全1973件 (1973件中 1-50件目)
9月頃、漱石は猿楽町にあった高浜虚子の家を寺田寅彦とともに訪ねました。家の近くを散歩し、途中で西洋料理店に寄って、鶏肉の料理を食べました。虚子は、ナイフやフォークを使わず、鶏の骨を手づかみで食べる漱石に驚きました。これでいいかと尋ねる虚子に、骨を外すのが難しいものは、指でつまんでいいと答えました。また、虚子は指の膏を取るためにつけるシッカロールが珍しかったようで、それを文に残しています。ある日漱石氏は猿楽町の私の家を訪問してくれて、「どこかへ一緒に散歩に出かけよう」と言った。それから二人はどこかを暫く散歩した。そうして或る路傍の一軒の西洋料理屋に上って西洋料理を食った。これは漱石氏が留別の意味でしてくれた御馳走であった。その帰り道私は氏の誘うがままに連立ってその仮寓に行った。そうして謡を謡った。席上にはその頃まだ大学の生徒であった今の博士寺田寅彦君もいた。謡ったのは確か「蝉丸」であった。漱石氏は熊本で加賀宝生を謡う人に何番か稽古したということであった。廻し節の沢山あるクリのところへ来て私と漱石氏とは調子が合わなくなったので私は終に噴き出してしまった。けれども漱石氏は笑わずに謡いつづけた。寺田君は熊本の高等学校にいる頃から漱石氏のもとに出入していて『ホトトギス』にも俳句をよせたり裏絵をよせたりしていた。それが悉く異彩を放っていたので、子規居士などもその天才を推賞していた。そこで寺田寅彦君という名前は私にとって親しい名前ではあったのだが、親しく出合ったのは確かこの時がはじめてであった。……またこの日私は西洋料理を食った時に、氏が指で鶏の骨をつまんで、それにしゃぶりつくのを見て、「鶏はそんな風にして食っていいのですか」と聞いたら、氏は、「鶏は手で食っていいことになっていますよ。君のようにそうナイフやフォークでかちゃかちゃやったところで鶏の肉は容易に骨から離れやしない」と言った。そこでこの日私は始めて、鶏を食うには指でつまんでいいことと、手の膏をとるのには白い粉をこすりつけることとを明かにして、この新洋行者の知識に敬意を表した。(高浜虚子著『漱石氏と私』)--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.26
コメント(0)
明治33年、ロンドン留学が決まった夏目漱石はロンドンへの出発に備え、7月に上京しました。7月23日に、子規庵を訪ね、午後4時頃から9時までを過ごしました。荒正人の『漱石研究年表』には「西洋料理を馳走され、9時過ぎまで話す」とあります。根岸あたりの西洋料理店から取り寄せたのでしょうか。河東碧梧桐は、明治33年の「ホトトギス」に『西洋料理屋』という文を掲載していますが、子規庵の近くにあった洋食屋のことを『西洋料理屋』という文章に記しています。この中には、正岡子規が登場してきます。「それからね……あの正岡さんてえのもよく取って下さるわ、イイエお一皿なんてえことはないの、大抵お二皿か、それとも一人前とって下さることが多いの」 正岡というのは子規君の家のことであろうと、殊更耳立って聞えた。「正岡てえのは鶯横丁の」「ハア」「毎日とって下さるのカイ」「ハアそうですよ、今日、今日はまだですけれど、昨日とって下さったわ、よくまいるんですよ」伊藤左千夫の『竹の里人』にも「根岸へ西洋料理屋が出来て、客に西洋料理を御馳走することが出来また一品でも取寄せて食うことが出来るといっては、そんなことを頻りと得意がっておられた」とあるので、漱石の来訪に備えて、根岸の西洋料理屋で出前をとったのかもしれません。再度、漱石が子規庵を訪ねたのは8月26日でした。寺田寅彦とともに子規を見舞います。寅彦の日記には「漱石師きたり、共に子規庵を訪ふ。谷中の森にひぐらし鳴いて踏切の番人寝ぼけ顔なり」と書いています。子規は、『ホトトギス』第3巻第12号(明治33年9月)に、次のように記しています。漱石氏は二年間英国留学を命ぜられ此夏熊本より上京、小生も久々にて面談致候。去る九月八日独逸船に乗込横浜出発欧州に向はれ候。小生は一作々年大患に逢ひし後は洋行の人を送る毎に最早再会は出来まじくといつも心細く思ひ候ひしに其人次第次第に帰り来り再会の喜を得たることも少からず候。併し漱石氏洋行と聞くや否や、とても今度はと独り悲しく相成申候。 明治33年9月、漱石は英国留学に出発しました。子規は再び会うことはなかろうと伝え、「萩すすき来年あはむさりながら」の句を漱石に送ります。実際この日150が最後の面会となってしまいました。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.25
コメント(0)
漱石は、洋行にあたって妻・筆子と長女の筆子を、岳父・中根重ーのもとに預けました。重一は、官舎を出て、牛込区矢来町に住んでいました。この家は、祖父の隠居所だったところで、そこに中根家は住んでいたのです。漱石には留学中の手当てとして年額1800円、月額150円の手当てが支給されました。当時のレートでは約15ポンドになります。これを現在の金額に当てはめると、30万円~50万円ほどですから、そんなに高額ではありません。留守宅の鏡子には年額300円、月額25円がもらえます。これは五高時代の給料1200円の4分の1という規定があったためで、この時代の巡査や小学校教師の初任給が10円ほどでしたから、貧しいながらもなんとか家を切り盛りしていけるはずです。ただしお嬢様育ちで贅沢な生活に慣れていた鏡子には、この金額で家の費用を切り盛りするには難しいことでした。父親の中根重ーは、政変のため辞職を余儀なくされていました。その上、相場に手を出して失敗し、多くの貯金を失っていました。そのため、娘や孫の援助をすることができません。漱石の家は、熊本で月給100円という高給取でしたから、家賃が不要とはいえ、家計の維持は困難でした。この夏、中根家は漱石たちに家をまかせて、大磯への避暑に出かけました。ところが、末娘の豊子が赤痢のために死亡。母も赤痢にかかって重体になります。まさにツキに見放された中根家でした。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.24
コメント(0)
明治33(1900)年5月12日、漱石は英語研究のために文部省第一回給費留学生としてロンドン留学を命じられました。明治政府は、高等学校の語学教諭の質的向上を目指すため、第五高等学校英語教授の漱石と第一高等学校ドイツ語教授の藤代禎輔を選び、それぞれをロンドンとベルリンへ留学させることになりました。他の留学生には芳賀矢一、稲垣乙丙、戸塚機知がいました。この留学制度は、明治25年(1892)年にスタートしたもので、明治政府は当初から多くの留学生を欧米先進国に派遣して、先進地の文化移植を積極的に推進してきました。以後少しずつ改訂され、漱石が留学の年なると高校教員の海外派遣が制度化され、高等学校教授の留学が決められたものでした。また、特筆すべき点として、「帰朝ノ日ヨリ其留学年数ノ二倍ニ当ル期限間ハ文部大臣ノ指定スル職務ヲ辞スルコトヲ得ス」とあり、留学年数の倍の期間、教育機関で働くことが義務付けられていたのです。『文学論』の序には「時の専門学務局長上田万年氏を文部省に訪ふて委細を質したり。上田氏の答へには、別段窮屈なる束縛を置くの必要を認めず、只帰朝後高等学校もしくは大学にて教授すべき課目を専修せられたき希望なりとありたり。是に於て命令せられたる題目に英語とあるは、多少自家の意見にて変更し得るの余地 ある事を認め得たり」とあります。『夏目君の片鱗』によれば、出発前の夏目が「今度留学生となるに就いて腑に落ちない廉を、専門学務局長に話して来たと云った」ことを振り返り、「君が斯う云ふ際にも内に省みて深く慮る所があるのは、流石だと感じた」と述べています。 おそらく、上田万年は高等学校の授業としての「英語学」と捉え、漱石は自らの研究に値する学問としての「英文学」を捉えていたのでしょう。 漱石に命じられたのは「英語学」研究で、「英文学」研究ではありませんでした。そこで文部省の上田万年(かずとし)学務局長に委細を尋ねると「別段窮屈なる束縛を置く必要を認めず、ただ帰朝後高等学校もしくは大学にて教授すべき課目を専修せられたき希望なり」との答えを得ました。 漱石は、不本意ながらも無理やり自分を納得させて、留学を決めました。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.23
コメント(0)
漱石は、鏡子と筆子、また次に生まれてくる2人目の子どもを鏡子の実家に託すことにして、熊本の家を引き上げることにしました。折から、熊本は豪雨のため各地で増水していました。なんとか鉄道が通った7月15日、漱石たちは上熊本駅から東京に向けて出発しました。その直後から降り続いた雨で白川に架かっていた橋はすべて流失してしまうのですが、まさに間一髪の脱出でした。国会図書館には『明治三十三年熊本洪水実記』という熊本県が発行した本が残されています。この記述から、いかに悲惨な状況であったかが、わかると思います。総説明治三十三年七月上旬よりして降りしきりたる霖雨には県下至る所多少の損害を蒙るらざるはなかりしに同十六日にの白川の大洪水の如きは今なお生存し居る当地の古老も未だかつて実観したることなき程の大出水にして市の半部以上は両川(白川、坪井川)の氾濫によりて各町村は濁流浸溢驟に急湍を形造り白川に架せる橋渠は明午、安巳、、長六の三大橋を始め悉く皆流出して市の半部なる新屋敷、迎町および対岸なる本庄元山の両村とは、交差通全く杜絶して一水の外消息を通ずるに由なく人家の流失、人畜の溺死など惨絶、痛絶、真に言語に絶する有様なりき、寛政八年の大洪水なるいわゆる辰の年の大水はその惨状口碑、旧記に伝ふる所にありて今日なおその凄惨の模様を想像するべからざるにあらざるも、それ以後、百数十年の間、殊に今日生存し居る者の目撃し記憶し居る処にしては今同の洪水の如きは寔に未曾有にしてその光景はほとんど吾人が平素意識し居る洪水なるもの以上に出で、熊本人士の胸中には、今回凄惨の光景を目撃したるによりて、確かに洪水なる観念に一大変動を来したりとい謂わざるべからず。………… 暴雨三回における雨量第一回 七月四日より八日まで 雨量三百六十ミリ一(曲尺一尺一寸八分八厘にして一坪面に六石五斗九升の水量に当たる) 降雨時間 九十四時四十分間 一日最大雨量 百三十四ミリ二 六日 一時間最大雨量 二十七ミリ 五日午後八時及九時の間第二回 七月十日より十二日まで 雨量二百四十五ミリ三(曲尺八寸九厘にして一坪面に四石四斗八升九合の水量に当たる) 降雨時間 四十七時間 一日最大雨量 百四十六ミリ 十日 一時間最大雨量 四十ミリ三 十日午後八時及九時の間第一回 七月十五日より十六日まで 雨量二百七ミリ六(曲尺六寸八分五厘にして一坪面に三石七斗九升五合の水量に当たる) 降雨時間 四十時十五分間 一日最大雨量 百二十ミリ五 十六日 一時間最大雨量 三十七ミリ五 十六日午後二時及三時の間(熊本測量所調査)漱石が熊本駅に降り立ってからすでに4年3か月の月日が経っていました。天も、漱石が熊本を離れることを悲しんでいたようですが、少しやり過ぎだったようですね。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.22
コメント(0)
病牀に夏橙を分ちけり 子規(明治33)明治33(1900)年6月20日、子規は漱石に熊本の夏橙を送ってきたお礼を記しました。夏橙壱函只今山川氏から受取ありがたく御礼申上候。御留学のこと新聞にて拝見。いづれ近日御上京のことと心待に待おり候。先日中は時候の勢か、からだ尋常ならず独りもがきおり候処、昨日熱退きその代わり、昼夜疲労の体にてうつらうつらと為すこともなく臥りおり候。『ホトトギス』の方は二ヶ月余全く関係せず、気の毒に存候えども、この頃は昔日の勇気なく、とてもあれもこれもなど申事は出来ず、歌よむ位が大勉強の処に御坐候。小生たとい五年十年生きのびたりとも、霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候。「年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん」風もらぬ釘つけ箱に入れて来し夏だいだいはくさりてありけり(みなにあらず)。とあり、密閉に近い状態で送ったため、子規のもとに届いたときには夏橙がほとんど腐っていたというのです。そのあとに「小生たとい五年十年生きのびたりとも霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候」とあり、自分の命があとわずかしかないことを子規は悟っていたようです。腐っていた夏橙に我身を重ねたのでしょうか。子規は漱石の手紙に「年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん」という、イギリスに留学する漱石が子規と再び巡り会えるかどうかわからないという内容の短歌を添えています。この手紙の前の6月中旬に、子規は漱石に東菊の絵を送りました。「これは萎みかけた処と思いたまえ。画がまずいのは病人だからと思いたまえ。嘘だと思わば肱ついて描いて見たまえ」と書き、「あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るかね」という和歌を添えました。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.21
コメント(0)
明治33年(1900)5月12日、漱石は文部省から英語研究のため、2年間の英国留学を命じられます。英語研究を使命とする文部省の第一回給費留学生に選ばれたため、漱石の身辺はにわかに慌ただしくなってきました。第五高等学校教授として留学することになったのです。この決定には、二人の力添えがありました。一人は、校長の中川元で、2月に上京した目的は、文部省に漱石の留学を上申するためでした。もう一人は、鏡子の父・中根重一でした。貴族院書記官長をしていた関係で、各方面に声をかけていたのかもしれません。留学生に選ばれたのにもかかわらず、漱石はクールでした。『文学論』の序文にその理由と龍角に期待していなかった様子が書かれています。余が英国に留学を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等学校教授たるの時なり。当時余は特に洋行の希望を抱かず、かつ他に余よりも適当なる人あるべきを信じたれば、一応その旨を時の校長及び教頭に申し出でたり。校長及び教頭はいふ、他に適当の人あるや否やは足下の議論すべき所にあらず、本校はただ足下を文部省に推薦して、文部省はその推薦を容れて、足下を留学生に指定したるに過ぎず、足下にして異議あらば格別、さもなくば命の如くせらるるを穏当とすと。余は特に洋行の希望を抱かずといふまでにて、固より他に固辞すべき理由あるなきを以て、承諾の旨を答へて退けり。余の命令せられたる研究の題目は英語にして英文学にあらず。余はこの点についてその範囲及び細目を知るの必要ありしを以て時の専門学務局長上田萬年氏を文部省に訪ふて委細を質したり。上田氏の答へには、別段窮屈なる束縛を置くの必要を認めず、ただ帰朝後高等学校もしくは大学にて教授すべき課目を専修せられたき希望なりとありたり。ここにおいて命令せられたる題目に英語とあるは、多少自家の意見にて変更し得るの余地ある事を認め得たり。かくして余は同年九月西征の途に上り、十一月目的地に着せり。(『文学論』序)藤代素人の「夏目君の片鱗」によれば、この明治33年に高等学校の教授を海外留学生として派遣する新例が決まり、選ばれたのが藤代素人と夏目漱石でした。洋行のメンバーは、文科の芳賀矢一、農科の稲垣乙丙、軍医の戸塚機知の5名で、高山樗牛も同行する予定でしたが、出発間際になって結核であることが判明し、見合せとなったようです。漱石の『処女作追懐談』には、「その中、洋行しないかということだったので、自分なんぞよりももっとどうかした人があるだろうから、そんな人を遣ったらよかろうと言うと、まアそんなに言わなくても行ってみたら可いだろうとのことだったので、そんなら行ってみても可いと思って行った」と語っています。留学中の手当ては年額1800円、家族に給される留守手当ては300円。家計のやりくりができない鏡子のために、家には貯金がなく、お金を貸していた菅虎雄に催促をし、鏡子の父からは100円を借りています。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.20
コメント(0)
明治31(1898)年12月の狩野亨吉の一高赴任、明治32(1899)年9月の山川信次郎の一高転出によって、漱石の身辺は次第に淋しくなっていきました。山川は明治30(1897)年4月、漱石の招きで五高に赴任し、小天旅行や阿蘇登山に一緒に出かけています。山川は、明治32年になると東京に帰ることを希望するようになり、漱石が一高校長となった狩野に交渉して、一高転任を実現させました。漱石が狩野に山川の移転を依頼する手紙を書きながら「他人が移転すると自分も移ってみたきような心持が一寸起り申候」(明32・6・20付)と書き添えています。これは、漱石が熊本に腰を落ち着ける決意をしてから久々に見せる弱音でした。一方、五高の俳句結社であった紫溟吟社は、市中の池松迂港が加わり、次第に活動が広まっていきます。迂港の尽力によって明治32年12月27日には「九州日日新聞」に初めて「紫溟吟社」の俳句が掲載されます。やがて「漱石選」の俳句も新聞紙上を賑わせるようになりました。漱石は東京の高浜虚子にも新派俳句の振興のために協力を頼みます。新聞紙上には東京の俳人たちの句も掲載されるようになりました。明治33(1900)年4月、漱石は北千反畑町78番地(現熊本市中央区北千反畑3-16)に引っ越します。引越しの際には「春の雨鍋と釜とを運びけり」と詠みました。転居してから村上霽月に「鴬も柳も青き住居哉」「菜の花の隣ありけり竹の垣」と送っています。家主の磯谷家に伝わる話では、漱石が五高への通勤の途中、2階建ての借家が建つのを見ていて、2階を書斎にしたいと言って、完成するとすぐに借りに来たのだそうです。今まで、家には無頓着だった漱石が、2階建の住居に興味を示したのでした。井川淵町の家も2階建てでしたが、手狭で鏡子の自殺未遂もあり、すぐに出ていかねばならない事情があったのでした。また、前に紹介した、漱石が犬に噛まれたのも、この家でした。「夏目の獅子犬」と呼ばれた赤毛の洋犬は、漱石が熊本を去る時に化学教師の神谷豊太郎にもらい受けてもらいました。しかしこの家に、漱石は長く住むことができませんでした。漱石が全面的な信頼を寄せていた校長・中川元が第二高等学校の校長として転出し、桜井房記が校長となります。4月24日に教頭心得を命ぜられているのですが、5月12日には英語研究のために英国留学が決まります。この家が熊本での最後の住居となりました。現在、北千反畑町の家は、熊本市のものになり、文化財としての価値を守りながら活用していくために、すでに所有している他の旧居や県内に点在する漱石ゆかりの地を連係させて、「漱石振興」を進めようしています。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.19
コメント(0)
子規と漱石を結ぶキンカン明治33(1900)年2月12日、子規は夏目漱石に長い手紙を出しました。熊本から送られた見事な大きさの金柑に対する礼状にかこつけ、気心の知れた漱石には怒りや愚痴、恨み言や泣き言を書き連ねた手紙を、子規は送ったのです。今回の手紙は、「例の愚痴談だからひまな時に読んで呉れたまえ、人に見せては困る、二度読まれては困る」で始まります。このことで、本音に満ちた手紙であることが漱石はわかりました。続く漱石へのお礼は、届いたキンカンへの驚きでした。内藤鳴雪は、キンカンをひねりまわして見て「これはどうしてもキンカン以外のものじゃない」、叔父の藤野漸は「これはキンカンじゃない」、子規は「このキンカンを寒いところに植えると小さくなるのであろう」といったら皆が「まさか」といったなど、周りの人々の反応を記しています。キンカンのお礼が終わると、子規の不満が爆発しはじめます。忙しくてたまらない。原稿を書こうとすると客が来る。昼間は来客のために仕事ができないので、夕方から書こうとすると、夕方から熱が出る。時候が良ければ徹夜してでも書くのだが、寒さで書くことができない。浣腸と繃帯取替をして頑張ろうとするが、風邪をひいて咳が出てきた。だから原稿が書けない。今回の手紙は腹が立って立ってたまらんのでも腹の立ち処がないので貴兄への手紙にこうした文句のあれこれをしたためることになった。以下、こまごまとした近況報告が続くきますが、ようやく子規の本音が現れてきます。『日本』は売れない、だが『ホトトギス』は売れている。『日本』新聞社長の陸羯南氏は、子規に新聞掲載記事の題材や体裁について時々いうけれど、僕に記事を書けとはいわない。『ホトトギス』を妬むこともない。子規が『ホトトギス』のために忙しくなっていることは十分知っているため…………と、子規は涙を流します。子規は、「ホトトギス」の成功を喜びながらも、「日本」新聞の売上の悪さを心配しなければならないという立ち位置の微妙さを綴って、「何か分らんことにちょっと感じたと思うとすぐ涙が出る」と涙もろくなったことを嘆くのです。しかし、子規は「この愚痴を真面目にうけて返事などくれては困るよ」と強がります。癖になってしまった涙もろさに「君がこれを見て『フン』といってくれればそれで十分」なのだといいます。手紙は「金柑の御礼をいおうと思うてこんな事になった。決して人に見せてくれ玉うな。若もし他人に見られては困ると思うて書留にしたのだから」で終ります。子規は、漱石が送ってくれたキンカンのほろ苦い甘さにつられ、自身の甘えを誰かに聞いてもらいたくなったのでしょう。しかし、その相手は、心を許した漱石にほぼ限られていたのでした。「風邪が流行るとキンカンが売れる」といわれるほど、キンカンは風邪の妙薬とされました。漱石は子規の身体を気づかってキンカンを送ったのかもしれません。金柑は、皮の部分にビタミンCやカルシウムがたくさん含まれ、動脈硬化や心筋梗塞といった生活習慣病予防や、新陳代謝の促進、冷え性の改善といった効能があります。 宮崎では大ぶりの甘いキンカンが作られていて、「たまたま」という名前がつけられています。摘果をすればするほど、いじればいじるほど、キンカン「たまたま」は大きくなるのだそうですwww。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.18
