (ishigakinoshio.com)酸塩基平衡の概要 - 12. ホルモンと代謝の病気 - MSDマニュアル家庭版 (msdmanuals.com)【血液ガス】血液ガス分析とは?基準値や読み方について | ナース専科 (nurse-senka.jp)サチュレーション(SpO2)とは? 基準値・意味は?低下の原因と対応 | ナース専科 (nurse-senka.jp)人体は、血中のPH状態から、酸素と二酸化炭素の比率を割り出して、呼吸を調節しているので、例えば、血液ガス分析なしに、呼吸困難だからといって、酸素ガスを吸収させると、二酸化炭素ナルコーシスに陥ることがあるという。これは、血中に二酸化炭素が溜まりやすい慢性閉塞性肺炎などの患者に、酸素ガス吸入で、酸素濃度が上がると、酸素が足りていると呼吸中枢が錯覚してしまい、呼吸を抑制し、終いにはやめてしまい、二酸化炭素が溜まり過ぎて、意識障害に陥ってしまうので、二酸化炭素を体外に出すために、非侵襲的陽圧換気(NPPV)や挿管下での人工呼吸管理が必要になってくるという。酸素療法で注意すべきCO2ナルコーシス|オープンフェースマスクと酸素療法の情報サイト|アトムメディカル ヒューケア (atomed.co.jp)非侵襲的陽圧換気 - 21. 救命医療 - MSDマニュアル プロフェッショナル版 (msdmanuals.com)いずれにしろ、人体内の恒常性が、深部体温37℃、塩分0.9%、PH7.4弱アルカリ性という基本条件からなっているのを理解し、急激な変化に、人体を曝さないのが、基本といえるかもしれない。物欲による自我のエゴから、刺激を求めるあまり、人体の恒常性を歪める、非道徳的行為は慎むべきなんである。これは人体内の霊我を選ぶ選挙ともいえるかもしれない。天に見守られているのを自覚し、性善説をもって行動すべきなのである。孔子の、「七十にして己の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」といえる。経済は矩を踰えず | 連載コラム | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス今回の選挙を見る限り、呼吸困難の、選挙のナルコーシスに罹っているようにみえる。現代の政治家はいわば場当たり的な意識障害に陥っているといえるわけなんである。二酸化炭素を排出するのを忘れ、地での仕事ばかりに邁進し、酸素を吸入する天の仕事を疎かにしているようにみえる。だからそのうちに、酸素を金銭で買うような、物質的な酸素吸入により、自然の呼吸抑制や呼吸停止を生じてしまうわけで、いまは、金銭による慢性閉塞性肺呼吸疾患の状態にあるといえるかもしれない。どの候補者も、社会に対して何を施すかよりも、とにかく自分が目立てばいいという、低俗で俗物な歪んだ品性しかみえない。だから、もっと自然の呼吸を、太陽光を充分に取り入れる、ヨーガによる輪廻転生の思考法が必要になる。新しきヨーガの霊能力再獲得法のために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 第6文化期に、霊我は降下するが、それは友愛の意識に目覚めた共同体の人々にしか降下しない。霊我は友愛の意識を欠く共同体には広がりようがないと、スラブの民族魂は予感している。このため、ロシアの知識層は、西欧や中欧に、次のような非難を浴びせる。 「西欧や中欧の人々は、友愛に満ちた共同体の生活に全く無関心でいる。貴方たちは、個人主義のみを追求する。自立した人間に、個人になりたい、と願うだけなのだ。ただ個性を通じて、自我を感じ、個人を実感したいがために、それを極端へと推し進め、周囲から孤立させている。」 このような発言が、東から、西欧や中欧へと、独立主義などへの多くの非難のなかに反響している。西欧と中欧の現況を、東から実感する人々は、人間のつながりへの全ての感情を失ってしまったと告発している。そして、現実と未来を混同し、更に次のように続ける。 「友愛からなる共同体が存在するのは、ロシアをおいて他にない。この共同体のなかでは、誰もが兄弟で、ときには「父」であり、ときには「母」となる生活は、ロシアでしかありえない。」 西欧のキリスト教は、友愛からなる共同体を展開するのに失敗したが、ロシア人は、真の友愛からなる共同体を知っていると、ロシアの知識層は断言する。 アレクサンドロ・ヘルゼンは、19世紀に生きた、ロシアの知識階級に属する優れた思想家だったが、「西欧に幸福はありえない。」と断言し、究極の結論をもたらした。いかなる目論見がなされようとも、西欧文明には幸福は決してやって来ない。西欧文明では、人間は決して満足を見出せない。そこでは混沌のみが支配する。 唯一の救いは、スラブの民族性にある。まだ個人を切り離していない、古の共同体の生活にある。ロシアの村々の共同体には、堅固とした頼りになる集合魂の性質がまだ残っている。人智学徒が集合魂と呼ぶ自我の状態から、人類は徐々に個人を発達させ、抜け出したが、動物はまだ、その状態のままにいる。 ロシアの知識層には、このような集合魂は、ロシア人=スラブ民族間の、偉大で意味深い存在として尊ばれている。しかし、未来の、真の共同体は、これから実現すべき高い理想として、現在はまだ上空を羽ばたいている、という霊的な思考には上昇できない。だから、ロシアの知識層は、次のような古い考えに固執する。 「我々は、民族の集合魂で生活する、ヨーロッパの最後の民である。他の民は、集合魂を超えて出ていった。しかし、我々は共同体のために保持してきたし、これからも保持すべきである。」 しかしながら、実は、この集合魂による生活は、未来には存在すべきものではなく、消滅すべきものなのである。というのも、このような共同体での生活は、人類の進化にとっては、古い集合魂だからである。もし、この集合魂の状態が続くならば、ルシファー的な集合魂として、堕落腐敗し、地獄へと堕ちていくだろう。昔の進化段階に留まったまま、霊的には死んだ生の形態を続けるだろう。 だから、この古き、ニセモノの集合魂に対してホンモノの、我々人智学徒が追求すべき、新しき集合魂の生の形態は、人智学による霊能力の再獲得から見出す必要がある。しかしながら、確かに、古い集合魂とはいえ、ロシアの知識人の願望と憧憬は、来るべき第6文化期に、霊我の降下をもたらすためには、新しき共同体を創造する霊性がどれほど必要なのかを、示している。 いまは間違った道に進んだ形で、霊我の降下が求められているが、本来は、人智学において、真実の道に進む形で、霊能力の再獲得から追求すべきである。だから、東欧に対して、我々人智学徒は次のように提案したい。 「東欧の人々が、外的な、物質的な生活形態において、すなわち、古いルシファー-アーリマン的な共同体の形態で、保存しようとしているのを完全に克服するのが、我々人類進化の課題である」。 ルシファー-アーリマン的な性格の共同体には、ロシア正教教会が確立したような硬直した信仰の強制がある。そのような共同体は思考の本当の自由を理解しない。ましてや、完全に自由な個人的な自我が、友愛に溢れる社会生活に結び付くというレベルには上昇できない。古き悪しき滅びゆく共同体は、血縁の兄弟愛に、純粋に血を通じた友愛にとどまるもののみを保存したいと願っている。 血ではなく、霊的に、個人的に自由な魂に基づく共同体は、人智学の道において追求すべきものである。我々人智学徒は、血縁関係が、もはや何の力ももたない共同体を創造する必要がある。 当然だが、ある範囲内で、血縁の要素も存続するだろう。それは家族関係のなかで生き続けるだろう。というのも、家族という共同体は、未来でも、カルマの役割として必要で、消し去られることはないからである。しかし、新しいカルマを基にした家族関係が生まれなければならない!
2024年07月09日
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昨日の起床後に腹痛がするので、また持病の尿路結石かと思いきや、冷たい水分を補給して安静状態でいたら、回復したので、どうも熱中症であったらしい。電気代も高騰している生活のなか、クーラーも故障中なんで、付け替えるのも面倒なんで、なんとか過ごしてきたが、まさか自分が熱中症になるとは思わなかった。年老いると肉体の体温調節が脆くなってしまうのだろうな。一人暮らしのお年寄りが熱中症でぽっくり逝ってしまうのもわからなくもないな。自分もそんな年齢になりつつあるのかと悲喜こもごもだが、ドジャースの大谷には熱中症だがね、とお年寄りのオヤジギャグをかっとばしながら、この暑い日本のさなか、皆さんもお気をつけください。常に近くに冷たいお飲み物(腸からの吸収を考え、血漿の浸透圧に近い生食に近い飲み物が良いらしい、以下の経口補水液の作り方を参照に)を用意して、涼しい恰好で睡眠くだされ。というわけで今回は短めになるのをご容赦くださいな。熱中症について | メディカルノート (medicalnote.jp)塩分と脱水 ~経口補水液の作り方~ | 済生会 (saiseikai.or.jp)経口補水液とスポーツドリンクの違い | サンファーマシーグループ (sunpharmacy.co.jp)さて、病気といえば、先日、手塚治虫氏のブラックジャックの実写化ドラマを久しぶりにTVでみた。ブラックジャックは小学生のときによく読んだ漫画で、ドラえもんと双璧だった。漫画のアニメ化はごく自然の流れでどちらが先か卵と鶏のようにわからなくなっていくように瓜二つの双子のような作品になるが、実写ドラマ化というと、漫画のなかの世界が、物質界とは相反している場面が多いので、違いが目立ってしまう。だから、漫画の読み方や解釈の仕方によって、多様な観点が生まれてしまい、実写化という割と物質界に近いつくりをしてしまうと、全く違う作品になってしまう可能性が高い。だから、実写化を想定して書かれた漫画でないと、整合性がとれなくなってしまうわけなんである。ましてや、ブラックジャックのような作品は、読者の解釈、思い込みが入り込みやすい作風なので、十人いれば、十人十色のブラックジャックが生まれてしまい、主人公ブラックジャックでさえも、読み方によって、統一感のない人物になってしまう。今回の実写化ドラマは現代風のつくりで個人的には面白かった。世間的にも、高視聴率だったようだが、SNSでは案の定不評だったようである。最たる不評の理由が、ドクターキリコに女優を起用した点であったようだ。恐らく昨今のジェンダーフリーの流れで、キリコを女性の姿に脚色したのだろう。つまり原作漫画信者からは、キリコのイメージにそぐわないというわけである。自分は女性の姿でも、特に違和感がなかった。というのも、ドラマの内容からいって、キリコが安楽死を受け寄った女性患者が獅子面病で、顔が醜いまま生きる辛さは、男性よりも女性の方が敏感に感じると思うからである。テレビ朝日ドラマプレミアム『ブラック・ジャック』|テレビ朝日 (tv-asahi.co.jp)容姿が不細工で生まれる辛さは、男性よりも、美を大切にする女性のほうが深刻に思えるからで、カリユガ時代が影響大の現代のルッキズムからいっても、度々紹介している徳川家康の遺訓の、人生は~の重荷になるのは容易に感じられる。だからこそ、現代では美容整形が流行になっているわけでもある。精神的な中身を大切にして生きるという人はほとんど天然記念物のようになってしまっている。相手を騙してでも、外見に拘るのが現代人の特徴といえるかもしれない。それは四六時中来訪する悪霊のような詐欺メールからもわかり、人を欺き騙すことがモラルハザードであり、地獄に堕ちることなどに全く無関心なのに、呆れてしまうばかりである。政治家が国民を騙して税金を着服している現代だから、地獄の世界である。シュタイナーはカリユガの影響が大の現代の特徴を、万人による万人の闘争時代と預言している。硬直した旧来の悪魔支配の組織を脱出し、解体するには、個人主義の育成が急務で、だから、組織内であっても、派閥などの個人主義の闘いが生じるのである。悪党は分割するしか救う余地がないからである。悪は分断して退治するしかない。巷の俗物の自民党のような悪党集団になってしまったら、もはや悪魔の思う壺で、地獄に堕ちていく大量採用の大勢力となってしまう。だからこそ、スウェデンボルグが霊界で体験した最後の審判が必要となるわけなんである。まだ悪に染まり切っていない個人を少しでも解放し、助けるしかない。さて、ブラックジャックだが、多くの人の読者解釈があるように、私にもあり、恐らく、手塚氏は、医者を描きたかったのではなく、生命倫理観を描きたかったものと解釈している。実際漫画なんで、医学や医者を描くのは非常に困難で、ましてや無免許医をわざわざ書く意味がないわけでもある。勿論、ドクターコトー診療所のような、ある程度ドラマを想定した小説風の漫画もあるが、私は見たことがないが、医学や医者というよりも、人間性や、日本の村民の暮らしの人間ドラマを描いているのではないかと思うので、手塚氏の漫画の描き方とは違う。こちらはブラックジャックというよりも、黒澤明監督作品「赤ひげ」のアプローチに近いのではないかと思う。ブラック・ジャック - Wikipediaブラック・ジャック (テレビアニメ) - WikipediaDr.コトー診療所 (テレビドラマ) - Wikipedia虫プロダクション - Wikipediaブラックジャックは医者というよりも、当初の目的が、復讐であったように、手塚氏の当時の状況を反映した漫画で、つまり鉄腕アトムで、粉骨砕身した結果、虫プロは倒産の憂き目に遭い、漫画の神様でも、この時はどん底の状況にあったわけで、この漫画によって、手塚氏は、従来のヒューマニズムを、あえて捨てた賭けに出たといえるからである。それは、前回まで紹介してきた、前世で宗教王だった人が、現世では科学王になる輪廻転生と同じように、漫画界の、特に出版業界に、復讐しようと思い立ったのかもしれない。手塚氏の当時の心境から言えば、ブラックジャックは、ドクターキリコで、この作品を描くことで漫画界から自分という存在を安楽死させたかったのかもしれない。それはこのブラックジャックという名は、別名ジョーカーというババ抜きのババに使われる黒札のジャックに由来するようである。恐らく最強の切り札という意味らしいが、手塚氏は、この漫画という切り札で、倒産の憂き目にあった復讐を、漫画界や出版業界や世間に復讐するのを、思いついたのかもしれない。ユーカー - Wikipedia鉄腕アトムというロボットを描くことで、ロボットといういわば人間の奴隷の弱者目線から、世間にヒューマニズムを問う漫画を描いたが、結局はアトムと一緒に単なる金儲けの道具に使われ捨てられた復讐を、ブラックジャックという最後の切り札で、果たそうというわけなんだろう。だから、ブラックジャックは、当初は、手塚氏のドクターキリコで、恐らく当時の核実験をモチーフに、その被爆被害者に、自分を模して、当時の世間の金満上層部に、復讐しようと誓った漫画の主人公だったようである。だから、金持ちを安楽死させるのが、当初のブラックジャックであったドクターキリコの医者となる目的だったわけで、おカネさえ積めばなんでも治す外科医という評判で餌を撒いて、金持ちをおびき寄せ、ツギハギの顔は、その闇の復讐心を象徴化した、生命をカネで切り刻むメスであり、二人目まではなんとか復讐を果たすのだが、二人目からは、心変わりしてしまう。ググると、次のような見解に辿り着く、「2人目に復讐をし損ねて(ガンで死ぬ寸前だったのを手術して延命し、復讐に取り掛かる前に自然死)」。この2人目の死から、復讐心が薄れていき、ブラックジャックのなかで、別に伏線キャラのドクターキリコが悪を担当し、袂をわけていく。つい最近、バカリズム氏が、「ケンシロウによろしく」というドラマで、外科医から鍼灸師に、メスから空手の北斗神拳へと、わずかに医療職を変えて、この流れを継承した作品をつくっている。虫ん坊 2016年10月号(175):TezukaOsamu.net(JP)【独占配信】ケンシロウによろしく | DMM TVよくよく考えてみれば、ドクターキリコは、求める人だけに安楽死を与えているわけで、復讐心で医師になったブラックジャックのほうが、動機では遥かに悪質性が高いようにみえるのだが、世間的な見方では、ドクターキリコのほうが悪にされているのも不思議であり、先の実写化ドラマの批判では、女優が演じたキリコについて自殺ほう助まがいの解釈が罷り通っているから更に不思議である。実際に安楽死が合法化されている国は以下のサイトにある。ブラックジャックとドクターキリコのどちらが善で悪なのかは、各個人の死に対する認識に委ねられるが、ブラックジャックが当初の復讐心から、漫画のなかだが、自らの医療行為を通して、救済心に目覚めるのは、どこかゲーテのファウストを感じさせる。安楽死が認められている国はどこ? - SWI swissinfo.chファウスト (ゲーテ) - Wikipediaブラックジャックは悪人から善人へと改心していく物語なんである。悪因悪果ではなく、悪因善果に、救いをみつける漫画なのかもしれない。ブラックジャックのなかでは、ピノコという人間にはなれなかった女性で生まれるはずの魂が、ブラックジャックという漫画の世界で、悪因から善果に転じるキャラの、輪廻転生の働きを担う。このピノコが、ブラックジャックのなかの復讐心を失わせる悪のなかの善の存在といえるかもしれない。ブラックジャックはピノコを娘と呼ぶが、ピノコは奥さんと思っている違いが面白い。ピノコはブラックジャックの救世主なのである。ピノコ - Wikipedia長々とブラックジャックの独善ともいえる解釈を披露してしまったが、それは輪廻転生への男女の役割の違いを解き明かすためである。シュタイナーの輪廻転生の本から、ある程度、女性と男性の働きの違いがわかってくる。大まかに言えば、男性は地の人間的な仕事を、女性は天の天使的な仕事をする傾向にある。妻を奥さんと呼んで、陰的な月光の秘めた役割に求めたのも、古の霊力からきているのかもしれない。だから、家庭は奥が崩れると道徳が破綻し、人間性を失うわけで、だから、不倫ともいわれるのかもしれない。これは女性に霊媒が多いのでもわかる。女性は、霊魂が、肉体に深く浸透しないために、物質界に囚われない傾向にあり、物質にあまり共鳴しないし、どちらかというと、精神的な安定を求めがちにあり、信仰に弱い。それは占いなどにもハマりやすく、物質界から育成された意識魂の、悟性や論理性に弱い。理屈よりも直感を重視しがちなのは、よくいえば物質に束縛されないためだが、悪くいえば、依存心が高く、悪い考えや悪霊などに憑依されやすく、洗脳されやすい。これは幽霊を解き明かすことでわかる。現代人は幽霊をみたことがないと考えがちだが、実は誰もが幽霊をみていて、ただその自覚がないだけなのである。何を隠そうが、実は、幽霊とは、思考のことなのである。思考というイメージが思い浮かぶが、それは脳がつくったものと自覚しているが、脳が霊魂から受け取ったものなのである。ただ送信元の霊魂が自分が送ったよ、というサインがないから、脳が自分のものとして、解釈しているだけにすぎない。だから、幽霊はなんらかの思考形態のイメージで、そこらへんに、いわば波動の形で存在しているのである。ただ物質という形態を伴わないので、太陽光を集めた覚醒意識ではみえないだけなんである。だから、量子力学では便宜上確率波となってしまっているわけなんである。女性のほうが物質界をみる肉体のメガネ、ゴーグルに完全にハマらずに、時より外しがちになるので、悪霊の雑音波を受け取りやすくなってしまう。この肉体のメガネ、ゴーグルが、人智学が呼ぶ、意識魂で、それを個人的に育成するのが、我々の第5のアーリア文化期の地球人の使命でなんである。そこで、またシュタイナーの輪廻転生の本から、その解説に相応しい歴史上の人物を紹介しようと思うのだが、せっかく腹痛がおさまった小康状態にあるので、今回はここまでにしたい。なぜブラックジャックの話をはじめたのかといえば、幽霊を説明するのに相応しい作品で、特にピノコという幽霊のようなキャラが、恐らく手塚氏の人生から、ブラックジャックという叡智の幽霊を召喚したものと思われ、ブラックジャックという作品は、手塚氏にはピノコだったのかもしれない。これらの作品は、天使を通して主に夢のなかでみることもあるが、いずれにしろ、思考として脳のなかに与えられる。ブラックジャックという作品も、なんらかの天使が送った幽霊の、つまりイメージから生まれた現実の幽霊なのである。我々地球人は、非現実な漫画やアニメ、フィクションのドラマをみているが、実はそれは幽霊を通じて霊界をみているわけで、ただそれらを幽霊と定義し、認識していないだけにすぎない。幽霊と思っていた存在が実は実写化されて、現実の人間に降臨したのが、キリストなのはいうまでもない。個人意識を発達させ、キリストを実在ドラマとして見に行くために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ポスト・アトランティス時代は第5文化期に最盛期を迎える。第6文化期と第7文化期に生じるのは、個人意識の衰退である。にも関わらず、第6文化期の、この個人意識の物質性への退化は、霊我により霊感を吹き込まれ、霊我に浸透され、再生され、キリストとして蘇るだろう。 今日、東ヨーロッパの人々は、霊的に、これが真実なのを予感している。ただし、しばしば睡眠中の潜在意識から、そのように感じているにすぎない。 東ヨーロッパの人々の、このような潜在意識は、大抵、睡眠中の夢のなかの、茫漠とした混乱したなかに感じるものである。「ロシア人」という言葉が、特定の個人に関係なく、頻繁に使われるのが、(これは日本人にもいえる)実に特徴的である。 例えば、ヨーロッパの西側で、「イギリス人」、「フランス人」、「イタリア人」、「ドイツ人」という言葉を使う場合、(意識魂が発達しているので、公私の境界が明確で)大抵は特定の個人の具体的な特徴を指す意味をもつのに、ヨーロッパの東側で、「ロシア人」という言葉を使うと、(意識魂が未発達なので、公私の境界が曖昧で)大抵は漠然として、東スラブ民族全体を指し、精神的な意味において、潜在意識のなかの、民族霊も含む。 ロシアの知識層の多くが、「ロシア人」という言葉を使いながら同時にスラブ民族全体を考えている。これは、このスラブ民族固有の民族霊と深く関係している。この民族霊を指す言葉は、東側の共同体の友愛関係の上に広がる、友好的な人間関係から結びつく、仲間意識の、兄弟の要素も含んでいる(悪い意味で、ヤクザ世界の兄弟仁義みたいなもの)。 「ロシア人」という言葉の、「人間」を意味する「人」のなかに、このかつての民族霊の共同意識が示されている。しかし、遠い未来に到達すべき高度な文化には、到達できないのも明らかである(残念ながら、シュタイナーは、日本人も同様に、個人意識よりもいまだ全体意識が強いので、到達できないと述べている。しかし、逆に北米民族も、個人意識が強すぎて、全体意識が弱いので、資本主義をみればわかるが、到達できないらしい)。 ロシアのなかにスラブが含まれ、この言葉の境界が常に曖昧で、ロシア語が広く話される没個性のなかに、個人が全体を超えられず、紛れもなく個と全体が矛盾する現実を意味する。この言葉のなかに、古きスラブ民族という意味を含む限り、常に、共同体と個人の中間に囚われる宿命を背負うのである。 「ロシア人」という表現の「ロシア(の)」という形容詞が、「人」という名詞で表現される個人の存在を、束縛し、実際に無効にしている。というのも、真の理想の、自由な愛の人間に到達したいなら、個人を束縛する要素を示唆する形容詞はつくはずもないからである。 しかし、それよりずっと深いレベルで、ロシアの知識層のなかには、共同体や友愛の概念、来るべきスラブ文化期において必要な理解が、自我のなかに霊的に眠っている。(恐らく、独裁者が個人を戦場に送り、不慮の死を遂げることで、死後にロシアに生まれた生前を反省し、来るべき転生に際して、個人的に、独裁者的存在を乗り越えて進化していくのを、シュタイナーは預言しているようである。勿論、独裁者は、前回紹介したパワハラ上司のように、戦場に送った者たちに報復され、全ての人類に足蹴にされ、ミカエルに退治された龍のごとく、跪くしかないだろう)
2024年07月04日
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人間は天使になるべく地球で自由と愛について学び、試験を受けているわけだが、シュタイナーの輪廻転生の本を読んでいると、ニュートンがプリンキピアで説いた、ユークリッドの原論による、アリストテレスの運動論の焼き直しが、輪廻転生とカルマの法則を説いていたようにもみえてくる。物理学史1/2 (yamagata-u.ac.jp)万有引力 - Wikipedia自然哲学の数学的諸原理 - Wikipedia現代人のほとんどが、唯物論に洗脳されてしまっているために、アリストテレスの運動論やニュートン力学が地上の物質界だけを記述したものと錯覚しているわけだが、ニュートンがプリンキピアの第3巻で、神の世界を数学的に示そうとする動機を明らかにしているように、この動機は、スウェデンボルグの書では、キリストの神意、つまり救世主の意志として明かされているが、勿論、アリストテレスが土として想定していた物質界だけの話でない、のがわかるはずである。では、どうして、地球人はアリストテレスの土の霊の物質界だけの存在へと、堕天使ルシファーやアーリマンの学院による誘導を受けて、失楽へと洗脳されたのか?といえば、個人的に自由な自我を獲得するために、いわば、物質界により目隠しされたのである。ニュートン力学でいえば、土的な本性の、失楽性の、外的な欲望の、慣性性の、欲望という名の低次な愛の、質量を与えられたのである。それはまた、モーゼに与えられた十戒の霊的な教えを歪め、神の名を語る偶像崇拝が地上に蔓延り、大きな塊となって、古代アトランティス時代と同じように、大破局へと下降する時代の大きな腫瘍化の流れを、個々の小さな流れに細分化し、再浮上の糧とするための、自我から霊我への目覚めとして、キリストの降臨を、各個人の自我に体験として印象付け、際立たせるためでもある。迷える子羊は、羊飼いを求める。さて、前回紹介したカルマの法則と、輪廻転生論から、ニュートンの第3法則の、作用反作用の法則が、輪廻転生の、前世と現世での、自我についての作用反作用の法則となっているのが、宗教王が科学王に輪廻転生していることからもわかる。前世と現世をイコール=でつなぐ働きが、キリストの神意のカルマの法則である。これは、前世の自分の行為の、他者にした作用が、現世では反作用の、自分にされる行為として、責任として果たされる法則ともいえる。だから、前世の自分の行為=現世の自分にされる行為となるだろう。だから、カルマの法則により、ニュートンの力学は、人生の法則へと書き換えられる。第3の法則は、言い換えると、自分のなかの非自分の、つまり、自分を超え、自由な愛を探求していく人生となるが、では、他のニュートンの第1、第2法則はどう書き換えられるだろうか?実は、ニュートンの力学を持ち出さずとも、わざわざニュートンの第1法則と、第2法則にしなくても、日本人には仏教でお馴染みのものなんである。それはお釈迦さんが説いた、善因善果、悪因悪果である。道徳的に善い行為は、天に受け取られ、次の人類の行為の指標となる。逆に悪しき行為は、天には受け取られずに、地に戻され、永遠に背負う自己となる。徳川家康の遺訓の、人生は、重荷を背負って歩くの、重荷になる。それは自分がかつて他人にした行為が、ブーメランとして自分に返ってきて自分となるからである。つまり、これがニュートンの慣性の法則で、人生の質量の法則なのである。すると、第2法則も想像がつくだろう。伝教大師の、一灯照隅、万灯照隅である。物質界でのニュートンの第2法則は定式化され、F=maと力Fと、質量mと、加速度aの記号で表現されているが、加速度とは、現世で他に成した行為に置き換えられる。つまり、mは、現世の自分で、aは、自分が他者に成した行為となり、それは他者には、現世での影響力のFとして現れることになる。一灯照隅、万灯照隅は、加速度を、灯の光で代替している点で、特殊相対論に近いともいえるかもしれない。だから、ニュートン力学の唯物論を取り払い、宗教や道徳論に還元すると、人生のカルマの法則が浮かび上がるのがわかる。このようにシュタイナーの輪廻転生論から、ニュートン力学の上辺の自然体系が、ニュートンが本来意図した神の摂理の、天の理のキリストの神意に導かれるのが解き明かされる。ニュートンの3つの法則 - EMANの力学 (eman-physics.net)そこでまた、具体的な歴史上の人物の輪廻転生から、このカルマの法則の、特に作用反作用の法則をみていく。この法則を読み解くのに、面白いのは、ペスタロッチである。ペスタロッチがなぜ面白いかというと、彼の取り巻きとの人間関係から、彼が教育者となった経緯が、前世からわかるからである。ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ - Wikipediaシュタイナーによれば、彼の魂が、ペスタロッチという教育者として転生した理由を知るには、前世を2つ前の、奴隷監督人であった紀元前の南欧にまでに遡る必要があるという。当時の奴隷制は、ある意味仕来りのようなもので、現代人がイメージするものよりは、当時の南欧の奴隷は自由で教養をもっていて、奴隷が、当時の重要な人物を教えることもあったという。そのようななかで、ペスタロッチの前世であった奴隷監督人も温和で親切で、奴隷たちの世話や仕事の分配をしていたという。しかし、上司が過酷で乱暴で、いまでいうならパワハラ上司の下に従事していたという。いまでもこの国の巷にも、似たようなブラックな職場環境が沢山あるが、この上司の言いなりになるしかなく、やがて、このパワハラ上司の命令に従うしかなかった奴隷監督人は、代わりに奴隷たちに反感を買ってしまったという。このようななかで、奴隷監督人を巻き込んだ奴隷たちと、そのパワハラ上司の人間関係は、その時代の人生の役目を終え、死の扉を通過した際に、生前の因縁が深く結びついて、特に、自分の意に反して、上司に従ったために、強いシコリができてしまい、次の転生では、その上司の妻となるべくして生まれたという。このペスタロッチの前世であった紀元前1世紀の奴隷監督人は、今度は、9世紀に中欧で女として生まれ、前世のパワハラ上司との関係を持ち越して、その妻となったという。ペスタロッチの前世の妻と、このパワハラ上司は、9世紀の中欧の、親密な住民たちの村に住み、その役人になったが、下役で、村の住人の皆から殴られていたという。というのは、その村の住人の上役全てが、かつての奴隷の生まれ変わりだったからだという。つまり、シュタイナーによれば、そのパワハラ上司は、過去でしでかしたパワハラを、9世紀の転生で、今度はパワハラを受ける側にまわる責任を背負ったためで、まさにカルマの法則の、ニュートンの第一法則の、悪の慣性の法則であり、悪因悪果なのが、このパワハラ上司の輪廻転生から読み解ける。かつてのパワハラ上司は、上下関係が逆転して、今度はブーメランによりパワハラを受ける立場に甘んじることになったわけなんである。ペスタロッチの前世である奴隷監督人を通して行った、そのパワハラ上司のパワハラの残虐行為が、今度は自分に返ってきたわけなんである。そして、ペスタロッチの前世であった妻は、静かな人生を送りながら、そのパワハラ上司の今度はパワハラを受ける側の不満や愚痴の捌け口に苦悩して生きたという。やがてその人生のカルマの役割を終えたが、過去のカルマ全てを清算したわけでなく、パワハラ上司はこの人生でほとんどパワハラを受けることで、ほぼ完済したが、上司の命令とはいえ、奴隷監督人であったペスタロッチの前世は、パワハラを受ける側の苦悩を、その夫を通じて共に体験し、ある程度果たしたが、まだ奴隷に対してパワハラをした清算が未完済なので、次の転生での完済が必要となる。このカルマの未完済の部分を成就するために、18、19世紀の現世に、教育者としてペスタロッチは生まれ変わり、かつて紀元前1世紀で、奴隷監督人としてパワハラをした奴隷たちの生まれ変わりの、住人たちの子どもに教育を行うことで、その責任を果たすことになったのを、シュタイナーは、ペスタロッチの輪廻転生から解き明かしている。これは、一灯照隅、万灯照隅ともいえ、前世の奴隷へのパワハラが、現世の奴隷の子への教育へと、F=maとして、変換したニュートンの第2法則の人生版といえるかもしれない。つまり、ニュートンの第2法則の真の意味は、悪行が善行に運動変換される、という人生の、カルマの道徳の法則なんである。悪の力Fが、善のaにより、自我を救済するための加速度という禊の運動、カルマの完済のために人生に費やされる救いの運動法則なんである。転石苔むさず、という諺があるように、喜捨の精神が、この人生の運動法則の諺に隠されている。転石苔むさず - Wikipedia喜捨 - Wikipedia布施 - WikipediaA rolling stone gathers no mossの本来の意味は、恐らく、カルマの法則を意味し、輪廻転生を繰り返す魂はやがて、自我のエゴが生えずに、角がとれて、丸い霊我になって、天に召される、という意味になるようにみえる。恐らく、ニュートンの運動法則を意味しているのだろう。F=mr^2ωの角運動量である。角運動量保存則の真の意味を解き明かすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 西ヨーロッパ文化に隠された深い意味は、ポスト・アトランティス時代の第5文化期での霊的な探求が、意識魂にある、という事実にある。西ヨーロッパ文化、特に中央ヨーロッパでの精神的な課題は、個人の文化、つまり個人意識を育成(進化)させることにある。これが、現代の課題である。この我々の時代を、第4文化期のギリシア・ローマ時代と比べてみる。 ギリシア時代は、特に文明化したギリシア人の間では、集合魂を基盤に生きる意識、民族魂と特別に結びついた霊的な一分枝の精神形態を示していた。例えば、アテネで生まれ生きる人は、何よりもまずアテネの一員の「アテネ人」と感じた。都市とその都市に属する人たちの間にある、ギリシア人の共同体は、当時の個人にとっては、今日意味する共同体以上の大きな存在を意味していた。 我々の時代では、個人は共同体を抜け出て、共同体を越えて成長し努力できる。この成長や努力は、第5文化期では正しいが、かつてのローマ時代では、個人がローマ市民を抜け出るのはあり得なかった。それ以上の存在にはなれなかった。しかし第5文化期においては、何よりもまず自我の最奥のなかにある憧れから理想の人間であろうと努力する。現代人は、一個人の魂であり、集団性に囚われず自由な霊性をもつ。 地球上で互いに闘っている個人を見るのは、我々の時代では苦痛に満ちた経験だが、これもまた、結局、「理想的な人間」の自由な発達(進化)を求める第5文化期の執拗な努力に対する反応にすぎない。 異なる国と民が、今日敵意に満ちて相互から境界を敷き、閉鎖を行うが故に、この閉鎖への抵抗として、人間がもつ全ての能力で、理想的な人間であるための許容力を発達(進化)させることが益々必要となる。 個人が、あらゆる種類の共同体から抜け出して成長し、共同体を超えて成長する許容力を発達(進化)させるのが、益々必要となってくる。しかしその一方で、人間は、完全なる意識魂の、覚醒意識において、第6文化期に、自らの完全に自由な意志から、入る共同体も準備する必要がある。 我々人智学徒の眼前には、高い理想と、第6文化期を包括する共同体の姿が、いま上空を羽ばたいている。第6文化期では、文明化した人間たちが、ごく自然に、兄弟姉妹のように、自主的に互いに自由な愛の共同体として集い、出会うだろう。 過去の年月になされた多くの人智学の講義から、東ヨーロッパには第6文化期に特別な使命をもつ民族が住むのを、我々人智学徒は知っている。東欧に住む人々は、第6文化期になるまで、その自我の内側の奥に今眠っている基本的な霊能力を、明確に表出することはない。 ロシア周辺に住むスラブ民族は、いま自我の奥深くに潜む、かつての前世で秘儀参入に関わった原始の霊能力を展開するのに、第6文化期の受肉を待たねば、準備が整わないのを、知っている。(このスラブ民族による霊能力は、現独裁者により戦場に送られることで、不慮の死を遂げ、次の転生に、悪魔の憎き独裁者を倒す霊能力として準備される。) 西ヨーロッパと中央ヨーロッパの使命は、育成した意識魂によって導入し得る道徳的な資質を、なるべく多くの人々に注ぎ込むことである。この使命は、東ヨーロッパにはない。東ヨーロッパは、霊我が地上に降りて来て、人々の魂に浸透できる、次の転生まで待たねばならない。この人類の進化計画は、正しい意味で理解する必要がある。間違った意味で理解されるなら、正しく東において、権力者の如く、驕りと傲慢へと、容易に導くだろう。
2024年07月02日
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いまシュタイナーの輪廻転生の本を読んでいるのだが、高校のときに、世界史を選択してこなかったせいもあるのか、外国の歴史上の人物について、自分が、あまりにも無知なのに呆れてしまう。一々ググって調べないと、人物の概要すらわからないから、難儀でもある。いまは社会科の選択科目がどうなっているのかわからないが、昭和の大学入試の共通一次世代にとっては、社会科は、日本史、世界史、地理の3科目のうちの2科目選択だったと記憶しているが、世界史を選択しなかったのが、いま裏目に出ているわけで、人智学を通じて、改めて学んでいる最中といえるわけなんである。だから、歴史上の人物で知っているのは、物理畑を専攻した都合で、物理学や数学に関わった人物ぐらいで、それも有名な定理や法則の名前になっているぐらいの世間一般の知識しかなく、どのような人物だったのか、皆目見当もつかない、ほとんど何も知らない無知レベルの代物といえるかもしれない。そもそも、昭和の社会科教育といえば、日本史や地理といっても、日本史は、八切史観のような差別史などは完全に無視され、周囲の国々との歴史的な整合性も考えずに、いまだに侵略か進出かの言葉の違いに血眼で、日本独自の権力者が都合よく書き換えた似非歴史を、ただ宗教の教義のように信仰させるような近視眼的な教え方で、大局的視野に欠け、汚いものには蓋をして隠してしまう、地理についても首都や特産物を暗記させるぐらいの、海外旅行にすら役にも立たない、まるで死んだ知識を脳に叩き込む、昭和の、日本の社会科教育が、単なる暗記科目に堕しているのにも問題があったといえるかもしれない。昭和の社会科教育自体が、いまでは暗記のパワハラといえるかもしれないが、古の権力による支配構造に対抗する人種差別撤廃の世界的な新しい流れとともに、いまの社会科教育の現状も少しは改善し、グループ学習を取り入れて、単なる暗記科目から、人間性や道徳的な思考を加味していく、より高度な知識が求められるようになっていくのが理想だろう。それは、シュタイナーが説く、来るべき第6文化期の、万人の幸福は個人の幸福で、あらゆる宗教は個人的信教の自由に帰し、外面的な社会での実践や経験を通じて、人間の内面性のなかに、精神的な道徳の知識を獲得し、外と内を道徳的知識でつなぎ、人間の理想体を呼吸する、新しいヨーガの社会知識的な修行法の獲得が主眼となっていくかもしれない。社会科教育 - Wikipedia社会科教育 2022年8月号 協働的な学びを深める!ペア・グループ学習アイデア (meijitosho.co.jp)例えば、古今東西の歴史的な出来事から、似たような歴史的人物を、トランプの神経衰弱や、パズル合わせのように比較して、考察するような社会科教育などは面白いかもしれない。そのような社会科教育から、人物の輪廻転生が読み解けるかもしれない。前回紹介したように、宗教王が科学王になっているのを、社会心理学を通じて、読み解けるかもしれない。神経衰弱 (トランプゲーム) - Wikipedia社会心理学 - Wikipedia長々と日本の社会科教育の愚痴を述べてしまったが、前回の続きをはじめる。現代の物質的な科学の源流が、アーリマンによる人類の獣化の666年のゴンディシャブールに由来するのは、このブログでも再三紹介してきたが、人間の獣化が、主に、3つの科学、現代でいうところの、遺伝子デザイン医学、細胞再生医学、そして量子力学による波動制御学に依存していくのが、ある程度わかってきている。それは人類に幸福をもたらすどころか、不幸を招くのは、量子力学による核分裂や核融合を用いた核兵器開発で明らかである。科学技術はただ独裁者を喜ばせただけで、天国はおろか、地獄の世しかつくりだしていない。核兵器を恐喝の道具に使って独裁者が自らの野望を遂げている現状をみれば、高次の宇宙人たちが心配しているのは、地球人のような無知蒙昧の幼稚な頭脳でもわかるはずである。それは、金儲けのためなら、大谷選手のプライバシー侵害などお構いなしの堕落腐敗した日本の某メディアサーカス団と同じ諸悪の根源であるのが、社会心理学からもわかり、そのサーカス団の主が、CIAの工作員ポダムからの因縁なのは、仏教徒にも悪因悪果としてお馴染みだろう。悪魔と一旦取引したら、地獄に引きづり堕ちるまで一蓮托生の共倒れなんである。正力松太郎 - Wikipediaシュタイナーの預言かどうかはわからないが、日本が悪魔に乗っ取られて滅ぶ説が流れているのは、このような第二、第三のポダムのような老害権力者が居座り、日本を格差社会の差別社会化の666の獣化に導いているせいとも考えられる。それは晩節を穢した高齢者の自動車事故と同じである。高齢者にもなってなぜ天命を知れないのか不思議でもある。孫をみれば、自分のこの世での役目も終わりに近づいているのに気づくはずである。後進に道を譲るのができないから、便秘でウンコが出ずに感染死してしまうのである。話が逸れてしまったが、アーリマンの学院は、天使長たちの天界からの霊力で、イスラム教徒により破壊されたが、前回紹介したように、バグダッドに移り、アッラシードによる、東洋のアリストテレス哲学の霊的な再生として蘇って、物質界に馴染み深い、後の物質科学の土台となる、主に数学と地理学を発展させた。アッラシードはフランシスベーコンに転生し、後の産業革命につながる唯物科学を象徴化する、知は力なりを唱える。シュタイナーによると、9世紀に、このアッラシードの王宮がダマスカスから、バグダッドに移ったとき、アッラシードの子の、マアムーンが統治者だったという。マアムーンの宮殿のなかに当時の占星術に精通していた人物がいたという。今ではその名は知られてないが、日本でいえば、安倍晴明のような陰陽師で、この占星術の大家により、当時の占星術から生活全般の規則が決められたという。ちなみに、安倍晴明は10世紀の人物なので、それより少し前(約100年前)の人物ということになる。この人物が次に転生し、「ラプラスの悪魔」で有名な、ピエールシモンラプラスとなったという。つまり、ラプラスにとっては、占星術が、科学であり、天体の配置から、地上の規則を決めていた前世が、転生して、ラプラスの悪魔になり、科学的な決定論を生み出したわけなんである。マアムーン - Wikipediaラプラスの悪魔 - Wikipediaピエール=シモン・ラプラス - Wikipediaジョゼフ=ルイ・ラグランジュ - Wikipediaラプラス方程式 - Wikipedia物理屋には、ラプラスよりも、解析力学を構築した、最小作用の原理から定式化されるラグランジアンで有名な、ラグランジェのほうが有名かもしれないが、ラプラス方程式をみれば、現代の場の理論の、特に近接作用の方程式の、現代の摂動論の前身となっているのがわかる。ラプラスのなかで、当時は天使たちの運動から読み解いた宗教的な、占星術が、物質界に応じて、天体力学概論になったのである。場の量子論 - Wikipedia人智学から、輪廻転生を読み解けば、ラプラスの思想を通じて、エーテルの運動論が、物質的な運動論の力学に変わったことになる。実は、ラプラスだけでなく、ニュートンも、いまではエーテル論を嫌っていたと解釈されているが、19世紀に、ローレンツがマイケルソンモーレーの実験から、エーテルの存在を定式化しようとして、ローレンツ収縮という局所時間を導入したように、これは後のアインシュタインの特殊相対論にも利用されるが、残念ながら、エーテル論については物証性から破棄されてしまったが、ラプラスの輪廻転生をみれば、霊的なエーテル論の知識を物質化し、定式化した成り行きで、その発展過程であるのがわかる。ヘンドリック・ローレンツ - Wikipediaこのローレンツの局所時間については、ニュートンが、いまでは絶対時間と曲解されているデュレーションと呼んだ、いわば、「みかけの時間」の相対時間とほぼ同じものなのがわかる。ニュートンがプリンキピアを、ユークリッドの原論のように書いたのは、恐らく、霊的なエーテルを想定してのものだと考えられる。ニュートンは恐らく霊能者だった可能性もあるが、それは後に、経済学のケインズが、ニュートンを評して、最後の魔術師と呼んでいるのでわかる。古くは魔術師とは、陰陽師のように、自然霊と交信できる占星術の達人を意味するからである。ニュートンのエーテル観については、霊能者でもないと、いまからでは想像でしかないが、人智学から、エーテルの力学を再構築してみたいように思う。アイザック・ニュートンのオカルト研究 - Wikipediaその前に、現代の科学の祖となった人物の輪廻転生を、紹介することで、ニュートンのエーテル観に迫ってみたいと思う。統一理論というと、国際連盟をつくったウッドローウィルソンが挙がるが、シュタイナーは、このウィルソンを当時、敵対視し、悪魔のような人物として紹介しているのが面白い。シュタイナーが反感をもったのは、ウィルソンの前世にあるようで、シュタイナーは次のように霊視で読み解いている。ウィルソンの前世は、悪名高きムアーウィアだという。ムアーウィアはイスラム教の創始者ムハンマドの後継者だが、アラビア民族主義の一神教と決定論が心のなかを支配し、次第に宿命論に傾いていった人物だという。当時アジアのアリストテレスの精神主義文化が盛んな地域に、侵略していったが、結局は、何一つ成果を成し遂げられずに、中途半端な形に終始したという。さしずめ、いまの巷の増税メガネと言った感じなのだろう。声高に叫ぼうが、スローガンだけで、結局何一つの成果も成し遂げられないのだから、悪名だけが名高くなる。ウッドロウ・ウィルソン - Wikipediaムアーウィヤ - Wikipedia統一理論はできても、実際に統一できなければ絵に描いた餅で、かえって紛争を招くだけである。つまり物質を統一しても、心が一致しなければ意味がなく、それは最大最高の幸福での到達着地点を目指さないと意味がないわけで、所詮、自らが神を語る偶像崇拝で、悪魔の真似事にすぎない。唯物論が無神論に陥るのは、物質には死しかないからである。物質は無になって初めて統一できる表現形態になる。だから、エネルギー論に帰着せざるを得ない。さて、エーテル論の代名詞でもある天動説から、物質論の代名詞ともなった地動説への転換となった、コペルニクスの転回で有名なコペルニクスの前世を、シュタイナーは解き明かしている。コペルニクスは、ニコラウスクザーヌスのわずか約十年しかない霊界での再生期間での転生で、その霊的な思想の物質面だけが強調されて現れた存在だという。クザーヌスの「無知の知」の思想から、その物質的な面での、コペルニクス的転回の背景が浮かび上がる。クザーヌスの無知の知は、ソクラテスの無知の知には及ばないが、シュタイナーによれば、クザーヌスのときには、世の中の唯物的な流れに対抗して、霊的な知識を獲得するのがいかに困難かを説くために、無知の知を記したが、コペルニクスに転生してから、逆に、無知の知を物質的な知に転換してしまったわけである。コペルニクス的転回 - Wikipediaニコラウス・コペルニクス - Wikipediaニコラウス・クザーヌス - Wikipediaつまり、真のコペルニクスの転回とは、エーテルからの物質への転換を示し、それを身をもって、本来は、約2千年を経るべき輪廻転生を、わずか約十年の局所時間の輪廻転生で示したのが、クザーヌスからコペルニクスへと受け継がれた霊魂の働きそのものだったわけである。上のウィキのクザーヌスの思想にもあるが、「クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。」この思想がコペルニクスの地動説となり、それが、つまり、正の天動説への、反の地動説であり、やがて、それら天と地が、神と合一し、天地動説となるのを予感させる。来るべき、第6文化期に、人智学による輪廻転生説から、自由な思想として、人間の認識を高め、神意と合一されるだろう。コペルニクスと同じように、天動説と地動説の狭間に立たされた人物を探ると、ティコブラーエという人物が浮かび上がる。コペルニクスの死の3年後にこの人物が生まれているが、この人物のティコ体系をみると、霊の天と物質の地の融合の天地動説の前身めいたものが表れている。なによりも、この人物が面白いのは、シュタイナーが、この人物の前世が、ユリアヌス帝と言っているところである。ティコ・ブラーエ - Wikipediaフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス - Wikipediaシュタイナーのユリアヌス評を紹介するには、紙面を要するので、とりあえず、いまは省くが、ユリアヌスの当時が、多神教と一神教の狭間にあって、それらの融合ともいえ、秘儀に精通し、キリスト降臨前の太陽霊キリストを知る立場を選択したために、当時の唯物論に染まったキリスト教の権力者たちから背教者と罵られたようである。面白いのは、多神教と一神教のユリアヌスの融合宗教が、転生して、天地融合の天地動説のティコ体系となっているのがわかるところである。このように前世と現世の輪廻転生の、いわばエーテルから物質への霊から物質への逆変換ともいえる、エーテル論の鏡像関係から、ニュートンの作用反作用の法則が、アストラル界から浮かびあがるのがわかるだろう。前回の先に紹介したヘッケルは、シュタイナーが、その典型的な人物として挙げていて、カトリックによる思想統一を進めたグレゴリウス7世が、転生してヘッケルの唯物論科学による思想統一を推し進め、自分が前世でつくったカトリックの権力を、後の転生で、破壊する、まさしく、輪廻転生のニュートンの作用反作用の法則を、体現した人物だからである。人智学から輪廻転生まで拡張した、ニュートンの第一、第二法則にも言及したいが、とりあえず今回はここまでにしたい。輪廻転生のカルマの法則から、ニュートンの法則を再構築するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 第2の古代ペルシア文化の受肉に必要な魂の能力、いわば道徳力は、第1文化期の古代インド文化ではまだ幼児のようだった。このように次の時代の転生の準備のために、地の人々の道徳行為から、天へと上昇する道徳力が、霊界の天使たちに保持され育成されてきた。このように各々の文化期において、前もって次の受肉に必要な道徳力が準備されてきた。いま第5文化期の文化や文明のなかで、現代人が発達させている魂の道徳力は、意識魂である。この育成は、14世紀からはじまり、15、16世紀と続いて、唯物主義的な意識による科学が、人間を捉えた。この育成は徐々に広がり、この第5文化期の終わりに、その発達(進化)が完了する。そして、いま意識魂を発達(進化)させているように、次の第6文化期で発達(進化)させるべきなのは霊我である。霊我の発達には、先に述べた3つの道徳的な特徴が、人間の魂に既に存在するのを前提とする。3つの特徴はすなわち、友愛による幸福な共同社会生活、宗教などの思想の自由、そして人智学などによる霊的な科学的知識の獲得である。これら3つの特徴は、第5文化期において、意識魂を、発達(進化)させているように、来るべき、次の第6文化期の霊我獲得の準備のために、いま人間の共同体が、友愛をもって、発達(進化)させるべき、切実に重要な課題である。それ故に、人智学のグループが、友愛から共同体として結びつき、道徳的な友愛の活動をすれば、それは天上の聖霊、つまり善天使たちに共鳴し、天上で共に羽ばたくので、天上に、幼児のような霊我が羽ばたいているのが、自我にも感じられるはずである。この霊我は、第6文化期に、人間の魂が、地上に転生するとき、魂の秩序形成力、いわゆる道徳力として保持できるように、高次のヒエラルキー(位階)の天使たちによって予め計画され、育成されてきた。だからいま我々人智学グループにおいて、この霊我の内実を準備するために、友愛による道徳活動を広く展開していかなければならない。だから、人智学の叡智を通して、友愛の活動グループとして集うとき、自我と霊我とのつながりを通じて、実際の道徳行為から、霊我の創造行為へと到達できるのが、確認できる。自身の自我の為だけでなく、霊界へと上昇するような、友愛活動を実践しているという信仰、この友愛活動が霊界と関係するという信仰、これらの信仰こそが、人智学グループを聖霊とつなげる真実の絆である。このような信仰を抱くことが、自身の自我に、人智学運動のグループの基盤となる聖霊の意識=霊我を浸透させる。だからこそ、この信仰の真実、つまり霊的な意味で、友愛活動を把握するのは大いに重要となる。我々のグループが、人智学を育成するだけでなく、思考の自由に基づいて、共に集うなかの、友愛活動のなかに、自らの自由を見い出す。グループ員に課される教義や信仰の強制などは一切なく、友愛をもって共同して道徳行為を自主的に自由に実践すべきである。何より最も大切なことは、次のように自らに問いかけ、共同体の理念の真の意味を常に意識することである。「近代の魂として、我々はポスト・アトランティス時代の第5文化期に属し、個人として発達し、共同体生活から、個人生活を益々高めている、という事実とはまた別に、高次の共同体育成も意識しなければならない。その共同体は、兄弟間の愛の自由に基づき、この意識を、いわば白魔術の息吹として、グループ活動において、呼吸し、大気のなかの光として、浸透させなければならない。」
2024年06月27日
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もし自分がいまの自分でないとしたら、と考えると、自分の前世を解き明かす一歩となるかもしれない。シュタイナーは、「いかにして、前世を知り得るか」で、自分の前世を知る方法を提案している。以前、巷でも前世療法というのが流行った時期があったが、これは前世というよりも、天使たちとの交信法と言ったほうが良いかもしれない。前回紹介したスウェデンボルグの前世の、イグナチオロヨラが火星の天使たちと交信し、その前世をボルグに提供したような感じに近いようにみえる。というのも、シュタイナーの説く前世は、巷で語られている前世とは少々趣が異なるからである。いかにして前世を認識するか - シュタイナー関連書籍出版 イザラ書房 (izara.co.jp)前世療法 - Wikipediaというのも、巷で語られている前世は、現世の自分とよく似ている、と考えられているが、例えば、現世で数学が得意な人は、前世でも数学が得意だったと考えがちだが、シュタイナーが説く前世は、正反対で、前世で数学が得意だった人は、現世では数学が全くできない、というのである。勿論、五次方程式の一般解が存在しないのを発見したアーベルのように、若い年齢で結核などで亡くなった場合は、その若い未発達な数学の能力を引き継いで、次の転生でも数学の才能をもって生まれてくる可能性もあるらしいが、ニュートンのように老齢まで生きた場合、次の転生では、数学も物理も全く苦手で生まれてくる、ようなことを述べている。ニールス・アーベル - Wikipediaアイザック・ニュートン - Wikipedia例えば、次の2つの肖像をみて、似ているようにみえるのが、巷で語られている前世で、似ていないようにみえるのが、シュタイナーの語る前世である。ただし、シュタイナーも肉体の動かし方の、動作や仕草などは、前世から引き継ぐと述べている。というのも、肉体は全く異なるが、エーテル体は似たような部分を引き継ぐからである。ちなみに上がロヨラで、下がボルグである。いか前(いかにして前世を知り得るか)などで、シュタイナーは、前世を理論的に解き明かしていて、前世と現世では、正反対のアストラル体を引き継いで転生するので、全く正反対の性格をもつ人物として生まれ変わる、と説いている。だから、前世が男性なら、現世は女性で、特別な事情がない限りは、性も正反対で転生すると述べている。だから、現世で性同一性障害になるのは、恐らく、前世での体験が鮮明で、いまの肉体には入りたくない想いがあり、肉体を拒絶し、先祖返りしたい欲望が強いのかもしれない。例えば、前世で肉体に入りすぎ、酷い虐待を受けたために、肉体への嫌悪感を生み、現世では、肉体に恐怖を覚え、あまり入りたくないのが、女性への志向として現れているのかもしれない。逆に、前世で肉体に無関心で、あまり入りこまなかったために、霊媒体質で、物質界に適応できずに暮らした想いが強すぎて、今度は肉体に深く入り込もうとはするが、思ったようには肉体を制御できないので、代わりに男性への志向として現れているのかもしれない。つまり、心と肉体のバランスが偏っている状態といえるかもしれない。女性志向は肉体への嫌悪感。男性志向は肉体への憧れという感じである。シュタイナーは、霊的な知識を獲得するには、女性の肉体が適しているので、霊媒体質は女性が良く、逆に、物質的な知識などの自我性(エゴ)や、物質界の言語などを獲得するのは、男性の肉体が適しているようなことを述べているが、それらは、輪廻転生を見ていくと、男性が権力者になりやすいのでもわかる。また、シュタイナーは、ある人物の前世よりも、転生のほうが霊視しやすい、とも述べている。いずれにしろ、前世と現世では、真逆の性格になりやすく、輪廻転生においては、前世で自分がつくったものを、現世では、嫌悪し、破壊する側にまわると述べている。そもそも輪廻転生とは、全く違う環境でも、自分を生かせる能力が問われているわけなんである。だから、ヘーゲルの弁証法の正反合のようなもので、現世の自分は、前世の自分の否定で、前世と現世の自分から、正反合の自分をつくりあげる、のが目的といえるかもしれない。だから、シュタイナーは、前世の自分と現世の自分はいわば真逆の人間なので、現世で自分を発揮しようとするほど、前世の自分の抵抗に遭うというわけで、つまり、現世の自分のなかには、自分とは正反対の自分を隠しもっているようなことを説いている。だからして、カルマとは、前世の自分による、現世の自分へのブーメランともいえるわけなんである。ということは、前世で、自分が他人に与えた行為が、現世で、他人から、自分に返ってくるわけで、現世で、自分が他人にされたことは、前世で、自分が他人にしてきたことになるわけなんである。だから、もし、前世の自分と現世の自分のカルマの方程式を立てるなら、前世と現世の時間の変換と共に、自分と他者が変換するわけで、例えば、自分を、電子に置き換えれば、時間の変換に対して、マイナスの電子が、プラスの陽電子に変わる対称性が成り立つ。もし、それを生命エネルギーの保存で定式化したら、前世で生命エネルギーを奪う生き方をしていたら、現世では生命エネルギーを与える生き方をするような場のポテンシャルというか、機会に出くわすことになる。だから、前世で悪霊の如く、他人の生命エネルギーを奪ってきたら、現世では、そのような他人の悪霊から生命エネルギーを奪われるような人生を送るようになるわけなんである。逆に、前世で生命エネルギーを与える生き方をしていたら、現世では、生命エネルギーを与えられる善霊の友人に恵まれるわけなんである。この事をお釈迦さんは、善因善果、悪因悪果と表現している。例えば、日本文化には、贈り物などを与えられたら、お返しする風習があるが、これは、このカルマの法則に則った文化といえるかもしれない。他人から与えられたままでは、現世どころか、来世でも、借りを返せないわけで、そのようなままだと、いずれ悪霊がタカリにきて、気持ちが悪いわけである。西洋には輪廻転生の思想が、キリスト教により封印されてしまったので、贈り物への返礼の習慣が残っていない。さて、前回のボルグの話でも、シュタイナーも第6文化期の特徴として述べているが、天国では、万人(霊)の幸福は、一人(霊)の幸福でもあり、一人(霊)の幸福は万人(霊)の幸福でもある、共通の幸福の認識を、天国の霊は、もっていたという。これは伝教大師の、万灯照隅、一灯照隅にも通じるが、一灯も万灯も同じで、共に照隅が必要で、西洋でも、最高の幸福とは、最大多数の幸福であると、ベンサムなどが述べているが、これは唯物論に染まり過ぎて曲解されているが、本来は、人類全体が一人の不幸も出さないような幸福に目覚めるべきという意味に解すべきである。最大多数の最大幸福|グロービス経営大学院 創造と変革のMBA (globis.ac.jp)それには人間一人一人が、人類全体の幸福をこの世に実現するために、天国をこの地に再現していかねばならない。ロヨラは、エーテル体のキリストを、物質界に再び転生させようと、イエズス会をつくり、霊界をボルグになって紹介したが、それよりも、人類のほうから、エーテルのキリストの姿をみるために、キリストの神意に歩み寄るために、人類の認識を高めるのが先決だと、シュタイナーは人智学を興したわけなんである。そのための、まず第一歩が、現在の自分とは真逆で、正反対の、前世の自分を霊視できることにある。だから、自分の殻や自分の壁とは、前世の自分として、自分のなかに潜んでいる隠れたドッペルゲンガーなんである。自分を電子とすれば、ドッペルゲンガーは陽電子なんである。ディラックの海のなかの正孔である。ドッペルゲンガー - Wikipediaディラックの海 - Wikipedia実は現世の人間は、鏡像世界に過去の前世をもっている。現在の自分は、前世の自分と鏡像関係にあり、それがカルマの天秤となって、前世と現世の自分という錘をバランスしている。現世の自分が物欲に塗れ、重くなるほど、現世の自分に引きづられ、前世の自分が見えなくなってくる。例えば、飲酒などのアルコールを飲むことや、肉食などは、現世の自分を重くするので、前世の自分をみえなくし、だからこそ、仏教修行者などは、戒律で禁止にされた。霊能力の初歩は、自分の前世を見る事なので、飲酒や肉食はそれを失わせた元凶だという。それはボルグも、霊界で遭遇した霊から知ったと語っていて、天国に不要なばかりか、地獄に堕ちる悪霊の原因となるとも説いている。というのも、飲酒も肉食も、人体に余分な生命エネルギーを蓄えることになるので、天国にそぐわない、不必要な財産を蓄えることになってしまうからである。天国とは自らの生命エネルギーだけでなく、全体の生命エネルギーをつくりだす霊たちの楽園だからで、奪うことではなく、与える事で成り立つ世界だから、常に必要な生命エネルギーそのままで生きるのが相応しいからである。不必要なエネルギ-とは、他の誰かから奪ってきたもので、自分でつくりだしたものでないので、不必要で、余分なのである。必要なら自分でつくりだしているはずで、それは自分だけでなく、自分を通じて他者にも分け与えているはずで、キリストが、自分の血と肉を分け与えた最後の晩餐のようなものである。天国への門 - Wikipedia最後の晩餐 (レオナルド) - Wikipedia必要なものは神意が既に与えているはずなので、わざわざ、他人を支配し、不必要に余分にとってきて貯める必要がないのである。だから、十戒では、略奪してはならない、と戒めている。略奪し、利潤をとってはならないので、キリストは神殿から商人を追放した。神殿から商人を追放せずに、贅を尽くしていると、前回紹介したように松果体が石化して、神々との対話を失い、地獄に堕ちて、悪霊に成り下がるわけなんである。面白いことに、シュタイナーは、キリストの十二使徒の裏切りのユダの輪廻転生を語っている。キリストは最後の晩餐で、ユダに裏切りを認め、赦している。その理由は、このユダの輪廻転生で明らかになる。シュタイナーによると、ユダは、なんと、アウグスティヌスに転生したという。ユダはキリストを裏切って、ローマ帝国に売り渡したが、アウグスティヌスになって、今度はローマ帝国を裏切り、ローマ帝国をキリスト教に売り渡したという。ローマ帝国はキリスト教のために崩壊した。アウグスティヌス - Wikipediaローマ帝国 (y-history.net)キリスト教の公認 (y-history.net)シュタイナーによれば、アカシャ(虚空)年代記から、このような輪廻転生を読み解くことで、物質界の出来事が明らかになるという。例えば、現代科学の源流を探ると、二人の人物が浮かび上がる。ヘッケルとフランシスベーコンである。ベーコンの、「知は力なり」は有名だが、私には、「血は力なり」に聞こえてくる。ベーコンは、イギリスに唯物論の集大成ともいえる科学文化をもたらしたが、ヘッケルは、ダーウインの進化論を広めたように、唯物論的な生物学を広めた人物といえるだろう。この二人は、科学の王とでもいえるかもしれないが、面白いのは、シュタイナーによれば、両者とも前世が宗教の王だったことにある。エルンスト・ヘッケル - Wikipediaフランシス・ベーコン (哲学者) - Wikipediaシュタイナーによれば、ヘッケルの前世は、グレゴリウス7世で、キリスト教の王で、ベーコンの前世は、イスラム教の王のハールーンアッラシードだというのである。アッラシードについては、以前、アーリマンのササン朝の学院を紹介したが、イスラム教徒に征服されたために、その学院の歴史的史料は紛失しているらしく、不明な点が多いが、年号から類推して、666年のゴンディシャブールから、786年のバグダッドに場所を移して、約120年を経過した後で、幾分、アーリマンの唯物性も薄まって、その後の学院を引き継いで叡智の王となったように考えられる。イスラム教が興ったのも、この地でのアーリマンの学院に対抗するためだったらしく、実際に、イスラム教徒により、この666の唯物教の悪魔学院は崩壊した。ハールーン・アッ=ラシード - Wikipediaグレゴリウス7世 (ローマ教皇) - Wikipediaジュンディーシャープール - Wikipediaシュタイナーによると、786年から809年にかけてバグダッドに芸術と科学の頂点となる文明を築いたのが、詩人に讃えられたアッラシードだという。アッラシードを中心とした精神文化では、アリストテレス主義がアジアに広まった。東洋からみた古代ギリシアのアリストテレスの霊的な叡智が蘇った。これによって、イスラム教の攻撃性が緩和され、抑えられたという。このイスラム文化は、多くの詩人、自然科学者、医者を輩出し、特に数学と、地理学を発達させたという。アッラシードをググってみると、アラビアンナイトで有名な人物なのがわかる。面白いのは、アラビアンナイト経由で、ドラえもんの話にも、登場しているところである。アラビアンナイトではないが、このアッラシードの右腕となっていた人物、シュタイナー曰く、アッラシードのイスラム文化のオーガナイザーが、後に転生したのが、ヨハネスアモスコメニウスであるという。イスラム文化に霊性を与え、攻撃性を抑制させ、新しい文化として花開かせたのが、この後にコメニウスとして転生した存在だという。実際に、コメニウスは、当時の教育学を改革し、「汎智学」を書いたという。ドラえもん のび太のドラビアンナイト - Wikipediaヨハネス・アモス・コメニウス - Wikipediaシュタイナーは、このコメニウスの前世の更に前の前世まで言及し、だから、アッラシードの右腕の存在の前世になるが、この人物は太古の秘儀参入者だったという。秘儀参入者は、現代のような、特に男性として生まれると、肉体の拘束力が大きいために、霊能力を生かせない代わりに、その時代に適した秘儀参入法をつくりだすために、教育者になりやすいという。つまり、コメニウスの教育学への改革志向は、太古の秘儀参入者であった前世に由来するという。このアッラシードのイスラム文化と、グレゴリウス7世のキリスト文化が、それぞれベーコンやヘッケルとして転生し、後に融合して、唯物論的科学の源流となるのは、非常に興味深い。その代表的な人物として、進化論のダーウィンが挙げられるだろう。シュタイナーは、ダーウィンの前世は、ジブラルタル海峡の名の由来となったジャバルアッターリクだという。ターリクはアラビア文化によるスペイン侵略の代表的な人物だが、後の転生での、進化論でも、無神論の唯物生物教へと、当時の宗教を侵略し科学教への改宗に導いていったことになる。チャールズ・ダーウィン - Wikipediaジブラルタル海峡 - Wikipediaターリク・イブン・ズィヤード - Wikipediaこのように前世で宗教王だった者が、後の転生で、その攻撃者となり、科学王に転身するのは、歴史は繰り返す、という格言からも、非常に興味深い。個人的にいえば、前世の自己否定が、現世の自分をつくっていることになる。このイスラム文化などの宗教文化からの転生による唯物的科学文化に関わる人物はまだまだ多数シュタイナーにより解き明かされているが、ラプラスとか、コペルニクスとか、きりがないので今回はここまでにしたい。輪廻転生から人類の進化を解き明かすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 第6文化期の、第2の基本的な特徴は、今日の宗教などへの信仰全てが、今日の集団性のものよりも遥かに高度に、個人的な、自我の自由に帰するようになるところである。人智学的な認識により、個人的な信仰の自由へと導かれるが、第6文化期の全ての領域においては、完全な思考の自由へと、そして、個人的な憧れにより、それへと導かれるので、すなわち、どんな宗教を信仰するかは、全面的に個人的な自我のなかの精神性、もしくは前世に起因する霊性に委ねられるようになるだろう。 今日の、様々な共同体に、かくも多くの形で存在する集団的な信仰、例えば新年への祝いなどは、第6文化期の最高度に進化した人間には、何の効力ももたないものとなる。宗教に関わる教義や信仰などからの、完全に自由な思考は、基本的人権として、誰もが感じるようになるだろう。 第3の特徴は、第6文化期の人々が、霊性を認識したときのみ、事実と見なされるところである。霊性が、物質界に漲り、人間の魂が、その霊性との結合に至ったときのみ、ホンモノの知識をもったと見なされる。 唯物主義的な傾向を伴った今日の科学として知られる知識は、ポスト・アトランティス時代の第6文化期には、今日、科学の名前で呼ばれる栄誉を浴せずに、古臭い迷信のように見なされるだろう。 今日の科学的知識は、ポスト・アトランティス時代の廃れた第5文化期の段階にとどまった人々の間にしか通用しない。例えば、未開人が、「死人の手足を、身体から切り離してはいけない、完全な人間として霊界に入れなくなるから」と言えば、現代人は、迷信と見なすだろう。 このような発言をする未開人の発想は、霊魂の不死の概念を、そのまま唯物論の肉体に結び付けている。つまり、死者の魂の物質的表現でしかない肉体が、そのまま霊界に移行する、という信仰になってしまっている。唯物主義的に思考しているのに、不死を信じる矛盾に陥っている。 人間の死とは、霊魂(精神)が、肉体から分離し、そして霊魂だけが超感覚界=霊界に移行する、というのを、人智学から理解すれば、今日でも、不死に対する、そのような唯物主義的な信仰を、迷信と見なせる。 これと同じように、第6文化期には、いまの科学も含む全ての唯物主義的な信仰は、古臭い迷信と見なされるようになる。当然、霊性への認識に基づく、人智学による霊的な知識のみを新しい科学として受け入れるようになる。 人智学の目的は、この意味において、第6文化期への準備である。唯物主義を克服する為に、来るべき時代に相応しい、自由な思考によるホンモノの科学を準備する為に、いま人智学を育成している。教義的な信仰が全く無く、もしくは、誰かから教義を要請されず、どこからも教えを受け取る傾向が全くない人々が、自主的に共同体を築いていくもので、教祖などもいない。 一つの例外もなく、教えに対して、魂たちが、自由に発する同意に基づいて築かれる、共同体を創設する。この共同体において、人智学が、思考の自由を準備する。人智学の育成を目的として、友愛の交流から集うことで、ポスト・アトランティス時代の第6文化期を準備する。 しかし、我々人智学徒の交流とグループの本当の課題を十分に理解するなら、人間の進化行程を更に深く見つめる必要がある。ポスト・アトランティス時代の第1文化期でも、当時、秘儀に関わった共同体では、後に第2文化期に支配的となった霊性=精神性を育成した。第1文化期である古代インド文化期に特有の霊的な(天使たちとの)交流では、アストラル体の育成に関わったのは既に述べた。 この育成は、第2文化期固有の外的な課題に対応するためだった。時代の外的な文化とは対照的に、第2の古代ペルシア文化期を準備するために、古代インド特有の、霊的な交流において何が育成させられたか、を述べるのは、今日では、話が飛躍しすぎて脱線しかねない。 しかし、次のように表現できるかもしれない。第2文化期に必要な霊性=精神を準備するために、古代インド文化期の霊能者たちが集ったとき、次のように感じた。 「我々の魂は、次の時代の受肉に要する肉体に見合う能力にまだ到達していない。また、自らの内にそれを十分に制御できる能力をもっていない。その能力はまだ、我々の上方で天使たちと共に羽ばたいている。」 実際にそうだった。第1文化期では、次の第2文化期で、天から地へと降りるはずの能力が、当時の人々の魂の上で、まだ上空で霊として羽ばたいていた。秘儀に関わる霊能者たちの集まりにおいて、地上で成就した次の時代への準備は、霊能力で、高次のヒエラルキーの天使たちへと上昇し、第2の古代ペルシア文化に相応しい、アストラル体を、魂のなかに降ろし、天使たちと交信しながら、醸成し育成する性質のものだった。
2024年06月25日
