2006年03月14日
XML
馬の顔
 東京市電気局が、まだ東京鉄道会社だつた頃の車掌運転手の制帽は、白い線を巻きつけて、技術が熟練して来ると、その線を一本二本と殖やしてゆくので、よく第一高等学校のそれと間違へられたものだ。
 学習院の平素《ふだん》の制服といふのは、釦《またん》のない詰襟《つめゑり》のホツク留《どめ》だが、加之《おまけ》に帽子の徽章《きしやう》が桜の花になつてゐるので、どうかすると海軍士官に間違はれる。
 その学習院に洋画の教師を勤めてゐる岡野|栄氏《 さかえリ》が、ある日の事青山三丁目から電車に乗り込んで吊り皮に垂下《ぷらさが》つてゐると、直前《すぐまへ》に腰を掛けてゐる海驢《あしか》のやうな顔をした海軍大尉が、急に挙手注目して席を譲つて呉れた。
 岡野氏も画家《ゑかき》の事だから、画家《ゑかき》に無くてならない暢気《のんシご》さ加減は十分持合せてゐた。
 「大尉め、どこか近くの停留場に下りるんで、婦人《をんな》の乗客《のりて》もあるのに態々《わさ/\》画家《ゑかき》の俺を見立てて譲つて呉れたんだな。若いのに似合《にあは》ぬ怜悧《りこう》な軍人だ、さういへばどこか見所がありさうな顔をしてるて。」
 岡野氏はこんな事を思ひながら、一寸顎をしやくつて、その儘《まゝ》そこへ腰を下した。
 だが、その軍人は次の停留場でも、そのまた次ぎの停留場でも下りなかつた。それを見た岡野氏は、やつと自分の服装に気が付いてはつと思つた。
 「成程俺を海軍軍人に見立てたんだな。相手が大尉だから先づ中佐格かな。」

 それ以後お礼心の積りで、馬でも描く折には岡野氏はいつもその海軍士官の顔をモデルに取る事を忘れないやうにしてゐる。結構な心掛で、詩人ダンテがその傑作のなかで、因業《いんごふ》な家主を地獄に堕《おと》した事を考へると、岡野氏が馬の顔を士官に似せたのは思ひ切つた優遇である。何故といつて、馬は士官のやうに制服制帽で人を見分けるやうな愚《ぱか》な真似はしないから。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006年04月16日 21時19分37秒
コメント(0) | コメントを書く
[リンクのない新着テキスト] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

愛書家・網迫

愛書家・網迫

コメント新着

北川 実@ Re:山本笑月『明治世相百話』「仮名垣門下の人々 変った風格の人物揃い」(10/04) [狂言作者の竹柴飄蔵が柴垣其文、又の名四…
井上清志@ Re:山本笑月『明治世相百話』「十人十色茶人気質 明治時代大宗匠連の面影」(10/05) 「山本 麻渓」で検索したところ初めてヒ…
愛書家・網迫 @ ありがとうございます ゼファー生さん、ありがとうございます。 …
ゼファー生@ お大事に! いつもお世話になります。お体、お心の調…
愛書家・網迫 @ わざわざどうも 誤認識だらけで済みませんでした。お礼が…

カレンダー


© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: