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間があいてしまいました。
母、8月30日に永眠。
あの日はいつものように、9時半頃、父に「今から行くよ」と一報をいれ
自宅を出発
着くと父がベッドの傍らに茫然と立っており、息をしていないんだよ...と。
呼びかけるも脈をとるも反応がなく、
ただ酸素の機械だけがスースーと作動していました。
7時半には会話をして、その後眠っているのだとばかり思っていたと。
私が来ることを伝えに言ったら、返事がなかったそうです。
その後は、ドクターが来たり、看護師さんが来たりとバタバタ。
看護師さんがお清め・着替え・化粧と納棺師の仕事までこなすのに、ただただ感心。
母も、最期まで大好きな看護師さんに整えもらいとても感謝しるだろうと思いました。
気丈にも95歳まで生きるんだと言っていたのは、
父に心配をかけないため、
自分で気力を奮い立たせるため。
身体は酷く弱っていたので、夏前に逝ってしまうかもと思っていたので、
よく頑張りました。
4日前に亡くなる予兆はあったのです。
肋骨が痛いと言い、ドクターは咳のし過ぎで骨折したのかもと診断。
翌日いらした看護師さんは、聴診器をあて「間質性肺炎の酷くなった音がする」と。
*義母も奇しくも同じこの病だったのです
骨折の痛みでなく、周りの組織が固くなって痛むのかも...との見立て。
どうやら看護師さんの言葉があたっていたよう。
強い痛みどめが効いていたようだったので
最後は眠るように逝ってしまったのでした。
家族葬でとの意思だったので、極近しい親族と家族で弔い。
義母のときは、大きなお葬式だったので、いっぺんにいろんなことがあって、
終わった後は脱力感がドンときたけど、
家族葬というのも、何日も何日も弔問客が途絶えず、いつもの日常になかなか戻れず
父も疲労・困惑が続いているのでありました。
義父のほうは、救急車で運ばれた病院から専門病院を紹介されました。
義姉・夫、その病院へ話を聞きに行くまでは二の足を踏んでいたけれど、
「当病院は器具や薬物の拘束は一切やりません。
暴れて怪我してもそれはそれでしょうがないじゃあないですか。
人としての尊厳のほうが大事!
口から栄養の管、これも様子をみて外します。
喉に詰まることがあるかもしれない。
でも自分の口から食べる行為ができてこそ生きるということでしょ。」
というような話を
あちらのドクターから聞かされ転院をきめたそうです。
救急で運ばれた病院では、後半、全身を拘束され
点滴に安定剤も入れられてたようなので
転院は、渡りに船でした。
母の葬儀後、お見舞いに行きましたが、車イスに乗っているものの
顔の色つやもよく、歯もピカピカしていて、のびのびしていました。
なんと呂律のまわらなかった口調も治り、以前と同じになっていました!
昼夜逆転はまだしているものの、管理しやすいように強制的に戻す的なことも
やってないみたいで、自由にしてもらいながら見守っている感じがしました。