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巷には、霊界の話が都市伝説として、盛り沢山だが、現代の歪んだ宗教団体のように、紛い物も沢山あるが、そのなかから、ホンモノを見つける眼を養うのも、地球での修行の一環といえなくもない。エマニュエル・スウェデンボルグの霊界の話から、人類は、地球に天使になるための昇進試験を受けにきているのがわかるが、合格すれば、天国に行けるが、落第すると、地獄に堕ちるわけで、だからこそ、宇宙の神々や、高次の宇宙人たちが見守るなかで、地球人が、なにより真剣に生きるのが、宇宙から望まれている。だから、自分の好き勝手に、インチキなどをすれば、すっきりくっきりとお見通しされてしまうわけで、カンニングなどで、神々や高次の宇宙人の目は誤魔化せないから、フリーメーソンで有名な、万物を見通す目というのは、地球人の行いを監視している、いわば、地球人の受験態度を、監督している、試験監督の、試験審査の、高次の宇宙人の目でもあるわけなんである。「地球人よ、我々は宇宙から、あなたたちの生き様を見通しているのだよ」と物語る目でもある。この万物を見通す目は、人智学のマナス=霊我でもあり、天使たちの存在の証でもある。だから、最後の審判の目でもあるわけなんである。宇宙人をイメージ化すると、このような図となるだろう。このような人間の霊魂を監視する目が、神秘学では、松果体にあると伝承されている。つまり、地球人は、松果体を通じて、心を監視されているわけで、この水晶のような松果体がモラルハザードなどで曇ってくると、地獄に堕ちるという警告が、ウルトラマンのカラータイマーのように鳴り出すわけなんである。以下の図のように、松果体が古代エジプトのホルスの目であるのに気づいている人もいる。地球人は、この松果体の霊の目を通して、霊我により、天使たちと交信しているので、神秘学では、キリストの神殿とも呼ばれている。ホルスの目の下には下垂体を含む視床下部があるが、ここから人体にホルモンを分泌して、自我の恒常性を担っているのがわかる。十分な睡眠をとらないと、ホルモンバランスが狂ってくるわけで、キリストの神殿で祈りを捧げないと、つまり善行をしないと、松果体が曇ってきて、硬化し、石化してしまうのである。プロビデンスの目 - Wikipediaカラータイマー - Wikipediaウルトラマン - Wikipediaホルスの目 - Wikipediaホルスの目は目じゃなかった!さらになんと・・・ | Magical History Tour松果体の石化、つまり石灰化について以下の研究は興味深いが、残念ながら、物質的な知識に終始しているので、可能性を感じさせるが、人智学的知識の初歩的段階にも達していない。現代の量子力学が、エーテルを無視し、物証に終始しているので、唯物的限界の壁を超えることができないが、来るべき未来の生命科学を予感させるものとして紹介する。意識と脳科学の現状から考える情報の可能性についての考察―量子論の仮設に基づいて― 草野 純子 日本国際情報学会テンプレート (jst.go.jp)しかし、このような研究から、キリストの神殿で、商売をする現代人は、この松果体を硬化させやすく、認知症の危険を増加させ、カラータイマーを鳴りやすくさせるのがわかる。現代人への警告としての、ウルトラマンの話は、神話を髣髴とさせるものが多いが、地球人を襲う怪獣を悪霊らの悪魔と考えれば、神智学の話にも通じる話があり、ウルトラマンが放つスペシウム光線の十字形が、キリストのクロスであるのも、面白い。しかし、ウルトラマンのカラータイマーは、人間のように松果体の頭ではなく、胸にあり、ウルトラセブンになって、仏像の白毫と同じ眉間の、松果体の近くになっているのも面白い。神話を共通としている意味で、ウルトラマンに近い、神智学の話とは、聖白色同胞団が、赤いアンタレス星にあり、地球を救いにきたという話である。ウルトラマンも赤い球体として地球にやってきた。アンタレス - Wikipediaウルトラマンでは、ウルトラマンが最後になんとかして、怪獣を倒して地球人を助けてくれるが、現実は、地球人一人一人がハヤタ隊員となって、怪獣の悪霊を倒すためにウルトラマンに変身しないといけないわけで、ウルトラマンならぬ天使となるテストを受けるために、一度堕ちた地獄の現実から抜け出すには、反省し、再試験を受け直すために輪廻転生するしかない。しかし、死後に、地獄に堕ちてから反省しても、次の転生まで待たないと、次の昇進試験は受けられないわけで、地獄に堕ちている期間を無駄に過ごすのはいうまでもない。ましてや、地球が物質性を失い、次の木星紀になるまでに、合格できなければ、永遠に悪魔たちと一緒に地獄で暮らすしかなくなる。しかし、現世でも、巷の独裁者や裏金議員のように開き直って、一向に反省できない666の獣のような連中が沢山いるわけで、地獄に堕ちているのに、既に、死んでいるのさえ、自覚がない魂が盛り沢山なようである。ボルグによれば、死を無と思い込んでいるので、魂として意識があるので、死んだ自覚もないので、生前と同じ欲望を満たすために、悪霊として、知人に憑依してくるという。自分だけが損害を受け、地獄に堕ちるならまだしも、このような獣に限って、他者を支配しようとする欲望も大きいので、他人を巻きこんで、一緒に地獄に堕ちようとするから厄介である。生前に地獄に堕ちる仲間をできるだけスカウトして一緒に堕ちようとするわけなんである。というのも、このような魂は、モラルハザードを起こしているので、神意の生命エネルギーを自給自足できないので、他の魂に寄生するしかないからである。物質界では、物質に依存して暮らすしかできないわけなんである。だから、ボルグによれば、堕落腐敗した獣性をもつ人間が、なぜ、地獄に堕ちるのか、といえば、現世での物質的な生き方が、死んでもなおやめられないからで、生活習慣病とも呼ばれている病気になるのは、物欲のために、自己管理ができなくなり、肉体を壊すからである。現代医学でも、飲酒や煙草などが肉体を壊すのがわかっていながら、やめられないばかりか、ストレス解消にいいとか、少量なら血管を拡げるとか、自己都合の理由を考え出して、正当化してしまうからである。モラルを自己都合で歪めてしまい、モラルハザードを起こしているからである。だから、ボルグによれば、地獄に堕ちるのも、自主的に堕ちていくという。いまだにクマの出没が巷を賑わせているが、それはクマ化というか獣化している地球人への警告かもしれない。ボルグによると、聖書などの古代文書での、動物の記述は、人間の獣化、つまり、悪霊化を意味しているという。自分が悪霊となっているのに気づかないので、その警告として、物質界にいるときには、限度を越えて、肉体が障害されると、病気になるわけなんである。生活環境を改善できないまま、病院で病気を悪化させて、亡くなってしまうと、悪霊となってしまう可能性もある。つまり、肉体の恒常性を保つのが、自我のなかにある神意のモラル性で、人智学では霊我と呼んでいるが、自我が物欲に駆られ、悪霊に憑依されると、肉体が限度を越えて障害され、病気になるわけなんである。古代人が、病気になるのは悪霊に憑依されたせいと語っていたのは、病気の背後に、ボルグが語っていた神意と人間の認識の乖離が限度を越えて広がるからだろう。先に紹介したように、松果体が石灰化してしまうわけなんである。ボルグの話から、悪霊の本性というか、地獄に堕ちる人の特徴とは、神意のモラルを自分に都合よく歪めて解釈し、運用し、それを法律化して、権力者となって、他者を支配し、神に成り代わる偽善や詐欺にあるという。だから、神意である、愛を憎しみにかえてしまい、叡智であるモラルも、愚かな無知の教義や、ニセモノの信仰にかえてしまうので、天邪鬼になってしまうという。そして、他人が苦しむのに快感を覚えるマゾヒズムをもつようになるらしい。神智学では、このような生命エネルギーを奪う悪行をネガティヴと呼んでいるが、地獄に堕ちる人や悪霊は、他人を妬んで、不幸に陥れたりするネガティブな精神の持ち主というわけなんである。マゾヒズム - Wikipediaこのように、地球人の悪事は、松果体を曇らせ、石灰化させ、人間の認識を、神意から乖離させ、自分勝手なモラルハザードを正当化するのは、独裁者や裏金議員らをみれば明らかである。悪霊や地獄に堕ちる人は、物質やその知識などで外見を着飾るが、物質界ではたとえバレなくても、松果体を通じて、審判をするのは、宇宙の神意なんで、人間のつくる物質界での法は破れるが、宇宙の創造の源である神意を破ると、人間自身が破壊される、といわれるわけなんである。現世では、物質により、衣服を着飾れば、他人の眼を欺けるが、神意は人間の心の底を見通しているので、例えば、有名なイソップ物語の北風と太陽の話は、その教訓かもしれない。北風と太陽 - Wikipedia北風は悪霊で、太陽は善霊と考えると、人間の衣服は物質界での富や名声などであろう。北風は、衣服を外から脱がそうとするが、人間は益々抵抗する。しかし、太陽が人間の良心に火を灯し、内側から、温めると、自分から暑くて、衣服が邪魔なモノだと悟り、手放すわけなんである。このように、ボルグの話は、天国に行く人と、地獄に堕ちる人の、生き方の違いを教えてくれるが、輪廻転生についてはほとんど何も語っていないのが残念で、神智学や人智学とは大きく異なるところで、その点が、ボルグの本を、他のオカルト本と同じような、疑わしいものにしているのは、非常に残念なんである。ボルグの本を補完する意味でも、人智学から、輪廻転生についての霊的な知識を追加したい。というのも、シュタイナーが、ボルグの輪廻転生を語っているからである。シュタイナーによれば、ボルグの前世はなんと、イエズス会をつくったイグナチヨデロヨラだというのである。ロヨラは、元は軍人で、重傷を負い足を怪我したために、その精神的な修練を通して、当時広まりつつあった福音派に対抗して、古きカトリックのキリスト教を救うのを人生の課題としたという。ロヨラは、当時の神秘主義の霊的な修行を通じて、意志を強化し、宗教的な生活を実践したという。そして、その意志の強化から、キリストの行いを、物質界に知らしめるために、イエズス会をつくったという。現代人には受け入れがたい戒律がイエズス会にはあり、そのなかには、ローマ教皇には絶対服従というものがあるらしい。このようなローマ教皇への絶対服従下における、無私の忍耐力の育成が、低次の物質界との波長と共鳴し、イエズス会を物質界で不動のものにしているという。イグナチオ・デ・ロヨラ - Wikipediaエマヌエル・スヴェーデンボリ - Wikipediaそのようなロヨラの物質界へのキリスト教の無私の布教が、火星の天使たちの共感を呼んで、死後に、火星の天使たちの指導下に入り、影響を受け、強烈な結びつきを生んで、死後の欲界での滞在期間を通常よりも、非常に長引かせたという。この火星の天使たちとの交流による霊的知識が、ロヨラから、通常は二千年を置いて行われる次の転生を、わずか100年の次の転生のボルグへと受け継がれたという。だから、ボルグが書いている霊界は、火星の天使たちの立場で語ったもので、だから、地球への転生が、火星から、次の地球への天使の資格試験だと述べているようである。神秘学では、地球紀の前半が、火星紀で、後半は水星紀とも呼ばれている。ボルグの輪廻転生が特別のものだったので、恐らく、輪廻転生については何も語れなかったのかもしれない。面白いのは、ボルグが、カトリックの創始者パウロや、宗教改革のルターを地獄に堕ちている人物だと徹底的に批判しているところである。当時、ボルグがあまりにも、キリスト教を批判するので、狂人扱いされたほどらしい。恐らくイエズス会の命懸けの無私の布教精神に比べれば、当時の教会があまりにも堕落腐敗した俗物にみえたのかもしれない。この批判のなかに、ロヨラの物質界へのキリストの実践を目指した、火星に由来する戦いや、雄弁の精神がみられる。要約すると、ロヨラの火星への秘儀参入法が、ボルグの霊能力に受け継がれたようである。だから、ボルグの語る霊界は、火星人からみた霊界と物質界といえるかもしれない。天国については、地球とは若干異なるかもしれないが、地獄についてはほぼ同じ立場で見ているように思われる。なお現代のイエズス会は、ロヨラの神秘主義的な実践志向が完全に抜けきってしまい、全く形骸化して、別組織になってしまったと、シュタイナーは述べている。霊能力を再獲得し、霊我を目覚めさせるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ポスト・アトランティス時代の文化期では、次の文化期への参入法が前もって準備された。秘儀の中心地は、次の文化期に帰属する外的な生活に備え、霊的知識の獲得を準備する場だった。そこは霊能者の集う場で、外(物質)界では育成され得ない能力を育成した。最初の古代インド文化期は、エーテル体の育成に関わった。次の古代ペルシア文化期は、アストラル体の育成に関わった。そして、エジプト-カルデア文化期は、感覚魂の育成に関わった。 続く、ギリシア-ラテン文化期は、悟性魂の育成に関わった。そして、我々の第5文化期は、意識魂を発達・進化させる課題を担っている。そして、第6文化期の外(物質)的な生活のために、霊的知識から、自我を純化し、霊我を、前もって準備しなければいけない。 現代の特徴とは全く異なる、第6文化期の、3つの特徴的な傾向に言及する必要がある。第6文化期の、この3つの傾向のために、いま霊的な知識を獲得し、心に担う必要があり、そのための準備が、現在の、我々の課題である。 今日の人間社会には、ある特質が欠けているが、この特質こそが、第6文化期に、人類の精神的な進化の目標に到達した人々の特徴となるはずである。この特徴は、次の文化期には必須となる。当然、次の第6文化期に、現代の段階にとどまっている人々には、欠けている資質でもある。 次の第6文化の絶頂期で、地上に生きる人々が最高度に発達させるのは、ある道徳的な資質である。近代の人間には、この資質がほとんどみられず、欠けている。今日の人々は、自分よりも幸薄い境遇にいる他の人を見ても、魂に何の痛みも感じないばかりか、その不幸を蔑んだり、見下す傾向をもっている。宇宙の平和や世界の平和を求める、繊細な心の持ち主なら、かくも世界に広がっている、貧困や苦悩などに、心の痛みを感じるはずなのだが、現代では、特別感受性の強い、ごく少数の人々しかいない。 第6文化期最高度の特徴を備えた人は、世界の貧困、苦悩、悲惨を見て、心のなかに痛みを感じるだけでなく、そのような霊的な共感力を発達させた人は、他の人間の苦悩を、自分の苦悩として経験する。空腹な人を見れば、共に、その空腹感を、物質的な欠乏として、実感する。 実際に、物質性を超えて、精神を発達させ、霊的に繊細な超感覚を獲得するので、他者の飢えが、自分にも耐え難いものになる。いまここで指摘した道徳的な特徴が、第5文化期の現状には全く欠けていて、むしろ正反対ともいえるので、次の第6文化期では、個人の安寧は全体の安寧に一重にかかっているのがわかる。 今日、人間の手足、つまり四肢の安寧が、人体全体の健康に依存するように、また人体全体が健康でないとき、四肢も、なんらかの(物質的な)運動に、耐えられないように、第6文化期には、この個々と全体との、共通の意識が、最高度に発達(進化)した人間にもたらされる。 そして、人体全体の健康を、四肢が感じるより先に、遥かに高度に、個人は、人類全体の苦悩、もしくは欲求を、また貧困、もしくは富を感じるようになるだろう。この共感力が、第6文化期の高度に発達し、精神的に進化した人間を、特徴づける顕著な第一の道徳的な資質となるだろう。
2024年06月20日
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前回はボルグの本から、旧約聖書の登場人物の名前の意味と、また神意と人間の認識がわかれて、人間が地球人として、いま物質界にいる意味を紹介したが、ボルグによれば、人間が地球で輪廻転生する目的は、神につくか、悪魔につくか、どっちつかずのグレーの状態にある人類を、すっきりくっきりあきらかに、マルっとお見通しで判別するために、物質界で人間の欲望をテストし、評価するためなんであるという。はっきりといえば、天国に行きたいのか、地獄に堕ちたいのか、本人の意志をはっきりさせるために、あえて、地球というグレーで自由な環境でどう振舞うのか、天使の進級テストを行っているという。というのも、宇宙には盛り沢山の星々があり、物質界以上に霊界は多様な霊が生きているらしく、ボルグによれば、大体大まかに9層に分かれて、最上位の天国から、最下位の地獄まで、生命エネルギーのレベルがあり、同じ層のなかにも、多種多様な国々や霊団があり、それは聖書でも、霊団や軍団のように表現されている。地球人は、天狗になって、自分たちしか知的生命体はいないなどといい気になっているが、それは自分たちの視野が単に狭いだけで、知性が物質界にしか及ばないくらい、低いだけにすぎないのが、現実というわけなんである。第一、眠ってしまえば、人類が勝ち誇ってきたその知性も認識できなくなり、全く使い物にもならない。宇宙には多種多様な知的生命体が存在し、簡単にいえば、同じ知性レベルで、いわば学校のように多種多様でまとまって生きているという。地球という物質界は、大体中間の、最高でも最低でもない、善悪がいわば入り乱れたグレーゾーンなので、地球の生活から、死後にどの霊団に属して、生きるべきなのかの、判別がつきやすい、いわば住宅展示場ならぬ、霊的な生活展示場のモデルケースというわけなんである。天国に行きたい霊には、合格すれば、進級テストになるし、天国には相応しくない霊には、不合格で、降級テストにもなる。だから地球は別名霊界の刑務所や更生施設ともいわれているわけなんである。このように書くと、いかにもオカルト本っぽくみえてくるので、前回紹介したように、少し学術風に、改めて、聖書の人物名のエノクの意味について紹介する。前回は、黄金時代の神意を継承するセツの系図と、白銀時代の人間の(個人的な自由の)認識を高めるカインの系図の両方に、レメクの名を紹介したが、同じように、またカインの子と、セツの子孫にも、エノクの名があるのがわかる。ボルグによれば、エノクの名は、エノシュも同じで、「加わる、手を携える」という意味を持ち、つまり、意志を同じくするような意味をもつらしい。エノク - Wikipediaエノス - Wikipediaボルグによれば、エノクの書は、相応の理を説いたもので、相応の理とは、天の理の神意を継承した、霊的な叡智の真実で、人間の認識による、物質の真実とは異なるものだという。つまり、両者が、共に加わり、意志を同じくすることで、物質の真実を高度化し、神意に到達すればはじめて、神意が物質界まで浸透し、霊と物質が真実で合一し、救いがなされる最後の審判が行われるらしい。この最後の審判は、神秘学では、霊的な結婚とも呼ばれている。シュタイナーは、このセツの系図のエノクと、カインの系図のエノクが共に、後のイエスとして、神意に到達し、意志を同じくして、キリストの降臨を準備したと、人智学の講義で述べている。だから、キリストは、旧約聖書を、新訳聖書に書き替える霊的真実の最後の審判を、この地で行ったと解き明かしている。ちなみに、キリスト教の結婚式で、神父もしくは牧師が男女の魂に結婚を宣誓させるのは、キリストが救世主なのを示している。男女の魂は、物質と霊の違いを示している。現代では唯物論に洗脳され、もはやキリストの意味も誤解されているが、本当は、神父や牧師ではなく、霊のレベルで、キリストが救世主として降臨して、男女の霊レベルで一体になり、性差はなくなり、人類は霊的な両性具有となって、再生を回復し、甦るわけである。結婚は霊的再生の儀式でもある。霊的合一されるので、離婚は不可能なんである。離婚ができる結婚は、結婚の意味もないので、肉体欲を求めるためのもので、欲望であるから、悪魔婚である。霊的にいえば、堕落腐敗婚でしかない。物質界で一緒に生活するという意味でしかない。勿論、精神的な合一を目指すなら、霊的合一に至るなら、真の結婚にもなる。それは恐らく、同じ霊団によるカルマの導きかもしれない。このように、人智学で、ボルグの本を読み解くと、古代アトランティス時代から、キリスト降臨がつながってくるわけなんである。だから、古代エジプトの最後の審判者の神トートは、キリストでもあると、解き明かされる。聖書から、キリストは、アルファであり、オメガである存在なので、神トートなのであり、それは人類の祖アダムであり、YHVH神の子である形態霊でもある。例えば、次のようなアンクで有名な古代エジプトの象徴図は、霊界の真実を表現しているらしい。下の象徴図のなかの、上にある「椰子の若木」とあるのは、生命エネルギーで霊界の太陽の「イシスの楕円」とつながっている。「へフ」は、時の神トートで、時代霊を意味する。へフの頭には、「円盤と蛇」の図があるが、円盤は生命のエネルギーで太陽神、そして蛇は、月神を意味する。図のなかの、下のオシリスの神のタウは、キリストの救世主の十字架で、タウとは、トバルカインのタウ文字で有名で、物質界の真実を意味し、つまり、人間の認識を、キリストの救世主の神意まで高めろという意味。三種の神器の、マナス、ブッディ、アートマを表わし、三位一体の完成を意味する。ピラミッドの三角形でもある。アンクankh 古代エジプトの聖なる印 (karakusamon.com)エジプト神話・神名リスト:ヘフ (moonover.jp)ウワスWas 杖 (karakusamon.com)生命の木と柱 (karakusamon.com)図のなかの下の「ウワス杖」は、後のモーセの杖にもつながり、下が二股なのは、神意から人間の認識が分かれ、光と影になったのを意味するのだろう。そして、上にセツ(セト)の顔と、翼や羽がついているのは、霊界の真実である神意を表わすから、人間の認識を、タウ文字によって高め、神意を再び獲得し、キリストの死からの蘇りと共に、霊能力を再獲得しろ、という意味になるだろう。図のなかの、中央のジェド柱は、生命の樹を表わし、つまり神意の生命エネルギーで、4つの台があるのは、エジプトのピラミッドの王の間にもあるが、一番下の台が、物質界を表わし、人体では物質体になる。その上の3つの台は、人体ではエーテル体、アストラル体、自我を表わすが、宇宙では物質界の上の霊界と天国を表わす。それぞれ、物質界の上に3つづつあるという意味だろう。ボルグの話だと、霊国が3層で、その上の天国が3層あるらしい。そして、物質界のグレー層のゾーンがあり、その下に地獄も3層あるという。ピラミッドでは、未完の地下室として地獄の冥界が表現されている。地獄は未完の不完全な人間を現わしているので、666の獣となるだろう。ボルグの書から、古代エジプトの象徴図とピラミッドが、宇宙の神意の、宇宙構造を現わしているのがわかる。また以前にも紹介したが、ピラミッドは人体の構造図でもある。古代エジプト人は霊能力により、神意を知っていたので、書物などに記述せずに、書物は独裁者により焚書されてしまうので、ピラミッドのような墓場に見えるように細工して残したのだろう。そして、墓場を荒らす者は呪われると伝説を残したわけなんだろう。実際に、ピラミッドの周辺は墓場荒らしの悪霊や、歴代のファラオが霊として、霊能力がなければ、いわば死んだのも知らずに地縛霊として憑依しているのであながち嘘でもない。欲深な人間こそ悪霊に憑依されやすいから、ピラミッドに金銭目当てでやってくる者こそ、悪魔や悪霊の餌食となるだろう。触らぬ神に祟りなし、である。もっとも神ではなく、堕天使悪魔であるが。このような、エマニュエル・スウェデンボルグの本は、数十年前に読んでいたはずなのだが、改めて読んでいると、以前は字面をただ追っていただけで、全く読んでいなかったのに気が付いた。当時は科学畑のなかにいて、唯物論に洗脳されていたせいもあり、シュタイナーの人智学にも出会う前だったので、霊界が面白可笑しくオカルトとして盛られて笑い話のような勘違いをしていて、どこか胡散臭く感じていたせいもある。人類滅亡という言葉が強調されたノストラ予言のオカルト本と同じに思っていた。例えば、次に紹介するサイトの管理者のような感覚が一般的だろうし、自分もそんな感じだった。わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡 エマニュエル・スウェデンボルグのこと (fc2.com)このような巷に溢れるオカルト本は、聖書も実はオカルト本なのだが、勝海舟が言ったとされる、坂本龍馬の西郷隆盛の人物評のように、小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば、大きく鳴る鐘のようなものだと、つくづく気づかされる。巷には、オカルト本のように、面白可笑しく都市伝説のように語られているドラマや映画が色々あり、そのなかで霊界と物質界との関係は、「素晴らしき哉、人生!」や、「天国から来たチャンピオン」、そして、「シックスセンス」、「ゴースト」などで、巧みに上手く表現されているが、ボルグの本を読むと、より一層、その背後のカラクリがわかってくるから不思議でもある。素晴らしき哉、人生! - Wikipedia天国から来たチャンピオン - Wikipediaシックス・センス - Wikipediaゴースト/ニューヨークの幻 - Wikipediaボルグによれば、恐らく、そのような映画やドラマは、霊界を物質界に知らしめたい霊たちが、特定の人物に憑依して、インスピレーションを与えて、そのような作品をつくらせている可能性もあり、ボルグの本も、そのような天国からの霊により、霊界を知らせるために、なかば自動筆記のように書かされている面もあると書いてもいる。自分も、このブログについては、何ものかにインスピレーションを与えて書かされている感じもしなくもない。高次の宇宙人にとっては、いまの地球が心配でならないのが感じられてくるのである。例えば、サヴァン症候群などは、霊界の霊が憑依して、自動書記をしている可能性が高いのは、本人に、書いたものの意味がよくわからないことでも、わかる。預言者のいなくなった現代では、そのような人物を媒体にして、高次の宇宙人の霊が、恐らく、時代霊か、民族霊クラスの天使が、地球人に警告していることも十分に考えられる。サヴァン症候群 - Wikipedia前回紹介した、アベルーセツの黄金時代のノアの系統の、預言者がいなくなっている現在では、地獄の領域を増やさないために、堕天使悪魔にいわば物質界で、人質にとられている人類を救出するには、悪魔に洗脳され、唯物論に囚われていない人物を探すには、サヴァン症候群のような人物を通して、とりあえずは、警告するしかできないのかもしれない。勿論、地球人全体が独裁者により完全に洗脳され、物質界の奴隷と化してしまえば、聖霊たちは、奥の手の最後の審判を繰り出すしかなくなるわけで、そうすると、地球人側の地獄堕ちの魂も増えてしまうわけで、悪魔の行動は制限されるが、同時に地球人の損害も大きく、できる限り、犠牲は少ないに越したことはないわけなんだろう。この地球の状況は人質を取って立て籠もる銀行強盗などと同じわけである。正に上にあることは下にもあるわけである。まずは、悪魔の洗脳から解放させるのが先決で、最終手段として最後の審判があるわけなんである。それは、まるで、親が子どもにそっちに行っては危ないよと、声高に叫んでいるのに、地球人は、子どもで幼稚なんで、その警告に全く気づいていないような状況に、地球人が陥っている現状が浮かび上がってくる。だから、前回、ボルグの天国での体験から紹介したように、他人を支配しないことと、不必要な財産をもたないことの2つの条件を、クリアしていくことが、とにかく、いまの地球人の最優先課題なんである。改めて警告するなら、ボルグの本から、地球人が二つに大別できるのがわかる。ぶっちゃけていうなら、天国に行ける人と、地獄に堕ちる人である。天国に行ける人とは、簡単にいえば、生命のエネルギーを与えてくれる人で、地獄に堕ちる人は、生命のエネルギーを奪う人である。この生命のエネルギーの原則から、人を利用して金儲けをしようとする人は、地獄に堕ちる人なのがわかる。最たる例は投資家や詐欺師なんかだろう。だから、他人を支配するのと、不必要な財産をもつのは、それだけで地獄に堕ちやすくなるわけなんである。ボルグの時代にはまだ銀行家もいなかったので、当時は、仕事をしない美食家(恐らく当時の貴族だろう)が、死後に実際に地獄に堕ちていた、とボルグは語っている。本人は地獄に堕ちているのにも気づかないらしい。生前と同じ欲望しかないので、死んだのにも気づかず、死とは無になる事だと思い込んでいるので、無になっていないから、死んでいないと錯覚し、悪霊として、物質界に肉体をもち生きている人に絶えず憑依しようとしているらしい。だから、そういう成仏できない悪霊が地縛霊として欲求を満たそうとして、物質界の人間になんとかしてちょっかいを出してくるらしい。霊界の詐欺メールであり、物質界の詐欺師と同じである。私は病院で働いた経験があるが、ボルグの本を読んでると、私には、霊能力はないが、なんかときどき気持ち悪くなることがあり、ボルグの話によると、いまのパニック症のような、突然吐き気がして、気持ち悪くなるのは、そういう悪霊が憑りついてくるときにそういう症状になるようで、いま思えば、病院にはそういう悪霊が沢山いたのかもしれない。当然その時は気のせいと思っていたが。この「気のせい」という表現は、「霊気のせい」の簡略表現なのがまたヤヤコシイが。そういう悪霊は欲望の塊なんで、本人に虐めている自覚もないのが遥かに面倒で、とにかく深呼吸などをして、精神状態を安定させて、悪霊に同調してしまい、欲望に駆られないのが重要である。パニック症について | メディカルノート (medicalnote.jp) ボルグが本のなかで説いているのが、まさに相応の理で、天の理の神意に到達するには、本人の努力次第で、やはり何事も自分で経験するのが、一見すると、遠回りのようにみえて、実は一番の近道なんだとわかってくる。天の理の神意にどれだけ努力して到達したかで、今現在の自分の立ち位置がわかってくる。言い換えれば、どれだけ周囲の人を救えたかどうかで、自分も救われるわけなんである。物質界の悪い見本でも、どれだけ周囲の人を稼がせたかどうかで、自分も稼いで、地獄に堕ちた政治家もいた。というのも、多くの高い税金で、多くの人々を虐げ、路頭に迷わせたからである。救うのではなく、虐げるのでは地獄行きである。このように、ボルグの本を読んでいると、霊界も物質界も、宇宙の一部で、相応の理を基にしているのがわかる。そこで今度は、輪廻転生について考えてみたくなった。輪廻転生をテーマにしたドラマで、非常に面白かったのは、以前も紹介したが、世にも奇妙な物語の、バカリズムの来世不動産である。このドラマと違って、人間は人間にしか転生できないのは、人間が他の動物とは異なり、個人的な自我をもつためで、だから、人間だけが個人的な死を経験するのが、人智学から解き明かされている。世にも奇妙な物語|土曜プレミアム 世にも奇妙な物語 2012年秋の特別編 - フジテレビ (fujitv.co.jp)シュタイナーによれば、動物は集合自我を、あの世に持つために、人間のような死はないという。人間も、月紀のときは動物と同じだったようで、いまのような物質的で個人的な死はなく、だから、個人の輪廻転生もなかった。いまの動物のように、民族長の手足で、いわば細胞が幹細胞から分化して、分裂していくように生まれ、死もなく、生の形が変わる変態しかなかったという。つまり、死を介さない輪廻転生といえるかもしれない。月紀には、物質がなかったので、個人の違いもなく、動物のような種族の違いだけで、個の魂は、種族の族長の手足で、それはまるで、細胞が目的に応じて、分化するのと同じといえるかもしれない。だから、細胞がいまのように癌化することもなく、癌化するのは、人間が物質体をもち、個人的な自我をもったのに端を発する。だから、個になればなるほど、地獄に堕ちていくともいえるかもしれない。ボルグの書から、どっちつかずの魂のグレーゾーンの見極めのために、現世への転生があると、先に紹介したが、不必要な財産の蓄積は、人体の肥満と同じで、病気に罹りやすくなるのと同様に、悪霊に取り込まれ、地獄に堕ちやすくなるわけでもある。また他人を支配したいと思うのは、自分に満足していないのと同じで、自分の生命エネルギーを自給自足できていない証拠で、他者から生命エネルギーを略奪しようとする虚弱さなので、いわば寄生虫だから、霊界の同調の法則で、同じような寄生生物を呼び出してくるわけで、感染症に罹りやすくなるわけである。さしずめ、巷の裏金政治家どもは、税金に寄生する、この寄生生物と同じで、死んでも死にきれずに、地獄にそのまま堕ちていくだろう。このように、物質界とは、天国に行けるか、地獄に堕ちるかの、テストのいわばリトマス試験紙といえるだろう。だから、キリストは、天国に行けるかどうかは、いまのあなたの生き方による、と述べているわけなんである。この国の少子化の霊的な原因を探れば、あまりにも地獄に堕ちる魂が多いので、地獄生産国として、国が悪影響をもたらすので、新しい霊魂が転生を敬遠しているのかもしれない。増税メガネのような無能な略奪者がトップなんだから、言わずもがなだよねぇ。天使の試験に合格するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★第6文化期の準備のためにルドルフ・シュタイナー1915年6月15日 デュッセルドルフ 友人により設立されたグループのお披露目のために、今日ここに集っている。このグループは、人智学運動ではお馴染みの方法で、現在や未来の人間の霊魂の向上のために、自らを捧げるのを望んでいる。 このような機会に、なぜ、グループで集うのか、なぜ、共同でグループを設立し、自らを捧げ、霊魂の宝を育成するのか、などを自問するのは良いことである。 もし、この自問に答えるなら、このようなグループで、たとえ思考だけでも行う機会と、世の中での他の仕事とを、はっきりと区別すべきなのに気づかなければならない。人間の霊魂の進化に関わる、霊的な真理に深く参入するのを望まない人は、恐らく次のような疑問をもつかもしれない。 「わざわざグループをつくらなくても、人智学の講義者を見つけてきて、見ず知らずの人々で集まって、霊魂の宝を話題にし、アプローチする機会を与えるだけでも、人智学から育成できるだろう。」 勿論、そのように、ゆるやかに進むこともできる。しかし、広い意味でも狭い意味でも互いに知り合い、このようなグループのなかで、友情や友愛を深め、人智学と切っても切り離せない魂の姿勢を充分に意識することが、グループの基礎を築き、存続させる。 人智学の霊的な知識を育成したいと願い、友愛と調和をもって共働するのを衷心から願う人々がいるのは十分に意味がある。意識的に交わる魂たちに、キリストを中心にした聖霊たちが話しかけているのを知っているが故に、我々グループの間では、他の人々とは全く異なる話ができるという、この事実が、我々グループの関係と交流に影響を及ぼすだけではない。 ただそれだけではなく、また別の影響も考える必要がある。グループの設立は、自分たちの活動のなかの、魂の最奥のなかの憧れの性質を理解し、その性質から生まれる衝動を把握し、心の運動として理解した概念全体と関係している。だから、我々グループの活動は、外的な通常の感覚で捉えられる物質界での、人間の外に向いた心により把握される関係にとって、意義深いだけでなく、グループ内での、心の活動を通して、我々の魂が、神々との霊界での現実の関係、かつ純粋な絆を求めている、ということも、全員が意識する必要がある。 だから、何度も何度も、覚醒意識から、潜在意識のなかにまで、自らで、次のように祈るべきである。 「人智学の魂の育成により、自分の魂を、地球だけでなく、高次のヒエラルキー(位階)の存在たち、不可視の霊界の存在たちが住む圏内に上昇したい」。 自分たちの仕事が、これらの不可視の世界にも意義を与えること、実際、これら不可視の世界のなかにいるのに気付く必要がある。霊界においては、このようなグループ内で互いに馴染みのある人々によりなされる仕事は、グループの外で行われ、世の中に広がる仕事とは全く異なる。 我々グループ内で友愛の調和において実行される仕事は、外界での他の仕事とは全く異なる意義を、霊界に対して持っている。この事を十分に理解するために、近年多くの面において研究してきた霊的な真理に到達する必要がある。 ポスト・アトランティス時代における地球進化は、古代インド文化からはじまった。この次に来るのが古代ペルシア文化期である。呼び名は大まかな意味で、厳密にいえば、適切でないが、いまは深入りしない。 それからエジプト-カルデア-バビロニア文化期が来る。それから、ギリシア-ラテン文化期、そして我々の第5ポスト・アトランティス文化期である。これら各々の文化期は、特定の外的な形態と、この外的な可視の物質界に対応する精神生活を魂のなかに育成してきた。しかし各文化期は、同時に、後続の文化期に来るべき精神生活を、魂のなかに準備し、後続の文化期のために、その進化の準備段階を担う必要がある。 古代インド文化期の、いわば子宮内で、古代ペルシア文化期の魂が準備された。古代ペルシア文化期の内部で、エジプト-カルデア文化期の魂が準備された。そして、我々の第5ポスト・アトランティス文化期は、来るべき第6文化期の魂を、精神生活を準備する必要がある。だから、人智学の課題は、自身の魂の、永遠の生の為に、霊的な財宝を獲得するだけでなく、第6文化期固有の外(唯物)的な仕事の、外的な細胞の核となる霊的な真理に到達するための、参入法=修行法を準備することである。
2024年06月17日
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エマニュエル・スウェデンボルグの本を読んでいると、巷のこの国の現状が、ノアの箱舟の洪水前と非常によく似ているのがわかる。巷は詐欺に満ち溢れ、誰もが金儲けのために、平気で人を欺き、政治家までが、裏金つくりに勤しみ、政治にはカネがかかるなどと嘯いている。カネのかからない政治をするのが本来の仕事なのに、無能さを反省することなく、全くアベコベで開き直っている。国民が増税の圧政に苦しみ、少子高齢化が進んでいるのに、この国の政治家の自覚もなく、どこか他の国の出来事とも思っているのか、どこ吹く風である。この国の現状をみれば、神様が人類を、少なくとも日本人をつくったのを嘆いているのが、明らかだろう。腐敗堕落の極みの現代である。いまできるだけ快楽で生きられるのが全てと考えている。自己愛のとどまるところを知らない愚か者ばかりである。もし、安倍晴明がいたら、現代人の心のなかを見通して、怪物や妖怪だらけと喝破するだろう。増税メガネお化けが総理なんだから、妖怪に乗っ取られて、もうこの国は終わったようなものだろう。本人は死後に地獄に堕ちることなど全く考えられない哀れな痴性の持ち主なんで、呆れてしまうよ。自分さえよければいい、という人間はヒトではなく、666の獣である。安倍晴明のような陰陽師は、霊能力を遺伝的に継承していたので、心を見通せ、霊名を戒名のように名づけたようだが、それが、後の仇名となったのかもしれない。晴明のような霊能力者でなくても、古代人は、自己愛の酷い人間を、妖怪や化け物と名付けたようである。現代人は、外見主義なので、ルックスから、仇名などをつけがちだが、古代人は、心の特徴などの精神性から、名前をつけたようである。名前が変わることで、生きる方向が定まり、新たな自分が誕生する!(釈 徹宗) | 現代新書 | 講談社(3/5) (gendai.media)それは聖書の命名でもあきらかで、アダムは、古代ヘブライ語では、土や地という意味をもつ。人類の祖で、土台という意味でもある。土星の土でもある。英語ではサターンだが、ギリシャ語ではクロノスで、農耕の神なので、土と関係するし、また、時の神ともいわれているのも、人智学の宇宙進化論の、土星の座天使が、犠牲を智天使に捧げたが、受け取られずに、返され、時間が生じた出来事からもわかるだろう。東洋で、土星に土が割り当てられているのは、五行説からだが、五行説は古代アトランティス時代の天使説~天動説に由来しているので、人智学の土星紀を意味し、座天使の意志霊で、当時の人類はまだ肉体しかもたなかったので、神秘学で、肉体を意味する土が、古代ヘブライ語のアダムとなったと考えられる。土といっても、科学的にいえば、意志霊の火による土なので、熱でできた土の固体という意味になるだろう。固体といっても当時は物質はなかったので、エネルギー体で、いまでいえば、プラズマの雲のような感じかもしれない。アダム - Wikipedia土星 - Wikipediaプラズマ - Wikipedia現代人は唯物論に染まっているので、本当の土のアダムをイメージするのはほとんど不可能だろう。それは、宇宙人を、いまだに、自分たちと同じヒューマノイドで、物質の肉体の持ち主と考え、信じ切っている浅はかさが物語っている。UFOを物質でできた飛行船のように考えているのが、幼稚ともいえる。そういう人たちは恐らく無神論者だろう。だから、そのような現代人は、自分たちを神として、科学信仰で、偶像崇拝している結果ともいえるだろう。しかし、実際は、堕天使ルシファーに洗脳され、騙されているのに気づいていない。宇宙人が、現代人と同じ姿をしているのなら、それはそれだけの知性しかないのを同時に意味している、同じ穴の貉なんである。確かに多少の知性の差はあるかもしれないが、それは肉体の差異でしかない、全体のモラルや道徳にとっては枝葉末節の違いでしかない。ボルグの本で、ボルグも、科学者なんて履いて捨てるほどいるが、神意を理解しているものはほとんどいないと愚痴っている。ボルグの時代でさえも、そんな感じだったわけで、現代では猶更、物質界でしか通用しないことを、それもローカルのなかの、ローカルの枝葉末節を、重箱の隅を楊枝でほじくるようなことばかりして、互いに騙し騙され合っている地獄の世界と変わりがない。核兵器などをつくって、地球の土地の取り合いをして、人類同士で喧嘩している現状を、神様が嘆かないわけがないだろう。きっとそのうち必ず最後の審判が行われる。人類なんかつくらなければよかったよ、と神様に思われないように、独裁者やこの国の為政者は気を付けた方がいい。ホントに地獄に堕ちるんだから。古代アトランティス時代の大破局を招かないように、再び、ノアの一族だけが箱舟で生かされるような人類滅亡の憂き目に遭わないように、改心するにはまだ時間が少しは残されている。神意である宇宙全体のモラルに、一人一人の個人が回帰できるように、自己愛を捨てていかないといけない。それには、前回紹介した、他人を支配しないことと、不必要な財産を貯めないことが、人生を生きるために、失楽から天国に戻るために、不可欠である。アダムの話から脇道に逸れてしまったが、アダムの土の意味がわかるはずである。アダムは神意で、生命の土台となる教えでもある。宇宙のモラル道徳で、土の道徳を耕すのが、人類の使命である。また現代人が勘違いしやすいのが、アダムといっても、それは個体ではなく、独りではない。アダムという、いわば天体のような肉体があると考えた方がいいだろう。だから人智学では土星紀と呼んでいる。勿論、次の太陽紀や月紀にも、土星紀の出来事が違った形で繰り返されるので、地球紀にも、アダムなる人類が民族の祖としてできたわけである。そして、アダムから、カインとアベルが生まれるが、カインとは、古代ヘブライ語では、鍛冶の意味をもち、アダムの土を耕すという意味もある。ボルグによれば、土からつくる存在で、神意からわかれた、人間の「認識」の意味をもつらしい。アベルは、霊や命を、意味するので、神意そのままである。アベルは羊飼いでもあった。羊は古代ヘブライでは身近な生命で、羊飼いは、後にキリストの救世主で、神の遣いと呼ばれた。アベルは、ヤハウエ神に、子羊の生命を捧げ、神意そのままだったが、カインは、自分流にアレンジした人間の認識を捧げたので、神は受け取らずに、カインに差し戻した。聖書のカインとアベルのこの話は、人智学の土星紀の、座天使の智天使への捧げものの話とよく似ている。カインはその後でアベルを殺して失楽したが、座天使の犠牲は差し戻されて、権天使の時間になり、力天使の運動につながる。この出来事から、後に、物質的な地球が生まれたのがわかる。物質的な人間が生まれるのは、カインの失楽からなのである。だから、ボルグによれば、カインによる、アベル殺しは、人間の認識による、神意の否定で、偶像崇拝を意味しているという。だから、このカインによるアベル殺しから、人類の失楽がはじまったわけなんである。カインから人間の神への抵抗の、「自由」が生まれたともいえる。しかし、ボルグによれば、この自由は見かけ上のものでしかなく、端的にいえば、地獄に堕ちる自由で、天国に行けない自由なのである。カインとアベル - Wikipedia羊 (jw.org)そして、カインの子孫により、後の唯物論が生まれるわけで、だから、カインはフリーメーソンでは崇拝の対象となっていて、シュタイナーは、カインの子孫たちの、特にトバルカインを神殿伝説として語っている。アダムから、カインが生まれ、神意から人類の認識がわかれたのを知れば、カインの後の子孫から、集団の民族意識が、個人の昼の覚醒意識へと発展していくのを、カインの子孫の失楽の経緯から解き明かされる。セト (聖書) - Wikipedia現代人は、アダムのこの系図を地上の人類の民族などを現わした図だと錯覚しているが、これは霊界の霊魂の系統図と考えるべきである。だから、カインは失楽の系図なので、地獄に堕ちた魂の系図といえるかもしれない。ボルグによれば、アベルはカインに殺されたので、天国に召されたままにとどまっている。シュタイナーは、キリスト降臨のときに、このアベルの神意の霊が降りてきたのを示唆している。カインの系統とは別に、セツの霊魂の系統がつくられて、その子孫のノアが箱舟をつくり、古代アトランティスの大破局を免れて、天国の神意を継承している。ちなみに、セツは、古代ヘブライ語で、授けられるという意味をもつらしいが、これは、神意を授けられるから、セツの子孫が、代々霊能力を継承した家系であるのがわかる。シュタイナーは黄金伝説として、アベルからセツへの祭司系の経緯を説いているが、古代アトランティスの大破局を乗り越えた、セツの子孫のノアに黄金伝説が引き継がれたのがわかる。この系図から、カインの子孫と、セツの子孫の両方に、レメクという名があるのに気づくが、ボルグによれば、堕落の極みの、破壊や破滅という意味らしく、征服者や兵士の意味もあるらしい。そもそも、兵器や兵士などは、人類が堕落腐敗した極みで、信頼感が失われ、低下した結果生まれるから、古代から戦争や武装などは愚か者の仕業なんである。現代人にも、攻撃性の意味をもつ名前をつける親もいるが、子どもは親の持ち物ではない。セツの子孫には、エレデという名もあるが、ボルグによれば、低下した、堕落した、という意味をもつらしい。シュタイナーはアベルーセツの系統を黄金伝説として、カインの系統を神殿伝説としているが、ボルグは、アベルを黄金時代と呼びほぼ同じだが、カインは、白銀時代と呼んでいる。面白いのは、破綻を意味する名のレメクの父にあたる名の、カインの子孫のメトシャエルと、セツの子孫のメトシャラがよく似ているところで、そのメトシャラという名は、最後の審判が来る、という意味をもつらしい。セト (聖書) - Wikipediaメトセラの生涯 (kyusaishi.com)創世記(10)—レメクとセツ— 創世記4章:17〜26 - メッセージステーション (message-station.net)創世記 5 章に登場する 10 人の名前が意味するもの<4D6963726F736F667420576F7264202D20916E90A28B4C358FCD82C9936F8FEA82B782E93130906C82CC906C95A8> (meigata-bokushin.secret.jp)名前の付け方にも、人類の知性の失楽性、堕落腐敗の程度がそのまま反映している。いまでは、仏教の戒名だって、現世的な物質的価値観の、金銭の値段でほぼ決められるので、俗世の坊主や宗教団体が、地獄に堕ちていくのは自明といえるだろう。だから、神をも恐れずに、詐欺師のような芸当ができるわけで、神や仏を本当に信仰していない偶像崇拝のなせる業ともいえる。宗教には縁のなかった、自分は科学畑を歩んできたが、驚くべきことに、あまりにも無神論者や偶像崇拝者が多いのに、辟易してしまった想いがある。科学的知識に洗脳され染まりきって、物欲や、虚栄心や名誉欲の虜になっている人が多い。また説教好きも多く、閉口したものである。宗教団体の危ない勧誘を逃れるためには、科学は非常に役に立つが、そういう畑で暮らすにはある程度染まってしまうのも否めない。ボルグが説くように、何処の世界も、真新しい看板を掲げては親しくやってきて、話しかけて罠にかける詐欺師のようなのが、沢山いるもので、そういう輩は悪魔に憑依されているらしい。現に悪魔に憑依された連中が、日々詐欺メールを送ってくる嵐に閉口している。そんなにヒトを騙して、支配したいのだろうか? 人を支配すれば自分が地獄に堕ちるだけなのに。何より他人を支配したいのは、悪魔の体質だからである。さて、大谷選手の活躍でMLBのドジャース戦はほぼ毎日欠かさずみているが、それに比べ、日本のプロ野球はほとんどみないが、それでも子どものときは野球少年で、王、長嶋の時代なんで、はじめは巨人ファンだったのだが、長嶋選手引退とともに、江川問題で、アンチ巨人になった。江川事件 - Wikipedia江川問題は、大人たちが騒いでいたのもあり、巨人じゃなきゃ、野球をやらない、という言い訳が、我儘にみえたのもあり、当時地元の少年野球チームに入っていて、江川選手がUSC留学のチームで日本遠征したのを、チームで見に行ったときに、江川選手よりも速い球を投げるタツノ投手に魅了されてしまい、せっかく見に行ったのに、江川選手が投げなかったのもあって、米国の大学野球レベルでも、ナンバーワンでもないのに我儘を言っているようにみえて、非常に癪に障り、当時の日本のプロ野球の巨人人気依存体質に嫌気が差した思い出がある。この江川事件は、子ども心には、大人の世界の闇を感じさせ、当時のプロ野球の巨人依存体質に、どこか時代劇「水戸黄門」の悪代官と悪徳商人の癒着ぶりを連想させ、これを機に、アンチ巨人というか、アンチ江川になり、江川投手を攻略し、滅多打ちした強竜打線の、中日ファンに転向した、懐かしい思い出が蘇ってくる。強竜打線 - Wikipediaプロ野球の話をはじめたのは、「巨人」、「強竜」というネーミングが、ボルグが説く、人類の堕落と関係が深いためである。ボルグによれば、「巨人」や「ジャイアンツ」は、古代人が、堕落した人間を呼ぶ名で、現代風に解釈するなら、いわゆる巨大な自己愛や物欲、虚栄心、名誉欲に憑りつかれ、堕落腐敗した人間の精神状態を指した名称なんである。ボルグによれば、聖書では、巨人の他に、娘や女などが、誘惑を意味する言葉として使われるという。聖書の表現は、あくまで精神の世界を描いたもので、物質的感性や言葉で解釈すると逆の意味になる。だから、聖書を外見主義のルッキズムで解釈すると、誤訳し、そのまま地獄に堕ちるのがわかる。聖書は心の声、神に対する信仰心に従って読まないといけない。ここにも、主なる神意に従って解釈しないと、偶像崇拝につながってしまうわけなんである。だから、ぶっちゃけていえば、巨大な我儘をもつ人を、巨人というわけで、独裁的な人物、例えば、プーチンや習近平や、北の将軍などを、古代人は、巨人と呼んでいたわけで、蔑称といえる。だからヒトラーなどは大巨人と呼ばれたかもしれない。主なる神への信仰心を忘れ、自らを神とするような独裁者は、勿論、知性が重すぎて、天国にはいけずに、死後地獄で這いずり回るしかないだろう。人間の死について無知なので、現世では、巨人でいられるわけでもある。不思議なことに、プロ野球の球団名には、蔑称がよくある。強竜も、恐竜のドラゴンで、道徳的な知性をもたなかった人間の昔の姿で、堕天使悪魔を表し、中華思想が、ルシファーの受肉に端を発している事から、皇帝を月に棲むドラゴンと呼んでいたのは神秘学では割と有名である。古代中国文化が、古代アトランティス文化の残滓なのは、今年が龍の年で、以前にも紹介した。中華思想 - Wikipediaまた、ヤンキースのヤンキーは、古代の独裁者の名だし、MLBでも、差別につながる球団名を変えるようになってきているが、物質的な知性を超えて、霊的な知性が浸透するにつれて、ジャイアンツなどの、人間の堕落腐敗を意味する言葉がなくなっていくかもしれない。ボルグによれば、巨人は、ヘブライ語の堕落の意味のネフィリムに由来するという。ネフィリム - Wikipediaノアの箱舟の伝説は聖書を知らなくても、有名な話となっている。何度もいうが、詐欺師が至る所に跋扈するこの国の現状は、ノアの箱舟の洪水前によく似ている。ボルグによれば、天の理の神意、つまり正しさは、YHVHの叡智から発せられる。言い換えれば、救世主の愛といえるかもしれない。この愛なくしては、どんなものも嘘でしかない。YHVHに至らない知性はホンモノの知性とはいえない。ボルグの聖書解釈によれば、アベルの系統を受け継いだセツの子孫は、代々、預言者の家系で、神意を受け継いできたが、カインによる自由への人間の認識で失楽した人間が増えてきて、死後に地獄に堕ちる霊魂が多くなってきた。人間の認識による信仰心ほど危ういものはない。現に、地にある宗教教団はどれも胡散臭いもので、ボルグも、どの教義も神意を捻じ曲げて伝達していると説いている。だから、神は正しいが、神でない人間は間違えるわけで、自分の認識で正しいと考えるのは本当は正しくない。人間の認識は常に間違っている、と考えるべきなんである。ソクラテスは、これを神との対話と呼んでいる。ソクラテスは、ボルグが霊界参入から説いた神意と人間の認識がわかれる失楽前のアダムの時代まで、霊魂を先祖返りさせるのを、神との対話で取り戻し、古代ギリシアでの修行法の哲学を説いたわけだろう。人間に、善と悪を選ぶ自由はあるが、悪を選ぶと地獄に堕ちる。現代人は浅はかなので、自己愛を正当化するときに、自由という言葉を使うが、使い方を間違えている。ボルグも書で語っているが、例えば、愛国心は国を愛する意味では善だが、人類全体の愛に対し、正当化するのに用いるのは、偽善にすぎない悪である。偏った愛は悪で、広く全体に通用する愛でなくてはバランスを欠く。つまり、全体の神意に到達しない愛は、人間の認識で身勝手に判断した、愛というよりも憎しみに近い、そのような憎しみを抱えていれば、死後、地獄に堕ちて、天国に行けないのは当たり前の道理である。ボルグによれば、聖書では、神意を、生命の樹と呼び、人間の認識を、知恵の樹、もしくは実と呼んでいる。知恵の樹や実を、人間が食べ過ぎると、神意を忘れ、人間が自らで認識し、自由に判断し、ついには、自分が正しいとまで思い込み、王国の王や、宗教団の僧侶のように、神に成り代わった支配者にまでなろうとする。自らの認識を鵜呑みにする人間は、神ではなく、ルシファーであるのに気づくべきなのだ。このように、現代人の多くが、カインの子孫と、ノアの子孫の霊魂を引き継ぎ、この地に転生しているが、依然として、キリストの救済に耳を傾ける者は少ないのは、現状が、ノアの箱舟の洪水前に酷似しているのでわかる。そのうちに、メトシェラという名が現れたら警告となるだろう。面白いことに、NASAに名付けられたメトシェラ星があるらしい。宇宙最古のメトシェラ星にまつわるミステリー - ログミーBiz (logmi.jp)HD 140283 - Wikipediaこのメトシェラ星、現代の宇宙科学からビッグバンよりも古いと観測されているらしい。現代の唯物的な宇宙論が、宇宙がビッグバンから生まれたと考えているので、このメトシェラ星は、現代の物質界の終末を預言しているのかもしれない。いずれにしても、物質的感覚の限界を示している星といえるわけなんである。物質的感覚から生まれているのが、物理学の質量の概念で、アインシュタインは、等価原理で、質量を歪んだ時空のエネルギーに帰した。しかし、量子力学では、質量そのものを素粒子に帰す、非対称性のヒッグス機構のヒッグス粒子を想定し、エネルギーとして同定してはいるが、また別の重力の媒介子グラビトンの質量を、歪んだ時空に帰する重力理論との整合性は、ディラックの海のような超対称性のダークマターを想定しないと、このメトシェラ星の古さと同じような矛盾に陥ってしまうようである。人類は知恵の実を食べ過ぎて、特に現代人は、知性の下痢を起こしたようである。消化できない食べ物を口に入れ過ぎれば、消化不良を起こすのは当然で、消化を助ける生命の樹が必要になる。生命の樹は神意で、モラルや道徳の愛なので、十戒を守り、他を支配しないで、不必要な財産をもたないのが、現代人に求められる修行法なのはいうまでもないのを、メトシェラ星は警告しているのかもしれない。いま、自我を霊我にまで到達させる、現世での生活が望まれているために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。★ ★ ★以前の私(シュタイナー)の講義「人智学の基礎をどう見いだすか」で、次のような譬えを話した。ある少年が、家族のために朝食用のロールパンを買いに、ある村に通っていた。その村では、ロールパン1個が2クロイツァーしていたが、その少年はいつも10クロイツァーを親からもらっていた。その少年は沢山のパンを買って持ち帰っていたが、算術が得意でなかったので、パンの数などは考えていなかった。あるとき、その家族に養子がやって来た。彼はその少年の代わりに、パンを買いにいくようにいわれ、その養子は算術が得意だったので、次のように考えた。「10クロイツァーで、ロールパンを買いに行く、パン1つが2クロイツァーで、10÷2は5だから、5個持ち帰るはずだ。」ところが、家に帰って袋のなかをみると、なんと6個のパンが入っていた。「おかしい! 10クロイツァーで6個も買えるはずがない。今日はパン屋がたまたま間違ったのか、明日は5個持って帰るだろう。」しかし、次の日も10クロイツァーで6個のパンを持って帰った。計算では5個だが、現実は計算とは違った。というのも、その村では、パンを10クロイツァー買ったら、おまけでもう1個のパンをもらう習慣があり、5個ではなく、6個となったからである。その養子の計算は正しかったが、現実の習慣には合っていなかったのである。 このように、人智学への批判的な反論は、算術のように論理的には「正しい」かもしれないが、物質界とは異なる原則からなるホンモノの世界には当てはまらない可能性もある。この顕著な例は、数学的に正しい事実と、霊的な事実との間の違いを理論的に示している。 以上のように、人智学徒の努力により、マーヤの世界を取り去れば、霊的な事実に導かれ、回帰していく、のが示された。この霊的な参入過程が示すのは、土星紀の霊視から、火とは、犠牲であり、太陽紀の霊視から、空気とは、流れ、与えられる徳であり、月紀の霊視から、水のような流体とは「諦め」や「拒絶」による成果だった。そして、今回の地球紀の霊視から、この3つの真実に4つ目の真実を付け加えた。それは、土、もしくは固体の本性とは、死であり、それは、宇宙の神的な生命、進化目的からの分離だった。この分離が始まったとき、死が、マーヤの幻想の世界に、1つの霊的な真実が入ってきた。宇宙の神々は、なんとかして物質界に下降し、そのマーヤの、幻想の世界での死を、実際に経験しない限りは、決して死を知り得なかった。 以上が、これまで議論してきた概念に付け加えたいことである。これらの概念は、マルコの福音書を、霊的に理解するのに、とても必要な概念で、この霊的な明晰さを獲得し、神意へと到達するには、日々の生活から、節度を守って、規則正しく準備した瞑想を通して、この4つの元素霊の概念を、繰り返し、魂に経験として作用させる必要がある。というのも、マルコの福音書を理解するには、神意から発した、宇宙の進化過程のなかで生じた様々な出来事の概念のなかに、人間の認識の基盤を置く必要があるからである。
2024年06月13日
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エマニュエルスウェデンボルグが、天の理を知っていたと評したニュートンは、「私(自我)は仮説をつくらない」という言葉でも有名で、当時、光を媒介し、伝播している存在と考えられていたエーテル説を嫌っていたと、唯物論者に誤解を与えているが、ボルグの説く「天の理」を理解すれば、ニュートンは、エーテルを物質的に捉えている、当時流行の考えを嫌っていただけで、そのエーテルという専門用語の一人歩きの、実存に対する虚像の、つまりエーテルを直接みれる霊視力もないのに、あるかのような、詐欺師的な態度を嫌っていたようである。 ☆ ☆ ☆161 われは仮説をつくらず:仮説と時代 (sgu.ac.jp)「壮麗きわまりない体系」が、「至知至能の存在」によって生まれたと考えました。ニュートンは、このような運動の法則で規定されない規則性を「至知の意図」や「唯一者」などという「神」に起因させたのです。そこで、有名な「われは仮説をつくらず」(Hypotheses non fingo)ということを述べました。 ☆ ☆ ☆ニュートンにとっては、計算も、詐欺師的な態度で、直感的な認識により、自明でないと、天の理を見通したことにはならない、という考えをもっていたようである。上に紹介したリンク先のブログからもわかるが、ニュートンは、天体の運動を、天の理の、神の意志、つまり神意と考えていて、人智学でいうところの、運動霊の力天使に求めていたようである。ちなみにボルグによれば、神意と認識は、元々は同じものだったという。人間の失楽により、神意から、人間の認識が分かれて、別になった。人智学では、神意が潜在意識で、人間の認識を覚醒意識としている。つまり、人間の覚醒意識は、潜在意識を外側からみているにすぎないので、皮相意識ともいわれる。人間は物質界での経験を基に、潜在意識から、見える部分を覚醒意識として取り出しているにすぎない。だから、人間は、皮相意識の上に、個人の自我意識を確立している。この自我意識による物質感覚は、エーテル感覚とも呼べる。しかしながら、この感覚はニセモノの自我で、ホンモノの神意の、霊我ではないので、現代人はこの認識を捨て去り、超えないといけない。ニュートンはこの物質感覚を嫌っていたようである。というのも、この感覚は、神意から分かれた認識でしかないからである。ましてや、この認識を数式化するのを嫌ったようである。神意でないものを記述するのはおかしいわけで、偶像崇拝でもある。残念ながら、現代人はカリユガの時代を輪廻転生で通過してしまったために、ニュートンの本物の力学を直接理解するには、地上で、多様な立場を経験し、心の修行をして、エーテルを直接みれる霊能力を獲得する他はないが、ボルグの書を読めば、ニュートンが考えていたエーテルが、人間が肉体を動かすときの心理のようなもので、宇宙の天体や物体を動かす、神の心理であるのが、自ずとわかるようになってくる。ボルグは、その書によって、天の理の、つまり神意の、いわゆる宇宙の心理を解き明かしているのだが、人間は誰でも、お釈迦さんや老子が説いたような、「足るを知れば」、この天の理に近づけると、天国の話から紹介している。そして、その足るを知るのに必要なのが、2つの条件で、他人を支配しないことと、不必要に余分な財産をもたないことであるという。この2つの条件は、いまでは人間がすっかり堕落腐敗して、知性が曇ってしまったので、十戒の10個に増えて、有名になっている。例えば、江戸っ子の、粋の生き方とされた、「宵越しのカネはもたない」の源流は、この不必要に財産をもたない、にあるのかもしれない。あと、他人に指図されない条件がクリアされれば、江戸は天国だったかもしれない。宵越しの銭は持たない - Wikipediaモーセの十戒 - Wikipedia1. 主が唯一の神であること2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと4. 安息日を守ること5. 父母を敬うこと6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)7. 姦淫をしてはいけないこと8. 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)9. 隣人について偽証してはいけないこと10. 隣人の家や財産をむさぼってはいけないことこの十戒を、ボルグ風に言い換えて、より詳細に具体的に説くなら、恐らく次のようになるだろう。1.主が唯一の神であること⇒天の理の神意を知りなさい2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)⇒神意でない、物質や仮説を信じるな3.神の名をみだりに唱えてはならないこと⇒物質や外見に囚われるな4.安息日を守ること⇒睡眠時間を十分にとりなさい。5.父母を敬うこと⇒神意の霊の知識と、地での物質界での経験の知識とを両立させなさい。6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)⇒他人を支配しようとするな。7.姦淫をしてはいけないこと⇒人間をモノ化、奴隷化するな。8.盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)⇒不必要に利益を上げようとするな。9.隣人について偽証してはいけないこと⇒自分の則を超えるな10.隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと⇒自分の足るを知りなさいこの十戒を守れば、誰でも、天の理の、神意に近づけ、天国の、ヘブライ語で、喜びや、楽しみ、愛しさを意味するエデンに住める、というわけなんである。また、ヘブライ語の、ハレルは、神意を賛美するという意味をもつらしいが、日本語の、「晴れる」に近い発音なのが面白い。ヘブライ語と日本語の共通発音は、八切史観の、ペルシャ経由での、ペーの平氏伝来からも読み解ける。ウイキによると、ハレルの語源は、旧約聖書のテヒリームにあり、その単数形はテヒラーと呼ぶらしいが、これは日本語のトーラーの寅の巻にも近い発音でもある。ハレルを、テレルと呼ぶなら、日本語の、「照れる」にもなる。エデンの園 - Wikipediaハレルヤ - Wikipediaボルグによると、ハレルは、ヘブライ語のテント(天幕)を意味するアオハルに由来し、それは楽園にいたときの人類が、家族単位でテント生活し、父親を中心に、神を賛美していた信仰習慣に起因し、アオハルが、ハレルになったという。面白いのは、日本語のアオハルが、青春と読めるところである。日本語のテントは、英語の「伸びる」のテンションに由来しているようだが、寺のテンプルの語源が、神殿にあり、神意が地に「伸びる」と派生して考えれば、日本語の「青春」が、低俗俗物化して、寺での交配の隠語になるのも、八切史観から解き明かされて面白い。ハレルに、ヤハウェのヤーをつけて、ハレルヤーとすると、ヤハウェを賛美する、のヘブライ語となるが、日本語では、ヤーは、大和のヤーで、ヤオロズの八幡神でもある。十戒で、神の名を無暗に唱えるな、とあるように、勿論、ヤーは偽名で、本当の神の名は、YHVHのテトラグラマトンのY、H、V、Hの4つの世界を統合する唯一神の、天の理の神意なのが、ボルグの話からもわかる。ちなみに、エホバという偽名も、以前紹介したように、YHVHに、主のアドナイを母音としてあてはめて、ヤハヴェが訛ってエホバとなっている。いずれも偽名である。テトラグラマトン - Wikipediaこの4つの世界を、上の天から、下の地まですみやかに妨害なく神意を伝え、バランス良く統合すると、地は天の楽園となる、のが、ボルグの話から明らかになる。だから、この神意をすみやかに獲得する、認識力が、霊能力で、神意が、人間の認識に分かれる前にまで、蘇らせるのが、輪廻転生の目的である。それにはまず人種や民族や文化の壁を乗り越えないといけないわけで、外界に学び、外界に囚われないようにならないといけない。ボルグによれば、楽園にいたときの、人類は、家族単位でつかず離れずの距離感をもって暮らしていたらしい。当時の人間社会には、神意を伝える父はいたが、政治などはなく、王や僧侶もいなかったという。つまり、人智学でいうところの、集合魂の族長はいたが、それ以外は、族長の手や足だったわけで、天意の神意が、族長という父を通じて、家族に伝達され生活していたので、他人を支配するような、不必要な財産をもつような、そのような機会はなく、不可能だったという。そもそも、神意がバランスよく伝えられ、妨害されることなく、下から上へと反応されていたので、天国がそのまま物質界に反映していたという。内の心が外の体にそのまま反映している健康と同じである。そして、当時の教育は、子どもが、父のように、神意に達するのを、一人前とし、第2の誕生と呼んでいたという。だから、一人前になるまでの子どもは、父を介して神意が伝えられていたという。これは現在では形骸化して、つまり肉体の成長具合だけをみて、心をなおざりにした、成人となっているわけだが、本来は、心の眼の、心眼を獲得したとき、いまの仏教でいえば、成仏の意味で、だから、現代人のほとんどが、心の上では、未成年で、この楽園時からいえば、現代人は子どもしかいないことになるだろう。つまり、現代は、カリユガの時代を通過したために、霊界も成仏できない悪霊ばかりの地獄で、渡る世間は鬼ばかりになっているわけで、安易に霊能力を獲得してしまうと、詐欺にひっかかるように、悪霊の仲間に飛び入り参加させられてしまうので、守護霊により、競走馬のブリンカーのように、外の覚醒意識に集中するように、目隠しされている状態にある。現世でも詐欺的な行為をする者は、いわば悪魔の手下となっている自覚もないので、要注意である。犯罪がバレて刑罰を受ければ改心も生まれるだろうが、バレずに死ぬと、悪霊の一味に強制参加させられて地獄送りなんである。だから、十戒を守る事が必定で、それでも、天の理の神意に到達するには初歩段階にすぎないようである。物質界で獲得できる物質的な知識レベルは最も低次な知識で、善と悪を見分ける知識だが、この知識に囚われていると、その上の霊的な知識に進めないので、いわば楽園時の人類でいえば、未成人の子どものままでいることになる。しかし、低次の知識とはいっても、良心から、善への方向性が羅針盤として身につくので、ないよりはあったほうが良く、リスク回避の知性にはなる。悪魔が近づく警報になり、子どもが、非行や暴走に走らずに済むわけなんである。この物質性の知性を超えて、霊的な秩序や、モラルの知性に目覚めると、人智学でいうところの、イマジネーションの霊視に目覚めるようになる。端的にいえば、物質のベールを取り去って、心がみえるようになる。いわゆる心眼の獲得を意味する。心眼を獲得すると、地での教師から卒業し、天の霊界の教師の教えに同意するようになるという。この卒業が成仏で、本当の成人といえる。そして、更には、その上の、天の教師の教えに自主的に従うようになり、いわば人智学のインスピレーションを獲得する。更にその上の、人智学のインテンションを獲得すると、ボルグが説く神意が瞬時に知覚でき、救世主のレベルに達するという。どうも、ニュートンは、この救世主レベルを目指していたようで、だから、「仮説を述べない」と言ったようである。だからニュートンは物理学だけでなく、他の学問も学び、当時の物理学のような科学は、霊界に参入するための初段階だったようである。それは電磁誘導を説いたファラデーが数式を嫌ったエピソードでもわかる。全ての知性は、YHVHの神意から発せられるので、その認識を再獲得するのが、学問の主眼となっていたようである。だから、神学や数学や音楽や物理学などの学問の分類は、後付けで、現代の学問から遡って、源流の哲学に達し、更には神話に到達できずに、単なる唯物論での分類論のままでは、せいぜい物質界にいるときにしか役に立たず、しかも死んでしまえば、何の意味もなくなってしまう。どんな資料や記録書も燃やし消滅し、書き換えられれば、無意味になるのは、聖書の現代解釈が、ほとんど無意味な空想事になっているのでもわかる。キリストを実在の存在とみなせない、キリスト教会もあり、巷にはアンチキリスト教会ばかりが金儲けやら、他人を支配することにせっせと汗水流している。キリストを利用して自らの欲望を遂げようとする悪魔崇拝ばかりの世のなかなんである。だから、先の十戒により、現代は、YHVHの形態霊から与えられた、人間の自我を知り、その自我の則を超えずに、足るを知り、自我を、天国のエデンのマナスの霊我に近づけ、人体の4つのYHVHの体をバランスよくすみやかに統合し得るような、人間の修行の進化過程にあるのがわかる。足るを知るとは、天国への階段の2つの条件の、他人を支配しないことと、不必要な財産をもたないことをクリアすることでもある。キリストは地に降臨し、実際に実践して、その見本をみせた。足るを知る者は富む – 村杉温泉 環翠楼【公式】 (kansuirou.jp)ボルグはまた自らの宇宙創成論で、天国を説いている。このボルグの創成論は、人智学の人体4体説や、アリストテレスの4大元素説にも共通しているので、そのどれかを理解していればわかりやすい。つまり、それら3つの説を総じて、人智学的にいえば、宇宙は、宇宙の秩序をつくる自我意識から生まれ、意識を反映させる心の内のアストラル界をつくり、内の心を外の肉体の物質に伝えるエーテル界をつくり、そして、外として現れる物質界をつくっていったという。そして、天国とは、それら4つの世界の循環がバランスしながら瞬時に伝わり連動し巡る、いわば神意の連携がとれた、いわゆる神意の以心伝心が常に安定した状態を指す、というわけなんである。あえて物理学でいうなら、4世界での、角運動量の保存則というべきかもしれない。人体にも、この4つの世界の4層の、いわゆる、人智学でいうところの、自我、アストラル体、エーテル体、肉体の4つの体が、調和しバランスをとりながら、内と外とで連携している状態が、健康なんである。端的にいえば、霊と物質がバランスし、相応し、相思相愛で連動しているのが、健康といえる。現代風にいえば、心と体のバランスがとれたのが健康といえる。だから、物欲に偏り、精神がなおざりになれば、心のバランスが失われ、肉体を制御できなくなって、手探りで探るようになり、無暗矢鱈の過剰反応となり、炎症化し、やがて腫瘍化して、肉体が硬化していき、ついには、肉体を見捨てることになって、自我が肉体から離れ、人間の自我の死を迎えるわけなんである。これを人智学ではアーリマンの領域に下降すると例えてもいる。逆に、精神主義の、根性論やらイデオロギー、心霊主義などの差別や選民の精神論に偏ると、肉体を酷使して、休息や睡眠時間をとらないようになり、肺炎などから、過労死になってしまうわけなんである。だから、思想家は肉体を奴隷のように酷使し過ぎて肺炎で死んでしまうわけなんである。陽明学の王陽明が肺炎で死んだのは有名である。この行き過ぎた現場無視の、頭でっかちの、いまでいうブラック化を人智学ではルシファーの領域に下降すると例えてもいる。王陽明 - Wikipedia 霊の精神と物質とのバランスを失う、この2つの悪しき例が、先に紹介した天国への2つの条件の正反対の、他人を支配するルシファーと、不必要に財産を貯めるアーリマンであるのが、つまり地獄行きの条件であるのが、確認できる。だから、人間が物質界に輪廻転生するのは、この2つの悪しき条件に陥らないように、バランスをとり、クリアするために、つまり、神意に少しでも近づくための修行の場といえるわけなんである。天国への階段の2つの条件をクリアするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ゴルゴダの秘儀は、高次の世界には、死がないため、決して起こらず、死の元型もない。それは物質界にのみ存在し得る死を、再生に導く出来事なのである。だから、ゴルゴダの秘儀が理解できるのは、物質界だけである。地上で生きる人間の使命の1つは、現世もしくは、いつかの転生で、この秘儀を理解することなのである。 では、この死のリアルさ、その真相、つまり、物質界だけにある、この死の霊的な意味とは何か? それは人間だけの個人の死であり、鉱物、植物、動物などの他の世界や霊界にはないものである。地球の進化過程で生じる歴史的な出来事を理解するには、その元型を、霊界に探すために上昇しなければならない。しかし、ゴルゴダの出来事だけは、例外である。ゴルゴダの秘儀は、物質界だけに霊的な意味を伴って、現実に存在する。 また、このゴルゴダの出来事についての、唯物論的な観点も明らかになる。それは途方もなく興味深い。今日では、唯物論のため、キリストが死から甦る、ゴルゴダの出来事は、なかったものとされ、この出来事を事実と認めるのは不可能とまで言うのを聞くのは、非常に重要である。 ゴルゴダの秘儀ほど、物証が困難な出来事はない。これに比べれば、物質界での、人間の知性の発展に重要な、ソクラテス、プラトン、もしくは他のギリシャ人たちの、歴史上の出来事を議論するのが、遥かに容易なのを考えてみればよい。 現代では、「ナザレのイエスが実際に蘇った」のを、物証できないので、歴史上の痕跡から主張できないと、多くの人は考えているが、その否定的な歴史上の証拠も存在しない。いずれにしても、他の歴史上の出来事と同じように、ゴルゴダの秘儀の真偽は確かめられない。 この物質界でのみ生じた出来事が、超感覚的な、霊界での出来事と同じ特徴、つまり、物証できない、という特徴をもつのは正に特筆すべき事実である。そして、超感覚的な、霊界を否定する人たちの多くが、同時に、このゴルゴダの出来事を、超感覚的な出来事ではないのに、把握する能力を欠いている。驚くべきことに、キリスト教信者でさえも、この多数のなかに含まれている。 このゴルゴダの出来事、つまりキリストの再生が現実に起こったのは、この出来事が与える影響でも確かめられるが、唯物論を信仰する人々は、その現実のキリスト再生が、歴史上、実際には起こらなくても、それらの影響が生じ得る、と推測しているのである。 唯物論者たちは、その影響を社会学的な状況の結果で説明するが、宇宙の創造過程を理解する者には、「キリスト教」の影響が、その背後に立つ、霊界でのキリストの力なしで生じ得た、と考えるのは、畑に種を植えなくてもキャベツは育つ、と言うのと同じくらい愚かな考えなのである。 更にいうなら、福音書の著者個人も、ゴルゴダの秘儀という歴史的な出来事を、物証する必要もなかった。というのも、著者たちは、物質界でのキリストの痕跡から、再生後のキリストの姿を読み解いたからである。 もっともヨハネ福音書の著者は、生前のキリストと直に出会っているが、他の福音書の著者たちが、どうやって、ゴルゴダの出来事を確信できたのか? 当時は、伝承や秘儀の書物以上のものはなく、歴史的な出典からは理解できない。この状況については、私の著書「神秘的事実としてのキリスト教」で概説したが、「キリスト=イエス」の霊的な実在を確信できたのは、天体の運動を司る形態霊の働きを通してだった。 というのも、大宇宙と小宇宙の関係を非常によく知っていたので、霊的な知識、今日でも、獲得できるが、天体の運動を通じて、宇宙進化の重要な転換点を見通せたからである。 「太陽と地球の運動から、「キリスト」と言われる太陽霊の「存在」が、「地上」に再生した」のが見通せた。マタイ、マルコ、ルカ福音書の著者たちは、太陽と地球の関係から、ゴルゴダの出来事についての確証を得た。福音書の内容については、超感覚的な霊能力で獲得したが、過去、地上でキリストが起こした数々の奇跡の確証は、天動説での天使たちとの交流から引き出した。 霊的な知識をもつ人は、福音書の著者たちを信じるだろう。福音書についても、歴史的な物証を用いた反論は、ただ不正確を証明するだけなので無意味である。人智学者は、物証とは全く異なる霊的な基礎、人智学による霊的な洞察力を通して得られる基礎の上に立っている、のを明確にしておく必要がある。 これに関連して、今回の連続講義を通して、確立しようとした霊的な知識について注意を促しておく。それは、人智学が語る現実を、物質的な現実を用いて、物質界でのみ通用する、正しい反論で傷つけ、ダメにしようとしても、不可能である、ということで、人間は、自分たちの個人的に自由な知識に従って、いくらでも、正しいかのような正当性を言うのが可能だが、それによって人智学が否定されることはない。人智学が語る世界は、物質界を含んだ広大な宇宙だからで、ローカルは、グローバルを超えないからである。(大は小を兼ねる。神の法を犯すものは自らを犯す。)
2024年06月11日