コメント(0)
明治32年10月17日、漱石は子規の元へ手紙を送りました。いつものように、自分の俳句を見てもらうためです。中には五高を詠んだ29句の俳句が入っていました。子規は、気に入った句に丸をつけ、「点はつけしものの此様の句は実際なるがために面白きが多ければ総て御保存の事」と評を書いています。漱石らしいユーモラスな表現で、学校、運動場、図書館、寮などの熊本高等学校風景を吟じています。熊本第五高等学校は、現在は熊本大学となり、左手を前に伸ばした漱石の銅像が昭和37年(1962)の五高開校75周年を記念して建てられました。銅像の左手に頭をなでてもらうと頭がよくなると言い伝えられているそうです。銅像の脇にある碑には、「秋はふみ吾に天下の志」の一句が刻まれています。他の句をご覧になれば分かるように、学生たちのためにと思われる句が、他になかったからでした。 学校○いかめしき門を這入れば蕎麥の花○粟みのる畠を借して敷地なり 運動場○松を出てまばゆくぞある露の原 図書館○韋編断えて夜寒の倉に束ねたる 秋はふみ吾に天下の志 習學寮○頓首して新酒門内に許されず 肌寒と申し襦袢の贈物 瑞邦館○孔孟の道貧ならず稲の花 古ぼけし油絵をかけ秋の蝶 倫理講話 赤き物少しは参れ蕃椒 かしこまる膝のあたりやそぞろ寒 教室 朝寒の顔を揃へし机かな 先生の疎髯を吹くや秋の風 植物園 本名は頓とわからず草の花 苔青く末枯るるべきものもなし 物理室○南窓に写真を焼くや赤蜻蛉 暗室や心得たりときりぎりす 化学室 化学とは花火をつくる術ならん 暗室や心得たりときりぎりす 動物室 剥製の鵙鳴かなくに昼淋し 魚も祭らず獺老いて秋の風 食堂○樊噲や闥を排して茸の飯○大食を上座に栗の飯黄なし 演説会 瓜西瓜富婁那ならぬはなかりけり 就中うましと思ふ柿と栗 撃剣会 稲妻の目に留らぬ勝負哉 容赦なく瓢を叩く糸瓜かな 柔道試合 転けし芋の鳥渡起き直る健気さよ 靡けども芒を倒し能はざる--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.17
コメント(0)
9月1日、ふたりは「養神亭」を出ると、あいにくの二百十日の悪天候と重なり、雨風に加えて火山灰も降る中を、道に迷ったり、穴に落ちたりしながら、二人は立野の馬車宿にたどり着きました。阿蘇の山中にて道を失意、終日あらぬ方にさまよう」との詞書で 灰に濡れて立つや薄と萩の中 行けど萩行けど薄の原廣し の二句を詠んでいます。この道は、今までの研究では仙酔峡か中岳の麓から西に向かう細道のどちらかだろうと考えられていましたが、近年の研究でJR阿蘇駅近くの麓坊中の西厳殿寺を横ぎる登山道だと推定されました。また、前年は噴火のために新たな噴火口ができており、阿蘇山の活動が非常に活発な時期のため、登山道の地形も変わっていたのではないかと考えられます。『二百十日』の記述に従うと、次のような様子です。圭さんは雲と煙の這い廻るなかへ、猛然として進んで行く。碌さんは心細くもただ一人薄のなかに立って、頼みにする友の後姿を見送っている。しばらくするうちに圭さんの影は草のなかに消えた。大きな山は五分に一度ぐらいずつ時をきって、普段よりは烈しく轟となる。その折は雨も煙りも一度に揺れて、余勢が横なぐりに、悄然と立つ碌さんの体躯}へ突き当るように思われる。草は眼を走らす限りを尽くしてことごとく煙りのなかに靡く上を、さあさあと雨が走って行く。草と雨の間を大きな雲が遠慮もなく這い廻わる。碌さんは向うの草山を見つめながら、ふるえている。よなのしずくは、碌さんの下腹まで浸み透る。(二百十日4)漱石は、「阿蘇の山中にて道を失意、終日あらぬ方にさまよう」との詞書で「灰に濡れて立つや薄と萩の中」「行けど萩行けど薄の原広し」という句を詠んでいます。漱石が迷った道は、仙酔峡か中岳の麓から西に向かう細道のどちらかと考えられていましたが、近年の研究により阿蘇駅近くの麓坊中の西厳殿寺を横ぎる登山道だと推定されています。阿蘇山は、明治27年3月以降に火山活動が活発化していたため、前年の噴火の際には新たな噴火口ができていました。火口が3か所に増えたために、登山道の位置が変わっていたのかもしれません。ようやくふたりは馬車宿にたどり着きました。漱石は「立野という所にて馬車宿に泊る」の詞書で、「語り出す祭文は何宵の秋」という句を詠んでいます。2日には馬車宿を出発して馬車で、ふたりはようやく熊本に帰り着くことができました。漱石の信次郎送別の旅は散々なものでしたが、この旅はのちに小説『二百十日』として結実します。小説のラストではふたりは「二百十一日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき蒼空に吐き出している」山に登ろうとします。「ともかくも阿蘇へ登るがよかろう」と決めるのですが、現実は異なっていました。ふたりは熊本へと戻ったため、阿蘇山に再び登ることはありませんでした。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.16
コメント(0)
内牧温泉 囲ひあらで湯槽に逼る狭霧かな 漱石(明治32) 湯槽から四方を見るや稲の花 漱石(明治32) 遣水の昔たのもしや女郎花 漱石(明治32) 帰らんとして帰らぬ様や濡燕 漱石(明治32) 雪隠の窓から見るや秋の山 漱石(明治32) 北側は杉の木立や秋の山 漱石(明治32) 終日や尾の上離れぬ秋の雲 漱石(明治32) 蓼痩せて辛くもあらず温泉の流 漱石(明治32) 白萩の露をこぼすや温泉の流 漱石(明治32) 草刈の籃の中より野菊かな 漱石(明治32) 白露や研ぎすましたる鎌の色 漱石(明治32) 葉鶏頭団子の串を削りけり 漱石(明治32) 秋の川真白な石を拾ひけり 漱石(明治32) 秋雨や杉の枯葉をくべる昔 漱石(明治32) 秋雨や蕎麦をゆでたる湯の臭ひ 漱石(明治32)8月30日、漱石と山川信次郎は、戸下温泉から馬車で立野を経て内牧温泉の「養神館」(現ホテル山王閣)に止まります。翌日は阿蘇神社を詣でて、中岳の頂上近くまで登り、「養神館」に帰りました。『二百十日』には「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社へ参詣して、十二時から登るのだ」とあり、漱石らもそのコースを取ったようです。内牧温泉は、明治31(1898)年(明治30年とする本もあり)に源泉が発見され、漱石が訪ねた頃には、まだまだ新しいところだったでしょう。温泉は、地下250メートルから100本余の源泉から湧き出しているため、豊富な湯量を誇ります。泉質は戸下温泉と同様に含石膏芒硝泉で、神経痛、リウマチ、きりきず、末梢循環障害、冷え性、うつ状態、皮膚乾燥症などに効果があるとされています。漱石らが泊まった「養神亭」は、荒正人『漱石研究年表』によれば「当時は、一膳飯兼宿屋である。(有原末吉)温泉は、明治三十一年六月、つまり漱石たちの訪れる一年前に、掘抜井戸を掘っていた時に発見されたものだ。それ以後、各戸毎に掘井戸をして、温泉業を営む。養神亭(本当は養神館)もその一つである。極めてぬるく、夏期は入浴できるが、冬期は沸かさなければならない」と書かれています。現在、漱石らが泊まったといわれる部屋は、移築保存されて「夏目漱石記念館」となっています。2階建の独立家屋になっており、1階には漱石関係の資料展示があり、漱石が泊まったという2階の部屋には『二百十日』ゆかりの恵比寿ビ-ルが、お膳の上に置かれているそうです。半熟卵を飲むと半分は生で半分は固茹で卵、ビールとエビスは違うものをと認識した女中のいる旅館は私ですと、白状しているみたい。内牧温泉には、明治40(1907)年に与謝野鉄幹率いる北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里らの「五足の靴」が訪れ、鉄幹と晶子は幾度も訪れたのをはじめとして、種田山頭火や高浜虚子など、多くの文人が訪れています。「まるで仁王のようだね。仁王の行水だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」 圭さんは何にもいわずに一生懸命にぐいぐい擦る。擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗と膏と垢と温泉の交ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽を飛び出した。飛び出しはしたものの、感心の極、流しへ突っ立ったまま、茫然として、仁王の行水を眺めている。「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが槽のなかから質問する。「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端を放すや否や、ざぶんと温泉の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽の湯は一度に面喰らって、槽の底から大恐惶を持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢れだす。「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかでいった。(二百十日 2)--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.15
コメント(0)
戸下温泉 温泉湧く谷の底より初嵐 漱石(明治32) 重ぬべき単衣も持たず肌寒し 漱石(明治32) 谷底の湯槽を出るやうそ寒み 漱石(明治32) 山里や今宵秋立つ水の昔 漱石(明治32) 鶏頭の色づかであり温泉の流 漱石(明治32) 草山に馬放ちけり秋の空 漱石(明治32) 女郎花馬糞について上りけり 漱石(明治32) 女郎花土橋を二つ渡りけり 漱石(明治32)明治32(1899)年8月29日、漱石は、同僚・山川信次郎とともに、阿蘇方面への4泊5日の旅行に出発しました。漱石が熊本に呼び寄せた山川信次郎は、東京の第一高等学校への転任が決まったため、今回の旅行は送別の意味もありました。6月20日の狩野亮吉宛の手紙には「小生も山川に別れては学校のためには相談相手を失い、閑友としては話し相手を失い、当人には何とも申さねど心裡は大に暗然たるもの有之候」と書いています。陽気な信次郎と陰鬱なところのある漱石はなぜか気が合い、信次郎の赴任当初は漱石夫妻の住む合羽町の家に同居したり、漱石の九州各地への旅の多くに同行しました。この日、漱石らは阿蘇への入口となる烏帽子岳西南の戸下温泉まできて一泊します。戸下から馬車で立野を経て内牧温泉に泊まり、翌日は阿蘇神社を詣でて、中岳の頂上を目指す旅程を組んでいました。戸下温泉の泉質は含重炭酸土類石膏芒硝泉で、黒川が白川に合流する手前の安山岩の断崖から自然に湧き出てくる温泉の湯量が豊富だと評判の温泉郷でした。『阿蘇郡誌』によると「明治15年16年の頃、赤峯氏等の尽力によりて栃木温泉の泉場を引いて浴場を創め、故長野一誠翁の努力によりて暫時発達し来たるが、大正7年より全戸下一円、長野眞一氏によりて経営する事となり、近時著しく面目を改め浴室旅館とも最新の設備を施し、年を追ふて繁栄に向かひつつあり」とあります。源泉は栃木温泉と同じようなのですが、阿蘇の原生林を眼下に眺められる風光明媚な温泉郷として知られ、徳富蘆花、徳富蘇峰、坂本繁二郎、佐藤春夫などの文人画人が訪れています。漱石らが泊まったのは、政治家の長野一誠が経営する「碧翠楼」という旅館でした。一誠は国権党の代議士で、小天温泉の前田案山子もまた国権党なので、案山子から「碧翠楼」の存在を教えてもらっていたのかもしれません。現在、戸下温泉は温泉の姿をとどめていません。一級河川白川に計画された立野ダムが昭和58(1983)年に事業着手となり、「碧水楼」はすぐに廃業しました。令和2年に工事が開始され、令和6年2月にダムは完成、4月から運用されています。「この湯は何に利くんだろう」と豆腐屋の圭さんが湯槽のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、臍ばかりざぶざぶ洗ったって、出臍は癒らないぜ」「純透明だね」と出臍の先生は、両手に温泉を掬んで、口へ入れて見る。やがて、「味も何もない」といいながら、流しへ吐き出した。「飲んでもいいんだよ」と碌さんはがぶがぶ飲む。 圭さんは臍を洗うのをやめて、湯槽の縁へ肘をかけて漫然と、硝子(ガラス)越しに外を眺めている。碌さんは首だけ湯に漬つかって、相手の臍から上を見上げた。(二百十日 2)--------------------現在、僕はブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.14
コメント(0)
安々と海鼠の如き子を生めり 漱石(明治32)上京の折に流産した鏡子でしたが、一年後の秋に妊娠がわかり、ひどい悪阻が続きましたが、正月にはやや落ち着つきます。明治32年5月31日、漱石の初めての子供が誕生しました。長女の筆子でした。漱石は、妻・鏡子の字の下手さがうつらぬよう、字が上手くなるようにとの願いを込めて「筆子」と名付けました。漱石は初めての子供を愛しました。色の黒い女中に抱かせて色が黒くならぬよう、抱かさないようにさせたこともあります。漱石は、初めて見る我が子をどうして「海鼠」と表現したのでしょうか。そこには、漱石のもつ不安が色濃く現れているようです。こうした夫婦間の苦難をのりこえて、明治32年、長女・筆子が誕生しました。「安々と」とは、出産に対する安堵です。また、暗算だったことへの安心も含まれているのかもしれません。「海鼠」は寒天のようなブヨブヨとした感触であり、漱石作品に登場するタコのように命を持って蠢く存在であり、そこに誕生への安堵が感じられます。どのようなことがあっても我が子が誕生したということが強く残ります。海鼠は天地開闢の象徴であり、海のものとも山のものとも解らぬ存在が成長して、素晴らしい人間となっていくことへの願いを詠み込んでいます。この句に対して、筆子は『夏目漱石の「猫」の娘』で「結婚して三年目に、しかも以前に一度流産の経験もあって、漸くに子供を得た父にとっては、この『安々と』という感慨はひとしお深かったものと思われます。……父の驚きの心痛が並々でなかったことは、想像に難くありません。そういう性で子種に恵まれ、なまこのようであれ何であれ、ともかく易々と生れた、その瞬間父がどんなに喜んだか良く解る気がします」と書いています。鏡子の『漱石の思い出』には、次のように書かれています。長女が生まれましたのは、五月の末のことでありました。私が字がへただから、せめてこの子は少し字をじょうずにしてやりたいというので、夏目の意見に従いまして、「筆」と命名いたしました。ところが皮肉なことに私以上の悪筆になってしまったのはお笑い草です。で、いまではそんな欲張った名はつけるものではない、そんな名をつけるからこんなに字がへたになったのだなどと、当人の筆子はこの話、が出るたびにかえって私たちを恨んでいるのです。親の心子知らずか、子の心親知らずか、ともかくお笑いぐさには違いありません。最初の子供ではあり、結婚してから満三年の後にできた子ではあり、ずいぶんとかわいがりまして、自分でよく抱いたりいたしました。そうして女中のテルの色が真っ黒なので、子供は抱くものに似るというから、そんな黒いのが伝染されちゃ困るなどと申しまして、やかましく女中に抱かせるのを排斥しました。しかし私がいるうちはそれで納まってるのですが、私が買い物に出たりして子供を残しておきますと、そのうちにおとなしく眠っていた赤ん坊が眼をさまして泣きだします。そうしていくらすかしたりあやしたりしても、ますます火のついたように泣きますので、困ってしまって、テルテルと呼んで世話を頼むと、女中のほうは大いばりで、いくら顔が黒くても、私でなけりゃどうにもならんじゃありませんかと、一本参って抱きあげる。抱きあげればすぐにだまるといったぐあいに、この女中がまたたいそう赤ん坊をかわいがってくれました。--------------------現在、僕はブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.13
コメント(0)
耶馬溪の旅から帰ってきてから、漱石が謡を始めます。旅の友だった奥太一郎が謡をしているのを聞き、工学部長の桜井房記から手ほどきを受け、同僚の神谷豊太郎からの指導されました。桜井房記は、加賀の出身で宝生流の謡をたしなんでおり、さらに同じ加賀出身の国文の教師・黒本植も謡が優れていたので、五高の教師間で謡が流行っていました。漱石が習った神谷豊太郎は和歌山出身で、前任地の仙台で謡を初めていました。正岡子規の友達でもあることから、漱石が気軽に声をかけやすかったのでしょう。漱石は、「稽古の歴史」という談話で「私が習い初めたのは熊本の学校にいる時分のことでした。同僚の教授連が盛んにやるので、私も半年程稽古をしましたが、その後間も無く外国へ行ってしまったので、勿論稽古も出来ず、忘れたようになっていたのですがね」と語っています。漱石が習ったのは「熊野(ゆや)」でした。神谷豊太郎は「声は好い声でした。当人期なかなか熱心で、人が笑うからというので、よく便所の中から呻っていたところから『後架宗盛』という名が付いて、一時評判でしたよ」と語っています。『吾輩は猫である』の苦沙弥の描写「後架の中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけられているにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛にて候を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである。(1)」というのは、実話なのでした。漱石を謡に結びつけた奥太一郎はどうかというと、『漱石の思い出』には「まあ、奥のをきいてみろ、お湯の中で屁が浮いたようなひょろひょろ声を出すんだから、あれからみればといったぐあいに、なかなか敗けません。そこで奥さんは奥さん、あなたはあなた。人がどうあろうとその声は自慢になりませんよなどと憎まれ口を叩いておりますと、ある日奥さんがいらして謡が始まりました。私はちょうどお湯に入っていたのですが、さあ、始まると困ってしまいました。まったく珍妙な謡い声なのですが、それよりもすぐとさきの尾籠な批評を思い出したからたまりません。たまりかねてお湯の中で手拭を口に当ててきこえないように笑っておりますと、台所でも女中たちが笑いをこらえているのですが、これも笑いがとまらず、えらい苦しみをしたことがあります」とあり、下手の横好きだったようです。--------------------現在、僕はブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.12
コメント(0)
明治32(1899)年の正月、漱石は同僚の奥太一郎とともに、冬休みを利用して宇佐神宮・耶馬渓へと旅立ちました。「耶馬溪」は『日本外史』で知られる頼山陽の命名です。山陽が耶馬渓を訪れたのは文政元(1818)年3月6日のことで、中津郊外の正行寺を訪ねる途中、もともと「山国谷」と呼ばれていた地域を訪れたのでした。漢詩『耶馬溪図巻記』を詠み「耶馬溪の風物、天下に冠たり」と絶賛したことから、奇観に富むこの地が全国に知れることになりました。漱石らは、1月1日に熊本を出発し、鉄道で鳥栖、博多を経て、その日は小倉に宿泊します。鏡子の叔父・中根与吉の家に泊まったのかもしれません。2日目は豊州鉄道終点である宇佐駅(現柳ケ浦駅)で下車してから4キロの道のりを歩いて宇佐神宮へと向かいました。初詣の後は、3キロほどの坂道を歩いて四日市に一泊しています。3日目は耶馬溪の羅漢寺に参詣し、「中屋旅館」に泊まりますが、 短くて毛布つぎ足す蒲団かな 泊まり合す旅商人の寒がるよ 寝まらんとすれど衾の薄くしてと、夜寒を嘆いています。4日目は耶馬渓で句作などしながら守実温泉に泊まりました。守実温泉の泉質は弱アルカリ性単純水で泉温は34度と低く、リウマチ・神経痛・疲労回復に効果があります。漱石たちは守実の中心地に位置する大歳祖神社隣の河野謙吾宅に宿泊します。河野家は明治7年から郵便局を開き、上下8部屋もある2階建の建物です。郵便局の傍ら、旅宿も経営していたようです。漱石は「守実温泉に泊まりて」の詞書で たまさかに据風呂焚くや冬の雨 せぐくまる布団の中や夜もすがら 薄蒲団なえし毛脛を擦りけりと詠み、さらに「家に婦人なし。これを問えば、先ず頃身まかりて翌は三十五日なりという。庭前の墓標、行客の憐をひきてカンテラの灯のいよいよ陰気なり」という詞書を添え 僧に似たるが宿り合せぬ雪今宵と詠みました。5日目は吹雪の峠を越えて日田に入り、筑後川を舟で下って吉井の天神町にある「長崎屋」に泊まりました。この日の一番の思い出は雪の大石峠で馬に蹴られたことで、「峠を下る時馬に蹴られて雪の中に倒れければ」の詞書で 漸くに又起きあがる吹雪かなと詠み、「吉井に泊まりて」の詞書で なつかしむ衾に聞くや馬の鈴と詠んでいます。6日目は、吉井から追分峠を越えて久留米に入り、熊本に帰っています。追分峠では「追分とかいう処にて車夫どもの親方乗っていかんやというがあまり可笑し借りければ」との詞書で、 親方と呼びかけられし毛布哉と詠みました。日頃、先生と呼ばれている身が、追分峠では「親方」となったことに滑稽を感じたのでしょう。漱石は、明治32年1月14日の狩野亮吉宛の手紙に「小生例の如く元朝より鞋がけにて宇佐八幡に賽しかの羅漢寺に登り耶馬渓を経て帰宅。山陽の賞賛し過ぎたる為にや、さまでの名勝とも存ぜず通り過申候。途上、豊後と豊前の国境何とか申す峠にて馬に蹴られて雪の中に倒れたる位が御話しに御座候」と書き送っています。馬に蹴られ、親方と呼ばれるとは、散々な旅だったのでしょう。--------------------現在、僕はブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.11
