時々鬱々日記

時々鬱々日記

チチエセ(5)、カボチャ


>            カボチャ
>                     >
>  毎年8月1日になると、こんがりと焼きあがった黒っぽいカボチャの
> ことを思い出す。
>  そのカボチャは,30個ほど近くの畑から取り入れられた後、家の
> 周りの庭先をぐるりと取り巻いて陰干しされていた。
>  食糧事情が厳しくなっていた当時,カボチャは育ち盛りの多い子供
> の多い大家族にとっては貴重な食料源であった。
>  私が8歳だった昭和20年の夏のその日、夜半に鹿島灘を北上して
> きた多数のB29の空襲によって、町は灰燼に帰した。
>  空襲警報が解除されほっとした途端、ちかくの女子師範学校の校舎
> に最初の焼夷弾が落ち、そこらへんがパアーと明るくなった。
>  いつでも逃げられるように、毎晩長靴を履いたまま寝ていたが、その
> 音にせかされるようにして庭の防空壕に走りこんだ。
>  その日出張で不在の父親に代わり,健気にも家を守るという中学生の
> 長兄を残し、2歳の妹を背負った母親に手をひかれ、焼夷弾の雨が落
> ちてくる町へ、避難場所を探す為あてどもなく逃げ出した。
>  どこを逃げ惑ったか覚えてないが、水田に焼夷弾の油が飛び散り、
> 一瞬のうちに真っ赤な炎に包まれたことだけは、何故かはっきりと覚え
> ている。
>  それでも兎に角暗いところめがけてはしり続けた。
>  そこは墓地だった。沢山の人が集まっていたが、夜明けとともに空襲
> は終わり私たちは助かった。
>  母は、眠っている妹を背中にして,私の手を引いて家へ戻る為に急いだ。
>  真っ黒に焼け焦げた死体がゴロゴロしていたのを見ても、空襲の恐ろ
> しさに麻痺していた私には何の感慨も沸かなかった。
>  何とかして戻ってくると、400坪ほどある私の家の周り取り囲んでいた
> 見覚えのある黒い塀が見えた。
>  それを見て、このひどい爆撃だったのに幸いにも家が焼け残ったと、
> 何かほっとしt気持になった。
>  入口に近ずいて中を見た途端、私は茫然とした。
>  そこは空っぽだった。母屋や離れの家、そして白壁の大きな蔵も庭の
> 大木も何も無かった。
>  割れた茶碗に水道の鉛管が垂れ下がり残りの煙が上がっているだけ
> であった。
>  しかし,その横に,黒焦げのカボチャが程よく焼きあがって転がっていた。
>  空腹を抱えていた私はそれを食べた。
>  食べては見たが,なんとなく悲しくなって涙がポロポロこぼれた。
>  それ以来,カボチャは嫌いになった。
>  それでも「昔とは、父母がいませしころをいい」という川柳があるが、
> 両親もいなくなり,58年も昔のことになってしまった今は、健康食品の
> カボチャは大好きである。
>                 平成15年7月31日  


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