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米国が人種の坩堝で、日本が黄色人種の坩堝なのが、八切史観からわかるが、人智学によれば、人種と民族が異なるのは、米国では英語が公用語で、日本では日本語が公用語になっているのでわかるだろう。日本では、白村江の戦い以来、唐から漢字が来て公用語になったのだろうが、日本語になった漢字は、いわば植民地語なのが、八切史観の被差別民史から伺えるが、近年の日本でも、戦後のGHQによるカタカナのローマ字英語も、いわば植民地語であるのが伺え、和製英語がまわりまわって、英語圏の新語になるのは、歴史が繰り返している証かもしれない。GHQだけではなかった「漢字廃止論」 いま、漢字を使い続ける意味を考える:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)シュタイナーによれば、言葉は、民族霊の指導によりつくられたという。民族霊といっても、天使から進化した大天使だけでなく、権天使に進化しなかった、いわば落第した大天使も関わり、同じ大天使の民族霊として、共同して、進化に寄与しているので、言葉の由来を見分けるのは困難で、金星人になるまで霊能力を高めない、と見分けられないようである。日本では、言霊(ことだま)とも呼ばれるが、言葉をつくった民族霊は、人間に、物質的な表現をするための、言葉を与えるために、権天使の位階に進むのを断念し、民族霊の大天使の位階のままにとどまったという。だから、言語が民族の象徴にもなっている民族は、言葉を通じて、進化から遅れた大天使の指導を受けているのがわかる。言霊 - Wikipediaしかし、言葉の意味、つまり思考を表現するのには、大天使の上の、権天使の能力を必要とするために、その上の能天使の位階に進むのを断念した、権天使もいるので、人種の坩堝ならぬ、天使の坩堝となっているので、話が更にヤヤコシイ。能力では上位だが、人間を指導するには、下位の天使のほうが親密なので、堕天使のほうが、人類を唆しやすいのが、ぶっちゃけ、悪友のほうが馴染みやすいわけで、人間を誘惑に導きやすくなっているわけなんである。本当の友人は得難いわけなんである。そのために、唯物的な物質科学的な技術用語が多い言葉は、進化から遅れた民族に特有で、だからこそ、ラテン語圏の民族は、物質科学を指導しやすいが、宇宙の進化からみると、進化から脱落しやすいリスクを負っているといえるかもしれない。だから、そのような民族が、人種の坩堝を社会的に経験するのは、バランスを保っているといえるかもしれない。 現在、もっとも金持ちが多い国は、米国だろうが、面白いことに、シュタイナーは、北米の民族は、その民族霊の特性から、進化できないリスクを負っている、と述べている。民族霊になり代わり、北米の民族を改心させようとした神智学者もいたようだが、現状を見る限り、どうやら失敗に終わったようで、実際に、核兵器をつくり大量殺戮をしでかした時点で、民族としての信頼を欠いた、といえるだろう。問題は、アーリマンが受肉しそうな土地柄という点にもある。ちなみに、アメリカ先住民族と、北米民族は、シュタイナーによれば異なるようである。シュタイナーは、ユダヤ民族の使命はキリスト降臨で終わったので、ユダヤ人はもはや必要ないといって、シオニズム運動の知人の支援を拒否して、そのユダヤ人に毒殺されたらしいが、ソクラテスの毒杯の死の構図とよく似ている。【最新】超富裕層が多い国・都市ランキング 日本は世界4位 | ELEMINIST(エレミニスト)自由の国という表題を抱えている米国は、核兵器や身近な銃規制もままならずに、なによりいまだに人種差別がなくならないお国柄でもある。トランプのようなのが大統領をやる国でもある。いまだにカネ儲けに余念がなく、ロシア、中国を批難しているが、格差社会においては、似たり寄ったりで同じ穴の貉でしかない。お互いに核兵器でチキンゲームをしている始末である。悪魔同士で罵り合いをしている現状なのに、反省は全くない。イギリスもそうだが、世界中に戦乱を招いた国で、神殿で、商売をして、穢している国といえるかもしれない。共産国家がルシファーなら、資本国家はアーリマンであるだろう。共に自由の名の下に、悪魔が憑依し、戦いあい戦乱を招いている。共産も資本も悪魔が名付け親でしかないからである。そもそも物質的な言語は、人類の自由のために、進化から遅れた大天使の民族霊から与えられた。言論の自由は、全人類のためにあるべきで、特定の人種を差別するためではなく、自国に利権を誘導するものでもない。なにより「金持ちが天国に行くよりも、縄を針の穴に通すほうが遥かに容易である。」と、キリストははっきりと人類に警告している。このキリストの言葉を信じるなら、金持ちは地獄に堕ちるのを覚悟すべきである。特に自称キリスト教徒ならば、猶更である。前回紹介したように、スウェデンボルグの霊視から、宗教リーダーが地獄に堕ちているのは、キリストの言葉に背いたからでもある。 金持ちが貧乏人の生計を立ててやれば、格差社会はなくなり、貧困問題は解決するはずである。なによりも、権力に居座る愚か者がいなくなる。そのような愚か者がいなくなれば、皆が天国に行けるようになる。キリストは、権力者を権力の座から引きづり下ろすために、物質界にやってきたし、いまも権力者たちを監査し、死後の審判をしている。古代エジプトの最後の審判の壁画をみればわかるはずである。死者の書 (古代エジプト) - Wikipedia古代エジプト (osoushiki-plaza.com) トート神、つまり、ヘルメス・トリスメギストスが、後のキリストでもある。ヘルメスについては、以前、このブログでも紹介したエメラルドタブレットに詳しく書かれている。古代アトランティス時代の歴史が書かれている。面白いことに、ニュートンも、このタブレットを英訳しているらしい。以下に抜粋し紹介する。 ☆ ☆ ☆ヘルメス・トリスメギストス - Wikipediaエメラルド・タブレット - Wikipediaこれは真実にして嘘偽りなく、確実にして最も真正である。下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとくであり、それは唯一のものの奇蹟を果たすためである。万象は一者の観照によって一者に由って起こり来たれるのであるから、万象は一つのものから適応によって生じたのである。太陽はその父、月はその母、風はそれを胎内に運び入れ、地はその乳母である。全世界におけるあらゆる完成の父はここにある。それが地に転じるならば、その力は円満となる。地を火から、微細なものを粗大なものから、非常なる勤勉さで丁寧に分離するがよい。それは地から天に昇り、ふたたび地へと降って、上位のものと下位のものの力を受けとる。この方法によってそなたは全世界の栄光を得、それによって一切の無明はそなたから去るであろう。その力はすべての力を凌ぐ。それはあらゆる精妙なものにも勝り、あらゆる堅固なものをも穿つからである。かくて世界は創造された。これに由って来たるところの驚くべき適応、その方法(もしくは過程)はここにある通りである。ゆえにわたしは全世界の哲学の三部を具するをもってヘルメス・トリスメギストスと称される。太陽の作業についてわたしの語ったことは完遂し畢る。 ☆ ☆ ☆面白いことに、スウェデンボルグが、霊界で、ニュートンに出逢っている。ニュートンは最上の天国にいたそうである。天国にも階層があり、天使たちも、霊界で低次の存在たちを善導し、自らも叡智を高め、切磋琢磨して、最上の天国を目指しているようである。上にあるものは下にもあるわけで、物質界でも、知識や、モラルや、霊能力を高めるのと、同じである。ボルグのニュートン像が、エメラルドタブレットの訳につながるので、紹介しておく。 ☆ ☆ ☆ニュートンとは霊界で何度もあった。彼は実に真面目で、道理のわかった霊なのに感心した。「天の理」の意味をよく理解していて、他の霊たちに好かれていた。彼は次のようなことを言った。「天の理や、神意が、宇宙には存在し、善霊や、人間の知性の素になっている。これが全ての源で、人間の知性が照らされ、人間が知性で考えられるようにしているが、人間はそれに気づいていない。」 ☆ ☆ ☆ニュートンのこの理解を、ボルグはどこから得たのか、知らなかったようだが、恐らく、エメラルドタブレットに思われる。霊界にいるだけでは理解できないこともあり、例えば、人間の死などだが、だから、わざわざ物質界に転生する。シュタイナーによると、霊界を詳細に理解するには、霊界に行ってからでは遅いこともあるという。予習が必要で、また、天使たちは、地上の人間を通して、SNSみたいに、オフ会などで知り合うらしい。つまり、人間が天使たちを結び付ける絆となっているようである。だから、天使たちは、できるだけ多くの人間を善導すれば、多くの天使たちと絆で結びつくわけで、物質界でも、多くの人を救えば、多くの人から感謝されるのと同じで、また逆の、多くの人に損害を与えれば、多くの人に恨まれて、地獄に堕ちるわけなんである。だから、金持ちや権力者が、地獄に堕ちやすいのは明らかなんである。多くの人を救える立場にいながらも、無視無関心でいたわけなので、だから、キリストは、神殿から商売人を追い出したわけである。この国の裏金議員なども、神殿を穢す商売人と同じで、商売人は、自らの利益のために、多くの人に損害を与えるから、神殿から追放され、地獄に堕とされるわけなんである。神殿というのは、困っている人を援け救う舞台なのである。政府というのは神殿でないと意味がなく、権力を誇示するような場ではなく、それは地獄の冥界の王の穢れ孤立した墓場である。老害が座る死刑の椅子である。天国では、施し合うのが基本である。私利私欲がない世界だからして、キリストに従うミカエルの権力の、施す能力を縦横無尽に自由に発揮できる。権力は自らを誇示する能力ではなく、人に施し、人を救う神殿の能力なのである。商売人は天国から追放される存在なのが、キリストの怒りからはっきりと読み解ける。キリストの活動とともに、ミカエルは、時代霊として、現在のアーリア文化期を、人類の進化へと導いている。ミカエルの時代の特徴は、前回紹介したように、権力を新しき自由のために捨てる能力である。だから、物質は必ず崩壊するように、人類の進化のために、時間は流れるわけなんである。だから、逆にいえば、進化に寄与しない行為には、時間は逆に進んで、天国から拒否され、輪廻転生でやり直しをさせられる。物質的な成果は、時間を遡り、周期的に必ず崩壊へと向かう。 物質が崩壊するように時間が流れるのは、例えば、放射能が挙げられるだろう。その放射能を利用して、人類は核兵器をつくり、権力のために、大量殺人をしでかした、その報いは必ず、人類に訪れるだろう。核兵器開発に関わった霊魂らは、ミカエルに背いた罪で、未来永劫、さまよえるユダヤ人のごとく、実際に、現世でもユダヤ人だったが、ルシファーの配下で、無間地獄巡りをしている。キリスト降臨でユダヤ人はいないのが聖書の意味で、だから偽ユダヤ人しかいない。偽ユダヤ人のように過去の栄光にしがみつく人種に、再度、警告のために、ミカエルの時代について、要約して紹介する。『どんなに美しく、価値あるものも、新しいものを用意するために死んで行く、のが、ミカエルの気分なのである。そのようにして無になった時空に、新しい未来がやってくる。逆に、過去の栄光、美しい伝統を頑なに守ろうとする態度には、人類を惑わせる龍が忍び込む。過去の財宝を捨てされない者は、ミカエルの進化の道を行くことはできない。』 (『いま、シュタイナーの民族論をどう読むか?』より) 偽ユダヤ人に多い金持ちや権力者たちは、キリストが、神殿で商売をしていた者たちに、鞭を打ったことを知らないのだろうか? 神殿を穢す者は、現代のミカエルに背く者でもある。なぜなら、物質界は、ミカエルの生きた時間にとっては幻のマーヤでしかないからである。形あるものは必ず壊れる、と仏教の諸行無常でも説いている。形あるものが、壊れなくても、人間には物質界から必ず去り行く死がある。肉体はいつか壊れる。ほんとうの神殿 — ヨハネ2:12-25 (penguinclub.net)天旅ホームページ (tenryo.net)諸行無常 (tees.ne.jp)このキリストの怒りは、「物欲のために、他を穢すな。己の欲望のために、人を犠牲にするな。」という意味でもあり、これらの悪しき行為は、地獄に堕ちる要因となるからである。そのために、人間は色々な人生を送るために、俳優が色々な役を演じるのと同じように、人生では主役ばかりではなく、脇役も演じないといけない。いつも特定の人種や主役を演じられるわけではなく、自分という意味では皆人生の主役なんだが、人類全体の進化が舞台なので、大体が、その役割分担なんで、脇役を演じる経験も必要なのである。人間は地上の舞台で演じ、地上で、色々な人種や民族や文化に生まれ、故郷喪失者として、それらを乗り越え、人類全体のために進化していくのが輪廻転生だが、人間と同じように、民族霊の大天使たちも、地球の色々な場所に移動し、宇宙の進化のために、色々な民族を指導するのが、民族霊の輪廻転生だと、シュタイナーは述べている。民族霊は、物質界がなかったときに進化を遂げているために、直接、物質には作用できないが、アストラル体を通じて、人間の内面から作用し、特に人間の気質に作用するという。人間の気質とは、人智学の4つの気質で、胆汁質、憂鬱質、多血質、粘液質のことで、ただし、憂鬱質は、人間の4つの体の、自我、アストラル体、エーテル体、物質体のうちで、物質体が、他の3つよりも支配的で、優位となっているので、民族霊は、物質に作用できないために、憂鬱質の人間には進化のための指導的な直感や叡智を授けられないらしい。シュタイナー教育4つの気質の特徴とは長所・短所・向いている職業も紹介! (con-anima.net)【チェック表あり】子どもの気質診断でわかる! 自己肯定感を高める「タイプ別」ほめ方&叱り方のコツ (fqkids.jp)人間がもつ3つの気質に作用し、民族を通じて、地上の人間を進化に導くのは、民族霊にとっては、いわば、人間の仕事みたいなもので、民族霊の本来の目的は、地上の様々な場所に、いわば転生し、他の民族霊たちと協調、協力しながら、宇宙の進化に寄与していくことだという。民族霊である大天使は、時代霊の命令を受けて、宇宙の進化の役割を担うのが、本分なのだという。人間が地上で、人間レベルで、知性やモラルなどを高めあって切磋琢磨し、進化しているように、勿論、裏金議員のように、退化して、落第してやりなおしさせられるのもいるが、天使は天使レベルで、人間と同じように、高めあっているわけで、宇宙は階層構造だが、平等で、エメラルドタブレットのトートが説いているように、上にあるものは下にもあるわけなんである。エメラルドタブレットを解き明かすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 更に言うなら、人智学の探求から学べるように、人間だけが、死を克服できる。死に対して勝利できるのは、我々人間だけである。というのも、他の存在たちにとっては、死は見かけ上のものに過ぎず、死は本当には存在しない、からである。 人間性を越え、高次の天使にまで上昇したなら、高次の天使たちが、人間の現実な死を知らない、のがわかる。リアルな死、すなわち物質界での死を経験できるのは、物質上の存在となって、そこから、物質的な意味を引き出した存在たちだけである。 人間は、物質界のなかで、自我の意識を育成しなければならないが、それは、死なしには見つけられないものである。人間より下位の存在たちにとっても、上位の存在たちにとっても、死については語れない。 他方、「キリスト存在」と呼ぶ存在の、地上での意義深い行為が無意味になることはない。実際、「キリスト存在」の、ゴルゴダの秘蹟(死に対する生の勝利)が、あらゆる出来事のなかで最重要な出来事であったのを見てきた。では、死に対する、この勝利は何処で遂行されたのか? その勝利は、高次の世界で行われたものなのか? 否、高次の世界ではない! というのも、鉱物、植物、動物で言及したように、これら低次の存在たちの、死は無意味で、語れないが、それは、これらの低次の存在たちの生の本体の、集合自我が存在するのは、感覚界を超えた高次の世界だからである。 そして、高次の存在たちについては、死はなく、ただ生の変容のメタモルフォーゼだけがある。我々人間が、死と呼んでいる、いわゆる生の区切り、終焉の締結が生じるのは、人間の自我だけである。そして、人間が死を経験できるのは、物質界だけである。 物質界に入って行かなかったら、人間は決して死を知らなかっただろう。というのも、物質界に入って行かない存在は、死を経験できないからである。物質界以外の他の世界に、死と呼べる出来事はなく、他の世界にあるのは、変容のメタモルフォーゼだけである。だから、「キリスト」が死を経験するには、物質界に降臨する他はなかった! 高次の存在の、キリストが、死を経験できるのは、物質界だけだからである。 このように、人間の歴史的進化において、高次の世界の現実が、マーヤの中で、驚くべき形で働くのを見ることができる。歴史的出来事に関して正しく思考するのなら、確かにその出来事は物質界で起こっているが、その源泉は精神界=霊界にある、のに気づくはずである。この事は、あらゆる歴史的な出来事についても同様である。ただし、1つの出来事を除けば! というのも、ゴルゴダの出来事は、物質界で生じたが、その出来事に対応するものが、高次の世界に存在しないからである。「キリスト」は、確かに高次の世界に属し、物質界に下って来た。 ゴルゴダ以外の他全ての歴史上の出来事の元型は、霊界にあるが、ゴルゴダの元型は、存在しない。ゴルゴダの秘儀は、物質界にしか死がなく、だから物質界でのみ生じ得た出来事だった。 人智学は、その証拠を提供する。例えば、次の三千年にわたって、ダマスカスにおける出来事の新しい例が多数見られるようになるだろう。この事に関してはしばしば言及してきたが、パウロがダマスカスで見たように、人間は、霊=アストラル界で、エーテル形姿の「キリスト」を見る能力を発達させるだろう。 高次の能力を通してキリストを知覚する、この経験は、次の三千年期を通して益々発達するが、20世紀から始まるだろう。近代(1900年前半)以降、この能力は徐々に現れ、次の三千年期を通して、多数の人々によって獲得される。 その能力により、多くの人々が、高次の世界に参入し、「キリスト」が現実(真実)の存在であり、生きている、のを知るようになる。多くの人々が、キリストを知るようになるが、それは「キリストが今も生きている」からである。 今、キリストが生きているだけでなく、パウロが、ダマスカスで熱に冒され、霊視できたように、キリストは死んで復活した、のを確信できるようになる。けれども、この経験の基礎を、高次の世界ではなく、物質界で見つけないといけない。 もし、今日、「キリスト」の発達が、いかにして成し遂げられるか、そして、共に、また、ある種の人間の能力も、いかに発展するか、を理解するなら、(人智学によって理解するなら)、人間が死の門を通って行くときにも、パウロのダマスカスでの出来事に与るのを妨げるものは何もない。何故なら、今や、死は、人間の死を通して、最初に光輝く「キリスト」の顕現として、自由の女神のイメージで現れるからである。 今日、肉体のなかに居ながら、この出来事に備える人たちは、死後に、そして次の新たな転生までの霊界での生活においても経験できる。しかし、その出来事に備えない人たち、今回の受肉で、ゴルゴダの奇跡を全く理解しない人たちは、死後も、また次の転生までの霊界での生活でも、「キリスト」について、また次の三千年を通して生じ続ける、キリストの救済について、素通りし、さまよえるユダヤ人のごとく、何も知れずに無知なままにとどまる。 そのようなユダヤ人は、再び受肉するまで待たなければならない。再び地上に戻るとき、更に、それに対する準備をしなければならない。ゴルゴダでの死とその死から生じた救い(それは「キリスト」が地上で生きるのに必要だった)を理解できるのは、肉体のなかに居る間だけだからである。 高次の生活にとって唯一重要な事実は、肉体のなかにあるうちに把握されなければならない。一旦、肉体のなかで経験として理解されたなら、それは、高次の世界で更に働き続け、益々育成される。しかし、それには、まず肉体のなかで経験として理解されなければならない。
2024年06月06日
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人はなぜ、地球から外に旅立とうとするのだろうか? 人はなぜ空を飛ぼうとするのか? ガガーリンは地球は青いと言ったが、その青い地球を自分の眼で確かめたいと思うのはなぜだろうか?そのような夢は、ドラえもんの世界では、どこでもドアと、タケコプターがあればできる話で、更にはタイムマシンで、時空を超えて、自分の現在の境遇や環境から脱け出し、いつでも旅に出られる。そのような漫画の世界が、令和の時代になって、ドラえもんの四次元ポケットから出された道具の半分くらいの夢が現実のものとなっている。ドラえもんですでに実現された「秘密の道具」35選 | CHANGE-MAKERS誰しも、空を飛ぶ夢をみたことがあるだろう。まるで、地球の上を人工衛星にでも乗って移動しているような夢である。いまでは、グーグルマップで、数年前の地球を空から旅行できるし、ドローンで空からの映像を見れる時代になっている。これらは、人間の未来像で、シュタイナーによれば、地球人が木星人になったときの、いわば仮想現実のヴァーチャルリアリティによる予行練習というのである。そして、現代の地上の地球人に先行しているのが、渡り鳥の集合自我の種族霊であるという。鳥の自我はまだ個々の鳥の肉体に宿っていないので、個々の鳥を、手足のようにして操り、渡り鳥にしているという。それはまるで、人間がシュミレーションゲームで、駒を動かすのと同じで、例えば、将棋の駒を動かすように、将来、木星人となった人間は、自分の肉体を、手足のように、地球上のどこでも動かすようになるという。既にそれはネット上で可能になっている。いずれは、肉体を霊化して世界中を瞬時に旅するようになるだろう。実際に、人間は睡眠中に行っているし、死後、物質界に別れをつげるときに、お世話になった人たちを巡るのも、この最後の旅行である。人智学では、人間は寝ている時に、肉体とエーテル体を残して、いわば霊魂の自我とアストラル体は、物質界から、霊界に出ていっているという。もし、シュタイナーのように霊眼があれば、あそこにエーテル体と肉体が横たわっていて、自我とアストラル体の自分は、ここにいるというのが、覚醒意識でわかるらしい。だから、ガガーリンのように、地球は青かったと言うように、自分の肉体は赤かったとでもいうかもしれない。あまりに遠出してしまうと、肉体が見つからずに、帰ってこれなくなるかもしれない。現代人は、物質界でしか個人的な覚醒意識をもてないので、ガガーリンのように、宇宙船にでも乗らないと、外から地球の姿をみれないが、霊眼を獲得すれば、睡眠中に、いつでも肉体を抜け出して、世界旅行ができ、地球を巡ることもできるようになるという。考えてみれば、輪廻転生も、その延長上にあるが、自分ではなく、自分が前世で損失を与えた他人になりかわって生まれてくる点が、大違いでもある。我々地球人が、地球で修行をする目的は、寝ている時に、覚醒意識の物質界から出て、空から、潜在意識で、地球を外観しながら、地球の成長を見守り、地球の一員として、地球と共に生命を育み、生活環境を日々新たに整えることで、同時にそれは、自分の成長ぶりを、交互に覚醒意識と潜在意識で確認し、俯瞰でみることでもあるらしい。つまり、地球人の課題は、地球と共に、人間に与えられた自我を日々新たに育てることで、自我をバランスよく育て、自我を霊我にまで高めると、地球人は、地球を空から見守るような木星人になれると、シュタイナーは預言している。地球人の自我は、宇宙人との交信の、叡智への窓口のアクセスカウントみたいなもので、いまはまだ物質界で、ヨチヨチ歩きをし始めた赤ん坊の、物質界で、あれこれの欲望を満たそうと必死になって、もがき苦しんでいる幼児期といえるかもしれない。ようやく個人的な自分という自我に目覚めた初期の段階にある。動物にはまだ、この人間の自我の、個人の意識はない。動物はまだ集団のなかの一員で、動物種の族長の手足でしかない。動物でも家畜のように、人間の自我に育てられた動物は、種から分離し、個体の自我をもつようになる。動物園の動物が野生動物とは異なる習性をもつようになるのは、種から独立した人間の自我が、その動物を育成したためである。先日、ロシアの軍事兵器として育てられたイルカが野生に還れずに、人間の環境団体に保護されているのを、BS番組でみたが、本来は、人間のエゴではなく、地球全体が共生平和のバランスの基に、あらゆる生物種が自由に独立して、進化発展していくのが、地球の理想であり、地球を楽園天国にするのが、地球人の役割で、宇宙から人類に与えられた使命であるともいえるだろう。地球の環境を通じて、地球人である人間には地球を理想の環境とすべく使命が、宇宙から与えられているのだが、残念ながら、その使命にすら気づかずに、エゴ丸出しで、個人的な野望を遂げるのに必死で、ヨチヨチ歩きし始めた赤ん坊が、幼児になって早熟にも、科学知識を学び、物欲に目覚めて、非行少年に走ろうとしている現状にあるのは、この国の愚かな政治家で明らかだろう。この国の詐欺師ばかりの政治家をみれば、将来が暗く、危ういことだけは、環境破壊からも、わかるだろう。天変地異や自然災害が頻繁に起こるのは、地球がバランスを失っている証拠で、遡って原因を調査すれば、それは人類の環境破壊に起因するのがわかるはずである。そのほとんどが、権力者などによるエゴにある。過去の戦争や、核兵器実験が、現代の環境破壊を生んでいるわけで、いま戦争破壊を起こすと、それは将来の天変地異や自然災害を起こすことにもつながっていくのである。だから権力者は現在の行動が将来にまで影響を及ぼすのを、未来永劫にまで罪を背負うのを、自覚しなくてはいけないわけなんである。環境破壊者は、輪廻転生でまた地球に還ってこれればいいが、それでも地球では最低の暮らしが待っているが、地球よりも酷い環境の星に送られて、一からやり直しさせられ、それは本人の希望でもあるが、過去に自分が仕出かした罪は、自分で拭うしかないわけで、というのも、どんな霊魂も、自らのなかから輝いていたい、という生命力への希望があるからである。エマニュエルスウェデンボルグによれば、どんな霊魂も、この世で暮らしを良くしたいと思うように、あの世の霊界でも、少しでも天国に近づきたい、と思うようである。それは欲望というよりも、本能というべき、人智学的宇宙進化学でいう、「憧れ」といえるかもしれない。エマヌエル・スヴェーデンボリ - Wikipediaエマニュエル・スウェデンボルグの「霊界」3 - 有限会社中央アート出版社 (chuoart.co.jp)スウェデンボルグの霊界を読めば、悪という存在がよくわかる。その特徴をわかりやすくいえば、視野が狭く、「自分さえよければいい」という我儘な観点の持ち主なのがわかる。というのも、自分が常に正しく、善だと思い込んでいるからで、エゴ丸出しの存在といえるだろう。もっとも、この特徴は、この国の政治家でも明らかだが。つまり、悪は視野が狭いために、自分を超えた存在を知る余裕もなく、逆にいえば、自分以外の存在に怯えて暮らすしかないわけで、そのために自ら孤立化し、地獄に堕ちていく。だから、視野を広くするためには、過去の自分を抜け出す必要があり、だから、悪には自分への死が必要なわけである。自分を外側から見る視点が必要なので、自分を殺さないといけないので、そのような悪人には、死後、「自分は正しい」と思い込んでいる偽善者が現れるので、禅では、「釈迦に会えば、釈迦を殺せ」、と言われる由縁なんである。どんな人にもエゴがあり、死後最初に出逢うのは、このエゴの存在で、偽善に着飾った自分のなかの悪であるという。表立って、自分には物欲がないという人でも、本心には、憧れがあり、その隠された虚栄心や名誉欲から、美女や美男と寝てみたいなどと思っているはずで、死後に、それが露わになってみて、はじめてわかるわけなんである。そのような人間の裏表について、スウェデンボルグの霊界は面白く書かれ、特に教訓的なのは、宗教界のリーダーたちが、地獄に堕ちている様子が書かれている点である。自分が正しいと思わせている存在が悪魔で、そもそも、叡智には果てがなく、正しいと思った途端に、正しくなくなるからである。我々地球人は、視野をより広げることしかできないので、正しいと思った時点で、視野が固定されてしまい、その固定された視野に騙されてしまうからである。つまり、時間を固定してしまい、成長を止めてしまうのである。この時間感覚の成長を止めるのを再び回復するために、人間の自我には死が必要で、更なる輪廻転生による時間感覚の変更が必要なのだろう。令和の地球人にとっての課題が、この固定した時間の概念を遡る事にある。少なくとも、人類に人種ができる前の、人種や民族や文化を超えて、それが無かった時の時代にまで遡る必要があり、それが故郷喪失者と呼ばれる状態である。人智学の時間の概念によれば、時間は生きている存在そのもので、時間霊という名の時代霊のアルヒャイという人格霊のことで、権天使である。だから、時間とは、人間には不可視の存在で、霊視を獲得しないと感知できない存在で、それも、権天使は、人間よりも3つも位階が上位の存在なので、時間を実際に感じるには、アートマと呼ばれる肉体を霊化した器官まで高め進化する必要がある。この国の古来の、陰陽師が、霊能力で、時代霊の権天使と交信し、暦つくりを担当していたのは、割と有名な話かもしれない。権天使と交信できるまでは、各自が外的な物質環境から、時間感覚を、大体は太陽光による反射などの陰影から間接的に身に着けているわけで、睡眠中にその修正がなされるわけなんだろう。物質界の歴史でいえば、ニュートンが、いまでいう時間をデュレーションと呼んで、本来は、不可視な時間を、物質界での物体の運動から、目にみえる形で示したのが、人間の進化に対する功績というべきかもしれない。そして、アインシュタインにより、より詳細に、光の特性の光速度により、相対的な、個別の内面的な時間の統合概念が生まれ、物理法則は、慣性系全てで保存するという物証を得たが、量子力学の観測問題として残っている。一般相対論と、量子力学の整合性がとれないのは、どちらも生命問題を度外視している時間の概念のせいである。物理法則の観測者が人間という生命体であるのを考慮に入れていない。絶対時間と絶対空間 - Wikipedia人間一人一人の時間の感覚が異なるように、人生も異なっているわけで、勿論、物質界で共通の目的を遂行するには、各自の運動もある程度、共生分担しないといけないわけで、各自の時間感覚の調和や調整が必要なのはいうまでもないが、本来の時間の意味は、人類全体の進化に必要な地球の環境づくりにあり、それは時代霊が指導し、指揮するものなので、人類の手にはなく、いかに自主的に自由に応じるかである。現に、時代の価値観にそぐわない老害は改めないと、捨て去られていくだけなんである。物理学が説く時間は死んでいるので、個人の物質的な死による再生が必要だが、実際の時間は、時代霊と共に、生きているのである。ニュートン力学の創始者とされたニュートンは、恐らく、時代霊のことをデュレーションと呼んでいたようにみえる。ウイキで、該当の部分を以下に引用する。 ☆ ☆ ☆ニュートンによれば、絶対時間と絶対空間はそれぞれ何物にも依存しない客観的実在の一部である。絶対的な・真の・数理的な時間とは、外部と一切かかわりなく、おのずとその本質に基づいて一律に流れていくものである。これをデュレーション(英: duration)という別名で呼ぶ。相対的な・見かけ上の・日常的な時間とは、運動の観察を通じて得られる、デュレーションの実用的かつ外的な物差し(正確であれ、不正確であれ)である。一般に用いられているのは真の時間ではなくこちらである。 ... ☆ ☆ ☆ニュートンの「何物にも依存しない客観的実在」というのは、おそらく、時代霊のことで、時代霊の一部を、デュレーションと呼び、これの相対的な日常の感覚を、時間としているわけなんである。だから、アインシュタインは、この相対的な日常の感覚を、つまり物質界での時間感覚を、光速度で定義づけたことになるだろう。しかし、それ以上は、物質界の可視化世界では言及できないので、ボーアの原子模型に対して、「神はサイコロを振り給わず」といって、確率統計の量子力学では、時間に言及不可と説いたわけなんである。ボーアの原子模型 - Wikipediaニュートンが説いた絶対時間や絶対空間の存在の、時代霊アルヒャイの存在を直接に感知するには、現在の地球人である人間が、次の木星人となり、更にその次の金星人となるまで進化する必要があるのを、人智学は解き明かしている。そして、現代は、ミカエルの時代と解き明かし、ミカエルの時代が終わると、2400年頃に、次の時代霊となる、かつて紀元前200年から、紀元150年頃まで君臨していたオリフィエルに、更なる人類の進化のために、時代が引き継がれると預言している。そのとき、同時に、悪魔アーリマンの受肉が、白人種らしいが、現実的になるとも、預言している。オルフィエルの時代までは、まだ数百年もあるが、人智学によれば、時間は生きた存在で、いわば時代感覚に似たモノといえるだろう。昭和には普通に行われてきたことが、令和にはモラルハザードで、パワハラで、ブラックに感じられるのも、それだけ人類の叡智が進化し、視野が拡がっている事でもある。つまり、人類に叡智をもたらし、この時代の流れを司っているのが、時代霊の存在で、人類進化の担い手の役割なんである。人智学では、時間は時間霊の持ち回りで統括されていて、だから、時間は周期みたいに、循環するから、歴史は繰り返す、とローマの歴史家クルチュウス=ルーフスにより、格言にまでなっている。というのも、人類は、繰り返される歴史を乗り越えて、人種や、民族や、文化から、自らを故郷喪失者となって、解放しないといけないからである。それはいわば、ハードルを飛び越える障害競走といえるかもしれない。人種や民族や文化は、人類がそれを飛び越えて、進化するために必要な障害でハードルなのである。人種や民族や文化をなくすために、ある特定の人種や民族や文化に、人間は産まれてくるわけなんである。それにいつまでも拘っていると、執着し、出家できずにいると、さまよえるユダヤ人になってしまう。永遠に自分は選民だと思いあがる地獄の冥界の王になってしまう。現に悪魔の存在が、地球紀の前の月紀を落第した霊魂たちなんである。ハードルを乗り越えることができずに、埋没してしまった存在たちなんである。スウェデンボルグが霊界でみた地獄に堕ちている宗教界のリーダーたちである。そのような地獄に堕ちるリーダーとならないために、ミカエルの時代に必要な時間の概念というべき心得を以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆ミカエルの時代~ルドルフ・シュタイナー | ドームハウス日記 partⅡ (lifedesignlaboratory.com)『どんなに美しく、価値あるものも新しいものを用意するために死んで行くというのが、ミカエルの季節の気分なのである。そのようにして空きができた空間に未来的なものが入ってくることができる。逆に過去の栄光、美しい伝統を頑なに守ろうとする態度の中に人を惑わせる龍が忍び込む。過去の財宝を捨てることができない者は、ミカエル的な道を行くことは出来ない、というのである。』 (『いま、シュタイナーの民族論をどう読むか?』より) ☆ ☆ ☆いま巷には老害と呼ばれる晩節を穢す人が跋扈しているが、それはミカエルの時代に背く態度なのがわかる。過去の財宝を捨てることができない人は、次の進化段階に進めないわけなんである。それは醜悪な裏金議員をみても明らかである。ミカエルの権天使の特徴というか、権力とは、過去の栄光を捨てる能力なのである。だから、現代の権力とは、権力を捨てる能力のことなんである。仏教的にいえば、喜捨にあたるだろう。権力に居座るのはルシファーらの堕天使で地獄に堕ちるわけである。武道の、居つくな、である。喜捨 - Wikipedia『柔術のひみつ』第一回「居つく」 - 柔術のひみつ (fc2.com)では、次のオルフィエルとはどういう特徴の権天使なのか、実は、過去に、このブログでも転載紹介したので、再度紹介する。来るべきオリフィエルの時代-天使長(時代霊)交代のとき | シュタイナーから読み解く神秘学入門 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)来るべきオリフィエルの時代-三千年紀初頭(AD2000年)のアーリマンの受肉 | シュタイナーから読み解く神秘学入門 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)オリフィエルは、過去においてリーダーシップを発揮したことがある。近い昔でいえば、それはキリストが、この地上に現れた時のことである。その時代は、最悪の堕落と頽廃が、この地上の全てを支配した時代であった。その時、人類を揺さぶり、進化させるために、恐るべき犠牲が支払われた。オリフィエルは、怒りの大天使と呼ばれてきた。オリフィエルは、人類を強引に浄化させるのである。 キリストが神殿で両替商を鞭打つ話は、深い意味を持っている。人類の歴史における最も暗いこの時代に、キリストは人類を救済するために現れた。オリフィエルの統治は(AD)104年後に終わり、アナエルの統治に取って代わられた。それからはザカリエル、次にラファエルの統治が続いた。ラファエルは、ルネッサンスの時代を統治していた。 16世紀から1879年までは、ガブリエルが統治した。それからミカエルがリーダーシップを引き受けた。2400年頃オリフィエルの順番が再びやってくる。 この文脈から考察すると、物質界を崩壊に向かわせ、その物質的な外見的なベールを取り去って、中身の内面的なエーテル界を露わにさせ、恐らく、エーテル体で活動するキリストの存在を、世に示す存在に思われる。ミカエルは、人間に物欲を放棄させることで、時代を司るが、オルフィエルは、かつてのローマ帝国が滅んだように、物質全てを崩壊させて、無に帰す事で、人間の底にある、自分で自分を救う本性に目覚めさせるように、キリストと共に、人間を導いていくのだろう。来るべきオルフィエルの時代の準備のために、ミカエルの時代に物質を無に帰するための人間の自我の死を知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 死の意味を、別の面からアプローチする。例えば、周囲の、生命とは別領域の存在、例えば、「鉱物は死ぬか?」考えてみる。「鉱物の死」は、神秘学者にもあり得ない。というのも、例えば、「切り取られた爪が死ぬ」と言うのと同じだからである。爪は、単独で生きているわけではない。爪は身体の一部で、爪を切れば、身体から切り離され、生命から引き離される。生命が死ぬのは、本体が死ぬときだけである。同じ意味で、人智学でも、鉱物は死なない。というのも、鉱物は、爪が、身体という生命体の一部であるように、地球という大きな生命体の一部に過ぎないからである。鉱物が破壊され、死んだように見えても、それは、爪が切り取られ、身体という生命体から切り離されたように、大いなる生命体から切り離されただけに過ぎない。鉱物の破壊は死ではない。というのも、鉱物は単独で生きているわけではなく、むしろ、鉱物を構成単位とする、地球という、より大きな生命体のなかに生きているからである。 また、植物の本性について、以前の講義を思い出せば、植物もまた独立の存在でないのがわかるだろう。植物もまた地球生命体の構成要素だが、植物は、鉱物とはまた違う生命体の一部となっている。人智学的観点から言えば、個々の植物の生命に言及する意味はなく、むしろ、地球生命体について言及すべきだが、それは、植物が、この地球生命体の全面にわたり一部になっているからである。植物の死についても、指の爪を切るのと似ている。「指の爪が死んだ」とは言えない。植物も同様である。何故なら、植物は、地球全体の、より大きな生命体に属しているからである。地球は1つの生命体である。それは春になると眠りにつき、地球のエーテル体でもある植物を、太陽に向けて送り出す。秋には、目覚めて、エーテル体である植物を、地球の自我の精神のなかに回収するが、その行為は、植物の種子を、地球の自我の存在内に受容することで遂行される。植物を個の生命体として見るのは無意味である。個々の植物が枯れても、総体としての地球生命体は死なないからである。同様に、人間の髪が白くなっても、死にはしない。白い髪を黒くできなくても、死ぬわけではない。勿論、人間の髪は、植物とは異なるが、植物と地球の関係は、髪と人間の関係に喩えられる。植物が枯れても、地球が死ぬわけではない。枯れた植物は、地表だけの生命過程である。植物は枯れても、植物が死ぬわけではない。 動物もまた、人間の死と同じ意味で、死ぬとは言えない。というのも、個々の動物は、生命の真の意味で独立しておらず、動物の本体の集合魂が、超感覚的世界に存在するからである。つまり、動物の真の存在は、アストラル空間上において、集合魂として存在している。個々の動物は、その集合魂から濃縮され出てくる。ある個の動物が死ぬと、集合魂から切り離され、また別個の動物に取って代わる。 だから、鉱物、植物、動物界での、死にみえるのは、見かけ上のもので、死のニセモノに過ぎない。現実には、人間だけが死ぬ。それは、人間が、個別性を発達(進化)させ、肉体のなかに、自我が下降するまでになっているからである。人間は、肉体のなかで、地上で独立した存在を担うことで、現実(真実)に生きている。だから、死が意味をもつのは、地上に独立して生きる人間だけである。 この死の真相を把握すれば、「人間だけが実際に死を経験できる」と言える。
2024年06月04日
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巷では、なんでもアニメにしてしまうアニメブームにより、日本刀も擬人化され、アニメになっている流れから、オタク市場狙いの金儲けの商業主義のアイドル戦略と絡みあい、一時期、歴女なる言葉が流行り、日本人なのだから、日本史ぐらい知っておくべきと、インチキ大河ドラマの視聴率とのタイアップで、歴史オタクが通ぶりを発揮しているが、肝心な日本史はインチキ塗れであるのに、気づいていないから、仏造って魂入れず、と言わざるを得ない。例えば、徳川家康の有名な遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」は、家康の遺訓ではなく、後の創作である。edu-konan.jp/ishibe-jh/ikiruhint/tokugawa.html八切史観では、この遺訓は、恐らく勝海舟の創作ではないか、と推測している。また家康の美談と共に、江戸時代が、太平天国のように語られているが、これも家康を神格化するための創作である。自分も八切史観に出逢う前までは、すっかり司馬史観に洗脳され、歴史上の人物で人気の、坂本龍馬などを実在の人物と信じ切っていた。勿論、龍馬のモデルとなる人物は実在していたようだが、司馬氏の著書にもあるように、直柔という名で、変名とされる、才谷梅太郎が、どうやら本名であるようだ。残っている史料の信憑性も疑わしいのは、八切史観で詳しく紹介されていて、一つの種本から写本され、嘘が罷り通るからである。例えば、西郷の写真が残っていないのは、明治政府からの下野に際して、写真から身元が割れ、生命を狙われないために、手当たり次第に燃やし消滅させたようである。要人となる前の写真が残っていたら、身元がバレるからである。というのも、当時の志士たちのほとんどが被差別部落民出身なので、身元を隠して隠密行動をするわけで、また表向きには、日本に差別史があっては、諸外国との外交に支障をきたすから、当時の明治政府の見栄のために、維新の元勲たちは日本史の都合で身元がバレては困るので改名し、だから、西郷南洲なども、菊池源吾が本名で、銅像も、実在の人物とは異なるわけなんである。この改名は日韓併合にも使われたようである。この改名は、ユダヤ人が米国民になるときにも使われていたから、昔からあったようだ。フリーメーソン経由で伝わったのかもしれない。もっともこの国にマッカーサーとしてきた唐人の郭無双が、藤原鎌足という改名をしている時点で、白村江の戦いから既にあったわけだが。つい最近まで、BBCが問題にしなければ、ジャニーズ問題も露わにならなかったわけで、いまでいうコンプラと同じで、ブラック企業の奴隷商売をしていたら、外国に対して、恰好がつかないわけなんである。もっとも、当時の日本だけが奴隷国家でないのは、宣教師による人身売買の奴隷貿易でも明らかで、そのための海外への植民地政策でもあったわけだが、だから、革命による王政打倒の背景には、奴隷解放運動が底力となっているのは、古今東西どの国でも同じ道理である。もっとも、その裏事情は英国もフリーメーソンを通じて、アーネストサトウなどにも知られていて、有名なフルベッキ写真などは、その断片を物語ってもいる。歴史家は、フルベッキ写真はニセモノと断定するが、歴史史料についてはほとんど疑いの目を持たないのも不思議である。サインの偽造は現代でも頻繁にあり、つい最近でも、投資詐欺広告が問題になったぐらいである。確かに現代的な詐欺技術を使ったものはないだろうが、その源流となる詐欺技術はあっただろう。結局は、歴史的経緯の全体像を見渡さないとダメなんである。フルベッキ群像写真 - Wikipediaだから、八切史観の説くように、戦国時代も、幕末の倒幕運動も、権力者により、虐げられてきた部落解放運動と考えたほうが、日本史の謎や疑問がすっかりくっきりお見通しよく解き明かされてしまうわけなんである。現代だって、裏金議員が悪いのに、選挙利権で選民された上級国民のためか、下級国民ばかりが割を食い、挙句の果てには、増税で虐げられているわけで、貧乏人は麦を食え、といった池田勇人の差別発言の如く、女性は産む機械やら、うむのが女性の差別発言の連鎖が、令和の現代まで続いているわけなんである。そこで、令和の現状の差別発言を遡って、八切史観から解き明かすと、日本列島に、人種差別を持ち込んで、選民思想で、互いを差別しあってきた、被差別民史が浮かび上がるわけなんである。例えば、八切史観では、いまの定説となっている日本史のインチキを解き明かしているので、以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆TwitLonger — When you talk too much for Twitter だから日本の古代史は、縄文時代が武力で弥生時代に変えられた七世紀以前を調べてゆかねばならない。が日本書紀や古事記などは藤原王朝になってからのもので、しかも江戸時代に完成というか出来たものだが、この徳川時代史というのが明治新政府が解明をぜんぜんせずに、華族会長に徳川公爵がなり史学会を統轄したので、徳川家の会社の社史みたいなものがその侭で確定史料。家康は世良田の二郎三郎だったことも、死人に口なしの侭で押し通されている。 日本では歴史屋は真実追求よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいゆえでである。 部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ、被差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広められたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」、それとこの「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり、一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すゑの「橋のない川」である。 せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。 「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人」を作ってきたのである。「天の古代史研究」[八切史の著作]さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄剣部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して奴隷にし差別歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。 が売れて広まってしまったこれらの本のため、大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の3800人が押し寄せ、村田銃をうちかけ火をつけて乱入し、片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。 というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名ととった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝されていた土地。特殊部落とはいえ長吏岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンへ行っていた。だが、当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康は松平元康の改名せしものなり」という故山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布(「松平記」として日本シェル出版4800円)。 そこで、周辺近郊の者らが、世良田の徳川にはこれまで冥加米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地元の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。 そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集まってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追い払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑 徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。 しかし当時の学士会は華族の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれ華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理を立て、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、遡った奥付年月にした「松平記」を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。 なにしろ、彼ら明治史学会の人々は、みな口を揃えて、「明治史学は南朝方の顕彰にある」と称したが、長慶天皇を明白にした事と楠木正成の銅像をたてたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された南朝の末孫は、その侭で解明できずだった。脇屋・湯浅・新田の地名が特殊部落にどこも多い。 さて明治までに刊行されたのは足利時代の「夷朗詠集」からはじまって「傀儡記」、遊行衆説教師達の「鉢屋由来記」から「賎者考」「見た京物語」「京四条極楽院空也堂文書」「菅茶山備後史料」「塩尻百巻」、そして明治以降となると「日本奴隷史」に私の「野史辞典」「庶民日本史辞典」、菊池山哉の「賎とされし先住民族‥‥日本部落史料」「長吏部落→日本の特殊部落」だけが主らしい。 しかし、国定教科書編集委員だった喜田貞吉だけが学会では評価され、部落者の著としては二十歳前後の若さで柳瀬勁介が書き残した処の「特殊部落一千年史」や「エタ及び非人・社会外の人」は、明治時代までは口伝えに残っていたユーカラの殆どを書かせ、その中で皇道史観に合致するものだけを己が名で発表し、アイヌ研究の権威となった金田一京助に対し、アイヌの遺産を返すよう、その伜の金田一春彦に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し、三部作を出しているポン・フチである。 はじめ東大出の教授の肩書きの喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊池山哉は、いくら草稿や写真を送っても自分の名は全く出してくれぬからと、東京史談会を作ったのである。 さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが、昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で、戦国時代の村山七党の流れを汲む武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召し抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。<野史辞典>に、三河[出身の]の旗本は二名とはそれゆえである。 今は一向一揆とされているが、三河人は他所者の世良田の二郎三郎こと家康を入れまいと国中で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、この時裏切って味方したのは彼ら二人で恩賞の為である。他の三河人は商人になったから、「三河屋いなりに犬のくそ」とまでいわれる。 岡崎城も御三家どころか、僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左が書いたものとは思えぬ「三河物語」や、贋系図作りの沢田源内の「後三河風土記」が広まったのも、三河旗本が生国尾張三河と系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。 さて部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。旗本になった連中は後から採用され三十人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか、「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や大製陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。 明治新政府が徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と、駿河七十万石へ移封したのは、家康が徳川(得川村、新田荘徳川郷とも)の出だが浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを、薩長では知っていたからである。そこで勝海舟ら旧幕臣が、「人の一生は重き荷を背負いて‥‥」といった家康遺訓を作っては各社寺へ奉納し、家康神話を作り上げ、徳川家達を公爵にし華族会長にまでした。 それを尾張徳川家で、旧幕臣松田の贋作と暴露。尾張は宗春の時に、松平蔵人元康と権現さまは別人で、両者が戦った古戦場が、石が瀬その他に現存すると、章善院目録の中に発表。宗春は素行不良とされ閉門後殺され、[尾張徳川家の]家康の血統は断絶。その後は、徳川吉宗の孫の田安や一橋から交互に、尾張藩主に入っていたのへの怨みであろう。 日本人の九割を占める庶民とは、江戸期亨保時代に部落をば脱出し、寺人別を銀や銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱いで人非人して非人と誤る。破戒僧とか心中し損ないを非人頭へ生涯奴隷として、着のみ着た侭で払い下げ。ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を映画でも見ての連想らしい。彼らの人口が増加というが、明治四年の壬申戸籍に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。 明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。 が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。 国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。 江戸時代は大蔵省が国民皆税で片っ端から搾りとるような時代はかつてなかったから、戸籍は坊さんの私有財産を守る為の寺人別帳が主であり、町人別は銭さえ包めばすぐにも認めたから、紀州湯浅の居附地で、死なせてもよい奴隷水夫とし荒天の海へ出す蜜柑船にのせられた文左衛門らだけが沈没しなかったため、船底に繋がれていた者共は命拾い。漂着した相州の浜で蜜柑を売り江戸へ出ると、同じ山者ゆえ各地の材木を後払いで集めたのが大火で大儲け。銭を出し町人別や寺人別も購い、ついでに限定収容で残っている湯浅の者もみな呼び寄せたから、「東京都江東区史」には、「別所文左エ門」の名前で、はっきり今も残っているのである[紀国屋文左衛門の事か]。 こうした複合民族の分類がまったく判らずじまいで、七世紀の良賎の大宝律令の侭で解明しようとするから全く学校歴史は、「本当の事を言えば身も蓋もない」こととなってしまう。 彼ら歴史家は。崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の「八つ」との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、指が八本との妄説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに、喜田貞吉らは気づかず、「特殊部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。 三韓征伐はまったく逆で、馬韓弁韓辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦663年に世変わりした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送り込み徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのがゲットーの居附部落と知らぬらしい。 続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ、尽きると自滅させた。日本後紀や続日本紀に記録されている。 「八つ」はマレーシア語の黒潮渡来族ゆえ農耕漁業製塩をなし、食料増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王(きみ)に率いられ、中大兄の韓国系に食料確保の政策上から子を生まされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが、終りには岡山のゲットーへ収容、奴可郡の地名を今も残す。 「四つ」は崇神御孫景行帝が「八つ」の八坂姫に生ませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。 彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山がつ餌取りと差別とされ、特殊部落民とされてゆく。 恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が、11世紀は青眼の賊船が次々と来襲。山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛かぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語で「イ」と呼ぶから「刀イ(伊)の乱」。この時、頼光四天王として坂田金時らも現れるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ、従五位止りで昇殿は不許。 ようやく文治革命で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条政子の世になると京を征伐し、尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変わりして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に、足利創業時に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。 「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。 また、イザナギ・イザナミ二神が天の浮橋で互いにみそめられたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多と呼ぶのも語源。 また、騎馬民族の蘇我の末裔が「吾こそミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族の「セン」を「千」に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押し込め居附地を呼ぶのとこれまた同じである。 俗にいう処の非人とは騎馬民族の末裔。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる「八つ」の民が働くのに、彼ら「四つ」の遊牧民族は違うからとの命令で藤原体制に、北方に追われキタともいう。「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、「八つ」と「四つ」を合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり、人や獣を扱うのが原住系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。 「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収穫物にのみ対しではなく土地を私有化にし地租課税。よって河岸や山頂を当てがわれた部落は納税のために貧窮化した。 八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上がって住み着いたのが「八つ」の民。今もイランのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。 裏日本へベーリング寒流で入ってきたのが騎馬民族で、「四つ」とよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。 治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制すで、「八つ」と「四つ」は交互に、互いに監視し牽制しあうように「四つ」の弾左ヱ門家の下に、「八つ」の車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので、共に仲良くしあって、世直しをと煽動された。 その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、「八つ」の大井川の赤フン[褌]の川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン[褌]を振りつつ、向こうでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。 伊勢神宮を北条政子と思い込んでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭が良い人が昔もいたものであると感心させられる。 ----己が家系のルーツ調べに学校歴史では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。人情として美化したがるのなら別だが、もし真実をと想うなら道標は八切史観だけだろう。 日本では古代史を無視し、みんな昔噺にしてしまう。そして勿体をつけて「神話」とまでする。「古事記」にしても、本居宣長によって「古事記伝」として今日のものができる迄は、つまり江戸時代の大岡忠相が死ぬ迄は「骨事記」とか、ただ「こじき」と、ひとつかみの豆を投げて貰って拾って喰って退散してゆく哀れな乞食みたいなハングリーな存在。大安万侶が書かされたものは、八世紀初頭の権力者の優越感を満足させるためのもので、それを日本原住民の末孫として明和年間から寛政十年までかかって、今日の立派な古事記伝にしあげたのは本居宣長の労作なりといえよう。なにしろ隠忍[鬼(当時の被差別原住民を、唐の舶来系の権力者は、オニと呼んでいたようである)]とされていた原住民は、野や山に自生するものだけが自由にしてよいとされ、木を切って細工したりする大工のような加工業は舶来系の縄張りとされていたのである。 つまり幕末までは、筆は竹、穂は狸の毛だから、もの書きや版行の出版業は原住民限定職。北条政子が夫の頼朝を、馬から落して即死として始末してから、梶原源太を下手人と[して]殺して、次々と田、三浦と源氏の主だった連中を処分。郎党や女子供をゲットーへ入れたものの、叛乱防止のために、身分保証みたいな限定職を定めたのだが、発布されたとする治承四年[1180]の年号は石橋山で敗れた頼朝を、政子が平氏の本関地千葉へ逃した年。頼朝御判二十四種は、まさか逃げる途中に細かい布令など出す筈もない。それなのに発表年にされ伝わっている。 さて、今日の新聞が土地など賜ってオカミ御用となりだした明治二十に年迄は、「明治密偵史」の宮武外骨の著に詳しい[日本シェル出版より復刻版が出ていた]。それだから東京新聞の「大波小波」によると、中国では台湾の陳瞬臣より、中国本土の血の濃い司馬遼太郎のほうが人気があると報道されているのも、古代史の権力者は占領軍の中国人だった隠然とした匿された歴史があるからして、血は水よりも濃しで、またむべなるからぬ話。 なにしろ日本とよぶ国は、西暦663年に白村江の戦いでクダラ系の奈良朝を倒し九州より御所入りし、<天の古代史研究>[日本シェル出版]にも、「藤原鎌足」と郭は日本名をつけ、則天文字つまり漢字の強制使用と(北東の風が吹かなくては、日本から中国へは航行できぬから、冬至=唐至の当て字もあるが、文部省学校教育で、イアルサンスウから算数とするのは今でもその侭)、築城用巨石の全国供出令を発布した。 ところが俄に今になって、侵略を進出と教科書にのせるのは怪しからんと、「むちゃくちゃな出鱈目歴史[では]ないか」と、訂正するよう抗議されている可哀想な日本歴史は、この時点では進駐軍司令官郭将軍によって高安城を築き金田城を構築。当時は今のアフガニスタンなみの勇敢な縄文日本人ゲリラから、御国を離れて何百里と昔は彼らが歌っていたから、万一の時は冬までは立てこもらねばならぬから、郭ムソウ将軍が降参した日本原住民を使役し築かせたのである。なにに日本では文部省が金田城を昨年たしかに国の重要文化財に指定している。 昔は沢田美喜みたいな豪い人がいなかった。それゆえ、郭将軍部下兵四千軍属のチャン輩(バラ)一万二千が単身で来ていたから、女とみれば片っ端から種付け、一人で九人くらいに孕ませて廻ったかて、原住系の日本人女はカイト、界戸、皆戸、海渡いろんな当て字を今ではつけられる個所で、エリザベス・サンダースホームがなかったから堪え忍んで育てあげた。 わが世とぞと想うと詠じた足利時代の義満でさえ、臣源道義と大陸へは絶対服従。日本が被占領国の中国と対等になれたのは秀吉の対明交戦で初めて解放されたと言ってもよかろう。 その国の立場というものがそれぞれある。侵入や進攻の字句で今になって文句を言うなら、七世紀から産まされっぱなしで、テレビの「ルーツ」で黒人女が白人の旦那に産まされた子でも、奴隷として売買されるみたいな有様で、嫡民ならぬ庶民とされ、賎民の奴隷扱いされていた吾々の先祖のことも、古代史を徹底的に昔の事と言わず検討してから、よく考えてほしい。「日帝が三十八年にわたって勝手気侭に振舞った怪しからん」と解放記念日には、テレビでも放映して抗議するが、郭を改名した藤原鎌足が渡来する迄の日本列島は、彼らの先祖のナラ王朝。 馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足まで、彼らが日本原住民に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数の苛酷さであった。 中国の方も郭将軍の部隊が御所を占領した西暦664年五月十七日からは、藤原王朝をたて、南京の大虐殺以上のことを、かためて捕虜を生き埋め踏んづける根蓋(ねぶた)までやってくれている。 しかし藤原鎌足の子孫が作った勧学院日本書紀を金科玉条として、古代史を真剣に勉強し、確り取り組んでいないものだから、日本の歴史屋は哀れ何も言い返しが出来ないのである。 古代史さえよく研究していたら、逆手にとって反対にこちらが被害者の立場から教科書抗議に対せるのだが、まったく不勉強すぎて悲しいことにそれすらも全然できないのである。 といって、まぁ過ぎ去った過去のことを言いだしたら、それこそ切りがないかも知れぬ。 それを良い事に、被害者の立場をとる向こうでは、日本人乗車拒否のタクシーまで出現しているという。家永裁判では民主主義でなく、又しても皇国史観の昔へ逆戻りさせた判決を、せっかく勝ちとったばかりの文部省も、歴史屋の不勉強さで何ともならず、まこと気の毒である。 かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、金大中の御先祖さま[これは単に百済系をさす意味]が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」とされ、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくらいに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。 新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきて勢力争いをした。だから日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたままなのもその例証である。 恐れ多くも桓武帝のごときは、「桓武焚書」と今ではよばれるごとく、前からの日本書紀はことごとく集めて焼き、オンモン日本書記まで作成しなさったくらいに、好きなようになされ遊ばした。 韓国の女性の腹から生れた徳川綱吉は、千代田城を朝廷と呼ばせ閣老を公家とし、王政をしき、よって東下りの公卿は大納言や侍従でも退官して無位無冠で江戸伝奏屋敷へ入り、京へ戻ると前大納言や前侍従がまた復官したのは<赤穂義人纂書>[日本シェル出版]に明記されていて証拠も残っている。 それなのに日本歴史は、好意的に馬韓渡来の方に、神功皇后の御名をつけマタニティードレスの女将とするくらい、本心では韓国に敬意を失っていない。なにしろ、日本の歴史教科書は単なる暗記もので、ドイツ人リース門下作ゆえ責めても、不勉強の歴史屋が悪いのだから仕方がない。 もし日本古代史が乳離れするみたいに記紀離れして、藤原王朝が作ったのから脱却していたら良かった。半世紀もたたぬ最近のことを突き廻す被害者顔の近隣諸国に、せめて五世紀までさかのぼって日本の歴史家が解明していたならば、薮を突っついて蛇を出すような、しっぺ返しができたものを、従来の学校教育に甘んじ、学者だと自認している連中たちは何も知らぬ。 無智ということは罪悪である。いくらナラ朝時代は韓国製の日本史、七世紀からはトウのトウゲン[桃源=藤原]王朝史だと判らぬのか知らぬのか、何も反対意見を出せぬままの現状ゆえ、この侭では、「ご無理ごもっともです」と、教科書検定審議会の答申をうけ、抗議されるままに訂正して、「おっしゃるように、なおしました」という事になるのだろう。世界中どこの国が、他国より干渉されて、その学校歴史を改訂するといった例が、はたして悲しい事だがあったであろうか。「国辱」というものがあるのなら、これ以上の屈辱はないだろう。 長州より招かれて御抱え教師となり、現代日本史の開祖となったアドルフ・リースが、先進国にならって日本でも、「博士号設定」となった際に、彼は歴史屋なのに理学博士や医学博士は認めたけれど、独・英・仏・伊には歴史学博士の称号はあるが、この国にては、その設定は無理なり。文字を弁じうる程度なれば、文学博士にて間に合わすべきである」と、後にベルン陸大の歴史教授となって、「ゲルマン民族優秀説」を発表しナチスに利用させたリース歴史学博士は、日本では開明学校が東京大学になると、「史学会雑誌」を刊行させはしたが、歴史学博士号は許さずに帰国した。 産業革命以来でも、主だった発明や発見は、みな専門分野の者ではなくて素人だったという。 現在の天気予報でも、気象衛星まで使っているオカミよりも民間のお天気おじさんの方が確率がはるかに高いみたいに、天文学でも新星を発見するのは日本でも学者と自認する人たちより、素人で見つけている例の方が多い。歴史の分野でも、やはり保守的な日本書紀派より、畑違いの人による解明の方が、昇進とか教科書作成といった夢をもたぬだけに、きわめて大胆である。 私にしても、父方と母方の宗旨違いで、亡兄の入籍に数年かかり、ようやく届出ができた時には、当人は小児急性肺炎で天野病院で亡くなっていたので、またもめるのは厄介だからと亡兄の戸籍をその侭で引き継がされ、名も生年月日も亡兄のもので、私には本当の名も生れた年も知らされていない、さながら透明人間みたいな存在ゆえ、たえずそれに悩み自殺未遂も何度もして、「真実とは、はたして実存するものか」と、過去の具象としての歴史を、まことに本当なのかと生まれてきた時よりの挫折感を、なんとかして打破しようとして取り組んできてしまった‥‥ 初めは当時の日本へきていたイエズス派資料という裏付けのある戦国時代から検討して入ってゆき、「信長殺しは明智光秀」とするのも、光秀のライバルだった秀吉、本当の黒幕は家康だが、仏敵と信長光秀をみたて負けた石山本願寺の一向宗の今の本願寺派が説教節できめつけてしまって、日本全国の居付き部落に説教僧を送り込み、面白おかしく説教にして定説化しただけと判りもした。 美化というか天下一の豪傑とされる山中鹿之助も、本当は殺人鬼みたいに毛利方を、片っ端から討ちとったのではなく、相手方がへばっていて「頼まあ(タンマ)」と声をかけ、「後日に銀一貫匁を支払うものなり」と矢立で紙にかきスタンプ印鑑のなかった時代ゆえ掌に墨を塗って押し渡したのが、約束手形の始まりで、首落し前の談合ゆえ「落し前(をつける)」という。 紙がない時には口約束ゆえ、「武士の言葉には二言はない」といった用語も残される。 江戸期に入っても外出の侍が「懐紙」といって夏でも白紙を大切に持ち歩き、今でも財布のことを「紙入れ」とよぶのも、万一の際に落し前の約手をかくための大切な用紙だった名残り。 プロとは、今のプロレスみたいに、やたらに致命的な負傷などはせぬもので、山中鹿之助は約手をとっても集金せずだったから、彼を生かしておいては後に毛利の家中の者が迷惑すると、「約手のパクリ屋」なみの毛利方の者によって、上月落城後、備中合の渡しで殺されたのである。だから、その伜が大阪で鴻池の店を開くにあたって、約手の決済をしてなかった連中が銀を集めて送って開店させたのである‥‥といった従来の歴史とは相反する資料が得られたが、発表すると、勇ましい講談を頭から信じこんでいる人々からは、ただ意想天外とされたにすぎぬ。 しかし尼子方は滅亡しているから何も残っていないが毛利方の「吉田篭城記」によれば、「本日の合戦は、先手の者は石つぶてに当り一人傷つきたれば全軍とって返す」と、あまり殺生沙汰はなかった記述が多い。常識で考えても人口の僅かな時代に、とっては投げ突き刺して殺すみたいに派手にしていたのでは、みな死に絶えてしまって両軍とも戦う者がいなくなってしまう。 美化というか勇壮化されて伝承されているものの、プロの武士道は、落し前をつけるだけのものが本当の処。となると中世紀の宗教戦である戦国時代の前は、どうなるかと問題になる。 江戸期でさえ、「やつこさんは辛いね」とか「奴女郎」の名称があり、「町奴幡随院長兵衛」は勇ましく水野十郎左に突き殺されるが、奴とは寺の奴隷のことゆえ、寺奴で、仏教側のガードマン。 とすれば後までそうだとなると、古代史とは、縄文日本人が権力者によって鉄製武器で征服された弥生時代が、日本の古代史つまり奴隷社会の始まりということになると、それへ突入し真実とは何かと逆のぼって解明していったのが、この入門書をかきだした私のノートともいえる。 