コメント(0)
五高の学生たちの間では、漱石が日本派俳人であることがよく知られていました。漱石は、松山中学の教師時代に日清戦争従軍記者として清国に出発したものの喀血して松山に帰っていた子規と同居を始めます。この52日間で鴫野博いくから刺激を受け、自らも積極的に俳句づくりに励んだのでした。漱石の俳句は、新聞『日本』や雑誌『日本人』、『新俳句』などに掲載されているため、五高生たちは、漱石を俳人と見做していたのでした。五高生のうち、寺田寅彦(寅日子)や厨川肇(千江)、蒲生栄(紫川)らが漱石の家を訪れ、俳句の話を聞きに来ていました。千江は五高の校友会雑誌『龍南会雑誌』に、月に1回俳句の運座を開くことや、参加希望者を募集する旨、生徒たちに呼びかけました。そして、明治31年10月2日には、寅日子、紫川、平川草江、石川芝峰、白仁三郎(のちの坂元雪鳥)ら11人が漱石の家に集まり、運座を開きました。この俳句の会は「紫溟(しめい)吟社」と名付けられました。社名の紫溟とは、筑紫の海、有明海のことを指します。「紫溟吟社」は、やがて五高の生徒だけでなく、市中の池松迂港、第六師団の渋川玄耳、川瀬六走らが会員となり、「九州日日新聞」「九州新聞」にもその俳句が掲載されるようになります。学校内だけではなく、熊本の地に新派俳句が育っていくのでした。漱石もまた、周囲からの刺激を受け、全俳句約2400句のうち、約9000句が熊本時代に読まれています。漱石は、この会の活動をバックアップするために、先般来、当熊本人常松迂巷なる人、当市九州日々新聞と申すに紫溟吟社の俳句を連日掲載するよう尽力致し、なお東京諸先俳の俳句も時々掲載致し度趣にて、大兄へ向け一書呈上候処、その後何等の御返事もなきよしにて、小生より今一応願いくれるよう申来候。右迂巷と申す人は、先般来突然知己に相成候人なるが、非常に新派の俳句に熱心忠実なる人に有之。実は今回の学杯も新派勢力扶植のための計画に候。さすればほととぎす発行者などは大に声援引き立ててやる義理も有之べきかと存候。かつ九州地方は新派の勢力案外によわく、ほとんど俳句の何ものたるを解せざる有様に候えば、俳句趣味の普及をはかる点より論ずるも、幾分か大兄などは鼓吹奨励の責任ありと存候。右の理由故何とか返事でも迂巷宛にて御差出可被下候。また日々新聞は同人より大兄宛にて毎日御送致し居候よし、定めて御閲覧のことと存候。と高浜虚子に宛てて手紙を送っています。しかし、漱石がイギリス留学のため熊本を去り、また五高生が進学などで熊本を離れると、活動の中心は五高生外となり、次第に会の活動も停止へ向かいました。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.10
コメント(0)
鏡子の事故があったことから、漱石は新しい家を探していました。たまたま、狩野亨吉が住んでいた家が帰郷のために空き家にするため、漱石夫婦に提供したのでした。当時は、長期休暇の際には、借家を解消するということがよくありました。亨吉は、帰郷までの期間を旅館・研屋支店で過ごしています。家賃は10円。漱石も気に入ったようで、熊本で最も長い1年8か月を暮らした家です。狭かった井川淵の家と異なり、前の持ち主が軍人のため、随分と広い家でした。5・600坪の土地には広い庭があり、桑畑もありましたが、鏡子は「家はさほどに広くはありませんでした」と語っています。現在の間取りでいえば8Kの家でした。また、馬屋を改装した別棟の広い物置がありました。寺田寅彦が書生になりたいといったときに、漱石が見せたのがこの物置のようです。鏡子は「熊本にいた間、私どもが住んだ家の中でいちばんいい家」と語っています。漱石夫妻が一番気に入り、熊本で最も長い1年8か月暮らした家です。長女・筆子が誕生した家でもあり、筆子の産湯を使った井戸や、五高の教え子だった寺田寅彦が泊まった馬小屋などが現在も残っています。記念館として公開されている内部には、漱石直筆の原稿やレプリカ原稿のほか、和室には漱石のからくり人形もあります。この家は、昭和53年(1978)に熊本市指定の文化財指定され、漱石関係資料を展示する記念館としています。筆子の産湯を使った井戸や、五高の教え子だった寺田寅彦ゆかりの馬小屋などが残っています。内部には、漱石直筆の原稿やレプリカ原稿などが展示されています。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.09
コメント(0)
この家で、漱石夫婦にとって大事件が起こりました。明治31年5月下旬、鏡子が増水した川に落ちたのです。幸い投網漁をしていた人の網にかかって、命に別状はありませんでした。『道草』(大正4)は、漱石の実生活を素材とした作品ですが、そこには、ヒステリーを起こして廊下に倒れたり、縁側の端にうずくまったりしている妻を介護する健三の姿が描かれています。ヒステリーについては、鏡子は生涯語ることはありませんでした。『道草』には「妾の赤ん坊は死んぢまつた。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくつちやならない。そら其所にゐるぢやありませんか。」(78)と、流産後の妻が健三の手を振り払って起き上がろうとする姿が描かれています。「毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寝た」(78)というエピソードが真実かどうかはわかりません。しかし、熊本時代が、最もヒステリーの発作が激しかったといい、そうした発作の中で鏡子の事故は起きたのでしょう。再び同じことが起きないように漱石は心を砕いたものと思われます。鏡子は投網漁の船で網打ちをしていた松本直一により助け出されました。五高教授夫人が白川に投身自殺を図ったという噂が流れては困ります。新聞にそうした記事が書かれないように尽力したのが同僚の浅井栄凞でした。栄熙は、熊本見性寺の蘇山の弟子で、菅虎雄を通じて漱石と知り合っていました。熊本で育った栄熙は、熊本市議会議員で「九州日日新聞」社長・山田珠一と懇意だったため、記事にならずに済んだのでした。明治31年の秋頃になると、鏡子の二度目の妊娠がわかります。しかし、猛烈な悪阻(つわり)に悩まされました。ひどい時は食物・薬はおろか水さえも咽喉を通りません。ようやく滋養浣腸で命をつなぐ状態だったのです。『漱石の思い出』には、「この秋、私は妊娠しておりまして、猛烈な悪阻になやまされ続けました。それは九月から始まって十一月まで続き、いちばんひどかった時などには、食い物や薬はおろか水さえ咽喉に通らなかったくらいで、衰弱は日ましに加わりますし、かといっていまさら手術もできず、運を天にまかせてといったぐあいに、ようやく滋養涜腸ぐらいで命をつないでいたわけでした。『病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋 漱石』などと、このころ私の病気をみとってくれてよんだ句が少しあるようでありました」と書いています。一命をとりとめた鏡子。それ以来、漱石は毎晩、自分と妻の手首を紐で結んで寝ていたといいます。この症状は、明治32年5月に長女・筆子が誕生すると、やや落ち着いてきました。また、翌年には漱石がロンドンに行って離れるため落ち着きましたが、それ以後もヒステリー発症は、家庭の問題や諍いをきっかけとして、度々起こるようになっています。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.08
コメント(0)
上京のための長旅で、流産してしまった鏡子が、鎌倉での静養ののち、熊本に帰ってきたのは10月下旬のことでした。しかし、鏡子の振る舞いにはどこかぎこちないところがありました。不幸せな新婚生活は、鏡子に心の病を運んできました。それはヒステリーです。また、鏡子は低血圧のための朝寝坊、料理下手など、家庭の主婦としては不適格な性向がありました。それらから現実逃避するための手段がヒステリーであったともいえなくありません。『道草』に書かれているお住の描写は、具体的でしかも迫真的です。この家で、漱石夫婦にとって大事件が起こりました。明治31年5月下旬、鏡子が増水した川に落ちたのです。幸い投網漁をしていた人の網にかかって、命に別状はありませんでした。『道草』(大正4)は、漱石の実生活を素材とした作品ですが、そこには、ヒステリーを起こして廊下に倒れたり、縁側の端にうずくまったりしている妻を介護する健三の姿が描かれています。ヒステリーについては、鏡子は生涯語ることはありませんでした。『道草』には「妾の赤ん坊は死んぢまつた。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくつちやならない。そら其所にゐるぢやありませんか。」(78)と、流産後の妻が健三の手を振り払って起き上がろうとする姿が描かれています。「毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寝た」(78)というエピソードが真実かどうかはわかりません。しかし、熊本時代が、最もヒステリーの発作が激しかったといい、そうした発作の中で鏡子の事故は起きたのでしょう。再び同じことが起きないように漱石は心を砕いたものと思われます。鏡子は投網漁の船で網打ちをしていた松本直一により助け出されました。五高教授夫人が白川に投身自殺を図ったという噂が流れては困ります。新聞にそうした記事が書かれないように尽力したのが同僚の浅井栄凞でした。栄熙は、熊本見性寺の蘇山の弟子で、菅虎雄を通じて漱石と知り合っていました。熊本で育った栄熙は、熊本市議会議員で「九州日日新聞」社長・山田珠一と懇意だったため、記事にならずに済んだのでした。明治31年の秋頃になると、鏡子の二度目の妊娠がわかります。しかし、猛烈な悪阻(つわり)に悩まされました。ひどい時は食物・薬はおろか水さえも咽喉を通りません。ようやく滋養浣腸で命をつなぐ状態だったのです。『漱石の思い出』には、「この秋、私は妊娠しておりまして、猛烈な悪阻になやまされ続けました。それは九月から始まって十一月まで続き、いちばんひどかった時などには、食い物や薬はおろか水さえ咽喉に通らなかったくらいで、衰弱は日ましに加わりますし、かといっていまさら手術もできず、運を天にまかせてといったぐあいに、ようやく滋養涜腸ぐらいで命をつないでいたわけでした。『病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋 漱石』などと、このころ私の病気をみとってくれてよんだ句が少しあるようでありました」と書いています。一命をとりとめた鏡子。それ以来、漱石は毎晩、自分と妻の手首を紐で結んで寝ていたといいます。この症状は、明治32年5月に長女・筆子が誕生すると、やや落ち着いてきました。また、翌年には漱石がロンドンに行って離れるため落ち着きましたが、それ以後もヒステリー発症は、家庭の問題や諍いをきっかけとして、度々起こるようになっています。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.08
コメント(0)
昭和31年4月1日、漱石は井川淵へ四度目の引越しをします。大江村の家は、皇太子(のちの大正天皇)の伝育官(教育係)として宮内省に出仕していた落合東郭の家でした。東郭が東京から帰ってきて、熊本に勤めることになったため、急いで家を明け渡さなければなりませんでした。漱石は、代わりの家を探すのですが、なかなか見つけることができません。家を渡してもらえない東郭は、隣にあった妻の実家に仮住まいしています。漱石はようやく井川淵に小さい家を見つけました。白川の川べりにあり、すぐ近くに明午(めいご)橋が見えます。間数も少なく手狭だったので、俣野義郎と土屋忠治には、金銭的な援助はするので五高の寮に入るように勧めた戦後史開封でしたが、2人はどんな狭いところでもいいので、置いて欲しいと頼みます。そこで7月の卒業式までの期間、書生として置くことになりました。『漱石の思い出』には、「井川淵というところに小さい家をみつけまして、一時凌ぎにそこへ移りました。そこは川べりでして、すぐ近くに明午橋が見えます。なんでも部屋数の少ない家でして、間に合わせの転居ではしたが、不便たらありません」という家だったと書かれています。この家は、間数が少ないものの、川に面した位置に立っていました。しかし、この川沿いで明午橋の近くということが大きな事件を引き起こします。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.06
コメント(0)
狩野亨吉は、漱石や山川信次郎の先輩で、金沢にあった旧制第四高等学校の教授をつとめていました。第四高等学校の校長をつとめていたのが漱石のつとめている第五高等学校の中川元です。当時の四高では、教員の能力不足によって生徒たちの不満が溜まっており、問題のある教師たちの排斥運動が起こっていました。元は改革を断行。亨吉は改革を補佐するために呼ばれたのでした。元は第五高等学校校長として移り、校長がいなくなって宙ぶらりんの状態になった亨吉は、改革の後始末を果たしたのち、第四高等学校の教授を退任しました。 漱石が卒業した折には、まだ在職中だった亨吉は、漱石を第四高等学校に誘いますが、漱石は断りました。五高校長となった元は、退職した亨吉を五高に誘いますが、亨吉は断ります。亨吉の能力を認めていた元は、教頭になるように誘い続けました。漱石は、校長の気持ちを汲んで、亨吉を第五高等学校に誘います。校長の元は、漱石が誘っても亨吉は第五高等学校に来ないだろうと思っていたのですが、意に反して亨吉は、五高等学校赴任を受け入れます。これには、亨吉が第五高等学校に紹介した教師が途中で辞めてしまったことへの責任を取るという気持ちが強いのですが、気心のしれた漱石や信次郎が在籍しているということも復職の大きな要因となりました。明治30年12月7日、漱石が亨吉に宛てた手紙には後任者選定の一条につき、小生は第一に大兄を挙げ候ところ、校長の考えにては大兄は到底相談に応じてくれまじと被申候。その時小生答えて、無論単に論理の教師として招くとも無益のこと、小生らより遥かに先輩なる狩野氏のことなれば、相応の待遇をせずばなるまじと申し候こと有之。その時以来小生は学校のため、ぜひとも大兄に御無理を願いたいとひそかに希望しおり。一方にては校長は桜井氏と協議の上、同氏の大賛成を得て今日に至り候折柄、今回のことにつき自然大兄を無理にも引き起さんとの念を生じ候。因て甚だ突然の至とは存じ候えども、左の条件にて再び教育界に御出現の上、当校のため学生等のため、御来任被下候や。一、大学予科教頭の地位に立つ事(桜井氏は工学部主事に任ぜられ到底現今の教頭を兼任し難きことと御承知被下度候)一、教頭事務の外論理学の授業を担任する事(九時間)別に五六時の英語でも補助を願えば尚更結構のことに御座候。しかし目下の処は生等にて繰合せる積ゆえ、それも不必要かも知れず。とにかく授業時間は十五時を超過せぬこと。一、待遇は年俸千六百円の事。官らは大兄従前の官等六等なれば不得己六等。しかし最近の好機(校長の話しにては四五日にてもよし)をもって五等に上す事。右は校長桜井両氏とも異議なきのみならず、非常の希望に御座候。小生は無論仲間に立つ位ゆえ、もとより願う所。また山川も同感ならんと存候。……略……また生徒の方面に関しても、無論御掛念なきは保証する処に御座候。また学校現時の模様を申せば至極卒穏にて別段御配慮を要することも見えずと存候。校長は御存じの通りの長者にて、その弊なきにあらねど輔佐の為し様にては、随分見込のある学校と存じ候。右篤と御考慮の上何分の御返辞待上候。最後に一言申し加え候。今回のことは御相談と申すよりも御願いに御座候。と書かれています。亨吉は、明治30年(1897)12月19日に赴任を承諾する電報を送り、翌年1月7日に熊本に到着しました。しかし、その年の11月、文部省から亨吉を第一高等学校校長に迎える辞令がおります。これは、能力を認めながら、なかなか教職につかなかった亨吉の就職に際して、中央に戻そうという亨吉の友人で第一高等学校校長だった柳澤政太郎の後任に吸えるようにしたのでした。イギリス留学から帰った漱石は、熊本五高に帰る気はなくなっていました。そんな漱石に第一高等学校と帝国大学で教鞭をとることを斡旋したのは、第一高等学校校長だった亨吉のでした。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.05
コメント(0)
「猫」が漱石を有名にしてくれましたが、漱石は犬の方が好きだったようです。 漱石は熊本時代に、犬を飼っていました。よそからもらった大きな犬で、やたらに人に吠えつきます。しかし、漱石と女中のテルは犬好きで、その犬を可愛がっていました。大江村の家時代の家族写真に、犬が写っていますが、テリア系の小型犬のようです。これが大きく育ったものなのかもしれません。ある日のこと、犬が通行人に噛み付いてしまい、巡査から厳重注意を受けました。漱石は、「犬なんてものはりこうなもので、怪しいとみるからこそ吠えるのであって、家のものなどや人相のいいものには吠えるはずのものではない。噛みつかれたりするのは、よくよく人相の悪いものか、犬に特に敵意をはさんでいる者で、犬ばかりを責めるわけには行かない」と反撃しました。その日、犬は警察に引かれてしまいます。翌日、狂犬病の検査で異状がなかったことから、こんど噛みついたら撲殺するとおどかされ、犬は帰ってきました。家が内坪井町から北千反畑に引っ越ししても、漱石は犬を連れて行きました。ところが、女中のテルが目を離したすきに犬が家を飛び出し、よそのおかみさんに噛みついてしまいました。噛み付いたのは、すぐ近所にすむ巡査の奥さんでした。巡査がどなり込んで来ましたが、漱石は女中から門前の空地にゴミを捨てに来るのがその奥さんと聞いていたので、犬も怪しいと睨んで噛みついたと理屈をこねました。犬は今度も何事もなく帰されました。 ある晩のこと、夜おそくなって帰ってきた漱石に、犬が吠えました。玄関が開くと、漱石の袂と袴とがひどく破けています。家の犬に噛まれたようです。犬は、漱石が「よくよく人相の悪いものか、犬に特に敵意をはさんでいる者」とみなしたのです。「飼い犬に手をかまれた」漱石では、苦笑いをするしかありませんでした。漱石一家が熊本を引き上げる時、よく吠えていいというので犬をもらった方がいましたが、その顛末ははっきりしません。鏡子は、「世の中にはよくよく物好きな方もあったものです」と語っています。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.04
コメント(0)
