「琉夏、オレだけど。 いるんだろ? 開けて」
そう言って、ピアノの鍵盤で音楽を奏でるように指でドアを叩く。少しだけ焦らしてドアを
開けると、人なつっこい笑顔が現われて、私のおでこをちいさく小突く。いつも変わらない
彼の笑顔が私の心を躍らせる。飾り気のないTシャツとよれよれのジーンズは相変わらすで、
彼は部屋に入るなり、安物の赤いテーブルの前に腰を下ろして同じことを言う。
「ねぇ、ポカリある?」
蓮は気がついているのだろうか。私のアパートに来ると開口一番のせりふはいつも同じだ。
冷蔵庫からポカリを取り出して手渡そうとすると、買ってきた袋菓子を口に放り込んだまま
振り返り、「あん」と返事ともつかない声でちいさく答える。
部屋の中の荷物は、横浜から越してきた時よりはいくらか増えたが、そのどれも誰か
からもらったものばかりで、あまり二十歳の女性の部屋とは感じられる彩がなかった。
まるでモノクロームの写真のような色合いが私には心地よく、背伸びをしない暮らしだった。
アルバイトをしていた印刷会社では、毎日のように数えきれないほども色を使った
印刷物が機械から吐き出され、そして梱包されてどこかへ運び出されていくのを見た。
色は人の目を惹いて、ときに誰かを魅了する。かつて、私が図書館で見た一枚の
ポスターに目を奪われたように。
けれど、その頃の私が好きだったのは、4色のインクから作り出されたカラーではなく、
心の中に作り出される色だった。ファインダーからのぞいた色は、瞬時にして私の心に
組み込まれて、記憶の中で輝きを失うことがなく、その一瞬の時間を止めた。たとえ
それがモノクロームにしたとしても、閉じ込められた生命が、その中に見ることが出来た。
たぶんそれは蓮も同じで、だから私たちはふたりで一緒に写真を見るのが好きだった。
蓮が撮った私の写真もパソコンの中に取り込んであって、私たちはそれを見て大いに
笑った。華奢な身体は、やはり色気とは無縁だった。
蓮のお気に入りの一枚は、私を背中から撮った写真だった。たぶん蓮が撮りたかった
のは、私の肩甲骨の上のほうにあるほくろだと思う。いつもは隠れているが、首をかしげて
後ろにまわした手が髪を掻きあげると、その黒々としたほくろがあらわになる。
「こんな写真で喜ぶのは、たぶん、蓮とドルチェのマスターくらいだよ」
「じゃあ、いつかふたりでマスターに会いに行って、この写真をプレゼントしよう」
それから蓮はCDプレーヤーに手を伸ばし、その日の気分にあった音楽を選び始めた。
私は蓮の横に腰を下ろし、膝の上にCDをいっぱいに広げた彼の背中に寄りかかる。
鼻腔の奥に微かに甘い香りを感じる。私の大好きな彼の匂いだ。散らばったCDを前に、
真剣な顔をする彼に子猫のみたいに絡み付いてみたくなる。
「なんだよ」
眉間にしわを寄せて身をよじる彼の頬にキスをすると、彼の横顔が少しだけ笑った。
蓮がプレーヤーに手を伸ばしてかけた音楽は、エリック・クラプトン。私が「wonderful
tonight」が好きなのを、蓮は知っている。
その時間はゆっくりと、ゆるやかに流れるように過ぎてゆく。会いたかった気持ちや
愛しい気持ち、心の奥に隠していた苛立ちや不安。そんな気持ちは唇を重ねるとすべて
が帳消しにされて、厚い粘膜に覆われた子宮に戻ったように安心できる。私を抱きしめる
力強さとは反対に、その唇の柔らかさが、羊水の中でゆらゆらと浮いているような感覚
を思い起こさせるから。そこにいるふたりの時間が夢でなく、彼の匂いは幻ではない。
そう信じて、私はもう一度部屋の中をぼんやりと見回した。
つづく
魚がおよぐ日 ~final step July 18, 2008 コメント(3)
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