何故に歴史を知りたがるか「一文にもならぬ事は誰がする」といった国民性なのに、向学心ではなくて頗る歴史好きが多い。 若い人では中学生ぐらいから、なにか歴史に魅かれだしてしまう人も相当にあるようです。 そのうちに高校受験とか色んな口をあけて待っている世の荒浪に呑みこまれ、就職、生活と暮しにおわれて、それっきり歴史願望から離れてしまう人もないではないが、子供が一人前になって手放れしだすと、また歴史探求に取りつかれたように、戻ってくる人も、女性では多い。 それに近頃の現象は、50代になり、ようやく我に返りはしたが、今さら華道や手芸でもないという女性が、何かしら生きざまを求めるみたいに真実をと歴史の中へ突入してくる向きもいる。 もっと高年齢層で、死ぬ前に本当のことを知ってから、この世から別れてゆきたいという安心立命型の方も、そう沢山ではないがいらっしゃるのは、十万余枚の年賀状を熱心な読者から頂くが、その内の二百枚余りが、老人ホームの住処だったから、そう明確に、私は言えるのである。 まあ父から祖父母の代まで逆のぼって判る自己の歴史は、せいぜい半世紀がよいところだろう。「あなたの御家系図をお好み通りに作製。古代錦仕上げ、虫くい桐箱入りは十万円にて」などという大阪の何とかの友社からの広告が、今でも歴史雑誌にはよく見受けられる。「死せる子は、みめよかりき」とか、大正から昭和までは身投げした娘は、実際は水ぶくれで、ふた目とはみられぬものなのに新聞記事は、故人に花をもたせて「水死美人」といった熟語を作った。 だから「死んだら天国へゆける」と考えるみたいに、「飛び込めば、水死すれば美人になる。なにしろ新聞にでているくらいだから間違いない」と、生きていては死ぬまで美人と呼んで貰えぬ娘さんが整形美容の流行せぬ時代だったので、美人とよばれたい一心での投身自殺があまりにも数多く、処置に困って「水中美人」なる熟語の使用禁止を各新聞社では申し合わせたことがある。「過去は‥‥過ぎ去った昔は美しい思い出である」と水中美人なみに歴史もかつては扱われた。 中学生を対象とする歴史雑誌の読者欄などでは、まず女史中学生の沖田総司讃美、そして次は、「自分の先祖は、江戸時代には何々大名の城代家老だったそうです。何か御存じの方は御教え下さい」とか「太田姓をもつ方は集まって先祖の話をしましょう」などとあるのがすこぶる多い。 ここまでくると日本の歴史は芝居や講談からのものだけだと、情けない想いにされてしまう。「城代家老」などという呼称は、仮名手本忠臣蔵が、時代設定を足利時代にし、大星由良之助をも架空のこうした肩書きにして、おかみの取締り逃れにしただけのものであって実存ではないもの。「城代」というのは武臣派で、野戦の時に城代りとなって殿を守って戦うため、師団長大隊長聯隊長中隊長といった具合に、組頭が下にあって、それぞれ戦場で生死を倶にする者らが堅に累っていて、浅野家でも岡林杢助が壱千石の城代で直属の部下二百名を擁していた。「家老」は「お羽織衆」といって、作戦の際には、糧まつ、兵の食糧や馬糧をととのえ、勘定奉行を監督し年貢の取立てをするのが平時。赤穂では、お浜方の塩問屋木津屋などを取締まるだけの仕事。 だから直属は若党二人に仲間一人で、士分の者など大石内蔵介にしても一人もついていない。 まったく別個の役目のものを二つくっつけてしまっているのだから、赤穂浪士討入りの真相さえも、討入りを美化してしまって、今では判らなくなっている。岡林は旗本松本孫左衛門の弟で岡林家へ養子に入ったのだが、公儀では前京町奉行で当時は江戸南町奉行の松前伊豆守が、後で始末のつけやすい文臣派が本所松坂町周辺に町人に化けて住みつくのは黙認。(坂本勝説) しかし武臣派の者は岡林一人だけは入府を許したが、他は六郷川の先の川崎から江戸へは入れなかった。京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけ。失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断。片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。 吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すにのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」「元禄泰平記」[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校歴史。 つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令をしき、「皇室の藩屏なり」と勅を出され、華族会長に徳川公爵がなってしまい、学士会がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで、徳川時代の侭。 明治時代のことすら国民には知らす要はないと隠されている学校歴史しか教わっていないのに、一足とびどころか大飛躍して、古代史を探求したがる人が、きわめて多いのには愕かされる。 日本史と対比できる唯一の史書として「魏志倭人伝」が、ひっぱりだされて、白髪三千丈的の誇大化を美化する国のものなのに、これをそれぞれがみな、自己流に解釈して一冊にしたものが、「耶馬台国はどこか」とか「ヒミコは美女だったか」、と興味本意で、ひどいのは知名度を利用して、「ヒミコが天照大神」といった類の本までが、訳けも判らぬままに、歴史まがいで次々と出版。 書店の古代史部門のコーナーへゆけば、こうした類の本の羅列である。いくら頭の良い方でも、こうした本から読んでいったのでは、とても真実への追求など無理な出来っこない話である。 日本書紀も古事記も今日われわれが拝しうるものは江戸時代に、焚書に次ぐ焚書で消滅していたものを、屏風や襖の下張り用紙とし残存し関西で発見されたものを下敷きにしたものであるとは、詳しく後述するけれど、西での発見ならば、これは第三次勧学院のものであってトウ[唐]製である。 第四次第五次の日本書紀は鎌倉できだから、東で発見の筆写本の残片でなくては、判る筈はない。が鎌倉が北条九代で終わってしまった後は、足利体制は「白旗党余類」の名で、室町文書に書き残されているよう蘇民の源氏を、みなアミかけで散所奉行によって居付き(五木)部落へ、今いう橋のない川のゲットーへ連行収容。その居宅は家ごと燃されているから写しの残存もない。「せっかく大同団結して富士王朝、回復をめざしたものの、追われた日本原住民の蜂起(年号では宝亀)は、後の平氏、平民で『八つ』とよばれた太平洋沿岸に這い上がった西南よりの俗にいう古代海人族は、今の田子浦から江尻、大井川まで、アイウエオ(秋田、胆(夷)沢、宇賀、江刺、雄勝)を先登に逆攻」日本海をベーリング親潮寒流で沿海州から六時間、白頭山の羅津からなら四時間で能登半島や新潟につく。崇神王朝の曾孫ヤマトタケルノミコトが、伊吹山中で、竹内宿弥の廻し者に供された中国産のチン毒にて歿せられてより、騎馬民族ゆえ四つ足とか四ツとよばれた連中は箱根越えに進攻。藤原王朝が身代わりにたてたクダラの桓武帝は天険の長岡へまで待避されたが、やがて富士山の大噴火によって撃退できると、先住民を限定の囲地のセンゲンに封じ込めにした。 今では信州のアサマと同じ浅間の当て字がつけられている。このセンゲンは、出雲節にでてくる安来千軒と同じで、幕末の黒駒の勝蔵が金を掘りに行った千軒とも同じことで、先住民の収容地で先住日本人の隔離収容地のことではあるが、橋のない川の土地ゆえ出入りは不許可だから、「居付き」ともよばれる。歌手の五木ひろしにしても、徳間音工に入社してから歌が巧くなってレコードが売れだしたのではなく、五木と39回目の芸名を変えたから、かつてイツキに収容されていた人々の子孫がレコードを買いだし、それで大人気歌手になれたし、「厳戒令の夜」をかいた作家も、やはりその苗字で人気がある。昭和初期までは、井口は山手樹一郎。藤野は山岡荘八。清水姓が山本周五郎と大衆に信頼されるヤ印の筆名にし韓国人の立原正秋も日本名でかいた。 しかし全人口の一割や五分が奴隷では、残りの人々の食糧増産など出来ようわけはありえぬ。 西暦663年に郭将軍が御所に入って、藤(とう)原鎌足と日本名をつけて、藤原王朝をたて則天文字つまり漢字強制当て字令をだした頃は、彼らの軍隊ははじめは二千に人夫や軍属。それに一旗組として渡海してきた者を含めて二万人だけ。レジスタンスをしていた連中や山や海へ逃げ込んでシノガラのサンカになった人々の他はみな降参させられ、日本原住民は奴婢にさせられた。 七世紀に日本列島には何人いたのかの記録はない。しかし白村江の戦いに連行されていった日本原住民の「四つ」の飼戸の民。つまり戦奴が二万七千とあるから、水軍奴隷として伴われた「八つ」の海人族も別に半分はいただろうから、計四万が総動員数。明治36年の町村役場兵事課に対しての軍部よりの動員計劃では、老幼を含めた人口百に対して壮丁一人の割合だから、その割で逆算してゆくと人口四百万になるが、それを半分と押さえてみても二百万人の者が奴隷として、「クダラぬやつ」「クダラぬことを言うな」と、人間扱いされなかった働き蜂非人だった事になる。 それにクダラが敗戦して日本列島のクダラ人も奴婢にされたから四百数万となるが、新しい主人となったのが二万ゆえ、奴婢の割合は、5パーセントや10パーセントは余りにも過小評価で、二百の奴婢で一人の御主人さまに仕えたのが正しい。のち桓武さまの時より、クダラ人は、貴賎の大宝律令の中で良に格上げされ、戦国時代からは「四つ」の騎馬系の戦国武者がブシン(不信)と蔑まされていたのを「ン」をとって武士とよぶ新興階級にのし上がったから、非人とされる奴婢階級は半減し百対一ぐらいになった。が大岡忠相の貞亨年間に、現在のアメリカの各州なみに、各大名領ごとに国法が違っていたのを、五街道で一斉に取締まろうと「八つ」の海人族の流し行商や旅芸人の道(堂)の者らに朱鞘の公刀と捕縄をわたしてハイウェイパトロールなみに道中探索の御上御用を命じた。 後には街道ごとに縄張りを決め合って、鉄火場を開帳してあがるテラ銭で費用にあて、「御用ッ」「御用ッ」と捕物をやらせ、日没になると、彼らに「お客さん遊んでいらっしゃい」と客引きに使う。つまりテレビや講談で悪くいう二足草鞋が、実は公認の本可打ちで本物なのである。 のち幕末近くになると、抜刀禁止令の法破りしだしたので、うっかり召捕りにゆけば怪我をするからと、分久二年までに各地の親分は朱鞘の公刀を返上し縄張りをして、香具師に総転業。そこで空き巣狙いみたいに、半可打ちとよばれていた素人(ねす)あがりの連中が、その縄張りの奪い合いで、清水次郎長や天保水滸伝になっていったのは、私の<仁義と任侠>の本に詳しい。 つまり、彼らは明治までは非人扱いだったから、殺されても殺され損だと本可打ちは転業した後でも、やくざの喧嘩の殺生沙汰は寺人別には入っていない連中ゆえ、犯罪にはならなかった。 つまりテレビや映画では郵便制度がなくても、郵便法で戸口配達のためみたいに、クマさんハッツァンの表札まで長屋の木戸口に掲げてあるような暮しぶりを見せるが、前途亨保年間の大岡忠相の道の者の街道目付ができるまでは、八部族は居附部落に入れられて農耕、海浜では漁撈や製塩の課役奴隷だった。しかし同じ「八つ」の「道の者」が街道目付になると、目こぼしで街道へ出してもらえた。つまり、それまでの今の庶民はみな各地のゲットーに入れられていた。 領主や代官にとっては、住民をみな居付き部落に入れて働かせ、逃げ出せば逃散の咎で斬罪にできたから都合がよく、殆どが今いう部落であった。 私の祖母の先祖も、この貞亨年間に、尾張の徳川継友が将軍吉宗の御庭番村桓左太夫に毒殺され、弟の奥州梁川三万石の宗春が後をついだが、やはり睨まれ家康の曾孫の彼が、「家康は世良田の次郎三郎だった」と公表したので隠居処分にされた混雑にまぎれて名古屋へ住み着いたのだと口伝えに大正の末に教えてくれた。 なんの生産もない江戸に人々が集まり、天保年間には人口百三十万の世界一の都会になった謎も、祖母の先祖らと同じで、道の者の街道目付の目こぼしで居付き部落から出てきた為らしい。 しかし、どっと出てきても身体一つが元手ゆえ、馬方みたいな「四つ」は白褌。馬をつかわぬ駕かきや蓮台の川越人足は赤褌で「八つ」と、一見してる色分けで稼ぎをした。 江戸体制は、「四つ」の騎馬系の弾左衛門の下に「八つ」の車善七を、その下に四谷者。またその下に谷津者と交互に組み込んだ。 相互に牽制しあって夷をもって夷を制させるのが治安維持の方法だったが、幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」、今では簡単に野次馬とよぶが、反目しあうどうしの両者の融合を狙ったのが弥次喜多道中記で、東海道膝栗毛の題名で濡れ場もないものなのに、貸本のベストセラーとなり、御一新の大衆動員の起爆剤となったのは今では余り知られていない。 幕末になっても限定地のまだ居付き部落に入れられ、界化の非人と差別されていた庶民が全人口の半分は越えていた。貞亨年間から部落抜けをして町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末孫だったと考えられるのである。両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めねば庶子。つまり庶民とは、テレビ[ドラマ]の「ルーツ」みたいに、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として露骨に売るよりは、日本の方がましみたいに勘違いされるが、日本では徹底して全部がみな奴婢だったのである。 受難の日本書紀 学校歴史の古代史は、北条政子の歿った西暦1225年までを一括して、安易に教えている。という事は、七世紀の世変りを匿しこんでしまう意図から、十三世紀まで引っぱって延長した期間を、アミカケ方式で制定している。「日本人の歴史好き」というのは、なにも向学心の現れや、真実追求のものではないらしい。「侵略」を「進出」と変えてしまって、韓国や中国から抗議を烈しく浴びているくらいで、日本の歴史は、「臭いものには蓋をしろ」と、なんでも自分に都合よく過去は美化してしまう伝統がある。 それまで幕末までは各地方面に、民間に口から耳へと伝承の歴史があったのを、東京を首都とし中央集権制度をとったから、日本全国を一つの検定した教科書で洗脳するみたいに統一教育を歴史にまで及ぼして、他の国ではディスカッションして覚えさせているものをば、暗記物にした。 だからして学校で教わる歴史では、さっぱり、どうにも呑みこめぬ人々が多く、そこで何とかして己れのルーツを知りたがるのが多く、これが歴史好みというか探求型にもなるのである。 近江八幡で「解放」を発行している西川秀夫氏は、祥伝社、大倉精神分化研究所、日本シェル出版、光文社、琵琶湖研究会、新泉社、オリジン出版、秋田書店の出版物を名ざしでピックアップして古代史入門の手引にと並列している。しかしである。それらの本の中で注意したいのは、「日本書紀」や「古事記」を信用してか、それを参考にしている本だけは、絶対に除外してほしい。 なにしろ学校歴史で「西暦720年五月に、日本書紀三十巻成る」と教えているからして、さも、(いま活字本で廻っている日本書紀は、西暦八世紀初頭の編纂された唯一の日本史である)と誤っている方が多いが、私の「天の古代史研究」に詳しく解明してあるように、その六十年後に河内より高野新笠の御子を迎えて、人皇五十代桓武さまとなし、日本書紀をつくったトウの人々が昔の中ツ国、今の中国地方の岡山へ財宝をつんだ牛車の群れをひいて逃避行をしたあと。「彼ら弁髪は日本原住民どもが一致団結して富士王朝復活のため清見潟(今の田子浦)まで、怒涛の進撃をなして攻めてきたのに惧れをなして逃げてしまったのゆえ、もはや構ったことはない」とおおせられて、それまでトウ一族が、自分らが中国大陸から渡来とするよりも(遥かに高い天から下ってきた、選ばれた民族)とした方が恰好がよいから、おおいに美化するために創作した処の日本書紀だけでなく、六国史と称される他の史書類もみなことごとく一切合財を集めさせて、山のごとく各地で積み上げ皆これを燃やしてしまった。世にこれを「桓武焚書」といわれる。 富士王朝のアラビア文字を縦書きにしたような歴史書も、悉く集めて燃やしてしまい、オンモン日本書紀というような、ハングル文字の桓檀古記をタネ本にして、桓武さまの御先祖さまが高千穂峯におりてきたという、クダラ人に都合のよいように美化されて纏め上げられてしまい、ここに第二次の全面改訂の日本書紀の新版が出来上がったのである。 一時は長岡の山の中にまで逃げたが、賎から良に格上げしてもらえたクダラ兵は勇戦敢闘し、原住民を撃退、この時代が本当のナラ時代だが、彼らは威張って、「クダラ人にあらざれば人にあらず、非人である」と、教科書の「侵略」よりもひどい傍若無人。しかし驕る何とか久しからずである。 今でも「クダラぬやつ」とか「クダラぬことを言うな」といった言葉が残っている程ゆえ、桓武さまの血脈の続いた時代は日本原住民は討伐され奴隷に皆され、シラギやコマ系は、「蕃族」として追討された。現代のシラギが慶尚道人で朴前大統領もそうだが今の全大統領や金日成父子やその他南北の軍部も同じである。金大中はクダラ系だから釈放されても国外追放。 日本列島における確執だけでなく朝鮮半島でも、馬韓、辰韓、弁韓の昔から殺し合ってきた民族闘争の原点が桓武さまの時代でも、光州事件の現代でも続いているだけで、民族の血の流れというのは、二千年や三千年たっても変らないものである。ナチスのユダヤ人狩りでも判る。もちろん現代では、ユダヤがイスラエル建国以来アメリカのユダヤ勢力を後楯にして極めて強力である。 さて西南に向けて潮流が変り、瀬戸内の海から鉄製武器が、どしどし送られてくるようになった。初めは護身のための、影武者のようなつもりで王位につけたクダラ系にも援助して勝たせはしたが、やがて延暦十三年の富士の大爆発で、せっかく復活に団結して攻めこんできた日本原住民が、クダラの坂上田村麿に追われ谷底に生き埋めにされ、根つまり死の国へ皆送りこまれた。 ほっとして牛車をつらねて戻ってきたトウの人々は、もはや治安が回復したので、の必要もなしとみた。そこで桓武さまの御孫の嵯峨さまの代になると、せっかく苦労して創作されたのを全部燃やしてしまったのである。が、トウの日本書紀は焚書後四十年も既にたっていたから、「勧学院」をもうけて、武器と共に渡来した医師や漢学者たちに、もう一度改めて「日本書紀漢学版」の作り直しをさせた。しかし一ヵ所だけでは、すっかり燃やされてしまった日本書紀を復元するのは難しく、藤氏一門は勧学院。和気氏には弘文院、王氏に奨学院といったのを、次々と設立させて、百済史の焼き直しの桓武日本書紀を集めて悉く燃やし、第三次の新々日本書紀は、高野山の中国渡来僧たちの綜芸種智院にも協力させ、バビロニア史の漢訳とも対比して今では、言われるごとく司馬遷の史記の中よりも、当てはめられる個所はそっくりいただいて作り上げた。 かくして第三回目の「日本書紀」は西暦833年の「令義解」ができた前後に書きととのった‥‥「桓武焚書」の一件は、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」にも、はっきりと明記されている。 が、これが今日そのまま残されている日本書紀ではない。藤原道長の全盛期をへて、前九年後三年の役、ついで、平清盛の時代にまた焚書されて、第四回目の新々日本書紀が、熊野権現で書き直され、新平氏こそ日本開祖の民族であるとしたものを作らせたが、これは壇の浦合戦で水没した事になっているが、この時の一部の書き直しが梶原景時の手に入り、北条政子に献上された。 頼朝を落馬死という事にし、ついで梶原、畠山、和田、と源氏の主だった連中を粛清してのけた北条政子は、鎌倉をオール平氏一色にしてしまうと、承久三年五月には、京へ大進攻をさせた。「阿魔将軍」と恐れられた彼女みずからが、陣頭にたって押し寄せるわけだったが、大切な北条平氏の女大将が、みづから鎌倉を離れては後が気がかりであると、甥の泰時が代って出陣した。 美化したがる通俗歴史は、夫の頼朝が急死したので、貞婦ニ夫にまみえずで、髪をおろして「尼将軍」になったとしているが、日本では仏教をもちこんだトウの者の他は、男も女も、坊主や尼の官忍の得は受けられなかった。平氏の政子が尼になろうとしても、有髪の比丘尼だし、男は法界坊、法印の大五郎、日光の円蔵みたいに、くるくる坊主になれずで、吉原でゴザを敷いてカッポレを踊っていた梅坊主一座にしろ、剃刀をあてて奇麗に坊主に頭が剃れたのは明治御一新からである。政子が比丘尼になるわけはないから、古代史の最後を飾る彼女の画像は、後世の儒教時代の想像画で、それが今では歴史教科書の挿絵に使われだしたので、本当らしく誤られる。 富士王朝の残党ともいうべき北条政子は、夷頭(伊東)に逃げ、潮をくんで製塩。漁撈をして塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、藤と名乗る公卿の主だった者を斬首。後鳥羽上皇は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき見張り侍所をおいた。平政子は生前に大江広元に命じ、かつて梶原景時が入手した平の清盛の第四回目の日本書紀をもとに改訂第五回目の日本書紀は出来上った。 しかし北条時宗の時に、(かつて沿海州から親潮で佐渡や能登へ渡り、蘇我氏として栄えた末孫の源氏を、北条平氏は打倒藤原のために、頼朝を担ぎだし散々に働かせた後、使い棄てみたいに主だった者を皆殺しにして天下を北条平氏のものとした。だから、沿海州から中国本土を席巻して、元の国をたてた騎馬民族にしては、占領した朝鮮半島の高麗水軍に命じて、源氏の仇討ちに失地回復のための進攻なり)と壱岐対馬の守護代より急使が鎌倉へ駆けつけてきた。 文永五年(1268)には、その噂通り、元の兵部治郎黒的を高麗人の案内で、正月十八日には太宰府守護の少弐資能に対して、高圧的な態度でのぞんできた。なんでも今では美化して恰好をつけたがる学校歴史では、このことすらも、「国信使をもって、元の国書や方物を献上し通交を求む」といった具合に「世界は一つ人類みな兄弟」みたいなことを記載している。だが翌文禄六年三月七日の条になると、はっきりと、「猛子使用黒的は、高麗人と共に対馬に立ちより、掠奪暴行の限りをつくし、降参した島民の手の甲に穴をあけ鎖を通して舷側に吊し曳行す」とある。通交の為にきた国使のすることではない。挑戦でしかありえない。 やがて五年後の文永十一年十月、壱岐対馬から太宰府へ十万の元軍が高麗水軍に護衛されて来攻。守護代宗助国、平景隆は一族と共に、青竜刀や鉄ぼこに取り囲まれて玉砕、少弐、菊池の救援軍も苦戦したが、たまたま台風の目が突如として来襲。元軍十万の木造船は大暴風のために海底。時間稼ぎに翌1275年夏に、訪れてきた朴世忠ら五人の元の国使を、鎌倉龍ノ口で並べて斬首。翌年は再度来攻に備えて九州の筑前海岸一帯に石をつんで防塁を建造した。 新興元が高麗水軍を先頭に攻めこんできて台風で悉く沈んだにしても、損害は高麗や新羅の捕虜兵だけなので、改めて来攻してくるのは眼にみえていた。それゆえ時の執権北条時宗は、(元が又も懲りずに攻めてくるというのは、北条開祖の政子さまが、散々に源氏を戦わせて平定すると、もはや馬のりは無用の長物と使い棄てに殺したり、双方で戦わせたことへの仕返しに意地になって失地回復に攻めてくるのだから、もしもの用心に、すべての証拠の書類は燃やすべし)間柱所文書から、大江広元に書かせた改訂第五次日本書紀も、まさか次の次の弘安四年の来攻の十万の元兵も、台風で又しても海の藻屑になってしまうとは、神ならぬ身の知るよしもなく、万全を期して片っ端から文字のでている物は、みな集めことごとく焼き払って灰にしてしまった。「時宗焚書」というのがこれである。学校歴史では、元寇の実際も明白にしていないが、今もハバロフスク民族館の正面入口の扉の上には、沿海州人の民族章として大きな円形の笹りんどうの紋章がレリーフで掲げられている。つまり元は、日本では源であって、同じ民族なのである。 明治時代の内田弥八の「義経再興記」つづいて小谷部圭一郎の「ジンギスカン義経説」は、源氏の風俗や言語が、沿海州人の元の民族とまったく同じなのが裏日本から入ってきた源氏ゆえ、そこから連想されたもので、ここが判らなくては元寇の意味も判らぬし、ジンギスカン義経説の由来も、ただ奇をてらうものとしか想われないかも知れぬ。が、バイカル号でハバロフスクへ立ち寄った者なら、源氏の笹りんどうの紋や、パンダがその笹を囓っているマークも見ている筈である。(八切史観には、「青春」の本来の意味が解説されているが、人身売買の実態を示すので以下に紹介する。)[『庶民日本史辞典』(日本シェル出版)』という八切氏の著書に、『青春』について解説されてますので、御参考の為に以下に転載しておきます。*************************************************************************** 青春 現代では良い言葉だが、幕末までは、お寺の隠語で「見頃食べ頃」の少年少女を、人買いが雪どけを待って訪れてきた時に渡すため寺人別帳に記入していた符牒。 親の為に身売りをするとか、年貢を納める為に女郎屋へ売られてゆくといったようなプロセスは、ずっと後世の江戸期に入ってからのことです。それより昔は飼っている牛や豚に子をうませたのを、市場へだしてせりで売るようにしていたのです。つまり庭子とよばれたのが男女別々に寝泊りさせられていたのも、女達を主人専用にする為だったと歴史家は説明していますが、そういうことも実際は当然あったでしょうが、改良品種を市場へ出して値を良く売る為に、主人の眼鏡にかなった男と女だけが、時々交配させられたのは、種とりが目的でもあったのです。つまり雪どけの春がくると人買いが、せり市へ出す為に、器量の良い少女や働き者らしくみえる少年を求めに訪れてきます。ですから食物なら食べ頃というのでしょうが、青の子供の「しし」たちの売り頃が、青春なのでした。 唐突のように思われるかもしれませんが、その為にこそ寺人別帳なるものが明治まであったのです。荘園はなくなっても寺院はずっとあったので、各寺の和尚さんは私有財産の台帳として、太郎兵衛とお花の間に生まれたのが、ぼつぼつ十三、四になるから値をよく売ってやろうと筆を動かし勘定をしていたのです。なにも御慈悲で親切に戸籍係のような帳面をつけていたのではありません。<野史辞典>の巻末には、天平十八年頃の25歳の娘の奴婢として値段がキビ千束とありますが、本当の処は高梁の束のことで、奴隷市では売買されていた実存の奈良東大寺の売買記録もでています。恰好よく使われても、本当の歴史で真実をたぐってゆくと庶民には哀れ悲しい苛酷な恥辱の語源。 「本当のことを言ってしまっては、実も蓋もない」と古来よく言い伝えられてきているのも、こうした訳け合いからでしょうし、「木が沈み、石が流れるのが世のならい」とも賢しい方はおっしゃっています。*************************************************************************** これは「庶民史辞典」に詳しく出ているが、つまり日本での古代史とはウエツフミはホツマツタエ。竹内文書の世界では木村鷹太郎の「海洋渡来日本史」や「旧約聖書日本史」の方が、今イタリア語フランス語で訳され出廻っているのもあるが、判りやすく難解でなく楽に読め入ってゆけるが、その後の西暦一世紀から「倭の五王」までの時代となると、学校歴史とは全然相違していても、「天の古代史研究」[八切氏の著書]から読んでゆくしかない。真実の探り出しは他書では無理だろうと想う。 この「古代史入門」と「天の古代史研究」の二冊しか、前人未到の分野の解明に突入のものはないからである。つまりわけのわからぬ謎ときを何とかできる手引書は全然ないゆえである。 なにしろヨーロッパなら近接諸国の歴史からでも、ある程度の分析はできる。しかし日本は明治大帝の仰せをかしこみ朝鮮までゆき、都合の悪い石碑の文字は削ったり、史書は集め伊東博文が焚書し、ハルピンで安重根に暗殺されている。中国にあるものはヒミコの出てくる魏誌倭人伝だけで、明確に現存の15世紀のイエズス派史料は参考にせぬ万邦無比の、ひとりよがりの歴史。 だから今でも、天から高千穂の峯へ落下傘もつけずスーパーマンのごとく、来臨された天孫民族であるとする藤[唐]の勧学院製を下敷きにした江戸期の後西さまの日本書紀を金科玉条としている学校歴史は、悲しいが、本当のところは何とも探求しようもない。もちろん後述のごとく焚書につぐ焚書の運命に史書はあってきていて、いつの時代でも日本という国にあっては、「歴史」とは過去の真実を解明するような、一銭にもならぬ無駄な徒労をする事ではなかった。 リースを伊東博文が招いたのも、明治二十二年の憲法発布に利用するだけが目的であった。ところが突然に日本へ来たばかりのリースは、天孫民族説の神話を鵜呑みにしてあっさりと、「大和民族は単一民族なり」と発表し、当時大陸進出を志していた明治軍部にすっかり歓ばれて、「対外戦争をするには国民の一致団結が必要。よって国定教科書の歴史は彼に一任すべし」となって出来たのが、彼の門下三上参次や小川銀次郎、重田定一による、今も検定教科書とされるもので、学校歴史とよばれる。つまり戦争目的に作成されたものゆえ、国民精神作興に利用できれば可といったものだけゆえ、真実追求とは全く縁遠いのも、これまた無理からぬ話である。戦前は国定教科書で丸暗記だったから、天孫降臨でよく紀元節とよぶ日に、紅白の饅頭を貰えた義理で、私も昔は頭から信じていたが、テレビで「ルーツ」など放映されだし皆も変ってきた。 「単一民族と学校の歴史では教わったが、鹿児島県人と青森県人がはたして一緒なのだろうか?」 「同一民族というのは、同一宗教で同一通貨というが、日本では仏教に神道に富士講、四方拝講から、若狭の神宮寺講に伊勢講中と数も知れないし、明治までは箱根から東は金本位。西は九州まで銀本位と、まっ二つに分かれていて、とても同じ民族とは思えない」という事になってきた。 「契丹日本史」[日本シェル出版]を一読すれば、日本古代史の謎も解ける。だが、自分ら日本人のルーツ探しに、あまりに従来の通俗史は都合よく、きわめて美化され恰好良くされすぎているのを読んでいては、どうも徒労で誤ってしまい、真実の裏目ではなかろうかと疑心暗鬼になる。 もっともらしくされすぎの歴史ではない真実をという方には、記紀に誤まされぬようにするための「天の古代史の研究」にあるごとき「天の何々」とされた遠い先祖のための挽歌としたい。 古代史は越多非人の創世紀一、皮田の奴隷どもは近年まこと風儀良しからず、間々不らちの儀もこれ有り候間、 同奴隷共へ別紙箇条の通り、かたく触れさせ候事。一、市中は勿論居付地に在りたりといえども、通行の節は片寄り候て、往来の人へ いささかたりとも無礼がましきことは致すまじく。一、朝の日出よりその日没まで之外は、市中は勿論、町はずれとても徘徊は絶対に 禁止。居付地の垣内にても夜分みだりに往来相い成らざる事。 但し節分の日は夜五時迄、大晦日だけは夜九時迄、に限って徘徊を差し許さ れ候事。一、町内にては一切の飲食致し候儀は相成らざること。一、雨天之外は笠かぶりものは絶対に相成らざる事、一、履物は草履の外は総て相成らざる事。 江戸時代か幕末までの居付部落に対する取締りの古い書付きの現存するものであるが、「除地」と江戸初期は部落の弾正や長吏に年貢を免除し、代りに人頭税をとらせ保護したのは、今は松平元康の改名とごま化されている家康が、実は部落出の世良田の二郎三郎だった為である。 「天の古代史研究」の「世良田事件」の項目に詳しいが、なにしろ荒川の中川の三河島に足利の散所奉行によって、収容されていたのを救出。旗本や御家人にした同系統の家康ゆえ、居付き部落も生存中は庇護した。だが徳川の世も五代将軍の綱吉の皮革業の大弾圧の、獣の皮を剥ぐなと、「生類憐れみの令」の発布から、柳沢吉保が吉良上野介に堺の中村内蔵助へ銅を半分近く混ぜた元禄小判製造で、インフレ化すると違ってきた。しわよせは弱い立場の居付き部落に押し寄せた。 従来は部落の頭に人頭税を納入の他には、これという課税はなかったのに、各大名や天領の代官が、川銭とか雨ふりにきる蓑にも課税したり、掃除や埋めたてにかりだし彼等を酷使した。 土を耕す百姓ならヒエやアワを、漁をする部落ならアー元、地曳網もなかった昔なのに網元というが、納入の魚介の他に、若干の鰯や小魚は塩にしたり乾かして、すこしは余裕もあったが、漁も農も許されぬ居付き部落には何の余裕もないゆえ、貧窮が目にみえて厳しくなった。 (キヨメ或は河原の者と呼ばれて、社寺都邑の掃除夫・井戸掘・駕篭丁・植木屋などの雑職をつとめ、勿論その職業上、世間から幾分賎視されて居たであろうが、決して彼等のみが特別に汚れたものとし疎外されるというような事はなかつたに相違ない。ことにその賎視されたのは、必ずしも彼等ばかりではなかった。古代の雑戸時代・傀儡子時代から大多数の工業者・遊芸者等は皆賎しいものとされて居たのである。ことにもと家人・侍などと呼ばれた賎者も、時を得ては武士となつて社会を睥睨するようになる世の中となっては、昔は「大みたから」と呼ばれた農民までが、同じように賎者として、奴隷百姓とし見下されて居たのである。「三十二番職人歌合」には 千秋万歳法師 絵解き 獅子舞い 猿 鴬引飼 鳥さし 鋸挽き 石切り 桂女 髪 捻り 算置易者 薦置 薦僧(虚無僧) 高野聖 巡礼 鐘叩 胸叩 へうぼう絵師 張殿 渡守 興舁農人 庭掃 材木売 竹売 結桶師 火鉢売 糖粽(ちまき)売 地黄煎売 箕作 樒売 菜売 鳥売らの三十二者の名を並べて「ここに我等三十余人、賎しき身にて、品同じもの」と云つている。この中にも、興舁き・庭掃きなどの或る者は、エタの源流の一をもなしたものであるが、その庭掃き、即ち掃除夫が、歌合せに於て耕作課役の奴隷の農人と合合せられて居るがごときは、もって当時の状勢を見るべきものであらう。つまり、「鎌倉殿中問答記録」に、「鍛冶・番匠のようなる言いかいなき者」と云い、「当道要集」に、「舞廻・猿楽等のしき筋目の者」というかごとき、ともかくこれらの徒が賎者と見られて居た事は疑ない。それらの中に於て、ひとりキヨメ・河原の者等のみが、特別に賎しかったとは思われぬ。むしりエタの方が慶長以前に於て既に、「音楽のやからは青屋・墨焼・筆結らの上だ」と言われて居た) 歌舞音曲のミュージシャンは貴人の慰みものとして、召されることもあるから、その方が刀鍛冶たちより身分が上だというのであると、喜田貞吉説は続けられている。つまりである。 今では京五山の住持は日本人かと誤られているが、鎌倉五山とは違い対明の黄金積みだしの立会いで御所を五方から囲んで監視していた。京五山の漢詩集をみれば日本人でない事が判る。 つまり京の五山は、唐につぐ明僧のせいもあるが、反仏派である彼等を忌み嫌っていたから、「臥雲日件録」の、文安三年十二月二十一日の条に、原文は明国の漢文であるが、「宮に仕える役人が馬にのって、犬を射るのは、噛む犬だと、わざわいをもたらすからであるが、野犬は群がると逆襲してくる。よって一匹を捕らえたものに銭を十枚やってもよい。けだし人間の中でも、犬なみなのは最低であって、死んだ牛馬を食する輩こそそれで、とても人間といえぬ」とまで中国的に言い切っている。つまり騎馬系のカラ神や、祇とよぶ宮の信者、七福神信仰で絶対に中国大陸よりの仏教を忌み嫌う連中は、寺へ銭を納めぬからして坊主はみな厭がった。 「神仏混合令」から、仏を信仰するのが国教と定められたので、それでも白山さま始め神祇への信仰をやめぬ反仏派の居付き部落の者は、今で言えば、非国民として扱われだしたのである。 それゆえ、「生類憐れみの令」発布後の元禄十二年から転向せぬ者らへは、次々と課役を増やし、「身居り(居付き)棟付け帳」なる宗門帳が、寺の奴隷人別帳とは別に元禄十二年より十四年後に各国に反仏帳とて付けられだした。歴史屋さんの中には、「宗門調べ帳」を幕末になっても切支丹伴天連の調べと誤っているが、島原の乱を宗教一揆として公表したからであって、いつまでもキリシタンなどオカミは怖れていた訳ではない。拝仏でない者を苛酷になる為の人別帳である。「居付き」のことを「棟付き」といったのは、「明治密偵史」[宮武外骨著、日本シェル出版刊]の最後に風祭の部落の者が人力鉄道に使われ、逃亡せぬよう棟柱に八人ずつ鎖につながれ「タコ部屋」とよばれた語源にもなるのである。 亨保二年に八代将軍に吉宗がなり、大岡忠相を登用すると、彼は江戸では新地の弾左衛門に由緒提出を命じ、京では水上のオンボ頭を始め、アマベ、六条、北小路、山科、桂ら各地の部落に、「棟付き由来書」を京の町奉行所へ提出させた。仏教が国教ゆえ彼らは反体制集団とされていた。 テレビの大岡越前守は水戸黄門と共に、ええ恰好しで、きわめて美化されすぎているけれど、「髪はマゲなどゆわず断髪のザンバラ髪にして、冠り物は雨天にても許さず、一見してすぐ判別できるよう致すべきこと」と、今でいうなら人権無視の法令を亨保八年に大岡は出している。 定廻り同心八人に江戸の朱引内を見張らせていたので手が廻りかね、大岡越前はスリには、「判別できるよう常人のごとく白元結にて髪を結ばず、スリ常習犯は黒元結をば用いるべし。さすれば一見して、それと判るゆえ、盗む者より、すり取られる方が粗相となって罪なしである」と定め、大岡裁きといわれ、以降明治三十八年に仕立屋銀次が児玉源太郎の金時計をすって軍部よりの強硬談判で犯罪とされる迄は、スリは泥棒ではなくて、手職人とよばれたものである。 スリは仕事をする時だけ黒元結とつけかえれば罪にならずで良かったが、強制断髪で頬かむりしても捕えられる棟付き者は災難だった。松平定信が老中筆頭となった天明七年からの、「寛政の改革」では、徳川家の財政難を打破するために、百姓は搾りすぎれば一揆を起すが、彼らはいくら苛酷に扱っても各棟付地に分散居付きで、騒乱はできぬし皆殺しにしても御定法には反せぬからと、搾取の限りをつくした。英国船渡来の頃ゆえ、部落圧迫は十八世紀からである。 福沢諭吉が明治になって「天は人の上に人を作らず」と叫んで大衆に随喜の涙を流させたのは、日本の人口の殆ど大半を実質上しめている彼らが、徳川の御政道では「人の下に人を作っていた」せいである。人間は他人の不遇や不幸をみれば微かでも自己満足をするというが、「わしらは、あいつらよりは増しだべさ」と、寺の奴百姓や私有民として、税金をかける対象としてしかみない領主や代官の横暴に対しても、今の庶民の御先祖さまは歯をくいしばって堪えた。 幕末になると「四つ」も「八つ」も喘いで世直しを求めたが、彼らの大衆動員にお陰げ詣りをさせ、薩長はまんまと天下をとり、鹿児島の棟木部落の鍛冶町からでた西郷や大久保、海江田が世直しをし、のちに同じ部落より大山とか東郷といった偉い元帥がでたので、伊集院に特殊部落をすりかえたが、同部落の益満休之助や自決した田中新兵衛。土佐の部落から京へ、殺し屋として送りこまれた岡田以蔵も、捕えられると、斬髪していなかった為に、無宿人以蔵として獄門さらし首。 大戦中に玉砕ときまっていたテニアンへ送りこまれた混合師団は、大阪の住吉もんや河内もんを主にする彼らだけだったから、今でもテニアンには住吉神社の移された跡が残っている。 つまり昭和になっても藤原体制のオカミは、彼らは反体制的存在という考え方を変えていぬ。 さて、喜田貞吉博士は、契丹系で頭のよい人ゆえ、そうしたオカミの意向を旨としているが、「壬申戸籍」つまり明治五年の第一回国勢調査を、もってきて、(明治五年初めに約三千三百十一万と言われて居つた内地人の数が、大正五年末には約五千五百六十四万となつて居る。近年の増加の数は、一年に約七十万乃至八十万であるから、大正九年初の数は恐らく約五千七百二十万にも達して居る事であろうと思う。その毎年増加の率は、年と共に増して来る方で、明治五年以来の割合は、大体に於て千人につき八人乃至十五人という事になって居る。大変な人口の増え方である。かくも盛な増殖率を有するをみると特殊部落民の増加率はきわめて盛である。 明治四年八月二十八日にエタ非人の称を廃した際の数を見るに「棟上げ宗門人別帳」ではエタ二十八万と三百十一人、非人二万三千四百八十人、皮作等雑種七万九千と九十五人、合計三十八万二千八百八十六人とある。この中非人と言われた方のものは、其後大抵解放されて、もはや今は、特殊部落の待遇を受けて居ないのが多い。又右の雑種ものの中にも、普通民に混じたのが多数であるとは察せられるが、仮にエタ及び皮作等雑種と言われたものの全部が、今日の特殊部落のもとをなした、として見ても、明治四年の称号廃止当時の数は三十五万九千四百と六人である。されば明治五年正月二十九日調査の内地人口三千三百十一万と七百九十六人という統計にあらわれた数を以て、その五ヶ月前に遡って、仮に三千三百と五万から六万の人口があつたとすれば、こうした特殊部落民の増加は、まこと愕くべきである) ‥‥明治五年の壬申戸籍は、各町村役場でも初めてのことで不馴れゆえ、各寺の奴隷人別帳と、「棟上げ居付反仏宗門帳」をもとにしたから総人口三千三百万だったが、明治三十七年の日露戦争の時には乃木大将の機関銃への人海戦術で人手不足になり、応仁の乱の時みたいに徹底的に人間狩りをして、捕えてきた者に居住地の名称を姓にして新しく戸籍をこしらえたのである。 故に大正五年の国勢調査には、それが加わったから倍近い五千五百万。大正九年では五千七百万と推定しているのも比例算である。 しかし間違っているのである。各寺の私有財産目録の寺人別や、何処へも出られぬ棟付き人口に、士族となった各旧大名の侍人別の合計では三千三百万が数字の上では総人口でも、戸籍に縛られず放浪したり匿れていた者は遥かに多い。 だからシベリア出征の頃には倍近くなっただけの話である。「貧乏人の子沢山」で、彼らの子供の数が明治の聖代になって増加との考え方も違っている。明治四年八月の称号廃止の時に計38万余だったものなら、翌年の壬申戸籍の時でも大差ない話で、比例算でゆくなら半世紀で倍近くも日本人口の住民が増えているならば、彼らが50万から60万で残りの五千五百万は一般人口となる計算である。それを全部そっくりと、彼らの増加にもってゆくのは可笑しい。なのに、(単に部落民だけの其の後の人口の統計に就いて調査してみると、案外にも増加数の余りに夥しいのに驚かされる。ところが大正期に入ると、「治世方針報告書」の東京府の一部、及び神奈川・宮城・岩手・秋田の四県を除き、其の他に於ける部落人口の総数が八十三万四千七百四十五人。部落外居住者人口総数六万九千六百六十七人、合計九十万四千四百十二人とある。この以外に他へ転籍もしくは移住し普通民の中に没したり、またはもはや部落民として認められなくなつて射るものの数も、まったく驚くべき増加ぶりである。過去四十余年間にわたつて少なからぬものであらうと思われる。現に北海道へ移住したものの如きは、一般社会からも殆ど区別することなく、従って一人も右の統計には載つて居ないのである。東京のごとく雑多な地方人の混住の場所にあつても、今や殆ど忘れられ、右の統計に載つて居ないのが多い。恐らく彼等の子孫自身も、父祖がもと、そんな筋であつた事を知らないのであらう。 そこで近ごろ或る部落有志者の概算では、大略百二十万乃至百三十万はあるであらうという。甚だしいのに至つては、百五十万もあらうなどという統計を見積もって居るが、今仮りにまづ最も少なく見て、概算百十三万人としたならば、部落民の総数は内地人総数の約五十分の一、即ち五十人中にいる割合に相当することとなるのである。即ち内地人全体が明治四年から四十七年余の間に七割六分弱を増す間に、部落民のみの間では、その二倍と一割強の数を増して居るのであります。その増加率に於ては、実に普通民の、二倍八部にも相当して居るのである)と博士は説明する。 がこれは喜田貞吉説の「日本にかつて存在した奴隷人口は、僅か五分なり」の自説を守るもの。 つまり古代では人口百人に五人だったのが「良」になってしまい二人にまで減少というのだが、それでは(部落民人口の総計の調査をしてみると案外にもその増加数が多い)とでは矛盾する。 そもそも大宝律令の「良」のえらいさま95人を「賎」の奴隷が強制使役でも僅か五人や二人で食わせ贅沢させられる訳はない。まるっきり反対の割合でなくては常識的にもおかしい。 歴史家ケントは「古代ローマ帝国のローマ市民は、一人で30から50名の奴隷をもち、貴族は何百という耕作奴隷とは別に戦士奴隷を、それぞれ五百名以上はもっていた」と著に書いている。 判りやすい例では西暦663年の白村江の戦いの時に、クダラ系の官人が母国救援に将軍となり将校となって、「四つ」の防人の戦奴二万七千をかりだしているから、仮に壮丁は人口50名に一人とし、昔は赤紙の召集令状をだす市町村の兵事課もなかったから、百名に一人とすれば日本列島の当時のクダラでない系統の原住民人口は約二百七十万人となる。終戦後、進駐してきた郭ムソウ後の藤原軍が初めは二千、後からは倍加。軍夫軍属や一旗組を倍とみて計二万余が。後の「良」で日本原住民は討伐され捕虜となったのが「賎」ゆえ、喜田試算はまったく逆であって、古代でも部落民は、良一人に対して二百七十人以上ということになる。奴隷は5%どころか、その50倍近い数字となる。それなのに「京都役所向大概覚書」の江戸時代の正徳五年の、百八十軒 七百八十九人 六条村四十六軒 百二十三人 蓮台村二十軒 百十六人 北小路村四十四軒 二百三十三人 川崎村百二十八軒 五百九十人 天部村十七軒 七十一人 小島村七軒 二十七人 龍ヶ口村十四軒 五十八人 舁揚村八軒 三十五人 西代村二軒 十五人 北河原村二軒 七人 柳内村合計十一部落、四百八十六軒、二千六十四人に対比し、百九十二年後の明治四十年調査の、千百六十九戸 五千三百九十六人 旧六条村三百六十四戸 二千と一人 旧天部村百六十三戸 千二百七十六人 旧蓮台野村四十三戸 二百六十五人 旧川崎村九十六戸 六百七十一人 旧北小路村二百五十三戸 千五百八十七人 旧小島村八十三戸 四百五十六人 旧龍ヶ口村五十八戸 四百五十二人 旧舁揚村、北河原村三十三戸 二百十六人 旧西代村二十戸 百三十二人 旧柳内村 この合計二千二百八十万戸にて一万二千四百五十二人と、前の約七倍となっているとする。 そして京の五条橋は昔の六条坊門で本能寺のあった処で、信長は故意に反体制の立場から後の所司代役にあたる村井道勝邸をも、此処の居付地にわざわざおいていたのである。 つまり本能寺は当時は秘密に匿されていたチリー硝石によって、せっかく戦わずに各大名の京屋敷よりの応援を待っていたのに信長も毛髪一本残さず、主従三十余名が一度に吹っ飛んだ。 そのサイカチの森から松原通りまでをば昔は六条河原とよんで、橋のない川の居付部落だった。 つまり江戸期の寛文時代までは、松原通り東洞院の東の「夷也」(今は稲荷)地だったが、承徳二年から六条河原へ移ったのを、高瀬川にまた所変えしたのが、柵原六条部落になったという。 のち大岡越前の時に三軒七条出屋敷部落に、斬髪になれ追われて刑場や牢の番人に使われた。 七世紀から八世紀にかけ捕虜として連行され囲地収容の日本原住民は時代により場所換え。(明治四年以来全国人口が七割六分弱を増す間に、特殊部落民は二倍と十割強の増加をなし、明治四年に全国人口の九十二分の一にしか当たらなかった部落民は、今は五十分の一にも達して居ることの統計は、既に前に述べて置いた通りである。この著しい増加率の相違は、更にそれ以前に於て如何なる状態であったか、普通民との増加率の比較如何であつたであらうか、となる。 徳川治世三百年間は、太平無事であつたが故に、我が人口も必ず大いに増加したであらうとは、何人も手軽に想像し得る所であるが、事実は反して、増殖率の案外低いのには驚かざるを得ぬ。徳川幕府の人口調査は、亨保六年以後は、六年目に実施せられて居る。これより元治元年に至るまで二十五回の実施のうちで、十五回だけの数は今日知る事が出来るが、その第二回目の亨保十一年の調査は二千六百五十四万八千九百九十八人。第二十二回弘化三年が二千六百九十万七千六百二十五人で、百二十年間僅か三十五万八千参十七人の増加を見るに過ぎなかつたのである。勿論この統計は、決して正確とは言いがたいものであらうが、当時宗門改めのやかましかつた時代であるから信用するにたるものであらう。もちろんこの中には、公家・武家、並びにその奉公人等を除外した数であるから、実際上の臣民の数は、更にこれよりも数割を見る必要あるべく、かくて明治五年に至つて、三千三百十一万の統計を見るに至つた事であるが、徳川時代を通じて、甚しい増減のなかつたものなることだけは、承認して差支えなからうと思われるのである)と「民族と歴史」の「特殊部落の人口増殖」の153Pから154Pにかけ喜田貞吉説は、さももっともらしく展開されている。 徳川時代に泰平なのに人口が増えなかったのは、部落が苛酷に搾取されていて、子供が生まれても育ててゆけず、大きくなれば人買いに売られてゆくのが関の山ゆえ、水子にみなした為か。 つまり現代のように美容上から不妊手術したり、避妊に失敗して中絶して水子にしてしまうのとは違い、殺したくないのに処分を部落ではしたのだから圧迫のひどかったのも判りうる。 それに明治四年壬申戸籍の時より居付き部落の人口が倍以上に増加したのは、日露戦争の時に消耗品として戸籍のない者まで人間狩りをし、新戸籍を作って戦死者の多い第三軍の乃木大将の指揮下へ編入。それと軍事的資源として、将来の兵隊にするために堕胎罪という法律で水子が禁止、生活は苦しくても御国のために、なんとか部落でも育てねばならなかった為もある。 それゆえ部落は、新戸籍者と育児で人口が倍加したが、それでもサンカのごときは無戸籍の侭で、匿れ住んでいたし、部落からの脱出者は戸籍を作ると本籍で苗字が付けられると避けている。つまり部落をよく知っている者は、戸籍台帳にいれられつけられると税金や徴兵だと嫌がる。つまり古代史とは良の鉄武器人が、縄文・原住民を征服し弥生期にエタ非人とした歴史。ここの処を明確にしない事には、日本の古代史の解明などは不可能。できはしないだろう。 ☆ ☆ ☆長々と転載紹介したが、八切史観によれば、家康の遺訓が、インチキなのがよくわかる。家康が言ったわけではないが、その内容はなかなか面白いもので、人生を要約しているようで、どこか、キリストの言葉を連想させる。重荷を、カルマの十字架に、代えれば、以下のように要約できる。人の一生は、前世からのカルマを負うて、遠き進化の道を行くがごとし。急ぐべからず。差別をうける人種の不自由を常と思えば不足なし。こころに物欲などの望みおこらば、困窮したる時の精神を思い出すべく、長い目をもつべし。堪忍の修行は、無事長久の霊能力の基、いかりは敵の悪魔を呼ぶと思え。自分が勝つ事ばかり知りて、他者が負くることの思いやりを知らざれば、巡り巡って、害その身にいたる。おのれの自我を責めて、無責任に人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされりの、分相応のバランスを保ちなさい。八切史観では、歴史を学ぶのは、愛国心育成のためと説いているが、残念ながら、それでは狭い視点にならざるを得ない。というのは、それだけでは、故郷喪失者にはなれないばかりか、歪んだ愛のルシファーの権威主義にハマり、知性のバランスを欠いてしまうからである。歴史を学ぶのは、国を超えて、人類全体を愛するためである。それは人間の愚かさや醜さ、過去の愚行や醜行を知り、二度と同じ過ちを犯さないためで、常に視点を拡大し、宇宙全体を広く見渡せる視野をもつための進化のためである。歴史を学ぶのは、なによりも差別をなくすためである。だから、歴史を学び、遡ることで、人種が生まれる前までを正確に現実の経験として、特に被害者や弱者の立場に立って、自分はなんて愚かで、醜い行為をしたのか、人類全体の責任を反省して、宇宙への愛に感謝するためである。だから、歴史を、金儲けや、虚栄心や名誉欲や、権力奪取の道具にしてはいけないわけなんである。巷の自称歴史家たちをみていると、ルシファーやアーリマンの悪魔の罠に堕ちているのがいかに多いのか、驚かされる。人類に人種などない、霊魂に性差がないのと同じである。ただ神の愛が1つあるだけで、それをいかに多く広くわかちあえるかでしかない。一灯照隅、万灯照隅。人種や民族や文化に囚われ、ルッキズムに陥る人は、歴史読みの歴史知らずであろう。
2024年05月30日
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ジャマイカからレゲエ文化を発信したボブマーリ―の作曲、「アイショットザシェリフ」はエリッククラプトンのカバーで世界的なヒットを生み有名だが、英語の歌詞なんで、意味がイマイチわからなかったのだが、最近、ベストヒットUSAで特集され、ボブマーリー自身の体験を語ったエピソードソングで、和訳されていたので、クイーンのボヘミアンラプソディーと似たような意味をもつのが、なんとなくわかってきた。ボブ・マーリー - WikipediaベストヒットUSA - Wikipediaボヘミアン・ラプソディ - Wikipediaエピソードソングといえば、ディープパープルの「スモークオンザウォーター」が有名だが、フランクザッパのコンサートでの出来事を歌った曲だが、なぜだか、世界的な大ヒット曲になっている。このフランクザッパが、ボブマーリーに匹敵するほど面白い人らしいのだが、なぜか日本では無名で、恐らく、当時の米国忖度のためか、奇人変人扱いにされ、あまり紹介されていなかったので、再度ググってみると、米国での反体制の象徴的人物なのがわかる。スモーク・オン・ザ・ウォーター - Wikipediaフランク・ザッパ - Wikipedia特に米国当時の保守本流を気取るキリスト教原理主義を批判していたようである。現代では、キリスト教原理主義は差別主義と認識されているようである。ザッパは移民に寛容な民主党支持者だったので、恐らく、共和党過激支持者の妨害工作で、コンサートで炎上し、ジョンレノンと同じように、大衆を扇動する思想家として、しばしば命を狙われていたようである。当時の米国でのソ連への反共主義から、思想検閲などが行われていたのは、バックミンスターフラーの書からもわかり、ザッパの父が軍関係者だったことから、要注意人物としてリストアップされていたのかもしれない。当時は情報操作されていたから、米国傀儡政権の極東の地にそのような情報が流れるわけがない。バックミンスター・フラー - WikipediaベストヒットUSAは洋楽のバイブルともいうべき番組で、極東の地に、様々なアーティストの音楽活動を学ぶ機会を与えてくれて、感謝している。アメリカには、サミーへイガ―のロックンロールロードトリップという番組があり、アーティストの音楽活動をセッション付きで紹介し、洋楽の音楽馬鹿ともいえる素晴らしさを堪能させてくれるが、反面、なぜ日本には、このような番組がないのか、非常に残念に思わされる。自分は、東南アジアのルックスで揶揄われた経験から、反社が芸能界に暗躍しているよからぬ噂も垂れ流されていたりして、どのアイドルが軍団とつながってという類の下世話な話に、どこか日本の金儲け優先のアイドル洗脳音楽が大嫌いだったせいもあり、当時の芸能界は、いまの売れればなんでもありの、ユーチューバーのようなノリに嫌気が差していたせいもある。音楽性よりも金儲け重視の姿勢は今も変わりがなく、益々物質化し、幼少化しているのが問題ともいえる。サミー・ヘイガーRock & Roll Road Trip – ミュージック・エア (musicair.co.jp)サミー・ヘイガーRock & Roll Road Trip シーズン2~4 – ミュージック・エア (musicair.co.jp)さて、小林克也氏は、YMOとコラボした経験があるみたいだが、純粋にミュージシャンではないし、日本の歌手でサミーへイガ―のような存在を改めて考えてみると、なかなか思い浮かばないが、サザンの桑田佳祐氏あたりだろうか。或いは少し洋楽よりだが、ボウイで一世風靡した布袋寅泰氏かもしれない。邦楽というよりもっと洋楽よりになると、B’zの稲葉浩志氏かもしれない。いずれにしても、これという人物が思い浮かばない。思うに、日本では上下関係や他ジャンルとの壁や、売れるのをあまりにも重視しすぎていて、音楽業界でバイトしたこともあるが、体育会系のノリなのに閉口した思いがある。体育会系で、バイトを見下している雰囲気が如何わしい宗教団体のようで残念だった。当時は、そのような似非宗教団体が多かったのが昭和のブラックな雰囲気を増強させていた。反体制で自由なのがロックなはずなのに、意外と体制どっぷりで、全共闘世代ではないので、フォークロックでの反米活動の経験は皆無なんで、その事情はよくわからないが、売れることばかりが、正義とみなす雰囲気が業界に残っているような気がする。ジャニー喜多川氏の悪しき例がその典型だろう。ジャクソンファイブの売れせん狙いのパクリで、権力者に媚を売る北の喜び組接待と実体は何ら変わりがない。ジャクソンファイブにはまだ被差別黒人種の虐げられた生活背景があったから、人種差別撤廃のリズム&ブルースと調和したのだろう。武器を捨てて楽器で戦ったのがソウルミュージックの原点にある。勿論、米国だって売れてナンボの世界に変わりはないが、日本には音楽に人生をかけている音楽馬鹿、音楽マニア、いまでいうオタクが少ないような気もする。音楽というよりも、アニメや漫画業界に、そのような馬鹿やマニアやオタクが多い。何よりも、音楽などの芸術で、世界を変えたいという欲望に乏しく、現存する権力者に媚を売る姿勢が鼻について仕方がなく、権力の裏で私腹を肥やす裏金議員などはその典型で、それでは、創造どころか、破壊者の追従でしかない。そんなバカな政治家に、音楽家は政治に口を出すなと言われる始末なんで、日本の音楽に、政治を変える力はなく、だから、せめてもの、日本の漫画に、世界を変えたいという希望や反骨精神が描かれるのを期待するわけなんである。権力者に従うのにどこに自由がある、といえるのだろうか? 最終的には、そのまま戦場に行かされるだけである。ロシアやイスラエルを見れば権力者に騙され、民主主義を奪われて、忖度した挙句がいまの戦争で権力者にしか物質的利益がないのが明らかである。若者たちが老害を追い出して、自分たちで平和な世の中をつくる、という努力が足りなかったせいである。独裁者に媚を売る事でしか生きられない地獄の世界に、奴隷の世界になってしまっては、皆が地獄に堕ちるだけなんである。ブラック企業やブラック国家はなくさないといけないのが、いま現代の人類の進化の課題なんである。その背後には特定の悪魔の僕のような連中が全体のバランスを失わせて、偏らせ、搾取し続けるだけだからである。老子の、「大道廃れて、仁義有り」で、仁義は、芸術のなかで、説かれるわけなんである。大道とは、霊能力の事で、霊能力が失われたから、再獲得するために、仁義を説くしかないわけなんである。その仁義を説くにも、東洋では、善き師につくのを求めるが、西洋では、個人が師になる違いがあるような気がする。だから、東洋はまだ、既成の人種や民族や文化を脱せられていない、遅れた文化で、米国は、英国のそのような過去の価値観の伝統から解放され、個人が自由になった国とはいえ、特に音楽には、そのような自由があるが、いまだに白人主義やキリスト教原理主義などの差別主義が残っていて、逆に経済化して、格差社会をつくり、ルシファーから解放されたはいいが、対ロシアとの関係などから、アーリマンの虜になりつつある。そのような悪の観点から、人類の進化を捉えるのに良い動画をみつけたので、以下に紹介する。進化と悪 | ルシファー・アーリマン | ペンターブシステム〜負荷・反映・等化・中和・進化〜 - YouTube 日本の音楽にはまだ権力者に媚びたり忖度する古さが残っているが、漫画には、浦沢直樹氏の漫勉という素晴らしい番組があり、世界にも、日本の漫画文化の素晴らしさは伝わっているが、日本の音楽にはないもので、特にクラッシックにもいえることだが、小沢征爾氏とN響の関係からも、日本の音楽業界の上下関係の不自由さに、老害が、若手の芽を摘んでいるようにみえて、残念で仕方がない。 浦沢直樹の漫勉 - Wikipediaいまだに音楽のなかにクラッシックを上位と捉える風潮がみられるのは残念で、全く粋でない。古さが斬新さにかわっていない。貴族のためでなく、民衆のために書いたのが飲んだくれのベートーベンで、もはやその後追いだけでは、創造性も現代では乏しいばかりである。日本のクラッシックは化石ですらない。ジブリの久石譲氏の映画音楽のなかに、わずかにクラッシックの断片が見え隠れするだけである。確かにその道の権威に従い売れてナンボの世界かもしれないが、それだけでは、人生を生きる意味を失っているような味気なさを感じてしまう。西洋を乗り越える東洋でさえなく、ただ西洋の古さだけをありがたがる骨董趣味でしかなく、もはやゾンビでしかない。音楽業界に階級をつくってどうするのだろうか?やはり、アーティストは食える食えないを超越して、個人の生き様を演じてほしい。食えないオタクの扱いに、世間的な評価や従来の古めかしい伝統的な価値観は困るのかもしれないが、それを乗り越えるのが、人類の進化であり、新しい価値観や平和への飽くなき探求の精神に思える。自由が物質界に根付き、安定性をもって、石となるために、ロックは既成概念から自由でなければならないが、そのために、ロックンロールは、輪廻転生で、地上の多種多様な人種や民族や文化に生まれ、経験から音楽を奏でて、死んで仏となって、天空の音楽に加わり、人類は進化して、自由を愛の名の下に確立していくが、その自由が横暴でないのは、愛の名を、人類全てが、天使の位階の課題として背負っているためである。地球人の人類がいま育成している野蛮な自我が、自由な愛の天使という名となるのが預言されている。いまの地球紀の進化を卒業できた霊魂は、天使となり、次の人類の木星人には、自由な霊と呼ばれると、人智学では解き明かされてもいる。だから、権力に命乞いをして同じ人類を差別し、虐げるのは、自由ではなく横暴でしかない。武器を捨てて、楽器を奏でよう、と自由な愛のアーティストは地球紀に生きている。だから、職業はアートや芸術にならなくてはいけないと、シュタイナーも説いている。仕事を単なる物質的活動にしてしまっているのでは、過去に縛られて生きるだけでしかない。それでは、人間を機械にしているだけで、いずれAIに取って代わられるだけにすぎない。機械へと継承する一つの歯車でしかない。いま確かにAIも芸術をつくれるというが、そこにボブマーリーの思想はあるだろうか? 未来への希望や、世のなかを変えたい、という思いがあるだろうか?さて、ボブマーリーのアイショットザシェリフと、フレディマーキュリーのボヘミアンラプソディーの共通の意味は、自分のなかにある、悪魔を殺し、自由に生きる、愛の決意表明だったのだろう。自分のなかにある○○でなければいけないという体裁や面子、プライドや権威主義との決別だったのだろう。古い過去に縛られる自分との、幼少から少年期を育んだ環境や土壌との悲しい別れなのだろう。神秘学でいえば、故郷喪失者である。霊能力の獲得のための、初歩であり、仏教の出家である。過去を捨てなければ、新しい未來はやってこない。過去がそのまま古く続けられるだけで、人間の精神は退廃し、物質化され、奴隷化されていくだけで、いたずらに時を持て余すだけにすぎない。だから他の誰かを傷つけるしかできなくなる、創造的に無能な破壊者でしかなくなるわけなんである。老害として、若者をパワハラするしか自分の存在を証明できない無能な物質的奴隷でしかない、承認欲求に塗れた白髪の老人なんである。ハゲはまだ他者を笑わせるだけマシかもしれない。笑われないハゲは笑いさえも生み出さない他者には無能で無用な存在である。笑いも、音楽と同じように芸術であり、権力に媚を売る笑いが下品であるのは、音楽と同じである。神様は笑いを平等に与えてくれるはずである。地獄にいるときこそ、笑いを与える存在であるかもしれない。いまロシアに欠けるのは、この笑いの精神である。ロシアに、チャップリンの独裁者を笑う精神がないのは非常に残念で、日本にはまだ、権力を笑う文化、貧乏してでも、笑える反骨心が少しは残っているが、最近は、毒舌を嫌う風潮は非常に残念で、確かに少数や弱者への毒舌は差別でよくないが、多数や権力に対しての毒舌は、ガンジーの無抵抗主義なのである。武器を捨てて、口の言論で戦ったわけである。独裁者 (映画) - Wikipedia権力に言論で戦うのは、頓智にはじまるが、孫子も戦わずして勝つのが肝要と述べているように、理性をもって真実で戦うのが、頓智なんである。頓智は、アニメの一休さんで、有名になったが、一休さんは、当時の独裁者ともいわれた足利義満と頓智合戦の話である。真偽は定かではないが、当時の一休宗純は、反体制論者だったのが記録に残っているほどなので、現代でいえば、お笑いの毒舌を語る道化師だったのだろう。古来から、為政者が、民衆の気持ちを掴むために、側近に道化師を置いたのが、宮廷道化師となっている。頓智話 - Wikipedia道化師 - Wikipedia宮廷道化師 - Wikipedia日本の宮廷道化師は、陰陽師が担っていたようだが、霊能力を失っていくにつれて、朝廷では形骸化して、武士階級の幕府が政治を担うようになってから、僧侶に代わっていったようである。江戸時代からは、民衆化して、幇間になったようである。幇間の視点から戦国時代を描いたのが、北野武監督の映画「首」で、従来の古風な戦国史とは異なり、面白かった。いずれにしろ、俗世の物質界を超えた霊界から預言をとってくる霊能者が宮廷道化師の原型になったものと思われる。陰陽師 - Wikipedia僧 と 陰 陽 師 木 場 明 志 - J-Stage ja (jst.go.jp)幇間 - Wikipedia映画『首』公式サイト (kadokawa.co.jp)「首」は、生まれ育った出自に取り入り、戦国時代の身分制度による伝統継承に拘る愚かさや馬鹿らしさを立身出世競争で描きだすが、それらは、現代の、お笑い芸人からみた芸能界や、現代社会の暗部を同時に描きだしているようにみえる。つまり、生まれ育った環境から差別されてきた被差別階級には、故郷喪失者にならなくては生きていけない切羽詰まった生と死が眼前にあり、その視点からみれば、当時のお上といわれている権力者たちの姿の方が、滑稽を演じる者にとっては滑稽でしかないわけで、どちらが本当に生きている存在なのか、わからないわけで、少なくとも、身分差別のない平和な新しい時代を築こうとする、いまは笑われる存在でも、その奥底の平和を願う意志の上では、被差別民に利がある、のを説く作品といえるかもしれない。先日、「にけつッ!!」でケンド―小林氏が、乗ったタクシーの運転手に、息子がお笑いをやりたいのを、安定した職ではないので、見切りどころをアドバイスしてほしいと相談され、親身になってアドバイスしたら、悉く撤回され、お笑いまでを否定されたので、タクシーを降りたくなった、という面白い話をしていたが、お笑いブームといっても、まだまだ、この国には古めかしい価値観が蔓延り、自分の生き方にとやかく言われる老害が蔓延っているわけで、その人が息子の愚痴が出るくらいの、タクシー運転手をやりたくてやっているわけではないのが、よくわかる話でもあった。当時の世間的評価を選んで、自分のやりたい職を選べなかった自分を反省すべきだろう。にけつッ!! - Wikipedia世間的評価を選べば、その過去の栄光にすがる誰かを演じるしかないわけなんである。地盤を引き継ぐというのは、その過去の栄光にすがるしかない無能な二世、三世の看板でしかないのである。時代遅れの国では通用するかもしれないが、世界では手遅れになるだけだろう。他人に厳しく自分に甘い無能な政治家を見れば明らかである。つまり、日本には職業選択の自由など幻想でしかなく、いまだ職業差別が蔓延り、裏金議員のような犯罪者が出ても、政治家が卑賎の職業と罵られる気配もないわけで、少子化を女性のせいにする女性うむ発言などにも、金銭欲から権力に媚びを売るのが体質となっていて、せいぜい増税メガネ心理狂政権と毒舌するだけなんである。いかに権力に騙されている奴隷が多いのかわかり、民主主義も、単なる弱い犬の遠吠えでしかない張子の虎なんである。人間に与えられた、笑いは、神の恵みである。絶望の淵に現れる神は、笑いであると思う。敵味方、上下関係なく、互いに心底から笑いあえる世界は、少なくとも平和な世界だろう。お笑い芸人は、その一瞬の天国を現実に降ろしてくれる霊能者である。人類は、笑いの言葉を勉強するべきなのだ!残念ながら、日本の音楽にはいま、その力が欠けている。売れればいいという経済的関係しかみえない。異性に対する低俗な欲望にしかみえない有り触れた俗曲が多い。売れせん狙いのヒット曲なんかその典型で、売れ狙いのカラオケ狙いの商売道具でしかない。ヒップホップが流行れば皆ヒップホップ紛いで、物欲の延長上になる単なる憧れでしかない。差別主義をやめろという主義主張もない。多数派が少数派に耳を傾けるのが意味を持つ、音楽のパワーである事を知らない。単なる流行では何も変わらない看板のすげかえでしかない。それでは、政治が二世三世の権力の道具でしかない、無能な国家で退廃の宿命を背負い、独裁者と共に地獄に堕ちるしかないだろう。政治改革が何度も唱えられたが、何も変わらず、増税ばかりで、裏金議員も辞職すらしない。若者は選挙にいかずに、流行で外見を虚飾する節操のなさに、金銭や異性を射止めるのに承認欲丸出しで、権力に飼われた犬を演じて現を抜かしている。ボブマーリーの音楽は聴いたことがあっても、ドレッドヘアの意味がわかる人もほとんどいない。音楽が単なる環境音楽と化し、アーティストの音楽運動を錯覚し、音楽を性の道具だと勘違いしている。自分も、ググる前までは、ボブマーリーの音楽の底にあるラスタファリ運動を知るまでは全く無知で、無関心だった。 ラスタファリ運動 - Wikipediaシュタイナーは、人種はエチオピア人から生まれたと述べている。つまり、ラスタファリ運動とは、人種が生まれる以前の人類に回帰しようという、人種差別をなくす運動と思われる。地球のどこに生まれようが、それは輪廻転生の一形態でしかない、霊魂の修行に必要な経験でしかない。つまり、我々人類は、人種に意味があるのではなく、人種から学び、それを乗り越える事に意味がある、とする運動なんである。歌詞・和訳 ボブ・マーリー(BOB MARLEY)のONE LOVEを和訳してみました☆ | kazuu洋楽大好きのブログ (ameblo.jp)地球人は、一つの神の愛、人類への愛に回帰すべきなのである。ワンラブがそのメッセージに込められているようにみえる。自分への拘りに打ち克ち、それが本当の自我の霊我への勝利なんである。自分を人種により着飾る必要はなく、自分のなかにある本性に目覚めればいいだけなんである。自分のなかにある差別心を無くそう、その悪魔の差別心、世間体や体裁が、シェリフの保安官であり、権力への依存心なんである。権力への依存心が付きまとうのを、切り離し、自由に、天の主に仕える助手の精神は失わずに、自由に生きることこそ、愛の志なんである。アイショットザシェリフの意味がわかった。性差を超えて人間として生きるために、フレディマーキュリーは、故郷喪失者となった。ドレッドヘアは、髪形に拘らない、人種が生まれる前の、聖書の記述に端を発しているようである。聖書の髪とは、民族の頭から、人種の髪が生まれる意味をもち、だから、頭を着飾るために、髪を切ったりしてはいけない、という記述は、民族問題のために、人種同士で争ってはいけない、と説いているのである。そんなことをすると、不毛の地の禿になるわけで、独裁者に若ハゲが多い特徴にもなっている。愛嬌のない禿げは、どこか冷酷な人情を感じさせる。だから、中世ではハゲ隠しの鬘が重宝された。ハゲが転じて俗物的にスケベといわれるのも、若禿げの精力の生命力のなさを根拠にしているようである。生命力は、毛として現れるからで、髪の毛は女性ホルモンに関係しているのが、現代科学でもわかっているが、女性というよりも霊魂の両性具有性の意味が大きい。シュタイナーは、男性の頭は珪酸が不足しがちなので、髪の毛の先から珪酸を吸収するので、短髪にすべきだと述べている。珪酸は霊能力とも関係し、髪の毛が長いと、俗物化しやすく、修行者が髪を切るのは、雑念を取り払う意味もある。女性は男性よりも霊魂が天界に近く、肉体にあまり入り込んでいないために、珪酸が不足する可能性は少ないが、鉄分が不足しやすく、現代医学でも、妊娠時の鉄分不足からの貧血が指摘されている。ドレッドヘアのような人類の人種が生まれる祖への回帰思想は、ジャイナ教にもみられる、自然回帰思想でもある。老子風にいえば、大道廃れる前に回帰せよ、となるかもしれない。 ☆ ☆ジャイナ教 - Wikipedia基本は出家者のための五つの大禁戒(マハーヴラタ、mahāvrata)、生きものを傷つけないこと(アヒンサー)虚偽のことばを口にしないこと、他人のものを取らないこと、性的行為をいっさい行わないこと、何ものも所有しないこと(無所有)である。このジャイナ教は古代インドでのみ通用する理念で、いまではドグマになっていてよくない。当時は外の世界が、つまり物質界が不浄の、偽りの幻想のマーヤだと説かれていたので、修行に際して、霊能力を獲得するための秘儀参入法だったのである。出家というのは、物質界を捨てることなので、物質界と交わらないという意味で、性的行為を一切行わないのも、含まれるわけなんである。つまり、性的行為を行わないというのは、現代に翻訳すれば、人間を性差で差別しないという意味になるだろう。ルッキズムをしないという、自然回帰を実践したものといえるかもしれない。ジャイナ教を、唯物論で考えるから、おかしなものになり、またそれに人種や民族や文化などの物質欲に搦めるから、ヘンテコな偽宗教になってしまうわけなんである。どんな教えも、自我の本性に回帰すれば、矛盾するものはなく、神の一つの愛の多様な表現にすぎない。どれかに偏るから、バランスを失うわけなんである。自然回帰のバランスを回復するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★(今回、地球紀の講演の、この部分の翻訳の意味を掴むのが非常に困難だったので、改めて、少し前からはじめる。) この経験を、イメージで思い描くなら、別の場所で目的を果たせた犠牲を、保持せざるを得なかった結果、拒絶された犠牲が煙となって排除され、その犠牲は、宇宙の進化過程からも疎外された。 いま表現しているイメージを、知性ではなく、というのも、知性では、解き明かせないからだが、感情で把握するなら、宇宙の普遍的な進化過程からの疎外が、どういうものなのか、経験できる。 犠牲を拒絶した存在たちにとっては、犠牲を遠ざけたに過ぎない。しかし、犠牲を持ち越した存在たちは、代わりに、疎外という刻印を担う。そして、地球紀にいるのは、本来の自我=霊我から疎外された存在たちである。 この疎外という出来事のなかに潜む感情について、霊魂から詳細に解き明かすなら、それは死の感情なのがわかる。宇宙における死とは、犠牲が拒絶された為に、保持せざるを得なかった、低次の存在たちのなかで生じた感情に他ならない。 このように、地球の進化の、第3段階で霊視した「諦め」と「拒絶」から、高次の存在たちにより拒絶された、すなわち死の概念に到達した。そして、死の真の意味とは、本来の場所にない、本来の場所から疎外された、自我に他ならない。 人生に生じる、リアルな死にも、同じ疎外が働く。物質界という、幻想の世界に取り残される死体は、自我を中心にして、アストラル体、エーテル体から疎外され、本来の意味を失い、肉体として置き去りにされる。 人間の肉体は、エーテル体、アストラル体、自我がなければ意味がない。死の瞬間、肉体は意味を失う。肉体に意味を与えていた他の自我ら3つの体から疎外される。人間が死ぬとき、日常の感覚では、知覚できない、それらの体=霊魂が、大宇宙のなかで、自我の本性=霊我を開示する。 高次の宇宙存在たちが、犠牲を差し戻したために、自我は、死を免れないものとなった。というのも、死とは、宇宙的な存在が、真の進化目的から除外されることだからである。 このように、宇宙の第4の要素と呼べる、「土」に到達した。 第1の要素の、「火」は、純粋な精神の意味で、犠牲であり、火、もしくは熱が生じる背後には、犠牲が横たわっている。そして、地球の周りに拡がる、第2の要素の、「空気」の背後には、授与、もしくは徳の付与が見つかる。そして、第3の要素の、「水」、すなわち液体の背後に、精神的な「諦め」、もしくは「拒絶」が見出され、そして、第4の要素の、「土」は、死を担い、拒絶を通して、真の意味の進化目的から疎外された存在として特徴づけられる。 もし、土という要素がなければ、死はなかった。土のなかで、液体から固体が生じ、本来の意味から疎外された死が、具体的な形態を示す。そして、それはまた、ある精神過程を反映している。例えば、池に氷が張り、液体の水が固体になるのを想像してみる。水が氷になるのは、水の意味を与えている精神的な「諦め」や「拒絶」からの、疎外である。 この固体への過程には、土という疎外の、精神的な表現がある。というのも、4大元素の特徴でいえば、氷は、実際に土=固体で、液体は水だからである。自我の、真の目的と意味から疎外されるのは、死であり、死は、土の要素のなかで、自我を開示する。 地球紀の霊視は、幻想(マーヤ)の物質界に、リアルなものがあるか、という問いから始めた。霊魂のなかに、そのような概念を霊視してみる。最初に、わかったのは、地球紀にみつかる概念は、かなり複雑で、混み入ったものだった。 だから、知性ではなく、経験で解釈しなければならない。そうしてはじめて、明らかになる。この死の概念、すなわち、土の概念を取り上げてみる。それは実に注目すべき側面を示す。 いま取り扱った死以外の概念は、周囲に広がるマーヤのなかには、リアル性が見つからず、根源的な精神のなかにだけ見出せる。そして、地球紀のいま、マーヤの領域で、何かが、自我の死を特徴づけるのが確認できる。 それは正に、本来の進化目的からの疎外であり、本当は精神の領域のなかに存在すべきものだった。つまり、それは、精神から切り離され、このマーヤのなかに閉じこめられた。本当は、マーヤのなかにあるべきではなく、広大なマーヤの領域のなかに見つけられるのは、ただ幻想と偽りだけである。 しかし、マーヤのなかにリアルな真実を示すもの、つまり、何か真実のものが、本来は、精神的な存在のなかで、それに意味を与えるものから切り離される瞬間、破壊や死を被る、のが見つかる。ここに、正に大いなる真実と言えるものがある。 つまり、死は「マーヤの世界で、ただ1つの、幻想や偽りでない、リアルな個人を現している」。 死以外の、他の要素は、霊魂のなかに、現実(真実)を辿る必要がある。マーヤのなかに生じる死以外の他の、自我の表現の背後には、霊的な現実(真実)が横たわっている。ただ、自我の死だけが、リアルな個人として現れるのは、マーヤのなかだけである。つまり、マーヤ全体を通して、自我の死だけが現実(真実)なのである。 だから、もし、マーヤのなかの至るところに、普遍的に広がる死から、偉大な宇宙の進化へと向かうなら、人智学にとって、最も重要で、最も適切な帰結とは、次のような命題、つまり、マーヤの世界で、現実(真実)として存在するのは、個人の死だけなのがわかる。