当時の前田温泉を差配していたのは、案山子の次女である卓子(つなこ)でした。民権運動家の植田耕太郎と結婚したのですが1年で離婚。その後もやはり民権運動家の永塩亥太郎と事実婚をしたものの別れてしまいました。そのために、卓子は明治28年(1895)頃から小天村の実家に帰っていたのです。昭和10(1935)年、「漱石全集」月報1号で行った森田草平によるインタビュー『「草枕」の女主人公』で『草枕』での印象的な那美の入浴を垣間見るシーンは、実際の出来事だったと卓子本人が語っています。最後にあの湯殿の湯――わたくしが夜おそく女湯へ入ろうといたしますと、微温(ぬるま)っていましたので、何人もいないと思って、男湯の方へ平気で這入って行きました。すると、水蒸気の濛々と立ち籠めた奥の方で、おふたりがくすくす笑っていらっしゃる声がするじゃありませんか。わたくしはもう吃驚(びっくり)して、そのまま飛び出してしまいました。ただ、『草枕』の那美のモデルであることには少し不満げです。こんな女でございますから『草枕』の中でわたくしが『き印』だとされるのは仕方もありませんが、母までが狂人扱いされているのはどうも残念でなりません。わたくしの口から申しては何ですが、母は昔気質のまことに優しい、典型的な日本の女でございまして、これだけはどこまでも弁護してやりとうございます。それからわたくしの家が代々狂人筋だったぞということも、全く事実無根でございます。案山子が死去すると、卓子は明治38年(1905)に上京し、孫文や黄興の加入していた「中国同盟会」の機関紙『民報』を発行する民報社で住み込みとして働きました。卓子の妹・槌子が、孫文らを支援する宮崎滔天(とうてん)と結婚していたためです。彼らは、民報社に集まってくる革命家や中国人留学生を世話し、密航の手助けもしました。こうした卓子らの支援は、明治44年(1911)に孫文らが起こす辛亥革命として結実するのですが、その結果は卓子らの望んだものではありませんでした。天水町から出版された中村青史・上村希美雄共著『「草枕の里」を彩った人々』には、「一生のあいだ、ロクな男には出会わんかったが、夏目さんだけは大好きだったよ。奥さんさえいなきゃ、いんにゃ、二号さんでもいいと思った時もあったよ」と近親者に晩年の卓子が語っていたと記されています。別の近親者は、東京が大雪の日、卓子はお握りをつくって漱石を迎えに行き、帝国ホテルで一夜を明かしたと語っているのです。「雪のため鎌倉へ行く汽車が不通で、こんなに嬉しいことはなかったと、あの気丈な人が泣いて喜んどったもんね」という親族の言葉も記されています。門人に「先生は、奥様以外知らないって本当ですか?」と聞かれ、「雲煙模糊たり」と答えたという逸話で知られる漱石ですが、卓子の言葉は、果たして本当だったのでしょうか。
2024.11.03
コメント(0)
温泉や水滑らかに去年の垢 漱石(明治31) 明治30年12月27日頃から翌年の1月4日頃まで、漱石は大学予備門の同級で熊本の第五高等学校に招いた山川信治郎とともに小天温泉へ出かけました。信治郎はこの年の11月に同僚の久我某とともに熊本市からほど遠からぬ小天温泉に一泊したのでした。この年の正月、熊本での鏡子とともに迎えた新所帯の新年には、同居していた長谷川貞一郎を慕う学生たちがわんさか押しかけました。おせちづくりと学生たちの世話にてんやわんやとなった鏡子との間で一悶着あったため、漱石は正月の期間、熊本を抜け出そうと考えていました。信次郎から小天温泉で正月を過ごそうという誘いがあり、漱石は渡りに船と快諾したのです。当時の小天には、当時二つの温泉がありました。一つは「前田温泉」で、明治11年頃に土地の名家・前田案山子の別邸として建てられましたが、案山子が政治家のために多くの政客が訪れてきます。そこで、邸の一部を宿屋として開放したのでした。明治37年に案山子が亡くなった後は、水本正澄が『漱石館』と名付けて当分営業を続けてますが、大正7年には廃業しました。もう一つは「田尻温泉」で、田尻貞喜という人が経営していましたが、のちに『那古井館』と名乗ります。「前田温泉」も「田尻温泉」も、当時は田んぼの間にあり、山と海の両方面から吹き来る気流のために風通しがよく、夏の湯治場に適していたため、夏季になると、両温泉とも引きも切らぬばかりの湯治客で溢れかえったといいます。 漱石が逗留したのは「前田温泉」の方でした。現在は「前田家別邸」=「漱石館」として公開されています。 その別荘には、犬養毅、植木枝盛、中江兆民、頭山満など、多くの自由民権の活動家が訪れました。明治23(1890)年の第1回衆議院議員総選挙で案山子は熊本一区から出馬して当選。大須外務大臣の条約改正に反対して気を吐きました。佐々友房、木下助之、古荘嘉門、頭山満らと国民自由党を結成しますが、明治25年(1892)の第2回衆議院議員総選挙には立候補しませんでした。案山子は、政治の道から身を引き、明治37年(1904)7月20日に病没しています。「前田温泉」も「田尻温泉」も 単純アルカリ泉で体温くらいの低温。神経痛やリューマチ、神経衰弱、ヒステリーに効果があるといいます。漱石は、『草枕』に「那古井温泉」こと「小天温泉」のお湯を描写しています。漱石の文章を読むと、温泉の湯に酔ってしまいそうです。 寒い。手拭を下げて、湯壺へ下る。 三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国と見えて、下は御影で敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、豆腐屋ほどな湯槽を据える。槽とはいうもののやはり石で畳んである。鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、入り心地がよい。折々は口にさえふくんで見るが別段の味も臭いもない。病気にも利くそうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。もとより別段の持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮んだことがない。ただ這入るたびに考え出すのは、白楽天温泉水滑洗凝脂という句だけである。温泉という名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。またこの気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。 すぽりと浸かると、乳のあたりまで這入る。湯はどこから湧いて出るか知らぬが、常でも槽の縁を奇麗に越している。春の石は乾くひまなく濡れて、あたたかに、踏む足の、心は穏かに嬉しい。降る雨は、夜の目を掠めて、ひそかに春を潤すほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやく繁く、ぽたり、ぽたりと耳に聞える。立て籠られた湯気は、床から天井を隈なく埋めて、隙間さえあれば、節穴の細きを厭わず洩れ出いでんとする景色である。(草枕 7)
2024.11.02
コメント(0)
長い間お休みにしていてすみません。ようやく、仕事がひと段落したので、これから毎日、漱石のマンガを描こうと思います。これから、よろしくお願いします。また、途中からですみません。熊本第五高等学校二年生の寺田寅彦が、合羽町にあった漱石の家を訪ねてきたのは明治30年(1897)の7月のことでした。学年試験の終わったころ、高知からきた学生のうちに試験をしくじったものがいて、受け持ちの先生宅を訪問して、赤点をカバーするための運動委員に選ばれていたのでした。漱石は寅彦と気軽に会い、泣き言を黙って聞いていました。もちろん、もちろん点をくれるともくれないとも言いません。寅彦は、役目が終わった後、「俳句とはいったいどんなものですか」と質問しました。漱石が俳人として有名なことを寅彦は知っていのです。漱石は「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳い句である」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある」と話しました。寅彦は、急に俳句がやりたくなり、帰郷していくつかの句を詠みました。夏休みが終わった寅彦は漱石を訪問します。漱石はすでに大江村の家に移っていました。寅彦の印象によると、漱石はいつも黒い羽織を着て端然として正座しており、奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたといいます。いつでも上等の生菓子を出されましたが、漱石が好きだと見えて、紅白の葛餅を、よく食べさせてもらいました。寅彦の俳句は、そのうちに「日本」新聞の俳句欄に掲載されます。これが、寅彦の作品が活字になった、初めてのことでした。寅彦は、漱石に書生に置いてもらえないかと頼んだことがあります。裏の物置きなら明いているから来てみろと案内されたのですが、その室は畳が入っておらず、ゴミだらけ。物置きになっていたので、寅彦は諦めました。しかし、漱石と寅彦の交流は、これから終生まで続くのでした。
2024.11.01
コメント(0)
何回か休んですみません。 夏バテのせいにするのは簡単なのですが、僕は漱石の絵がもう一つ好きではないようです。あまり筆が進みません。 漱石のデザイン的なセンスや美術に対する鑑賞眼は万人の認めるところなのですが、本人の画は、拙にあふれています。 漱石の南画風の少しは見られる絵を残すのは、大正4年になってからのことです。何枚も絵を描くことによって、ある程度の熟練が見られます。ただ、細かい筆致で描かれているこれらの画は、そうした細かい描写により、こちらの心を陰鬱にさせてしまいます。 妻の鏡子は『漱石の思い出』で「絵は死ぬまで好きで描きましたが、もっとも中ほど気が進まなかったり忙しかったりで描いたり描かなかったりいたしましたが、不思議なことにその後も頭が悪くなると絵を描いたのはおもしろいことだと思います。自分では何をしてもおもしろくなく、ひとつくさくさした気持ちを絵でも描いてまぎらそうというのでしょうが、現に宅に残っている南画の密画などは、そういう時に幾日も幾日もかかって描いたもので、こり出すと明けても暮れてもこれでいいというまで、紙のけばだつまでいじっているのだから、根気のいいものです。死ぬ年などもずいぶん「中央公論」の滝田樗陰さんなどがこられて描かされていましたが、この時もだいぶあたまのわるい時でした。南画の密画は大正二年前後のもので、後で自分で表装をして箱書きまでしたのですが、そのころもいけなかったのです。もっとも絵を描いておれば、きっとあたまの悪い機嫌の悪い時だったときまっているのではありません。ずいぶん上機嫌でおもしろそうに楽しんで描いていたこともあったのですが、力作の密画に限ってあたまの悪い時にできたのは妙なことだと今でも思っております。(2小康)」と語っています。
2022.08.07
コメント(0)
行く秋を大めし食ふ男かな(明治27) 正岡子規の食べものの好みについて書いた文章があります。 書かれた時期ははっきりしませんが、病牀六尺時代の少し前のことを振り返っています。 新しいものうまく、煮たて焼たてうまし 醤油よりは塩、山葵(わさび)より薑(はじかみ) さしみはまくぐろ、したしものはほうれん草、つまはていれぎ(オオタネツケバナ) 赤飯(強飯わろし)栗飯筍飯茶飯雑炊鮓皆よし 菓物は鬱を散らす 飯堅ければ百味みな味を減ず 酔ぞめの茶漬、廓帰りの湯豆腐 日本料理の御馳走に飯なきは日本の悪弊、眼中に下戸をおかぬもの お酌は芸者に如かず、お給仕はお三どんにしかず 茶は二杯、酒は三杯、味噌汁は一杯 いり豆は多々益々弁す、話の伽によろし 意訳してみますと、以下のようなものでしょうか。まるで、「マイ・フェア・レディ」の「マイ・フェイバリット・シングス」か佐良直美の「私の好きなもの」のようです。 煮立て焼きたて、何でもつくりたてが美味しい。醤油よりは塩、ワサビよりもショウガ、マグロの刺身、ほうれん草のおひたし、ていれぎ(清流に自生するクレソンのような草)のツマ、柔らかめの赤飯、栗飯、筍飯、茶飯、雑炊、寿司、みんな大好き。果物は憂鬱な気分を発散させてくれる。堅いご飯は、壁手のものを不味く感じさせる。酔ってからの茶漬け、遊び帰りの湯豆腐もいい。 日本料理の悪いところは、ご馳走になると飯が少ない。お酒を飲まない者のことを考えない。お酌は芸者、お給仕はおさんどんにしてもらう方がいい。お茶は二杯、酒は(お猪口に)三杯、味噌汁は一杯。煎った豆はやめられない止まらない、退屈な話を和らげてくれる。 こういうリズムのある文を子規は得意にしていて、『墨汁一滴』の明治34年3月15日掲載の文章もいいので、ここに紹介します。 散歩の楽(たのしみ)、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見せ物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治に行く楽、紅燈酒美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯の腹を鼓する楽、道灌山に武蔵野の広きを眺めて崖端の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥の自由、寐返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠に行く自由、書籍を捜索する自由、癇癪の起りし時腹いせに外へ出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震という時に早速飛び出す自由。 ――総ての楽、総ての自由はことごとく余の身より奪い去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇しくして執筆の自由は殆ど奪ばれ、腸胃漸く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。 残された「飲食の楽」と「執筆の自由」を頼みに、子規は残された日々を生き続けました。その生命力を支えたのは「飲食の楽」でした。
2022.08.04
コメント(0)
惡句百首病中の秋の名殘かな(明治29) 三千の俳句を閲し柿二つ(明治30) 句を閲すラムプの下や柿二つ(明治32) 晩年の子規は、投稿された俳句を閲覧し、選句するのを日課としていました。病状が重くなると、そうした俳句を見るのも難しくなり、次第に俳句の投稿が枕元に貯まるようになりました。それを見かねた子規の母・八重は、「藤村」と焼印の押されたカステラの空き箱に入れました。 その様子を、高浜虚子は小説『柿二つ』に描写し、河東碧梧桐は『回想の子規』でそのことに触れています。 こうやっていると小さい一本の筆が重くなる。筆が重くなるというよりも腕が重くなるのである。痩せた自分の腕が重くなるのである。そういう時には投げるように畳の上にその筆を持った右の手を落す。と同時にまた草稿を持った左の手をも蒲団の上に落す。 草稿というのは新聞の文苑に出す俳句の投書である。少し怠っていると、来るに従って投げ込んで置く一つの投書函が忽ち一杯になる。それが一杯になると、あたかも桶にたまった一杯の水が添水(そうず)を動かすように、この病主人を動かしてその選抜に取りかからしめるのである。 一昨年の暮まではまだ時々は社に出勤することも出来たし、そうでなくっても机に凭れて仕事するくらいのことには差支えなかったのである。自然俳句の投書も、来るに従って見、見るに従って選句を原稿紙に書留めて置くくらいのことをそれ程労苦とは思わなかったのであるが、昨年になってから腰部の疼痛がだんだん激しくなって来て、固より出勤は思いもよらず、家に在って仕事をするのも大方は寝床の上にあって、まだ蒲団の上に机を置いてそれに凭れるくらいのことは出来ないことはないにしても、どちらかといえば仰臥していることを一番楽に感ずるようになったのである。「こんなに散らかっていてはしようがない」 と言つて老いた母親が大きなカステイラの空箱を持出して来て、それに俳句の投稿を纏めて入れたのはその頃からであった。その空箱にはふじむらと烙印(やきいん)がしてあった。病主人は情無いような腹立たしいようないらいらした心持をじっと抑えながら、初めて枕頭に置かれたその箱を空眼をつかって見た。 見渡したところ一つとして貧し気でない什器は無いのであるが、このカステイラの空箱も決して病主人の眼を楽しましめるものではなかった。その上自分の体のだんだん自由を欠いて来ることが事毎につけて情無かった。俳句の投稿を散らかさないために纏めて一つの箱に入れて置くということには異存の唱えようがないのであったが、唯それが自分の意思から出たので無く、また自分の手でなされたのでも無く、他人の手で容易に取り運ばれていつの間にか取り澄まして枕頭に置かれているということがじりじりと癇癪に障った。彼は何も言わずに唯じっとその箱を見詰めていた。ふじむらという変体仮名の烙印と暫く睨めっくらをしていた。鉛のような冷たい鈍重な心持ちが頭を擡げてきてそのいらいらした癇癪と席を取替えるまで。 それ以来、このふじむら氏は長く投書函の役目を勤めて今日に来っているのである。それも初めの間は少し投書がたまると、すぐ選句に取りかかるのであったが、それがだんだんと延び延びになって来て、今年の春頃からは一杯になるのを合図にして選句に取りかかる例になった。(高浜虚子 柿二つ) 年の暮と新年は新聞の厄月、雲州蜜柑は昔からの通り相場。アト四日、大晦日までの分は、まアどうやら埋め合わせるだけの原稿が出来たので、ホッと一息ついた処だった。今日は案外筆が進む。ついでに、新年の分も一、二回、墨をすり終わって、例の支那筆の小全豪を手にしたが、カタリと音をさせて投げ出した。 チラッと彩られた光線の閃きが、机の左手の下の方を掠めて過ぎた、そんな気がしたのだ。そこには、いつでも枕元に置いてある、カステラの空箱があった。二円内外のカステラの入っていたらしい、かなり大きな箱なんだ。レッテルもまだそのままにしてある。カステラは空なんだが、その中には、諸方から来る俳稿が入れてある。開封で来るのが多いので、封紙を取った中身だけを、来たとも何とも言わず、家人が入れて置くのだ。もう中身は大分溜まって、餡が食み出そうに、蓋が少しずっている程だ。(河東碧梧桐 回想の子規 徹夜) 「ふじむら」というと、本郷の「藤村」がまず頭に浮かびます。『東京百事便』には「藤村 本郷4丁目」として「練り羊羹をもって有名なり。そのほか大徳寺は茶人の好むものにて田舎饅頭は一般下戸の喜ぶ菓子なり」とあります。「藤むら」は、もともと加賀の菓子舗でした。加賀百万石の前田利家は、豊臣秀吉が催した茶会で供された羊羹に括目し、金沢の地で羊羹を創るよう、金戸屋の忠左衛門に命令しました。忠左衛門は、40年にわたる苦心の末、三代藩主・利常の時代にようやく独自の羊羹を完成させます。その時に利常から「濃紫の藤にたとえんか、菖蒲の紫にいわんか、この色のこの香、味あわくして格調高く、藤むらさきの色またみやびなり」との絶賛を受け、金戸屋は藩の御用菓子司となりました。 宝暦4年(1754年)、加賀十代藩主・重教の江戸出府に従い、金戸屋は江戸の加賀藩下屋敷の赤門(現東京大学の赤門)近くに店を構えました。その際、羊羹の色に因んで「藤村」と名乗り、店の屋号を「藤むら」としたのでした。 現在では、「藤むら」は店を閉めてしまいました。東京新聞編『東京の老舗』の中に「ようかんをはじめ和菓子ひとすじに精進し、おいしいものをお客様へということである。これを「藤むら」の正道と思い商売に励む当主昌弘さんの信条は、スモール・イズ・ビューティフル。単に小さいことに価値があるのではなく、それが美しく輝いていることに価値がある。商いを大きくせずに、大量に作らず、ていねいに手作りするからこそ価値があり、人を幸せにする味が生まれるという」とあります。とすれば「ふじむらと烙印(やきいん)がしてあった」というカステラの空き箱は、果たして「藤むら」のものでしょうか? 明治33(1900)年5月9日、子規の病床に原千代女(千代子)がカステラを土産に訪ねてきました。千代女は鋳金家の原安民の妻で、病床の子規を訪ねて来たのです。子規は、そのときの様子を 原千代子キノフ来リテクサグサノ話キゝタリカステラ喰ヒツツ 子規 という短歌にしたためています。 千代女の実家は神戸元町の貿易商「大島屋」で、筋向かいに今も続く神戸風月堂がありました。神戸風月堂は、東京の風月堂に弟子入りしていた初代吉川市三が明治三十(一八九七)年に創業している。子規の家に持参したカステラは神戸風月堂のもので、おそらく千代女が帰省の際に求めたものだろう。帰省の旅のできごとや神戸の様子などで話は多いに盛り上がったことが子規の短歌から想像されます。 子規がカステラを食べるのは、これが初めてではありません。記録を辿ると明治28年5月27日、神戸病院で牛乳、スープとともに食べています。残念ながら、子規が神戸病院にいた頃、神戸風月堂はまだ誕生していないため、千代女持参のカステラはそのときのものではありません。しかし、神戸への懐かしい思い出をも、そのカステラは届けることができたことでしょう。
2022.08.02
コメント(0)
大正2年の秋、漱石は竹の水墨画を始めました。橋口五葉から北京の画布を送られたので、吉田蔵沢ばりの竹の絵を描こうとしたのでした。 10月5日、絵はがきのやり取りをしていた湯浅廉孫に「過日、橋口五葉宅にて北京より取寄せたる画セン紙数葉もらい受け候ため、急にそれへ竹がかいて見たくなり、三枚ほど墨にて黒く致候、その一葉は津田青楓という画家に、一葉は伊予の村上霽月という旧友に、残る一葉を大兄に差し上げることに致候。小包にて差し出し候問、御落手願候。素人の筆ゆえ妙なものにて竹とも芦とも分らず候えども、まずこれでも記念にして貰えないと今後いつ約束を履行するや自分にも分りかね候ゆえ、一先ず送り置候。他日もっと上手になったら旨いものと交換可致候」、10月9日に村上霽月に宛てて、「この間、橋口五葉から北京の紙というのを六七枚貰い、それへ気紛れに墨竹を三枚ほど描き申候。そのうちの一枚を遥かに大兄に献上致候問御、笑納被下度候。三枚のうち一枚は津田青楓ヘ、一枚は伊勢の神宮皇学館教授湯浅廉孫へ、残る一枚を君に差上候。まあ三幅対を分けたようなものに候。君に上げる理由は、君があの小さい絵に興味をもっていたからでもあるが、何ということなしに君なら愛玩してくれるだろうという気がするからである。竹は小包にてこの手紙より後れて着きます」と書いています。 10月15日の青楓への手紙には「あれからまた竹の画を絹に描いて人にやりました」、12月8日には青楓に宛てて「先日は失礼高芙蓉の画を見てから僕も一枚かきましたが駄目です。……私は生涯に一枚でいいから人が見て難有い心持のする絵を描いてみたい。山水でも動物でも花鳥でも構わない。ただ崇高で難有い気持のする奴をかいて死にたいと思います。文展に出る日本画のようなものはかけてもかきたくはありません」とあります。 漱石が蔵沢の画をなぜ知っているかというと、子規から絵の素晴らしさを教えてもらったためでした。明治34年6月7日の『病牀六尺』には、子規の病牀周りに「何年来置き古し見古した蓑、笠、伊達正宗の額、向島百花園晩秋の景の水画、雪の林の水画、酔桃館蔵沢の墨竹、何も書かぬ赤短冊など」が置かれていると記しています。 吉田蔵沢は、松山藩士でありながら余儀に墨絵を描き、南画、特に墨竹の画で知られています。漱石は、明治43年に修善寺の大患の回復祝いとして森円月から蔵沢の竹の画をもらっていたのです。森円月は、正岡子規の門人で、初期の松風会に属していました。松山中学から同志社を経て、アメリカのエール大学に留学し、明治30年から松山中学校で英語の教師となっています。のちに兵庫県柏原中学校に移り、大阪時事新報の記者や東洋協会の雑誌の編集をしていました。 蔵沢の竹の画は『思い出す事など』に「町井さんはやがて紅白の梅を二枝提げて帰って来た。白い方を蔵沢の竹の画の前に挿して、紅い方は太い竹筒の中に投げ込んだなり、袋戸の上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白い香をしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、明日はきっと御雑煮が祝えるに違ないといって余を慰めた。(33)」とあります。 漱石は蔵沢の画のお礼として、東京にいる円月に「かねて御話しの蔵沢の竹一幅わざわざ小使に持たせ御届披見大驚喜の体、仮眠も急に醒め拍手踊躍致おり候。いずれ御目にかかり篤く御礼可申上候えども、不取敢御受取かたがた一札かくのごとくに候」という手紙を11月5日に送りました。 その日の日記には「〇森円月来る。疲労を言訳にして不会。一時間程して小使手紙を以て来る。蔵澤の墨竹の軸を添う。御見舞とも御土産とも致し進呈すとあり。早速床にかく」「〇病院へ入ったら好い花瓶と好い懸物が欲しいといっていたら、偶然にも森円月が蔵澤の竹をくれる。禎次が花瓶をくれるという報知をする。人間万事こう思う様に行けば難有いものである」と書き、11月12日には「蔵澤の竹を得てより露の庵」という句を詠んでいます。 翌年の1月30日には「蔵山と蔵沢の箱出来早速御届け下さいましてありがとう御座います、まだ外に両三個願いたいのですが、寸法もありますから今度御出の時にまた御面倒を願いたいと思います。紙は受取りました。そのうち何か書きましょう。霽月は清水老人から明月の書をもらつてくれました。私は代りに野田笛浦の書を送りました。明月はうまいものです。それを表装をしかえなければなりません。今度御目にかけたいと思います」という手紙を送っています。 漱石は、それからも何枚も竹の水墨画を描きました。 大正3年1月14日には、円月に「霽月にやった墨竹はその時はかなりの出来と思ったが、今はもう一遍見ないとなんともいえません。本人がいいと思って表装するなら格別それでなければそれには及びません。あなたに頼まれた達磨はあれぎりですが、外に色々かきました。私のあげてもいいと思うもののうちで思召に叶うものがあるなら達磨の代わりに上げてもよろしゅうございます」と手紙に書いています。
2022.08.01
コメント(0)
夏休みの書生になじむ船の飯(明治30) 松茸は茶村がくれし小豆飯(明治30) 飯くはす小店もなくて桃の村(明治34) 明治35年7月24日の『病牀六尺』で、子規はユニークな提言をしています。それは惣菜の調理を一手に引き受ける「炊飯会社」を興してはどうかというものでした。 全文を紹介すると次のようなものです。 家庭の事務を減ずるために飯炊会仕を興して飯を炊かすようにしたならば善かろうという人がある。それは善き考えである。飯を炊くために下女を置き竃(かまど)を据えるなど無駄な費用と手数を要する。吾々の如き下女を置かぬ家では家族のものが飯を炊くのであるが、多くの時間と手数を要する故に病気の介抱などをしながらの片手間には、ちと荷が重過ぎるのである。飯を炊きつつある際に、病人の方に至急な要事ができるというと、それがために飯が焦げ付くとか片煮えになるとか、(ご飯が)できそこなうようなことが起る。それ故飯炊会社というようなものが有って、それに引請けさせて置いたならば、至極便利であろうと思うが、今日でも近所の食物屋に誂えれば飯を炊いてくれぬことはない。たまたまにはこの方法を取ることもあるが、やはり昔からの習慣は捨て難いものと見えて、家族の女どもは、それを厭うてなるべく飯を炊くことをやる。ひまな時はそれでも善いけれど、入手の少くて困るような時に無理に飯を炊こうとするのは、やはり女に常識の無いためである。そんなことをする労力を省いて他の必要なることに向けるということを知らぬからである。必要なることはその家によって色々違うことは勿論であるが、一例を言えば飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折った方が、余程飯は甘美(うま)く喰える訳である。病人のあるうちならば病牀についておって面白き話をするとか、聞きたいというものを読んで聞かせるとかする方が余程気が利いている。しかし日本の飯はその家によって堅きを好むとか柔かきを好むとか一様で無いから、西洋の麺包(パン)と同じ訳に行かぬところもあるが、そんなことはどうともできる。飯炊会社がかたき飯柔かき飯上等の飯下等の飯それぞれ注文に応じてすれば小人数のうちなどはうちで炊くよりも、誂える方がかえって便利が多いであろう。(病牀六尺 明治35年7月24日) お手伝いさんを置かない一般的な家庭では、病人の世話などは家族の負担になります。用事ができると、食事をつくるのがおろそかになって、満足な料理ができません。そのために会社をつくって料理を届ければ、この問題は解消するというのです。 その会社がそれぞれの家の食の好みを把握しておけば、うちで食事をつくるより便利であると、現在のケータリング・サービスのような発想をしています。 明治34年1月31日発行の「ホトトギス」に掲載された「初夢」でも、観光ビジネスへの提言をしています。このなかで松山人の商売の下手さを揶揄する部分があります。 道後に名物がないから陶器を焼いて、道後の名物としようというのヨ。お前らも道後案内という本でもこしらえて、ちと他国の存をひく工面をしてはどうかな。道後の旅店なんかは三津の浜の艀(はしけ)の着くところへ金字の大広告をする位でなくちゃいかんヨ。も一歩進めて、宇品の埠頭に道後旅館の案内がある位でなくちゃだめだ。松山人は実に商売が下手でいかん。(初夢) 子規が結核に罹らず元気な体のままでいたら、新しいビジネスの発想で、日本のシステムを変えていたのではないでしょうか。
2022.07.31
コメント(0)
岩波書店が誕生したのは大正2(1913)年のことでした。創設者は33歳の岩波茂雄で、華厳の滝に身を投げた藤村操の同級生に当たります。漱石は、一高時代に茂雄を教えていました。 茂雄は、東京帝国大学哲学科選科を卒業すると、神田高等女学校で教師になりますが、自信を失して古本屋を開いたのでした。 茂雄は、古本の正価販売を行いました。当時の古着屋や古本屋は正礼など明示しておらず、その場での顧客との交渉で値段を決目ていました。ところが、岩波書店の古本は正礼販売だったので、最初は客とのトラブルもたえなかったようです。 茂雄は、漱石の木曜会にも顔を出しました。茂雄は店の看板を漱石に揮毫してもらおうと考え、安倍能成とともに「漱石山房」に伺います。すると、漱石はその場で快く書いてくれました。茂雄はこれを看板にして屋上に掲げますが、関東大震災で焼失してしまいました。続いて、茂雄は「先生の本を出版させてください」といい出します。それまで、漱石の著作は春陽堂と大倉書店から出されていましたが、そこへ、ずぶの素人が突然に出版を申し込んだのです。重ねて茂雄は、出版費用も借金したいといい出します。頼まれた漱石も、さぞかし困惑したことでょうが、漱石は岩波の頼みを聞き入れます。感激した茂雄は、最高の材料を使って立派なものをつくろうとしますが、漱石に行き過ぎをたしなめられてもいます。 漱石は、「別に君を疑うわけではないが、細君がああまでいうのだから、契約は契約としておいてくれたまえ」といい、書類と引換えの形で株券を渡したといいます。しかも、漱石は自分の方からほとんど自費出版のような形で刊行することで話をつけました。 妻の鏡子は、このことを『漱石の思い出』に「お貸しするのは差し支えないのですが、ともかく三千円といえば私どもにとっては大金です。なるほど夏目にも岩波さんにも当事者どうし双方まちがいがなければ何のことはないのでしょうが、人間のことですからいつ何時どういうことがないとも限らない。その時になって、万一おもしろくないことなどがあっては困るから、ともかくどちらかがかけても第三者にもわかるような契約をしていただきたいと、私が株券を持って出て、岩波さんを前にしてちょっと開きなおった形で申したものです」と書いています。 茂雄は、日本の活字文化そのものの向上を願っていましたから、自ら出版事業に乗り出したいと考えていたました。大正3年、漱石が『こころ』を朝日新聞に連載していた頃、『こころ』の出版を岩波書店でやらせてくださいと、頼み込みます。ところが、茂雄は出版の費用も、漱石からの借金をあてにしていたのでした。 そのため、『こころ』は、漱石の自費出版とし、費用はいっさい漱石が持ち、出た利益から岩波書店に謝礼を支払うことにしました。紙代から印刷代、製本代といった資金は、すべて漱石が持ちました。 当初から、書物の装丁に興味を持っていた漱石は、自らデザインを買って出ます。漱石が橋口貢から送られた中国の拓本の文字を、朱の地に白く抜きました。このデザインは、今も『漱石全集』に使われ続けています。『こころ』の装丁は、漱石自身もたいへん気に入り、売り上げも上々の滑り出し。岩波書店はこれを契機に、出版業に本格的に乗り出すことができるようになりました。 漱石は、それ以降の単行本の出版を、すべて岩波書店に任せています。
2022.07.30
コメント(0)
椰子の実の裸で出たる熱哉(明治26) 椰子の陰に語れ牡丹を芍薬を(明治26) 子規は〔『ホトトギス』第四巻第七号 明治34・4・25 二〕『くだもの』でヤシの実について語っています。 ○くだものと気候 気候によりてくだものの種類または発達を異にするのはいうまでもない。日本の本州ばかりでいっても、南方の熱い処には蜜柑やザボンがよく出来て、北方の寒い国では林檎や梨がよく出来るという位差はある。まして台湾以南の熱帯地方では椰子とかバナナとかパインアップルとかいうような、まるで種類も味も違った菓物がある。江南の橘も江北に植えると枳殻となるという話は古くよりあるが、これは無論の事で、同じ蜜柑の類でも、日本の蜜柑は酸味が多いが、支那の南方の蜜柑は甘味が多いというほどの差がある。気候に関する菓物の特色をひっくるめていうと、熱帯に近い方の菓物は、非常に肉が柔かで酸味が極めて少い。その寒さの強い国の菓物は熱帯ほどにはないがやはり肉が柔かで甘味がある。中間の温帯のくだものは、汁が多く酸味が多き点において他と違っておる。しかしこれは極ごく大体の特色で、殊にこの頃のように農芸の事が進歩するといろいろの例外が出来てくるのはいうまでもない。○くだものの大小 くだものは培養の如何によって大きくもなり小さくもなるが、違う種類の菓物で大小を比較して見ると、准くだものではあるが、西瓜が一番大きいであろう。一番小さいのは榎実位で鬼貫の句にも「木にも似ずさても小さき榎実かな」とある。しかし榎実はくだものでないとすれば、小さいのは何であろうか。水菓子屋がかつてグースベリーだとかいうてくれたものは榎実よりも少し大きい位のものであったが、味は旨くもなかった。野葡萄なども小さいかしらん。すべて野生の食われぬものは小さいのが多い。大きい方も西瓜を除けばザボンかパインアップルであろう。椰子の実も大きいが真物を見た事がないから知らん。 俳句を読んだ時も、「ホトトギス」に『くだもの』を書いた時も、子規はヤシの実を見たことがなかったのです。
2022.07.29
コメント(0)
かち栗もごまめも君を祝ひけり 明治34年 小説『土』や短歌で知られる長塚節は、子規の門人です。「貫之は下手な歌詠みにて古今集はくだらぬ集に有之候」で始まる『歌よみに与ふる書』に共感した節は、明治三十三(一九〇〇)年三月二十七日、子規庵を訪れますが、門前に人力車があったため、来客の邪魔をしてはならないとそのまま帰り、三十日の午前中、客の来ないうちに再び子規を訪ねました。 子規は、節が持参した季節はずれの丹波栗二升の土産に、「どのように保存するのか」と聞いたと『竹の里人』に描写されています。節がこの日に詠んだ歌は、四月二日の「日本」紙上に登場しました。節は、出来の悪さを恥じつつも喜んだといいます。 長塚節の実家は下総国岡田郡(現茨城県結城郡)国生村で田畑二十七町、山林四十町歩という大地主で、栗の季節になると子規に栗を送りました。 この年の九月二十七日、子規は長塚節宛てに「君がくれた栗だと思うとうまいよ」という礼状を送っています。『仰臥漫録』には「長塚の使、栗を持ち来る。手紙にいう、今年の栗は虫つきて出来わろし。俚諺に栗わろければその年は豊作なりと。果して然り云々。栗の袋の中より将棋の駒一ツ出ず(明治三十四年九月九日)」とあります。 子規に届いた栗は、その日の朝に栗小豆飯三椀、昼は栗飯の粥四椀、夕は煮栗となり、子規は一日中栗を食べています。そして、「栗飯や糸瓜の花の黄なるあり」「主病む糸瓜の宿や栗の飯」「栗飯の四椀と書きし日記かな」「栗出来ぬ年は五穀豊穣なりとかや」「真心の虫喰ひ栗をもらひけり」の句を詠んでいます。 節は、明治三十四年一月に雉、二月と九月に田雀、四月に木の芽、五月に茱萸、八月に梅羊羹、九月に栗と鴫、十二月に蜂屋柿、菓子、三十五年二月に兎、三月に金山寺味噌、四月に兎や醤など、六月に桑の実、七月にやまべと茱萸、八月に大和芋と、さまざまな山と里の幸を子規に送っています。 子規と節の親密さを見ていた伊藤左千夫は、『正岡子規君(※回想の子規)』で「先生には一人の愛子がいた。……その関係というものが、その交りの親密さというのがどうしても親子としか思われない点から、予は理想的に先生の愛子じゃと云うた訳である。……先生と長塚との間柄は親子としては余りに理想的で、師弟としては余りに情的である」と記しています。 子規が死を迎えた日、節は子規に栗を送ろうとしていました。「九月十九日、正岡先生の訃いたる、この日栗拾ひなどしてありければ」との詞書きで「ささぐべき栗のここだも掻きあつめ吾はせしかど人ぞいまさぬ」を含む三首の歌を詠んでいます。 例年のように、栗を子規に送ろうと山に入って急いでかき集めた栗でしたが、子規はもうこの世の人ではなくなってしまったのです。節は、やり場のない悲しさを栗の歌に託したのでした。
2022.07.28
コメント(0)
漱石は、油絵をやめて南画に傾倒していきます。 そのころのことを津田青楓が『漱石と十弟子』「へんちくりんな画」に記しています。 津田が自分の仕事の段落のついたある日行ってみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるような口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの。俺は日本画の方が面白いよ」そういって、半紙ぐらいの厚ぽったい紙に塗りたくった妙な画を出して見せられた。 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息している。そのまえに一匹の馬がいる。先ず馬と仮説するだけなんだが、四ッ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先ず馬に近いーーその馬が前脚を一つ折って、これから草の上に休もうとするようにも、またこれから立ちあがろうとするようにも見える。馬といい、人といい、まるで小学校の生徒の画のようだ。柳は無風状態で重々しくたれ下っている。全体が濁った緑でぬりつぶされている。柳の下にはフンドシを干したように一条の川が流れている。その川と柳の幹だけが白くひかって、あとは濁った緑。下手な子供くさい画といっても片付けられる。また鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、いってもみられる。先生はリアルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし(=幻影の盾)」「夢十夜」あんな作を絵築で出そうとしていられる。 漱石先生が「どうだ、見てくれ」といって出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は拶挨の代りに大きな口をあいて、「わはははははは」 先ず笑った。 先生も自分で、クスクスと笑われた。 その一枚は古ぽけた麦邸帽子をかぶった老人ーー頤に白い髯を一尺ばかり生やしてーー支那服ともアッパッパともいえない妙ちくりんなものを着て、樹下石上に脆座している聖人とも思える。養老院に収容されている爺々が、ひもじくって、もうこれからさきは歩けぬといって、石上に吐息をついているところのようにも思われる。 次には真黒な猫が眼だけ白くぎょろつかせて、木賊の中に変なかっこうをしてうづくまっている。眼があるから猫というんだが、青木ヶ原あたりにゴロゴロしている熔岩の塊だといってもいい。 次は柿の木に鴉が二羽休息している。柿が熟れて赤くトマト色をしたのが二つ三つ、バックは一面の竹藪。 どうもこれも鴉にしても拙なるもので、挨拶のしようがなかった。 津田はどういうものかその時、石涛の披璃版で見た長髯の老人が頭の中をかすめた。この老人は眼の立ち上る巌石とも山とも制定し難いなかに、一本の杖をついて立っている。裳裾がぽやけているので、立ちこめる靄の精のようにも見える。この人物も雅にして拙といっても差しつかえない。あるいは意ありて筆至らずともいえる。「石涛にもこんな老人がありましたね。」 といいかけて見たが、先生はなにも答えなかった。 石涍はまだ知られていなかったかも知れない。 すべてが薄ぎたなく、法も秩序もなく、滅多やたらに塗りまくってある。画家が仕事をしたあとの筆洗をぶちまけたような、分析の出来ない色が入り乱れている。 津田はそこで妙なことを考え当てた。画家の頭にしまいこまれている自然界の形象は、決して写真のような正確さではしまいこまれていない。馬の脚が四本あることは知っている。しかし四本の脚で馬があるく時は、四本がどんな順序で歩くかは、紙を展べて筆を持ってみたとき、意識の表面に浮かび上ってくる。牛や馬の眼が顔の線に沿っているのか、それとも顔の線と直角に位置しているかは、明確な答案を紙の上に現わすことができない。子供のかく人物は胴体から二本手が生え、同じく胴体から二本の足が生えている。子供の頭のなかはその通りに映像されているかも知れないが、大人にしても変りはない。大人は知識によって肩胛骨が脊髄につながっていることを知っているだけなのだ。大人は狡いから、いつのまにか惑鎚を知識にすりかえている。 だから大人のかく画は正確であればあるほど生きてこないし、子供の画はウソをかいていながら生きている。 漱石先生は、子供の態度でこの画をやられたというよりも、先生には子供らしい正直さが画に現われるのだ。 この画を見るものは一応大口を開いて笑って見せるが、笑いの中に真剣になり得る問題があった。「先生は僕の画をヂヂムサイ、ヂヂムサイといわれますが、先生の画だって随分汚ならしいですよ。第一こう塗りたくっちゃ色が濁って、何がなんだかわからないじゃありませんか」「うん、気に入らないから、無暗と塗りたくるんでーー下塗の絵の具がまざってくるんだよ」「この紙は土砂が引いてあるんでしょう」「なんだか知らないが、こんなのがあったから使ったんだ」「裏打をした陶砂引なんて、いけませんよ。晩翠軒で本式の紙を買ってきてーー水彩画のお化けでない南画をやってご覧になってはどうです」(漱石と十弟子 へんちくりんな画) 青楓が記している画は、「樹下石上に脆座している聖人」は大正2年の夏に描かれた「樹下釣魚図」、大正3年7月の「、木賊の中に変なかっこうをしてうづくまっている。眼があるから猫」というのが「あかざと黒猫」、「柿の木に鴉が二羽休息している」というのは、現在残されていないようです。
2022.07.27
コメント(0)