2024年05月28日
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シュタイナーの人智学や神智学などのオカルトの古代叡智に全く関心がない人は、というよりも、関心がない人がこのブログに辿り着くわけでもないが、完全にスルーしてもらった方がよいでしょう。そのような人に、反感をかって、反論されたりして論争し、かえってストレスをためる必要もないからである。自ら必要と思ったときに、必要な努力をすれば、いつでも人智学などの古代叡智を学べるからである。遅かれ早かれ、いずれにしろ、知性が成熟したときに、人智学を学ぶようになるからである。だから人智学を学ぶのを強制する必要は全くないわけで、むしろ、強制するものこそ、偽人智学者といえるかもしれない。学びたいと思ったときに学べばいいだけで、誰かにいわれたりして、学ぶのでは意味がなく、自主的に学ぶのみ意味がある。というのも、カリユガの時代を経験してきた者にとっては、理解困難な内容を説いているからで、益々嫌悪感や反感を覚えても、かえってストレスを溜めるだけだからでもある。というわけで、人智学に全く無関心で、興味がない人は、以下の話はスルーしてくだされ。しかし、人智学を学べば、世界紛争の原因がわかり、宗教や哲学や科学の由来がわかってくるから不思議である。哲学は、霊能力による叡智のことで、宗教は霊能力で解き明かした神話のことで、科学は、そのなかの形態霊の働きを表面的に記述したもの、とわかってくる。つまり、現代人がいま世界紛争を起こしてるのは、高次の宇宙人である神々との交信の霊能力を失い、無知になってしまった、のがわかってくる。ぶっちゃけていえば、悪玉の宇宙人に唆されて、人類同士で戦わされているのが、地球の現状なんである。だから、霊能力を再獲得して、科学を哲学にして、更に宗教にすれば、世界紛争など馬鹿らしくて、やってられなくなるわけなんである。問題なのは、現代の宗教が言い伝えを基にして唯物化されすぎ、複雑化していることで、非常に曖昧になり、人種や民族や文化が一緒くたに混沌としてとりとめのないカオスになって、収拾がつかなくなっていることにある。要するに、物質面であちらこちらを塞がれて、視野が狭くなっているだけなんである。物質界の迷路に迷い込んでいるだけで、あーでもない、こーでもないといって、思う通りに進めずに、ストレス塗れになっているだけなんである。お互いが自分の責任をとらずに、相手に責任を擦り付けているだけなんである。そして、その根本の紛争の要因は、他人に自分を認めてほしいという欲求であり、コンプレックスの裏返しで、なんのことはなく、承認欲求が強く、孤独を恐れるからにすぎない。自分に魅力や芸がないのに、観衆や聴衆のせいにしているだけで、例えば、異性を求めるのも、孤独感の恐れでしかない。もし、両性具有なら、孤独を恐れる必要もない。物質的には、男女のどちらかを選択しないといけないので、孤独を感じるわけで、その孤独の恐れに、悪魔が好んで憑りついてきて、人類を分断して、仲間割れを誘発し、互いを闘争に追い込むわけなんである。だから、真実を見極める霊眼さえあれば、承認欲求など自ずと充たされるものなんである。現代の唯物論的な物質科学が、大きな錯誤に陥っているのは、現状の戦争状態でも明らかである。なぜ戦争に陥るのかすらわからない、その無知さにある。ソクラテスが説いた無知である。馬鹿は死ななきゃ治らないと、誰が言ったらわからないが、戦争を起こす権力者などは、その最たる馬鹿の極みの類だろう。少なくとも、自分が地獄に堕ちていくのがわからないからである。戦場に人を送るというのは、死後、送られた人の気持ちを知り、次の転生で、その体験をして、贖い、償わなければ、孤独の地獄で暮らすしかないからである。だから、地球は、贖い、償いの星と、神秘学では呼ばれている。現代風にいうなら、刑務所となるかもしれない。そして、物欲を求めるほど、孤独の独房へと孤立化していく。地球人が罪人なのは、聖書にも書かれているが、未熟な知恵の実を、悪魔の蛇に唆されて食べてしまい、熟すまで食べてはならないと、神々の形態霊の言いつけに背いたからで、これが失楽である。そのために、神々の言いつけに背けるようになって、地球人は、宇宙の進化から逸脱し、悪魔と共に、自由な身にはなったが、神々の思いやりがみえなくなり、霊能力を失い、自らの欲望を満たすようになっていった。形態霊の神々は、霊能力が充分に熟してから、つまり、モラルを完全に身に着けてから、地に受肉しなさいと命令していたのを、宇宙の進化から逸脱した悪魔がやってきて、未熟なままで、早熟で受肉し、覚醒意識を獲得してしまったので、神々の働きがみえなくなり、その上辺のベールとなっている物質界しかみえなくなってしまった。つまり、半分しかみえなくなった。そして、形態霊の働きは、例えば、科学用語の、エネルギーなどに置き換えられてしまい、4次元時空の先がみえなくなってしまった。つまり、高次の霊能力が低レベル化して、物質的な欲望の、虚栄心や名誉欲などの承認欲になってしまったわけなんである。だから、形態霊の愛の働きが、単なる物質概念からの数値化されたエネルギーになってしまったわけなんである。そして、そのエネルギーを私物化しようとして、核兵器などをつくってしまったわけなんである。しかし、いかに私物化しようとも、物質は、霊性の表面で、一部でしかなく、私は公に帰するので、カルマの法則の鏡像対称性で、例えば、私物化した分、他に損害を与えれば、いずれ、その損害を被る立場になるわけで、この変換のカルマの法則を、ハムラビ法典などは、「目には目を歯には歯を」、と記述しているわけだが、これは、自分がしたことは自分にブーメランのように返ってくる、カルマの法則を述べているわけなんである。ハンムラビ法典 - Wikipediaだから、キリストは、「眼が見えない人がいれば、眼の代わりになってあげなさい。歯がない人がいれば、代わりに咀嚼してあげなさい」というように、カルマの法則でモラルを説いているわけである。要するに、相手の気持ちや立場を思いやりなさい、というのが、物質界を超えたなかの、形態霊の働きを見通す、心眼の獲得法なんである。というのも、形態霊の働きのなかに、人間の内側の精神性と、外の自然の物質性を、三位一体として統合する働きが隠されているからで、それがカルマの働きだからである。そして、キリストは、形態霊の使者ともいえ、太陽霊として、地球人に、真実を見通すための、霊我となる、悪魔ルシファーに代わる、新しい真に自由な自我を与えたのが、人智学を学べばわかるようになってくるからである。形態霊の働きは、現代人には太陽光としてみえるが、人智学でいえば、エーテルの生命エネルギーの働きである。そして、それは重力をなす意志霊と、重力と対抗する運動霊との間に三位一体の均衡の働きをなす。ニュートンはそれを万有引力として表現したが、後の人間は、唯物論で、半分誤解して伝承しているから、核兵器などをつくって戦争しようとして、古代アトランティス時代と同じく破局を招こうとしている。この太陽霊の形態霊のバランスの働きを、地球人の未熟な自我に、霊我として灯すのが、キリストの救世主の働きで、それは西洋から生まれる処女マリアの精神と、東洋から生まれるアバターによる出家故の仏性の父性の精神との父母の天と地の受胎なんである。つまり、西洋には霊的な父性が欠け、東洋には霊的な母性が欠けているわけで、互いを補い合うのが、第6文化期の、東欧のスラヴ文明の課題なんである。いまロシアとウクライナでまさに戦いがおこっているが、この戦いをどう解決するかが、次の第6文化期の人類の課題で、いま宇宙はその行方を見守っているわけなんである。東欧や西南アジアでの霊性の受胎の神話から、第6文化期の時代霊と昇天する民族霊が旗頭となるのが預言されている。東と西を結び付けるキリストの融合民族なのである。シュタイナーは、その第6文化の特徴を、ソロヴィヨフに言及している。ウラジーミル・ソロヴィヨフ (哲学者) - Wikipediaこのソロヴィヨフのキリスト論は、誰もがキリストの高次の自我=霊我のバランス力で、悪魔の低次の自我を三位一体で統治できるのを理論的に示したものである。そこで、現代が、物質界という、錯誤に塗れているのを、要約している、シュタイナーの動画を以下に紹介する。物質界の奥で働く形態霊が霊視できるようになると、時代霊や、民族霊の大天使の働き、そして天使たちや、また天使たちに抵抗する堕天使たちの、特にアーリマンの錯誤を、地球人が見破れるようになるからである。ルドルフ・シュタイナー「人類をあざむくアーリマンの重要な手段」 - YouTubeルドルフ・シュタイナー「アーリマン(サタン)存在の受肉 / アーリマンとは」 - YouTube進化と悪 | ルシファー・アーリマン | ペンターブシステム〜負荷・反映・等化・中和・進化〜 - YouTubeさて、現代になっても、中国とインドがあまり仲がよいとはいえないのは、古代アトランティス時代からの因縁をひきづっているのを、シュタイナーは解き明かしている。現代の大西洋の真中にあった古代アトランティス大陸の大破局後の、人類は、東に向かったという。その中心が、聖書で記述されたノアの民族で、神秘学ではマヌとも呼ばれている。そして、当時最も古代叡智を継承していたそのマヌ民族が、東のゴビ砂漠に辿り着いた。当時の大陸はまだ現在のように固くなく、沈没した古代アトランティス大陸も、固くなく、まだ液体のようだったので、その痕跡が残っていないという。古代アトランティス大陸が沈没したので、太平洋側のかつて海底だったシベリアなどが隆起したらしい。勿論、大気も水蒸気のような澱んだ、いわば、ミストサウナのような状態だったので、特に北欧人がサウナを好むのは、古代アトランティス時代の思い出が霊魂の潜在意識のなかに蘇り、活気をもたらすからである。精神がリラックスするのは、霊魂が古代アトランティス時代の神々との交流を思い出すからである。ゴビ砂漠 - Wikipediaミストサウナの効果って?メリットと正しい入り方を解説 - お風呂メディア (bathlier.com)だから、古代アトランティス時代の古代叡智を最も継承していたマヌの民族による、古代中国文明は、当時、最も高度な文明だったので、そこにルシファーが目をつけて、受肉したのが、中華皇帝の中華思想となったのだろう。有名な万里の長城による石による防御要塞は、いかにもルシファーの秘密主義が現れているからである。それは継承した古代叡智が外に漏れるのを禁じたのと、モンゴル人種が、赤の火星で、戦いの星を象徴としているので、太陽に対立し、自立する宿命を負っているからにみえる。万里の長城 - Wikipedia失われた万里の長城、モンゴルで発見 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト (nikkeibp.co.jp)つまり、古代中国は、古い霊性を継承する土地で、いまでも国境が曖昧なのは、霊性をもった人治主義で統治する民族性を負っているためで、物質性にはほとんど無関心で、物質文明には疎いからである。物質的発展よりも、むしろ精神的機密性を尊ぶ、懐古主義の、時代遅れの文化なんである。だから、いまでも、古代アトランティスをどこかで憧れているような文化をもつわけなんである。眠れる獅子と譬えられるのは、獅子を古代アトランティス文明とすれば、的確な表現といえるかもしれない。マヌに継承された古代叡智はその後、7聖仙と呼ばれた7民族に受け継がれ、特に古代インドで、古代アトランティス時代までに霊能力が高められたという。その名残がヴェーダで、ヴェーダンダ哲学だと、シュタイナーは述べている。ヴェーダ - Wikipediaヴェーダーンタ学派 - Wikipediaそして、古代インド民族を指導した民族霊は、時代霊までに昇格し、古代インド文化期を興したという。それは再び古代アトランティス時代の古代叡智の霊能力を獲得する文化であり、その修行法である。だからいまでもインド人は、言語は民族霊から与えられるものなので、サンスクリッド語が神の言葉に近いなどで、言語能力に優れているわけなんである。そして、古代アトランティス時代の文化が主に呼吸のエーテルの気の文化だったので、エーテルの創造まで、形態霊の創造域まで、言葉を駆使できたので、逆に、物質は幻で、無関心だったために、物質文明は不得手で未発達だったが、昨今のITなどの電子言語は、そのエーテルの光の特質から、得意なわけである。現代でも、世界人口で、インドと中国が約14億人と他よりも突出しているのは、古代アトランティス時代の文化の恩恵といえるだろう。同じ古代アトランティス文化でも、インドと中国が異なるのは、中国がルシファーに浸透され、モンゴルの火星の特徴から対抗し、閉鎖的になり、逆に、インドには7聖仙の指導が行き届き、解放的になった違いが根底にあると思われ、特に古代インドの民族霊が時代霊に昇格し、人類の進化を指導したのが大きいと、シュタイナーは述べている。ちなみに、日本の人口が減っているのは、それだけ、霊性に乏しく、物質化しすぎたため、霊魂が活力を失っているわけで、消滅する時代遅れの民族といえるかもしれない。というのも、貨幣経済の奴隷となっているからである。カスハラなど我儘なエゴ人間が増えているし、無能な政治家を見れば明らかで、日本は無能な政治家により滅んでいくだろう。【2024年最新】世界人口ランキング(国連) | 世界人口は81億人を超える一方、日本人口は約70万人減少する見込み|セカイハブ (sekai-hub.com)そして、我々のポストアトランティス時代の、古代インドの霊性は、その後、古代ペルシャに引き継がれ、ゾロアスターの拝火教などに継承されていくが、古代エジプトで興隆を迎え、古代ギリシアと次第に黄昏へと霊性を失っていき、古代ローマになってついに、神々との対話が完全に失われ、地上に私法となるローマ帝国が築かれるに至り、カリユガの闇の時代を迎えることになるわけである。大まかな流れは以下を参照にしてくだされ。【シュタイナー】地球紀の進化過程について~現在はポスト・アトランティス時代~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)そして、暗黒が極まった古代ローマの時代に、キリスト太陽霊がイエスに受肉し降臨したのは、まさに神の恩寵といえるだろう。そして、第6文化期にまた、キリストの蘇りが現実にみれる、霊能力の獲得が準備されていくのが預言されている。シュタイナーは前世を記憶する子どもたちが生まれてくると述べている。キリストの神の恩寵を感じ取れる子どもたちなのである。神の恩寵に応えるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ もし、高次の存在たちと、低次の存在たちを、太陽と、太陽を中心に集まる惑星として象徴化するなら、これまで霊視してきた関係の意味が明確になる。低次の惑星存在たちが、その犠牲を高次の太陽に捧げたいと仮定する。しかし、太陽はその犠牲を差し戻し、犠牲は、捧げた存在たちに留まる。 犠牲を拒絶された存在たちは、その孤独と隔離のなかで「憧れ」にみたされる。そして、運動霊が、それら低次の存在たちを、高次の存在たちの周りを巡る周回へともたらす。犠牲を保持する低次の存在たちにとって、高次の存在たちに、犠牲を捧げる代わりに、その周りを巡る運動にかわり、犠牲が、高次の存在たちとの周回の関係に代わった。 それは、深い「憧れ(欲望)」が、一気に叶うようなものではなく、一連の段階的な経験によって部分的な満足で慰められるような関係である。そのような一連の部分的な満足によって、人間の魂のなかに、運動がもたらされる。以前、この事を割と正確に記述した。 そのときは、高次の存在たちと内的に結ばれていると感じられない存在には、外から来る印象が代替物として生じるのを見た。これらの代替物は、低次の存在の、部分的な満足を示している。 しかし、捧げられた犠牲が、高次の存在たちに受け取られた場合は、低次の存在たちに留まった場合とは異なる形態を取ったのは否定できない。というのも、その異なる形態となるべく必要条件は高次の存在たちに委ねられるからである。また、ここでも、この事をイメージで想像できる。 もし、ある惑星の犠牲が「太陽」に流れ込んでいたなら、そして、「太陽」が、それを拒絶しなければ、この惑星存在たちは、「太陽」存在として、犠牲が差し戻された場合とは異なる存在条件に到達していたはずである。だから、犠牲の内容と呼べる「疎外」(太陽という起源からの疎外)は、犠牲の拒絶から生じた。 次のような心境についてよく考えてみる。 喜んで捧げようとし、その目的を達成し、捧げものとして差し出したときに感じるものを、自身のなかに保持せざるを得ない。もし、そのような存在たちの経験を甦らせたなら、 「宇宙の存在たちの、ある一部が、自らのもつ本性により、偉大な宇宙の進化目的から排除された出来事」 と呼べるプロセスを経験するはずである。 もし、この経験を、イメージで思い描くなら、それらの存在たちは、実際には別の場所で目的を果たせた犠牲を、自身のなかに保持せざるを得なかった。その結果、拒絶された犠牲が煙となって排除され、その犠牲は、宇宙の進化過程からも疎外された。 もし、いま表現しているイメージを、知性ではなく(知性では、解き明かせない)、感情で把握するなら、宇宙の普遍的なプロセスから引き離されるのが、どういうことなのか、を経験できるだろう。 犠牲を拒絶した存在たちにとっては、その犠牲を遠ざけただけに過ぎない。けれども別の存在たち、自身に犠牲が留まる存在たちにとっては、それは起源からの疎外という刻印を担う。そのとき、そこにいるのは、自我の起源から疎外されたのを示す存在たちである。 もし、この出来事を詳細に理解するなら、もし、自我の起源からの疎外という出来事に潜む感情について、詳細に霊魂から解き明かすなら、それは死に対する感情である、のがわかる。宇宙における死とは、犠牲が拒絶された為に、自身のなかに保持せざるを得なかった、低次の存在たちのなかで生じた感情に他ならない。 このように、地球の進化の、第3段階で霊視した「諦め」と「拒絶」から、高次の存在たちにより拒絶されたもの、すなわち死の概念へと到達した。そして、死の真の意味とは、本来の場所にない、本来の場所から疎外された状態に他ならない。
2024年05月23日
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現代の物質科学での観測によれば、我々地球人の知識から、およそ138億年前に宇宙がはじまったとされているが、その物質科学では、人類が我々地球人だけだと考えるのは、138億年をいかにも無駄にしているような話ではないだろうか? 138億年の間に生み出した知性で、現在では人類同士で戦争をしているような無様な様子に、そのような愚かな知性に、宇宙の進化が委ねられていると思うのはあまりにも自己都合的な知性で、全く馬鹿げているようにみえるからである。つまり、地球人の現代の知性は少なくとも破壊的で創造的ではないのがわかる。138億年もかけた知性だとはとても思えないわけなんである。宇宙の年表 - Wikipedia138億年もかけた知性で、このまま人類が滅亡してしまったら、人類の知性のその責任は、とても知性とはいえない恥性を証明するようなもんである。地球上での人類が最も進化し、発達していると考える、その恥性は、138億年もかけて育んできた宇宙に対して、あまりにも失礼で、侮辱しているようにもみえる、裏切り行為で、いまも地上の土地を巡り、核兵器で恫喝して戦争を続け、金持ちが贅沢をやめずに、同じ人類の貧困問題を真剣に解決しようと思わずに、金銭的な富を独占集約化し、半ば奴隷化して、格差社会を増やし、一向に差別や貧困がなくならない社会現状をみれば、その宇宙に対する裏切り行為は、既に現状から明らかなのではないだろうか?つまり、人類の現状の知性を改める必要を考えるべき段階にある、といえるかもしれない。シュタイナーによると、いまの地球人となっている人類をつくり、人類の進化を指導してきた主な神々が、エクスシアイと呼ばれる形態霊たちであり、いわば地球の物質界を形作り、形態の存在として表現しているので、形態霊と呼ばれるという。地球人に善玉と悪玉がいるのと同じで、天使たちにも、宇宙の進化から逸脱するのもいるのは、前回紹介したが、善玉と悪玉が時には戦い時には共同し、切磋琢磨して、進化してきた宇宙の歴史が138億年と、いわれているわけでもある。その人類史を含む宇宙進化史の、つまり知性進化史を、シュタイナーの人智学的宇宙進化学として紹介しているわけで、我々の地球紀が、その集大成でもあるが、同時にその底辺ともいえるわけなんである。最底辺の知性から上をみれば、見上げる空は輝く星ばかりでしかない。我々地球人はなぜ地上で敵と味方に分かれて戦うのだろうか?その理由を考えるべきだろう。人智学によれば、天使の位階は、宇宙の進化に寄与し貢献してきた業績や能力に応じているようで、形態霊は、地球人の4つ上の位階に属し、宇宙のカルマによりバランスした知性が進化しているので、いまの人類よりも、遥かに進化したバランスのとれた叡智を身に着けているわけで、正統に進化し、カルマのバランスがとれた形態霊は、当初、地球人を皆同じに、つまりカルマのバランスのとれた差別のない形に、つまり人種のない形につくろうとしていたという。人種ができると恐らく、その違いでヘゲモニーから戦争してしまうのが、神々のバランスした知性から明らかだったからだろう。現にヘゲモニーで戦争しているしね。つまり、神々の叡智の進化段階に比べれば、比較するのもおこがましいが、我々地球人の現在の叡智はまだまだ未完成で未熟なわけで、そのために人種があり、それに付随して、物欲や名誉欲や承認欲などの虚栄心や目立とう精神などが、汚れたゴミのように、心にこびり付いて、障害物のように、バランスを偏らせて、進化を邪魔しているわけで、それこそが、心の中に巣食う悪魔となっているわけなんである。だから、地球人である人間は、自らで判断する前に、まず心の中に巣食う悪魔を取り除く必要があるわけで、つまりこれまでの知性を捨てて改めないといけないわけで、これがソクラテスが説いた無知の知なんである。この現代人の知性では、人種も民族も文化も一緒くたに曖昧に同じようにルッキズムの外見で唯物的に比較し考え、判断しているが、同じような服を着ているからといって、同じ精神の人間でないのと同じで、ポストアトランティス時代の人種はエチオピアのアフリカ人からはじまり、民族は、民族霊たちの指導からはじまり、文化は、民族霊が時代霊に昇格して、古代インド文化からはじまったと、前回紹介したように、物質界の唯物的な知識からは解き明かせないので、ソクラテスの無知の知を再度強調するわけなんである。無知のままで判断しても、錯誤が錯誤を生むだけにすぎない。錯誤が溜まり溜まって収拾がつかなくなりその混乱のなかで敵味方に分かれて戦わされるだけなんである。それに唯物的な知識には、悪玉たちの錯誤が混じっているので、その分、自惚れた知識になっているので、錯誤の混じった知識を使うのは益々錯誤に人類を導き、崩壊に向かわせるだけなんである。そのような自分のなかの悪の錯誤に気づかずに、権力者に成り上がろうとするのは、また別の悪魔を召喚して、地獄のゲヘナに堕ちていくだけなんである。悪魔の王国づくりに奴隷として加担し地獄におちるだけなんである。かつて、古代ローマの箴言では、冥界の王になるよりは、この世で乞食をやる方が遥かにマシといわれていた。冥界の王とは、悪魔に加担する悪の奴隷であり、乞食とは、心の貧しい、つまり欲望のない純粋で、純真な霊魂を意味し、それは穢れを知らない、処女マリアとして象徴化されている。キリストは、心の貧しきものは幸いで、天国はその人達のためにある、と述べている。処女マリアとは、けっして、物質界に受肉しない天国の霊魂のことで、お釈迦さんが、出家を説いた仏の解脱のことでもあり、神秘学では、受肉しない霊魂のことで、アバターと呼んでいる。つまり、両性具有の仏の霊魂の存在である。だから、性も人種も民族も文化ももたない普遍な純粋に霊の存在で、お釈迦さんの時代は、来るべきカリユガの時代に転生しないように仏教を説いたので、それは当時の古代インド思想の名残りでもあったが、当時の霊眼獲得法でもあり、後の東洋の神秘学の基本理念となったという。アヴァターラ - Wikipediaつまり、処女マリアの受胎と、仏のアバター=アヴァターは、神秘学では同じ意味に捉えられるが、西洋と東洋では、進化を指導してきた民族霊が違うので、表現が異なり、霊眼獲得法も、民族から、受肉し、生活した土地に依存して人種に分化してきたために、東西で、異なっているわけなんである。シュタイナーは、西洋人が東洋の霊眼獲得法の修行をしても、肉体が異なるので、無意味と言っているし、またその逆も、無意味と説いているが、東西で、否定し合うものではなく。とにかく、霊眼を獲得すると初めに出くわすのが、霊的な悪玉たちなので、注意すべきだと教訓を示唆しているだけで、それは禅でも、仏陀に出逢えば、仏陀を殺せ、と説いているのと同じである。だから、安易に霊眼をもつのはかえってリスクを冒すだけなんである。それは、未知の地に行って最初に出くわすのが必ずしも親切な人とも限らないわけで、怪しい詐欺師が紛れ込んでいるのは、物質界でも同じで、だからこそ物質界で学ぶ必要がある。物質界でも、ある程度、前もって調べて、知識がないと、騙されるわけで、霊界では猶更、悪に染まってしまうわけなんである。ましてや霊界では、人間の知性は遥かに劣っているから、郷に入っては郷に従わざるを得なくなり、地獄に入れば、鬼に従わざるを得なくなるわけなんである。つまり、自らの人種や民族や文化の欠点を知らずに、物質界でも偏ったままで、霊眼をもつのは、それだけダークサイドに堕ちやすくなるだけなんである。霊界の悪玉にとっては都合の良いカモになるだけである。勿論、天国から拒否されて、出禁にされ、また転生して、カルマでの禊を済まさないと、追放処分にされるわけで、地獄に住み着くしかなくなるわけなんである。少しでも悪魔の心をもっていると、重力により引き寄せられるわけなんである。悪魔と言ってもこの場合は、運動霊から形態霊に下降した天使たちだが。重力というのは物理学で分かっているのは表面的なもので、ニュートンの万有引力は、ニュートンが考えていた記述できる一面にしかすぎない。ニュートンは当時の神学者で、重力の本質が、座天使=意志霊の能力から生まれるのを恐らく知っていたと思われるからである。三位一体とは、天使たちの3つの力から生まれる世界のことである。だから、重力も、三位一体の力で、その記述形式を、形態霊と運動霊の働きから、万有引力として数式化したにすぎないが、ニュートン本人は、数式は一切使っていない。というのも、天使たちの能力は数式では表記できずに、幾何学で解き明かされると、古代ギリシア当時から信じられていたからである。アイザック・ニュートンのオカルト研究 - Wikipediaニュートンの運動論は、アリストテレスの霊視による運動霊の働きの焼き直しにみえる。だから、現代が考える時間論などは、ニュートンは考えていなかったし、現代人が、時間と捉えた記述を、デュレイションと呼び、運動が、安定に達するまでの「猶予期間」と考えていたようである。つまり、神の力が働いている間が時間なのである。慣性力とは神である運動霊の能力となる。ニュートンが近接力で有名なエーテルを否定するために遠隔力を仮定したのではなく、恐らく、当時の、エーテルの有無論に巻き込まれるのが煩わしかったのだろう。神の力を、当時は唯物論的なエーテルで考え、現代もエーテルを物質と考えて否定しているからである。ニュートンは近接力で有名な光の探求もしているし、光のプリズムによる分光実験は有名であり、恐らく、光のなかに、神々の7柱の働きを探求したのだろう。だからニュートン力学のガリレイ変換や絶対時間の考えは、恐らくニュートンにはなく、後に特殊相対論でアインシュタインが言及したローレンツ変換を支持していたように思われる。光そのものがエーテルであり、神々の叡智の働きだからである。ニュートンのデュレイションは、神々の力の関与期間なんで、アインシュタインが、それをローレンツ変換で、光速度に置き換えたのは、物質界では妥当な成り行きだからである。そしてまた、アインシュタインは、一般相対論で、慣性系による質量と時空の等価原理で、再び、ニュートンが想定していた三位一体の相互作用の、運動霊と意志霊とカルマによる曲線の幾何学を、形態霊の表現として、ユークリッドの原論を基にしたリーマン幾何学で記述したが、これはあまりに唯物的なので、カルマの物質的記述ではある程度意味があるが、非線形な生命現象に言及せずに、三位一体を線形の相互作用に解釈しただけで、宇宙の進化を解き明かすにはまだまだ未熟と言わざるを得ない代物であろう。さて、現代の物質科学的な解釈では、人類は約20万年前からはじまったとされているが、それは現代人のような物質的な肉体をもつ地球人が生まれたのが、約20万年前で、神智学では、宇宙の誕生と共に、現代とは全く異なる形で、既に存在し、アダムカドモンと呼ばれている。頭をもつヒト型となったのが、いまから約2万年前の、古代アトランティス時代で、男女に分かれたのが、それよりも約数百万年前の、古代レムリア時代で、それらは、虚空アカシャ年代記を読み解けばわかるという。地球46億年の歴史と生命進化のストーリー | JAMSTEC×Splatoon 2『Jamsteeec(ジャムステ〜ック)』ここで疑問に思うのは、進化をどうとらえるか?にある。虚空アカシャ年代記というのは、宇宙の叡智の、宇宙意識の、いわば進化計画として存在し、神智学では、それを宇宙の微粒子として、コスミックダストと呼んでいるが、この純粋性からつくられる霊魂が、その進化から逸脱し、地上に受肉するたびに穢れて、本来はカルマにより、物質性のネガティヴが解消されていくべきで、この本来のコスミックダストに、アクセスできるようになるはすが、逆に物質性に染まり、できなくなっていくと、神智学では、この事をネガティヴに取り込まれ、陥る、と呼んでいるが、ついには、独房に入れられたような孤独のゲヘナに埋没していく、自分で自分の生命を殺すような自縄自縛に陥るのを、現代の唯物化の知識では、進化と捉えている節がみられるわけなんである。これは現代人でも、心のなかで、常に、悪魔と聖霊が戦っている状態と同じである。孤独になると、外にむかっていた攻撃性が、内に向くために、悪魔の存在が明らかになってくるわけなんである。死後に孤独になると、この悪魔の存在が露わになるのが、同じ構図からわかるだろう。外にいたはずの攻撃性の対象である悪魔が、実は、自分の心の中に住み着いていたとわかるのは、脅威で恐怖でしかなく、もはや手遅れだからで、自分のなかの攻撃性そのものをなくさない限りは、何をしても無駄であり、無くそうとすれば益々増えるからである。地上での修行は、この攻撃性を、バランスの偏りをなくすためにあるといってもいいかもしれない。内の錯誤の悪魔に対しての、外の錯誤の悪魔のマッチポンプの連鎖を食い止めるために、その天秤に釣り合いとバランスを、それぞれの自我にもたらすために、我々地球人は、日々知性を改めるために、この地球の地上に、生きているわけなんである。知性で他を見下すための判断に使うのではなく、自分の判断を改めるために、知性を使わないと意味がない。知性を絶えず新しく循環させないと、新しい判断や観点や見識が生まれずに、進化とはいえない。少なくとも、唯物論からでは、外見からでは何も創造的なものはうまれない。ルッキズムを改めないと、進化とはいえない。内と外で戦っても意味はなく、地上の戦争とは、内と外との悪魔の戦いに人類を巻き込んでいるだけにすぎない。現代人のこれまでの現代的な価値観を改めないとなにもはじまらない。我々地球人は、悪魔の知性の奴隷となっているだけなんである。地上に王国を建設しようとも、それは悪魔の王国であって、天国につながるものではない。現に地上の王国には資源が必要で、金銭が必要だといいながら、浪費し、環境破壊を続けるだけなんである。この国の政治家の虚言癖をみればわかるだろう。いま現代に亡霊の如く残る悪魔の残像の知性から自らを解放するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、地球紀のここで、以上の土星紀から太陽紀の概念と、地球紀の直前の、月紀の概念との間に橋を架けてみたい。 土星紀から太陽紀に示したのは、喜んで犠牲を捧げようとする存在たちがいること、そして、ある存在たちが、捧げられた犠牲の受け取りを拒み、犠牲が捧げた存在たちに戻ることで、進化がもたらされるか、ということだった。そして、差し戻される犠牲のなかに、古「月」進化紀での重要な要素の1つを認めた。実際、ある存在たちが、より高次の存在たちに犠牲を捧げ、それが差し戻されたのが、古「月」進化紀での最も重要な側面の1つである。このように、月存在たちの犠牲の煙が、高次の存在たちに向かって立ち上るが、その存在たちは犠牲を受け取らず、そのため、その犠牲の煙は、犠牲を捧げようとした存在たちに戻された。「月」存在たちについて最も特徴的なのは、高次存在たちへと送り届けようとしたものが、犠牲の実質として、自身の中へと突き返される、のを感じた、という点であるのを見てきた。 確かに、これまで見てきたのは、高次の存在たちの一部になろうとしたが、なれなかった実質が、それを送り出した存在たちに戻され、そして、それにより、拒絶された犠牲を差し出した存在たちに、憧れが生じ、その理想に向かう能力への努力が生まれた。実際、魂の中で、憧れとして経験する全ては、古い「月」の上で生じた遺産(犠牲が拒絶された存在たちの遺産)が今なお存在している。古い「月」の進化期と、その精神的状況を精神的観点から理解するなら、それは、当時、犠牲を捧げようとしたが、高次存在たちが、受け取りを差し控えたために、受け入れられなかった存在たちがいた、という事実によって特徴づけられる。古い「月」の特徴的な状態の背後には、他に類を見ないような憂鬱な状況、つまり、拒絶された犠牲がある。そして、また、カインも犠牲が受け取られなかったが、その出来事は、地球紀の人類進化の出発点を指し示し、このカインの拒絶された犠牲は、カインの魂を捉えた、古い「月」進化の基本則の繰り返しとして現れる。古い「月」状態での存在たちのように、その拒絶とは、地球においては、「憧れ」から、悲しみや痛みを生じさせる。 以前、古い「月」上に運動霊が入ってきたことで、犠牲と、それが受け取られなかったことで、存在たちに生じた「憧れ」との間にバランス、もしくは矯正が生じた、のを見てきた。少なくとも、犠牲が拒絶された存在たちに生じた「憧れ」が、ある程度、満足させられる可能性が創出された。月紀でのその出来事を、現代の生命的な方法で、次のように想像してみる。 犠牲を捧げられる高次存在たちが、犠牲の実質を送り返す。犠牲行為を行おうとした存在たちに「憧れ」が生じ、次のように感じる。「もし、私が犠牲を捧げられたら、私の最良の能力が、高次存在たちと共に生きただろう。実際、私自身が高次存在たちのなかに生きていただろう。しかし、私は、高次存在たちによって拒絶された。そして、私はここに、そして、高次存在たちは向こうに立っている!」そして、この言葉通りに解釈すると、この言葉を発する存在たちには拒絶された犠牲から来る「憧れ」が、高次存在たちに向かって煌めいているが、いま、運動霊により、多くの異なった側面から、高次存在たちにアプローチできるような、自由な地点へともたらされる。そして、拒絶された犠牲を捧げた存在たちを取り巻く、高次存在たちから受け取る豊かな印象によって、拒絶された捧げものとして、これらの存在たちに、憧れとして留まる欲望に、均衡と補償がもたらされる。このように、犠牲を捧げようとした存在たちと、それを拒絶した高次の存在たちとの間に1つの関係が創り出される。そして、その新たな関係によって、捧げものが差し戻されたために満たされなかったものが、あたかも犠牲が受け取られたかのように、補償される。
2024年05月21日
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もはや世界的な人気といえるジブリ映画だが、ジブリの最新作の映画「君たちはどう生きるか」はまだみていないのだが、先日、宮崎駿氏のそのメイキングみたいなものをBSNHKでみた。賛否両論の評価のようだが、前回紹介したように、唯人間論が浸透している現代での、恐らくファンタジーへの認識が低いせいに思われ、それは恐らく、人智学についての評価も、同等に思えてくる。君たちはどう生きるか (映画) - Wikipedia死を身近に感じると、なぜだか、ファンタジーを感じ、現実なのか、夢なのか、の区別がなくなっていくはずである。宮崎駿氏の、「脳を壊すとか、溶かす」というような口癖が印象的だったが、その姿はまるで、シュタイナーが説いている、霊界参入の修行者のようにみえた。おそらく、覚醒意識では捉えられない、物質界の奥に隠れた世界の謎を、自分の人生から解き明かそう、としたのかもしれない。かつて古代人がもっていた霊能力を、現代人が獲得するには、自分の存在を物質界に現実化させている覚醒意識を、つまり脳をどう取り扱い、脳からどう脱出するか、にある。現代人は、脳科学などから、人間の自我が脳にあると思い込んでいるが、人智学では、自我は、血液にあるのがわかっている。自我が血液にあるからこそ、免疫を司り、硬い骨を基盤にしながら内部の骨髄から造血できるわけなんである。血液こそが、人体のホメオスタシスの中枢で、バランスの中心なんである。血判状が信頼の証だったのは、自我の集合化ともいえるかもしれない。個人の自我の、集団自我へのいわば先祖返りといえるからである。だから、古代人の血液は物質ではなく、霊的なものだった。だから青い血ともいわれた。青い血を貴族の白い肌に結び付けて静脈の色と唯物論で解釈しているのは間違いである。そもそも貴族が労働をしないから白いというのも偏見でしかない。それは貴族が白人種という嘘を述べているのと同じである。ホンモノの貴族に人種など関係がないからである。それなら、なぜキリストの血は青くなかったのだろうか?キリストの血は赤く、サンタクロースの赤として伝承されている。だから、青い血とは、現代の物質界からみえる色ではなく、物質界を超えた世界での色彩なのである。例えば、青い火の温度は、他の色よりも高いのが現代化学でもわかっている。つまり、最も熱い火の色なんである。なぜXEBECは青い炎なのか? | 株式会社ジーベックテクノロジー (xebec-tech.com)赤い血というのはヘモグロビンの鉄の酸性の色で、物質性を意味し、だから物質性のエゴの自我で、活動的な赤の物質的運動の、酸素消費の象徴といえる。対照的に、青い血は、静寂で、細やかな不動の感性の、バランスのとれた安定性を、つまり冷静さの象徴といえる。赤と青は、いわば自我の物質性と霊性を象徴していて面白い。赤はまた火星の色で、青は木星の色と、五行説ではあてられている。人智学では、人種の起源を、五惑星に求めている。水星は人種の起源とされるアフリカのエチオピア人で、金星はマレー人、火星はモンゴル人、木星はヨーロッパ人、土星はアメリカ先住民である。五行思想 - Wikipediaエチオピアでヒト属最古の化石発見! | Nature ダイジェスト | Nature Portfolio (natureasia.com)マレー人 - Wikipediaモンゴル人 - Wikipedia現代科学の、特に物理学では、唯物論から物理法則をつくっているが、残念ながら、この法則には生命のカルマの法則が記述できないので、生命体や人種の起源なども解き明かせない。タンパク質論や情報理論でDNAをいくら唯物的に解釈しようが、所詮、確率統計学の線形理論での経験則であるので、非線形現象を直接記述できずに、無駄な徒労で終わるしかないので、ただ論争を招き、現にヘゲモニーの還元論による支配論で、地球の資源や土地を巡って核兵器で戦争をしている始末なんである。【1分解説】ヘゲモニーとは? | 石附 賢実 | 第一生命経済研究所 (dlri.co.jp)これらの物質科学は、所詮、神秘学で預言された火星の科学といわざるをえない。それは物質のように互いにヘゲモニーを巡って対立し、闘い崩壊に向かうだけなんである。地球人はいまのこの低次の知性を乗り越える意志さえ持ち合わせていない。まるで低次の知性の奴隷と化している。ひたすら、この無神教の信者に成り下がっている。ジブリの新作から、いまの地球での人種問題の話になってしまったが、よくジブリの作品の中で何が好きか?という質問がバラエティ番組でなされるが、どれも面白いが、やはりジブリの原点は、「風の谷のナウシカ」にあるように思われる。いまシンウルトラマンとか、シンゴジラとか、シンライダーとか作られているが、シンナウシカがあってもいいのではないかと思った。風の谷のナウシカ - Wikipediaエヴァンゲリオンの監督がつくるという噂もあるが、是非、リメイクしてほしいものである。というのも、風の谷のナウシカこそ、我々地球人の使命を語っている映画のようにみえるからである。種を超えた愛の融合こそ、地球の課題であると、シュタイナーは説いている。戦いを止めることこそ、ヘゲモニーに終止符を打つ事こそ、人類の現状の進化の課題である。ナウシカは、愛の武人にみえる。武とは、破壊を止めるという字形からなる。戈は破壊で、止める字がついているわけなんである。これはバランスのとれた公正で公平な高次の愛を意味する。さて、いま巷には、いかにも如何わしく胡散臭い、意味不明な「世界を恐れさせた日本人」とか、日本賛美の広告が、詐欺迷惑メールと共に、滅多矢鱈と流れ、失言で有名な政治家の影を感じさせるが、バラエティのエンタメで取り上げるのならまだしも、性懲りもなく、皇国史観の民族主義者の老害たちが、かつてのソ連崩壊のロシアのように跋扈し始めると、流石に天邪鬼で、猜疑心が強い自分には、日本人を褒め殺しにする策略か、逆に、こんな広告に騙されるような、いまでも、そんなに世界にコンプレックスをもつ日本人がいるのか、と呆れ果ててしまうばかりで、これらの過剰宣伝に騙されないように注意すべきである。というのも、自分は、日本人離れの東南アジア系のルックスをしていたために、肌色も黒く、昭和当時の東南アジアへの差別感覚で、子どものときから揶揄われたりして、嫌というほど非日本人感を味わってきたので、表向きは日本らしさを忖度してきたが、内心は、日本らしさが大嫌いだったからである。子どものときは特に食卓の和食感が大嫌いだった。日本人らしさの押し付けのようにもみえた。海外で暮らすならまだしも、日本に暮らしながら、日本人らしいってどういう差別なんだと思う。家柄がどうとか、天皇に近いとか遠いとか、武家出身とか、百姓出とか、昭和の大人たちはよくそのような下世話な差別話や身分差別をしていたように記憶している。これらの差別感は昭和では、世間体とよばれていた。令和の現在では、このような昭和の差別感が薄まっているとはいえ、まだ、わずかに韓国や朝鮮、中国など東アジアに対して残っているのは否めない。この傾向は、自分を日本人だと自負し、それを当たり前に感じている人に多い差別感にみえる。その多くが海外経験不足からくるものかもしれない。どの人間社会にも差別はあるが、それを無くそうとする努力があるかどうかで、地球人の知性への意識や、人間社会の未来が問われるのは、地上のどこでも同じである。いまは令和の、和食といえば高級イメージが強く、コンビニの世界的認知で、おにぎりでさえも好評で、想像し難いが、昭和当時は和食といえば貧困さを連想するものでしかなかった。和食といっても、子どものときは、焼き魚に白飯味噌汁、たまに海苔くらいの貧弱なものだったから、いまの和食とは月とスッポンかもしれない。だからインスタントラーメンばかりを食べていた記憶があり、ハンバーグや寿司は贅沢で、魚肉ソーセージのマルシンハンバーグなどで食を満たし、マクドナルドが近くにできたときは憧れの洋食で、はじめてケンタッキーフライドチキンを食べたときの驚きは半端なく、映画スターウォーズをみたときの驚きと、双璧だった。昭和の子どもにとって、その驚きは、日本史で習う、1853(いやござんなり)の、幕末のペリーの黒船来襲と同じで、ダースベイダーがフライドチキンをもって、スターデストロイヤーで侵略してきたような衝撃といえるかもしれない。恐らく、日本への外圧が変革につながるのは、このような驚きにあるのかもしれない。幕末の黒船から、GHQのマッカーサー、そしてビートルズなどのロック侵攻が、この国の若者を、老害の皇国史観から解放していったのは、想像しやすいだろう。スター・デストロイヤー - Wikipedia現在の令和からみれば、昭和は明らかにブラック社会で、日本人という皇室と米国のダブルスタンダートの差別意識満載で、米国系の白人を賛美しながら、皇室に仕える日本人として、忖度し、同じ黄色人種の東南アジア人を見下していた差別感が残っていた。このような人種差別感は、何も昭和からの話ではなく、八切史観では、古来の唐の藤原氏から、被差別部落民への差別感を継承してきたようで、いまでも唯物化した金儲け主義の仏教の悪しきカースト制度となっている。選民主義は奴隷化問題と一体となっていて、いまでも上級国民と下級国民にわかれ、加藤という姓の由来が、下等からきているのを知る日本人はほとんど皆無である。貴族がつける仇名が姓の由来なんである。だから天皇には姓がないわけなんである。仏教カースト制度については、八切史観により、古くは大陸の唐から仏教輸入と共にもたらされたのがわかっているが、昭和の日本人に残っていた、その選民感覚を解き明かすと、貴族や薩長藩閥政治の為政者が日本人で、つまり万世一系を奉ずる民族主義支配層たちだけが選民で、他は卑賎民というような差別意識が、大東亜戦争という標榜のなかに隠され、そんな偽善の胡散臭さが、東南アジア人に見透かされ、当時の日本の支配層のなかにあるヘゲモニーの醜悪な覇権主義を際立たせるに至って、物質主義自体の崩壊へと埋没していったわけなんだろう。覇権 - Wikipediaだから、八切史観によれば、大東亜戦争は、仏教カースト制度の自滅と考えるとわかりやすいが、その選民思想は、現在の政治家や官僚の上級国民という言葉にも薄っすらとゾンビのように残っているのがわかる。現代の裏金問題が一向に解決できないのは、日本人のなかに、いまだこの上級国民意識が残っているせいである。原爆を2発も落とされて大量殺戮をされても自戒の念もなく、米国を批難できずに、「世界を恐れさせた日本人」などと亡霊を追っかける始末なんである。そのような偽善がみえるから、このような虚偽宣伝には注意し警告しているわけなんである。大体、特定の人種や民族や文化に偏るような、浅はかで愚かな知性をもつのは、地球人の特徴といえば、わかりやすいかもしれない。前回、人種や民族や文化の起源を、人智学から少しだけ紹介したが、人種があるのは、古代アトランティス時代の早熟故の失楽だからである。端的にいえば、バランスを欠いた知性を意味するので、それはヘゲモニーと呼ばれている。知性とはバランスが大切なのに、バランスを失うこと自体が知性の放棄で、それは主に唯物論に現れ、ソクラテスが説いた無知そのものなのである。ある人種が優れているという知性は、人類に対する背徳であり、バランスを崩す由縁となる。どの人種にも長所と短所があり、ヘゲモニーなどはあり得ない、唯物的観点なんである。これは人種だけでなく、民族や文化にもいえることで、どれも輪廻転生のカルマからすれば、平等で公正で、バランスを保つのに必要なだけである。陽のプラスだけあっても、偏るだけで、陽と陰が調和を保ち、バランスすることではじめて、満足な安定が得られるわけなんである。だから、いまは日本人に生まれているかもしれないが、前世は東南アジアのどこかの国で、その前の前世では、アフリカで、また更にその前は、ヨーロッパのどこかと、多種多様な人種に転生し、経験しているはずなので、現在だけが全てと思い込んでいるのは、浅はかな唯物的観点にすぎないわけなんである。この低次の知性を脱しないと、高次の知性には進めないわけで、このいわゆるバカの壁を自分で壊さないと、ベルリンの壁のように、同じ人種でさえも、東西にわかれて戦う馬鹿に陥るわけなんである。このような低次な知性からくる闘いを避けないと馬鹿をみるだけなんである。何より、知性の進化には果てがなく、地球人の上には遥かに高次な宇宙人たちが、現在の地球人を、地球に生み出し、つくってきたわけなんである。地球は、神秘学では、「贖いの星」と呼ばれ、また現代風にいうなら、刑務所といえるかもしれない。物質界とは、いわば、地球人の牢獄でもある。牢獄を監視し、監督しているのは、堕天使たちで、現在の地球人の知性の由来でもあるので、まずは、この知性を乗り越えないといけない。この知性の牢屋を乗り越えるのはほとんど不可能で、多種多様な人生を、輪廻転生で経験を積まないといけないわけで、それでも、最初に出逢う存在は、堕天使たちの勧誘だと、シュタイナーは説いている。堕天使の誘惑に容易く勧誘されないために、地球人は、霊能力を失ったわけで、再び霊能力を獲得すると、はじめに、これら悪魔の勧誘を受けるのは、仏教のゴーダマシッタルダが仏陀となる悟りの過程でも、はじめに悪魔に出くわしたのでわかる。だから、禅では、悟る前に、仏陀に遭えば仏陀を殺せと説いてもいる。また人間が死後にはじめに遭うのも堕天使たちの誘惑だと、シュタイナーは述べている。それは、物質界でも、似非宗教者や、民族主義者や、詐欺師の勧誘が頻繁なのと同じであり、下にあるのは、上にもあるといえる。我々地球人は、高次の善玉の宇宙人だけでなく、悪玉の宇宙人とのつきあいで、この地球に生まれ、死んでいくわけで、そして、善玉というよりも、むしろ悪玉によって、輪廻転生を経験させてもらっているといえるかもしれない。というのも、地球上に人種が多種多様になったのは、悪玉との失楽の、付き合いが長かったせいだからである。例えば、いま日本人でいられるのは、進化から逸脱した堕天使のお蔭で、いわば落第の恩恵を受けて、日本人になれたわけで、いずれは、恩返しして、日本人を超えていかなければならない。だからまた、日本人だからといって、日本の詫び寂び文化を理解できるわけではなく、我々地球人が現在のような姿や形で生きられるのは、高次の宇宙人たちのお蔭であるのを、認識できなければいけない。日本文化の詫び寂びとは、日本人を超えて、むしろ日本人らしさをなくし、故郷喪失者になれたときにはじめてわかる、霊感覚といえるかもしれない。日本人に囚われない、どの人種にもある調和のとれたバランスの美的感覚なんである。だから、日本人に拘るのは、偽善のニセモノの、いずれ物質文明のように消えていく崩壊の文化でしかない。それはむしろ日本人の美というよりも、日本人にない美で、コスモポリタンの美であるかもしれない。それは人種や民族や文化を超えたバランスのとれた愛の美なのである。我々の地球は、贖いの星と呼ばれ、それは、いまや戦いの星と化しているが、だからこそ、我々地球人の使命が、ここに明らかになる。それは戦いをやめさせて、愛による平和を確立する使命である。だから、地球人はありとあらゆる人種に転生し、民族とともに、多種多様な経験を積んで、多種多様な文化と関わらないと、それらのヘゲモニーを融合統合し、鎮め、愛のバランスを確保できないわけなんである。それはまず自分の人体からはじまり、自我による、物質体や、エーテル体、アストラル体の各々のヘゲモニーに対しての融合統合にある。いわば、地球で、高次の愛に目覚める修行をしているわけである。病気になるのは、人体のヘゲモニーに自我が負けているせいであり、だから、眠ると、自我は宇宙のバランスを回復し、その愛のバランスを人体にもたらし、病気が癒されるのである。だから、地球は贖いの星から、愛の星に変わらないといけないと、シュタイナーは人智学で説いているわけなんである。ジブリの映画には、どこか日本文化に残っている、詫び寂びを感じさせる。ナウシカの世界は、どこか、この地球の懐かしい世界を思い出させる。だから、いまみえる自然は、本当の自然ではなく、その奥に神々の世界の力からなる大自然が隠されているわけなんである。善玉だけでなく、悪玉の、人種と民族と文化を利用して、人類を闘争に巻き込み、敵対させるアーリマンの勢力がいるのを、次の動画は端的に紹介しているので、以下に掲載する。ルドルフ・シュタイナー「いがみ合いを超えて / アーリマンの誘惑」 - YouTubeナウシカの世界や、最近、映画になり話題の、ボブマーリ―のワンラブのレゲエ音楽のなかに、この戦争の絶えない物質界を平和に変える力が眠っているのに気づかされる。ボブ・マーリー - Wikipedia自らの愛の融合で、自然を溶かし、その奥にある大自然の詫び寂びの世界に旅立つアクエリアスのときの一躍を担うために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ところで、「驚き」の起源とは何か? 「驚き」、すなわち、「外への驚嘆」が魂に生じるのはなぜか? 「驚き」や「驚愕」が生じるのは、何らかの存在や事物、もしくは事実によって不思議な喜びを感じるからである。この不思議さが「驚き」や「驚異」に導く起源である。しかし、不思議さ全てに、「驚き」や「驚愕」を感じるわけではない。不思議さから「驚き」を体験するのは、同時に、その対象との関係を感じるときだけである。 この感情は次のように表現できるかもしれない。 「このモノ、もしくは存在は、まだ自分の一部にはなっていないが、将来、自分の一部になり得るかもしれない」。 このように、「驚き」や「驚愕」をもって何かを受け取るとき、それを不思議に感じ、同時に、自分に関係している、と感じる。 「(不思議に対する)驚き」、「(雷に打たれたような)驚愕」は、自分との何らかの関係を暗示させる。それは「驚き」という現象を通じて、知覚できない関係を付け加えるが、それは単なる思い込みかもしれないが、それでも、その思い込みの責任は自分にある。そして、その「不思議な」ものが、自分に関係すると感じないかぎり、拒絶や反感をもち、そのモノ、もしくは出来事にアプローチしない。 例えば、唯物論的な、もしくは現代の知的概念に基づいて行動する人たちは、このような驚きと認識される、不可視の存在を、嘘、もしくは不正の証拠もないのに、何故、否定するのか? 今日では、哲学者でさえ、目の前に広がる物質界の現象に基づいて、ナザレのイエスに受肉したキリストが、死から甦った事が証明不可能なのを認めざるを得ない。この証明不可に対する反論は可能だが、どのような反論であれ、論理的な整合性をもちえない。 今日の啓蒙主義的な哲学者たちは既にそれを認めている。というのも、唯物主義の側から持ち出され得る反論、例えば、キリストが死から甦ったように、死から甦った人を今までに見た事がない、というような反論は、論理的に、魚しか見たことがない者は、鳥は存在しないと結論づけなければならない、という主張と同レベルにある。 ある存在に基づいて、別の存在がいない、という結論を導き出すのは、首尾一貫した論理的方法では不可能である。同様に、物質界のなかでの、人間の経験に基づいて、ゴルゴダの出来事について、それは「驚き」として記述できるが、何も導き出せない。 とはいえ、もし、誰かに「奇跡」として記述できる出来事を語り、その人物が「私には理解できない」と言ったとしても、この人物は、「驚き」が、ある不可視の関係をもたらすのに反対しているわけではない。というのも、その人物も、同じように真実を読み解く知識へと向かうときには、「驚き」から出発するからである。 その人物は、その表現が、自分のなかでコダマするのを求めている。ある意味、その人は、自分に伝えられる、その関係を、精神的、もしくは概念的に自分のものにしたいが、それが可能とは信じられず、自分に関係があるとも思えないために、その受け入れを拒否しているだけである。 現代人でも、自我から「驚き」の概念に到達できるが、驚きや驚愕が生じるには、古代ギリシャ哲学の観点から言えば、不思議なものに遭遇し、同時に、何らかの関係、かつてよく知った関係がある、と認識できなければならない。
2024年05月16日
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"We are not alone."は、映画「未知との遭遇」のキャッチコピーで、「宇宙にいるのは、われわれだけではない」、という邦訳がつけられているが、シュタイナーによれば、人間がいまのような人間でいられるのは、人間だけの力ではないのを、人智学の天使論で解き明かしている。We are not alone?! (granular.com)映画チラシサイト:未知との遭遇 (eiga-chirashi.jp)現代人は、人間の前に人間はなく、人間の後にも人間はないと思い込んでいるが、かつて人間だったのが、天使で、天使が人間だったときの天使が、大天使で、その進化の繰り返しで、現在の人間の上には、9柱の神々がいて、そのなかの7柱の神々の天使たちが、現代の地球上の人間の進化に関わっていると、人智学の天使論で解き明かしている。旧約聖書の天地創造では、デウス=デイを日として、7日でつくられた、と唯物論で誤解釈しているが、本来は7柱で、現在の人間の進化に関わる、神々が7柱で、つまり、意志霊、叡智霊、運動霊、形態霊、人格霊、民族霊、薄明霊の7位階を意味しているという。だから、人間についての天地創造とは、この7柱の天使たちと共に人間が生きているわけで、この7位階の神々に、人間は創造のエネルギーを与えられて生かされているわけなんである。天地創造 - Wikipediaデウス - Wikipediaしかも、宇宙では、最も上位の存在が、同時に、最も下位の存在になっていて、上下が逆転した入れ子の構造のように、以前、このブログでも紹介したが、上下がアベコベの、ウロボロスの、蛇が自分の尻尾を銜える4次元のような構造になっているので、人間にとっては最も身近に感じる下位の物質界が、最も上位の天使たちの能力に負っているわけで、人間にとっては、上下がサカサマにみえるわけで、これはまた、人智学で、アストラル界と呼ばれる心の世界も、物質界とは、サカサマの鏡像対称性でみえるわけなんで、迷路のように、非常に複雑で、混み入って、上を見れば、下から覗かれて、内から外へと遠くをみれば、外から内へと近くを覗かれるわけで、非常にヤヤコシイわけなんである。ウロボロス - Wikipedia鏡像 - Wikipediaだから、人間にとっては左右均等のような対称性をもつ運動などは、例えば、回転体などは、高度に円形や球形を保てば、その変化がみえないし、捉えどころがないから、違いがわからないわけなんである。例えば、円盤が回転しているのか、止まっているのかは、それを映す光が全く対称性を確保していたら、見分けがつかないわけで、それは、双子の見分けがつかないのと同じである。双子の場合は、名前を聞いたりして、性格や、ちょっとした仕草の違い、いわゆる非対称性、不均一性を見分ける視点をもたないとダメなわけで、外見や物質的区別が不可能な高度な対称性をもつ天使などの存在などは、覚醒意識から認識できないわけで、とても7つの位階の区別やら、更には7つの位階を超える天使たちの上位の位階の、愛の霊セラフィムと、調和霊ケルビムの存在を感じるのは不可能なんである。外見からでは、双子の区別も困難なのに、ましてや、人種や民族や文化の区別など、現代人の知性でできるわけがないだろう。それら差別化の要因となっている天使の区別がほとんど不可能だから、現代人のもつ、宇宙には人間しかいないと考える知性は、最も低次な、高次の知性の放棄とでもいえるような愚かな知性の成れの果てといえるかもしれない。そのような愚かな知性をほおっておくと、退廃して崩壊に向かうのが関の山である。その代表的人物が、プーチンやら、ネタニヤフやらの悪魔の支配下奴隷となっている獣の動物人間であろう。現代人の愚かさの特徴は、戦争をするような独裁者により明らかになっているが、それが過大な承認欲求からくるのは、現代がルシファーの唯物論に染まり、物質界に足場を築こうとするアーリマンの誘惑にハマり、物質科学が万能だと錯覚してしまう自我の未熟さにある、連中は核兵器さえあれば全てが解決すると思い込んでいるが、核兵器を使えば、自分が奈落の地獄に堕ちる事さえ理解できないおバカといえるだろう。4次元空間では、物質的に多くの死をもたらしたものは、精神的に多くの死を被る宿命を背負うことだからである。カルマの法則はバランスにより成立するからである。現代人は生命現象を物質的に解き明かし、唯物論から、細胞を最小単位にして、生命体を、その電気信号に置き換え、遺伝子情報理論から、唯脳論をつくり出し、更には人工知能のAIをつくりだして、唯人間論にまで進みつつあるが、人間だけで、宇宙や自然が成り立っているわけではないのは、人間同士の戦いが無意味なのが理解できない独裁者のような愚かな化け物を生み出している点で明白なんである。かつて、愚かな承認欲求塗れのヤンキーという名の独裁者がいたらしいが、その名は、いまではニューヨークヤンキースに残るだけである。唯脳論 - Wikipediaヤンキー - Wikipediaつまり、人間が唯一の知的生命体という、現代の唯人間論は、ソクラテスの無知を地で行っているので、ソクラテスが説いたように、現代人のその無知さを知り、神々との対話を取り戻すべきであろう。古代ギリシアの賢者が説いた神々との対話は、現代人風にいうなら、高次の宇宙人との対話となるかもしれない。人間の覚醒意識は、物質界を破壊し、分解することで、つくられるので、悪玉の宇宙人の知性によっているといえる。そして、その悪玉の宇宙人の代表がルシファーと、ルシファーよりも更に高次な悪玉の親分みたいなのが、アーリマンである人類の悪玉の代表の独裁者が、ルシファーやアーリマンに洗脳されているのは、唯人間論の奴隷になっていることからもわかり、連中が、物質界の土地に拘り、土地の収奪に承認欲求を求めるのは、悪魔の早熟性にあり、忍耐力のなさにあるのがわかる。人間の早熟性が土地を求め、土地に承認欲求を求めるのは、人間が予定されていた進化よりも早く、宇宙の進化から逸脱した形態霊により、つまり、ルシファーらにより自我が与えられたためで、それが聖書に書かれている、蛇に唆されて知恵の実を食べてしまった人間の失楽によるものと、シュタイナーは、人智学の天使論により解き明かしている。シュタイナーは、天使論において、自我の土地への執着により、人種が生じるのを解き明かしているが、人種と民族は全く異なる、と述べている。現代人が混同しがちなのが人種と民族と文化で、それは人類と天使との関わりの違いにあり、人間の早熟の傾向が、堕天使たちによっているせいだと、人智学から、説いている。人間の子どもの教育も、非行に染まりやすいのは、早熟の傾向にある、といえるかもしれない。だから、シュタイナーは早熟の俗にいう英才教育は、晩年に硬化症や痴呆症を発するようになると警告している。非行も、英才教育も、人間にとっては自由を学ぶ機会にはなるが、諸刃の剣で、そもそも人間は、正統な形態霊の命令で、20、21歳になってはじめて、自我を獲得し、物質界に受肉することが想定されていたというのである。しかし、人間は産まれながらにして、自分というのを物質界に何とかして打ち立てるように、早熟性をもって教育されるので、故郷や生まれ育った土地に執着するような、予めホームシックに罹るように育てられるわけで、つまり、熟す前の早期に出荷される農作物と同じで、長い目でみれば、未成熟な段階で、物質界に曝されるので、堕天使悪魔の洗脳や術中にハマりやすく、その奴隷や構成員になっているのに気づかずに、晩年になってもはや取り返しがつかなくなって、硬化症から、痴呆症になっていくわけなんである。一種の早熟性の麻薬患者と同じなわけである。このような早熟的な、唯人間論に染まっている現代人が、人種と民族と文化の違いを理解するのはほとんど不可能で、それはホームシックを現代医学が解明できないのと同じである。もし、人種がなくなれば、土地や故郷への執着もなくなり、ホームシックもなくなるだろう。ホームシックというのは、いわば自我の病気で、その早熟性に起因するからである。人間に、善悪の判断をもつ自由な自我を与えたのは、ルシファーら宇宙の進化から逸脱した堕天使たちで、そのために、個人的自我は、民族霊の命令がみえなくなく、独自の判断をもてるようになったからである。地上の物質界では、個人が民族霊の命令を無視して、民族の代表になり得るようになったわけである。ホームシックになる原因は? 対処法・治し方を知って乗り越えよう | マイナビニュース (mynavi.jp)だから、人種と民族の違いとは、簡単にいえば、ルッキズムと精神主義の違いといえるかもしれない。前回、故郷喪失者を紹介したが、その対極にいるのが、民族主義者で、そんな輩が、人種優越的な、選民観点を併せ持つと、忽ち、独裁者になりやすいのがわかる。民族には、民族霊による進化での役割が与えられているが、人間の自我の早熟性に起因した失楽の人種には進化の役割などはなく、人類の進化と共に、いずれ、人種は消えていく運命にあるからである。というのは、人種はあくまでも物質性に負っているからで、自我が物質性のエゴを失って、健全な霊我になっていくにつれて、人種などは消えて、民族も消えてしまい、全人類的な発想に変わっていくからである。人種はなくなり、勿論、民族も、その役割を果たせばなくなっていくもので、例えば、シュタイナーは、ユダヤ民族は、キリストの降臨を準備する役割を果たすのが使命だったと述べていて、現在のユダヤ人は、いわば故郷喪失者であり、霊視を獲得し、霊体で復活したキリストに従い、キリスト教徒として神々との対話から、人類の進化に寄与していくべきで、彷徨えるユダヤ人のようになっては、ゲヘナに堕ちていくだけなんである。精神主義 - Wikipediaそもそも、民族霊が見えない人間に民族を語れるわけがなく、民族を代表する人物なら、民族霊と対話して、命を受けないと、民族の使命を果たせないわけで、民族霊といっても、薄明霊の天使から、正統に進化して民族霊になったのか、時代霊でもある人格霊に進めずに降格して、民族霊に甘んじているのか、の違いが、霊能者でもなかなか見分けるのが困難らしく、とても唯人間論では見当もつかない、猫に小判の話なんである。人間だって、どの動物が優秀で、どの動物が劣等なのか見分けるのは困難で、ネズミなどのげっ歯類の動物実験に、優秀なマウスを選抜するわけでもなく、マウスを人間のような病気に遺伝子操作で故意に罹患させて、その人間の病気に対してのクスリの効果を委ねている現状なんである。つまり、その現状を言い換えるなら、唯人間論では、人間の病気とネズミの病気の些細な違いも区別できない証拠となるだろう。実験する前に、ネズミに人間のようなホームシックがあるのか、考えるべきだろう。シュタイナーは、人間と異なり、動物は、物質界に自我をもたないので、動物実験の結果は全く無意味でしかなく、肉体操作の上で有効となっても、カルマの法則で、次の転生へと、病苦が持ち越されるだけで、勿論、物質的な意味での病気、例えば、事故や外傷などの純粋に外的な病気なら、外科手術も意味があるだろうが、肉体以外の他の3つの人体、つまり、エーテル体、アストラル体、自我などに起因する病気の治療は、治療者のモラルに負う治癒力は意味をもつが、患者と治療者の関係によるのが大というような話を、人智学で語っている。ともかくも、人間と動物の違いは、個人的な自我を人間がもち、動物は、集合的な自我を、あの世に持っている点で、大きく異なるわけで、いずれ現在の人間が天使に進級できたときに、落第して、また動物から進化した次の人間と共に、物質界で暮らすかどうかは、現在の個人的な自我をもつ人間が、現在をどう生きるかによっているわけなんである。あくまで物質的に生きようとするのなら、進級を断念しないといけないわけで、早熟性が強いと、それだけ後の祭りになりやすいわけなんである。それが、晩年の硬化症や痴呆症、現在の認知症などに現れてくるわけなんである。人種の違いは、物質性への早熟性に負っているわけだが、その早熟は、晩年になって、崩壊をもたらすので、人種を乗り越える精神性を発揮させないと、自己を滅ぼす要因となる。つまり、人間は、地球に、遺伝性をもって生まれ、子どもは遺伝性により育まれるが、青年期になってからは、遺伝性による物質性を乗り越えるために、精神的に生きないと、晩年になって物質性の遺伝性により崩壊する。本来の、成人とは、物質的な早熟を乗り越えるための、精神性の自我の獲得を意味する、霊我の受胎なんである。キリストは、イエスの30歳の肉体に受胎し、降臨したが、シュタイナーによると、形態霊が、当初予定したのは、成人の肉体への、自我の受胎なんである。現在の人間は、ルシファーにより、生まれてまだ肉体が未完成なときから、既に、自我の萌芽を与えられ、遥かに早熟に偏っている。それはいわば、収穫を急ぐ農家により早めに種付けされて、ビニールハウスなどで早熟に成長させられた農作物と同じである。霊能力が未完成で未熟なまま、つまりモラルや道徳が確立されていないうちから、悪に曝される危険性を孕んでいる。だから、毒災者のようなのが、渡る世間は鬼ばかりのように、闊歩し、民族主義を標榜しながら、社会を崩壊させ、文化繁栄を説きながら、戦争し、地球環境を崩壊させるのである。形態霊が予定していたような進化計画ならば、貧富の差も、格差社会もなく、平和な世の中になっていただろう。しかし、人類は皆同じ種で、金太郎飴のように、クローン人間のように、似たモノ同士だっただろう。ルシファーにより早熟化した人類から人種が生まれ、人類は個人に分かれて闘争し、物質的に、多様な社会をつくった。しかし、次の進化段階に進むには、多様な社会を乗り越えて、分かち合える共生共存の平和の社会をつくらないと、人種や民族、文化を乗り越えて、互いの理解や和解へと、早熟を無くして、適度に熟練した人間にならないと、そして、再び、神々との対話を獲得しないと、古代アトランティス時代の崩壊の二の舞となるだろう。ポストアトランティス時代の崩壊を免れるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化論を紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー真相から見た宇宙の進化Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen(GA132)第5講 地球紀における地球の内的側面ベルリン 1911年12月5日佐々木義之訳を意訳 -------------------------------------------------------------------------------- 今回の連続講義で探究してきた主題は、マーヤ、もしくは大いなる幻想と呼ばれる外界の背後に、天使たちの能力を指し示す霊視の成果だったが、今回は、改めて再考してみる。人間を取り巻く周囲の、自然環境の背後に、神霊たちが認識できる事実を、物質体=肉体を通じて与えられる感覚や、宇宙への知的な理解から、どうすれば獲得できるか? これまでの探求から、物質との直接の、外的な現象は度外視し、真実が発する霊的な特徴を掴む事で、霊を特徴づけた。そして、その特徴を、「喜んで犠牲を捧げる」、「徳を与える」、「諦め」、「拒絶」など、自我のなかに参入した際にわかる特徴から、見なした。 実際、霊の特徴は、自分の魂の気配からわかり、受け取れる。言い換えれば、もし、幻想の背後で、現実、かつ真実を体現する、霊の特徴を把握したければ、その真の本性のままで、捉えたいなら、次のような感覚に至る。 「この物質界は、霊の実在から成り、その現実のなかに、霊の生きる特徴や性質をリアルに感じる。しかし、それは、自分の魂を通じて知覚できる特徴とのみ共感できる。」 例えば、外界の、熱として顕現する霊を特徴づけたいなら、その霊を、物質界のなかに犠牲を捧げる、というような本性で特徴づけるなら、この熱の要素を、霊にまで辿ると共に、外界のヴェールを取り払い、外界の中の、この熱の特徴を、人間の霊魂のなかにある本性と同じ気配で示さなければならない。 霊的な観察を続ける前に、また別の考察が必要となる。それは、幻想として物質界は、本当に無のなかに消滅していくのか? である。感覚から、外界を認識するために、いわゆる真実、もしくは現実を反映する何かがないのか? 次のような比喩がわかりやすい。塊という水、もしくは大海のなかに、内側の流れが隠れているように、真実、もしくは現実の世界が隠れている。だから、マーヤの世界は、その水面の波と比較できる。それは、大海の底から、実際に湧き上がり、表面に、さざ波を生じさせる力、と同じである。 このような比較から、真実の「何か」とは、水のなかの波を起こす力の匙加減を示す。しかし、これはほんの比喩でしかなく、更に理解を進めるには、広大なマーヤの領域内に「真実」が全くないのか?と問わなければならない。 今回は、これまでの講義より、更に話を進めて行きたい。ここでもまた、前世からの魂の経験を基に、魂のなかに霊視できる存在に徐々にアプローチしていく。「土星」、「太陽」、「月」存在の進化を、精神的に辿った後、今回は「地球」存在へと辿り着いた。 だから、前回までと比べると、より親しみのある(より一般的とさえ言える)魂の経験から始められる。前回は、魂のなかの、隠れた深み、すなわち、人智学がアストラル体と呼べるなかを見てきた。そこでは、憧れが囁くのを感じると共に、人間に、憧れが作用するのを見てきた。 また、魂のなかの、この憧れが、イメージの世界による癒しに和らげられのも見てきた。そして、イメージの世界を、魂のなかの運動として理解できるようになった。そして、それによって、個々の魂の小宇宙から、運動霊を通じて、創造する大宇宙へと続く道を見い出した。 それは、よく知られた魂の経験、そして、それは、古代ギリシャ人によく知られていたと同時に、よく示唆されてきた経験で、今日でも、その真実性において究めて意味深いが、そのような経験からはじまる。この経験は、次のような言葉によって暗示される。 全ての哲学、人間が獲得可能な知性に向かう全ての努力は、「驚き」から生じる。実際、この言葉は的を得ている。多少なりとも、思考し、何らかを学ぼうとする際に、自分の魂のなかに生じるプロセスに注意を払えば、健全なる、認識への道の起源が、「驚き」もしくは「驚嘆」に端を発するのがわかるだろう。 「驚き」や「不思議」、全ての学びの動機は、ここからはじまるが、同時にまた、それらは、あらゆる単調で、空虚で、無味乾燥なものを高揚させ、それらに生命を吹き込む。というのも、我々人間の魂のなかに生じた知識で、「驚き」から生じなかった知識とはどういう種類なのか? それは空虚と学者趣味に浸かった知識に違いない。「驚き」から生じて、謎を解くなかで経験する無上の喜びに導く魂の成長プロセスだけが、そして、それは驚きを超えて上昇するが、つまり、「驚き」に始まる魂の成長プロセスだけが、学びを高貴にし、内側から活力ある、活気を満たす。実際、これら内的な充足感のない知識が、いかにも無味乾燥なのを感じ取れるようになるべきである。 真の健全な知識は、驚きと、謎を解く喜び、という魂の成長につながる。それ以外の知識は、外見から獲得され、多様な用途のなかに適用される。しかし、これら2つの感情に充たされない知識は、いかに真剣であれ、真に人間の魂から湧き上がっては来ない。知識のなかに生きる生命的な要素が醸し出す気配から生じる知識の「アロマ(芳香)」全ては、これら2つの「驚き」、そして「不可思議な謎」を解く喜びから生じる!
2024年05月14日
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人智学では、高次の宇宙人を、霊体として解き明かしていて、天使の位階で表現している。現代人は、カリユガの時代で、唯物論に染まったために、睡眠中の潜在意識で、天使たちと出会っているのだが、目覚めた後の覚醒意識では認識できないので、夢のような曖昧な感覚で、日常生活の身近な存在に置き換え、物質界で解釈した形で思い出すのがせいぜいである。古代人は、民族の同族婚によりまだ霊能力を遺伝的に継承していたので、潜在意識に、霊眼の、いわゆる心眼をもっていたので、睡眠中に、月光を通して、高次の宇宙人の天使たち、つまり神々がみれて、現代人が互いにコンタクトするのに、言葉を使うように、いまでいう幾何学で命令を受けていたという。だから、空海さんの説く真言宗の真言のマントラのような、現代人が使う言葉というよりも、幾何学の文字のようなもので、神々と交信したようである。だから、現代風に表現するなら、数学を用いて神々と交信していたことになる。マントラ - Wikipedia現代でも、母国語以外の、数か国の外国語を話せる人が、理解力や和解力に優れているように、多様な文字を習得できる能力は、いわば遺伝的な霊能力を受け継いでいるのかもしれない。このような能力の継承は、現代でも、例えば、サヴァン症候群などで、垣間見られる。また、現代の、インド人は数学に強い、という噂や、数字の無というゼロの発見も、古代インドに起因し、インド人に優秀なコンピューターのプログラマーが多く、IT大国となっている現状を遡ると、古代インドの、この継承された霊能力に辿り着く。シュタイナーは、古代インドのサンスクリット語こそが、現代の文明の原点で、現代のアーリア文化期が幻の文明と呼ばれるのは、このサンスクリット語の、本来の意味の、ソクラテスが説いた、神々との対話を失ったため、と述べている。サヴァン症候群 - Wikipedia数字の0(ゼロ)が発見される前はどんな世界だった?数字と仏教、不思議な繋がり | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! (intojapanwaraku.com)早い話、現代の過剰宣伝風にいうなら、サンスクリット語は、高次の宇宙人により、地球人に与えられた言語というわけなんである。つまり、我々の文化期が、アーリアと呼ばれるのも、サンスクリット語に起因した文化の興隆にあるからで、西洋の大航海時代が目指したのも、黄金の不老不死薬となる、サンスクリット語での神々との対話で、それを金銀財宝と勘違いした愚かなコロンブスは誤ってアメリカ大陸に辿り着き、アメリカ先住民をインディアンと呼んでしまったわけなんである。サンスクリット - Wikipedia大航海時代 - Wikipedia新大陸を「最初に発見した」のは「コロンブス」ではなかった(石田雅彦) - エキスパート - Yahoo!ニュースアメリカ大陸の発見 - Wikipedia古代中国や日本では、古代インドを、天竺と呼び、天竺に行くのは、現代では、お釈迦さんが広めた仏教の経典を持ち帰る旅と解釈されているが、本当の意味は、遺伝継承されてきたサンスクリッド語を習いに行き、再び神々との対話の、霊能力を獲得するためで、仏教の修行でもあり、当時の仏教が、お釈迦さんによる古代インド文化の再生で、これはユダヤ教に対するキリスト教と同じで、我々地球人の使命を、つまり人類の進化の担い手となるため、と考えられるわけなんである。天竺 - Wikipedia上のウイキの解説によると、西遊記で有名な三蔵法師の玄奘が、天竺を印度と書き換えたらしいが、恐らく、天竺とは、この物質界にはなく、サンスクリッド語での神々との対話を意味する、人智学でいうところの神界のデーヴァ界のことを指すからかもしれない。玄奘 - Wikipediaデーヴァ - Wikipedia古代インドのサンスクリッド語を話せる現代人は、カリユガの時代に転生し、前世を経験しているから、ほとんど皆無に思われる。日本語でも、昔の訛りや方言をそっくりそのまま話せる現代の日本人はほとんど皆無で、現代解釈に染まった古語を、学校で改めて習うしかないわけで、とてもネイティヴとはいえない。現代では、むしろ外国人のほうが、日本に詳しいくらいで、それは、ある意味、前世が日本人だった可能性もあるからだ。つまり、現代の日本に染まっていない外国人のほうが、カリユガを経た先入観や自負心が少ないので、むしろ、カルマの法則により、個人的な虚栄心や名誉欲がなく、日本人よりも、日本人らしいかもしれない。この、むしろ異邦人のほうが、民族の本質がピュアに受け取られるのを、お釈迦さんは、出家と呼び、神秘学では、故郷喪失者と呼んでいる。ただし、現代人が唯物論から説く知識人のことではない。故郷喪失者たち——新明正道の「研究の現場」とは – 立命館大学生存学研究所 (ritsumei-arsvi.org)故郷喪失者とは、例えば、連日、大谷選手がただ日本人だからという理由で、報道されるように、同じ民族の成功者という理由だけで、忖度し依怙贔屓するのは、故郷喪失者とはいえない。むしろ、大谷選手を、外国人として捉え、外国人の視点から、その役割を、人類の普遍性から、道徳的な意味を問う姿勢を、故郷喪失者というようである。簡単にいえば、大谷選手の活躍に一喜一憂しない態度である。大谷選手は、野球が仕事なので、野球で、故郷喪失者を説明するなら、ダイヤモンドのグラウンドが、いわば人生の物質界で、表現の場といえる。大谷選手は、ドジャースの一員なので、ドジャースが、いわば民族といえる。そして、ドジャースのロバーツ監督が、いわば現場監督の民族長で、その精神が、民族霊といえる。ロバーツ監督はただ大谷選手の活躍を見守り、助言するだけで、不調だと、時には出場機会を交代させる。民族長の指示や伝令を、選手に伝えるのがコーチたちで、それらは、人間でいえば、現役を引退した天使たちになる。つまり、人間の上には、現役を退いた天使たちがいて、その天使たちの上に、大天使の民族霊がいるわけなんである。そして、大天使の上には、時代霊と呼ばれる、運動を司る権天使がいて、人格霊とも呼ばれている神々がいる。だから、先の大谷選手の話で譬えるなら、時代をつくる権天使は、野球というスポーツで一時代をつくるMLBの会長になるかもしれない。そのなかで、故郷喪失者というのは、個人やチームの勝利に貢献するが、それに囚われない、野球全体のパフォーマンス、更には、人間社会のモラルに寄与する役割を自覚できる実践者ということになるかもしれない。いまは大谷選手を題材にして、野球で、高次の宇宙人たちとの関係を説明したが、故郷喪失者とは、簡単にいえば、野球もできるが、野球以外のスポーツもできるし、言語においては、多国語を操れるような、仏教でいえば、執着心のない、出家の修行者的立場に立てる人といえるかもしれない。根無し草というよりも、多様な雑草魂というべきかもしれない。だから、輪廻転生を何万回も繰り返し、ほぼ浄化に近い霊魂といえるかもしれない。自国や自民族に拘るのは、まだ故郷喪失者ではなく、故郷望郷者、待望者でしかない。そこには、故郷を捨てた代わりに、何らかの見返りを求める名誉欲や虚栄心への憧れが隠れているからである。古代人にとっては、人間の上に立つ、天使や大天使、権天使や、更には能天使、力天使、主天使と、知性が高次になるほど、人類の知性では意識できずに、捉えられなくなっていく、高次の宇宙人の、神々との対話が、自らの存在証明だったわけである。だから、古代インド人は、生まれながらの高次の知性を失った故郷喪失者で、ヨーガや、ヴァーダ哲学により、サンスクリッド語を駆使し、神々との対話による、故郷を天竺に求めたわけである。だから、お釈迦さんは出家して、来るべきカリユガの闇の時代に、サンスクリッド語が失われてしまうので、転生してはならない、生まれてはならない、と警告したわけである。しかし、キリストが降臨して、カリユガの闇の時代をのり超えれる、道徳の実践を説いたので、誰でも、個人のパフォーマンスにより、民族を超え、時代を超え、人格さえ超えて、神の子として、聖霊となれるのを、人間の死からの蘇りで示し、いまも救いの力を個人のなかに、個人の道徳的運動を促すポテンシャルとして送っているという。この道徳の実践をなす、物欲とバランスを保つ、自己の欲望を放棄させ、故郷喪失者の個人を救うポテンシャルを、パウロは、「私の自我のなかのキリスト(霊我)」と呼んだと、シュタイナーは説いている。現代風にいうなら、バランス回復力である。それを、もし、現代物理学風の、ニュートン流で解き明かすなら、道徳の力学的エネルギーが、個人の人生での、質点の運動エネルギーと、個人が持つポテンシャルエネルギーの和で、表現できるだろう。つまり、個人がもつ道徳実践エネルギー=(覚醒意識での、運動エネルギー)+(睡眠の潜在意識での、ポテンシャルエネルギー)で、そのラグランジアンは、光の最小作用の原理から、キリストの人生へのカルマの救済原理として、個人が救われるように、人生がつくられているのが、自我を霊我から観測できるようになっているのが、霊能力獲得から、わかるようになるだろう。最小作用の原理 - EMANの解析力学 (eman-physics.net)キリスト原理により、人類が救われるのを感知できるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★(シュタイナーのクライスト論を続ける ハインリヒ・フォン・クライスト - Wikipedia 【戯曲】クライスト『ハイルブロンの少女ケートヒェン』あらすじと感想 : びょうびょうほえる~西村俊彦のblog (livedoor.jp)) そしてまた、ハイルブロンのケートヒェン(クライストの戯曲)に表現されている状況、ケートヒェンと、シュトラール伯爵との関係、その関係は覚醒意識で遂行されるが、それに気づかれることなく、潜在意識のなかを行き来する、魂の奥深い憧れから生起されるが、潜在意識のなかのこの低次の欲望はどのような役割を果たしているのか? 人智学徒が、この状況を霊視すれば、重力や引力といった物質界の力のなかにある霊性を感じ取れる。物質力のなかにある本性を霊視できる。例えば、ケートヒェンが、憧れの人の前に立つ場面で、潜在意識のなかに何が生きているのか、そして、それが、外界にある重力、つまり諸惑星との引力として唯物論で言及される力学と、どのような関係にあるのか、を霊視できる。一世紀前には、クライストのような霊感の持ち主の、苦闘する魂でさえ、この潜在意識の深いレベルまでには潜入できなかった。今日の人智学徒には、それが可能になっている。 悲劇「ホンブルクの公子フリードリヒ」(1810年に書かれたクライストの最後で偉大な作品)もまた、今日では、一世紀前とは違った形で感銘を与える。人間が成し得る全行為を理性に帰属させようとする現代の抽象的な思想家たちは、ホンブルクの公子のような人物、つまり彼の偉大な行為、最終的な勝利へと導いた行為さえも、潜在意識のなかの、一種の夢想状態で成し遂げた人物を、どのように説明するのか、知りたいものである。 実際、クライストは、公子が、覚醒意識から勝利を達成し得たのでも、高次の意識という意味ではとりわけ秀でた人物でもなかったのを、というのも、彼は後に、死に直面して、メソメソと泣いたからだが、はっきりと示している。公子が力を発揮できたのは、 彼の魂の奥深くに生きるものが途方もない意志の努力を引っ張り出してきたときだけだったのである。 人類にとって、「月」の意識からの遺産として残ったものは、抽象的な科学では取り扱えないものである。それは、多面的で繊細で微妙な概念、自由で緩やかな輪郭を持った精神的な感性でしか把握できない概念なので、つまり、人智学によってもたらされるような霊的な概念から導かれなければならない。最も偉大な諸概念は、中立的な性質をもち、普遍的な諸概念を、自ら互いに結びつける。 このように、今日の魂のなかで経験する状態や気配、つまり精神性は、宇宙の進化と、宇宙全体に結びつけられている、ということを、人智学が示すのがわかるだろう。また、魂のなかで経験できる内容だけが、外界の事物のなかにある、精神的な根拠についての概念を形成できる、ということも理解できるだろう。更に、我々の時代においては、 先立つ時代での憧れが、我々の時代になって、はじめて、その憧れに対しての満足を与えるのが可能になり、その満足を、当面は達成できるようになった、というのも理解できるようになる。 このように、過去の時代の人間たちに対して、つまり、心の奥底にある、憧れに到達できる、リアルな道を見い出せなかった人間たちに対して、当時の物質界は、精神的な憧れに、物質的な満足を与えることができなかったが、絶え間なく憧れを追求した、その精神的苦悩に、一種の賞賛が生じる。 全ての人生は、宇宙全体の進化のなかの、1つの総体である、ということ、そして、今日の人間は人類が既に遥か昔に必要としていたような、彼らの運命は、本当に、それを自伝として、我々に示すが、その憧れを通して、精神的な運動に、人生を捧げることができる、のを思いやるとき、確実に、そのような人物たちに対する、ある種の賞賛が生じて来る。 だから、人智学を人類の憧れに対する救済を担うもの、として指し示せるかもしれない。荒れ狂うと同時に、悲惨に満ちた人間たちが長い間探し求めてきたものを、人智学は今、与えられる、という事実を、思い出すのに適した今日という日は、というのも、これらの憧れに満ちた人物たちの一人が悲劇的な死を遂げてから一世紀も経つからだが、特に、尊敬を込めて、賞賛と共に、与えることができるかもしれない。このような考え、多分に人智学的な考えも、カルマを通して今日という日に、胸に抱けるのは、ドイツの最も偉大な詩人の一人が亡くなって百年経った、この記念の日においてかもしれない。
2024年05月09日
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現在では、唯物論のドルトンの原子仮説により、還元論の代名詞ともなっている素粒子論だが、古代ギリシア時代にまで遡ると、デモクリトスの原子論に辿り着く。現代物理の素粒子論の基盤となっているのが場の量子化の第2量子化の生成消滅演算子の根拠となっている量子力学だが、これまで述べてきたように、いまだに観測問題という唯物論を超えられずに、確率統計のような曖昧な数学を用いて記述している表現力では、非線形現象を線形化し、単純化し、物質に置き換えた、真相とは程遠い経験的な現象は後追いで記述できても、生命現象を予め見積もって、預言者の如く、予知するのは、シュレディンガーの猫からも不可能であるのは人智学から明白である。ジョン・ドルトン - Wikipediaデモクリトス - Wikipediaというのも、アインシュタインのいうように、神はサイコロを振り給わずで、カルマを書き給うからで、シュレディンガーの猫の生死は、猫と飼い主の物質界を超えたカルマの関係で決まるからである。端的にいえば、波動関数は、物質界だけで都合よく首尾よく、確率統計学で決まるのではなく、物質界を超えた全宇宙のカルマの法則から決まるからである。つまり、客観的な証拠は物質界だけにあるのではなく、物質界を超えた、虚空と呼ばれる、俗にエーテルやアストラルで書かれたアカシャ記録のカルマにある。人智学によれば、客観的な証拠は物質界というよりもむしろ物質界を超えたところにあり、物質界では、常に個人的な感覚が問題視されるが、客観的というのは、個人の感覚を超えたところにあるからである。脳科学者はどの脳も似たような機能をもち、電子回路のような違いでしかないと考えているが、そのような類似化は、物質界でしか通用しないのは、互いの議論を巡って、論争し、闘争し、戦争することから、少なくともわかるはずである。誰もが納得するような客観的な証拠があるのなら、互いの議論を巡って論争するわけがなく、それらが個人的感性に負っているせいなのは明白なんである。なんのことはなく、悪魔に騙され。唆されて、互いに闘わせられているにすぎない。ホンモノの客観的な証拠、つまり真実であるなら、そこには理解力と和解力が、そして、人類を次の進化へと導く愛が隠されているはずだからである。物事は我々地球人が考えるよりも遥かに複雑で、物理学者の思考実験なる単純化したモデルでは想定できない、宇宙の全生命体の意向が波動関数の一点に集約し、その重ね合わせとして現れているわけなんである。そして、波動関数は宇宙のカルマの進化と共に、常に新しく書き換えられている。例えば、ハイゼンベルグの不確定性関係からもわかるが、位置と運動量の交換関係は、どちらを選ぶかで、その後の関係が変わってしまうように、量子力学の物質化を超えた非線形現象は、常に線形化を受けて、同時に非線形化されてしまうわけなんである。この物質界での観測経験による線形化に対しての、それを超える非線形化こそが、カルマの法則というべきものだろう。つまり、ハイゼンベルグの不確定性関係は、観測者である猫の飼い主が、猫の生死のどちらかを選択し、観測することで、後に生まれ変わったときに、最初に優先しなかった状態(最初に死なら、次は生を、最初に生なら、次は死を)を観測する人生を経験するカルマの法則に置き換えられるのを意味するのである。この不確定性関係をカルマの法則に置き換えるのは、アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスによく似ている。不確定性原理 - Wikipediaアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス - Wikipedia量子力学では、物質界での観測を前提にしているので、この問題を縮退と数学的に記述している。この問題は、例えば、人体外の電子と、人体内の電子の区別がミクロでは不可能なのを意味している。それはまた、方位磁石の針が北を向くのを、方位磁石の針に要因を求めるのと同じ間違いである。方位磁石は、地球が発する地磁気の方向を指しているだけにすぎないのはいうまでもない。縮退 - Wikipedia我々地球人は、磁石のNとS、つまり電気のプラスとマイナスがひき合うのを経験から知っているが、それがなぜなのかは理解していない。ただ、引き合う現象を、物質的に、プラスとマイナスに数学的に記述し、観測から評価しているにすぎない。例えば、男女がなぜ惹かれ合うのかを、男、もしくは女に追及していっても、わからなくなるのと同じで、人類全体から、人間の進化から解き明かさないと意味がない。男なるもの、女なるものは、物質界からではただテストステロン、アンドロゲンなどの男性ホルモン、もしくはエストロゲンやプロゲステロンなどの女性ホルモンの分泌がどうたらこうたらで説明し、多様な個人的な観測立場から、論争するだけなんである。プラスを選択するほど、次にはマイナスを選ばずを得なくなるのを考えないと、バランスを失うわけなんである。だから、シュタイナーは、特殊なカルマでの事情がない限りは、男に生まれた後は、次には女に生まれる、と語っている。物質界での線形的な観測論しか唯物論で言及しないから、特定の自分が観測した固有値に囚われ、それに固執し、物事を単純化しすぎて、その背後にある非線形化を考えないから、馬鹿で愚かな独裁者のような権力者が愚かな正義を振りかざし、悪魔に唆されているのに、その自覚がなく地獄に行くような戦争をはじめてしまうわけなんである。つまり、生と死や、物質の生成と消滅を理解し、自他共に和解するのは、物質現象の背後にある、カルマの法則を知らないと、ソクラテスが説いたように、無知なままの、馬鹿で愚かなままで、論争や闘争や戦争で人生を費やし、結局、死後に執り行われる最後の審判で、地獄に堕ちるだけなんである。プラスとマイナスのバランスをとる働き、つまり、バランスのバランスが、カルマの法則で、真相なんである。プラスとマイナスが惹かれ合うのは、その背後で、バランスをとる、カルマの法則があり、バランスにより、共生共存のモラルの法則を満たしているわけなんである。だから、現在の自分の立場を知り、その立場を乗り超えて、宇宙のバランス能力の、モラルを理解し、個人に囚われずに、他との和解が重要なんである。さて、デモクリトスの原子論にまで遡ると、デモクリトスが、ドルトンのような唯物論の原子説を説いたわけではないのが、人智学より明らかになる。古代ギリシア時代では、それでも、十分に唯物的だったので、プラトンのイデア論により、将来の民衆のカリユガ化を薄めるために、排斥されたようだが、アリストテレスの「運動は不変の安定に向かう」という慣性の運動論に影響を与えているようである。デモクリトスの原子論を、ウイキから以下に抜粋する。『「原子(アトム)」は不生・不滅・無性質・分割不可能な自然の最小単位であって、たえず運動し、その存在と運動の場所として「空虚(ケノン)」の存在が前提される。無限の空虚の中では上も下もない。形・大きさ・配列・姿勢の違うこれら無数の原子の結合や分離の仕方によって、すべての感覚でとらえられる対象や生滅の現象が生じる。また魂と火(熱)とを同一視し、原子は無数あるが、あらゆるものに浸透して他を動かす「球形のものが火であり、魂である」とした。デモクリトスは世界の起源については語らなかったが、「いかなることも偶然によって起こりえない」と述べた。』この文からもわかるが、「空虚」とは、現代の物理から解釈すれば、ディラックの海と考えられ、物質界で記述すれば、ハイゼンベルグのヒルベルト空間で、原子(アトム)とは、数学的にいえば、エルミート作用素の演算子になるだろう。ディラックの海 - Wikipediaヒルベルト空間 - Wikipediaエルミート作用素 - Wikipediaエルミート演算子を使うかどうかは観測者で、使えばそれに伴い、観測者と、観測対象との不確定性関係が、カルマの法則に書き換わるわけで、現世で観測できなかった他の、いわゆる仮想の量子状態は、カルマの法則により、観測者の知的な進化と共に、来世へと持ち越されるわけなんである。つまり、デモクリトスのアトム論は、仏教の色即是空と同じで、観測者が、「量子あれ」と念じて、エルミート演算子やらを、空虚のヒルベルト空間の場に、用いて共感すると、現世の経験が線形化し実数となって現れるが、同時に、選択されなかった非線形化した他の虚数の状態は、次回へと持ち越され、最後は、その経験が、観測者の死と共に、物質界から回収され、再度、今度は陰と陽の自他が逆になり、観測者と、観測対象が入れ替わり、強化されて、次の転生での経験として持ち越され、観測者の進化の課題となる、というような、カルマの法則を、空虚で表現しているようにみえる。科学の歩みところどころ (shinko-keirin.co.jp)アリストテレスの運動論の、運動は不変の安定へと向かう、というのを、カルマの法則で考えれば、プラスとマイナスが入れ替わったり、全体として統合され、全体のバランスへと向かう、バランスの調整で、つまり、全体のバランスが保たれた、つまり、無秩序から、秩序へとモラルに向かっていくのがわかる。アリストテレスの運動論でいうなら、局所的に不均衡なプラスか、マイナスの陰陽のどちらかに偏っている状態は、全体をみてみないとわからない。人間の感性は個人化されて、自己を中心にみているが、地球の中心にいるわけではなく、ましてや太陽系の中心でもなく、宇宙の中心でもないから、とりあえずは、自己の中心がバランスを崩さないように、人生を通して、地球の中心とバランスをとるのが、肝要になるといえる。つまり、自分が全体からどの位置にいるのか、どの速度で、安定に向かっているのか、人類の進化全体からどれだけ遅れているのか、を確認しないといけないわけだが、その確認は非常に困難で、ましてや量子力学の不確定性関係では、確率統計論に陥ってしまい、現在の自分すらもほとんど客観視できないでいるわけで、迷える子羊なんである。我々地球人は個人的自我をもったわけだが、その個人が、民族全体から、更には人類全体から、その中心からどれだけ離れ、運動しているのか、古代人なら、会社のなかの役割のように、例えば、民族霊から、お前の立場は、いまは民族の課長クラスで、使命感や責任はコレコレだと、霊能力で見通せたが、カリユガ化した現代人は、自分しかみえず、しかも肉体の物質しかみないから、いまいる位置すら、どういう速度で進んでいるのかも、中心すらもわからずに、だから、物質界で、肉体という物質に質量を与えて、地球の中心に魅了されながら、物欲を満たしながら、物質に洗脳されずに、とりあえず現時点のバランスを取りながら生きていくわけなんである。そして、地上の物質界から、地球の中心の重力に引き寄せられながら、物質的な質量で、偏りながら、バランスをとって、現代社会の物質的な変化に流されずに、自分の生活圏の安定を保障する通貨を稼いで、自己のバランスを取りながら、自己の中心をどうにか確保しているわけでもある。しかし、その自己の中心をみる物質的な感覚は、物質界での一面的な偏りをもった通貨などの人間関係のなかの信頼による仮想の見方なので、その偏った自己を基点にして、全体の中心にむかって、絶えず運動し、経験を糧にして、自己の中心を新しく求めながら、人生の川を流れ、立場を入れ替え、回転しながら、摩擦を少なくして、自己という固い石の角をとり、丸くなって、「転石苔むさず」の諺のように、輪廻転生を繰り返しながら、完全な丸い、摩擦のない回転の球体になっていくのが、人類が、物質界に転生し、経験しながら、宇宙のモラルのバランス感覚を獲得していくための、いわば進化のための運動といえるかもしれない。転石苔むさず - Wikipediaこのように、古代ギリシア時代の、デモクリトスの原子論や、アリストテレスの運動論は、物質の運動だけを想定し、語ったものではなく、宇宙の中心や、太陽系の中心、そして、人類進化全体の中心や、人生の中心となるべき、個人の中心を語ったものなのが、人智学のカルマ論により解き明かされる。例えば、素粒子論の粒子と反粒子の入れ替えで対称性が保存するか破れるかが議論され、CPTの対称性などと名付けられているが、宇宙が偏りをなくすように、つまり無秩序を秩序化するように、陰と陽を調節しながら、バランスし、運動しているカルマの背景を考えるべきだろう。CPT対称性 - Wikipedia人智学によれば、アリストテレスの運動論の究極は、バランスを保つ中心点をみつけるカルマ論にあると考えられる。ニュートンは、流率法により、中心からの偏りを、微妙な変化の文字を、оや・で示し、古代ギリシア時代の幾何学的手法から、微積分を確立したが、有名な著書プリンキピアでは、本人曰く流率法を用いずに、古代ギリシアの幾何学的手法でもあったカルマ論の対称性からニュートン流の慣性の法則を導入し、ケプラーの天体の運動を説いている。だから、ニュートン力学は唯物論により絶対時間だと誤解されている。ニュートンの記法 - Wikipedia絶対時間と絶対空間 - Wikipediaニュートンは、絶対時間や絶対空間を、つまり現代人が考える物質的運動の時間や空間と考えていたのではなく、カルマ論を説いていたと考えられる。以下にニュートンの考えをウイキから引用する。『ニュートンの言葉によれば、絶対時間はいかなる観察者とも無関係に存在し、宇宙のいかなる場所でも一定の早さで進んでいく。相対時間と異なり、絶対時間は知覚できるものではなく、数理的に理解するものだとニュートンは信じていた。ニュートンによれば、人間が知覚できるのは相対時間だけで、それは知覚可能な物体(月や太陽など)の運動を測定することと同義である。我々は物体が動くのを見て時間の経過を知るのである。』この文からもわかるように、ニュートンは物質界だけではなく、物質界を超えた宇宙の中心を考えているのがわかる。だから、「絶対時間」と日本語で訳しているが、デュレーション(英: duration)である。日本語に直訳すれば、「継続期間」となる。これは意訳すれば、時間というよりも、保証期間とか、修行期間とか、発展段階とか、プロセスと呼んだほうが意味がわかる。ニュートンがカルマ論を想定していたとすれば、カルマの代償期間、もしくは補完期間といったほうがわかりやすいかもしれない。デュレーションとは、アリストテレスの運動論からもわかるように、不変な安定の、完全なものになるための猶予期間といえるかもしれない。つまり、ニュートンは、物質界での物質の運動から観測できる時間なるものは、仮の相対的なもので、その運動体だけに意味をもつ、と言っているようにみえる。人間に当てはめるなら、死後に執り行われる最後の審判までの人生のことになるだろう。人生の生き方が、いかにモラルに則ったものか、太陽の中心のキリストの生き方に近いか、が、その人間のデュレーションなのであり、カルマなのである。中心から離れた偏りが、死後の最後の審判で裁かれ、それに応じて、地獄に堕ちて、反省し、次の転生で、その偏りを背負って生まれてくるわけなんである。だから絶対なのは、カルマであって、時間ではなく、ニュートンは物質界での時間を、物体の運動量から観測し、相対と述べているように、絶対時間や絶対空間ではなく、物質界を超えた話と考えるべきである。ちなみにアインシュタインの相対論は、このニュートンの相対時間を、光速度を基準にして焼き直したものと考えれば、人によって、時間感覚が異なるのが、わかりやすくなるかもしれない。光の見えない真っ暗闇では、時間感覚が偏っていくからである。つまり、人間は物質界での覚醒意識を基点とした時間感覚に依存しているわけなんである。我々地球人は覚醒意識を基点にして、物質界から、物理法則を記述したが、それらが通用するのは、あくまでも、物質界だけでしかないのを無知の知により知るべきなんである。この物理法則から物質界を幸福に生きようとしても、砂上の楼閣で、物質界の中心は、物質界にはなく、物質界を超えたカルマの法則の物質と霊の対称性にあるからである。我々地球人が、人類進化の中心点をみつけるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★(シュタイナーは、クライストをカルマから読み解いた主題として話を進める。 ハインリヒ・フォン・クライスト - Wikipedia) クライストが手紙で表現した内容が、いま解き明かせるのは、まさに天の配剤といえ、これこそ現代へのカルマの恩寵とも言えるだろう。それは、これまで述べてきた宇宙の進化と連動し、つまり犠牲への意志が拒絶されたため、憧れに変わり、代わりに運動霊によって、その憧れが慰められ、最終的な満足へと向けられた努力が、「贖いの惑星」の地球上で達成される、のをよく表現している。 この行き場のない憧れを、気高い言葉で表現し、その切なる望みを悲劇的な行いに体現し、注ぎだした、この魂を髣髴とさせる葛藤の内容について、いま解き明かせるのは、前世のカルマの解消だった、という霊的な事実である。 この事実に気づくなら、この男の精神が、人類全体のなかの、真に魂の奥深くに生きている、個人的な憧れによる渇望を、地上的な存在を超えた領域へと連れ戻すような生の体現なのに気づくはずである。クライストの手紙が、意味深なのは、自分を超えた領域に、憧れの存在を探し求めるように、人間に強い、人間が経験できる高次の存在について、それは、もし、彼が未発達なままで生命の糸を断ち切らなかったら、発達した後にわかる存在についてである。正に「人間と人類への霊的導き(シュタイナーの講演録で、本になっている)」の最初のページの記述を、彼は経験しただろう。 例えば、フォン・クライストの「ペンテシリア」(アマゾンの女王ペンテシリアとアキレスの血みどろの戦いについて、ギリシャの伝承に基づいて書かれた凄惨な悲劇)について考えてみて欲しい。ペンテシリアのなかには、彼女の自我の、地上的な意識で推し量れる存在よりも、遙かに多くが存在している! もし、彼女の魂、勿論、偉大な魂だが、その地上的な覚醒意識で包含できるよりも遥かに無限の広がりを持つのを、仮定しなければ、彼女を理解するのは全く不可能である。だから、その潜在意識を芸術的な方法で読み解いた状況が、劇中のドラマのなかで生じなければならない。 こうして、一連の出来事(クライストがアキレスのために設定した出来事)が、高次の意識で審査される可能性を阻止しなければならない。もし阻止しなければ、その悲劇の重大さを現実のものとして経験できない。ペンテシリアは、アキレスによって囚われの身となるが、アキレスの方が彼女の囚人である、と思い込まされる。「彼女の」アキレス、という表現はそれを示している。覚醒意識で捉えられないものは、潜在意識のなかに霊視から投影しなければならない。
2024年05月08日
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人智学によれば、我々地球人は、いわば地球に旅行しにきているわけだが、現代人は、カリユガの時代が長かったためか、前世を忘れて、地球に満足できずに、最近は月に行きたいとか、火星に行きたいとか、地球での環境問題や貧困問題も解決できずに、この国の政治家の如く、国内問題を放置したままに、外遊を続けて、浪費放蕩生活を辞めないのには、現代人特有の獣性が感じられて、呆れ果ててしまうばかりである。地球の物質的な生活も、満足に暮らせないのに、他の天体の物質性に満足できるわけがない。国内生活が嫌だからといって海外生活に憧れるのと同じである。人智学から厳密にいえば、地球の物質的な生活は、肉体上での制御の問題で、いかに脳から覚醒意識を満足し得るかどうかで、つまり物質界で矛盾なく暮らせるかどうかで、精神を物質で満たし得るかにある。しかし、現状は国家をつくって物質的に平等な暮らしを確保するどころか、貧富の格差が拡がり、貧困問題から、国家間紛争に陥っているわけで、悪しき民族主義が、土地を巡っての利権問題に陥るモラルハザードから、しばしば制度政策不備に陥っているわけなんである。端的にいえば、霊の物質化が制度破綻をきたしているわけで、古代ギリシア時代の哲学が、中世のルネッサンスを経て、霊的な幾何学が、物質化された代数の数学となり、ついには、近代のカリユガ時代に、物質構造化の力の概念の物理となり、集合自我から、個人主義に目覚めたのは良かったが、神的な存在が、みえなくなってしまい、物欲の強欲さやエゴ、名誉欲や虚栄心がもたげてきて、二―チェの有名な「神は死んだ」の象徴的な言葉を連想させる、現代人のエゴ性を、古の民族主義として引きづる現代に至っているわけなんである。だから、先進国では少子化問題を解決すべく、こぞって多民族共存共生へと舵を切っているわけなんである。神は死んだ - Wikipedia人智学によれば、この「神は死んだ」というニーチェの発言は、カリユガにより、人間が古の古代叡智を失ったという意味で、神がみえなくなってしまったという意味でもあり、古代エジプト人のミイラをつくる働き、そして、キリストが降臨し、人間の肉体による死を知ったという意味をもつらしい。だから、人間は、民族霊という神から、その手足として個人で生まれたが、カリユガによって、ルシファーの低次の知性に染まっていくに従い、地に数学などのリベラルアーツを確立し、宇宙進化のモラルの十戒から逸脱していくが、キリストが降臨し、改めてモラルを説き、エゴからの個人的な救済にあたる、肉体からの脱却を、神の死と説いたわけで、来るべきアクエリアス時代での、キリストの再生の蘇りを想定したものなんである。仏陀もキリストも、死ぬ事はなく、いまも生きているのだが、肉体という死の感性からは、というのも、物質は分解され、解体されてはじめて、その内容が、構造がわかるわけで、精神的な満足を完全に満たすものではないからである。だから、地球という物質界に満足できずに、月や火星に行きたいというのは、正に金持ちが地獄に行く道理の裏返しでもある。死の感性が辿り着く果てが魂の墓場ゲヘナだからである。この物質界から飛び出したいという強欲さは、死の感性を持つ限りは、孫悟空がお釈迦様の掌中にある話と同じで、己の愚かさに無知さに気づかない馬鹿なんで、その馬鹿さ加減をみていると、カリユガ時代の宇宙論で有名な天文学者のカールセーガンが書いたコンタクトという映画を思い出す。コンタクト (映画) - Wikipediaこの映画を人智学で解き明かせば、ロケットなど宇宙船に乗らずとも、地球人は睡眠中に、月や火星に行っているのである。地球にいるのは、肉体という地球の乗り物に乗っていて、乗り物の地動説から宇宙を解釈しているせいなんである。量子力学や超弦理論が、奇想天外にみえるのは、物質界の線形観測から強引に解釈しているせいなんである。さて、巷はGWで、GWに浸りたい気分もあるが、この地球のどこかで戦争が行われ、低次の宇宙人である、悪魔が人類を戦場へと送り続け、支配を拡大し、いまも高笑いをしているのを見過ごすわけにもいかず、この国の指導者も、そのような低次の悪魔に洗脳され、獣化しているのに少しでも警笛を鳴らすために、高次の宇宙人とのコンタクトを続ける意味でも、人類同士に和解をもたらせる可能性がある人智学を紹介していく。GWに、日本人が海外へ、外国人が日本へと、短い期間だが、海外との文化交流で、この国の文化が海外から、いかに遅れているのか、を知るのにいい機会といえるかもしれない。この国の政治をみれば、いまだに個人主義がみえない、サル山のサルの獣のような派閥主義や党利党略が優先され、国民の生活は置き去りにされ、官僚主義のヒエラルキーが悪しき文化として残っている。それはかつてのロシアのノーメンクラトゥーラを髣髴とさせる。ノーメンクラトゥーラ - Wikipediaいまだにこの国は、古く悪しき形骸化した民族主義の集団主義を抜け出せないでいる。それがいま、若者と高齢者の間で社会的論争や闘争を巻き起こし、低レベルな政治が経済的に放置しているために、少子高齢化を招いているのが現状である。外遊はすれど何も学べない学ばない無能で馬鹿な政治家がやる事は虚栄に満ちた自己欺瞞の浪費による自己保身で、赤字国債を発行してはただただ増税でしかないのが笑止千万で益々社会的混乱を生み出している。悪しき古き文化にすがる老害が巷をゾンビのように跋扈している。対照的に、北欧ではジェンダーフリーが唱えられ、個人が性差別を乗り超えて、かつての両性具有の精神性への回帰に目覚めている新しい時代、つまりアクエリアスの水瓶座の到来の予感が既にあるにも関わらずにアジアの多くの国は、かつて仏陀が出家を説いたのにも関わらずに、いまだに民族主義から脱却できずに、民族主義をそのまま、まるで物質生産工場の歯車のような機械に構造化している。そこには人間はなく、悪魔に奴隷化された獣のゾンビのような、生き血を吸う吸血鬼のような資本家しかいない。そして、資本家が始めるのは権力を懐柔する土地利権の収奪である。ジェンダーフリー - Wikipedia強欲な資本家を生み出した背景は、カリユガの暗黒時代、つまり悪魔の洗礼ならぬ染霊を早くから経験してきたのが、西欧の植民地化政策で、ルシファーの分別知、いわゆる霊の物質化による産業革命、つまり、民族主義脱却のための個人の物質的な独立運動といえる。仏陀時代の出家が、物質的な強欲に置き換わり、悪魔化されたといえるかもしれない。仏陀の時代は、まだ古代叡智を読み解く霊能力があったので、仏陀は、来るべきカリユガの時代に染まってはいけないと、予めに出家と輪廻転生の教えを説いたわけだが、その仏陀の教えも物質化されてしまい、この国では銭儲けに明け暮れて、詫び寂びの本来の意味もなくしている。本来の詫び寂びとは、死者をみれる霊能力の事なので、物質文明に染まらない、霊を物質化しない力、もしくは物質化からの霊の解放能力を意味する。詫び寂びを知らずに、新興宗教のように、宗教を金儲けの集団主義の道具にしてしまっているのが、悪魔の洗脳によるトラップで、いわば詐欺宗教なんで、そのまま地獄へと集団旅行の地獄観光ならぬ観闇巡りへと堕ちていくだろう。統一妖怪などやインチキ教団が巷に溢れている。仏教だって高額な墓料を売りつけたりしてインチキなものばかりだ。これらは霊感商法と呼んでいるが、霊感がないから、地獄に堕ちるのがわからないからできるわけで、本当は不霊感、もしくは悪霊商法というべきだろう。そもそも、霊感とは人類全体の発展のためにある精神的な感覚なんで、つまり、いかに迷える子羊を救えるかの公正で、平等的なモラルの感覚なんで、自分だけ利益を上げ、得をしようというような不埒で強欲な感覚は、悪霊のものなんで、悪霊感というべきだろう。だから、カリユガの時代に多くの悪魔教が生まれたわけなんである。自分だけ解脱しようというのも同じである。カリユガの暗黒時代の、霊の物質化による土地の支配欲は、ルシファーからアーリマンへと、悪しき遅れた民族主義による精神的な欲望の文化が、物欲へと引き継がれていく文化の負の遺産ともいえるが、その負の遺産がいまだに戦争という形で残っているのが、現代のアーリア文化期の課題である。古い文化にも確かに良い面はあるが、良い面とは、悪しき面を新しく良い面に変えるものなんで、新しい文化のなかに、その根底に生きているはずである。それは日本人の手抜きのないモノづくりのなかに現れているはずである。それが、霊の物質化のなかに、霊を読み解く詫び寂びの感性である。詫び寂びの感性は、簡単にいえば、依怙贔屓やインチキをしない、モラルの道徳性の、虚栄や物欲、強欲を捨て去り、足るを知る精神の、心の働きである。詫び寂びのモラルの感性があったので、この国の文化は、新しいモノづくりや心のもてなしの精神へと霊化できたのかもしれない。詫び寂びの感覚は、睡眠中に目覚め、大自然のなかに、物質性を超えて、仏の霊の働きをみる、つまり季節感により育てられる。先日、現代人は味覚力を失いつつあるのを、巷のTVでみたが、本来の味覚は物質性に囚われない霊性で、大自然の営みをそのまま感じる感性である。TVの番組では、薄味の新鮮な食材を食べ、些細な感覚力を養うことで、味覚力を取り戻す方法を提案していた。特に塩分の微妙な匙加減が重要になるようである。和食は季節感を重視しているように、味覚から、大自然の働きを見通すように、食材を生かし調理するのだろう。和魂洋才と言われて久しいが、和食ブームといわれる現代の和食に季節感から詫び寂びの霊能力再獲得の輪廻転生を読み解ける能力があるのかは、和食調理師の心掛け次第といえるかもしれない。いずれにしろ、強欲さ、虚栄心、名誉欲を捨てるためには、足るを知る必要があるだろう。心を満たすには、物質性にはない、心のなかの問題を解決するしかないだろう。心のなかに安らぎがない限りは、外に何を求めようが無駄だからである。だから、心のなかの中心の足るを知る必要がある。「足るを知る」と、幸せになれる / 植西 聰【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア (kinokuniya.co.jp)和の本当の意味、民族主義を超えて、地球の季節感と一体となり、足るを知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 現代人は、外界から、表面的に、覚醒意識を満足させ、あらゆるものを認識するのを学ぶ。しかし、潜在意識から脈打って来るのは、外的な事情からは決して満足させられない、前世に起因するカルマによる人生の中心的な課題解決への切望である。 しかし、この中心的課題を、解決できるようになるには、人生に生じる物質的な事柄だけでなく、その全体に関与するカルマを読み解ける能力を手に入れたときだけである。今日、魂の奥深く生じた憧れは、本来は、高次の意識へともたらされるべきで、宇宙のなかに生きる神々や天使たちの存在と交われるように、寄与しなければならない。もし、 この霊的な存在との接触がなければ、その存在への憧れが、魂の奥底から、意識されずに生じてくるだろう。 この意味で、人智学は魂の奥底に生きる憧れへの1つの回答である。そして、世界中で生起している出来事の序章が、遥か昔にあったとして考えると、今日生きる人々が、魂の中にある憧れの力を、人智学によって和らげようとし、特に、そのような憧れが、覚醒意識を超え、脅威となるように、消耗させる場合に、人智学が語る内容が、心を和らげるのは、驚くべきことではない。 もし、憧れを脅威と感じるような人物が、人智学のような、精神的な叡智がなく、手に入れられなかった時代に生きていたなら、正に「偉大な精神」であるが故に、精神的な叡智に対する絶えざる憧れに悩まされ、人生の意味を把握する可能性から疎外されて来たはずである。 他方、今日では、かつての霊的な像(イメージ)への憧れを和らげ、それへの絶望を沈黙させ、憧れを退治するようなものが、その魂の中に滴り落ちる。以前には、 この一連の像(イメージ)の行進が止むのを待ち望み、像が益々大群となって居座るほど、益々更に待ち望むしかできなかった。 ハインリッヒ・フォン・クライストが友人に宛て、次のように書き送っているのを見ると、魂の憧れが、まるで香油のようになって、自らの欲望を注ぎ出し、人智学のようなカルマ学を、手に入れられなかった時代に生きていた人の言葉から、次のような内容が表現されているのがわかる。 「この地球上で幸せになりたいって? そんなことを言う奴がいたら、恥を知れ!とでも言いたい。全てが死で終わる場所で、なにかしかの目的に向かって努力するなんて、いかにも先が読めない、ご立派な人間のすることだ! 我々は出会い、三度の春を互いに愛し合い、そして、永久に互いから逃げ出す。愛がないのに、その努力にどんな価値があるというのか。ああ、何か愛以上の、幸せ以上の、名声以上の、xyz以上の、何か、我々の魂が夢想さえしないようなものはないのか! 世界の頂点にいるのは悪い精神ではあり得ない。それは何か不可解なものに過ぎない。我々だって、子供が泣いているとき、笑わないか? この無限の広がりについて少し考えてみたまえ! 無数の時間領域、それぞれが1つの生命、それぞれが、この世界のように、顕現した存在なのだ! ああ、静止した瞬間よ、教えてくれ、これは夢なのか? 我々が夜、仰向けになって見る二枚の菩提樹の葉の間には、その先見性において、我々の思考が捉え、言葉が表現できるよりもずっと豊かな見通しが広がっているではないか。よし、何か善い行いをしよう、そして、それをしながら死のう! 我々は既に無数の死の1つを死に、そして、未来にもまた死ななければならない。まるで、1つの部屋から別の部屋に行くようなものだ。ほら見てごらん、僕には世界が大も小もなく一緒くたに箱詰めにされているように見える。」 これらの言葉で表現された憧れは、この人物を促し、その友人に宛てた、この手紙を書かせた。けれども、このクライストの精神は、現代の魂が、精力的な理解力で、人智学にアプローチするような方法で、その憧れを充足する手段を見つけ得なかった。 というのも、この精神は、百年前に、まず友人のヘンリエッテ・ヴォーゲルを、次に自身を撃って、その生涯を閉じたが、いまは、彼の亡骸が葬られたヴァンシー河岸にある寂しい墓の下に眠っているからである。ハインリヒ・フォン・クライスト - Wikipedia
2024年05月03日
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巷の世間はGWで、ゲルマン民族の大移動ならぬ、円安なのに、日本人は海外旅行に行き、インバウンドで、海外から外国人が押し寄せ、この時期は、まるで日本ではないかのような、国際色豊かの観光地になっているようだが、観光地でもない住宅地では、かえって人や自動車の行き来が少なくなって、非常に静かで快適なので、家に居ながらして、どこかの旅館にでも、旅行しているかの気分に浸っている。民族移動時代 - Wikipediaせっかくの休息観に浸りたいのもあって、ブログ更新も休息しようかとも思い、これと言って紹介し、書きたい話もないのだが、TVでエジプトのピラミッドをまたやっていたのをみたので、人智学から、古代エジプト人と、現代人の死生観の比較でも改めて紹介したいように思う。古代エジプト人と現代人との違いは、霊魂に現れるという。霊魂を波動で考えると、現代人は昼の太陽光の覚醒意識に共鳴し、粗い波長をもつが、古代エジプト人は夜の月光の潜在意識に共鳴し、精妙な波長をもち、霊能力を同族婚で遺伝継承していたので、特にファラオには、現代人のような死の感覚はなく、死の概念もなかった。現代人のように個人的自我はなく、物質界を捉える覚醒意識もなかった。だから、輪廻転生を知っていたために、肉体は、他の霊魂と交流するための、アカウントのような窓口でしかなく、肉体を失っても、IDとパスワードで、再び開けるために、生前の肉体と関係する忘れ形見などを一緒に埋葬し保管したようである。現代でも交霊術で、霊媒の肉体を使って、いわばアカウントの窓口として霊魂と交流するのと同じだが、間違った霊魂や、悪霊などを降霊しがちなので、俗に黒魔術となっているので注意しないといけない。霊と交流するには、当人のモラルが問われるので、下心があれば、見透かされて、詐欺師のような悪霊がやっていくるのは、観光地でのスリなどの盗賊と同じである。霊能力があれば肉体は仮の姿であり、死も肉体を失うだけにすぎない。だから、古代エジプト人の墓とは、現代人が考える墓というよりも、生きた証の記念碑のような感覚に近い。だから、かつて、墓は、この地を生きた霊魂の遺産で、使い物にならない死体のミイラではなく、再び、その霊魂とアクセスするための、IDとパスワードのようなものといえる。空海さんが唱えた真言宗も同じで、空海さんは肉体を地に置いて、霊魂のままで成仏し、いまも生きているが、死体はミイラとして残っているが、そのIDとパスワードがわからずに、アクセス方法を知らないだけなんである。本来、ミイラという言葉も、霊魂の排出物という意味があり、肉体も霊魂の排出物で、その排出物に、名前をつけているから、霊魂の名前ではなく、肉体という乗り物の船の名前なので、名前に丸を付けて呼ぶようになったのかもしれない。だから、ミイラとは、霊魂のIDやパスワードといえるかもしれない。このIDとパスワードを知りアクセスする方法が、俗にイニシエーションと呼ばれる、宗教施設でのチャンネリングである。だから、古代エジプトのピラミッドをクフ王の墓だと思い込んでいる現代人の無知さには呆れ果てるばかりだが、それこそが、現代人の物質知に巣食っている悪魔の計略でもある。人間が動物実験をしているように、悪魔も人間を使って霊魂の実験をしているわけなんである。つまり、各宗教に教義があるのは、イニシエーションのための宗教施設でのチャンネリングに必要なもので、昔は、人間の意識が潜在意識に傾倒していたので、睡眠中に民族霊と対話できていたので、宗教施設が、チャンネリングの幽体離脱のためのいわば仮眠施設だったわけなんである。いまでいえば、差し詰めクラウドサーバーといえるかもしれない。古代エジプト人には、勿論、現代人のような個人的感覚はなく、民族霊の手足となる潜在意識からの命令を受けていたわけで、現代に譬えれば、動物のような種の感覚であり、巷の政界の如く、サル山のサルみたいなものだったわけなんである。だから、クラウドサーバーから命令が端末に通達されたというわけで、宗教施設に呼び出されて、お伺いにいくようなものである。この族長が族員を呼び出し命令する慣習は、現代の会社組織にも残っている。勿論、当時はイエスマンしかいないわけで、ノーという判断は覚醒意識がないので、ありえなかったし、個人的な判断や拒否もなく、ただ手足でしかなかった。このような古い習慣が、この国に残っているのは、この国が遅れた文化を引きづってる証でもある。つまり、ルシファーの虜になっているわけなんである。だから、民族霊から命令され、民族のために犠牲になって死ぬのは死ではなく、次の輪廻転生での生なので、そもそも個人的な死もないので、手足の手を失っただけで、民族霊に命令されれば、次の年代にまた手が生えてくるので、いわば現代のトカゲの尻尾と同じ感覚なんである。だから、古代人が地に生まれる理由は、民族の使命に負っていたわけなんである。古代エジプト人は、民衆にも、霊視力がある程度残っていたから、族長の命令に対して個人的なストレスを感じることもなく、抵抗力も皆無だったわけである。この国の会社員の過労死などは、個人的な自我にいまだに目覚めていない証拠で、先祖返りしているのかもしれない。というのも、この国の民族の祖を辿っていくと、ツァーリズムのツランに遡れるからである。シュタイナーは、各民族には、人類の精神的な、霊魂の進化のための課題が割り当てられていて、古代ユダヤ人には、地にキリストの自我の個人的な救済のために、一神教をもたらし、広める役割を担った、と述べている。だから、キリストが地に降臨した時点で、ユダヤ人の役目は終了したので、いまだにユダヤ人に拘るのは、彷徨えるユダヤ人のように、無間地獄のゲヘナへと月紀に落第したルシファーと共に地球紀から落第するわけで、そのような拘りが輪廻転生をして、民族を滅亡にもたらし、現に選民思想から、人種差別を生み出し、霊界での見えないものへの恐怖感の高まりとともに、論争、闘争、戦争をもたらしているわけである。ユダヤ人だけでなく、この国の大和民族も、いつまでもツランに拘っていて、個人的な自我に目覚めないと、滅亡していくだろう。つまり、キリストはユダヤ人の終わりを告げたユダヤ人の祖なんであるから、アルファでありオメガなんである。だから、どの民族も同じで、人類の進化のために役割が異なるだけなんであり、そのような民族も役割を遂行すれば、解体され、個人として解消していき、結局、常に後ろ向きで過去の栄光を忘れられない遅れた悪人になるか、新しく多様で自由な人類全体への奉仕の愛に目覚めていく善人へと進化し努力していくかの、ヨハネの預言のように、善人と悪人に分かれていくわけなんである。次の進化のステージに進めるかどうか、いまモラルをもって生きるかどうかで、モラルを実践していけば、必ず再び霊能力を獲得し、キリストや、仏陀や、空海さんが生きて、愛を送っているのがわかるわけなんでである。要するに、現代人の心の眼が曇っているだけなんである。人種や民族の壁を乗り越えて、ベルリンの東西の壁を壊すには、壁をつくっている物質知を無くすしかなく、それはいわば現代人の死生観の死そのものである。だから、現代人は、死を理解しなければ何もはじまらないわけで、死とは、自我の覚醒意識からはじまっているわけで、その元々は、民族霊から与えられた文化的な死生観なので、それを個人的な生を生きることで、輪廻転生のなかで、個人で解消していかなければならない。巷に溢れる老害たちを見れば一目瞭然だが、特に日本人の文化は遅れすぎているので、個人で自らの人生経験のなかからモラルを確立し、解消していかなければならない。天は自ら助くる者を助く。この国の腐敗度の凄まじさ、巷の裏金政治家が、いまだに解党できずに、個人的信条で政治を遂行できる能力に乏しいのでも、この民族の役割は遅れたルシファーに依存体質なのが明らかである。その証拠に、いまだに肩書のような外見やルッキズムに走ってコンプラを考えられない老害が多い。指導者が人類としても最も遅れた存在なのは国民生活や国家存亡に関わる大問題といえるだろう。ルッキズム - Wikipedia国民闘争や、国家紛争など、そのような悪魔の手段になりえるような思想をすみやかに手放すのが、次の人類進化に必須の課題解決なんである。人類全体の進化のために、宇宙全体の進化のために、地上の特定の領域に国があるわけで、国のために国があるわけではない。国は個人を生かす愛の精神的な発情の舞台でないと意味がない。国は人間の霊魂の芸術表現のキャンバスや舞台、音階でないと意味がない。少なくとも、人類の破壊的な表現の場ではなく、創造的な表現の場でないと、生きる意味がない。唯物的な地上的発想で、国を捉えているから、国家間紛争などを起こして地獄に堕ちていくわけで、人間の死すらも理解できない、高次の宇宙人が呆れて、見守るしかない、天変地異に身を委ねるしかない低次の宇宙人のまわりを忖度してウロウロ歩き回るゾンビになっているわけなんである。現代のような精神的に腐敗していく死生観は、シュタイナーによれば、カントーラプラスの宇宙進化論に負ってるという。この唯物論による地球という生命体の物質構造化から、覚醒時の地上生活を物質構造化し、その物質空間のなかで、数学などにより、自己の運動を位置づけ、数理学的な換算評価による時間感覚から、自己を物質構造化して、肉体を制御することで、物質空間に生きる事で、物質のなかに自己目的化した。カントラプラスの星雲説(カントラプラスのせいうんせつ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書それを物質科学的にいうなら、地球上の物質空間に生きるために、霊と物質の均衡の、対称性を、自発的に破り、自己目的化して、物質界を制御するために、自己存在という自我を物質化し質量を与えたのである。それは、物質科学での自発的対称性の破れと呼ばれ、物質構造化による自己組織化ともいえるかもしれない。自発的対称性の破れ - Wikipedia自己組織化 - Wikipedia古代エジプト人にとっては、民族霊の命令による輪廻転生での生から生への繰り返しの、霊魂の、いわば昆虫の変態か、蛇や海老の脱皮のような変態を、現代人は、新しい個人的自我の目覚めのために、民族の集合自我から、自由な個人の自我の経験の糧とするために、そこに物質的な障壁が必要だったのである。端的にいえば、現代人は、個人として生きるために、民族の死が必要だったのである。そのために、古代エジプトから、個人的なミイラづくりが始まったといえるかもしれない。来世への肉体や、霊魂を乗せる船の、つまりノアの箱舟を、個人的につくることで、民族の死を表現し、新しい個人の生を物質的に表現したのである。それまでは、民族霊の手足でしかなかった肉体を、地に埋葬する事で、民族霊が個人の霊に分割し、いわば分霊し、生まれ変わる蘇りを、物質界に求め、そのような死生観が、古代エジプトのオシリスとイシスの伝説として残っている。オシリスとイシスの伝説 - Wikipediaオシリス、つまり民族霊が死んで、個人の自我に分割され、そして、キリストの霊我により死から甦る、のを語った伝説で、古代エジプトの民族霊が、現代の、個人の自我に分かれる、のを意味するようにみえる。それは古代ギリシアの幾何学から、古代アラビアの代数学へと分かれていき、更には中世での唯物論により、天体運動に地動説から力学的構造学が付け加えられ、現代の代数幾何学へと数値数量化されることで、唯一の神性の数1から分かれ、更には、20世紀の量子論により確率統計の分配分布の観測論に辿りつくことで、物質構造による現代の死生観になっていくという、霊の生命源流について、ある意味、預言しているようにもみえる。古代エジプトの霊的な感覚からすれば、現代の唯物論による死生観の素となっている自我の覚醒意識は、例えば、物質界は、物質のバランスを保つように、つまり物質的エネルギーを保存させるように運動し、その物質的エネルギーとバランスを保つ霊的エネルギーこそが、霊我の潜在意識で、バランスのためのバランスであるのがわかる。この国の古く悪しき文化を捨て去り、物質科学の死から、霊的なエネルギーにより甦るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ では、この魂の奥底の憧れが、表面に現れて来ると、どうなるのか? この魂の潜在意識の営みを、宇宙的な出来事から理解すれば、魂の奥底から生じる憧れは、「月」の進化紀に生じたが、正に「地球」紀になってはじめて、魂のなかに浸透した変化(運動)により満たされ、バランスがもたされるのがわかる。そして、「月」の霊性と「地球」の霊性との相互作用を考えれば、古い「月」から「地球」状態へと、精神的にもたらされた変化(運動)の真の働きがわかるようになる。 重要なのは、今述べたように、停滞(退屈)、もしくは荒廃(退廃)を少しでも緩和するために、心のなかに、絶えず像が浮かび上がる必要があった、という点にある。そうすれば、非常に重要で意義深い概念に到達できる。つまり、渇望と空虚の苦しみのなかで憧れる魂は、次から次へと生じる一連の像によって充足し、この憧れを、なんらかの調和のなかに保つ、という概念に到達できる。 そして、憧れから、像が生じ、それがしばらく続いた後で、また別の憧れが、また別の像を生じさせる、という一連の流れ、つまり、古い憧れが、魂の奥底で起こり、運動霊が新しい像を呼び起こす流れが続くと、新しい像が再起し、結局はまた別の像への憧れが新しく生じてくる。このような魂の一連の流れについて、いま言うべき重要な点は、絶えず新しい像を求め、憧れが一時的に満足させられても、この際限なく続く流れに終わりがない、という事実にある。 この一連の過程に介入し、完結させる唯一の方法は、この際限なく続く像の流れに何かが加わり、それがもはや像以外の、すなわち、憧れを購え得る「現実」でないといけない。言い換えれば、「地球」が、現実の惑星となり、そこでは運動霊の活動によって導かれる像が、憧れを一時的に満足させるが、そのような繰り返しの流れのなかの「地球」という惑星が、「救済」と呼ばれる「現実」によって終結させられなければならない。 実際、これから解き明かしていくように、「地球」以前の「月」存在が「憧れの惑星」と呼ばれるように、そして、それは無限に続き、決して終わらない像の一連の経過を通して一時的に満たされる憧れだが、「地球」は、それを終結に導く「贖いの惑星」と呼べるのである。 地上的な覚醒意識で、人生を通して、人間が個人として生きるとき、既に霊視で解き明かしたように、ゴルゴダの秘儀による、キリストの贖いの行為が、個人的な自我の魂の上層に、憧れへの贖いの、バランスとして現れる。 魂の奥底から絶えず生じてくる憧れを、このキリスト意識は、贖いへともたらす。それはまるで、覚醒意識の波を、潜在意識の表面にもたらし、その下の、魂の海底から生じる憧れを取り込んで、堅固な岩盤として生きるように、現実の生の営みに贖える。 そして、この憧れを、まるで、完全に満足させてくれる宇宙的で、完全な存在がキリストの贖い行為で、それは無限に続く一連の像により一時的に慰められるだけでなく、最終的に完全な満足に到達させてくれる存在だが、いまもなお、宇宙全体から、供儀を遂行しようと飽くなき熱望し、自我を通じて、遍く愛を伝える事で、救済活動を永遠に完遂している。 現代人は地上に生きる人間として、これらの魂のなかの、贖いの気配を実際に良心として感じ取れる。そして、これらの良心の気配は、人間が経験できる最良の精神である。実際、地上に生きる人間のなかで、今日(1920年頃)、この憧れを感じる人たちが(特に、近代において)、人智学運動に参加するようになっている。
2024年05月01日