無花果ニ手足生エタト御覧ゼヨ(明治34) 明治34(1901)年9月9日、正岡子規の病床に川崎(のちに原)安民が訪れ、自ら鋳造した蛙の置物を渡しました。翌日、子規は『仰臥漫録』に、「この蛙の置物は前日安民のくれたるものにて安民自ら鋳たる也」と書き、絵を添えました。高さ7cmの実物大で正面と背面が描かれています。この句は、蛙の置物を説明するためのもので、なるほど、無花果のような形をしています。 安民は、香取秀真や画家の横山大観、下村観山らと同窓で、岡倉天心を師と仰ぎ、のちに天心が創刊した「日本美術」の編集をまかされて、日本美術社社主となりました。妻の原千代女は明治11(1878)年、神戸の大島家に生まれ、京都府立高等女学校から東京の女子美術学校に進み、父方の祖父に当たる「原」の姓を継ぎました。子規からは俳句を、落合直文からは短歌と国文学を学び、明治40(1907)年に鋳金家の川崎安民と結婚し、養子に迎えました。安民は60歳、千代女は86歳で天寿を全うしています。 無花果は、クワ科の落葉小高木で、小アジア原産です。日本に伝えられたのは江戸時代で、『大和本草』には「寛永年中(1624〜44)西南洋の種を得て長崎に生う。今諸国にこれあり」、『庖廚備用倭名本草』には「その肉虚軟なるをとりて塩につけ、あるいはおしひらめ日に乾かして果に食す。熟すれば紫色なり。柔燗にして味わい柿の如し。核(たね)なし。元升曰く長崎にこの果あり。俗にナンバンカキという」と記されています。また「蓬莱柿」という名前でも呼ばれていました。 無花果はペルシャ語の「アンジール」が中国で「映日果(インジェクォ)」となり、日本に伝わって「イチジーク」と発音されるようになったという説があります。また、果実の発達が早く、1か月で熟すことや1日に1果ずつ熟すことから「一熟(いちじゅく)」と呼ばれ、それが転訛ともいわれます。「無花果」と表記されるのは、一見すると花が咲かずに実がなるところからきています。 無花果は、西洋において人間ととても関わりの深い果物でした。『旧約聖書』では、知恵の実を食べたアダムとイブは、自分たちが裸であることに気づき、無花果の葉をつなぎ合わせて腰に巻いたとされています。また、もともと知恵の木は無花果のことを指していましたが、のちにリンゴに変わったといい、欲望の象徴ともされていました。 古代ギリシアでは、乾燥させた無花果が甘みを感じさせるものとして珍重され、哲学者のプラトンも大好物だったといいます。 江戸時代に日本に入ってきた無花果は、習俗の中にも組み入れられました。 無花果の葉は切れ込みが多く、山伏や修験者が持つ羽団扇の形に似ていることから、呪力を持つと信じられました。また、枝や葉を折って出る乳液を痔の薬としたり、葉を乾燥させ煎じて飲むと解熱剤としての効能があるとされ、疫病にかからなくなるともいわれます。 「無花果」と書くことから、出世しない、子孫が途絶える、家の前に植えると病人が出るなどともいわれ、「縁起が悪い」木とされます。これは、無花果の根が広がりやすいことや、大きな葉が陽を遮ることが嫌われた理由で、「屋敷に無花果を植えるな」ともいわれています。 一方、木を植えてから2年ほどで結実することから、「子宝に恵まれる」ともいわれます。 まさに「鰯の頭も信心から」。無花果をどう捉えるかで、吉か凶かが判断されるということでしょう。 無花果や八百屋の裏にまだ青し(明治27) 無花果や桶屋か門の月細し(明治27) 黒板塀無花果多き小道かな(明治27) 無花果の鈍な枯れ樣したりけり(明治27) 無花果の落ちてもくれぬ家主哉(明治33)
2022.07.26
コメント(0)
漱石は、津田青楓との交流をきっかけに油絵を描こうと思い立ちます。 イギリスから帰った漱石は、一志水彩画や水彩の絵葉書に夢中になりましたが、いつの間にかそのマイブームは終わっていました。青楓は、漱石の絵心に火をつけたのです。 大正元年12月2日の青楓宛の手紙で、漱石は「画はその他何も描きません。山水の方を仰に従い土手を不規則にし山を藍にし、屋根を暗い影をつけてますますきたなくしました。寺田が見て面白いが、近くで見るとびほう百出で、きたなくて見るのが厭になるといいました。私はあれをあなたの画の下の襖ヘピンで張りつけて、次の間の書斎から眺めてそうして愉快がっています。すると小宮が褒めます。岡田がほめます。実に天下は広いものであります」と書いています。 大正2年7月20日、漱石は絵を描こうと決意します。そこで、青楓に「油絵の絵具を買うことが出来ます。いつか一所に行って買って下さいませんか。油絵をかいてみようという心持はまだ起らないのですから、決して急ぐ必要はないのですから、あなたのいつでも気の向いた時で結構であります」と青楓を急かしました。そして二人で絵の具を買いに行ったらしく、25日にはお礼の手紙を送りました。「先達中より絵の具などのことにて種々御配慮を煩わし恐縮の至に候。何か御礼を致そうと思い候えども、これという思いつきもなく候。この間古道具屋であなたの賞めた皿五枚を差上ることに致しました。わざわざ持って行くのも臆劫故、今度御出の節献上致度と存候。あの箱の上書には乾山向付と有之候が、乾山がこんな皿を作るものにや、または皿の種類の名にや不明に候」。 この経緯を青楓は『漱石と十弟子』「源兵衛の散歩」に認めています。 「先生は古いものがお好きですね。穴八幡の下に光琳風の二枚折がありますが、先生お買いになってはどうです」「いくらだ」「十五円とか言っていましたが、紫陽花や立葵なんかの草花が描いてあるんですが、多分、其一とかいう光琳の弟子でしょう」「散歩に出て、そいつを見ようか」 それから漱石先生と津田の二人は散歩に出かけた。津田はその日の日記を次のように書いた。 今日漱石先生と源兵衛を散歩す。その前、穴八幡前の古道具屋に寄り、その節見ておいた其一の二枚折屏風を先生にすすめて買わせる。十五円をなにがしかまけさせる。 源兵衛という処は、生垣をめぐらした家が多く、なかには藁葺の大きな屋根の家があり、欅の大木が屋根にかぶさって、田舎だか町なのか分らない。コスモスの花や、葉鶏頭の眼のさめるような色が、垣根のあいだから、ちらちら見える処があった。 漱石先生は源兵衛という名前が面白いといわれるから、私の親爺の名前と同じですというと、君の親爺の商売は何だといわれるので、一寸厭だったが思い切って、花屋です、店では花屋で奥では生花の先生です、親爺は店に出ると花源の親爺で、源兵衛さん、源兵衛さんと人は呼ぶんですが、奥へ行くと一葉先生で、風雅な風采をして、急須からしぽり落した茶ばかりすすっています。それだから僕を学校へもやってくれないで、小学校を出ると丁稚にやらされて、それがいやだから家を飛び出して、それからは孤児のように、そこいらをうろつぎまわって、自分でやっと今までこぎつけたのです。百合子は親爺の秘蔵児で可愛がられてすきなようにして育ったものですから、私のような人間とはなかなかうまくゆきっこありませんよ。 そんな話をして、二人で生垣のあいだをぶらぶら歩いていた。先生がふん、ふんいって聞いていられるものだから、調子に乗っていろんなことを、喋舌ってしまった。そしてしまいに、先生は何を思われたのか、俺も画をかくから、油絵の道具を一式そろえて買ってきてくれなんて、私と競争でもするような意気込みだった。(津田青楓 漱石と十弟子 源兵衛の散歩) 漱石の油絵は数が少なく、青楓の文にある絵は「あじさい図」でしょうか。青楓の指導も虚しく、油絵は性に合わなかったのかやめてしまいます。そして、南画のような絵を描き始めるのです。
2022.07.25
コメント(0)
漱石が再び絵筆をとり始めるのは、大正時代になってからのことでした。 大正元年の11月の日記(日不明)には「○十一月 山水の画と水仙豆菊の画二枚を作る。山水の賛に曰く 山上有山路不通。柳陰多柳水西東。扇舟盡日孤村岸。幾度鵞群訪釣翁」とあり、水彩画で描かれた南画「山上有山図」で青い山の向こうに薄い高山のシルエットを描いたものです。 11月18日に津田青楓へ宛てて「拝啓。私は昨日三越へ行って画を見て来ました。色々面白いのがあります。画もあれほど小さくなると自身でもかいて見る気になります。あなたのは一つ売れていました。同封は今日社から送って来ましたから一寸ご覧に入れます。書いた人は丸で知らない人です。今日縁側で水仙と小さな菊を丁寧にかきました。私は出来栄の如何より画いたことが愉快です。書いてしまえば今度は出来栄によって楽みが増減します。私は今度の画は破らずに置きました。このつぎ見て下さい」という手紙を送っています。 また、11月25日には沼波瓊音宛てに「私も作ばかりに熱心になりたい。または勉強したいのですが少々頭の具合やからだの具合であんなつまらない画などをかきます。あなただけなら御目にかける筈ではなかったのですが野上君が画をかくためついあなたの前まで恥を曝しました」と書いています。 このころの漱石の絵を野上豊一郎は月報の『南山松竹図』に次のように書いています。 はなのうちはうまく行かないので、よく自分で破いていたが、次第に思うように描けて来ると、破るどころではなく、自分で見て楽しんでいた。それでも画のわからないやつが来ると、どんどん捲いてしまったりもした。猫の画を見て、虎のようですね、といったりする者もあった。そんな時はまたそれ相当の受けこたえをしていた。菊とか竹とか文人画風の小品をよく描いたが、私も竹の画を一枚もらったが、その種類の画でうまいと思ったのはなかった。のんきで、気持ちはいいのだけれども、どととなく間がぬけて感心しなかった, 私は先生の画の賛美者ではあったが、文人画風の画に対してはあまり賛辞は奉らなかった。私が賞嘆するのは先生の半折の南画風の山水である。そのうちの二三点の如きは幾らほめてもほめすぎることはないと信じている。その種類の半折を先生は八枚描いた。「南山松竹図」がその最初のものであり、そうして、私にいわせれば、その最上のものであった。「南出松竹図」はとうとう私がもらったが、あとの七枚ば亡くなるまで大事に先生自身が保存してあった。(野上豊一郎 南山松竹図) 「山上有山図」は、いわば水彩画で南画を練習していた画で、そのために豊一郎は絵としてはその中に入れていないようです。
2022.07.24
コメント(0)
羊羹の甘きを好む新茶かな(明治34) 花早き梅をあはれむ春の雪(明治34) 寒園に梅咲く春も待ちあへず(明治34) 明治34年8月10日、子規は長塚節へのハガキで「水戸の名物梅羊羹難有候」とお礼を告げました。 この年、節は子規に様々なものを送っています。子規は、そのお礼を送っています。1月30日には「雉一羽おくり下されありかたく候。ビステキのように焼てたべ候」、2月には「田雀とやら難有候。おとといもたべ候。きのうもたべ候。今日もたべ候」、4月13日には「一、木の芽 二折。右たしかに受領忝存候」、5月20日には「苗代茱萸難有候。あれは普通の苗代くみにあらず。あるいは西洋ぐみというものか」、9月20日には「栗ありがたく候。真心の虫喰ひ栗をもらひたり。鴫三羽ありがたく候。淋しさの三羽減りけり鴫の秋」、12月11日には「蜂屋柿四十速に届き申候。一つも潰れたる者無之候。右御礼かたがた」、12月22日には「菓子水戸より相とどき候。御礼かたがた受取御報まで」とあり、節の住む水戸ならではの贈り物ばかりです。 水戸銘菓の「梅羊羹」は、天保13(1842)年に水戸9代藩主・徳川斉昭によって作られた日本三名園の一つである水戸偕楽園にちなみ、梅の名所ならではのお菓子です。偕楽園は、「民と偕(とも)と楽しむ」という趣旨で、約13haの周内に、100種300本の梅が植えられています。 創業嘉永5(1852)年という亀印製菓は、水戸藩御用達の菓子舗で、蜜漬けした赤紫蘇の葉で白餡が入った薄紅色の求肥を包んだ銘菓「水戸の梅」がよく知られています。もともとは、2代目が考案した練った白餡を紫蘇の葉でくるみ「星の梅」と呼ばれていましたが、3代目のときに「水戸の梅」に改名したといいます。紫蘇の葉の利用は、亀屋が漬物店であったことから、梅干し用の紫蘇の葉を使ったといわれます。 他にも梅肉に砂糖、寒天を加えてゼリー状に延ばし、短冊に切った2枚の竹皮に薄く挟んだ「のし梅」もあります。病床でじっとしていなければならない子規に、節のふるさと・水戸の香りを届けようという気持ちが感じられます。
2022.07.23
コメント(0)
夏痩や牛乳に飽て粥薄し(明治30) 明治三十五(一九〇二)年一月二日、子規は唐紙を伸ばして福寿草を描き、それにココアの詩を添えた。食べ物をねだる言葉と心のつぶやきの羅列が、まるで呪文のように心に残ります。 ココアを持て来い 無風起波 ココア一杯飲む 小人閑居不善ヲナス 菓子はないかナ 仏ヲ罵ツテ已マズ又組ヲ呵セントス もなかではいかんかナ いかん塩煎餅はないかナ ない 越州無字 ンー 打タレズンバ仕合セ也 左千夫来ル 咄牛乳屋 御めでたうございます 同 健児病児同一筆法 空也せんべいを持て来ました 好魚悪餌ニ上ル 丁度よいところで 釣巨亀也不妨 空也煎餅をくふ 明イタ口ニボタ餅 ……………… ……………… 空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ来ラントス ……………… ココアを持て来い………蜜柑を持て来い 蜜柑ヲ剥ク一段落 ンーン 何等の平和ゾシカモ大風来ラントシテ天地静マリカへル今五分時ニシテ猛虎一嘯暗雲地ヲ捲テ来ラン アナオソロシ 子規はココアをよく飲見ました。『仰臥漫録』の(明治三十四年)九月では、二日に間食で牛乳一合ココア入り、七日は朝に牛乳半合ココア入り・間食で牛乳半合(ココア入り)、十一日の朝に牛乳一合ココア入り、十七日から十九日の間食に牛乳七勺(ココア入り)、二十二日の間食に牛乳一合(ココア入り)二十三日の間食に牛乳五合(ココア入り)、二十五日の朝に牛乳(ココア)、二十七日の間食に牛乳半合(ココア入り)とある。ココア以外に紅茶を入れた日(十二日・十三日)もあり、牛乳の味を子規は好きではなかったようです。 高浜虚子は、子規が神戸病院へ入院したとき、「私は喀血さえ止まればいいとその方のことばかり考えていたので、厭な牛乳なんか飲まなくっても大丈夫だと思っていたのだが(『子規居士と余』)」と語る子規を記しています。 明治時代になって牛乳は健康飲料として乳幼児や病人に飲用されはじめるが、あまり好まれませんでした。明治三十年代になって、匂いや味をごまかすためココアや紅茶を牛乳に入れるようになります。子規は食生活で流行を先取りしています。 国産ココアは、大正八(一九一九)年の森永製菓が発売したミルクココアが嚆矢です。それまでのココアは、輸入品に頼らざるを得ませんでした。ココアパウダーは、オランダの化学者コンラッド・バン・ホウテンが一八二八年にココアバターの一部を搾油する方法で、世界第一号の特許を獲得しています。子規はおそらく「バンホーテン」のココアを使っていたに違いありません。
2022.07.22
コメント(0)
饅頭買ふて連に分かつやお命講(明治33) 子規が日清戦争の従軍記者として遼東半島に向かいましたが、金州に上陸した時、すでに日本と清の交戦は終わっていました。子規の金州滞在は、明治28年4月15日から5月10日までで、金州を離れた日に日清講和条約が批准されました。 この時、近衛師団の軍医部長だった森鷗外も金州に駐屯していました。暇を持て余していた子規と鷗外は、俳句についての意見を戦わせています。鷗外はこのことを「但征日記」に「正岡常規来り訪う俳譜の事を談ず」(5月4日)、「子規来り別る。几董等の歌仙一巻を手写して我に贈る」(5月10日)と記しています。『子規全集』月報7の宮地伸一著「子規と鴎外との出会い」には、「今度の戦争に行って、非常に仕合わせなのは正岡君と懇意になったことだ」と鷗外が柳田國男に語っていたとあります。 子規も、門人たちに書きとらせた「病床日誌」明治28年6月5日に「いちごを食い、頗る壮快なるおももちなり。曰く、いちごとりとは中々おもしろき名なり。小説にすれば森鷗外の好む所か……森に金州にて会いし話をせしや。……中略……金州の兵站部長は森なりと聞き訪問せしに、兵站部長には非ず、軍医部長なりし。これより毎日訪問せり」と書かれています。 帰国後、鷗外は子規との交遊を深め、明治29年の正月3日。子規庵の発句始に、鷗外が初めて顔を出しました。鳴雪、瓢亭、虚子、可全、碧梧桐、漱石らが参加した会の季題は「あられ」で、鷗外は「おもひきつて出で立つ門の霞哉」と詠み、最高点を獲得しました。この年、鷗外は「めさまし草」を創刊したため、子規一門も俳句や評論を寄稿しました。子規と鷗外の親交は、明治32年6月に、鷗外が小倉師団に転勤するまで続いています。 学生時代、子規は鷗外の作品に対して、いい感情を持っていませんでした。明治24年8月23日の漱石から子規に宛てた手紙には「鷗外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き申訳もこれなく、これも小子嗜好の下等なる故とひたすら慚愧(ざんき)致居候。元来、同人の作は僅かに二短篇を見たるまでにて、全体を窺うことかたく候得ども、当世の文人中にては先ず一角あるものと存居候いし、試みに彼が作を評し候わんに、結構を泰西に得、思想をその学問に得、行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したるものと存候。右等の諸分子あいまって、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思われ候。もっとも人の嗜好は行き掛かりの教育にて(たとい文学中にても)種々なるもの故、己れは公平の批評と存候ても他人には極めて偏屈な議論に見ゆるものに候ば、小生自身は要所に心酔致候。心持ちはなくとも大兄より見れば作用に見ゆるもごもっとものことに御座候」とあり、鷗外の著作に対して、子規は否定的だったことがわかります。 鷗外の好物は、饅頭のお茶漬けでした。森茉莉著『鷗外の味覚』によれば「私の父親は変った舌を持っていたようで、誰がきいても驚くようなものをおかずにして御飯をたべた。どこかで葬式があると昔はものすごく大きな鰻頭が来た。……中略……その鰻頭を父は象牙色で爪の白い、綺麗な掌で二つに割り、それを又四つ位に割って御飯の上にのせ、煎茶をかけて美味しそうにたべた。鰻頭の茶漬の時には煎茶を母に注文した。子供たちは争って父にならって、同じようにしてたべた。薄紫色の品のいい甘みの餡と、香いのいい青い茶〈父親は煎茶を青い分の茶と言っていて、母親も私たちもそう言うようになっている〉とが溶け合う中の、一等米の白い飯はさらさらとして、美味しかった。これを読む人はそれは子供の味覚であって、父親の舌はどうかしている、と思うだろうが、私は今でもその渋くいきな甘みをすきなのである。たしかに禅味のある甘みだ」と書いています。 甘い物好きの漱石は、鷗外の文体からそれらの嗜好を感じ取ったのかもしれません。 鷗外のもう一つの好物は、「焼き芋」でした。鷗外は、宮内省図書頭のころ、焼き芋をとりよせて食べることがあり、職員が「閣下は焼き芋がお好きですか」と訊くと「焼き芋は消毒してあって、滋養に富んでいるからなあ」と答えたといいます。この辺りは、子規も漱石も、鷗外と好みが共通します。 ちなみに、鷗外が明治23年から24年まで住んだ家は、明治36年3月3日から明治39年12月26日まで漱石が過ごした本郷区駒込千駄木の家と同一てす。漱石は、この家で「吾輩は猫である」を書き始めました。鷗外と漱石が住んだこの家は、現在、愛知県の明治村に保存されています。
2022.07.21
コメント(0)
名物の饅頭店や枯榎(明治33) 明治26年9月23日、子規は日本新聞の記者・山田烈盛とともに、吾妻橋から隅田川畔に至り、百花園、今戸の渡し、待乳山を過ぎて、人力車で上野へ行き、汽車に乗って王子に赴き、飛鳥山に登りました。これは日本新聞の記者が「天然界」「実業界」「風俗界」のそれぞれを取材して掲載しようというもので、『三方旅行』と名付けられました。子規は「天然界」の部分を担当し、「水晶花児」というペンネームとなりました。 これから紹介するのは、今戸の渡しの部分です。この企画には、テレビのバラエティ番組のように、ある地点に到達すれば渡されていた手紙を開いて、その通りにしなければならないというルールがありました。この地の名物を食べろというのですが、ありきたりのものではダメで、しかも開封以前に食べたものも不可となります。どこで食べてもいいというのですが、行き過ぎてしまったために、なかなかの難題となりました。 更に墨堤を下りて今戸の渡に到る、彼岸参りの老爺老婆は七草見物の紳士令嬢とともに群がり来りて渡舟の中甚だ賑わし、舟彼岸に着けば密封訓令の第二号を披(ひら)くの時は来りたり、謹んで開封すれば 名物を求めてこれを食すべし。名物は平板なるものを避け、勉めて珍奇のものに就くべし。 開封以前に食したる名物は無効とす。 名物は何処にて食するも可なり。再び後に引き返すも妨げなし。しれども糧食の故を以て逗撓(とうとう)するは軍機を誤るの恐れあり。将軍のために取らざるなり。 と嗚呼これれ何たる訓令ぞや、徒らに余等を苦めんとするものなり、芋に蜆汁は今更に功を奏するに由なく、桜餅に言問団子は空しく対岸の垂涎となる、しかれどもこれらの難題はついに河童の何とかの如きのみ、根本鶴屋の米鰻頭は古きものの本に残りてその影を隠し、鯉の大七有明楼はいづくの程にや今は跡かたをも留めず、今戸橋の紫蘇巻はなお名物たるを失わねども、ついにこれ平板卑俗のもののみ、公子花児の口に上るべくもあらず、二人相携えて真(=待)乳山に上り、社頭に踞して四方を見れば、墨江は長うして帯の如く、波光樹間に瀲灔たり、牛島は黒うして牛の如く、江上の白帆と相掩映す、余ら今この好風景に到して姻を吸い霞をすう、腹満ち心爽にして羽化登仙せんとするの思いあり、天然界の名物この煙霞に非ずして何ぞ。(三方旅行 第一群3) この中に、今戸・浅草・向島の名物が登場しています。「芋」に「蜆」はありきたり、「桜餅」「言問団子」はとうに対岸の店となりました。「鶴屋の米饅頭」や、向島の名店「大七」や今戸橋傍にあった「有明(ゆうめい)楼」も今はなく、「紫蘇巻き」も陳腐なものに思えて紹介できません。それで、二人は待乳山に登って美味しい空気を吸い、自然界の名物を楽しむのでした。 「鶴屋の米饅頭」は、山東京伝が20歳の時に書いた黄表紙『米饅頭始』に登場します。腰元のおよねが町人の幸吉と駆け落ちをして、苦労をしながら待乳山の麓で、鶴屋の屋号で店を出し、米饅頭を売るという話を書きました。しかし、その35年後に書いた『骨董集』では「ある説に、江戸の名物米饅頭の根元は、浅草聖天金竜山麓鶴屋なり、慶安の比、この家の娘におよねといえるあり、この女始めてこれを製す、およねがまんじゅうといえり、この説うたがわし。延宝のころまでは辻売りなり。米をよねといふ。米(よね)まんじゅうというも、米のまんじゅうという義にて、女の名によりてよびたるにはあらざるべし、常のまんじゅうは麺(むぎのこ=麦粉)にてつくれば也」と書き、自らの黄表紙はフィクションであることに言及しています。 『嬉遊笑覧』には「○米饅頭は小麦まんじゅうに分つ名也。米というよりその形をも米粒の形に作りしなるべし」とあり、『江戸鹿子(江戸惣鹿子)』には「浅草金竜山(=待乳山)、ふもとや・鶴屋」と書いてあったと記しています。 これらのことを受けて、三田村鳶魚は『娯楽の江戸 江戸の食生活』で、「創製者はあるにしても、誰だか知れず、面々に持えて売ったかも知れぬ。鶴屋は場所がよいので名高くなったから、根本とか元祖とかいいもし、いわれもするようになるかも知れない。何の証左があるのでもない以上、創製者を決定することは出来まい。(柳亭)種彦は、露店図について、江戸八景の余り古くない折本に、待乳山の暮雪を描いたところに、聖天の表門、石坂へ登ろうとする左角に、米饅頭の店がある、この店は昔からここにあって、往来へ持ち出しても売ったのであろう、といっている。京伝の採録した露店の図にも、金竜山という扁額を懸けた鳥居の前に店が出ている。種彦の説明は、この図にも適用されると思う。けれども、京伝は、(戸田茂睡の)『紫の一本』の「聖天町にてよねまんじゅうを商う根本は、鶴屋という菓子屋也」というのを引いて、天和になって一軒の店舗を構えたのであろう、といい、延宝までも露店であったことを主張した」と書いています。 また、『江戸惣鹿子』にあるように、「ふもとや・鶴屋」とあるのは、五代将軍網吉の娘で紀州の網教に嫁いだ鶴姫の名を間することを憚って「ふもとや」と変えたのではないかと推理しています。しかし、この「ふもとや・鶴屋」は、享保末になくなってしまいました。 三田村鳶魚は、こうした由来に続き、「関東では、地方によって、今日も米饅頭を私娼の異名に呼ぶところがある。最初から女郎饅頭の意味であったためかは知らぬが、米饅頭という言葉は、早く食物と私娼と両方を意味するように遣われた」と書き、饅頭ということも、ある意味で女をいう言葉である。『吉原失墜』(延宝二年版)に、私娼を列挙じて『本所にてけまんぢう』といい、三座の家狂言の猿若にも『ムムよねとは女郎のことか、成程これで船まんじゅうのいわれが知れた』という。後者は、米饅頭が廓の遊女であるから、船中の遊女が船饅頭だと合点したのである。この用例は、古いところのみでなく、江戸の末までに及んだ」と書き、「食品の米饅頭は享保の末に絶えても、食品でない方の浅草町の米饅頭は、その名を替えて、天和・享保・寛政・天保の大掃蕩にも亡びず、江戸を跨いで、明治・大正の御代まで残っている」とまとめています。