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我々地球人は、地球紀に経験を積むために、地球に生まれているわけで、だからして、地球紀のポストアトランティス時代のアーリア文化期、つまりカリユガの時代特有の唯物論から、唯物的な物欲塗れの自我を認識し、物質科学的思考を手に入れたわけだが、今度は、その思考を捨て去るために、地球に生きる経験から、物質的な自我を、霊我=マナスに浄化しなくてはならない。このカリユガの物質的な自我により、個人個人を比較できる物質的な覚醒意識を、量や質を吟味する数学などを用いて思考することで、地上での経験から獲得したわけだが、そして、それは現代のDNA生物学や脳科学やAIを生み出しているが、代わりに古代から継承されてきた霊能力を失ってしまった。だから、地球紀とは、物質的翻訳なしでは、自己を確立できない時代といえるかもしれない。この霊を物質化する働きが、ルシファーの善悪を判断する知識の実であり、それが社会問題化しているのが、様々な対立や紛争や戦争を生み出している選民思想という差別主義、民族主義で、古代から言われている、覇道の権力志向でもある。さながら、現代人は、自己を物質化し大きくみせるのに専心している、物質界の奴隷といえるかもしれない。物質が全てであるという唯物論は、現代に至って、脳が全てであり、神経細胞の電気信号に還元されるという、いわばルシファーの権威主義、権力志向が、形を変えて、確率統計論などの、アーリマンの物質科学に洗脳されている。そして、そこには、虚栄心や名誉欲という強欲な物欲への憧れが、つまり悪魔が微睡み、巣食っている。だから、戦争とは、悪魔、つまり悪い宇宙人によって人類同士が戦わせられている実態に気づくべきである。悪魔は、「お前は誰よりも価値があり、誰よりも尊重されるべき存在なのだ。だから、お前は戦ってそれを示す必要がある」と個人的自我に、物欲で訴えかける。そして、「お前こそが、地上の支配者なのだ」と、地球人同士を対立させ、戦場へと駆り立てる。その陰で、「人類などちょろいものだ。直接手を下す必要もなく、滅ぼせる」と悪魔の高笑いが聞こえる。物質科学主義に走るほど、悪魔の手下に加えられていく。確率統計など何の役にも立たない。人類を分割し、勝ち負けを演出し、対立を生み出すツールにすぎない。アインシュタインは、量子力学の確率論に対して、神はサイコロを振り給わずと反論したが、その反論は、彼が無神論者でない、つまり悪魔主義者でないのを証明している。大人のため数学カフェ 量子力学入門シリーズ 第1回 量子を求めて: 桜井進 "Journey for Infinity" (ssfactory.sblo.jp)さて、前回は、量子力学の観測問題を、シュレディンガーの猫を譬えにして、人智学の解釈を用いた仏教、特に真言宗から解き明かし、紹介したが、仏教から、量子力学の波動関数を考えると、観測者の観測能力の問題に帰着するのがわかる。多世界解釈から平行宇宙へと、仏教的解釈を用いると、物質科学で定義されている、いわゆる4次元時空と呼ばれる物質界を超えて、多次元宇宙の世界が想定できる。シュレディンガーの猫は、量子力学の、猫の生と死の確率の波動関数で表現されるが、それを観測する観測者の能力により、重ね合わせの状態がデコヒーレンスされ、一つの固有状態が選択される。量子デコヒーレンス - Wikipediaデコヒーレンスの際に、マクスウェルの悪魔のような知性を用いれば、エントロピーの減少も思いのままに、猫の生死を操ることも可能となるかもしれない。それはさながら量子力学の観測問題を黒魔術にする悪魔といえるかもしれない。マクスウェルの悪魔 - Wikipediaしかし、それはもはや人間の思考実験というよりも、人間のなかの悪魔の思考実験というべきものだろう。人類の思考のなかに、どれだけ悪魔の干渉が混じっているのか、どれだけ悪魔の波動に影響され、未来の選択を委ねてしまっているのか、いずれにしろ、シュレディンガーの猫の生死の波動関数は、人間の観測という知性に悪魔が干渉しているという、人間と悪魔の感性の波動関数に置き換えられる。ψ(生+死) ⇒ ψ(ヒト+悪魔)観測者の物欲が大きいほど、現世への執着心が多いほど、確率統計論になり、論争、闘争、戦争の未来に委ねやすくなり、例えば、権力者や独裁者の破壊的な現世の物質的思考となり、死を望むものとなるだろう。そして、ヒト足る善意の友愛をなくし、孤独となり、死を最大の恐怖と感じるようになるだろう。かつて古代ギリシア人には、死がなかった。古代エジプト人にも、死はなく、あるのは、来世への輪廻転生で、それは蛇の脱皮のような、生のための死であった。それを可能にしているのが、霊能力の超感覚で、死を乗り超える、死から生への神の観測能力である。だから、古代エジプトにも、古代ギリシアにも、質と量を記述する数学は必要なかった。数学の素となる幾何学が、霊能力のなかに神々の啓示としてあったからである。だから、プラトンがつくった学院の門に、幾何学せぬもの通るべからず、とわざわざ掲げたのは、師ソクラテスが説いた神々との対話の出来ぬものは、哲学をする資格がない、のと同じ意味をもつのがわかる。だから、古代ギリシア人には数学は必要なく、哲学さえあれば、神々と対話することで、未来が一律に定まったからである。ソクラテスにいわせるなら、数学は無知の一つで、人間が未来を予測できないために、編み出したというよりも、悪魔に唆された物欲の一つなんである。量と質を物質的に捉え、自他を比較して、論争、闘争、戦争の対立を生み出す根拠となるものである。そこに介入するのは、神々という名の悪魔でしかない。アインシュタインの神はサイコロを振り給わずが、悪魔はサイコロでヒトを迷わし敵対させる、にかわるといえる。だからして、現代の数学を再び古代ギリシアの幾何学的思考の哲学へと、純化していく必要がある。悪魔は数学などの物質科学の知を用いて、人類を物質界の地に束縛し、奴隷化し、死に拘束しようとしている。つまり、悪魔は、ψ(生と死)⇒ φ(生)に確率論で生に執着させ、収束させようと、ヒトを翻弄するが、実際は、φ(死)に時間発展しているだけなんである。というのも、量子の生成、消滅は、生命体の生と死ではなく、単なるエネルギーの変換でしかないからである。シュレディンガーの猫の何が問題かといえば、生命体である猫を、物質化して、量子の生と死に、単なるエネルギーの光量子にしているところにある。量子力学で生命体を扱えない矛盾に気づいていないのが、物質科学の欠点なんである。だからして、量子力学の観測論は、量子場という時空間をエネルギーの箱とすることで、ドラえもんの四次元ポケットのように、任意に取り出し可能にし、猫の生と死は、量子の生成と消滅のエネルギー論に転嫁できたわけなんである。だから、丁半博打のサイコロが、電子のシュミレーションゲームに置き換わったわけで、数学が困難な生命問題を回避して、DNA生命学や脳科学になったわけなんである。しかし、悪魔はそのなかに正体を隠して潜んでいるのに変わりはない。シュタイナーは、ポストアトランティス時代のアーリア文化期の特徴として、このカリユガの風潮の、悪魔による霊の物質化に警笛を鳴らし、人智学を興したわけだが、この風潮の克服のために、東洋の仏陀と、西洋のパウロの地上での役割から、解き明かしている。仏陀は、地上に染まってはいけない。物欲を放棄し、執着してはいけないと、民族主義の放棄を地上で説き促したために、当時の人類を束縛していた民族主義から人間を解放するために、仏教を興したわけなんである。当時は歪んだ民族主義のために戦乱が絶えず、カースト身分制度が確立していたためでもある。だから、ゴーダマシッタルダは、王の家系に生まれた釈迦族から、民族を捨て、出家して、全人類の師となり成仏し、霊能力を説いてまわる仏陀となったわけなんである。仏陀の時代の古代インドのヴェーダンダ、サンキヤ―、ヨガ哲学などはもはや形骸化し、単なるカースト身分制度となっていたために、霊能力の再生のために、仏教を興したわけなんだろう。だから、仏教は、とにかく物欲や執着心を放棄するのを、民衆に教えたわけだが、現代人もそうだが、どうして地上の生活に幸福を求めてはいけないのか、現に物臭坊主などでさえも、古のホームレスの自給自足生活、質素倹約とは程遠い、高級車などに乗り、高級住居に居座っているではないか、という物質文明の恩恵の麻薬中毒に浸り切っている現実がある。現代人はすっかり悪魔の掌中にある。霊の物質化の流れに逆らえない現実がある。だから、仏陀の教えは現代人には役に立たないどころか、かえって現仏教教団をみれば、地獄に堕ちる根拠を与えてしまっている。誰が霊を信じるだろうか?輪廻転生など戯言で、物質世界こそわが世の幸福だと謳歌する風潮が支配的で、冠婚葬祭に贅を尽くす。仏陀の教えは現代人に殺されてしまったといえるだろう。金銭さえ支払えば成仏できると思い込んで悪魔に洗脳されている人間が横行し、渡る世間は鬼ばかりである。高僧ほど地獄に堕ちている現実を知るべきだろう。現代人には空海のように生きれない現実があり、未来を解き明かす霊能者は皆無である。東洋人は、この現実を反省しないといけない、中東などは盛んに戦争しているが、戦争が生み出すのは互いへの憎しみでしかなく、それは悪魔の策略でしかない。地の現実に幸福はないのは、仏陀の時代から仏陀が霊能で解き明かしている人類の進化で、未来である。戦争を超えるモラル、道徳を確立しないと意味がない。対立を生み出す宗教など悪魔のものにすぎない。問題は、霊の物質化を食い止め、再度、物資化された霊を解放し、物質を再び霊化することにある。それは民族や国家のような集団ではなく、個人としてなされるべきで、だからこそ、各個人には新しい宗教を自らで確立する使命を、この地球紀に負っている。シュタイナーは、そのような個人的信仰を糧としたパウロの信仰を題材にして、私の自我のなかのキリストを提唱している。つまり、私という、自我のなかには、エゴという権威主義の物質性の、悪魔が巣食っているが、この悪魔を退治し、純化するために、そして、そこに均衡とバランスをもたらすために、キリスト精神を導くのである。キリスト精神を宿したマリアのように、心を純化し、人類愛により、物欲から個人を解放するのが、パウロの「私のなかのキリスト」の精神だと、シュタイナーは述べている。先の量子力学の観測論で譬えるなら、観測者のモラルにより、悪魔を退散させ、ψ(人と悪魔) ⇒ φ(キリスト)へと、物質界から自らを解放させる超感覚を獲得する方向に観測を導くことである。つまり、波動関数を、モラルのある道徳律により、デコーレンスすれば、人も悪魔も、神に起因し、生と死も、カルマの法則により導かれているのがわかる。だから、シュレディンガーの猫は、シュタイナーのカルマ論により確率ではなく、確立される。猫の生死は、毒物の量子が決めるわけではなく、猫のそれまでの生き方や飼い主との関係、更には、宇宙の進化目的により左右されるわけで、猫が死ぬべきか、生き続けるべきかは、猫の自我を司っている、猫は動物なので、集合魂が決めることなので、観測者は、この集合魂を読み取れるべく、猫との愛の絆を育むべきなんである。だから、猫を平和的に、人間の自我でもって感化させるべきなのである。ψ(生と死) ⇒ ψ(キリスト)とは、神はサイコロを振り給わず、神はカルマの愛をもたらす、となるだろう。神は何よりも宇宙を愛で満たすように、道徳とは、多様な生命体の共生共存の法則なのだから、生も死もなく、ただ愛を学び合うカルマがあり、そのために輪廻転生があり、民族により物質化された霊は、個人の道徳観から、再び霊化されるべきなんである。この物質の再霊化、パウロの私のなかのキリストは、個人のこの地球紀での経験に依存している。前回も紹介したように、覚醒時の地球での経験は、睡眠時に反復され、審査される。その審査から、霊能力への道徳化が導かれる。いかに一日を道徳的に過ごすかで、そのヒトは霊能力を少しづつ獲得し、キリストを糧にして神に近づいていく。量子力学の観測論には、キリストのモラル論が必要で、猫ではなく、人間の場合は、自我のモラルにより、自我の霊我への進化過程により、デコビーレンスされ、決定される。量子力学の観測論は、表向きには、量子場の理論により統合されたが、全てを唯物論の粒子で説明しようとする立場が、生命現象だけでなく、点粒子に、エネルギーを還元する数学の局所幾何学を用いた代数の群論で、無限大として破綻し発散するが、それを電子回路のように繰り込んで辻褄合わせているのが、悪魔の現代物質科学の顛末である。場の量子論 - Wikipediaしかし、面白いことに、点を紐でつなげることで、多世界解釈の平行宇宙論が、超弦理論の双対性で表向きに統合されてしまうところにある。この双対性は、Tデュアリティと呼ばれているが、これは物質と霊の世界の双対性をよく表現している。最も遠くを眺めると、例えば、宇宙の最果てをみようとすれば、観測者の内面に達するというような話なんである。T-双対 - Wikipedia時間に依存する運動は、時間のないところからしか観測できないため、物質界では、初期条件を求めることからはじまるが、これはどういうことかといえば、遠くを観測しようとすると、観測する基準に戻ってくる、という四次元の特徴が明らかになる。以前も紹介したと思うが、孫悟空とお釈迦さんのやり取りを思い出す。孫悟空は遠くまでに行ったと思ったが、実はお釈迦さんの掌の上だったという話である。『西遊記』で、悟空はお釈迦様の手のひらから出られなかった。どんな手だ!?|空想科学研究所 (note.com)結局、観測者の遠くとは、観測者の基準でしかないわけで、物質界の基準は、ローカルルールにすぎないというわけなんである。物質界を成り立たせているのは物質なので、その遠くに行くには、物質概念を捨てて、出ていくしかないわけで、物質界を超えるルールをみつける観測体系を確立しないと意味がないわけなんである。つまり、物質界の果ては、物質を捨てたところにあるわけで、仏教の色即是空なんである。物質を再霊化するために、愛の超弦理論をもたらすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 魂の奥底にある、「憧れ」を満たすのに、「心の変化」以上のものがあるのか? それはまた、「憧れ」をもつ存在たちが新しい存在たちを求め続けることからもわかる。「憧れ」による、耐え難い苦しみは、絶えず変化する、新しい存在たちとの関係から、次第に克服されていく。 このように、「地球」が、「月」の状態で進化する間、運動霊が、もし来なければ、退屈という荒廃に陥った存在たちの生活に、変化(運動)を与え、新しい存在たちや環境との絶え間ない更新の、新鮮な関係をもたらしたのが霊視できる。 現代人が考える、空間の移動は、いま述べている運動のなかの一側面に過ぎない。また別の運動、つまり、心の変化を経験するのは、例えば、朝起きて、夢の内容を、隠さずに、他の誰かに話すときなどである。このように、人間は、心の変化を経験し、多様な運動を通して、「憧れ」を徐々に克服していく。外的な物質性の、空間の運動は、変化の後付けに過ぎない。 太陽に憧れる惑星を霊視してみる。もし、その惑星が、太陽との関係で、常に同じ位置で、全く動かなければ、その惑星は、憧れという一面に拘束されてしまう。その惑星は常に同じ面を太陽に向けて固定されてしまう。 しかし、運動霊がやって来て、その惑星が太陽の周りを回転するように導き、位置に変化をもたらす。位置の変化は、心の変化に生じる影響に過ぎない。そして、運動霊が、位置の変化を宇宙にもたらすのは、心の動き(変化)という主現象からの、副産物なのである。 運動霊が、運動と変化を、宇宙の進化に導入したことで、また別の存在が生まれた。つまり、宇宙の進化のなかに、運動霊(デュナミス)、人格霊(エクスシアイ)、叡智霊(キュリオテテス)、意志霊(トローネ)らがもたらした、それぞれ、供犠の熱や、叡智へと放射する流れの空間、与える徳による光などの精神的な要素に、物質的な要素が加わった。 この物質的要素は、「憧れ」に変わった拒絶された供犠(意志)に付随して流れ、人間が「像」として感知するものとなる。その動き(心の変化)となった「像」は、覚醒意識には上らずに、まだ思考にはならない。この「像」は、夢を見るときのイメージによって最もよく視覚化できる。流動的で過ぎ去る夢の像のなかには、「憧れ」として生きる意志の存在、つまり、運動霊によって他の新しい関係へともたらされる存在などを生じさせるイメージを呼び起こす。 新しい別の存在の前に立つとき、その存在に完全に帰依するのは不可能で、それは自分のなかに自我が生きているからである。しかし、代わりに、その存在が、夢の像のように、変化していく像を感知できる。このように、イメージの潮流とでも呼べる気配が魂のなかに生じる。 言い換えれば、この月進化紀の間に、像の意識(霊的な潜在意識)が存在するようになった。そして、人間は、現在の地上的な自我の覚醒意識なしに、この進化紀を通過したので、今日の自我を通して、自分が到達できる、この像の潜在意識を欠きながら、思考しなくてはならない。当時の人間は、宇宙の進化のなかに存在し、織り込まれていたが、一方で、「憧れ」の経験に匹敵するような存在が、人間たちの心のなかに生きていた。 ある意味、苦しみとは、地上に現れる物質的な欠乏の苦しみを度外視すれば、詩人が述べているように「憧れを知る者だけが苦しみを知る」に他ならないのが想像できる。魂の「憧れ」の表現としての苦しみや痛みが、人間の心のなかに、人間の進化と結びついた、他の存在たちと共に入り込んで来たのは、「月」の進化紀だった。 それ以降、「動き(心の変化)」が入り込まなければ、「憧れ」に苛まれ、空虚だった自我が、次第に、治癒的な慰めに満たされるようになったが、それは運動霊の活動を通して、「憧れ」に苛まれる、月の存在たちのなかに注ぎ込まれた像という、夢見の潜在意識による、心の変化の形でなされた。 もし、このような出来事が生じなかったら、「月」存在たちは、その魂の中に「憧れ」以外の何もない退屈で、空虚な存在となっただろう。しかし、像という慰めが、その孤独と空虚の中に滴り落ち、多様性で満たし、堕天使たちを、追放と非難から解放した。 このような言葉を真剣に受け止めれば、地球が「月」の進化状態にあったときに、進化した存在の根底に精神として横たわる「憧れ」と、そして、いまも人間の意識の奥深くに、「地球」進化状態の下に、上層を成し、横たわる「心の変化」の両方が把握できる。 しかし、それは、現代人には、あまりにも魂の奥深くに横たわるために、この事については、次回以降の公開講演(GA61)で、分かりやすく示すが、海底から上層へと押し寄せる海水が、海面に波を生じさせるように、気づかれることなく活動を始め、現代人の覚醒意識のなかへと気づかれることなく、現れて来る。覚醒時の自我意識の表層下に、表面へと押し寄せる、「憧れ」の波動が、現代人の、魂の奥深くに根ざし、生きている。
2024年04月25日
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前回は空海さんの真言宗の世界をシュタイナーの人智学で解き明かし、紹介したが、真言宗は、量子力学の観測問題の解釈の一つの多世界解釈でも解釈できる。簡単にいうと、人間は曼荼羅という多世界が干渉する重ね合わせの波動の世界のなかに生きているが、そのうちのどれかの波動を発する世界に共鳴することで、自他の世界を演じわけられる人生を、例えば、TVのチャンネルを選択するような感じで、現実の世界=物質界に生きている、というような話になる。多世界解釈 - Wikipediaつまり、宇宙には時間はなく、時間があるようにみえるのは、各人が、各人の志向性という能力の成長に沿って、波動というチャンネルを選んでいるにすぎないという考えである。早い話、人間はタイムマシンに乗って、多様な時間の世界を選択しているだけなんである。例えば、量子力学の観測問題で有名なシュレディンガーの猫のような問題も、猫が生きている世界を見たいのか、猫が死んでいる世界を見たいのか、の観測者の選択問題に帰されるわけなんである。それを真言宗で表現するなら、猫が生きている物質界にとどまるのか、猫が死んだ非物質界まで観測できる超感覚を高めるのか、の二択に帰されるわけなんである。観測者が現代人特有の覚醒意識のままであれば、猫が死んだ世界をみることはないが、潜在意識を開発して、睡眠中にでも覚醒できれば、猫が死んだ世界を超感覚でみることができるわけで、観測者の視点が、物質の自然界から、非物質の真言の世界にまで拡がるかどうかの、曼荼羅を見れるかどうか、の観測者の能力に負うことになる。だから、曼荼羅をみれる叡智を獲得できるかどうか、の観測能力に負うわけで、現在の量子力学の観測問題が不完全なのは、唯物論でしか問題を想定できていない現代人の能力の限界に帰される。つまり、カリユガの時代の名残りの幻覚に惑わされているにすぎない。多世界解釈は、現代物理でも、パラレルワールドとして理論化されているが、この物質界がリアルではなく、幻覚であるのを考慮していない点で、真言宗の方が優れている。パラレルワールド - Wikipediaシュタイナーは、現代人は各個人が、宗教をつくるべきで、60億人いれば、60億もの異なった宗教があっていいというようなのを説いているが、だから、キリストはその基盤、基礎づけを与えたようなもんである。各個人で、死者とのつながり、霊界を超感覚でみる叡智を獲得すべく努力し経験するしかない。そのために、この世を生きて経験し続けているわけなんである。そのような各個人の経験から、芸術が生み出されるわけで、芸術は宗教作品といえるかもしれない。優れた作品は、物質界とは異なるリアルな世界を、少なくとも美しい世界、天国を表現している。空海さんの曼陀羅はそのような美の天国の世界の作品でもある。曼荼羅が表す意味とは?意外と知られていない、身の回りの曼荼羅も紹介 - 家族葬のファミーユ【Coeurlien】 (famille-kazokusou.com)曼荼羅といえば、先日懐かしいアニメ「うる星やつら」のビューティフルドリーマーをTVでみたが、この作品は、曼荼羅の世界を夢としてよく表現しているようにみえた。人間は夢を見る事で時間感覚を手に入れている、ともいえるかもしれない。うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー - Wikipedia睡眠中に見る夢も、覚醒時の人生の夢も、同じ夢という言葉を使うのも、夢の秘密を意味していて、面白い。シュタイナーは、夢を覚醒意識で正確に分析できるようになることが、霊能力獲得の初歩であると述べている。人智学では、人間は眠ると、その日の覚醒時の経験を再生し、睡眠時から遡って、目覚めた時までを反省するのがわかっている。その日の経験全ては、人体のいわば時間を司るタイムマシンのエーテル体に書き込まれ、記憶されているという。いわば、その日のアカシックレコードといえるかもしれない。アカシックレコードには感情も伴うので、厳密にいえば、エーテルは映像と音声だけなので、異なる。それを空海さんは、真言の光と音の波動で表現している。光といっても、陽と陰があり、物質界での言葉でいう太陽光は陽で、陰の光は、負のエネルギーの霊光のことである。霊光は、人体の太陽神経叢に集約されていて、呼吸による火の熱により、自我の本体の霊我の灯となるようだ。霊我の灯が、伝教大師の説く、万灯照隅一灯照隅でもある。一燈照隅 萬燈遍照|致知出版社 (chichi.co.jp)犬も歩けば棒に当たる、という諺の意味が長らく不明だったのだが、この一灯照隅という最澄さんの諺を知って、どんな経験も無駄になることはない、という意味をもつのがわかった。犬でさえも、棒にあたる経験を、教訓を得るわけで、つまり、覚醒時の経験は、睡眠時の記憶の糧となり、自分がどの成長期にいるのかの時間の確認になるというわけなんである。この成長というのは、霊的な成長であり、超感覚を獲得するための反省でもある。日々の経験から、自分には何が足りないか自覚できるわけである。犬も歩けば棒に当たる - Wikipediaだから一灯照隅とは、自分の成長を確認する時間を推し量る経験といえるかもしれない。転じて自我の発達度、未熟度を推し量る時計ともいえる。万灯照隅は、各々が互いの未熟を補い合う助け合いの、多世界解釈の重ね合わせの波動関数を表わしてもいる。だから、伝教大師の最澄の顕教は、弘法大使の空海の密教の、真言があってはじめて意味をもつのがわかる。まさに、日本仏教の陽と陰といえるかもしれない。唯物論の物質界では、他者を援けるといっても、何事も金銭的に考えがちで、現代の宗教もそのような堕落腐敗した悪魔の詐術にハマってしまっている。覚醒意識での物質界が全てだと思い違いしている。確かに、生きているシュレディンガーの猫をみる波束の収束を望むのなら、金銭を貢ぐのが高確率と考えがちかもしれないが、それこそ悪魔の知識の罠なんである。物質界の背後の多世界を読み解く能力を失い、現状に固執し、犬も歩けずに棒に当たらないだけなんである。キリストも金持ちは天国には行けないと説いている。金持ちは物質界に固執しているからで、それは悪魔の罠にハマりこんで虜になり、金銭という、いわば麻薬中毒患者になっているだけなんである。物質界は、カリユガの時代の恩恵だが、そこだけに止まっていると、地球紀を卒業できないで、ソラトの仲間のアスラの一員に加わり、次の木星紀に進むことができずに、永遠に彷徨えるユダヤ人にならざるをえないだろう。この審判が古代エジプトで説かれた最後の審判である。死者の書 (古代エジプト) - Wikipedia人智学によると、古代エジプト人にはまだ古代アトランティス時代の霊能力が引き継がれていて、死者の世界を身近に感じていた。だから、覚醒時よりも、睡眠時に活動的だったという。死者の書は、その伝承の一部でしかない。当時の古代エジプト人は、わざわざ書くという伝承法が必要なかったからで、筆記が発達したのは、テレパシーで伝承する霊能力を失ったせいでもある。日本文化の詫び寂びも元々はテレパシーの伝承能力だった可能性が高い。空海さんが各地を旅したのもテレパシーだった可能性が高い。テレパシーの伝承法を生霊と呼んだりしているが、生霊とは、肉体をもつ霊魂のことで、死霊とは、肉体をもたない霊魂の違いで、肉体を通して感じるのが覚醒意識で、つまり文字を書いて伝承する感覚で、肉体がなくても、いわば心眼の超感覚で、テレパシーでみれる場合、肉体には拘らないから、いわば暗号や隠語のようなもので、それが伝承され、今では業界語のようになっているともいえるかもしれない。生霊 - Wikipedia先日、面白いトーク番組に挙げた「にけっッ!!」で、芸人のチャンス大城氏が憑依体質で、度々生霊を飛ばすような面白トークが繰り広げられていたがその真偽はわからないが、千原ジュニア氏だけは霊能力のない現代人であるのははっきりとわかったと自覚しているのが非常に笑えた。恐らく千原氏の前世が他の人よりもカリユガの時代に近く、割と最近なのかもしれない。新しい魂は現代感覚に適合しやすく斬新的で、古い魂ほど不適合で遅れているので、憑依体質だからである。つまりタイムマシンでいえば、遠出するよりも、身近の時間旅行を好む霊魂なわけである。逆に霊能が残っている人は遠出の冒険を好む。にけつッ!! - Wikipedia話が少し逸れてしまったが、睡眠中に見る夢が、覚醒時の夢でもあり、いわば次のステージに進むための人生の目的で、霊的な成長を遂げる目安といえるわけで、睡眠中にその審判を受けているわけで、その審判がたまりにたまって罪と罰が少しも消化できずに、課題が遅々として進まないと、再審から再審へと引き継がれ、最終的には、生きる意味も失い、最後の審判になってしまうわけなんである。だから、人生の経験を、霊魂の成長にどう生かすかが重要なわけで、あらゆる宗教はその時代に必須の霊魂の課題の解決と、その重要性を説いている。現代は末法の時代ともいわれ、金持ちが賛美される傾向にあるが、先日、石油王のゲッティ家の誘拐話をTVでみたが、世界一の金持ちだったゲッティが、「金は必ずしも幸福とは関係ない、あるのは不幸の方かもしれない」と言葉を遺しているように、金は幸福の幻想を生み出すだけにすぎないのがわかる。大谷選手も、1000億円もの大金を持つことで、以前よりも厳しい目が注がれ、アンチが増えた感がある。ホームランを打つことが期待され、打たないと野球を知らない奴からも批判される。ホームランを打ったことのない奴に打たないと批判されるのは、ある意味不条理である。おカネの力は恐ろしいと思う。おカネは物質界での波束収束の確率性を増す幻想でしかない。物質界での安定をもたらす力かもしれないが、物質界自体が狭い領域で、変化に富む幻想なんで、キリストが砂上の楼閣と呼んでいる不安定な地獄の世界なんである。地獄の世界を暮らすことで、地獄から抜け出す術を獲得できる。醜悪な世界から、美の芸術の世界へと昇天できる。芸術こそが、神々との交流なのであり、霊能力の再獲得法なんである。芸術があるからこそ、人生を生きる意味があり、芸術から霊能力を獲得するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ いま、魂の奥底に眠る、意志について述べているが、これは、宇宙の存在を含む、より高次な存在への犠牲である。犠牲を捧げた存在たちは、歓喜から見上げたために、高次の存在たちにより受け取られず、差し戻された、その意志は、抑圧され、憧れとなってしまったので、犠牲が受け取られ、歓喜となっていた場合の、魂の内的な気配、内容とは、全く違うものとなった。 もし、犠牲を捧げた存在たちの、その犠牲が受け取れられていたら、捧げた相手の一部となっていただろう。この事実を、宇宙で喩えるなら、地球や他の惑星存在たちの、太陽への供儀が受け取られていたら、太陽と1つに結ばれていただろう。 しかし、太陽への供儀が受け取られず、捧げた意志は返却され、そのまま保持せざるを得なかったので、太陽と供犠を捧げた存在は離れたまま、その犠牲も自らそのまま保持された。 以上を総括するなら、宇宙進化全体の中に、新しい存在が加わる、のがわかる。その新しい存在は、これまでの存在では表現できないのを、はっきりと理解して欲しい。 つまり、自らのなかに生きる意志を、高次の宇宙存在に、犠牲として捧げようとする存在たちは、その供儀が受け取られなかったので、自分のなかに担うように導かれた。ここで、「エゴ(自我)」、もしくは「自我性」と呼ばれる存在、それは後に「エゴイズム」として、あらゆる形態のなかに現れるが、そのような新しい存在が煌めく、のが感じ取れる このように宇宙の進化のなかに、新しい存在が流れ込み、ある存在たちの内部で、遺産として生き続ける、のを感じ取れる。魂の内部の奥底に、憧れがあり、たとえ、その憧れが弱く小さくても、新しいエゴイズムが、稲妻のように光りながら、宇宙の進化のなかに忍び込んで来る、のが霊視できる。 このように、憧れに身を委ねる存在たち、つまり、自らのエゴイズムに屈服する存在たちに、もし、ある別の存在が介入しなければ、ある意味、一面性の絶望の淵に突き落とされ、自らのなかだけで、独房のように生きる他なかったのが、霊視できる。 供儀が受け取られた存在を霊視すれば、この存在は高次の存在のなかで永久に生きるが、供儀が受け取られずに、返還された存在は、自分という存在の中に生きるしかできない。だから、そのような存在は、高次の存在のなかでの経験全てから排除される。 実際、そのときの問題の存在たちは、進化から排除され、一面性へと突き落とされ、もし、その一面性を取り除くために、進化への介入が新たに生じなかったら、消滅してしまっただろう。この介入とは、一面性への宣告と追放を阻止する、新しい存在たちの介入である。 「土星」上の意志存在や、「太陽」上の叡智存在と同じように、「月」上では新しく、運動霊が出現するのが霊視できる。この「運動」という言葉は、空間中での運動のイメージではなく、思考や精神上での感情の「動揺」に近い。 「思考の運動」という表現は、人間の自我の、思考の流れや流動性を表し、このような表現はよく知られているが、この運動を包括的に捉えるなら、空間中の位置変化以上であるのを理解する必要がある。 もし、ある高次の存在に対して、多数の人間たちが自らを捧げ受け取られたなら、その高次の存在は、犠牲として捧げられた人間たちのなかにある意志全てが表現され、その人間たちは、その1つとなった高次の存在のなかに生き、そのなかで歓喜に満ち足りるだろう。 しかし、もし、その犠牲が拒絶されれば、その人間たちは 自身のなかで生きざるを得ず、決して満ち足りることはない。そうなった場合、運動霊がやって来て、自分にのみ依存しなければなかった孤立し消えていくべき存在たちを、他の存在たちとの関係へと導く。 この運動霊を、空間の位置変化を生じさせる存在として考えるべきではない。それでは間違いで、運動霊は、ある存在を絶えず別の存在との新しい関係に導くような機会を与える、いわば一期一会の救いの存在である。 このことから、魂のなかに、この事実に相応する気配を考察すれば、宇宙進化の、この月の段階で達成された進化が読み解ける。憧れが停止させられ、行き詰まり、いかなる変化も経験できなくなり、無味乾燥の停滞状態に陥ったときに、いかに魂が、苦痛に満ちたものとなるのか? 知らない人がいるだろうか? 人間は、この停滞によって耐え難い状態、退屈と呼ぶ状態に陥る。「退屈」という表現を、表面上で捉えがちだが、退屈にも多様な段階がある。偉大で高貴な神々の本性にも、外界では満足できない精神的な憧れとして、心のなかでの、運動の停滞の、いわば不毛という表現が生きているが、退屈には、そのような精神性、創造性に影響を及ぼすような高レベルの、なんら新鮮味のない、退屈もある。
2024年04月23日
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いまの令和から、昭和の思い出を語ると、なぜか、昭和は盛んに「青春」という言葉が氾濫していたようにみえる。青春を謳歌した気などはサラサラないが、わが青春時代に音楽がなければ、無味乾燥な競争生活の日々に、とっくに自殺していたかもしれない。ただ自殺する勇気がなかったし、サッカーなどのスポーツや音楽に没頭できたのが救いだった。勿論、恋愛沙汰などは失恋以外何もなかった。いまだからこそ、昭和が懐かしくも語られるようだが、戦前や戦中の話と比較すれば遥かにマシだったが、輝かしい高度成長期という標語が煌びやかな体裁で、まるで電通の広告宣伝かのように常に語られ、どんな輩もバブル時代をまるで麻薬中毒患者のように、酒池肉林の幻想幻覚に戯れ、昭和の成長期を謳歌してきたかのような印象をもって語られるのは、なんだか、亀を助けて竜宮城に行って帰ってきて、玉手箱を開けた浦島太郎の老化現象のようで、そんな良い思い出すら皆無の、現実逃避の昔話のように感じられてくる。もし、この世に音楽がなかったら、私には、昭和は地獄そのものだった。青春時代の、地獄のなかの唯一のオアシスが、音楽だった。当時は、ネアカとネクラのレッテル貼りが、後の勝ち組と負け組のように流行ったが、ネアカの概念が意味不明で、男子校だったので、女子を宇宙人とみなし、宇宙人との交流が、映画ET公開前の火星人襲来の宇宙戦争に染まり切った時代では、いかにも軟派にみえたのもあるが、宇宙に出ていくよりも、防空壕に隠れるような自分は、明らかにネクラ組だったが、当時まだオタクの概念はなく、ネクラの疎開場所もなかった。だから、昭和の青春時代を思い出すと、パニック症候群に罹っていた自分を思い出す。改めて考えてみると、常に弱者組にいたのに気づかされる。ネクラ - Wikipedia芸人のアンガール田中氏が、ヤンキーが大嫌いで許せないと唱えているのに酷く共感する、わがネクラ組の青春時代である。昭和はなんだかワルが推奨され、ちょい悪が持て囃される酷く歪んだ時代のようにみえてくる。まさしくカリユガの時代そのものである。その後社会に出てからわかったが、団塊世代が競争原理を持ち込むためにつくったパワハラ原理だったように思える。悪い奴でも先輩なのでたてないといけない。そいつらはいまでも老害のように自己保身に走っている。例えばナベツネのような偽善な奴だ! 自分の場合、不良に直接虐められる事はなかったが、中途半端な奴に弄られるのはよくあった。昭和とは歴然とした上下関係があり、先輩に可愛がられないと自分の身が危うい時代といえるかもしれない。親方日の丸である。イエスマンでないと生きられなかったシンドイ世界だった。だから、スポーツと音楽がなければ、わが青春時代は、勿論の如く、恋愛などは、受験勉強の現実を前にして、遊び惚けるわけにはいかない御法度モノなので、無味乾燥でしかなかった。当時の多くの若者が大学時代で、青春時代を取り戻そうとするのも、なんだか、昭和バブルを感じさせて、虚しく白々しいものに思えてくる。恋愛偏差値を向上させる経験は、受験時代には、ましてや男子校では教えられない科目だからで、当時は同じ地球に住む宇宙人との交信だったからである。タラタラと自経験を吐露してしまったが、自分にとっては、恋愛よりも、音楽が、地獄への救いで、神とのつながりだったのである。最近、巷でも、世代をテーマにして、心に残る音楽を挙げているが、それに倣って、わが青春時代の、心に残る音楽を一つ挙げるなら、ヴァンヘイレンのアルバム「バランス」を選びたい。バランス (ヴァン・ヘイレンのアルバム) - WikipediaVan Halen - Balance (Performed Live) - YouTube一般的に青春時代といえば、思春期を挙げるだろうが、自分の場合、思春期というよりも、勿論、男子校時代は、レッドツェッペリンやらクイーンなどの曲にハマったが、青春真っ只中というよりも、少し遅れた、青春時代を取り戻そうと、受験戦争後に聴くオアシスとして力を与えてくれた音楽として思い出深い。青春真っ只中といわれれば、ヴァンヘイレンの1984のジャンプだった。1984 (アルバム) - Wikipedia「ヴァンヘイレン ジャンプ」の検索結果 - Yahoo!検索いまでもかなり有名な曲となっているが、当時はジャンプを聴くだけで、元気が出た。競争社会を乗り越える元気を与えてくれた。英語なので、当時はCDの輸入盤で、訳もなく、詩の意味もわからなかったが、ネクラを解放させてくれるツールのような、周囲の無味乾燥な雑踏から生み出される利害関係の波が押し寄せるときの防波堤のような役割を演じてくれた。将来を悲観しかできない鬱屈したネクラ組に、未来は明るいよ、さぁ、飛び出そうぜ!とイントロのシンセが歓迎してくれているような曲調なんである。どこか未来志向の明るい世界がやってくるような♪トッ、トゥ、トッ、トトッ、トゥ、ト、トゥールルという、まるで未知との遭遇のUFOが宇宙から交信しているようなリフなのである。こんな競争の世界はニセモノなんだ、ホンモノの宇宙へと飛び出そうぜ!と叫んでいるように聴こえる。ジャンプは全米1位になり、有名になりすぎてしまったが、自分はアルバム「バランス」が好きで、特に、キャントストップラヴィユーと、ノットイナフに共感し、元気をもらった思い出がある。Van Halen - Can't Stop Lovin' You (Official Music Video HD) - YouTube Van Halen - Not Enough (1995) (Music Video) WIDESCREEN 720p - YouTube何よりこのアルバムのタイトルのバランスがいい。人間の二面性を表わし、そのバランスをとるのが大切だと説く音楽のようである。人間の二面性とは、善と悪で、人智学でいうなら、ルシファーとアーリマンの二大悪のバランスをとるのが、キリストの善であるといえる。人間は愛するが故に、自己陶酔しやすいが、その愛はホンモノの愛なのか、それとも、叶わない愛の憎しみにかわるニセモノの愛憎なのか、自己を超えて自己を確立する美こそ、そのバランスを確立する美こそ、ホンモノの愛で、バランスの欠けた愛は、ニセモノの愛であると、説いているようにみえる。特に、キャントストップラヴィユーは印象的で、PV映像の最後に罪を犯して刑務所にいた主人公が、出所して待ち望んでいた家族の元に返るシーンは、失楽した人類が再び天国へ帰る未来を想起させる。神は人類を決して見捨てはしないよ、ホンモノの愛は耐え忍ぶ努力のなかに築かれる、と説いているようにもみえる。霊界で、現世を思い出しながら、あんなこともあったね。こんなこともしたな、と最後は一緒に語り合える存在でいたいねと、問いかける曲にみえる。ノットイナフは、十分に愛せない愛はニセモノで、ホンモノではない、と説いているようにみえる。皆目くらましの、詐欺の、ニセモノの愛に騙されているよ、そんな愛は愛ではなく、欲望だよ、欲望を失わせるほど、愛するには努力がいる。というのも、愛は目には見えないし、目に見えるモノで証をすることもできない、不変で、永遠の、不死だからだ、と説いているようにみえる。この2曲を代表に、愛にはバランスが必要と音楽で表現しているようにみえる。そして、愛に形はない、男女もない、というのもバランスのとれた完全体で、両性具有で、陰陽の両極性を一つにバランスする一元性だからである。なぜ人類は愛に形を求めるのだろうか?それは人類が愛を信仰していない証ともいえるだろう。だから、音楽とは、神々の天国とつながる天界からのメッセージで、音楽を慰霊祭などで歌うのは、霊との絆を深め、霊能力を獲得するためともいえるだろう。人間は、実はあの世の存在で、この世のアカウントを貰い産まれてネットワークをして、仮想の自己をつくりあげて、その仮想の自己から、あの世でオフ会をしながら、互いに自己の違いを超えて高めあい、死を乗り越えて、本当の美しい自己をつくりあげている、といえるかもしれない。最近の結婚相手をネットなどでみつけるのは、霊界と物質界との関係そのままネットに反映しているといえる。さて、前回は、結婚が、本来もつべき人間の両性具有の愛の補完であり、神とのつながりの再結合なのを紹介したが、そもそも、冠婚葬祭が、神とのつながりで、古くは宇宙人との交流であったわけで、霊能力のテレパシーを失うにつれて、人間は神々から離れ、悪の宇宙人でもある堕天使悪魔の誘惑に負け、聖書に書かれた善悪の実を食べることで、自我を私物化し、個人的な自我を手に入れる事が出来たわけだが、この個人的自我は、神々に比べれば赤ん坊のようなものなんである。人間の自我が赤ん坊というのは、シュタイナーによれば、土星紀に、人間は物質体の原型で、次の太陽紀に、エーテル体を獲得し、その次の月紀にアストラル体を獲得し、そして、現代の地球紀に、自我を獲得した、いわば人類史の経緯から、高次の宇宙人たちの天使と比べて、宇宙全体のバランス感覚からいえば、低次元すぎるので、そのバランスの統合性や協調性という意味で、我儘で、横暴で、幼稚で赤ん坊というわけなんである。だから、現代人は、古代人に比べて我儘で、すぐに自己主張して、対立してしまうが、その分、個人的に自由でもある。逆にいえば、古代人には自由がなく、対立の概念などなく、ただ高次の宇宙人の手足にすぎなかったわけで、コンピュータに譬えるなら、メインフレームの端末でしかなく、現代人が操るスマホのような個人用の端末などあり得なかったわけなんである。だから、冠婚葬祭も上からの命令で、強制参加で、結婚だって、許嫁やお見合いで強制的に決められていたわけなんである。遥か昔に遡るなら、霊能力を保持するために、霊能者同士の同族で結婚したので、同族婚だったわけなんであり、そのような風習が形骸化して、この国の天皇なども、昭和帝までは、貴族同士の同族婚だったわけなんであろう。この国の芸術の技芸をつくってきた文化風習の素は、詫び寂びの文化からもわかるように、霊能力であるのはいうまでもなく、昨今などは、安倍晴明などが好んで取り上げられるが、当時の人から畏れられ、大宰府に左遷された菅原道真の方が優れていたようにもみえる。この国の偉人を一人選べといわれたら、迷わず空海を挙げるだろう。もし空海がいなかったら、現在の日本という国があったかどうか疑問に思える。先日NHKだったかで、空海の特集をしていたが、相変わらず唯物論的な現代解釈で人物像を紹介していたが、秘教についての勉強不足が拭えない。真言宗の真言は、物質界での感覚から捉えられないという意味で、だから、密教の、つまり超感覚力の霊能力で解き明かした世界を教える宗教なわけで、仏とは、宇宙人である神と愛でコンタクトできる、神々や天使とつながれる霊能者の事に他ならない。曼荼羅は、その世界を芸術として描いた教科書みたいなものである。人智学を学べばわかるが、物質界の奥に感覚を超えた仏の世界、いわゆる霊界がある。それは素粒子を超えた高エネルギーの世界である。我々は、正のエネルギーからできているが、正のエネルギーからみれば、霊界は負のエネルギーにみえる。つまり、負のエネルギーが鏡のように、ゼロ点で反射し、正のエネルギーとして時空のなかで、物質として現れているわけなんである。だから、人間の霊性の負のエネルギーは、物質の正のエネルギーとして鏡のように外から反射されてはじめて、自己という物質体で認識される。空海さんは、この原理を、真言で説いたのである。勿論、般若心経でも、空即是色と言って説いている。それは負のエネルギーと、正のエネルギーが交わって、自己のような鏡ができる、と言うのと同じだ。霊がモノをつくっているから、我々は、覚醒意識で、自己を認識できるわけで、それは自己の仮想でしかなく、ホンモノは、潜在意識の眠ったときにある。空海さんが説いた即身成仏とは、現代人の眠っている潜在意識を、起こして覚醒意識に転じて、寝ながらにして、起きているわけで、つまり通常なら、死んでいる状態を覚醒させ、物質体の肉体を失っても、ホンモノの自己を確立しているので、目には見えなくても、心でわかる存在のことである。だから、キリストと同じで、いまでも人間の心のバランスのなかに生きている。だから、現代人の未開発な覚醒意識では見えないので、空海もキリストも、睡眠中にみているのだが、覚醒意識では見えないので、起きるときに夢としてその面影を似た人に生き映してみるわけなんである。各地に残っている空海の伝説などは、夢のなかで出会って、空海という僧の言う通りに、起きてから、してみたら、その通りになったというので、改めて、信仰心が沸いてきた、というわけなんだろう。あの世に時空間などはなく、こちらが覚醒意識による正のエネルギーの囚われをなくせば、つまり物質的な感覚を捨て去れば、魂自体は、皆が同じなので、快川和尚が説いたように、心頭滅却すれば火もまた涼しのごとく、死者も生きているかのごとく、みえるわけなんである。魂を、日本語では、たましいと玉や球に譬えて呼んでいるのも、全ては宇宙の球体の意識、バランスの自我意識に帰するということなんだろう。地球人がやるべきことは、愛を深め合うことなんである。物質は生きている動的な愛を、死んだ静的な私物化して捉えた感覚でしかない。我々地球人は、地球で生きる事で、愛を外から感知するが、それは見かけの光でしかなく、本当は、内からの愛の光を感知できなくてはならない。シュタイナーは、人間は生きているときに、外の大自然から生かされていると感じるが、死ぬと、人間は自分の内に神々の視線を感じ、宇宙の彼方から、全てが見通されている、と感じると述べている。この内と外の違いは、プラトンのイデア論、洞窟論でもわかるかもしれない。プラトンのイデアとは現代風にいうなら、負のエネルギーで、肉体的に感知する正のエネルギーは、その似姿でしかない。イデア論 - Wikipedia洞窟の比喩 - Wikipedia 神々の愛のメッセージを読み解くために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ この魂の奥底に眠る、潜在意識下の力の、外の物質界での名前をいくつか知っているが、あまりに漠然としすぎていて比較にならない。というのも、これらの名前は複雑な関係性を仄めかすだけで、覚醒意識には決して到達しないからである。 そこで、この力の、良く知られた現象を取り上げてみる。それは、生まれた町に暮らす場合には現れてこない、「ホームシック」と呼ばれる感情である。ホームシックを探求すれば、各人で異なるのがわかる。 ある人には特別な感情として現れるが、また別の人には、別の感情として現れ、多種多様である。家にいるときに知った、懐かしく親しみのある物語などに憧れるが、心の底では、家そのものを恋しがっている。そのように、個人の魂のなかには、とりとめのない憧れや、当てのない望みが生きている。 また他には故郷の山、もしくは小波を見たときに、よく遊んだ川などを思い出し、憧れる。これらの憧れ、望みは、魂のなかで、しばしば無意識に働くが、総じて「ホームシック」という言葉で括れる。そして、ホームシックは各人で異なり、何千もの形で演じられるが、まとめると「憧れ」の類として表現できる。 更に漠然としているのが「切望」だが、これは多分に、人生において人を最も苦しめる。魂の奥底にある憧れとの関係に、人は全く気づかないが、この切望は憧れの一種である。とはいえ、 この憧れとは何か? 犠牲を捧げるのを望みながら、犠牲を諦めざるを得なかった存在たちの気配に、憧れを関連づければ、憧れが、意志と関係するのを、以前示唆した。そして、この憧れを検証すれば常に、意志から起こるのがわかる。けれども、この憧れとは一体、意志がどうなったものなのか? それは、成就しない意志(意図)なのである。というのも、もし、それが成就したなら、もはや憧れにはならないからである。憧れは、実現されない意志なのである。憧れをこのように定義しなければならない。 なので、犠牲が拒絶された存在たちの魂の気配について、次のように記述すれば、多少とも特徴づけられる。現代人の、魂の深みに感じ取れる「憧れ」とは、これまで述べてきた、太古の時代から受け継がれ、魂の奥底にとどまる、ある未発達な意志なのである。 それは丁度、「憧れ」とは、時間という性質を、太古の土星から太陽への進化の遺産として受け取ったのと同じように、古「月」の進化から 受け取るのは、魂の深みに見つけられる「憧れ」、未成就の意志、もしくは抑圧された意志なのである。 この進化期に捧げられた犠牲が拒絶され、抑制され、阻止された意志を持つ存在たちが創造された。この天使たちは、意志を抑制し、抑圧された意志を、自身で保持するしかなかった為に、非常に特別な状況に置かれた。 もし、これらの事柄を感じ取り、経験したいなら、自身の魂のなかに身を置かなければならない。というのも、思考だけでは、これらの状態に浸透するには、不十分だからである。 意志を捧げ、受け取られた存在は、ある意味、犠牲を捧げた相手と1つに結ばれる。この成就も、つまり、犠牲を捧げた存在のなかで、共に生き、生を織りなし、犠牲を捧げた存在と共に生きることで、充足感と幸福を感じるのを、人生のなかで感じ取れる。
2024年04月18日
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この国の少子高齢化を色々と考えてみたのだが、あまりに物質的に捉えすぎていたのに気が付いた。単純に考えると、少子化になるのは、結婚して子どもを産まない人が増えているためだが、この国の文化、つまり結婚観が大きく変わっているのに、ほとんど誰も言及しないのは、精神的なバランスを加味せずに、片手落ちといえるだろう。いうまでもなく冠婚葬祭のうちの結婚自体が人生の一大イベントで、どの国も文化行事として国を成り立たせるために、公共的に力を入れてきたいわば事業だが、精神的な結びつきよりも、ほとんど形骸化した行事のように、商品化して、物量的に金銭だけが費やされ、若者には結婚がハードルの高いものになりつつある。そして結婚後の子育てとなると、教育費、医療費などの生活全般にわたって、更にハードルが一気に高くなっていく傾向を帯びてくる。そこで冠婚葬祭の文化史を遡ってみると、宗教が深く絡んでくるのがわかり、宗教史から、結婚史や結婚観がある程度読み解けるのがわかる。そして、人智学による結婚観の大まかな歴史は、以下のようである。ポストアトランティス時代の古くは産めよ増やせで、一夫多妻か、一妻多夫で、民族的に増殖してきたが、霊能力の保持のための、同族婚から、民族を超えて増殖するために、異族婚となり、霊能力を失うにつれて、個人的な自我を確立するためと、民族内外でのいざこざを収拾するために、一夫一妻の結婚が物質経済的にも推奨されるようになっていった。つまり、ポストアトランティス時代の人類進化上の、結婚の理想とは、個人的な自我の確立のために、キリストによる精神的な意味での両性具有の一夫一妻制の結婚観にあったのだが、次第に、宗教が唯物論のルシファーにより権威化され、アーリマンの物質文明により物量的な略奪経済により日常生活が贅沢化するにつれて、例えば、坊主が高級外車を乗り回すなどが流行り出した経緯をみれば、統一妖怪などの似非宗教に侵略感染されたのも、カリユガという時代の成り行きともいえるかもしれない。カリ・ユガ - Wikipedia以下、上のウイキの「カリユガの特徴」を紹介する。この国の巷によくあてはまっている。カリ・ユガの特徴マハーバーラタにおけるマールカンデーヤ(英語版)の会話から、カリ・ユガのいくつかの特徴が確認できる。支配者に関して支配者は理性を欠くようになり、不公平に税金を徴収するようになる。(この国の政治家、裏金議員などをみればわかるが、政治活動費として税を優遇されている。)支配者はもはや崇高であることや、被統治者を保護することを義務だと思わなくなる。彼らは世界にとって危険な存在となる。(この国の国民の代表の政治家は国民を馬鹿にし、総理大臣は震災復興よりも外交での自己保身の無駄使いに費やしている。)人々はコムギやオオムギが主食であるような地域を探し、そこに移住を始める。しかしその一方で、彼らは自分たちのものを好んでいるので、そのために自分たちの生活を犠牲にする。(人件費や税金の安い土地に労働者を求め、貿易で経済資本を成り立たせようとするので、エネルギー、農産物自給率が下降する。)人間との関係七つの大罪や復讐が普通に行われる。人々はお互いに強い憎しみをあからさまに示すようになる。法は忘れ去られていく。人々は正当化できない殺人について考え始め、そしてそれが悪いことだと考えなくなる。性 欲は社会的に容認されるものと見なされ、性 行為こそが人生において最も必要なことであると考える。善意が衰えていき、犯罪が飛躍的に増加する。人々は直後に破るためだけに誓いを立てる。人々は酒と薬物に溺れる。男は自分たちの仕事のストレスが大きいことを自覚し、仕事から逃亡するためひきこもる。グルはもはや尊敬されなくなり、彼らの弟子たちは師を痛めつけようと試みる。彼らの教えは侮辱され、カーマ(官能的な欲望)の信奉者は全ての人間から心の制御を奪い取る。バラモンは学ばれることも尊敬されることもなく、クシャトリヤは勇敢ではなく、ヴァイシャは公平でなくなり、シュードラは正直でなく、彼らの義務や他のカーストに対して謙虚でなくなる。(この国でいえば、バラモンは教師などの先生といわれる職業。クシャトリヤは官僚や警察や消防などの公務員全般の職業。ヴァイシャは会社の社長や経営者など資本家の職業。シュードラは労働者一般。それぞれが、悪徳に走っている。)バラモン - Wikipediaクシャトリヤ - Wikipediaヴァイシャ - Wikipediaシュードラ - Wikipediaこのように、この国はカリユガを地でいっているわけだが、だからして、支配者の堕落ぶりさながら、人間の徳性の道徳も腐敗し、宗教観も銭儲けに走り、結婚観も銭儲けで、巷には偽メールのごとく詐欺が横行しているわけなんである。端的にいえば、人類が悪魔に操られ、対立し、論争し、闘争し、戦争する時代といえるだろう。だから、あらゆる関係が金儲け銭儲けの対立を生む源泉になり、実際に銭ゲバのウインウインの関係などといわれたりしているが、そのような関係を与えているのが、ルシファーやらアーリマンやらの悪魔たちであるのに、全てが物質界においては目くらましされているので、気づいていない。Win-Winの関係とは?【意味・使い方をわかりやすく】実現方法 - カオナビ人事用語集 (kaonavi.jp)ウインウインの関係は利害だけではなく満足を意味するというが、あくまで満足というのは精神性からくるもので、多様的な価値観を生み出す必要があり、勝利のウインとは、利益を物量的に求めている獣性にあり、人と人とが対立し、世代間対立を生み出している根拠となっているわけで、そもそも勝ち負けを判定している段階で、物質界ではありえない非現実的な理想である。宗教観がカリユガし、冠婚葬祭にウインウインの関係を持ち出すにつれて、物質界では非現実的な、悪魔による獣性に、人類が目覚め、踊らされていくにつれて、純粋に精神的な神聖から遠ざかり、結婚観も非現実的な敷居の高いものになり、若者が物量的に脱落していく現実が、少子高齢化として現れてくるわけなんである。そして、物質文明下での、若者の結婚観は、バブル略奪資本経済とともに、期待感が増殖し、派手で見栄えがいい獣性の名誉欲と虚栄心を満たす商品と化していき、株価の水準と連動し、結婚自体が投資となり過剰な期待から、実体物量経済が追い付かなくなり、結婚詐欺やら、不倫の横行などで、一気にバブル崩壊と共に、株価と連動し、結婚から離婚へと転じていく。そして、いまは、実体物量経済を電子化する事で、ルシファーの獣性を、アーリマンの確率統計へと先送りすることで、仮想株価の略奪資本電子経済をネット構築でつくりあげて、人工知能のAIで運用している。全てはアーリマンの計略にハマっている。そのうち、人間も結婚も電子化されていくのかもしれない。しかし、それは正真正銘の人間ではなく、人間かのような人工人間で、株価のように資本略奪経済のなかでの電子人間でしかないだろう。さて、このように結婚観も、カリユガし、悪魔の支配の下に、男女対立する関係になりつつある。それも結婚観が株価のように資本投資化したためと考えられる。そのうちに離婚を損切りなどと言い出す輩が出てくるだろう。損切りもできない離婚は死んだも同然と言い出すだろう。例えば、米国のセレブのなかでは、結婚は、離婚時の慰謝料請求のために行うというような、まるで投資家の投機と同じような実態となっている。つまり、結婚が、獣性化を通じて、完全に金銭の如く、物質化してしまっているのに気づかされる現代の結婚観が、悪魔により与えられた獣性により物質化してしまい、精神的な退廃から、対立を生み出す源泉になってしまい、詐欺や破壊的行為と化してしまっているので、少し前の、例えば、平成の若者たちは結婚を夢見て、期待し、裏切られた報いから、令和の現代の若者たちは、結婚に絶望を感じてしまい、乗り越えられない高い壁を感じて、躊躇してしまうので、少子高齢化に進んでしまうわけなんだろう。シュタイナーによれば、カリユガの時代は、既に20世紀に終焉を迎えたという。だから、人間が、キリストが与えた本来の自我性に目覚めたなら、結婚の意味を、物質性から霊性への、本当の創造性への神聖へと回帰できるはずなんである。現代の結婚観は、若者に金銭的な絶望に近い拘束閉塞感を与えているが、例えば、巷で話題になった、期待するよりも期待される人間の、大谷選手の結婚のように、精神性で、期待される人間へと回帰する必要がある。つまり、カリユガにより物質性に過度に傾いた結婚観を、精神性を回復する事で、バランスを回復させる必要があり、シュタイナーは、人智学をして、霊性の回帰を説いているわけなんである。本来、少なくとも、結婚とは、地上での霊能力の保持のために、神聖を失わないため、神々とのつながりを保持するため、宇宙の進化に沿う為の創造性の愛のメッセージを受け取るために、行われた神的行事なんである。だから冠婚葬祭は全て神事で、神降ろしのために行われてきた。古代エジプトのピラミッドも、日本の伊勢神宮も同じ神事の施設なんである。結婚を神社仏閣で行うのは神事の形骸化にすぎない。神とのつながり、絆を、古代インドでは、ヨーガと呼んだが、宗教を英語でリリジョンというのは、再結合の意味をもつからである。だから、ヨーガもリリジョンも、同じ神とのつながりを求める行為で、広義の結婚の意味なんである。だから、カリユガの時代とは、悪魔の獣性により、神とのつながりが隠されて、遠ざけられる人類の進化段階を意味しているわけなんである。それは、人類が神から生まれて、自立して、キリストによる個人的な自由の意志で、神の子から、神へと一歩づつ、自我の赤ちゃんが、神から与えられたバランス感覚を身に着け、そのバランス感覚を新たに宇宙にもたらし、宇宙のバランスを期待するよりも、宇宙からバランスを期待される死から不死の永遠の存在になるためである。結婚とは、ヨーガの一種であり、外なる獣性を払拭し、内なる神とのつながりを認識する、霊性への覚醒なんである。だから、結婚に際し、獣性を諦めないと、外から内へのつながりを確保できず、物質界から、精神界へと次元移動できない。何事もバランス感覚が重要である。結婚とは、実は見える存在のなかに、見えない存在とのつながりをみつける旅なんである。最近の科学でも、宇宙が多次元時空の、平行宇宙になっているのがわかっている。素粒子物理学でいえば、物質界とは、正負のエネルギーが釣り合ったバランスされた物質空間の世界である。この固体のバランス感覚を、人間に覚醒意識として、与えているのが、四大元素霊の、土の精霊といわれるノームである。パラレルワールド - Wikipediaノーム (妖精) - Wikipediaノームの親玉の大親分、マフィアの頭目なのが、アーリマンである。だから、ノームは太陽光の光とは逆に、負のエネルギーで重力を操っている。人智学では、地球の原型は正四面体で、その4つの辺に分布する地球の隙間から、太陽光の熱を大地のノームを操ったアーリマンが吸収し、重力を操作することで、火口から熱を吹き出し、地震が起こされる、のを解き明かしている。素粒子レベルでも、光から対電子生成が行われているように、上にあるものは下にもあるが如く、宇宙はフラクタル構造になっているが、大は小を兼ねるように、マクロからミクロは解されるが、その逆のミクロからマクロは解されない。だから、ミクロを解するには、マクロの世界を、見えるものを解するには、見えないものを解する必要がある。結婚は物質界を解するのが目的ではなく、本当は見えない世界の、四大元素の世界と、悪魔の魔界と、神霊の精神界を読み解くための、人間の赤ん坊の自我を育てる初歩段階にすぎない。だから、愛を求める自我ではなく、愛を与える自我にならなくては、見えるものばかりをみていては、結婚は失敗に終わるだろう。神との目には見えない絆、愛のつながりを求めるために、結婚に際し、キリストに誓うのである。互いが、目の前にある男女もしくは精神的な対極にある物質的存在の奥に、バランスのバランスの精神的な神聖を求めて、愛の誓いを立てるのは、人類の進化に沿った必然なんである。ホンモノの愛は、物質的な死によって、物質的なつながりに目隠しされ、切り離されるものではなく、だからこそ、結婚に際しては、キリストなどの宇宙意識の名の下に、永遠の愛を誓いあうのである。宇宙全体から祝福されてこそ、永遠の絆の証として保障されるわけなんである。神聖な愛の証がなければ、結婚には何のいかなる効力もない。獣性に目覚めるだけなら、ただ虚しいだけで、マヤカシの物質的な奴隷生活へと化するだろう。現代人の結婚観は、株価の投資欲と変わりがなく、虚しいものでしかない。だからして、この国のカリユガに拘束される連中と共に滅んでいくだろう。滅亡から再生に向かう為に、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 魂の中にある、この気配は、地上の人間の生へと次第に近づいてきたが、実際に、この気配の不確かさというか、苦しみ、もしくは苦痛などは、地上で暮らす、どの魂にもお馴染みだが、次の講演「魂のなかの隠れた深層(潜在意識のなかの真相)」(GA61)で取り上げるつもりである。 どの魂にも、お馴染みな、この気配というか、状態は、魂の深部=潜在意識を支配しているが、苦しみをあまり生じさせない場合、魂の表面=覚醒意識に向かって上昇してくるが、直接気がつくことなく、しばしばその周辺を巡るだけにとどまる。現代人は、高次意識の知性では、この気配に気づかずに、魂の深部の、苦悩として担っている。 「憧れを知る者だけが、苦しみを知る」という、ゲーテの詩「ウィルヘルム・マイスター」の言葉を思い出すかもしれない。この言葉は、漠然としているが、魂の奥に隠された苦悩と共に、苦しみの感情を伴う、「憧れ」をよく捉え、魂の奥底の気配を表現している。それは、魂が、様々な熱望から、苦闘するだけでなく、実際に、魂のなかで、憧れが絶えず気配として生きている、のを解き明かしている。 古「土星」から「太陽」への進化において、精神に生じた事象を、魂で追体験するなら、この魂の特別な状態、つまり、高次の努力に向けて舵を取り、苦闘し始める際に現れる状態に注目すべきである。この状態は以前、第2講の「太陽紀の霊視」で、諦めや犠牲の本性を、魂の追体験から描き、明らかにしたものである。 そこでは、「喜んで与えること」、もしくは「自我の成長のために諦めること」とでもいえるような精神的出来事に還元し、そして、それから生じるような叡智から、人間が、将来、何を達成できるか、を見てきた。太古の状態から進化し、地球の現状に近づくほど、現代人でもまだ追体験できるような魂の状態に接近できる。 しかし、これまでの前世などを含んだ魂の表層は、地上的な肉体のなかに挿入され、覆われていることで、その表面下を流れる、隠れた水の流れのように、憧れの、深海の魂の表面の、最上層のように横たわっているのを、明確にすべきである。 魂のなかに、前世などの隠れた経験がある、のに気づかないでいられるだろうか? 人生は、そのような隠れた経験がある、のを十分に教えてくれる。 この隠れた魂の経験を明らかにするには、例えば、7才か8才辺りの子どもがする様々な経験を考えてみる。実際にやってもいないことを問い詰められ、不条理な経験をするかもしれない。子どもはしばしば、このような不条理さに対して特に敏感である。 しかし、その子が、やってもいないことをやったとし、その子を叱って問題を丸く納めるのが、周囲の大人たちにとって都合がよい場合もある。実際に、子どもは、このような不条理に苦しめられるのには特に敏感である。 しかし、この不条理な経験が、子どもの魂に深く食い込んだ後、歳を経るに従って、魂のその上層に、更なる経験が付け加えられ、少なくとも日常生活上では、その不条理な経験は忘れ去られていくものである。 恐らく、そのような不条理な出来事は、全く同じ形では生じないが、その子が15歳か16歳の若者になったとき、例えば学校で、新たな不条理を経験するとする。すると、波打つ魂の奥深くに眠っていた子どものときの不条理な出来事が呼び起こされる。 この若者は、子どものときの経験が思い出として作用しているのを知らず、実際、子どものときとは全く別の考えや概念に至るが、もし、子どもときの出来事が生じてなければ、帰宅して、多少の涙を流し後で、多少の不満を言ったりするかもしれないが、すぐに立ち直るだろう。 ところが、子どものときの出来事のために、その出来事さえも知らずに、まるで静かに見える水表面下に、下から上へと流れが押し寄せるように、かつての不条理な経験が、魂の表面下に働きかける。そして、そのような経験がなければ、多少の涙と不平、愚痴で済んだはずのものが、ついにはその若者に自殺という結果をもたらし得る! このように、魂の深みにある隠れた経験が、奥底から表面へと上昇し、その役割を果たす。そして、この深みを支配する最重要な、潜在意識下の力とは「憧れ」なのである。