2022.07.20
コメント(0)
饅頭の湯気のいきりや霜の朝(明治27) 若尾瀾水の『三年前の根岸庵』に子規の母親が饅頭づくりに失敗した話がでてきます。 夜食が了ってから紅茶の御馳走が出た、子規先生曰く今晩の山はウマウマとしくじったそうな。おぼろ鰻頭というのを拵らえるところであったが、色をつけることからすっかり不手際だったと菓子の話はじまる。すべて母堂は盤へもった鰻頭をもって出られた。ひどく失敗ったから食ないで見ている方がよいと言はれたから誰れも初めのうちは手を出すものがなかった。子規先生は自らドレドウいう風にできているかと一つ喰って見られた様子であったが、こりゃまずいという、不味いといわれるとどの様に不味いか喰って見たくなると見えて」門人たちが次々に饅頭へ手を出した。(若尾瀾水 三年前の根岸庵) この饅頭が、どのように不味かったかということは書かれていません。おぼろ饅頭は、江戸時代後期の百科事典『守貞謾稿』に、「皮を厚くし、蒸してのち、薄く表皮をむきされば、皮はだ羅紗のごとくになる。これをおぼろ万十という」とあります。中のあんがうっすらと見える、おぼろげな淡い色からこの名前がつきました。 子規の母が失敗したおぼろ饅頭を紹介した若尾瀾水は、高知出身の俳人です。子規の死後、子規追悼の俳誌「木兎(づく)」に、「子規子の死」を発表しました。そのなかで門人たちを「先生の名をだに署したるものならば、如何なる拙悪の句文といえど、勿体げに首をひねりて感心す」る「お菰連(乞食たち=品性の卑しい人たち)」と断じ、子規の性格を「甚だしく冷血」「狭量、嫉妬、我執」、同郷人だけを大事にする「党同伐異」と書き、子規の希望は「あらゆる手段をもって自己の美点のみを歴史に留めんと焦燥する」、「先生の文学上に置ける功績は人の驚嘆しつつ説くところなれども、予をもって見れば、シカク光栄なるものや否や疑わし」とまで書きました。ただ、これらの欠点にも増して「勤勉、忍耐、不屈、独行、秩序、義務などの諸美徳有し、健全なる趣味識を文界に覚醒した」と褒めてはいるものの、瀾水の文は門人たちから総すかんを食います。そのため、中央の俳壇にはいられなくなり、帝大を卒業してからは郷里に帰りました。 若尾瀾水は、昭和四十年に刊行された『俳論集』で、『「子規子の死」の反響』という文で「間違ったことをしたと思っていない」と書いています。師の死から一ヶ月も経たないのに、悪口を書いたということが責められているのですが、そのことには少しも気がつかなかったようです。失敗した彩りの悪い饅頭を墓前に備えたことが責められたのでした。 瀾水は、子規の性格について、美点もあったが欠点もある普通の人間であったと言っているわけで、それをあげつらって、一々反論するのも大人気ないような気がします。子規の業績に対する瀾水の論評に対する反駁が必要であったにも関わらず、飄亭も子規派の人達もこの点について、黙して語ることはありませんでした。 子規氏の死んだのは三十六歳であったが、俳句その他の事業は病気に罹って後の仕事で、即ち病苦中の産物である。そうしてその見識や文才や刻苦勉励の事実は多くの人の尊敬を得て、誰れからも侮蔑や悪言を受けなかった。もっとも陰では異説を唱える者もあったろうが、正面では氏を攻撃する者はまずなかったように思われる。しかるに高知の人で、若尾瀾水氏というが、最初は子規氏の句会にも出て我々も知っていたのだが、法科大学を卒業した頃であろう、但馬で発行した、某俳誌上に長文を載せて子規氏を散々に罵った。これは何時か子規氏を訪ねた際、氏の態度が倨傲であったということが原であって、かようなことに及んだのらしい。しかし瀾水氏も正直な人間で、その後岡野知十氏に対しても、最初門前払いを喰ったという怒りから、ある雑誌で散々攻撃したが、一度知十氏に歓迎されたので、忽ち角を折って、反対に賞讃することにせなった。しかるに惜いかな、子規氏は生前に氏と握手して旧交を復さずにしまったことである。爾来、瀾水氏は久しく俳句をやめていたかと思うが、最近郷地の高知で「海月」という雑誌を発行することになって、もともと正直を知っている寒川鼠骨氏も何か寄与する所があり、また私も輪番の俳句選者を担当することになっている。(内藤鳴雪 鳴雪自叙伝19)
2022.07.18
コメント(0)
橋口貢は『漱石全集』の月報に『漱石先生の画と書」を描いています。そこには「あれは明治三十六年春、英国留学から帰朝された頃と憶えているが、その頃夏目先生は本職の駄学講師の余暇に、盛んに水彩画を画いておられた。これは洋行中ロンドンで洋画の大家浅井忠氏と知り合いになったり、また芸術雑誌ステュディオのエキストラ、ナンバー『ウォーター、カラー』などを持ち帰られたが、それらを見たりして、刺激を受けられた結果だと思うが、盛んに水彩画を画いて、水彩画絵葉書などを私のととろへ送ってよこされた。当時私も水彩画を画いていたので、それに対して、やはり水彩画絵葉書を画いて送り、互いに父換したものである。ところが、夏目先生の絵葉書たるや、私製のもので寸法がいい加減なものだったので、葉書の規定の寸法に相違し、しばしば不足税をとられた。それで行き合った時、『毎々絵葉書を送ってもらってありがたいが、時々不足税をとられるのは閉口するよ』と話したら、『そうか、それはちっとも知らなかった、どうもすまないことをした』といって、笑ったことがある」と書いています。 「スチュディオ The Studio 」はイギリスの美術・工芸・建築雑誌で、1893年に創刊されました。ラファエル前派の世紀末芸術やアール・ヌーボーが多く紹介された雑誌で、漱石は定期購読していました。 漱石が、イギリスから帰って自作の絵葉書を描いたのは明治37年1月3日の橋口貢宛に、木々に囲まれた四角い池、またはつくばいに落ちる竹の水の水彩画で、(全集のモノクロ画像なのでよくわからないのです)に「人の上春を写すや絵そら事」ごとの句が添えられているものです。 次に書いたのは、この年の6月4日に野村伝四宛にチューバを吹いている男の足元に犬、後ろに太ったイギリス人の婦人がいて「僕の気炎を吐いているところだよ」、イギリスの猿回しの画に「夏目講師気炎を吐きすぎて免職猿回しにとなるところ」と書いたペン画を送っています。 7月24日には、橋口貢宛にバルザック風のハゲた髭面の男を描き、「名がなる故、三尺以内に近づくべからずと送りました。 7月には貢の弟五葉宛に木の植わった家の窓から覗く女性の姿を水彩で描き、「絵はがきをありがとう。あの色が気に入ったが全体あれは何の絵ですか。ちょっと検討がつかない。これは久しぶりでかいたら無暗にきたなくなった。夜だか昼だか分からないから(春日影)とかいた」とあります。 この絵で調子が出たのか、8月3日には貢宛にイギリスの風景画の影響を受けた絵はがきを4枚送りました。15日には今度は買った素人っぽい絵はがきを送っています。27日には松、29日には花の画を送っています。また、8月のいつかは不明ですが、イギリスの家を書いて「An Inpressionist(印象派)」と描いています。 一つ一つ紹介しても、なかなか伝わらないのでこのくらいにしますが、明治38年5月8日のイギリス人婦人の絵を最後に、絵はがきを描くのをやめています。
2022.07.17
コメント(0)
漱石が、絵を描こうと思いたつのは、明治36年10月の頃からです。 このころの漱石は、神経衰弱の様相を呈していて、家族に当たり散らしていたころです。確かに、絵や陶芸や文章などのクリエイティブな作業は、精神的な安定を図れることがありますから、効果があったのかもしれません。妻・鏡子は『漱石の思い出』に次のように書いています。 三十六年の暮れごろからしきりに何かを描いていたようですが、私がいちばん不思議に思うのは絵のことです。 十一月ごろいちばん頭の悪かった最中、自分で絵の具を買ってまいりまして、しきりに水彩画を描きました。私たちがみても、そのころの絵はすこぶるへたで、何を描いたんだかさっぱりわからないものなどが多かったのですが、それでも数はなかなかどっさりできましたようです。もちろん大きいものもないようでして、多くは小品ですが、わけても多いのははがきに描いた絵です。橋口貢さんと始終自筆の絵はがきの交換をしたものらしく、いっぞや橋口さんのところからそのアルバムを拝借してたくさんあるのに驚きました。 絵は死ぬまで好きで描きましたが、もっとも中ほど気が進まなかったり忙しかったりで描いたり描かなかったりいたしましたが、不思議なことにその後も頭が悪くなると絵を描いたのはおもしろいことだと思います。自分では何をしてもおもしろくなく、ひとつくさくさした気持ちを絵でも描いてまぎらそうというのでしょうが、現に宅に残っている南画の密画などは、そういう時に幾日も幾日もかかって描いたもので、こり出すと明けても暮れてもこれでいいというまで、紙のけばだつまでいじっているのだから、根気のいいものです。死ぬ年などもずいぶん「中央公論」の滝田樗陰さんなどがこられて描かされていましたが、この時もだいぶあたまのわるい時でした。南画の密画は大正二年前後のもので、後で自分で表装をして箱書きまでしたのですが、そのころもいけなかったのです。 もっとも絵を描いておれば、きっとあたまの悪い機嫌の悪い時だったときまっているのではありません。ずいぶん上機嫌でおもしろそうに楽しんで描いていたこともあったのですが、力作の密画に限ってあたまの悪い時にできたのは妙なことだと今でも思っております。(22小康) このような水彩画への挑戦は、処女作『吾輩は猫である』にも登場させています。ただし、苦沙弥はそのうちに絵を描くのをやめてしまうのですが・・・。 吾輩の住み込んでから一月ばかりのちのある月の月給日に、大きな包みを提げてあわただしく帰って来た。何を買って来たのかと思うと水彩絵具と毛筆とワットマンという紙で今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた。果して翌日から当分の間というものは毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいている。しかしそのかき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。当人もあまりうまくないと思ったものか、ある日その友人で美学とかをやっている人が来た時に下のような話をしているのを聞いた。「どうもうまくかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが自ずから筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる」これは主人の述懐である。なるほどいつわりのない処だ。彼の友は金縁の眼鏡越しに主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔以太利(イタリー)の大家アンドレア・デル・サルトがいったことがある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」「へえアンドレア・デル・サルトがそんなことをいったことがあるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」と主人はむやみに感心している。金縁の裏には嘲るような笑いが見えた。 その翌日吾輩は例のごとく椽側に出て心持善く昼寝をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後で何かしきりにやっている。ふと眼が覚めて何をしているかと一分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを極め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に揶揄せられたる結果としてまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩はすでに十分寝た。欠伸がしたくてたまらない。しかしせっかく主人が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛棒しておった。彼は今吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを色彩っている。吾輩は自白する。吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一色が違う。吾輩は波斯(ペルシャ)産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入の皮膚を有している。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。その上不思議な事は眼がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから盲猫だか寝ている猫だか判然しないのである。吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれではしようがないと思った。しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催うしている。身内の筋肉はむずむずする。もはや一分も猶予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大だいなる欠伸をした。さてこうなって見ると、もうおとなしくしていても仕方がない。どうせ主人の予定は打ち壊したのだから、ついでに裏へ行って用を足たそうと思ってのそのそ這い出した。すると主人は失望と怒りを掻き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴った。(吾輩は猫である1) この当時、友人や門人たちと自作の絵ハガキをやりとりしています。相手は主に橋口貢や寺田寅彦、野間真綱、田口俊一らで、『吾輩は猫である』が評判になってくると、次第に水彩画から遠のいてきます。 絵葉書は、逓信省発行の既成のものしかなかったのですが、明治33年から私製ハガキの発行が認められるようになったため、雑誌が付録で絵ハガキをつけたり、カラフルな印刷の絵葉書が登場し、ブームになっていたのでした。 漱石は、明治40年2月15日の「新潮」に掲載された談話『漱石一夕話』の「僕の水彩画と書斎」でこの当時のことを次のように語っています。 自分の水彩画か、あれは『猫』を書いている頃に勉強したが、この頃では少しも閑がないので全くお廃しだ。何しろ訪客だ、原稿だ、学校の仕事だというので、水彩画なんかやってる閑がなくなったのさ、それにどうも性質(たち)がよくないというのだし、自分も少々呆れ返ッたから廃したよ。だが捨てたものでもないと思ったのは、この間引き越しの手伝いに来てくれた人に、自分の画帖をやってそれから後にその人の家に行って見ると、ちゃんと額にして恭しく掛けてるじゃないか。見ると柳は柳らしく見えるし、家鴨は家鴨に見える。こんなことなら廃めないでもよかろうかと、我ながら感心したよ。(漱石一夕話 僕の水彩画と書斎)
2022.07.16
コメント(0)
煎餅をくふて鳴きけり神の鹿(明治28) 明治30年8月4日、子規は日記に「大阪水落露石より寝惚煎餅を贈る。この日九十四度熱さに堪えず」と書いています。九十四度は華氏なので、摂氏34度というところでしょうか。 この「寝惚煎餅」とは、大阪の天神橋筋にあった「上原商店」の名物で、卵煎餅の一種です。「寝惚煎餅」は、狂歌や洒落本、漢詩文、狂詩などを刊行した大田南畝(蜀山人)で、寛政の改革を批判して「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の狂歌で知られますが、この歌で幕府に目をつけられたため、狂歌の筆を置いて、随筆などを執筆しています。というのは、南畝は幕府の官僚で勘定所に勤務していたためです。 この南畝のペンネームに「寝惚先生」というのがあり、幕府の御用で大阪に出向いた際、天神橋の寄宿先であった杉谷家に煎餅のつくり方を教えたというのです。確かに、南畝は「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」でコーヒーを飲んだ体験を書くなど、茶屋茶菓子に造詣が深い人物でもあります。 南畝が伝えた茶菓子の煎餅の製造方法は杉谷家に伝えられ、南畝の死後二十年ほど経った嘉永元(1847)年に、杉谷伊八郎が南畝ゆかりの煎餅を売り出し、暖簾に「ねぼけ」と書いたのが「寝惚煎餅」の「ねぼけ堂」だというのです。 現在、天神橋筋に「ねぼけ堂」はありませんが、この製法を引き継いだ弟子たちの手で、「寝惚煎餅」が売られています。その製法を引き継いだ店は、大阪府守口市、静岡県藤沢市、熊本県八代市、香川県三豊市にあります。 秋もはや塩煎餅に渋茶哉(明治34) また、「道後煎餅」は松山道後の名物です。明治15年創業の玉泉堂本舗がつくっていますが、「道後煎餅」と「潮煎餅」の二種類のみ。鉄の焼き型に小麦粉、砂糖、卵を溶いた材料を流し込みます。湯玉のような形の「道後煎餅」は玉の石を模し、「潮煎餅」は明治時代の煎餅を復刻したものです。「道後煎餅」より少し堅めで、ほんの少し塩をきかせています。「道後煎餅」は注文をしてから1ヶ月以上待たなければならないほどの人気です。 晴 日記のなき日は病勢つのりし時也 午前七時家人起き出ず 昨夜俳句を作る 眠られず 今朝は暖炉を焚かず 八時半大便、後腹少し痛む 同 四十分 麻痺剤を服す 十時 繃帯取換にかかる 横腹の大筋つりて痛し この日始めて腹部の穴を見て驚く 穴というは小き穴と思いしにがらんど也 心持悪くなりて泣く 十一時過 牛乳一合たらず呑む 道後煎餅一枚食う 十二時 午餐 粥一碗 鯛のさしみ四切食いかけて忽ち心持悪くなりて止む 午後一時頃 牛乳 始終どことなく苦しく、泣く 午後四時過 左千夫蕨真二人来る 左千夫紅梅の盆栽をくれ蕨真鰯の酢(すし)をくれる/くさり酢という由 五時 大便 蕨真去る 晩飯 小田巻(饂飩) さしみの残り 腐り鮓 金山寺味噌(長塚所贈)うまく喰う 七時頃麻痺剤を服す 夜 牛乳 煎餅 蜜柑 飴等 左千夫歌の雑誌の事を話す 九時頃去る それより寝に就く 睡眠善き方也 この頃の薬は水薬二種(一は頭のおちつくため)(仰臥漫録 明治35年3月10日)
2022.07.15
コメント(0)
煎餅賣る根岸の家や福壽草(明治33) 漱石や子規、森鷗外が通ったという煎餅屋が団子坂にある「菊見せんべい」です。明治八年創業の老舗で、団子坂の菊人形見物に出かける人たちを目当てにつくられた四角い形の煎餅です。江戸時代末期から明治時代にかけて、団子坂の園芸業者たちは「菊人形」をつくり、大変評判になりました。子規はこの「菊人形」を「自來也も蝦蟇も枯れけり團子坂」という国仕上げています。また、漱石も『三四郎』で広田先生の言葉を借りて、菊人形を褒めています。 「菊人形はいいよ」と今度は広田先生が言いだした。「あれほどに人工的なものはおそらく外国にもないだろう。人工的によくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要がある。あれが普通の人間にできていたら、おそらく団子坂へ行く者は一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四、五人は必ずいる。団子坂へ出かけるにはあたらない」(三四郎 4) 明治33(1900)年3月30日、長塚節が子規庵を初めて訪ねた時に、栗とともに土産としたのが、茨城のおおぎやがつくった「松皮煎餅」だといいます。節は、幼い頃からこの店の煎餅が好きだったようです。親鸞上人が下津間(しもつま)小島の草庵で茶菓を喜んだという故事から、ケシの実を振って表面は焦がし、裏面は松の皮を模して白く焼き上げた「松皮煎餅」が考案されました。 最後に、子母沢寛の『味覚極楽』に鉄道省事務官の石川毅氏にインタビューした「日本一塩煎餅」というのがありましたので、ここに紹介します。 塩せんべいの食いまわりをはじめてから、もうかれこれ三十年にもなった。九州から北海道とせんべい一枚食うためにずいぶん苦労もしてみたが、結局、これは江戸を中心の関東の物となるようである。京大阪から関西へかけては、見てくれの綺麗なものもあるけれども、要するに子供だまし、第一あの薄黄色いようなあの辺で使う醤油の匂いが承知しない。前歯でガリリッとかんで、舌の上へ運ぶまでに、めためたになってしまうようでは駄目なのである。舌の上でぴりっと醤油の味がして、焼いたこうばしさがそれに加わって、しばらくしているうちに、その醤油がだんだんにあまくなる。そして噛んでいる間にすべてがとけて、舌の上にはただ甘味だけが残るようでなくてはいけない。 この塩せんぺい、日本国中、埼玉県草加の町が第一。噛んでずいぶん堅い、醤油もロへ入った時はぴりッとする位だが、そのうまみは、ちょっと説明が出来ない。舌の上へざらざらが残るの、噛んでいるうちにめためたになるのということは、決してないのである。近くの粕壁もいい。これは流山あたりの醤油のいい関係も一つだと思っている。草加あたりになると父祖代々せんべいを焼いている家がある。それだから自然町へ伝わった一種の焼き方のコツというようなものがあると見えて、むやみに焼けて焦げになっていたり、丸くあぶくのようにふくれ上ったりはしていない。 東京の塩せんべいにはろくなものはない。食べた後でみんな.さらざらと舌へのこったり、歯の間へ残ったりする。芝の神明前に「草加せんべい」という看板が出た。草加の人が焼いているとのことだったが、やはり駄目である。むしろの上で干したせんべいは、焼いてもその香がついていていけない。やはり竹あみの上へ一枚一枚吟味したのでなくてはいけない。五反田駅の「吾妻」というせんべい屋は、まず東京では僅かに気を吐いている位のものだ。 塩せんべいで酒を飲むのはなかなかうまいものである。私はこれで「黒松白鷹」をやったり、「大関」をやったり、「銀釜」といろいろやってみたが、おかしなことに、一番ぴたりとうま味の合うのは広島から来る「宮桜」という割に安い酒である。もう五年ほどこの酒でせんべいを食っている。番茶でやるのもよろしい。しかしよく、煎餅を舌の上へのせて、そのままお茶をのむ人があるが、あれは却ってうまくない。せんべいはせんべいですっかり食べてその残りの味が舌の上で消えるか消えないかという時に、お茶をこくりとやるのである。これも上茶はいけない、味のあっさりした番茶に限る。(子母沢寛 味覚極楽)
2022.07.15
コメント(0)
陽炎やはじけてひぞる塩煎餅(明治27) 煎餅売る門をやぶ入の過りけり(明治27) 煎餅の日影短し冬の町(明治29) 明治22(1889)年11月10日、この年の5月に喀血した子規は、叔父の大原恒徳宛に「今日午後一時より出掛け病院へ到着之節は二時頃なりき、煎餅とお多福の菓子を十銭許り買ひ持ち行き、それは二人で大方平らげ申候。御容体は見掛けには格別相違無御座候」と、以前と変わりなく煎餅を食べ続けている日常を綴っています。 明治27(1894)年3月上旬、子規は上京してきて子規の家に仮寓している高浜虚子を伴い、日光街道の千住から草加までを目的なしに歩きました。 この紀行は3月24日の「小日本」に『発句を拾ふの記』として発表されましたが、煎餅の句はありません。 亀戸木下川に梅を観、蒲田小向井に春を探らんは大方の人に打ち任せて、我は名もなき梅を人知らぬ野辺に訪わんと同宿の虚子をそそのかして薄曇る空に柴の戸を出ず。 梅の中に紅梅咲くや上根岸 松青く梅白し誰が芝の戸ぞ 板塀や梅の根岸の幾曲り 千住街道に出ずれば荷馬乗馬肥車郵便車我も我もと春めかして都に入る人都を出ずる人。 下町や奥に梅さく薬師堂 虚子 肥舟の霰んでのぼる隅田かな 同 大橋の長さをはかる燕かな 燕やくねりて長き千住道 市場のあとを過ぎて散らばる菜屑を啄む鶏を鷲かしつつ行くに固より目的もなき旅一日の行程霞みて限りなきこの街道直うして千住を離れたり。茶屋に腰かけて村の名を問へば面白の名や。 鶯の梅嶋村に笠買わん 野道辿れば上州野州の遠山わずかに雪を留め、左右前後の村々梅あり藪あり鶏犬昼中に聞ゆ。 いたずらに梅老いけりな薮の中 雨を呼ぶ春田のくろの鴉かな 子を負うて独り畑打つやもめ哉 武蔵野や刈田のくろに水ぬるむ 虚子 鍋さげて田螺ほるなり京はづれ 同 妹姉の土筆摘むなり馬の尻 同 ささやかなる神詞に落椿を拾い、あやしき賤の女に路程を尋ね草加に着きぬ。 巡礼や草加あたりを帰る雁 梅を見て野を見て行きぬ草加迄 八つ下る頃午餡したためて路を返し西新井に向う道すがらの我一句彼一句数えがたし。 ほろほろと椿こぼるる彼岸かな 一村の梅咲きこぞる二月かな 栴檀のほろほろ落つる二月かな 武蔵野や畑打ち広げ広げ 茨燒けて蛇寒き二月かな 虚子 切られたる榎芽を吹く二月かな 同 大師堂を拝みて堂の後の栴園を続り奥の院を廻りて門前の茶歴に憩う頃春の日暮れなんとす。 乞食の梅にわずらう余寒かな 虚子 蝶ひらひら仁王の面の夕日かな 同 しんかんと椿散るなり奥の院 同 梅散て苔なき庭の夕寒し 日影薄く梅の野茶屋の余寒かな 夜道おぼろに王子の松字亭を訪う。 春の夜の稲荷に隣るともしかな 最終汽車に乗りて上野の森月暗く電気燈明かなる頃山づたいに帰り来る夜の夢、寝心すやすやとして周公もなければ美人もなし。(発句を拾ふの記) 草加せんべいのルーツには諸説ありますが、日光街道草加松原にあった茶屋で、おせんさんという女性のつくる団子が評判でした。しかし、売れ残った団子を川に捨てていたところを見た侍が、「団子を捨てるとは、なんとももったいない。団子をつぶして天日で乾かして、煎餅として売ってはどうか」と教えられ、それが日光街道の名物になったといわれています。円形の「草加せんべい」は、醤油をなんども塗って焼き上げた煎餅で、風味とともにその香ばしい香りが漂う、煎餅屋が並んだ草加の道は「草加せんべい醤油のかおり」として、かおり風景100選に選ばれています。
2022.07.13
コメント(0)
煎餅かんで俳句を談す火鉢哉(明治33) 明治16年10月、子規は神田の共立学校へ入学し、大学予備門をめざしました。この学校の同期に、秋山真之、南方熊楠、菊池謙二郎らがいます。 翌年9月、子規は東京大学予備門予科(明治19年4月、第一高等中学校に改称)を受験します。試しに受けたところ、見事合格していました。予備門の同級生には、夏目漱石、南方熊楠、山田美妙、芳賀矢一ら、後に作家や学者として活躍する人物たちがいたのです。 余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であったと思う。この時、余は共立学校(今の開成中学)の第二級でまだ受験の力はない、ことに英語の力が足らないのであったが、場馴れのために試験受けようじゃないかという同級生がたくさんあったので、もとより落第のつもりで戯れに受けてみた。用意などは露もしない。ところが科によると存外たやすいのがあったが、一番困ったのは果たして英語であった。活版摺の問題が配られたので恐る恐るそれを取って一見すると、五問ほどある英文の中で自分に読めるのはほとんどない。第一に知らない字が多いのだから考えようもこじつけようもない。この時、余の同級生は皆片隅の机に並んで座っていたが(これは初めより互いに気脈を通ずる約束があったためだ)余の隣の方から問題中のむつかしい字の訳を伝えて来てくれるので、それで少しは目鼻があいたような心持ちがして、いい加減に答えておいた。その時、ある字が分からぬので困っていると、隣の男はそれを『幇間』と教えてくれた。もっとも、隣の男も英語不案内の方で、二、三人隣の方から順々に伝えて来たのだ。……今になって考えてみるとそれは『法官』であったのであろう、それを口伝えに『ホーカン』というたのが『幇間』と間違うたので、法官と幇間の誤まりなどは非常の大滑稽であった。それから及落の掲示が出るという日になって……行ってみると意外のまた意外に及第していた。試験受けた同級生は五、六人あったが、及第したのは菊池仙湖(謙二郎)と余と二人であった。この時は、試験は屁のごとしだと思うた。……しかし余のもっとも困ったのは、英語の科でなくて数学の科であった。この時数学の先生は隈本(有尚)先生であって、数学の時間には英語よりほかの語は使われぬという規制であった。数学の説明を英語でやるくらいのことは格別むつかしいことでもないのであるが、余にはそれが非常にむつかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない。とうとう学年試験の結果幾何学の点が足らないで落第した。(『墨汁一滴』6月14日) 子規没後の明治44年、大博物学者となっていた南方熊楠のもとを、子規門人の河東碧梧桐が訪ねました。熊楠は、共立学校当時を思い出し、「当時、正岡は煎餅党、僕はビール党だった。もっとも、書生でビールを飲むなどの贅沢を知っておるものは少なかった。煎餅を囓ってはやれ詩を作る句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕が各々一方の大将をしていた(河東碧梧桐著『続三千里』)」と碧梧桐に語っています。「煎餅を囓ってはやれ詩を作る句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕が各々一方の大将をしていた」と語り、腹の底から出るような声でハッハッと笑ったというのです。 当時正岡は煎餅党、僕はビール党だった。もっとも書生でビールを飲むなどの贅沢を知っておるものは少なかった。煎餅を齧ってはやれ詩を作るの句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕とは各々一方の大将顔をしていた。今の海軍大佐の秋山真之などは、始めは正岡党だったが、後には僕党に降参して来たことなどもある。イヤ正岡は勉強家だった。そうして僕等とは違っておとなしい美少年だったよ。面白いというても何だが、今に記憶に存しておるのは、清水何とかいう男の死んだ時だ、やはり君の国の男だ、正岡が葬式をしてやるというので僕等も会葬したが、どこの寺だったか、引導を渡して貰ってから、葬式の費用が足らぬというので、坊主に葬式料をまけて呉れと言ったことがあった、と腹のド底から出るような声でハッハッと笑う。(河東碧梧桐『続三千里』) 熊楠は、予備門進級試験の落第を機に中退し、アメリカに渡ってミシガン州農業大学に合格しましたが、大学には行かず、動植物の観察と読書にいそしみます。やがて、新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表。アメリカではサーカス団、イギリスでは大英博物館で東洋図書目録編纂係として働きますが、大英博物館で日本人への人種差別を受け暴力事件を起こしてクビになり、明治33(1900)年に日本に帰ってきたのです。 子規は、煎餅を愛していました。碧梧桐は、『子規を語る』で、次のように書いています。「それはそうと、きょうはお土産を持って来た」と、うしろに手を廻して、三人の中へ出したのは、見覚えの岡野の紙袋だった。岡野の一番の大袋で、いつか茶話会か何かの時に、私が使いに往って抱えて帰ったそれと同じ袋だった。袋は三人鼎坐の中に、不釣合に大きな尻を据えていた。「煎餅というやつは、話しながら食ってるとなんぼでも際限のないもんじゃナ、イイエそうぞナ。きょうは財布の底をはたいて来たんだが、何だか袋ばかり大きいようじゃナ」 子規は弁解するような口吻で、袋の胴中をパリパリ二つに裂いた。今まで立っていた袋が、ガラガラ音を立てつつ横倒しになった」 晩年の子規著『明治卅三年十月十五日記事』には「紅茶を命ず。煎餅二三枚をかじり、紅茶をコップに半杯ずつ二杯飲む。昼飯と夕飯との間に、菓物を喰うか或は茶を啜り菓子を喰うかするは常の事なり」「母は忽然襖をあけて、煎餅でもやらうか、という」と記されていて、煎餅を常に食べていたことがわかります。 また、喀血後でも「○そういう家族気分の書生に、何らの接待も不用であったのだが、きっと茶をくまれる。茶菓子を出される。茶菓子は大抵岡野の煎餅だった。丸い豆入り、細長い芭蕉の葉の形をした、それらだった。いつもかわらない煎餅、というような気もするのだった。この煎餅も、お客様が一つつまむ前に、病人の手の出るのを例とした」と書いています。 このことから、子規が常食していたのは岡野の煎餅であることがわかります。平出鏗二郎著『東京風俗志』には、東京の代表的な菓子として「下谷岡野(栄泉)の最中」、汁粉屋として「根岸の岡野」が挙げられているのです。 明治34(1902)年9月上旬の『仰臥漫録』に限っても、3日は昼に煎餅三枚、4日は間食に塩煎餅3枚、7日は朝と間食に塩煎餅3枚ずつ、10日の間食で煎餅4、5枚と記録されています。 碧梧桐らの記憶によると、子規が食べていたのは「豆入り、細長い芭蕉の葉の形(『子規を語る』)」をした「岡野」の煎餅です。平出鏗二郎著『東京風俗志』には、東京の代表的な菓子として「下谷岡野(岡埜栄泉堂)の最中」、汁粉屋として「根岸の岡野」が挙げられています 明治30年刊行の金平春夢著『東京新繁盛記』に「岡野」として下谷区坂本町の住所で「この家は上等が視野のうち屈指のものにて、その名は汎く都下の人に知られたり。名代は最中にして、かつまた一万以上の多数なる饅頭も容易に引き受け、少しもその請負時間を間違えざるはこの家に限るという世評なり。またこの家は親類間の交際和熟して一致団結ともに一家の利を計るという。浅草駒形町、本郷森川町、下谷広小路、神田旅籠町にその支店あり」と書かれ、薬研堀にある支店の「岡埜栄泉堂」が紹介されています。おそらく子規は、本郷の支店を利用したと考えられるのですが、この時代、岡野にとって煎餅は本業の和菓子の余技であり、京橋の「松崎」が煎餅専門の菓子舗として知られていました。01
2022.07.12
コメント(0)
漱石が水彩画を描き始めたのは、ロンドンから帰国してしばらくしてからのことでした。漱石は、幼い頃から絵を眺めるのは好きでしたが、実際に絵を描いたことはないようです。子規から送られた絵に対して「拙である」と感想を述べています。 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つにつれて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵をはたいて中を検べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はそのうちから子規が余に宛て寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一纏に表装させた。 画は一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極きわめて単簡な者である。わきに「これは萎み掛かけた所と思い玉え。まずいのは病気の所為だと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活けて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子ガラスの瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法を、この方面に向って適用する事を忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。 東菊によって代表された子規の画は、拙まずくてかつ真面目まじめである。才を呵かして直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸たると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとりすくんでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味もきいた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免かれがたい。 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉とらえ得た試しがない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(子規の画) また、修善寺の大患から蘇り、すぐに書いた『思い出す事など』には、幼い頃の絵の思い出が綴られています。幼い頃から漱石は南画に惹かれていたようです。 小供のとき家に五六十幅の画があった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干の折に、余は交る交るそれを見た。そうして懸物の前に独りうずくまって、黙然と時を過すのを楽みとした。今でも玩具箱をひっくり返したように色彩の乱調な芝居を見るよりも、自分の気に入った画に対している方が遥かに心持が好い。 画のうちでは彩色を使った南画なんがが一番面白かった。惜しいことに余の家の蔵幅にはその南画が少なかった。子供のことだから画の巧拙などは無論分ろうはずはなかった。好き嫌いといったところで、構図の上に自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれで嬉しかったのである。 鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの弊はあったろうが、名前によって画を論ずるのそしりも犯さずにすんだ。ちょうど画を前後して余の嗜好にのぼった詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきか悪にくむべきかいずれとも意見を有していない。) ある時、青くて丸い山を向うに控えた、また的礫と春に照る梅を庭に植えた、また柴門の真前を流れる小河を、垣に沿うて緩くめぐらした、家を見て――無論画絹の上に――どうか生涯に一遍で好いからこんな所に住んで見たいと、傍にいる友人に語った。友人は余の真面目な顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうにいった。この友人は岩手のものであった。余はなるほどと始めて自分の迂濶をはずると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。 それは二十四五年も前のことであった。その二十四五年の間に、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。崖がけを降りて渓川へ水を汲みに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。ことに病気になって仰向に寝てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。 すると小宮君が歌麿の錦絵を葉書に刷ったのを送ってくれた。余はその色合の長い間に自ずと寂たくすみ方に見惚れて、眼を放さずそれを眺めていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生れたいとか何とか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬことが書いてあったので、こんなやにっこい色男は大嫌いだ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然の香が好きだと答えてくれと傍のものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕元へ坐って、自然も好いが人間の背景にある自然でなくっちゃとか何とか病人に向って古臭い説を吐きかけるので、余は小宮君を捕つらまえて御前は青二才だと罵った。――それくらい病中の余は自然を懐しく思っていた。(思い出す事など24) ただ、ロンドン留学時代、漱石は美術館を頻繁に訪れて、絵画を楽しみ、デザイン雑誌「ステューディオ」を眺めて、絵を楽しんでいました。 漱石が、絵を描こうと思いたつのは、明治36年10月の頃からです。
2022.07.11
コメント(0)
全1973件 (1973件中 1-50件目)