2024年04月17日
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ニュートン力学の生みの親アイザックニュートンだったと思うが、子どものとき、周囲のものに、自分の名をとにかく書きたがり、自分のものにしたがったという伝記の逸話が残っている。ウイキペディアにも載ってないので、真偽は定かではないが、いかにもニュートンらしさを示しているエピソードにもみえる。ニュートンが科学の発展を100年遅らせた?!存在を消された科学者・フック|もうひとりの偉人伝|こざきゆう/真山知幸 - 幻冬舎plus (gentosha.jp)現代人は、物質界に親しみ、そこに名を刻み、いわば自分史の記憶を記念として打ち立て、その履歴を下に活動し、物質界のなかに、自己を確立していく。それは大自然のなかに、記念碑を立て、人類の足跡を残し、人類史を構築していくのと同じである。大自然の過酷な環境、ときには南極に旗を立てたいと思うのも、自己顕示欲の為せる業といえるかもしれない。ニュートンを代表としなくても、物質界に生きた証拠を残したい、という名誉欲や功名心、虚栄心は、現代人が持つ第一の特徴といえるかもしれない。現代は唯物論による物質文明の時代で、太陽光を通じて覚醒意識で、物質の運動を記述し、時間感覚を身に着け、生活環境から、生きるという自我感覚を体験し、記憶として整理し、知的生命体の人間として生の経験を積んで、現代人として生きている。我々現代人は、現代のなかを運動しながら、動的に生きているのだが、覚醒意識の感覚では、静的にしか捉えられない。いわば、仏教観のように、動的な乗り物に乗りながら、その瞬間瞬間を静的に経験している。例えば、還元論を使って、人間を素粒子のネットワークとしてミクロ化していくと、ファイマンダイアグラムのようなエネルギーの挙動の総体として、人間が成り立っているのが、現代的な理念から解き明かせる。いわば、人間は、大自然との共生による相互作用から、自分を知的生命体として切り取って、認識し、時間と共に経験し生きている。ある意味、人間は大自然からつくられた詩といえるかもしれない。ファインマン・ダイアグラム - Wikipediaそこで、立ち止まって考えると、現代人を生かしているものとは何か?現代人は自己を認識する事で生きているのだから、自己の認識を成さしめているものとは何か?現代風にいうならば、自己のエネルギーはどこからくるのか?大自然でいうなら、小さな川が大きな河に由来するように、自己のエネルギーが、親族のエネルギーに、また民族のエネルギーに由来していくのだろうか? 川の流れを、血のつながりに譬えれば、そうなるだろうが、血とエネルギーとは、若干意味が異なる。人智学では、現代をポストアトランティス時代のアーリア文化期と呼んでいるようである。しかし、シュタイナーの講義録の日本語訳本をみると、アーリアという言葉は使わずに、ほとんどが第5文化期としている。シュタイナー自身も命名には拘らずに、説明の便宜上で仮につけているらしく、第5文化期をゲルマン文化と呼んだりもしている。そこで、アーリアとは何か?とググってみると、トゥーラーン=ツランに由来するのがわかる。ツランは、かつてイランの北東の中央アジアにあったらしい。そして、古代ペルシャにおける、ツランとイランの対立から、アーリマンとアフラマズダ=キリストの対立の、ゾロアスターの教えが浮かび上がって来る。アーリア人 - Wikipediaツァーリズム - Wikipediaそして、ツランはツァーリズムとして、現代のロシアに影響を及ぼしているのがわかる。歴史は繰り返すといわれているが、古代ペルシャでのかつてのツランとイランの対立が、現代のゲルマンとスラブのロシアとの対立に波及しているのが、アーリア文化期の特徴から明らかになる。そこで、古代ペルシャでのツランとイランの対立を、このブログで、約10年前に紹介したが、ほとんど忘れてしまっているので、再度、紹介してみたい。 ☆ ☆ ☆「ツラン(トゥーラーン)民族 高橋 巖:訳」の要約 ヘブライ民族の使命を理解するには、人類の進化を、なにより一層深く霊視する必要がある。著書『神秘学概論』や連続講義の中で素描した事象を、更に詳しく読み解く必要がある。 少なくとも、古代アトランティス時代の破局(大洪水)の結末を、簡単にでも取り上げなければ、人類の進化に対して、ヘブライ民族の関与を正しく理解できない。 古代アトランティス時代の大破局が、後に、地上に大変化をもたらすようになったとき、当時、古代アトランティス大陸に居住していた人々は、西から東へと移住していった。この移動には、基本的に、2つの大きな流れがあり、北方の移動と、南方の移動である。 従って、古代アトランティス居住民による大きな民族移動の1つは、北方のヨーロッパを通ってアジアにまで渡って行った。 従って、カスピ海周辺の地域を考察すると、古代アトランティス居住民による、この民族移動がどのような形で行われたかがほぼ理解できる。 一方、南方の別の流れは今日のアフリカを横断した。そして、アジアで、いわば2つの水流が衝突し合い渦となるように、この北方と南方の2つの流れに一種の合流が生じた。 その際、特に関心をひく出来事は、古代アトランティスから東方へとつき動かされていった様々な民族、もしくは少なくとも、その主要部に相当する魂の様子が、全体として、どのようなものであったか、ということにある。 実際、ポスト(後)アトランティス時代の初期の人々の魂の様子は、全体として、その後の人々、特に今日とは全く異なっていた。 移動した全ての民族において、環境を、霊的に知覚する能力がまだ存在していた。当時の人は、霊的存在を、ある程度、見れて、現代人が物質として見ている存在を、霊的な形で見ていた。 従って、当時の人々は見霊的な生活様式や、見霊的な魂をもつ人間だった。 しかし、特に重要なのは、ポストアトランティス時代の根源的な住民の見霊能力が古代アトランティス時代の最盛期の頃の住民の見霊能力とは異なっていた、ということにある。 古代アトランティス時代の最盛期の人間において高度に存在していた見霊能力は、純粋な形で霊界を見ていたので、霊界の啓示は、人間の魂に善への衝動を生じさせていた。当時、霊界に深く参入できた人は、それだけ善への衝動をより深く得ていた。 霊界をより深く見れるほど、善への高次の衝動を獲得していた。 しかし、古代アトランティス時代の大体3分の2が過ぎた頃、特にその後のポストアトランティス時代になると、古代の見霊能力の善なる側面は次第に消えていった。 秘儀参入の場で特別の修行をした人たち(秘儀参入者)だけが、古代アトランティス的な見霊能力の善なる側面を保持していた。 対照的に、自然(遺伝的)な形で、古代アトランティス的な見霊能力を受け継いだ人たちには、誘惑の悪の力と遭遇するようになった。当時の人間の見霊能力は、善なる力だけを見るのに十分な力強さを、保てなくなった。 そして、人間には悪しき存在、すなわち誘惑する存在だけを見ることが残された。ポストアトランティス時代の特定の居住地域には、善から全く離れた見霊形式が普及するようになった。見霊能力自体が一種の誘惑者になった。 (スターウォーズでいえば、フォースの暗黒面に堕ちたというところだろう。ダースベイダーの誕生だろう。) 今日の人間が通常もつ感覚的な知覚能力は、古代の見霊能力の衰退と結びつき、次第に発達してきた。 (ジェダイが衰退するとともに、悪の皇帝が出現する。ヨーダーはヨーガ「ヨガ」を類推させる。) ポストアトランティス時代の初期の人間が見ていた事物は、今日、現代人が通常の眼で見る事物のようには、当時は全く誘惑(=詐欺)的ではなかった。なぜなら、誘惑されるような魂の傾向が、まだ当時存在しなかったからである(騙され難かった)。 今日の現代人なら、欲しくてたまらなくなるような外(物質)的な事物があっても、当時のポストアトランティス人はあまり惑わされずにいた。 にも関わらず、当時の古代とは劣る見霊能力が覚醒したとき、当時の人間の心は激しく揺さぶられた。霊界の善なる側面を見ることがほとんどなくなり、その際、ルシファー的、アーリマン的な悪霊的な存在が、強い力で働きかけた。 従って、当時の人間は、誘惑者、欺瞞者となり得るような働きだけを、見霊能力により体験した。もし、古代アジアの後に、古代ギリシア、ローマが続かなかったら、今日のような人類は決して生まれなかっただろう。今日の人類は、個人的(パーソナル)な、1人1人別個の個性に基づく人類である。 古代東洋の個性、すなわち古代東洋の人類は、今日のような1人1人別個の個性に基づく存在ではなかった。1人1人は、自らを、絶えざる神的存在のプロセスの1分岐と感じていた。 (日本人の感性に近い。天皇を神的存在とみなし、天皇の行為の1分岐を、自分の宿命と感じている感性である。日本人の名前の姓が、歴史的には、天皇から派生し、由来していることからもわかる。) 神々は地球の進化に対して、意図をもって様々に意志したので、地上で様々な出来事が起こった。神々は、人間の意志のなかにインスピレーション(霊聴力=波動)を与えながら、働きかけた。これまで述べ、示唆してきた力強い人物たちが、東洋で行ったこと全ては、神々のインスピレーション(霊聴力=観音力)だった。 神々が意志し、人間が、行為した。そして、古代の世界では、秘儀とは、神々の意志と、人間の行為とを正しい軌道に導くのを命題としていた。 エフェソスにおいて、はじめて状況は変化した。これまで述べてきたように、エフェソスでの秘儀の入門者(参入者)たちは、(秘儀に参入するのに)もはや季節の経過ではなく、自身の成熟度(徳性)を拠り所にせざるを得なかった。 エフェソスにおいてはじめて、最初の個性というべき痕跡が現れてきた。過去生(前世)の受肉におけるアリストテレスやアレクサンダー大王も、当地で個性の衝動を受け取った。しかし、古代東洋における秘儀の本質たるべき人間でありたい、という最後の憧れをもつ背教者ユリアヌスの時代、すなわち、古代東洋の秘儀の黎明となるべき時代が訪れた。 人間の魂において、古代ギリシアでさえも存在していた状態とは全く別の状態になる時代が到来した。 エフェソスの秘儀から、例えば、ある魂の状態に到達したような人間をイメージしてみる。エフェソスの秘儀だけでなく、エフェソス当時を生きたことで、その人間の魂は、ある状態に到達した。 例えば今日、通常言われるように、現代人が、(記憶から)体験を思い出すとき、何を思い出せるか? 現代人は、生まれてから、個人的な体験を思い出せる。ある年齢の人がいる。その人は20年前、30年前の体験を思い出せるが、内(精神)的な記憶の想起は、個人的な人生を越えていくことはありえない。 しかし、例えばエフェソスの文明に参加していた古代人の場合は、現代人とは全く異なっていた。エフェソスで達成した魂の状態の僅かな痕跡を獲得しただけで、古代人は、全人類(民族)の体験を思い出した。 今日、現代人が、個人的な人生の記憶を浮かび上がらせるように、古代人は、地上以前の生存や出来事を、魂のなかに浮かび上がらせ、例えば、地球の進化に先立つ(太古の)月進化、(太古の)太陽進化、といった出来事が、自然の個々の領域のなかに、浮かび上がった。 (例えば、植物や動物をみて、その昔の姿が思い浮かぶ。現代人は、いまある姿しかみえないが、古代人は、例えば、植物の花をみて、同時に種子がみえ、植物の昔の形もみえる。動物も、どんな動物から進化してきたのかがみえる。) 当時の古代人は、自らの内(精神)を覗き見れて、そして、宇宙的な存在や、人間と宇宙的存在との結びつきや、いわば人間のなかの宇宙的存在への依存を見つけた。当時の古代人の魂のなかに生きていた体験は、自己意識の成長過程や、宇宙的進化というべき宇宙意識を伴った自己認識だった。 つまり、次のような結論に到達する。 エフェソスで宇宙の秘密を体験できた時代が存在した。当時は、人間の魂が、太古の宇宙を思い起こすことができた。このいわば自己意識の誕生以前は、太古の宇宙のなかに実際に生きる(神と共に生きる=天国の)体験ができた。そのうち、太古の時代を、束の間に覗き見る体験だけが残った。 ギルガメッシュ叙事詩が語る時代では、すでに、太古の宇宙に対する人間の体験そのものが魂の状態ではなくなっていた。当時は、当時を現在とする太古の体験を記憶にもつ魂の状態であった。 そして、アレクサンダーから背教者ユリアヌスへと至る時代が到来した。さしあたり、この時代を先送りする。次いで、中世や、近代の西欧文明が育ってきた時代へと至る。この時代にはもはや、太古の宇宙に対する人間の魂のなかの体験も、当時を現在とする太古の体験の記憶もなく、残されていたのは(形骸化した)伝統だけだった。 第一:太古の(直接的な)体験 第二:太古の宇宙に対する(間接的な)体験の記憶 第三:伝統 当時の古代人は、出来事を記録でき、歴史が生じた。この記録による「歴史」は、ローマ時代に始まった。 ゴルゴダの秘蹟前後の圧倒的な違いを考察すべきである! エフェソスの秘儀への入門者(参入者)たちの時代を霊視してみる。当時、歴史的な書物は必要なかった。出来事を書き留める等は、当時の古代人にとっては滑稽にみえた。というのも、精神集中し、霊視すれば、意識の底から、過去生じた体験が浮かび上がってきたからである。 (現代人の記憶力と同じで、若い時にはそのまま覚えれたのが、老化して記憶が衰え、メモが必要になるのと同じ) このような体験を心理分析して描写する現代の心療医師などはいなかったが、魂のなかに生きる記憶から過去に存在した体験を取り出してくるのは、当時の人間の魂の歓喜に通じた。 (一時期、前世療法という心理分析が行われたが、この古代人の魂の歓喜に通じるものなのかもしれない。) エフェソスの時代以降、人類は、上記のような体験を忘れてしまい、かろうじて、出来事を記録せざるを得なくなった時代になった。 しかし、古代の人間の魂のなかの、いわば宇宙的な記憶力を、人類が退化させて行かざるを得なかった、この期間に、つまり、世界の出来事を記録し、歴史の記述云々という、人類が不器用にならざるを得なくなった、この期間に、逆に人間の内部では個人的な記憶力や個人的な記憶(想起)が発達した。 どの時代にも独自の使命や独自の課題が存在する。 ここで、以前述べた、時間的な記憶が登場した、という説明の別の面が現れる。この時間的記憶の最初の揺籃期の地は古代ギリシアだったが、この記憶は、その後、ローマ・ロマン文化を経て、近代にまで至る中世へと発展してきた。 そして既に背教者ユリアヌスの時代に、この個人文化への前兆が芽生えたが、これを証明しているのが、背教者ユリアヌスは、エレウシスの秘儀への参入を受け入れたけれども、もはや彼には何の役にも立たなかった、という事実である。 さて今や、西洋の人間は紀元前3、4世紀から現代に至るまで、地上の生活の間、霊界の外で生きる時代となり、単なる概念や理念、抽象論のなかに、それを糧として人間が生きる時代となる。古代ローマでは、神々でさえ、抽象的存在となる。 もはや人類が、霊界との直接的な活きた関係に全く無知な時代がやってきた。もはや、地球は、上層にある様々な天の最下層の領域であるアジアではなく、地球自体が、1つの(閉じた)世界となり、様々な天は遥か遠く、人間の観照のなかで薄れていった。 (ソクラテスが無知の知を説いた霊界への無知の時代がはじまった) そして、次のような結論に達する。 「古代ローマ文化として西洋に到来した叡智の影響の下に、人間は個(人)性を発達させる。」 霊界では、上位の霊の国に接し、下位に魂界があるのと同じように、時代の推移に従って、西洋の文明、いわゆる一種の魂界も、霊的な古代東洋の世界の下位に接している。そして、西洋文明という魂界が、本質的に直接、現代の日常にまで、入り込んでいる事実が明らかになる。 しかし、今日の人類の大多数が、いまだに大きな転換が、実際に進行中である、という事実に気づいていない。このような話を聴いた友人が、時代が過渡期に直面している、という事実について述べるのを好まないのを、人智学徒はよく知っている。なぜなら、どの時代も、(過去の時代の)過渡期であり、すなわち、過去の時代から後(未来)の時代へと常に、過渡から移行しているからである。 問題はただ、時代の転換期に、どのような移行が起こっているのか、ということである。けれども、これまで述べた事実は、この移行が霊の国から魂界へ、そして、魂界から物質界へ至る、というような事実である。 今まで発展してきた文明のなかには、常に、ある種の霊的な反響があった! 唯物主義(マテリアリズム)のなかですら、ある種の霊的な反響が漏出していた。様々な分野での本質的な唯物主義は、19世紀半ばになりはじめて出現してきたもので、まだ極めて僅かの人間にしか、完全な唯物主義の意味は理解されていない。 しかし、唯物主義は巨大な力をもって今日存在し、今日の時代は、第3の世界への過渡期にあたり、前の古代ローマ世界が、古代東洋の世界と違っていたように、現代は、この古代ローマ世界とも全く違う第3の世界への過渡期である。 さて、古代アトランティス大陸没落後に東へと渡っていった人々は、様々な進化の過程を辿った。その進化を辿る人間は、東へ向かう程、より道徳的になり、霊的に高次になった。そして、外なる対象世界は、新しい世界として益々はっきりと眼前に現れてきた。 外なるその世界は益々偉大なる存在、壮麗なる存在として人間に働きかけるようになった。この傾向は、東へ移る程、益々強くなった。特に、上記のような傾向を強くもっていた民族は、例えば、今日(1910年)のインドよりも北方のカスピ海やオクソス川、ヤクサルテス川に至るまでの地域に居住していた民族だった。 このアジア中央部には、後に様々な方向へと移住していった民族の源流となる集団が居住していた。その民族集団は、人智学者が、しばしば霊界認識に基づいて語ってきた古代インド民族の源流でもあった。 アジア中央部の、この民族の大集団のある一部の民族においては、古代アトランティス大陸の没落後まもなく、没落の過程で、既に外なる現実(物質)界に対する感覚が非常に強度に発達していた。しかし、この民族の場合でも、この地域に生まれた人の心には、かつて古代アトランティス世界で体験してきた前世の思い出が、一種の記憶の認識として生きていた。 後にインドヘと下りていった民族のある集団には、この傾向が特に顕著に現れていた。この民族集団は、外界の素晴らしさを非常によく理解し、外に対する知覚内容の観察にかけては、最も進歩していたが、同時に古代アトランティス時代の霊的な知覚内容も強く前世の思い出として残っていた。 従って、この民族には、前世として思い出せる霊界への衝動が強く発達していた。霊界の中への参入が容易である一方で、外的な感覚が示す存在はマーヤ(幻)であり、幻想である、という感情を合わせもっていた。 従って、特別に外界を観察するのではなく、古代アトランティス時代に直接霊界から得た前世の記憶に、到達するために、ヨーガという人工的方法などを駆使した。 外界をマーヤ、もしくは幻想と観じ、代わりに霊的な存在に到ろうとする衝動だけを発達させる特質は、古代インドより北方の地域に移住する民族の場合には、それ程顕著ではなかった。その北方民族は、悲劇的な状況下にあった民族の集団で、歴史上は狭義のアーリア人と呼ばれるペルシア人、メディア人、バクトリア人など、北方の様々な民族のことである。ペルシア人、メディア人、バクトリア人などは外(物質)的な直観と外(物質)的な知力を非常に発達させていたが、古代アトランティス人が生まれつき持っていた霊能力を、(古代インド人のように)一種のヨーガのような内的修行によって獲得しようとする衝動は、それほど強くなかった。 これらの北方民族には(前世の)活き活きとした記憶力があまりなかったので、外界の幻想を認識により克服するために、太古の前世の思い出を修行に置き換えようとはしなかった。 古代インド人のような魂の様子(状態)は、これらの北方民族にはなかった。これらペルシア人、メディア人、バクトリア人等の北方民族に見られる魂の様子(状態)は、今日の言葉をかりれば、次のような感覚だった。 「かつて人間は霊界の中で、霊や魂的存在を直観し、体験していたが、今、物質界の中に移され、物質界を眼で見、脳と結びつく知性で理解する理由は、人間側だけにあるのではない。克服すべき対象を人間の内部だけでは克服できない。内部だけで克服しようとしても、何も変わらず、起こらない。」 また、古代ペルシア人は、次のように語った。 「人間が地上に降下したときの変化は、人間だけに生じたのではない。自然を含む地上の全てが変化した。だから、人間が周囲の事物をそのままに放置すれば、全てが幻想で、マーヤ(幻)なのだから、人間だけが霊界へ上ることを願うだけでは不十分である。内部だけを変えた場合、自分は変わるが、周囲の世界全体が変わるわけではない。」 従って、古代インド人のように「外にはマーヤ(幻)が拡がっている。自分は、このマーヤを乗り超えて、霊界に到達する」とは、古代ペルシア人は考えなかった。 「人間は周囲の世界と結びついている。人間は周囲の世界の一分岐である。高度な神霊界から下りてきた人間の中の神的な存在を変化させるべきなら、人間の中だけを、元の存在へと変えるだけでは許されない。周囲の世界も、元の存在へと変えなければならない。」 上記のことが、北方の民族(古代ペルシア人)に、世界を作り変える為の衝動として、力強く働いた。 古代インド人は、「世界は堕落した。今、(周囲の)世界が示しているのはマーヤ(幻)である」と考えた。 北方の民族(古代ペルシア人)は、「確かに世界は堕落したが、人間が、世界を変化させて、再び霊的な存在にまで高めなければならない」、と考えた。 認識について考察することが、古代インド民族の基本的性格だった。感覚的知覚の内容を幻想、もしくはマーヤ(幻)と呼んだら、もう十分だった。 自然の中に存在する外的な存在を作り変えようとする意志や行動力や外に対するエネルギーが、ペルシア他の古代の北方民族の基本的性格だった。 「周囲の事物は神的存在から下降してきた。しかし、人間はそれらを再び、神的存在に導き、戻す使命を受けている」と、北方民族は語った。 基本的には、古代ペルシア(北方)民族の中に既にある上記の性格が、秘儀を伝授された霊的な指導者たちの場合には、最高度に高められ、最大のエネルギーで充たされていた。カスピ海の東側と南側で生じた事柄を完全に(外的にも)理解するなら、それよりも北側で生じた事柄、つまり今日(1910年頃)のシベリアまで至るロシアと境を接する様々な地域や、ヨーロッパにまで拡がる様々な地域で生じた事柄とを比較する必要がある。 当時、カスピ海の東側と南側に居住していた民族は、高度に太古の霊能力を保持していた。そして、その東と南の民族において、太古の霊的な知覚能力と、新しい感覚的な直観や悟性的思考とが、或る点において釣り合いがとれていた。 その民族の大部分は、まだ霊界を見ることができた。この霊視能力は、この民族のある集団では、既に低次な段階に堕落し、「低次のアストラル界の霊能力」になっていたが、この霊能力の特徴を考察すると、人類の進化全体にとっても無視できない悪しき結果が生じている、のに気がつく。 この霊能力を備えた民族は全く特別の人間になった。その民族は特別な性格を身につけた。この特別な性格は、この霊能力をもっていた様々な民族集団の場合、特に顕著に見られる。 そのような民族は、本質的に、生きるために必要なものを、周囲の自然環境に求めようという衝動をもっていた。そして、必要なものを、自然から奪い取る以外には、できるだけ何もしようとしなかった。 要するに、今日の感覚的な人間が、植物や動物などの存在を熟知するのと同じ確かさで、植物や動物などの種全体の中に、神霊たちが存在するのを熟知していた。なぜなら、霊視により、神霊たちが見れたからである。 また、この民族は、神霊たちが強力な霊として、物質の背後に立っている事実を知っていたので、神霊たちと親しくし、あまり労働をしなくても、自分たちが置かれた環境の中で細々と暮していけるように、神霊たちに配慮してくれるように要求できた。 (自らで働いて生活費を稼がずに、消費者金融に借金して生活するようなもの) このアストラル的な見霊能力をもった民族の気持ちや考え方に関しては色々なことを話せるが、今は、そのうちの1つだけを述べるにとどめる。 いま考察している当時の時代では、堕落しつつある見霊能力を備えた上記の民族集団は、全て遊牧民族だった。定住せずに、遊牧民として放浪し、どんな場所にも特別の愛情を寄せることなく、大地が提供するものを、特に大切にもせず、生活するために必要ならば、周囲を破壊することも厭わなかった。 この民族には、文化水準を引き上げるために、地球環境を作り変えようとする気などなかった。 上記の民族の基本的性格の違いから、ポスト(後)アトランティス時代の歴史にとって、最重要な事件の1つである、深刻な対立が生じた。 北方の様々な民族、つまりペルシア人、メディア人、バクトリア人と、上記の遊牧民との間に大きな対立が生じた。 ペルシア人の場合は、定住して周囲の出来事にも関心を向け、人間集団としての課題を人間としての労働により達成し、人間の精神能力により自然を作り変えるのを渇望していた。このことが、この地域においては、最大の関心事だった。 ペルシア人の居住地域の北側には、直接、境を接して、霊界を霊視できた上記の遊牧民族がいた。その遊牧民族は、上述したように、神霊たちと親密な関係にありながら、働くのを好まず、定住もせず、物質界で文化的作業を前向きに行うのに、何の関心ももたない民族だった。 ペルシア人と遊牧民の最大の対立は、外面的には、ポスト(後)アトランティス時代の歴史の中で生じた対立であり、霊的には、魂の様々な進化過程の1つの結果として生じた対立だった。 その出来事は、外見的な歴史では、「イランとツラン(トゥーラーン)の対立」として知られた、一大対立であった。 北方地域では、シベリアに至るまで、ツラン(トゥーラーン)民族が存在していた。この民族は、いわば混合体で、上述したように、高度に、低次アストラル(月を起源とする魔界)の見霊能力を備えていた。 霊界での生活が豊かであった為に、外(物質)的文化を創造しようとする傾向や感覚ももたず、人々は、受身的な態度を保ち、民族の祭司たちは、低次の魔術師(黒魔術師)だったので、霊的な事柄に際し、低次の魔術、時には黒魔術さえも行使した。 その南方の古代ペルシアでは、以前から、素朴な手段で周囲の感覚世界を、人間の精神力で作り変えようとする衝動が働いていた。そして、その結果、外(物質)的な文化を生み出した。 この事が、古代ペルシアとツラン(トゥーラーン)の大きな対立となった。 この物質文化の方向性で、最も進歩を遂げた民族が、北からペルシア(イラン)地域まで南下してきたという事実は、神話や伝説の中にも美しく表現されている。 様々な北方の民族を率いて、ペルシア(イラン)ヘと下りてきた伝説の王ジェムシッド(?)をめぐって、次のような物語が伝わっている。 王は地上での使命の実現のため、アフラ・マズダー(太陽)神から黄金の短剣を受け取り。ツラン(トゥーラーン)人という怠惰な大衆の中から、黄金の短剣の力で、叡智に従って体力を行使できるように、様々な自分の民族を作り上げた。 (日本の神話のスサノオの草薙の剣との類似もみられる。) それまでの体力は頽廃していたが、体力を再び発展させて、この世のために精粋を発揮できるようにした。黄金の短剣は犂となって大地を耕地に変え、人類最初の様々な器具の発明を可能にしたが、その後も、力を発揮して、人間が誇りとする様々な全ての文化の成果として、今日に至るまで作用し続けている。 プラウ(犂) プラウ - Wikipedia ツラン(トゥーラーン)からペルシア(イラン)まで移動してきたジェムシッド王が、アフラ・マズダーから、この短剣を受けたという事実には、非常に大きな意味がある。この短剣の力こそが、人間に外なる感覚世界を作り変える力を生じさせたからである。 この黄金の短剣を授けた神は、ツァラトゥストラ、もしくはゾロアスターと呼ぶペルシア人の指導者に霊感を与えた偉大な神でもあった。 (アフラ・マズダーは、天照大御神のことと思われる。アフラは「オーラ」、マズダーは「巨大な」という意味である。つまり、「巨大なオーラ」という意味になる。) ゾロアスターは、太古の時代(アトランティス没落直後)に、聖なる秘儀の叡智の力により、物質文化を人間の精神力で発展させようとする衝動をもったペルシア民族を支配した。 ゾロアスターは霊界に参入できる古代アトランティスの能力を失っていた様々な民族に、霊界への参入に対する新たな展望や、新たな希望を与える使命をもっていた。そのような意味で、ゾロアスターは、人智学徒がしばしば語ってきた、秘儀参入の「道(方法)」を開いた。 それは、人間の小さなオーラとは対照的に、「大きなオーラ」、つまり「アフラ・マズダー」と呼ばれた高次の霊的存在の体が、日光という体である事実を、様々な民族に霊視させる方法なのである。 ゾロアスターが、上記の事実を教えた当時は、まだ地上からは遥かに遠い、この霊的な存在が、いつかは地上に降りてきて、人類史のなかで、自らの実体を、地球に結びつけ、そして人類の救いのために、その後も更に影響を与え続ける、という事実だった。 つまりゾロアスターは、後にキリストとして歴史上を生きる存在を、当時の人々に示そうと預言した。 ここで強調すべきことは、今述べたゾロアスターは、既に古代ギリシア人たちにより、トロイア戦争(紀元前1000年頃と考えられている)よりも、5000年も前の時代の存在と考えられていた。この太古のゾロアスターには後にグシュタスブ(?)と呼ばれた後継者がいた。 ゾロアスターは偉大な祭司として、当時の人々を外なる物質界から再び霊界へと導く太陽神アフラ・マズダーの存在を教えたが、グシュタスブはこの教えを普及させるのに尽力した王だった。 古代ペルシア(イラン)では、ゾロアスターやグシュタスブが与えた霊感や意図は、この古代ペルシア地域の北に隣接する北方の民族(ツラン)と衝突する要因となった。 古代ペルシア(イラン)民族とツラン民族の衝突から、地上で最大の戦争の1つが生じた。一般には、この太古の歴史的事実があまり知られていないのは、あまりにも古い時代(紀元前5000年あたりか)のことだったからである。 ペルシア(イラン)とツラン(トゥーラーン)との間に、凄まじい衝突が生じた。数10年どころか、数100年にも及ぶ、この戦争から一種の緊張感が生じ、その気分はアジアの内陸部に、その後長らく続いた。ゾロアスターの教えを守るペルシア(イラン)人は、次のように自らを語っていた。 「見渡す限りのいたる場所には、神霊から生じた世界が広がっている。世界は、まるで高次の存在から堕落してしまったように現われている。我々を取りまく動物、植物、鉱物の世界全ては、かつては、もっと高次の存在だった。今、頽廃してしまったが、人間は、それらを再び高めようとする希望を抱いている。」 動物を例にあげて、このペルシア(イラン)人の感情の中に生きていた理念を、今日の表現に置きかえてみる。教師が学校で、生徒に語る様な表現で言えば、次のようになる。 「周囲にあるものを見てごらん。それらは、昔はもっと精神的な存在だった。今は堕落し、頽廃してしまっている。 では、狼を見てみよう。感覚を通して見る狼という動物は、堕落し、頽廃している。昔の狼には悪しき特性などなかった。しかし、いまから君たちが、自分の良き特性や精神力を結集させ、今の狼を飼育できる。 この動物に君たち自身の特性を付与して、狼を、君たちに仕える犬にできる。狼と犬は、いわば2つの世界、悪と善の流れをそれぞれ特徴づける存在といえるよね!」 環境に手を加えるのに、精神力を行使する人間たちは、動物を飼育して、動物を高次の段階へと引き戻せた。 これとは対照的に、動物等のために、自分の力を行使しなかった別の人間たちは、動物を、そのまま放任し、放置してきたので、動物は益々堕落していかざるを得なかった。上記の2つは異なる力の働きを現わしている。 上記の二元性の、対極的な力は、次のような意志のなかで働く。 「もし自然をあるがままに放置するなら、自然は益々悪しき深みに沈み、全てが無秩序に悪化し、野生化してしまう。しかし、私が精神の目を、私の信奉する善意に向けることができれば、その善意が、私を助けて、深みに沈んでいく存在を、再び上方へと導けるようになる。私が尊敬する、この善意は、更なる進化への希望を私に与えてくれる。」 ペルシア(イラン)人にとって、この善意の力こそアフラ・マズダーに他ならなかった。ペルシア(イラン)人は、次のように考えた。 「自然の働きを、高貴にする力は、人間が、アフラ・マズダー、つまり上方へと向かうオルムズド(アフラ・マズダー)の力と結びついたときはじめて達成される。しかし自然を、あるがままに放置しておくなら、全てが野生化してしまう。 この野生化は、アーリマン(アンリ・マンユ)により生じる。」 更に、古代ペルシア(イラン)の地域には、次のような考え方が広まった。 「北の地方にも、多くの人間が徘徊しているが、北の人々は、アーリマンの手先である。アーリマンの僕の人間たちである。アーリマンの手下は、ただ世界を歩き廻って、自然が提供するものを受けとるばかりである。自然を再び精神化するために働こうとしない。 しかし、我々はオルムズドの力であるアフラ・マズダーと同盟している。」 ゾロアスターの教えを守るペルシア(イラン)人は、自分たちが感じた善意を、法律の中にも表現した。つまり外(物質)的な律法の中に、上方への衝動を表現することで、生活を整えようとした。 これがゾロアスター主義の外(物質界)に現れた結果だった。ペルシア(イラン)とツラン(トゥーラーン)の対立を、上記のように見るべきである。 秘教学史の多くを、正確に報告する、アルジャスブとグシュタスブの間の戦争、つまり、ツラン(トゥーラーン)人の王と、ゾロアスターの守護者との間の闘い、そして北と南の対立でもある、この戦争が、ペルシア(イラン)でもツラン(トゥーラーン)でも、その両地域の気分として継続していった事実を、知る必要がある。 この闘争が理解できれば、どんな魂の働きが、ゾロアスターから、全人類にまで流れ、広がっていったのか、を知ることができる。 ☆ ☆ ☆ というように、以前紹介したポストアトランティス時代の最初の対立を再紹介したわけだが、現在の石油を巡る中東紛争や、ロシアのクリミヤ侵攻にはじまるウクライナ侵攻の根底にも、ツランとイランの対立からはじまっているのがわかる。シュタイナーは、ツランとイランの対立が、ゾロアスターのアーリア文化を通じて、スラブ文化とゲルマン文化の衝突として現代に現れる、のをいわば預言していたわけで、その背後には必ず、人類の進化を巡って、霊的な対立が隠され、それがルシファーアーリマンの堕天使悪魔連合と、キリストの善天使聖霊連合であるのを、人智学で説いてきたわけなんである。 現代人は動的ななかで、静的に生きているが、静が動から生まれる視野を失ってしまい、質量やら時空やらといった、可視の存在しかみえなくなり、それら可視の存在がエネルギーから動かされるのを知りながら、エネルギーをいわば静的な保存則としてしか考えられないので、同じ人間を動かしているエネルギーを、精神的に捉えられなくなっている。それはいわば暗闇のなかで、必要のないメガネをかけるようなものである。科学が生み出した自然法則とは、明るい日の出の下で、はじめて意味をもつメガネにすぎない。陰と陽のエネルギーがバランスよく保たれた環境の下で、はじめて、見渡せる幻影の世界なのである。現代人は、知らぬ間に悪魔に3Dメガネをかけさせられているだけにすぎなく、そのなかで、お互いに戦わさせられている。いわば悪魔にブリンカーをかけられた競走馬にすぎない。騎手を選ぶ能力さえもない。善き騎手の導きにより、競走馬は、勝利を得ることができる。競走馬はレースに勝ち、人間との信頼が深まり、互いに愛情も深まるが、人間の場合は、人生を乗り越えて、宇宙の進化に沿って、宇宙を遥かに見渡せる善の能力を獲得するのが、宇宙の愛につながる。不可視のエネルギーのなかに、バランスをとるバランスの愛の本性が隠されている。宇宙の進化はバランスよりなりたっているので、質量と時空はエネルギーによりバランスされているわけなんである。何のために、戦うのか、人間は何により動かされているのか? 戦いには憎しみだけがあり、憎しみのなかには、名誉欲や虚栄心が深く隠れている。そこに愛の入り込む余地はない。深く考えないアホ馬鹿地獄を抜けだそう! 馬鹿の壁ならぬ、馬鹿の地獄の世界から自らを解放し救うのは、自らの愛の能力だけだからである。ただし、愛の能力の開発には苦痛や苦悩が伴う。創造性の恩恵には苦痛や苦悩が伴うからである。善と悪は表裏一体なのだから。
2024年04月11日
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大谷選手がドジャースに移籍してから、野球からサッカーに転向していたスポーツ観戦が、子どものときの野球少年時代が蘇ってきて、青年時代に古館氏のスポーツUSAを通じてバレンズエラのドジャースに魅了された懐かしい思い出として、大学受験時代から、野球観戦が遥か彼方に宇宙戦艦ヤマトのイスカンダル星の如く遠のいていたのだが、今年年頭から、能登震災などの天変地異やら裏金議員の暗躍やらロシアはデスラー総統のようなプーチンがウクライナにガミラスばりの侵攻するわで、放射能除去装置ならぬ、不幸除去装置が必要とばかり、大谷夫妻を古代守と森雪にみたてて、宇宙戦艦ヤマトの波動砲を、大谷のホームランに模して、ここ一カ月は、ドジャース一色の野球観戦漬けになっている。古舘伊知郎 - Wikipedia(20+) Facebook宇宙戦艦ヤマト - Wikipedia暗雲立ち込める、この国の現状が、まるで宇宙戦艦ヤマトと敵対するガミラスに侵攻され放射能塗れの地球のように感じてしまうのは、なぜだろうか? 毎日暗い詐欺盗難ニュースが盛り沢山のなかで、唯一の救いといえるのが、大谷翔平のホームランなんである。その大谷選手が、長年二人三脚で歩んできた通訳に裏切られた経緯をみると、野球界のキリストのように感じられてしまうのである。シュタイナーは、レオナルドダビンチの最後の晩餐には、悪が善から生まれた由来が描かれ、それは、中央のキリストと、その近くのユダにある、と述べているが、大谷と通訳の関係が、キリストとユダのように思えてしまうのはなぜだろうか?「最後の晩餐」とは?レオナルド・ダヴィンチの名作や意味・裏切り者の謎 | thisismedia (thisisgallery.com)さて前回は、男と女の違いから、生と死の輪廻転生を紹介したが、善が最善となるには、悪が必要で、宇宙の進化には、悪が善から生じる可能性が必要で、キリストとユダの関係が、大谷と通訳の関係にも現れ、大谷が更なる進化を遂げるには、通訳の裏切りが必然だったようにも思えてくるわけなんである。それは例えば、人体にも甲状腺と副甲状腺があり、正と負のアクセルとブレーキの関係を保っているのでわかる。シュタイナーは、甲状腺は、思考を言葉につなげる人体器官だと述べている。甲状腺が喉頭の声帯を覆う形で人体に配置されているのは、思考を声帯の言葉につなげる役割を果たしているわけなんである。甲状腺が肥大すると、思考が言葉に追いつかなくなり、馬鹿になるという。甲状腺が出すホルモンが発見されていない18世紀の昔は、外科手術により取り除かれていたが、一緒に副甲状腺も取り除いてしまっていたので、機能不全に陥り、亡くなってしまっていたという。現在は切除も一部で、全摘出しても、ホルモン投与でそのようなことはない。甲状腺機能亢進症について | メディカルノート (medicalnote.jp)手術後の合併症について|甲状腺|名古屋大学医学部附属病院 乳腺・内分泌外科 (nagoya-u.ac.jp) 前回紹介したが、甲状腺と副甲状腺はいわば毒と解毒の関係にあるといえるかもしれない。甲状腺の機能が亢進し、思考を超えてしゃべりすぎて毒舌にならないように、副甲状腺が、もっと考えてしゃべりなさいよ、と解毒しているかもしれない。副甲状腺機能亢進症 - Wikipedia端的にいえば、甲状腺が言葉のアクセルで、副甲状腺が言葉のブレーキといえるかもしれない。或いは、大谷がしゃべったことを通訳が適度に要約する関係に似ていたといえるかもしれない。正と負の役割分担ともいえる。役割分担が全体としてバランスがとれたなら理想だが、互いに暴走すると、分裂してしまう。裏切り者のユダは、キリストを皇帝にしたかったが、キリストは人類の自主的な進化のために望まなかったので、キリストを役人に差し出して、逮捕に協力し、裏切る。似たように、通訳は、大谷のカネを当てにし、野球のみならず金儲けに走るが、大谷は金儲けに興味がなく、野球に専念したいので、通訳はギャンブルにハマり借金を返すために、大谷を裏切る。両者は、裏切る側と裏切られる側の役割分担からなっている。恐らく、前世からの因縁なのかもしれない。前世からの因縁から役割分担がなされ、カルマの解消が果たされるからである。役割分担といえば、ロールプレイングゲームが思い浮かぶ。RPGといえば、ドラクエが代名詞といえるだろう。ドラクエの裏切りといえば、ラスボスに、「もし わしの みかたになれば せかいの はんぶんを ○○○○に やろう。」と裏切りの誘いをされる最後の誘惑である。この裏切りへの誘惑はキリストへの荒野の誘惑を髣髴とさせる。ロールプレイングゲーム - Wikipediaドラゴンクエストシリーズ - Wikipedia【もし わしの みかたになれば せかいの はんぶんを ○○○○に やろう。】 - ドラゴンクエスト大辞典を作ろうぜ!!第三版 Wiki* (wikiwiki.jp)荒野の誘惑 - Wikipedia ☆ ☆ ☆第二の試みそれから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」— ルカによる福音書4章5節から8節(口語訳) ☆ ☆ ☆ラスボスの裏切りの誘惑は、キリストへの悪魔の誘惑とよく似ている。このキリストを誘惑する悪魔は物質悪魔のアーリマンである。アーリマンは、地球が太陽だったときの太陽紀の進化からの脱落者で、ルシファーは月紀の脱落者である。そして、現在の地球紀の人類からも脱落者が出て、それはアスラと呼ばれ預言されている。どことなく、デスラーという言葉にも似ている。ググると、デスラーは、「死の太陽」という意味らしいから、アスラというよりも、太陽紀で死んだ悪魔アーリマンといえる。デスラー - Wikipedia阿修羅 - Wikipedia地球紀の現代人のなかから、人類を裏切り、アーリマンの配下に加わる者が、進化から逸脱し、次の木星紀には進めずに、脱落し、アスラとなる、とシュタイナーに預言されている。スラブ文化やスラブ民族主義者から、悪魔アスラとなる脱落者が生まれる、と預言されているので、恐らく、プーチンら独裁者であろう。人類の進化のための役割分担、ロールプレイングのために、民族主義者は悪魔のように進化から脱落し、更なる進化を推し進めようとする人類の敵対者や妨害者となる、と預言されている。それはまるで、巷の老害といわれている人物をみればわかるだろう。面白いことに、最近巷の動画でみたのだが、霊能力があるのか、美輪氏は、安倍元総理が悪霊に憑りつかれ、悪魔の仲間になってしまったのを悔やんでいるのがわかるらしい。プーチンに関わった連中はどうやらアスラと化していくようである。だから、以前紹介したように、ヨハネの黙示録の預言とも符合するが、人類は悪人と善人に二分されていくようである。ちょうど現在は、ゲルマン文化期からスラブ文化期の移行期にあり、物質悪魔のアーリマンの傘下に加わって物質兵器で戦争し、精神を蔑ろにした人物は、輪廻転生から逸脱し、無間地獄に堕とされて脱落者となるようである。スラブ民族主義のまま、遅れていくと、人類と敵対する悪魔となっていく、永遠のユダヤ人ならぬ、スラブ人となっていくようである。自民族に固執する者は自民族によって物質的に破壊されるのである。民族を超えて人類を進化させるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー真相から見た宇宙の進化Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen (GA132)第4講 霊視から読み解く月紀の地球の内面の姿ベルリン 1911年11月21日佐々木義之訳改訳 -------------------------------------------------------------------------------- これまで地球の進化を読み解くのに困難な内面を、つまり、外見の感覚界の背後に横たわる精神の現実を霊視するのを学び、実際に読み解いた。とはいえ、感覚界の背後に、特徴のある精神が実際に存在するという真実は、外見からはわからないので、魂のなかで実際に経験する必要がある。 そして、現在の外見の背後に、精神的活動や性質、特徴を持つ存在がいる、のを認識できるようになった。例えば、覚醒意識による日常生活のなかに、温かさ、熱、もしくは火として現れるものは、その背後にある精神的な存在による、犠牲の表現であるのを知った。 そして、空気として現れるなかには、ある宇宙的な存在によって、「与えられる徳」が認められる。そして、水の背後には、「諦め、拒絶」と呼べる精神的存在がいる。 太古の宇宙観においては、外的、物質の内の背後にある精神的な存在は、現在よりも遥かにすみやかに直感され、認識された。このような証拠として、日常的に使う「スピリット」という言葉が、魂の意味というよりも、いまでは揮発性の高いアルコール類に用いられることからわかる。 人智学徒は、魂の、精神的な意味には、「スピリット」を用いるより、「スピリチュアル」を好んで用いる。しかし、物質界では、一般的に、「スピリチュアル」という言葉を、精神的な現実、もしくは感覚を超えた霊的な存在には、ほとんど使わない。かつて、ミュンヘンのスピリチュアル=精神主義協会に宛てられた手紙が、ミュンヘンのアルコール飲料協会本部に届けられたことがあった。 話を戻すと、今回は、地球の進化が古「太陽」から古「月」にまで進んだときに生じた、重要な出来事について見ていく。この出来事から、また別種の精神的な進化を考察する。 以前の講義で取り上げた拒絶という行為から始める。以前、精神的な存在たちが、この拒絶、もしくは「差し控える」という行為の中で、犠牲を受け取る機会を諦めるのを見てきた。 ある存在たちが、意志を捧げたいと望み、一方で、高次の存在たちが、それを差し控える行為により、この意志を拒むのを霊視すれば、この意志は、拒絶され、捧げたいと望んだ存在たちと共にとどまざるを得なかった、という精神的な概念に到達できる。 だから、宇宙の進化のなかには、犠牲を捧げる準備、意志を献身的に捧げる準備ができているのに、それが受け取られず、拒絶され、自らの内にとどめなければならない存在たちがいる。 また別の言い方をすれば、これらの存在たちは、 その犠牲の拒絶により、もし犠牲を捧げられたなら、高次の存在たちと結びついたのに、できなかった。聖書の記述のなかの、カインとアベルの対照的な場面は、この「拒絶された犠牲」の意味が、多少強調された形だが、擬人化され、歴史的象徴となっている。 カインもまた犠牲を神に捧げたかったのだが、その犠牲は神の喜ぶものとはならず、神はカインの犠牲を受け取らなかった。一方、アベルの犠牲は神によって受け取られた。ここで注目したいのは、その犠牲の拒絶を知ったときのカインの内的な経験である。 この出来事の理解を高めるには、日常生活のなかだけで意味を持つ考えを、高次の領域に持ち込んではならない。犠牲の拒絶は、日常生活の欠陥や悪行から生まれたと解釈するなら、間違える。高次の領域での振る舞いは、日常の生活で知るような罪や贖いなどでは言及できない。 なので、犠牲を拒絶した、高次の存在たちの、神々の観点から見なければならない。言い換えれば、高次の存在たちは、犠牲の受け取りを差し控え、譲り渡しただけに過ぎない。以前の講義から読み解いた、魂のなかには、何らの欠陥や失敗もない。 むしろ、諦めや拒絶は、偉大で意味深い、不死なる存在を包含している。とはいえ、犠牲を受け取ったケルビムのなかに、トローネの犠牲を拒否したケルビムとは、反対となるような精神的な特徴が始まる気配が、確かに生じるのが感じ取れる。 なので、この反対の気配が、例えば、カインの場合のように、後の時代の、我々の前には、より強調され、増幅された形で提示される。カインに見て取れる気配を、「太陽」から「月」へと進化できた存在たちには見つけられない。この存在たちには、反対の気配はほとんどなく、カインとは全く比較にならない。 また信頼できる形で、この気配を知るには、以前の講義で行ったように、自身の魂の中を覗き込み、自分の魂のなかの、何処に、そのような気配が見つかるのか、そして、どのような魂の状態が、そのような気配、つまり、犠牲を捧げるのを拒絶された精神のなかに生じた気配、に相当するのか、と問わなければならない。
2024年04月10日
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ヒトはなぜ異性を求めるのか?誰しも考えたことがあるだろう。自分に無いものを求める、新しい未知の経験を求める、性差を超えた一体感を求めたいなど、様々な答えがみつかるだろうが、その根底には、世の中がプラスとマイナス、陽と陰、生と死等の二元性=双極性からつくられる現実がある。令和の男女から昭和の男女をみると、総じて、昭和のルックスが大人びてはいるが、反面老けていて、男女の差が割と明確だったのがわかるだろう。つまり、裏を返せば、性差がだんだんとなくなり、中性化しているのに気づくはずである。昭和に「転校生」という男女が入れ替わる話があったが、男女の差がなくなり、中性化していけば、そのような昭和の物語も、また別の話へと変わっていくかもしれない。転校生 (映画) - Wikipedia昭和は、リボンの騎士やベルサイユのばらのような、女性が男性の振りをして活躍する物語が、ある意味、男女の性差を明白に表現し、非現実なファンタジーの世界を演出していたが、令和では、昭和には男性しかいなかった職場にも、女性運転手や女性自衛官など、女性が進出し、また、かつての女性の職場にも、男性看護師や、男性客室乗務員など、ジェンダーフリーが唱えられる現代では、男女の性差も次第になくなりつつあり、リアルな世界となってきている。リボンの騎士 - Wikipediaベルサイユのばら - Wikipediaそれに伴い、聖書のソドムとゴモラの物語のように、金銭欲や物欲に塗れた、ホストやホステスといった性差の特徴を際立たせる職業はいずれ消滅していくだろう。ウイルス感染は人類への警告のようにみえる。金銭欲や物欲が進むほど、性差が退廃的になっていくからである。ソドムとゴモラ - Wikipedia人智学では、人間が地球に生まれるのは、新しい経験を獲得する為と解き明かしている。だから、前世とは異なる経験を獲得するために、現世に産まれてくる。カルマの法則は、この異なる経験の獲得を保障し、前世の行為を、現世で結果として補完する。例えば、前世で誰かを殴れば、現世で誰かに殴られる、という経験、因果の法則、因縁を保障する。だから、お釈迦さんは、善因善果、悪因悪果と説いた。善因善果(ぜんいんぜんか)とは? 意味・読み方・使い方 - 四字熟語一覧 - goo辞書善因善果、悪因悪果 | 臨済宗大本山 円覚寺 (engakuji.or.jp)善因善果・悪因悪果・自因自果(ぜんいんぜんか・あくいんあっか・じいんじか) | 成田山 東京別院 深川不動堂 (jugem.jp)ヒトは、新しい経験を獲得するために、地球に産まれてくるので、前世の善因、もしくは悪因が、現世の善果、もしくは悪果となるが、前世と現世では同じ善や悪でも、全く異なる状況となる。地球がより進化した状況で、因縁を受け継ぐので、善も悪も地球の進化とともに変化する。昔は良かったことが、いまは悪いことになり、逆に昔は悪いことが、いまは良いことになるので、善悪の判断は時代に応じて移り変わる。例えば、昔は男らしさ、女らしさが良いとされたが、いまは、性差を問わない、ジェンダーフリーの中性が良いと変化しているわけで、巷も肉食系から草食系の価値観にかわりつつあるのがわかる。時代の移り変わりに、アップデートできない価値観の押し付けが老害とされる。シュタイナーは、特別な事情がない限りは、続けて同じ性に産まれないと述べている。だから、前世で男だったら、現世は女で生まれ、前世で女だったら、現世は男で生まれくるという。何より新しい経験を獲得するために生まれてくるのだから、昔と今で、男女も異なってくる。だから、昭和の男女と令和の男女が異なってくる。大正や明治、江戸や戦国時代と、時代に応じて男女も変わってきたのは、日本史を学べばわかる。例えば、昔の男女はふくよかな肥満気味のほうが美しいとされた。昔の美人絵をみればほぼデブである。武将だってデブっている。古代ローマ人も現代からみればデブだらけで、まるでアメリカ人のようである。だから、昭和が老けているようにみえても時代の変化にすぎない。昭和の時代感覚を、現代からみれば、男尊女卑が強いが、このブログで紹介している八切史観からわかるように、戦国時代までの庶民は、女尊男卑の感覚が強かったらしい。江戸初期の春日局の権勢や、関ヶ原の戦いが、秀吉の正室おねと、妾茶々の戦いと裏で語られていたことからもわかる。徳川幕府が潰れたのも、大奥の無駄使いが原因と大久保一翁に嘆かれてもいる。つまり、時代に応じて、男女関係も変わっていくわけで、昔は一夫多妻制もなかば跡継ぎ問題で公認されていたが、現在は一夫一婦制になっている。人智学によると、物質界に適合するために、男女の性差が生まれたという。霊的には男女の差はなく、中性で、霊は両性具有である。霊魂が肉体に受肉する状態によって、偏りが生じて、男女の差が生まれる。神智学では、物質性をネガティヴ、霊性をポジティヴと呼んでいるが、男性は、中性よりもネガティヴの物質性に傾いて受肉しているために、筋肉が発達し、肉体の左側が優位になりやすいので、左利きのアスリートが多くなりやすい傾向をもつ。対照的に、女性は、ポジティヴの霊性に傾いて受肉しているため、精神性が発達し、宗教や占いを信じやすい。面白いのは、傾向からいうと、女性の左利きのアスリートは稀少価値があるかもしれない。日常生活は、右利きの道具が多いので、逆に、女性の左利きアスリートは特殊能力を発揮しやすい環境にあるといえるかもしれない。左利きの女性の特徴とは?手の使い方や性格、能力について - mgram性格研究所男女の差は、物質界に適応するため、主に肉体の物質性に負っているので、アスリートなどが物質性、つまり運動性を高めようとすると、自然と左利きになっていく。逆に、精神性を高めようとする場合は、人体の右側が非物質のエーテル性に負っているので、自然と右利きになっていく。地球に近い側は左側で、宇宙に近い側は右側なのである。心臓が左側にあり、胃や脾臓なども左側にあるのは、人体の腹部が栄養摂取の物質性に依存するからである。神智学では、古代人は、盲腸から栄養を吸収していたという。人間は物質性を帯びるほど破壊力に目覚めるので、筋肉が発達し、覚醒意識に負いやすく、自我が目覚めてくる。所有欲から、自我に目覚め、エゴが生まれる。それはいままでの自分にはない、新しい未知の経験を物質的に獲得することで、新しい自分を獲得していく作業といえるかもしれない。しかし、死後に、物質性から生じた自我は、永遠の不死なる霊性ではないので、宇宙から拒絶され、彷徨えるユダヤ人のように、自分探しの旅に時間と共に出ていかないといけない。時間と共により新しい自分となるための経験を獲得するために、人間は、地球に生まれる。それは、「わたし」という自我の蛇を新しい経験から育て、脱皮して、生まれ変わるためといえるかもしれない。さて、人智学によれば、男女の差は人間がエーテル体をもったときに生じ、それは古代レムリア時代で、はじめは女性化に向かったという。古代神のほとんどが女神像なのは、かつては女性しかいなかったからである。やがて月紀が終わり、地球から、月が分離したときに、人間が肉体を持つに至って、男性が生まれたという。だから、ネガティヴに傾いているのが、男性で、ポジティヴに傾いているのが、女性なんである。ヒトは、女性の体に過去をみて、懐かしさを感じ、男性の体を未来にみて、新しさを感じる。ヒトそのものは中立で中性なのである。物質界に適合するために、偏っている。だから、仏像は中性につくられている。古代の祭司の衣装は、過去の女性の体に似せてつくられたのは、月紀の人類が女性形だったからである。女性形といっても、当時は、肉体ではなく、エーテル体だったので、現代の肉体で表現するために、衣装で仕立てた。ややこしいのは、現代の地球では、エーテル体と肉体の性差が逆になることで、男性の肉体には、女性のエーテル体が、女性の肉体には、男性のエーテル体が宿り、中性を保つところにある。だから、肉体の外見が女性なら、中身の気性は男性なのである。外見と中身が逆なので、唯物論で、性差を捉えると、中身を混同する。女性の外見から中身も弱く見がちとなる。しかし、最近の物質科学でも、女性の方が生物学的に頑丈で、痛みに強い、のがわかっている。昔から、女性の方が気が強く、気性が荒く、女心と秋の空といわれるように、天気のように、女性の気持ちはかわりやすく、昨今では、「低気圧女子」という言葉もある。現代の、女心とは、肉体の外見が女で、その心だから、昔の霊視でいえば、中身の気性は、男心になり、現代は、外見を基準にしているのでややこしいが、天気のように変化に富むほうが、柔軟性があるので、生物的に多様で、愛情が深いので、強い。「低気圧女子」が急増中! 悪天候と女性のカラダの関係 | 健 康[最新記事一覧] | Predeli Style[プレデリスタイル]-暮らしを賢く、おいしく、シンプルに女心と秋の空とは女性の気分が移ろいやすいこと|意味や由来、言い換え表現など | Oggi.jp物質は固い方が強いが、精神は柔らかい方が強い、アベコベの関係、鏡像の関係がある。だから、価値観もどちらに重きを置くかで異なってくる。時代に応じて価値観も相対的に変わってくる。柔よく剛を制すの、柔道は、精神を意味する。柔らかい精神は、硬く剛い筋肉の肉体を動かすという意味になる。霊的な意味で、柔らかい精神を、男心と呼び、緊張を弛緩でき、技を駆使できるとしている。つまり、柔道とは、肉体の完成ではなく、精神の完成を意味している。禅と同じである。だから現代風の外見重視のルッキズムでいえば、古の男心は、外見の肉体を基準にすれば、女心ということになる。ルッキズム - Wikipedia昔は外見の肉体から性差を判断するのではなく、気性や精神から性差を判断したので、男心と呼んだのだろう。だから、現代のルッキズムでいえば、女心になるからややこしい。現代人は外見から判断し、外見に囚われているから、悪魔に騙されやすいわけでもある。どんなものにも仏性や神聖が宿っているから、外見ではなく、その外見をつくっている本体の仏性や神聖をみて判断しなければいけない。このように時代と共に、男女の性差やまた表現もアベコベにまで変化するので、何が善で何が悪なのかも、時代に応じて変化するので、なかなか判断が難しい。要は価値観というのは相対的で、時間と共に新しく生まれ変わるので、価値観も人間と共に輪廻転生していくわけなんである。しかし、男女の性差が移り変わっても、互いの違いを認め合う、愛し合うのが、老化を阻止する、若返りの秘訣であるのは変わりがない。前回紹介したように、性ホルモンが、若返りの不老不死のクスリであるのは、新しい経験を獲得するために、地球に生まれ、活動する生の営みに起因している。ヒトを愛する事が若返りのクスリとなり性ホルモンを人体内に分泌するように、人間は実は不老不死のクスリを半ば手に入れている。灯台下暗し、というか、それは、睡眠である。寝る子は育つ、といわれるように、ヒトは寝ている時に、創造され、構築される。将棋の千日手のように、何度も同じ手や、似たような経験をしていると、水が澱んで腐敗汚染するように、新しい経験を獲得できずに、人体も老化していくわけなんである。人間は、起きている時には破壊活動しかできない。破壊活動は、新しい経験を獲得するためにはじめて意味がある。神智学でいえば、ネガティヴをポジティヴに変換していくために、悪を善導するためにはじめて意味がある。しかし、破壊活動はやりすぎると、解毒できずに、毒に染まってしまう。悪を善導するどころか、悪に染まってしまう。権力を手に入れると、権力に染まってしまう。解毒するために、人間には睡眠が必要で、睡眠中に、仏性や神聖を取り戻す。人智学では、人間の自我とアストラル体は、睡眠中に、肉体とエーテル体を残して、霊界に旅立つのがわかっている。代わりに、天使たちがやってきて、肉体とエーテル体のメンテナンスを行い、解毒能力を授けるという。だから、人体は、睡眠中に再構築される。天使たちは、その人間の前世のカルマに沿って、エーテル体と肉体を再構築するので、霊界から戻ってきた、その人間の自我とアストラル体にとっては、人生の指針となる。そして、起きる前の夢のなかで、今日起こる予知夢を予め知るという。次第に人類は夢を思い出せるようになっていくという。男女の性差がなくなり、中性へと霊的になっていくにしたがい、前世もみれるようになっていく。というのも、男の前世は女で、女の前世は男だったからである。つまり、結婚とは互いの異性を知るためにあり、そこから、前世を思い出すためにある。そして、新しい経験を、地球で獲得し、新しい自由な愛に目覚めるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 無意識による芸術は過去のものとなった。人智学により、息を吹き込まれる、意識的な芸術は、進化の初期段階にある。過去の芸術家は、芸術の根底の宇宙秩序を知る必要はなかった。しかし、未来の芸術家は、再度、不死が描き出す力によって、知らなければならない。 知的な、物質科学により、芸術を表現しようとする人は、それを理解しないが、この講義で展開した、犠牲、与える徳、犠牲の拒絶などの概念によって、その言葉の細部にわたり、その言葉から湧き出てくる考え方、イメージを経験するなら、人智学による芸術が理解できる。 宇宙の進化を、抽象的な概念で表現できると信じるなら、絵に描いた餅となるだろう。しかし、犠牲、与える徳、諦めのような生き生きとした概念で感じるなら、直接、魂のなかに現れてくる。 この3つの言葉の、文字の向こうにある存在を、見通せなければ、幻想のままに止まる。しかし、この文字の向こうの、犠牲、与える徳、拒絶の生き生きとした概念を見通したいなら、犠牲を捧げるトローネ、ケルビムに供儀を送る天使たち、犠牲の煙を拒否する天使たち、大天使から反射された光を受け取る天使たちなどのイメージを、芸術として自分で描く必要がある。 次の「月」紀の考察へと進めば、その絵画が生き生きと、より豊かになるのが経験できる。雲の塊が集まり、液体となり、「月」の塊として、さざ波を立てるのを、そして、それに、セラフィムの魅了する光が加わるのが経験できる。そのとき、我々は、完全な理解に達するように努めなければならない。 これについては、次のように言っておきたい。 人類は、将来、外界で、外界のために、アカシャ(虚空)年代記のなかに読み解ける事実を表現するための意識的な芸術を創出するだろう。
2024年04月05日
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